036. 奈良・学園前『学園前アートウィーク 2015 イマ・ココ・カラ』(淺沼記念館の安藤栄作作品)

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■036. 奈良・学園前『学園前アートウィーク 2015 イマ・ココ・カラ』(淺沼記念館の安藤栄作作品) (2015.11.8)

 






 

 「遺体」という映画がある。いや正確にはノンフィクション作家の石井光太氏がかの東北大震災の直後に石巻の廃校だった旧小学校に設置された遺体安置所で 丹念な取材をした著書が、その後映画にもなった。映画は映像であるのでスクリーン上に映し出される光景はじつに悲惨なものだ。けれどもまだそこには映像で あるが故の「ささやかな遠慮のようなもの」がある。石井氏の原作では文字表現であるが故にある意味、現実での描写は容赦がない。わたしはその後なんども夢 にも見た。歯科所見採取のためブルーシートの上に横たわった泥だらけの遺体のすでに硬直した口元を医師と看護婦が無理やりにこじ開ける。腹の中に溜まって いた土砂や海水がその途端にどっとあふれだしてくる。それは死者のなかで詰まっていたたくさんのたくさんの無念の思いが土砂となり濁った海水となって死者 の口から一気に吐き出されたもののようにわたしには思えたのだ。奈良・学園前の瀟洒な淺沼邸の見晴らしの良い二階の寝室のベッドにそれぞれ横たわった安藤 栄作氏の男女の彫刻作品を見たときわたしにはそれはあの津波の犠牲者とおなじように思われた。この二人は腹の中にまだいまもたくさんのたくさんの無念の思 いを溜めたまま吐き出せずにいる冷たいブルーシートの上に横たわった遺体なのだ。いやあの混乱した泥まみれの遺体安置所はもう役割を終えて閉鎖されてし まった。いまはこの静謐な(ひつぎ)の中のような部屋に黙ってよこたわっている。いわばここは鎮魂の場所なのだ。悔恨の場でもある。かれらの頭の上側の壁 面には作家が描いたコントロールをうしなって暴れ狂い出す原子力発電所の幾重もの渦のような巨大なデッサンが描かれている。左右の壁にはうしなわれたもの たち、だ。つましい食卓、公園、木々、鯉のぼり、自家用車、昆虫、電車、ベンチ、畑や洗濯物、コップに注がれた水、向日葵、雲、山 ・・・・。それはまる で死者たちがこの世に残していった断ち切りがたい想念のようだ。ブルーシートではないいまや清潔でやわらかな白いシーツの上に横たわった二人は、それぞれ 一本の丸太から手斧だけで彫琢された。部屋中に満ちている檜のかぐわしい匂いはまるで焼香の香の匂いのようだ。作家がふりあげ打ち下ろした手斧の一打一打 がもはやことばにならぬ憤怒か嗚咽のようにかれらの胴体を、腹を、腕を、つま先を、股間を、まっすぐに伸びた指先を、頭部を彫りあげていったのだ。そうし て死者が一本の樹木から生まれ出た。そうしていまここに、荒れ狂う原発事故と奪われた日常生活の壁に囲まれて横たわっている。わたしはひどく疲れてしまっ た。かれらの腹の中に溜まっていた土砂や海水がいまやわたし自身の腹に胸にこみ上げてくるような気がしたのだった。土砂で詰まった配水管のように思わず部 屋のすみにどっと尻をおろした。わたしはじぶんもまた作家の作品のひとつのようにベッドに横たわっているような心持がしてきた。あああと土砂でふさがれた 口でうめいた。作家はしかしわずかな希望を残しておいてくれた。これもまた手斧の一打一打で彫られた一隻のカヌーがこの部屋を突き抜けてベランダへと飛び 出している。この素朴なカヌーは古代の智慧であり同時に未来の希望でもあるのだろう。しかしわたしにはこれは死者の魂を運ぶ方舟のようにも思われた。眺望 に恵まれたそのベランダにはそうして作家のいう「天と地の和解」のオブジェが直立している。たしかに大地からは秘めたる最後の地下茎のように中空へと向 かって差し出された手指が伸びている。けれどそれを「上から支える」手は、切れた空間から突如として現れる。この「上から支える」手はいったい現実なの か、作家の夢想なのか。それは神なのか、あるいは自然の精霊のようなものか。それとも人類の期待される叡智なのか。土砂で詰まった配水管のようなわたしは 立ち上がれないままただあああ・あああとうめくばかりだ。それはついにことばにならない。わたしにはついに分からない。分からないままいまだことばになら ないことばをあああ・あああとうめいている。

学園前アートウィーク2015   〜2015年11月15日(日)まで http://gakuenmae-art.jp/ 

「3・11」を超える作家たちへ  彫刻家 安藤栄作 http://fukushima-net.com/sites/content/178 

2015.11.08

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 【安藤栄作著『降りてくる空気』スモルト 1997】

 先日、奈良市学園前での展示会を見てきた彫刻家:安藤栄作さんが、福島県で暮らしていた頃に地元の「いわき民報」に掲載されたエッセイ集。 もちろん、あの東日本大震災はまだ起きていない。 この本がじつにいいんだな。文章に妙味があって、ユーモアがあって、なみだがあって、覚悟があって、そうして高潔だ。 寝室のベッドのわきの出窓に置いていて、毎晩、眠りにつく前に数ページづつ読んでから目を閉じる。いっぺんに読んでしまうのは勿体ない。 というわけでちょびちょびと、齧りながら舐めながら噛みながら、全体(100ページほど)の半分くらいまで読み進めてきたけれど、わたしの好きなのはたと えば「彫刻屋さん」、「搬入」、「粘土少年」、「クロ」、「ありがとうミケランジェロ」、「アトリエ」、「割烹旅館」などなど。 「クロ」をつれあいに読み聞かせたときは、案の定、涙もろい彼女はぼろぼろと涙があふれてきてしばらく止まらなかった。すごい話だ。 ロバに作品をひかせて福島から東京まで水戸街道をてくてくと行く「搬入」などは、途中出てくる「波乗りをする若者たち」でにぎわう「北茨城の海岸」や、昼 食に立ち寄った「日立の“旅人ラーメン”」など、そこになんだかじぶんも偶然いて、ロバといっしょの安藤さんを横目に眺めていたような錯覚を覚える。 「・・人生はひたすら計画を実現させていくことではなく、途中起こるハプニングや失敗、欠点を受け入れてそこからつくり上げていくことなのではないか。 一生のうちにどれだけ計画を実現できたかではなく、どれだけ精神が高まり、心が充実したか、なのだと思う。神様は一生懸命生きていくために一人ひとりに欠 点を与えてくれたのかもしれない」(雑木とともに) この本をメールで注文したときに、丁寧な返信を頂いた出版社の方も「ずいぶん前に作った本ですが、わたしたちも大切に思っている1冊です」と書かれてい た。 各頁ごとにある安藤さんの独特の優しいイラストも良い。

◆日々の新聞社(オリジナル・ショップ) http://www.hibinoshinbun.com/files/shop.html

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◆くれよんはうす(絵本「あくしゅだ」) http://www.crayonhouse.co.jp/shop/g/g9784861012549/

 

 今日から名古屋、長期出張。昼は生活品を買うために寄ったショッピングセンターできしめん。 しばらくの生活拠点は会社で借りた3LDKのハイツで数人と共同生活だが、みんな勝手知ったる面々なので修学旅行のようなノリだ。 明日は昼からなので早速今夜は宿で酒宴。 持ってきたのは佐木隆三「伊藤博文と安重根」、辺見庸の新刊。読んでいる暇があるかどうかわからないけど。

2015.11.12

 

 

 



 

 

 

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