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■034. 東京・国会前 【安保法案】反対デモ (2015.7.30)
満を持して、8月30日は国会前へ行くことにした。 すでにWebでホテルも予約した。 当日は午前中に新幹線で移動、東京の悪友と合流、どこぞで昼飯を食べてから、物心ついてからは一度も行ったことのない(たぶん幼い時も行ってないと思うが)靖国神社へ「公式参拝」して、その足で国会前へ馳せ参じようと思っている。 憂国の志よ、いざ集え。 終了後はたぶん有楽町近辺で「愛国者壮行会」。 当日は奥崎 謙三を敬してパチンコでも持っていこうか。 歴史の「実時間」に意識的に参加するため。 それをみずから選び取るため。 10万分の1でいい100万分の1でいいNOを叫ぶため。 次の世界を託すわが子の記憶に親として意思表示するため。 だれよりも自分自身にひとつの肯定の炎をみせてやるため、に。
2015.8.25
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とりあえず行ってきた。国会前でもこのヘルメットで。終わってから有楽町のガード下など。 翌日の今日はひとり靖国神社の遊就館でたっぷり3〜4時間。これがけっこうきつかった。 神保町の古書店街に立ち寄って、先ほど奈良に帰還。 デモと靖国。牛のように反芻している。あとでまた書く。
2015.8.31
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新幹線を降りて東京駅の改札口へ向かっているとき、目の前に妙な格好をした小柄な初老の女性がいた。麦藁帽子のぐるりに造花をつけて飾り、ピンクのバン ダナに毛虫のような鮮やかな緑のワンピース、背中に背負ったオレンジのリュックの背面に「8月30日 今日あなたは何をする? 」と書いてあった。わたし は何のために、こんな東京くんだりまで来たのだろうか。ひとつは平易に言って、歴史的な節目の日になるだろうその現場を、この目で直接見て、肌で感じてみ たかった。これはどちらかと言えば物見遊山の姿勢である。それでもう少し積極的な事を言うならば、かつて辺見庸が言った「歴史の実時間」―――すでに終了 して教科書の一頁として語られる歴史も、その瞬間は平凡な日常と地続きの実時間として存在した―――それをみずから切り取り、選び取りたかった。その「実 時間」に於けるじぶんの立ち位置というものをおのれに明示して、意識的に参入しておきたかった。こちらは少々聞こえはいいが、コソ泥のアリバイに似てなく もない。そしておそらく、面倒くさがり屋のわたしの尻を最後に押したのは、子どもの存在であるだろう、と思う。わが子に、世の中に対する父の行動として、 何かを見せたかったのだ。だいたいわたしはこれまで選挙で、当選した人に投票したことが一度もない。わたしの今回の国会行きはその地続きであり、「じゃ、 お父さんは今日は帰らないからな」と玄関で靴を履きながらわたしは言い、娘は「うん。東京のおみやげ、買ってきてね」と返しただけだったが、彼女はわたし が何をしに東京くんだりまで出かけて行くのか、ちゃんと理解しているので、それでいい。階段の手前で立ち止まってリュックを背中から下ろした初老の女性の 横を、わたしはするりと通り抜けた。「歴史の実時間」に於いて、今日あなたは何をする? ―――この単独の女性の問いは、無数の新幹線客が行きかう東京駅 構内の雑踏にあってじつに正しい光彩を放っていた、とわたしは思った。
JR御茶ノ水駅の改札で落ち合い、九段下あたりで昼食を済ませたわたしと友人のAは、それから地下鉄に乗って永田町へ出た。「永田町の駅って、サリンは 撒かれたんだったかな」とわたしかAのどちらかが訊ね、「あちこちの駅で同時多発だったが・・」ともう一方が答えた。出口へ向かう上りのエスカレーターは 日曜にしては明らかに人が多い。自民党本部を横目に通り過ぎ、国会図書館の前あたりでリュックから特製ヘルメットとサングラスの“タイマーズ・セット”を 取り出して装着した。「ほんとうに付けるのか?」と不審そうだったAも、しばらく進んだら馴れたようだ。やがて国会議事堂の北東角、「憲政記念館前」の交 差点から国会の正門前へとつづく歩道の中でどうにも身動きがとれなくなった。正門前に設置されたステージはホンの目の前で、民主党や共産党らの党首たちの 声はスピーカーを通して聞こえてくるのだけど、ステージ自体は全く見えない。何より立錐の余地もないほどの人混みでの棒立ち状態が嫌だったので、憲政記念 館側の公園の方へ抜け出てみた。1m60cmほどの鉄柵があって、柵の向こうの緑豊かな公園内は、まだ密度も少なく別天地のように見える。中年の女性が一 人、柵に近い木に足をかけるようにして鉄柵を乗り越え始めた。周りの人々が背中を押したり、足を持ったりして加勢する。わたしとAも別天地を目指すことに した。加勢は必要なかったのだけど、「お、ニイちゃん、行くか?」と女性の足の下で脚立になっていた大柄な男性が返事も聞かずにわたしのリュックを柵の向 こう側にひっかけ、体を押し出してくれた。Aもおなじく乗り越えてくる。見れば満杯状態だった正門前道路側からもぽつりぽつりと、鉄柵を乗り越えて来る人 がいる。「向こうは東ドイツで、こっちは西ドイツ。さしずめ、あの鉄柵はベルリンの壁か」なぞと呟いた。じつはわたしたちが越えてきた鉄柵のすぐ横手に も、ふだんは開放されている歩道から公園への広いゲートがあるのだが、これは警察によって完全に封鎖されていた。これがふだんと同じように開いていたら、 こんな苦労してベルリンの壁を越えなくてもよかったわけですよ。じっさいこの日は、地下鉄の駅構内でも出口へ上がる階段を警官が封鎖したりという露骨な規 制が(多分あちこちで)あったようだが、とにかく当局側が「安全よりも規制重視」というスタンスだったのは間違いがない。「滞留させない、流す、迂回路を つくる」というのが本来は雑踏対応の基本なわけだけれど、この日の警察の対応は見事に正反対で「滞留させる、押し込める、あらゆる道をふさぐ」という対応 だったわけで、これでもしも死亡事故でも起きていたら(じっさい、起きてもおかしくなかったとわたしは思うが)、多くの子どもたちも命を落とした明石の花 火大会以上の体制不備・懈怠で警視庁は告訴されて当然だったと思う。
国会正門前から桜田門方向へ至る正面の道路の規制が、国会前へ押し寄せた群集によってなし崩しになって道路上に人々が溢れたのはおよそ2時頃だったよう で、わたしたちはちょうど歩道内で立ちんぼうになっていて知らなかったが、ベルリンの壁を越えた頃にはその正面の道路上はすでに盛況のコンサート会場のよ うに人の群れで溢れかえっていた。わたしとAは憲政記念館のトイレで用を足して一息ついてから、比較的移動も可能だった公園内から正門前の大阪シールズか ら来た“ともかちゃん”のスピーチに耳を傾けたり、正面道路の人混みから湧き上がるシュプレヒコールを聞き、あるいは国交省や外務省前の人混みを遠目に眺 めたりなどしていた。雨はすでにぽつぽつと降っていたので、みな傘を指したり合羽を着たり樹冠の下でしのいだり。公園の中もそれでも徐々に人が増えていっ た。憲政記念館のトイレも長い行列だった(Aはわたしがここでウンコをしていたせいで正門前の坂本龍一のスピーチを聞き逃したと、後でわたしを責めた)。 そんなこんなで4時になり、当初予定の時間になったからか、とくに既存団体の人々がぞろぞろと帰り始めてから、やっと移動ができるほどに緩和してきた正面 道路へとわたしとAは入っていった。「全学連」の旗を掲げたグループは、なんだか既存政党といっしょで手垢のついた古臭い感じに見える。シールズは相変わ らずのノリで盛り上がっていた。ラップ調のシュプレヒコールにフリー・ジャズ風のサックス、太鼓などで踊っている連中もいい感じだったね。何メートルもの 巨大なゲバラ旗を掲げてゆらゆらと歩いている謎のじいさんもいた。釣竿にドジョウかアジかの絵をいくつもぶら下げて、歩道の人々へ向けてリズムを取りなが ら笑顔で竿を振っている謎のニイちゃんもいた。そういえば「阪神」ならぬ「反戦タイガース」もいたな。まあ、そういうおつむのイカレタみたいなヘンな連中 も混ざっていて、タイマーズ・セットのわたしも確実にその一人なんだろうが、一度だけ正面道路の緑樹帯の上に立っていたら、帰りかけの(おそらく)同年代 だろう男性が嬉しそうに近寄ってきて「いや〜 いいね〜 そのヘルメットだけ、ちょっと写真に撮らせて下さい」とカメラを向けてから手を差し出してきたの で握手を交わして、「ボクも、ほら、清志朗Tシャツ」と胸のあたりをつまんで立ち去っていったのだが、残念ながらわたしも横にいたAも、男性のそのオレン ジのTシャツの何が「清志朗Tシャツ」なのか分からず仕舞いであった。ごめんなさい。でも、ありがとう。
5時頃になってから、わたしたちもそろそろ国会前を離れることにした。国会前には、それでもまだたくさんの人が残って声を上げている。地下鉄の出入り口 へ向かう歩道上も帰りの人の列が並んでいる。国交省の前の広い交差点を渡ってから立ち止まり、あらためて国会の方を振り返って見た。もうだいぶ減ってし まったけれど、つい先ほどまではこの国の政治機能の中枢を担う建物へとまっすぐに進む片側五車線の道路上いっぱいを警察の規制を突破して溢れ出た人々が埋 め尽くし、さらにその国会議事堂を取り囲むすべての歩道、そして憲政記念館周辺の公園から日比谷公園に至るまで、この国の政(まつりごと)にノーを言うた めに思い思いに集まった人々が溢れ声をあげていた。わたしはそのときふと、いまからおよそ500年前に加賀の国で起きた一向宗による一揆の情景を思い浮か べたのだった。1488年、加賀国の守護大名だった富樫政親は一万の軍勢と、金沢市郊外の山の上にあった居城・高尾城にたてこもった。そこへ20万人とも いわれる浄土真宗の門徒たちによる一揆勢が攻め寄せ、取り囲まれた政親は城内で自刃、城は落ちた。以降百年間、加賀では領主を持たない自治コミューン ―――「百姓ノ持タル国」が続いた。
まるで、巨大な津波が押し寄せてくるように、「南無阿弥陀仏」と書かれたムシロ旗を立てた集団が、竹槍やクワやスキなどを振りかざしながら、ひしひしとこの山麓に迫ってくる。人びとの鬨(とき)の声が聞こえる。近づくにつれてその声はどんどん大きくなってくる。
それを山の上から眺めていた富樫政親や家臣たちの不安や恐怖心、あるいは、いったいなぜこんなことが起こったのかという驚きは、どれほどだったことだろう。
加賀平野を埋めつくすような一揆勢、その中心となった真宗門徒たち、念仏を称えつつ、死ねば極楽往生と信じて、ひたすら前へ、前へと進んでくる人々の群れ。一向一揆の嵐は、北陸全体を、そして日本を震撼させたのだった。
五木寛之「一向一揆共和国 まほろばの闇」(ちくま文庫)
何がかれら真宗門徒たちのエネルギーの源であったか。この、当時大名たちがかれらに対して感じていたと思われる脅威について、著者は「一向一揆と真宗信 仰」などの著作がある東洋大学・神田千里教授からの聞き取りとして、「じつは大名といえども、団結して集まっている武士たちによって、神輿のように担ぎあ げられているにすぎない。ところが、そこに、もっと大きなものを担ぎあげようとしている集団のようなものが出現する。「弥陀一仏」といって阿弥陀仏を信仰 する門徒集団だ。 それと比べたときに、自分のほうが見劣りしているのではないか、と感じる。あるいは、自分を担いでいる武士たちも、いつかは向こうにつ いてしまうのではないか、と不安になってくる。 大名が感じていたその恐怖は、かなりつよかったはずだ」と記している。
ではこの一揆に加わったのはどんな人々であったのだろうか。山川の民についての優れた研究のある井上鋭夫氏は、一般の農民の他に当時の浄土真宗の門徒に は、「一般社会から卑賤視されていた行商人、船運、海運、漁業に従事する者から、山間地帯を流動する狩猟民、杣工、木地師。紺搔、金堀り、鋳物師、鍛冶師 など」の非定住民、非農耕民たちが多く加わっていたことを指摘している。「念仏の功徳で罪障の消滅した一向宗は勇敢だった。仏神領を侵奪し、社寺を破壊し 炎上させても、阿弥陀如来のためとあれば往生は保証されていた」(「蓮如一向一揆」(岩波書店))
要するに、彼らは颯爽たる存在だったのだ。知恵も才覚も腕もあり、ありあまるエネルギーも持っていた。ただし、社会的な目線では農民より下のほうにラン クされている。鬱屈した思いも抱えていたに違いない。こういう人たちが下克上の時代をへて、沸々とたぎるようなエネルギーを持って集まったときには、大変 な力になったことが想像できる。
さらにこの時代には、彼らの機動力、情報力は大きな意味を持っていたはずだ。たとえば、戦闘にはさまざまな情報が必要になる。そいう役に立つ情報というのは、本願寺教団がこうした集団とかかわっていないかぎり、まず得られなかっただろう。 (五木寛之・前掲書)
そして五木氏はこれらを受けて、次のように記す。
たったひとつの階層からなり、たったひとつの要素だけを共有する集団は、逆にいえば広がりがなく、壁を越えることができない。ところが、真宗門徒の場合 は、御同朋(おんどうぼう)という言葉で一挙に階層や身分の壁が壊れた。そして、それぞれが人間として持っている才能や情熱が、激しく熱く燃えあがって いった。それが一揆という形で火を噴いたのである。 (五木寛之・前掲書)
高尾城にたてこもった守護大名・富樫政親が国会の安倍総理を首領とする国家権力であるとすれば、20万人の浄土真宗の門徒たちはさしずめ12万人の国会 を取り囲むさまざまな思いを持った人々の姿であったろうか。「颯爽たる存在」である非定住民や非農耕民たちを例えば非正規雇用の搾取される者たちや経済的 徴兵制を憂える学生たち、あるいは働くシングル・マザーたちなどに、そしてかれらの機動力、情報力を現代のSNSなどに置き換えることもできるかも知れな い。そうであるとしたら、500年前の加賀国と、この2015年8月31日の国会前行動と、その結果における違いはなんだろうか。押し寄せる人々の鬨の声 に守護大名が抱いた恐怖、そしてついにはかれを自害せしめた恐怖を、わたしたちは持ち得るだろうか。かれらがみずからが担ぎあげられていると思っているそ れよりも、もっと「大きなもの」。それをわたしたちは、持ち得ることができるだろうか。そんなことを、国交省の前の広い交差点で立ち止まり、国会議事堂を 眺めながらわたしはぼんやりと思ったのだった。それらはここにこうして来なかったら、感じ得なかったことだ。
それからわたしとAは日比谷公園の前を通り過ぎて、有楽町のガード下のドイツビールの店に入って、5時間ぶりに渇ききった喉を湿らせた。Aの話では日曜 の夜の有楽町はもっと空いている。これは明らかにデモ隊が流入したものだ、と言う。しばらくして同じようにデモに参加していた東京のTさん、秋田から新幹 線で来られたというその友だちのKさんと合流し、また別の居酒屋に移動して、ラスト・オーダーの10時半ごろまで共に愉しんだ。AとJR線に乗ったわたし はひとり神田で下車して、予約していたホテルへ。地下の大浴場の湯船に浸かっているとき、今日は父親の命日であったことを思い出した。そしてわたし自身が すでに、かれが死んだ歳に到達したことも。
2015.8.31
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(安藤
栄作さんのFBから)
一見、揺るぎようのない強大な組織や強靭な社会システムに比べ、一般庶民のデモや個人の活動はか弱く見える。
でも僕は見てきた。
東日本大震災の地震と津波で、自宅・アトリエ・数百の作品たちが崩壊流出した後に、水も泥も被らず全くの無傷で見つかった、娘が幼かった時にカミさんが作ってあげた木彫りの着せ替え人形を。
自宅後地から遥か遠くの瓦礫の山の上に嘘のようにちょこんと乗っていた、息子が幼かった時に僕が作ってあげた木彫りの小さな自動車のオモチャを。
津波と火災によって瓦礫の平原になった町の後に全くの無傷で立っていた地元の小さなお社を。
そこには自分の利益や所有欲を手放した真心が奇跡のように無傷で残っていた。
あの日僕は崩壊した町に佇み、天の声を聞いたような気がしている。
「今日、次元を超えたこの世界にあって、どんな想いが本当に価値があり、何が一番強いのか、しっかり見ていきなさい、そしてこの先の世界をそれを魂の中心に置き生きていきなさい」
僕らが身を置いているこの3次元物質世界。
大地震のようなとんでもないエネルギーが炸裂する時には、あの世や他の次元までが混ざり合って物質世界の常識では考えられない現実や奇跡が現われる。
強大な政府組織や強靭に組み立てられた社会システムに対して、一見か弱く心もとなく見える抗議デモや個人の些細な行動。
僕にはその風景が、強大強靭な防潮堤やたくさんの鉄筋の水産加工場や立派な住宅群と、手作りの小さくか弱いオモチャや地元の人達が無私で大切にしてきた小さなお社の関係と重なって感じられてしまう。
揺るぎなく見えるこの3次元の物質世界にも薄いカーテン1枚挟んだ裏側から様々な想いのエネルギーがしみ出し影響を与えている。
僕はデモの人々の想いのエネルギーは薄いカーテンの向こうから確実にこの世界に影響を与えていると思っている。
そして、もしかしたら近い将来、そのカーテン自体が開かれてしまう時がくるような気がしている。
安藤さんへ
感動しました。あのとき、世界は変わったはずなんですね。剥き出しの大地の前で、価値観とか、もろもろが。「以前のままではいられない」と誰もが思ったは ず。わたしもそう思いました。なのにこの国は何もなかったかのように進もうとしている、あるいは後戻りしようとしている。わたしも安藤さんがおっしゃるよ うに、心ある人々の想いによって「カーテン自体が開かれる」ときがきっと来るはずだと信じています。手作りの小さくか弱いオモチャたちの勝利する日が。
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2015.9.3
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