026. 高知・赤岡町 絵金蔵

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■026. 高知・赤岡町 絵金蔵 (2015.5.11)

 






 

 山の世界に別れを告げて、お次は幕末に独特な芝居絵を描き続けた絵師の棲んだ海べりの集落へ。高知市内から阿芸市方面へ向かう海沿いに位置する赤岡町は、かつて土佐街道沿いの町として、廻船問屋や商家が立ち並ぶ物 資の集積地として賑わっていた。そこへ江戸で狩野派を学び土佐藩のお抱え絵師となっていた絵金(弘瀬金蔵)が贋作事件で城下追放となり、10年の流浪の果 てに叔母を頼って流れ着き米蔵で絵を描き始めた。商家の旦那衆は夏祭りに社寺に飾る芝居屏風絵を競って絵金に注文した。また古来より土佐では死んだ者が悪 霊となって盆に海から帰ってくると言い伝えがあり、絵金の描く「朱」が邪気を払うということで、家々の入り口に蝋燭の灯りと共に据えられた。それが今日の 絵金祭りにもつながっている。この土佐の海辺の町中で血みどろの芝居絵が夏の宵に展示されるという風景 http://www.webkochi.net/kanko/sanpo32.php 、そしてかの映画「陽炎座」のエンディングのような陰惨な芝居絵がずっと気になっていて、いつか訪ねたいと思っていたのだが、実際に絵金蔵 http://www.ekingura.com/  でかれの芝居屏風絵以外の他の作品を丹念に見て回ったら、たんなる凄惨な血みどろ浮世絵師とは異なるかれの全体像が浮かび上がってくる。それは端正な狩野 派の正統派の作品であり、赤岡の祭りの際の芸人や子どもたちの様子を丁寧に描いた風俗絵巻、また川鍋暁斎や宮武外骨さえ彷彿とするユーモアと諧謔に満ちた 一連の笑い絵(「放屁合戦図」や「夜這い図」)、また1854年の南海大地震を取材した土佐震災図絵などがそうだが、とても豊かな感性をたたえた、大きな 器としての、まさに“土佐の北斎”といっても過言でない魅力的な人物である。わたしが映画監督であったら絵金を題材に一本撮りたい。時間旅行が可能であっ たら、幕末のこの時代の赤岡に彼を訪ねて話をしてみたい。おそらく藩お抱え絵師というエリートから転落したことは、絵金をさらに大きな無限大の土俵へ解き 放ったのではないか。謎に満ちた放浪の10年は苦しいものでもあったろうが、堅苦しい役職を解かれて、市井の絵師として筵を敷いた米蔵で酒をあおりながら 自由な発想の屏風絵を描いていった絵金は、きっと自由闊達な、満足した生涯を終えたはずだと思う。アウトローになることによって、この世の塵芥から自由に なれた。それがまた江戸でも大阪でもなく、土佐の地方の町であったことも、なんとはなくよい。どこにいても、絵金の米蔵が宇宙の中心である。そんな絵金 に、会ってみたかった。絵金蔵で高知県立美術館刊行の「絵金 極彩の闇」という豪華な図録 http://www.ekingura.com/shop/index.html を、4千円もしたので躊躇したが思い切って購入した(横で子が「お父さん、4千円だよ。よく考えなよ」と繰り返した)。しかし、それだけこの男に、惚れた。

2015.5.11

 

 

 



 

 

 

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