023. 2011年10月7日 震災後の仙台空港付近をさまよう

体感する

 

 

■023. 2011年10月7日 震災後の仙台空港付近をさまよう (2011.10.7)

 






 まるでインドのようだ、とひとしきり海岸 部に近い集落跡をさながら首を失くしたデイダラボッチのごとく歩きまわったところで思った。どこにカメラを向けても「絵になる」のだ。さしずめバラナー シーのガートにひろがる火葬場のように。コンクリ製の橋の欄干がひしゃげ、千切れた腸(はらわた)のような芯材を昼の光に晒している。道が大きな水溜りの 中へと消えている。二階建ての一階部分の柱だけが残った巨象のような廃屋が何もない大地にぽつねんと立ち尽くしている。テニスコートの緑のフェンスが港の 漁師たちがつくろった網のようにぐるぐると畳まれている。90度 に折れ曲がった橋桁の外灯の照明部分がまるで着陸に失敗した火星人の遺体のようにも見える。,無人の民家の窓を塞いだ色褪せたブルーシートが帷子のように 風に揺れている。不毛の泥地と化した広大な田圃のあちこちに斃れた歩兵兵士たちのような無数の車の残骸が横たわり逆さになり散らばっている。表札を抱いた 門だけを残した広大な屋敷地がある。泥まみれの「確率統計」の教科書が白く乾いている。社用車とそれを運転していた社員の情報を求める立札が田圃の畝道沿 いに、まるで旅役者の宣伝告知のような風情でぽつりぽつりと現れる。せわしなく動き回っている幾台もの重機が積み上げた瓦礫の山が、新しいゲットーのシン ボルのように限りなく青い空の下に聳え立っている。わたしはデジタル・カメラを持った片手をぶらりと下ろして、両目をつぶされた敗戦ボクサーのようにしば し立ち尽くした。そして、この無残な風景を、ただ呼吸しよう、とだけ念じた。かなたにひょろひょろとした数本の立ち木をかかえた円墳のような高台の上の神 社があった。相変わらず、何もなくなった地面に短くはないコンクリの参道だけが灰色の絨毯のように伸びている。その神社のはたに墓地があった。無残だっ た。そちこちで墓石が倒壊し、石仏が目を剥いて逆さになっていた。粉々になってもはや原型をとどめない区画もある。驚いたのは骨壷を収納する墓石の下(カ ロート=納骨棺)がぽっかりと開いて、ブロックの地下壁で囲まれた妙に間の抜けた穴ぼこを晒していたことだ。そんな墓がいくつもあった。わたしは思わず、 押し寄せる分厚い水の層が地上の墓石や石仏、卒塔婆などをなぎ倒し、地下に収められた骨壷までをも舐めるようにさらい、家や車やその他もろもろの侠雑物と 併せて噛み砕きながら内陸へ内陸へと不気味にしずかに進んでいく様を思い描いた。骨壷までさらっていったか、と一人ごちた。突然、海を見たくなった。海を 見に行こう、と何もない茶色のだだっ広いだけの空間の中を歩き出した。何もないのは残骸だけがきれいに片付けられたからだろう。その証左にときおり、家々 の境界を示す塀の痕跡だけが残っている。途中、道のはたに、引き抜かれたコンクリートの電柱が数本横たわっていた。巨大な無数の庭石が縄文の岩座のように 整然と集められ並んでいた。砂浜は瓦礫の撤去工事のために立ち入り禁止であった。木材やテトラポットの残骸などの分別された瓦礫の山の間を、巨大な重機と 土木作業員たちがせわしなく動き回っていた。防潮林の松林はどの樹木も見事に一方向へ向かって倒れ、あるいは傾いでいた。海から、町へ、の方向だ。この場 所を、巨人のような津波が通過したのだ。砂地を歩き回り、松林がまだ直立して残っている高台に登って、やっと青い水平線が、重機によって詰まれた黒い土嚢 の列の上にわずかに見えた。ああ、海だ、と思わず口から言葉が漏れ出た。そうしてしばらく、その松の木の根元に立って水平線を眺めていた。海はまぶしいほ どに青く、凪いでいた。その海水の膨らみが巨大なエネルギーとなってあまたの生命と生活を破壊し尽くしたのだが、わたしはなぜかそのとき、青い水平線を見 てほっとしたのだった。(帰宅してからWebで調べたのだが、わたしが見た倒壊した墓地は名取市閖上にあった光 明山観音寺の墓所で、立派な本堂は震災後に取り壊されたらしい。またわたしが歩き回っていた、小さな体育館ほどの砂地を松林が囲んでいる一帯には乗馬クラ ブがあり、人と同様に多くの馬たちが河川敷やあるいは仙台空港の滑走路などで遺体となって発見されたことを知った) その日は日が暮れるまで、ただ闇雲に 歩き続けた。茶色の果てしない、がらんとした無明の空間を。片付けられた無明の空間の上に、無数の瓦礫や遺体を重ねながら歩き続けた。泥だらけの田地から 水を排出している簡易ダクトがごとごとと動いていた。県による移動勧告の張り紙を貼られた耕運機が錆び付いて道端に漂着していた。のどかな用水路の向こう に落ちる夕日がきれいだった。しばらくこころ奪われて眺めた。空港へのアクセス鉄道の駅が近づくと、何もない茶色の空間に突然、真新しい住宅街が現れた。 住人が生活していない真新しいハイツの棟、それからマシュマロやチョコレートケーキのような一戸建ての一群。まるで砂漠に出現したテーマパークのような、 これまで見てきた風景とのリアリティの濃淡ともいえる落差に戸惑いを覚えた。美田園駅にたどり着いたのはすでに夜だった。駅前のやけにだだっ広い駐車場を 抱えたパチンコ店の照明がいっそう侘しく見えた。その隣接する区画に蒲鉾板のような仮設住宅が建ち並んでいて、いくつかの部屋には灯りがともっていた。手 製のウッドデッキをこしらえている世帯もあり、少しだけ心が和んだ。その夜はアクセス鉄道で仙台駅まで出て、駅の近くのビジネス・ホテルに投宿した。駅の 混雑と都会の賑わいが、まるで別天地のようだった。翌日は新幹線で福島の郡山まで下り、磐越東線沿いを高速バスでいわきまで走り、常磐線でときおり見える 海岸線の景色に目をこらしながら、数年ぶりの実家へ向かった。夜、ふと思いついて近所に住む知り合いの老牧師氏を訪ねた。炬燵をはさんで向き合い、ぼそぼ そと話をした。80歳を優に超えた老牧師氏は自身の体力の衰えを言い、また近くに住む長男が最近アルツハイマーに罹ったことなどを伝えた。そして「イエス は老いを知らない。キリスト教は、若い人の宗教かも知れない」と言った。「このごろは仏教の教えに近しいものを感じている」とも。今回の震災と原発事故に ついてわたしは少々残酷な質問をした。「人生の最後に、このような景色をあとに残していくのはどんな気持ちですか?」 老牧師氏は目を閉じてしばらく考え ていたが「地震と津波は天災だから仕方がない。けれど原発事故は深い絶望、ただただ深い絶望があるだけです」 それだけ言って目線を落として、もう何も言 わなかった。

(2011年10月7日の夜、仙台市内のビジネスホテルで記した文章に加筆・訂正を加えた)

 

名取市閖上 復興支援のブログ http://blog.livedoor.jp/coolsportsphoto/

ニューヨークタイムス http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#1

2011.11.13

 

 

 



 

 

 

体感する