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■019. 佐伯順子「遊女の文化史 ハレの女たち」を読む (2009.9.19)
最近はWebでかつての赤線地帯を拾い歩いたり、いにしえの墓地や刑場の旧跡を調べたり。飛田の刑場で晒しものにされた大塩平八郎らの亡骸は舟で運ばれ、かつて木津川と三軒家川に挟まれた茫漠たる中州であった「難波島」 に打ち捨てられたという。いまは広大な工場や配送センターが立ち並ぶ敷地も、当時はバラナーシーの焼き場の対岸のようなまっしろなあの世の如き風景だった ろうか。そうした風景を視界から完璧に遮蔽したことがわたしたちの貧困であったか。江戸時代までの大阪の千日前の中心には罪人を仕置きし、斬首し、晒し、 亡骸を焼き、遺灰を積み上げ、弔う、「まさしくあの世が“記号的に顕示される一種の劇場”」があり、その周辺に芝居小屋や見世物小屋、そして色町などが配 置されていた。有名な法善寺はそのアプローチの途中にあり、縁日には参詣の信者が訪れ、いまでいえば多くの露店が軒を並べて賑わった。いわば聖と俗、この 世とあの世、祝祭と弔いが混濁とした「異界性の湧き出づる境界的な空間」であった。「“悪所”とは、赤坂憲雄にしたがうならば、近世権力によって“制度的 にひかれた / 去勢された”境界」である。(以上、引用は加藤政洋「大阪のスラムと盛り場・近代都市と場所の系譜学」(創元社)による) 囲い込まれながらもなお、清濁を呑み込み、虚実が交錯することによって逆に、リアルな生を具現化して日々を生きながらえていた名もなき人々があったのではないか。そんな夢想に遊びながらまぼろしの町を経巡っているわたしはいったい何を欲しているのか。
飛田墓地旧跡の碑にもほど近い、ちょうど地下鉄の動物園前駅から2番出口をあがったすぐ前にある中華料理屋「雲隆」で380円の台湾ラーメンを食べるのが 最近のわたしのお気に入りだ。国道の向こう側にはジャンジャン横丁のアーケードが口を開けている。店の隣は一泊千円の木賃宿だ。24時間千円の荷物預かり 所もある。台湾人らしい店主はわたしと同い年くらいか。梁石日(ヤンソギル)の小説に出てきそうな大陸風の顔立ちで、若い美人の(おそらく)細君が店を手 伝っている。二人して民主党政権発足を伝えるテレビを見ていたが、唐辛子の辛さによる汗をハンカチで拭っているわたしに気づいて店主が立ち上がり、厨房用 の大型の冷風機を回してくれる。静かな店内に客が入ってくる。同じ台湾人らしいグループと、日本の若者二人。細君に金を払って、まだ真夏のような光の下に 出る。ショッピングセンターのアパレル店の流行とは一切無縁の、何やら懐かしい柄のシャツを着たおっちゃんが酔っ払って泳いでいる。赤信号の国道の向こう 側に知り合いを見つけて盛んに叫んでいる別のおっちゃんがいる。重たいビジネス鞄を抱えて、わたしはやっと歩き出す。
ところでわたしはなぜ遊里に惹かれるのだろうか。「遊女の文化史 ハレの女たち」(中公新書)の 中で佐伯順子は、アルメニアの良家の娘が神殿で結婚前の長い期間を聖娼として過ごしたというフレイザーの「金枝篇」にある慣習や、バビロニアのすべての女 性は一生に一度「女神に対する奉仕として」見知らぬ男と交わらなくてはならなかったというヘロトドスの「歴史」の記録を取り上げている。
アルメニアでは、貴ばれた諸家族がその娘たちをアキリセナにある神殿でアナイティスの用にあたらせるために奉献し、娘たちはそこで結婚前の長い間を聖娼として過した。彼女たちの奉仕期間満了の後には、誰もそのような娘を娶ることを躊躇しなかった。
(フレイザー「金枝篇」永橋卓介役)
バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女はだれでも一生に一度はアプロディデの社内に坐って、見知らぬ男と交わらねばならぬ ことになっている。……女はいったんここに坐った以上は、だれか見知らぬ男が金を女の膝に投げてきて、社の外でその男と交わらぬかぎり、家に帰らないので ある。金を投げた男は「ミュリッタさまのみ名にかけて、お相手願いたい」とだけいえばよい。・・・金の額はいくらでもよい。決して突き返される恐れはない からである。この金は神聖なものになるので、突き返してはならぬ掟なのである。女は金を投げた最初の男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女 神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰れる。
(ヘロドトス『歴史』松平千秋訳)
「不特定多数の男に身体を許す」ことについて佐伯は、特定の男の個人的所有に帰さぬ遊女も、神に捧げられる聖処女も、「現実的あらわれは正反対でありなが ら、現世の何人にも属さぬ性を生きることで、両者は実質的に等しいのである。それは、彼女たちの性が、ふたつながら人間をこえた者にむけられていることに 起因する」と書いている。
日本では「恋多き多情の女」の代表格である和泉式部が「御伽草子」では遊女 とされ、好色な僧・道命阿閣梨と契りを結ぶ。和泉式部の背後には神遊びに秀でた遊女の姿があり、転じて普賢菩薩の影があり、対する道命阿閣梨の背後には陰 陽和合の道祖神の存在が仄めかされる。そして両者を結ぶのは「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはら げ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり」とされた歌(始原の音楽・神への言問い)の力であった。つまりここには、性(若しくはそれによって生じる 歓喜)をある超越的な存在へ人間を結びつける祝祭の儀式としてとらえる古代の素朴な信仰の伏流が透けて見える。
遊女とは、あるいはアルキ巫女や熊野比丘尼のような女たちは、歌舞や宗教的行為の「かたわらに春もひさいだ」わけではない。そのように彼女たちの性を歌舞 や宗教的意義と分離して考えるのは、近代の制度化された意識に囚われたわたしたちの限界である。性は充実した生命の発露であった。聖と性は分かち難く結び ついていた。聖なる者であったから男たちは遊女の性を求め、遊女は男たちにこの世ならぬ性を分け与えた。「彼女たちは決して“まじめでない性”を営んだ女 たちではなかった。生命を活性化させる神聖な性を、遊女たちは遊んだのである」 ここでいう「遊び」とは有名な「梁塵秘抄」で「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」と歌われた「身の動ぐ」ほどの戦慄であり、「魂を迎へることがこひであり」 と折口信夫が記した「魂ごひの恋ひ歌」の始原の風景ではなかったか。折口はまた、次のようなこの国の古いしきたりについても言及している。
村の青年に結婚法を教へる女があつたのである。・・・大抵の場合は宗教的な女性がゐて、初めて、生殖の道に這入るところの女に会ふ。それはつまり宗教的関 門を通らす事で、・・・普通神社に仕へてゐる巫女が、さうした為事をしたのは、古く記録に載つてゐる。神社に仕へてゐなくとも、宗教的な要素を持つてゐる 女であればよい。中には旅をして来る遊女もあり、村に附属してゐる遊女、神社・寺院等の附近に住む遊女等がある。
(折口信夫「巫女と遊女と」)
この「生殖の道」を「宗教的関門を通らす事」と書いた折口の表現について佐伯は「近代的性観念にとらわれずに遊女の性を位置づけた、貴重な見解といえるだろう」と評している。
いわゆる「風俗店」というものに一度も足を踏み入れたことがない。いや、そもそもわたしはY以外の女性をかつて知らない。これはわたしの汚点かも知れな い。10分や20分で性欲をたんに「処理」するだけの場所には特別に興味が湧かない。けれど遊郭や遊女といった存在には心が動く。「更級日記」は1020 年、菅原孝標の娘が13歳の時、父の任地上総の国から上京する道中記からはじまる。この中に「生涯を通じて忘れられない思い出」として、足柄山の暗夜の山 中で遭遇した三人の遊女についての記述がある。わたしはこの話に、ほとんど心を奪われる。
足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。
ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、 二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。 髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声 すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国(にしくに)の遊女はえかから じ」など言ふを聞きて、「難波(なには)わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろし げなる山中(やまなか)に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半(なか)らばかりの、木の下のわづかなるに、葵(あ ふひ)のただ三筋(みすぢ)ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生(お)ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。
からうじて越えいでて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いはつぼ)といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。
【現代語訳】
足柄山というのは、四、五日前から、恐ろしそうなほどに暗い道が続いていた。しだいに山に入り込むふもとの辺りでさえ、空のようすがはっきり見えない。言いようがないほど木々が茂り、ほんとうにおそろしげだ。
ふもとに宿泊したところ、月もなく暗い夜で、暗闇に迷いそうになっていると、遊女が三人、どこからともなく出てきた。五十歳くらいの一人と、二十歳くら いと十四、五歳くらいのがいた。仮小屋の前に唐傘をささせて、その下に座らせた。男たちが火をともして見ると、二十歳くらいの遊女は、昔、こはたとかいう 名の知れた遊女の孫だという。髪がとても長く、額髪がたいそう美しく顔に垂れかかっていて、色は白くあかぬけしているので、このままでもかなりの下仕えと して都で通用するだろうなどと人々は感心した。すると、その遊女は、比べ物がないほどの声で、空に澄み上がるように見事に歌を歌った。人々はとても感心 し、その遊女を身近に呼び寄せて、みんなでうち興じていると、誰かが、「西国の遊女はこのように上手には歌えまい」と言えば、遊女がそれを聞いて、「難波 の辺りの遊女に比べたらとても及びません」と、即興で見事に歌った。見た目がとてもあかぬけしている上に、声までもが比べようがないほど上手く歌いなが ら、あれほど恐ろしげな山の中に立ち去って行くのを人々は名残惜しく思って皆嘆いた。幼い私の心には、それ以上にこの宿を立ち去るのが名残惜しく思われ た。
まだ夜が明けきらないうちから足柄を越えた。ふもとにまして山中の恐ろしさといったらない。雲は足の下となる。山の中腹あたりの木の下の狭い場所に、葵 がほんの三本ほど生えているのを見つけて、こんな山の中によくまあ生えたものだと人々が感心している。水はその山には三か所流れていた。
やっとのことで足柄山を越え、関山に泊まった。ここからは駿河の国だ。横走の関のそばに岩壺という所がある。そこには何ともいいようがないほど大きくて、四角で中に穴の開いた石があって、中から湧き出る水の清らかで冷たいことといったら、この上もなかった。
物の怪が棲むような真っ暗闇の山中深くでこのような遊女たちに出会ったら、わたしは畏ろしくもあり、同時におなじくらい激しく魅惑されもするだろう。かつ てこのような一所不在の漂泊の身であった遊女たちは、やがて赤坂憲雄のいう「近世権力によって“制度的にひかれた / 去勢された”境界」に囲い込まれ、その過程で不即不離であった聖性を落剥していき、やがて「祝祭の中ではなく、「俗」の中で」商品化された性のみを売る存 在へと転落していった。それはわたしたちにとってもまた同じように、近代の価値観や制度や個人といった狭い枠の中で性を切り離し矮小化し、古代の祝祭の力 を完全に失っていった過程でなかったか。
わたしが遊里に惹かれるのは、そんな失った過去への憧憬なのかも知れない。ほんとうのいのちを取り戻したいからかも知れない。足柄山へ、いまから遊女に逢いにいく。
(以上、後半の引用は佐伯 順子「遊女の文化史」(中公新書)による)
2009.9.19
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