三作石子詰め解題

三作石子詰め解題 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

■■ 三作石子詰め解題 ■■

 

 

sansaku1.jpg (27974 バイト)

 

 

 

 

 猿沢池の北東にある幅の広い石段を登って春日大社の鳥居方向(東)へしばらくすすむと、右手の土塀沿いに「傳説三作石子詰之跡」と墨書された木標が立っているのに人は余り気づかない。ここは興福寺の菩提院大御堂で、現在は興福寺の管長の住居として使われているという。門前の説明板に次のような解説がある。

 

 本院はふつう、奈良時代の高僧玄ム僧正(?〜746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄ムの菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児観音立像が安置される。
 鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと六ッの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
 なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作を石子詰の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。

法相宗大本山 興福寺

 

 あくまで「伝承」であり、「伝説」である。ではこの「伝承」であり、「伝説」である少年三作の物語とは、どのような話であるのか。Webで拾った「奈良大和路の昔話」から引く。

 

五代将軍 徳川綱吉の時代のお話です
犬公方といわれた綱吉のころは、
人より犬の方が大切にされたといいますが 奈良でも
鹿は神鹿として 人より大切にされていた時代がありました

三条通りの南がわ 興福寺の中に俗に十三鐘といわれる
菩提院大御堂があります
むかし このお堂の横に寺子屋があって、お寺の和尚さんが
二・三十人の子供達に読み書きを教えていました
その子供達のなかに「三作」という子がいました

ある日「三作」が習字をしていると,一頭の鹿がやってきて
廊下に置いてあった草子をくわえていこうとしました
「三作」は「コラッ」と叫んで文鎮を投げつけましたが
打ち所が悪かったのか 鹿はその場に倒れて死んでしまいました

奈良の鹿は春日大社の神の使いとされていますので、当時は
[鹿を殺せば石子詰め]といい、死んだ鹿と一緒に
生き埋めにされることになっていました

幼い三作もこの罪は逃れられず、大御堂の前の東側の庭に
大きな穴が掘られ 鹿と一緒に埋められてしまいました
三作の母親は大変に嘆き悲しみましたが、どうすることも
できませんでした

そのご 母親はそこに供養のもみじを植えました。

 

 地域情報サイト「CityMagazineマイ奈良」で「奈良の昔話を連載している増尾正子氏は「猿沢池と興福寺の伝説」の中でこの菩提院大御堂について「現在は興福寺の管長様のお住居になっているので、勝手に出入りすることはできないが、以前は団体客を案内するガイドや人力車が必ず入って説明した、奈良名所の一つであった。というのは、この庭内に「三作石子詰め」の跡といわれるものがあったからである」と紹介しながら、最後に「でも、お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」と記している。

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-17.html

 

 また「三作石子詰め」の話は、わたしは確認していないが、「大御堂境内の説明文」として別のバージョンを紹介しているサイトもあったので、こちらも引いておく。

 

 ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り、小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人三作が習字中に使用していたけさん、(文鎮)を鹿に向かって投げました。ところが、この一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ、「鹿を殺した者には、石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は、子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、13歳にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて、井戸のうちに入れ、石と瓦で生き埋めになりました。三作は早くに父親に死別し、母一人子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの7つ(午前4時)暮れの6つ(午後6時)に鐘をついて供養に努めましたところ、49日目にお墓の上に、観音様がお立ちになられました。その観音様は、現在大御堂内に、稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念、せめて私が生きている間は、線香の一本も供えることが出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。当世いづこの地へいっても鹿に紅葉の絵がありますのも、石子詰の悲しくも美しい親子愛が、この地より発せられたものであります。又奈良の早起きは昔から有名で、自分の家の所で鹿が死んでおれば、前述のようなことになるので競争したといわれています。今でも早起きの習慣が残っています。同境内地の石亀がありますのは、三作の生前は余りにも短命で可愛そうであった。次に生まれる時には、亀のように長生きできるように、との願いにより、その上に五重の供養搭を建てられたものであります。南側の大木はいちょうとけやきの未生ですが、母親が三作を抱きかかえている様であるといわれています。何時の世にも、親の思う心は一つ、こうして三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。

http://www.eonet.ne.jp/~ttmmatsu/sannsakutuka.htm

 

 近松門左衛門が取材したという浄瑠璃「十三鐘」は、この三作の母親が子の霊を弔うためについた鐘の話より取られている。おそらくそれを元にしているのだろう地唄「十三鐘」の歌詞をあるサイトにて見つけたので、参考までこれも引いておこう。

 

昨日は今日の一昔、憂き物語と奈良の里、この世を早く猿沢の、(合)水の泡とや消え果ててゆく、後に残りしその親の身は、逆様なりし手向山、紅葉踏み分け小牡鹿の 帰ろ鳴けど帰らぬは 死出の山路に迷ひ子の、敵は鹿の巻筆にヨ、せめて回向を受けよかし。
サェ頃は、弥生の末っ方、よしなき鹿を過ちて、所の法に行はれヨ、蕾を散らす仇嵐。
サェ野辺の、草葉に置く白露の、もろき命ぞはかなけれ、(合)父は身も世もあられうものか。せめて我が子の菩提のためと、子ゆゑの闇にかき曇る、(合)心は真如の撞鐘を、一つ撞いては、独り涙の雨やさめ、二つ撞いては、再び我が子を、三っ見たやと、四っ夜毎に、泣き明かす、 (合)五っ命を、代へてやりたや、六っ報いは、何の鋲めぞ、七っ涙に・八つ九つ、心も乱れ、 (合)問ふも語るも、恋し懐し、我が子の年は、十一十二十三鐘の、鐘の響きを聞く人毎に、可愛い、可愛い、可愛いと共泣きに、泣くは冥土の鳥かえ。

http://kousenn.com/okeiko/okeiko-3.html#jyuusanngane

 

 前述した「奈良の昔話」の著者:増尾正子氏は「でも、お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」と記している。冒頭に紹介した菩提院大御堂門前の解説板は末尾にて、“これはあくまで「伝説」であり「伝承」であるが・・・”といった軽いニュアンスで流し、むしろ近松作品の紹介に重きを置いている風にも見える。「大御堂境内の説明文」にあっては、強調されるのは「悲しくも美しい子を思う親心」であり、それが鐘や紅葉の木の配置によってこの寺に伝わっている(寺もそれを守り、伝えている)、と紹介される。

 

 だが、歴史を注意深くひも解けば、それらはすべて嘘っぱちであることが判明する。世のならいである。臭いものには蓋をしろ。

 結論を先に言えば、哀れな三作を惨殺したのは興福寺の僧たちである。平安末期から近世にかけて、かれらは大和の国を支配する強大な権力機構であった。わたしが沖浦和光氏と野間宏氏の対談「日本の聖と賎 近代編」(人文書院)で、この「三作石子詰め」の話にリンクするそれらのことを知ったのは偶然のことだ。

 

沖浦 東之阪長吏がいて、中世からずっと興福寺の支配下におかれていたんですね。平安末期から鎌倉期は、大和一国を支配していたのは興福寺でした。司法・行政・警察の権限を一手に握っていた。刑事犯を検察し断罪することを検断といいますが、その検断権の行使にあたって、東之阪の長吏や北山宿の非人などが動員された。

野間 興福寺は「三ヶ大犯」といって、特に寺僧刃傷、神鹿殺害、児童虐待に対する犯罪には、極刑を課したんですね。近世では山内神木盗人も成敗されている。

沖浦 ああ、有名な「大垣廻し」ですね。寺が行う一種の断罪儀式。

野間 あの大垣というのは、刑場の周囲に結い回す竹矢来のことですね。資料を見ると興福寺の公人が糺問して、甲冑に身を固め抜身の鎗と長刀を持った数十人の河原者に犯人を渡して、北山の藪で処刑が執行された。断頭後三日間、奈良の出入口七ヶ所で曝し首にした。見せしめにしてはひどいものですよ。殺生戒を第一の戒律にしているはずの僧職にある者が、こんなことをやるんですから。自分たちは裁判だけして、執行は賎民にやらせる。

沖浦 この「大垣廻し」は、中世から近世に入っても行われ、幕府が設けた奈良奉行所によって、興福寺の検断権が事実上なくなるのは17世紀後半です。

野間 こういう処刑執行も「清目」の仕事とみていたんでしょう。死んだ動物の片付けだけではなく、人間も始末させる。つまり、死牛馬の処理と罪人の処刑がワン・セットにされて、興福寺の支配下にある賎民の役務とされた。それから死んだ神鹿の片付けも東之阪長吏の役儀とされていた。

 

 文永2年(1265年)12月、関白一条実経が春日社参詣のため奈良を訪れることになった。10月上旬にその旨を知らされた興福寺・春日社では一山あげての迎賓準備にとりかかる。その様子を興福寺中綱の賢舜という僧が書き留めていた。『御参宮雑々記』と題されたその記録に「一 八幡伏拝以南路次不浄物等可清目沙汰之由、北山非人ニ下知了」なる記述が見える。「八幡伏拝」とは東大寺八幡社の伏拝堂を指す。記述は「東大寺伏拝堂から南と西に延びる道筋の不浄物の取り片づけを北山非人に命じた」という意味であり、「不浄物」とはゴミのみにあらず動物や人間の遺骸も含む。この「北山非人」が実は、興福寺が執行した刑の“汚れ役”を担わされた被差別賎民の人々であった。

 古来より被差別部落の人々は、いわゆる「かわた役」といわれた清目の役を課せられていた。キヨメとは汚穢・不浄を取り除き“きよめはらう”意である。それらは時代や地域によって差はあるが、主に死牛馬の処理を含む清掃役、下級の警護役、行刑役などであった。死牛馬の処理については旦那場・草場といわれる縄張りがあり、死体を処理する代わりにその皮を剥いで生皮を得る権利が認められていた。奈良:北山の被差別賎民については鹿が死んだ場合、「死鹿処理ののち、皮は興福寺へ納め、肉は東之坂の、四足は「癩」者の取り分と」なった。死牛馬及び鹿の皮は武士にとっても貴重なものであり、よって先の「三作石子詰め」の昔話に語られるような処刑された三作と死んだ鹿を一つ穴に抱き合わせて葬るということは現実には考えられないと言える。

 権利について付け加えれば、北山の被差別賎民たちにはもうひとつ、かれら特有の権益があった。後述する救済施設である北山十八間戸の癩者に対する支配権である。これについて横井清氏は「中世民衆の生活文化」(東京大学出版会)に収められた「中世民衆史における「癩者」と「不具」の問題」の中で、叡尊が和泉国の非人宿長吏に対し「一般の家屋や往来で見かけた癩者を無理やりに宿(夙)に連れ込むな」と念書を書かせている資料を元に、癩者の「その人数(量)と様相(悲惨さ)とが」乞場での喜捨の程度に影響したからではないかとも想像している。実際にそうした「収奪」はあったのであり、癩者から北山の被差別賎民たちへの上米上納があり、また「癩者が亡くなれば「諸式諸道具こゑ灰」まで」かれらの所有となったことが資料に残されている。

 行刑役については以下の資料を引く。「享保17年を最後」とあるように江戸期に入ってもなお吉宗の時代頃まで、「奈良奉行所から廻された罪人が興福寺南大門前で刑の執行を告げられた」とあるように、古来からの興福寺・春日社による「三ヶ大犯」が形ながらも継続していたことを物語っている。

 

 『大垣成敗覚帳』によれば、寛永14年には罪人を奈良奉行所で受け取り、菖蒲池町称名寺での糺問の儀式ののち鹿太郎なる者が興福寺南大門まで罪人を引き連れ、そこで刑の執行を告げ、その後鹿太郎が罪人を引き連れて三条通を西にくだり、東向町から北に抜け、鍋屋町から手貝まで引き廻し、佐保川の石橋あたりで「穢多」に渡したという。
 その後「般若寺北山之藪之中」で断頭が行われた。享保17年の際には罪人は佐保川の河原で「穢多」によって断頭されたが、この際には興福寺は単に南大門で暇の儀式を行っただけのようであり、簡略化されたものになっており、時代はくだるが嘉永3年(1850年)6月の東之坂町甚右衛門の大垣成敗地の借用願いには「往昔享保年間以後ニ於右御成敗御廃止被為在」とあり、享保17年を最後に廃絶されたようである。

 

 また断頭代行によって幾ばくかの手間賃が興福寺から賎民側へ、「晒布料」や「太刀代」といった名目で支払われていた資料を続けて引く。

 

 興福寺大乗院の『通目代記録』には、文安二年(一四四五)九月二十日に罪科ある者を断頭することになり、細工に「晒布料」として一斗七升が渡されたことが記されている。詳細は不明だが、おそらく罪人の処刑と引きかえに支給されたものと思われる。

 時代はくだるが、『天文年間抜萃録』天文九年(一五四〇)三月七日条には、興福寺の儀式としての公開刑である大垣廻しの際、「穢多」が先規のとおり「太刀ノ代米」を求めたことが記されている。先規の太刀代は五〇疋だったが、「先年一揆」の時に追放され、しばらく「穢多」がいなかった時代があったので「筋目半下」になったためそれはできないと公文から返答したことも記されている。「先年一揆」云々については後述するが、「穢多」が直接的な処刑にかかわっていたことを確かめることができる。また、同書には天文十五年(一五四六)十一月の大垣刑の際にも太刀代をめぐって「穢多」からの申し出があったことが記されているし、『興福寺衆中集会引付』によれば、天文二十一年(一五五二)三月には神鹿殺害の罪科で断頭刑に処された者がいたが、「細工物」が断頭を行ったことが記されている。
 犬や馬の管理の役割と罪人の処刑にかかわる刑吏の役割、一見したところ、両者はおよそかけ離れた行為のように思えるが、命あるものの死生にかかわっていえば、穢を祓って秩序の平穏を守るという点では共通していたということだろう。

 

 中世における「北山」とは「奈良と京都を結ぶ般若寺越え京都街道の、奈良町を抜け、佐保川石橋を渡ったあたりからはじまる、奈良豆比古神社に至るなだらかな丘陵地全体」を云う。近鉄奈良駅から東大寺へ向かう途中で地下道を潜る交差点があるが、あれから北へ向かうのが「般若寺越え京都街道」である。やがて転害門前を抜け、今在家の交差点で現在の国道369号線は意味ありげに東にカーブを切るが、そこを直進して佐保川の流れをまたぐのが「佐保川石橋」であり、かつてはそこに東大寺東南院が関所を設けていたという記録が残っている。関所とはいわば異界との境である。

 道をしばらく進むと右手に、鎌倉時代の僧・忍性が建立したと伝わる癩者の救済施設である北山十八間戸が残る。北山の非人部落はもともとこの癩者の救済施設に始まり、その周囲に癩者を管理や世話を任された非人たちが周辺に居住するという形で成り立ったのではないかという説がある。北山十八間戸からほど近い北西には現在、奈良少年鑑別所がある。それらを越えて北へすすむとやがて般若寺である。花の寺として有名なこの古刹も鎌倉時代は西大寺の僧・叡尊によって貧者・病者救済などの社会事業が行われた拠点であった。そして道をさらに北へ進めば奈良豆比古神社へ辿り着く。毎年10月8日に演じられるこの社の翁舞は能楽の最古の姿を伝えるとも云われ、一説には世阿弥が用いた面も伝わるともいう。だとすればこの一帯には非人部落と接して、賎視されていた芸能者の集団も居住していたのではないかとも推測される。

 ここで貴重な資料を紹介したい。奈良県立同和問題関係史料センターのホームページが公開している 「奈良の被差別民衆史」なる書物で、321頁のすべてをPDF版で閲覧が出来る。この文章の北山宿に関するくだりは多くをこの資料に拠っているし、もちろんそれ以上の価値があるので、興味がある方にはぜひ一読をお勧めしたい。当時の宿の実情・支配体制・様々な記録文書等々、詳細はそちらに譲りたい。

 

 したがって、鎌倉時代の北山非人とは、奈良町北方の丘陵地のどこかに集住地を作り、濫僧長吏法師とも称され、
実際の症状はともかく「癩」に罹っていると周辺からみなされ、「朝出夕帰」して奈良市中を物乞いに廻り、一方で
は道路の不浄物の取り片づけや犯罪者捕縛、死体・死鹿の処理など興福寺・春日社の用務をつとめ、あわせて国名を
名乗り、家産としての田畑を持ち、当然家居を構え、それを子孫に相伝する存在だったということになろう。

 

 上述のように鎌倉時代の北山宿非人を大別すれば二つの姿が浮かびあがる。一つは、前世の「悪業」のため現世で
「其病」の苦しみを受けると嘆き、朝な夕なに巷を徘徊してその日の糧を乞い、人々の憐れみを誘う、深刻な病や
「癩」に罹患しているとおぼしき人々である。後世の北山十八間戸のような長棟割の建物に収容されて日々の生活を
送り、伝えるべき家産も家族も持たない弱々しい人々がイメージされよう。もう一つは、『明月記』に「非其病、容
儀優美法師」と注記され、「尋常家々女子」を誘惑して処刑される「濫僧長吏法師」や、田畑を持って百姓として掌
握され、それを家産として子孫に相伝する、国名を名乗った宿住人であり、当然独立した居宅や家族までも持った人
々である。

 後者からは前者の弱々しい非人の姿を想起することはできない。寛元二年(1244年)の京都清水坂非人と北山宿
(奈良坂宿)との争論文書に現れる、畿内全域に血縁・師弟関係を核としたネットワークを張り、国域を越えて争闘
し、興福寺・清水寺や京都市中を震撼させ、ついには後鳥羽上皇に仲裁の労を取らせるほどの力を持つ国名を名乗る
宿住民たちが、朝な夕なに巷を徘徊し、生活の糧を入手することに苦しむ非人たちと同じ集団に属したとはとうてい
考えられないためである。もちろん、前者の姿から後者を導くこともまたできない。

 つまり、北山宿は、時期の特定はできないものの、「癩」に罹患した人々を受け入れる施設として出発し、その管
理や世話を委ねられた非「癩」者がその周辺に居住するという、居住地と構成員の両方にわたる二重構造を持って存
在していたと解釈する以外にないのである。もちろん、身分的な問題にかかわっての整序や、「癩」者の周辺に居住
することにより結果的に奈良町の人々が抱くことになったであろう観念は別のことになるが、取りあえずは無理のな
い理解になろう。

 

 当時の興福寺・春日社にとって神の使いたる鹿は、いわばかれらの宗教的イデオロギーを維持するためのひとつの重要な装置であった。鹿を殺傷することは即ちそのイデオロギーへの侵犯であった。興福寺の僧侶たちは自らの権力を維持するためにかれらの取り決めた法を犯した者を罪人として捕らえ、判決を下した後、刑の実際の執行を北山の被差別賎民に押し付けたのである。おそらく現在の少年鑑別所あたりの藪の中で切られた首は三日間さらしものにされた。北山の被差別賎民たちに対する差別はさらに厳しくなっただろう。なんという巧妙な仕組み。

 「三作石子詰め」の話には、じつはこのような歴史が潜んでいる。「お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」などとは笑止千万なのだ。興福寺はこれらの過去の歴史については一切語っていない。いかにも「自分たちは悠久の昔から釈尊の愛と平和の教えを広めてきました」みたいな平然な顔をして澄ましている。語るべきではないか、とわたしは思うのだが、いまの堕落し果てた坊主どもには無理だろうな。近松もそのことは見抜いていたろう。だからかれが書いたという浄瑠璃は見たことはないが、きっとどす黒い底辺の人々のルサンチマンが流れているに違いない。

 

 附言だが最近、京都の六波羅蜜寺に有名な空也立像を見てきた。鹿の皮をまとい、鹿の角のついた杖を片手に、前かがみで口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している姿はまさに異形そのものであった。鹿の皮と角を身にまとったその姿にわたしは、生涯語ることなかったというかれの秘密の出自を邪推したりするのだが、この六波羅蜜寺で見つけた「阿弥陀聖・空也 念仏を始めた平安僧」(石井義長・講談社)の中に、「三作石子詰め」の舞台である興福寺の菩提院大御堂が出てきたので驚いた。この菩提院の東側にかつて、空也が一時住んでいた浄名院という建物があり、そこに空也が掘った阿弥陀井なる井戸が残っていたというのである。さらに著者は平安末期頃、一帯が別所と呼ばれていた記録から、そこに空也の伝承を受け継いでいた念仏聖たちが自然発生的に集まり居住していた可能性も示唆している。わたしはひそかに、「三作石子詰め」の話を伝えたのはかれらのような市井の念仏聖たちではなかったかとも空想してみるのだ。

 

 冒頭の「三作石子詰め」の話を、もし史実に照らし合わせて、またそこにわたしの拙い想像を織り交ぜて物語るとしたら、たとえばこのような形になるだろうか。

 

 

 

 ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り、小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人三作が習字中に使用していたけさん、(文鎮)を鹿に向かって投げました。ところが、この一投の文鎮は運悪く鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ、「鹿を殺した者は断頭の上、曝し首の刑に処す」とのひどい掟が興福寺・春日大社によって定められていた為、鹿を殺した若干13歳の三作小僧は、その場で興福寺の役人たちに捕らえられ、検断ののち、興福寺南大門前で刑の執行を告げられました。三作は早くに父親に死別し、母一人子一人のあいだがらでした。人づてに事を聞いて駆けつけた母「おみよ」さんは半狂乱となって哀れなわが子のもとへ駆け寄ろうとしましたが、警護役の非人たちに押さえつけられてしまいした。「おみよ」さんの獣のような咆哮は遠く西大寺まで聞こえたといいます。その後、三作は興福寺の土塀に沿って引き回された末、佐保川石橋で北山宿の非人たちの手に渡され、「般若寺北山之藪之中」で人知れず首を撥ねられたのです。変わり果てた三作の首はそのあと三日間、見せしめのために石橋のたもとでさらされました。行き交う人々は誰もがその無惨で哀れな三作の姿に涙し怒りししましたが、誰も興福寺の強大な権力に刃向かう力はなかったのです。その後、三作の首は一人の心ある旅の乞食僧によってひそかに運ばれ、当時彼らのような遊行の念仏者が集い居住していた猿沢池の東側にある浄名院の境内のはしにこっそりと葬られました。それからというものの母の「おみよ」さんは三作の霊をとむらう為、毎日明けの7つ(午前4時)暮れの6つ(午後6時)にこの、かつて三作が元気で勉強に励んでいた菩提院大御堂の鐘をついて供養に努めました。鐘の音が聞こえるたびに人々は、哀れな三作の御霊がいつかきっと興福寺の非道な坊主たちを地獄の炎で焼き尽くすことだろうと噂したと伝えられています。

 

 

 

 

奈良県立同和問題関係史料センター>刊行物 http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/siryoucenter3.htm

深層歴史・奈良の鹿と人 http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/narakouen/sinsounaranosika.htm

 

2008.5.15 (ゴム消しより抜粋・加筆)

 

 

 

 

sansaku2.jpg (58697 バイト)

菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)

【制作時代】 室町時代
桁行5間 梁行5間 正面向拝 寄棟造 本瓦葺 室町時代

 

 

 

 

 

 

 

 

三作石子詰め解題 もどる