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 休日。Yの体調は相変わらず。昨日より今日の方が「ちょっと悪い」。午前中、義母と車で子の障害者関係の書類で役所・社会福祉協議会などを回り、食料品や切れた電球の換えなどを買って帰る。昼は志摩で買ってきたアジの干物と味噌汁。

 

 昨夜、仕事から帰るとわたしの机の上に子が手紙を置いていた。

 

(1枚目)

お父さんへ

お父さん、あした、このメモの う、さ、ぎ、のことをしらべるのをてつだってください。

しのより

 

(2枚目)

うさぎ

うさぎをかえるか?
これがぜんぶ○だったら、かってもいいとお母さんがいっていた。

1 きんをもっていないか?
2 くさくないか?
3 紫乃がもちはこびできるか?
4 けがぬけないか?

これがぜんぶ○で、お父さんがかっていいといったら、かう。
わたしは
かいたいという気もちがはなれない!
かい?たい?

 

 ネットであれこれを調べて、いまは鳥なら何とか・・・という話になってきている。

 

(1枚目への追記)

そう? じゃ、ね。
そう? じゃ、かえるんや!

いえ、トリをかってられるドリトル先生がいいとおっしゃったらね。

 

 

 朝刊を開く。植木等が死んだ。享年80歳。人はいつか死ぬ。すべてを残して、地上の現象界を離れる。

 

 「毛沢東秘録」(産経新聞社)は上巻もそろそろ終章に。新聞記者らしい平明簡潔な文章で読みやすい。わたしはマルクスを読んだことはないが、結局、ひとが理性や理論のみで理想の社会を建設することができるということ自体に落とし穴があるのではないか。そこには何か大事なものが抜け落ちている。ひとは「主導」するのではなく、受けとる存在だということだ。アイヌやイヌイットやネイティブ・アメリカンのような人々なら、きっとこんなふうに言うだろう。たとえば、「大切なのは、聖なる風の通い路からはぐれないよう常に心することだ」とか・・・

 

 ・・いいかい。ひとはときに希望や理想を語ることができる。だがときにひとは、ただ泣くだけの存在でしかない。拭いきれないあの重苦しさが残る。そんなときにはアマゾンのフルーティストのように山の中にひとりこもって、滝の調べと競うのだ。そして、負ける。「わたし」というものが負ける。

 

上着をかぶせ、連れ出せばいい
おれはジョニー・レイのように誤魔化したりはしない

生きるときもあれば、死ぬときもある
泣くときもある そう、泣くときもある

Van Morrison・Sometimes We Cry

 

 数日前に店の公衆電話から救急車を呼び出し、用水路に飛び込んだ女がいたな。膝下しかない流れに靴を濡らした女のくわえた煙草に、おれは火をつけてやった。やくざといっしょになって、クスリをやめたいがやめられない。あたしも子どもももう限界で、信じていた友だちにも裏切られたから死んで見返してやる。それから駆けつけた救急隊員に向かい、まっとうな人間になってほんとうは介護の仕事をしたい、あんたたちのように人を助ける仕事だよ、そのためにいま夜間中学に通っている、漢字検定も持ってるから字も読める。そして、いままでずっと謝ってばかりの人生だった、あたしには前科があるんだ、どうもすいません、迷惑をかけました、そう言って女は用水路から上がった草むらの上に崩れ泣き続けた。

 

 生きるときもあれば、死ぬときもある。
 泣くときもある。

2007.3.28

 

*

 

 深夜0時前に帰宅。机の上に見慣れぬものがふたつ、置いてある。ひとつは図書館にリクエストしていた、漢和辞典くらいに分厚い「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」(ジェフ・エメリック 白夜書房)。(エルヴィス・コステロが序文を寄せている。) Yの具合がすこしよくなって、みなで図書館へ行って来たらしい。期限は二週間。「毛沢東秘録」を一時棚上げして、しばらくはこちらに集中する。もうひとつは封筒に入った子の手紙。

 

 お父さんへ

 お父さん、とりのことなんだけど、わたし、オウムにしたの。ううん、わたし、まちがえた! せきせい イ、ン、コ、をかおうとおもうの。いろは、きまってないの。もし、きれいなとりがあったら、かってきてねって、おばあちゃんとおかあさんはいっていたよ。ふたりでいっしょにいこうね! とりやさんは、わたしがよくいってた、てんのうじのとりやさんだよ! きれいなとりをかおうね!

 ついしん:わたしにとりをえらばせてね! ぜったいだよ!

 しのより

 

 「天王寺のとりや」は、子が大阪の病院へ行った帰り道にある。さて、風呂からあがり、義母と寝ている子のおしっこを摂ろうとしたら、枕元に図書館で借りてきた小鳥の飼育に関する本が山ほど積んであった。

 明日は休日。どうやら子と二人で天王寺行らしい。

2007.3.30

 

*

 

 土曜。ぽかぽか陽気の汗ばむほどの一日。昼から子と電車に乗って大阪・天王寺へインコのヒナを買いに行った。アルバトロスはステーション・ビルの地階にある小さな鳥屋だ。その店先で、ゲージの中のセキセイインコのヒナを彼女は見つめている。一羽の水色のヒナがプラスティックの板越しに寄ってきて、彼女の指先を追う。視線をとめたまま、彼女は確信に満ちた静けさで言う。「この子はだいぶ、私に馴染んでいるようだわ」 それに決めた、という。店の主人もこのヒナがいちばん丈夫そうで、模様もきれいだという。ゲージと藁にエサ、補助栄養剤、エサ箱とスプーンなど一式を買った。「せっかくだから、ちょっと本屋にでも寄ってこうよ」「ダメダメ。寄り道をせずにまっすぐに帰るの」 「シュークリームをお母さんたちにおみやげに買って帰ろう。電車を待っている時間で済むから」「もう、仕方のないお父さんなんだから!」 ホームで嬉しそうにひろげてる子の袋の中を、後ろのお婆さんが思わず覗き込む。「インコのヒナです」とわたしが言う。「まあ、そう」お婆さんは隣のお爺さんと微笑む。 「オスなの」と子が言う。「じゃあ、あなたの家にはメスを飼っているの?」 「一羽の方がひとに懐くらしいんです」とわたし。「じぶんを人間だと思うの」と子が言う。「まあ、そう」 

 わたしは生き物を飼ったことがほとんどない。想像するに、こども時代のわたしにとっての新しい野球のグローブや、はじめて買ってもらった新品の自転車や、48回払いで小遣いで買ったステレオ・セットのようなものか。父の仕事場に置いた自転車を、眠れずに夜、何度も見に行った。夏、あたらしいシューズを買ってもらった「たんぽぽのお酒」の少年は、靴紐を結ぶとうずうずとしていまにもすっ飛んでいかんばかりだった。そんな気持ちを、彼女も体験しているのだろうな。繭の中で何かがもぞもぞとうごめいている、くすぐったいようなあの期待に満ちた気持ち。案の定、夜遅く、机に向かっているわたしのところへ子はパジャマ姿で起き出してきて言う。「鳥のことばかりを考えて、わたし、ねむれないのよ!」

2007.4.1

 

*

 

 

3/31

 きのう、子とりをかってきました。
 ピー介という名まえをつけました。
 お父さんの介をとってね、つけたの。
 子とりはおすなの。むかしのとりだよ。
 それにすっごくおとなしいんだって。
 すっごくすっごくおとなしいんだって。
 あっ、ピー介がとぼうとしてる!
 まだとべないんだけど。
 ピー介のおきにいりのあそびは、わらをくわえてしゃぶること。
 ピー介はあさおきたらすぐそのあそびをするの。とってもかわいいよ!
 あっ、ピー介がよんでる!!
 じゃあね、バイバイ! あっ、それからもう一つ! むかしのとりっていったの、まちがえてたの。はんたいだったの。
 あたらしいとりだよ!

 

4/2

 み みんな! たいへん!
 たいへん! ピー介がに、に、にげちゃった!
 いまはそうじきのうしろにいるの。
 わたしが「ピー介、でておいで!」と三べんいってもでてこないの。
 だからわたし、いったわ。
 「そう、ピー介、あんたがその気なら、わたしも手がある! さ、おにごっこのはじまりさ!」って「ほい!」とはじまった!
 あっ、ピー介たら、ソファーの下にかくれた! といったら、もうカーテンの下にかくれてる!

 

2007.4.2

 

*

 

 休日。午前中は自室の本棚の整理をする。先の図書館の古本市でもらってきた本が収納しきれなくなったためだが、棚の一部を埋めていた古いビデオ・テープを本棚の上にあげることで解決した。じぶんの本ばかりか、この頃は子の本の増え方も尋常でないので収納スペースには苦労する。実家には優にこの数倍の本を残してきている。人間関係と異なり、本は捨てられない性格だ。

 血液検査の結果、Yの症状はいつか子も感染して1週間入院したマイコプラズマ肺炎であることが判明した。幸い、義母が泊まり込みで家事を手伝ってくれたお陰で体調はだいぶよくなってきた。だが咳が長引いているために、骨折した肋骨がなかなか完治に至らない。参照のサイトには「マイコプラズマ肺炎の患者と同じ部屋で眠るのは控えましょう」とあるが、わたしは彼女が発症してからずっとおなじ一つ布団で寝ている。わたしも乾いた咳が続いているが、それ以外にはいまのところ症状はない。

 昼は義母があさりの炊き込みご飯をつくってくれた。午後から近くのホームセンターへ、いよいよ本格的な鳥かごを買いに行く。子は鳥かごにつける鏡付きのはしごの玩具も加える。木工の製図用にA4の方眼紙も購入。帰りに駅によって義母を迎えに来た義父を拾う。Yの体調も落ち着いてきたため明日、二人はいったん和歌山へ帰る。といってもまた数日後、子の入学式に合わせて戻ってくるのだが。

 みなで菓子パンのお八つを食べて、わたしは寝転がって「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」を読んでいるうちに昼寝。夕方に起きて、子のヴァイオリン教室へ同行する。中学1年生頃に最終の4/4サイズのヴァイオリンになるが、音楽を目指すつもりなら「高級車が一台買えるくらいの金額」という話を聞く。義母のリクエストでお寿司を買って帰る。食後、気もそぞろに鳥にエサをやっている子を「じぶんの都合のいいときだけ遊ぶオモチャと違うんだぞ」とすこし強めに叱る。子は涙ぐんで「分かった」と答える。そのあとで寝床で顔をくっつけていろいろな話をする。くすくすと笑いあって「もういい加減に寝なさい」と二人ともYに叱られる。

 掲示板で紹介して頂いた「小鳥のお医者さん」(さくらまこ・あおば出版)なるコミックをアマゾンでさっそく注文した。著者は「インコ倶楽部」なる連載モノも出しているらしい漫画家。ついでに、子の大好きなサラ・スチュワートの新訳の絵本が出たようなので、それも併せて。「ベルのともだち」(アスラン書房 )

 

 

2月

おとうさん・おかあさんへ
お日さまパンができて、ほんとうにうれしくてしあわせだね。
よかったね。

トイレへはいったみなさんへ
うちではお日さまパンを、やきましたね。2月12日に。
そのとき、あなたさまは、どんなしあわせで、どんなうれしさでしたか?
また3月のところに、かいといてください。

しのより

 

 

3月

3月のところにかいといてって、わたし、いわなかった?
「どんな□□□□□で、どんな□□□□□でしたか?」って、しかくの中にかいといてよ!

ぜったいにかいてくださいよ!

 

お日さまパンを食べたとき、ほんわかとあたたくなって、心の草や花が咲き出すようなきぶんになりました。(父)

 

はい、いいです。
おかあさんは4月のところに。

 

 

4月

おかあさん、かいてね! お日さまパンのこと。
お父さんみたいにおそくならないよね?

 

おうちで、あんなかわいいパンができるなんて、思いもよりませんでした。
みんなで力を合わせれば、どんなこともできるんですね。(母)

 

じゃ、つぎはわたしのばんね。

わたしはおとうさんとおかあさんとみんなで、こんなむずかしいことをできて、ほんとうにうれしいです。どうか、みなさん、この日のことをずっとわすれないでいてください。

 

2007.4.3

 

*

 

 子が小学校へもっていく「お道具箱」の制作依頼を受ける。店で売っている「キャラクターもの」は嫌だから、お父さんに木でつくってほしい、とのこと。軽くて、それでいてそこそこの強度も必要だが、1センチ厚以下の材となると、これまでのようにねじ釘やダボも難しいからチト考えなくてはならない。それにわが姫は「折り紙が入る棚」もご所望だ。午前中はそんなわけで、ネットで何か参考になるものはないかと調べものに費やす。

 昼前、注文していた「小鳥のお医者さん」(さくらまこ・あおば出版)「ベルのともだち」(アスラン書房 )が届く。子はさっそく前者の頁を熱心にめくり、はじめて知った知識をわたしやYに報告に来る。後者はサラ・スチュワートの日本語訳(これでやっと)三冊目だが、さらりとしたユーモアと、ほのかな切なさとぬくもりと、得難い妙がある。なにしろこの作家の 「エリザベスは本の虫」を読んで、子はそれこそ「本の虫」になったのだった。

 昼食後、バイクに乗って会社の営業所へ現任教育を受けに行く。半年に一度、警備業法なるものによって研修を受けなくてはいけないことになっている。他の同僚は朝からだが、わたしは「施設警備」の資格を持っているので半日分が免除される。夕方に終わって、帰りにみなで一杯飲みに行く予定だったのだが、わたしはYの体調が悪いからとパスをする。

 帰って家の前の公園で子とサッカーをする(出かける前に子がやりたいとぐずったのだ)。装具が重たいらしく、すぐに息を切らせてしまう。20分ほどやったところで、子が粗相をしてしまい家に戻る。夕食はもつ肉と野菜の炒め物と、小松菜・薄揚げの味噌汁をわたしがつくる。

 食後、湯舟の中で子と、ヴァイオリンの先生が言った「水が湧き出す泉のような感じ」について話をする。そんなところ、見たことがない? と訊かれ、子は「見たことがない」と答えたのだった。それで水の旅のストーリーを脚色を交えて子に聞かせる。あさっての夜勤の日の昼間に、天気がよかったら「水の湧き出しているところ」を探しにいこう、と約束する。

 水が魂であるなら、わたしもそんな場所を探しに行きたい。

2007.4.5

 

*

 

 矢田丘陵の松尾寺にほど近い、鄙びた山間だ。まるで人々の記憶から疾うに忘れ去られた貴種流離譚の主の亡骸が人知れず眠る土墳が斜面の上の茂みの暗がりにひっそりと埋もれているような谷筋に、ちろちろと蛇の舌の如く輝き滑る白い一本の流れ。その小さな流れは、丘陵を下ればじきに富雄川へと注ぎ、斑鳩のあたりで飛鳥より発した大和川に合流して一路、難波路をたどる。だがわたしたちがその日目指したのは終着点としての大海ではなく、はじまりの一滴だ。晩秋に降り積もった落ち葉はすでに茶褐色に変色してもうなかば大地の皮膚になりかけのようでもあり、ところどころに散在する苔むした岩々は物言わぬ濡れた瞳のように光っている。わたしたちはその上を、またいだり、踏みしだいたり、横切ったりしてすすんだ。二股に分かれた流れを左にすすんだ頃から、もうあんまり道らしきものもない。谷幅はいっそうせばまり、まるで蔑まれた者たちが身を隠し歩いたこの世の果ての“かったい道”のようだ。ひょろ長い裸の樹木がゴッホの糸杉のようにわずかな空を覆い、寂寞としてどこか安らぎに満ちたくすんだ地面を熊笹とシダの緑がぽつぽつと染めている。こんな場所なら、ひっそりと息絶えてもいいかも知れない。子の手をとり、流れを迂回して、急な斜面のへりにしがみつく。樹木にからみついた蔦をザイルのようにつかみ、あるいは握り損ねてずるずると落ち葉を引っ掻きながら落下する。頭蓋骨ほどの岩の裏側からじわじわと水が滲み、倒木に堰き止められた落ち葉の葉先からはじめの一滴がぽつりぽつりとしたたる場所を、わたしたちは息をひそめて見つめた。そこから先には、もう流れはない。谷間も終わりかけている。そうしてそこ、そのささやかな場所からわたしたちはもういちど流れをたどりなおした。ここからずっと追ってみようよ、とおまえが言ったからだ。ぬかるむ足下を滑らせ、倒木をまたぎながらすすんだ。途中でおまえは水筒のコップで流れの上澄みをすくい取って呑み干し、こんなにおいしい水はない、と言った。そうしてから奇妙な儀式を(だれにおしえられたでもなく)まるで小さなインディアンの子どものように始めた。コップの水をそちこちの岩々にかけて、山の神さまにと手を合わせる。なんども水をかけている流れの中程の角張った三つの石をそれは何だと訊けば、この石はおじいちゃんが死んだときにここへ転がってきた。この石にはおじいちゃんの命が入っています、なぞと言う。水と石はいつの世も隠喩に満ちている。わたしたちがその日目指したのは、海ではなくはじまりの小さな一滴だ。

2007.4.9

 

*

 

 火曜日は知り合いの花屋を葛城山麓へ訪ねる。以前、わたしの職場のSCで雇われ店長をしていたT氏が独立して、SC内で知り合った彼女と二人で小さな店を開いた。豆パン屋のパンを祝儀代わりにぶらさげて行った。店の前半分を和風の庭に模して、古道具の上に植物を並べた雰囲気はなかなかいい感じだ。こだわりの和花を置く店にしたいのだが、現実とのギャップに苦しんでいる。「一年は辛抱です」と云う。しかし考えてみればこだわりという奴は、動かし難い現実があるからこそ存在するものかも知れないな。若き二人の前途にこだわりの在り続けることを祈る。Yの友人の出産祝いに花鉢をひとつ頼んで帰ってきた。

 水曜は子の入学式。真新しい制服、帽子、名札。ちょっとお姉ちゃんに見える。小学校の近くのマンションに住むおなじ幼稚園だったKちゃんの家が駐車場を工面してくれたので、車で行った。校門の前はこの日までかろうじて持ちこたえたというふうに桜がはらはらと雪のように舞っている。あまり満開の桜を、わたしは好きではない。何やら化粧だけ厚い中年女のように思えるのだ。ぽつんと一本だけ立っている山桜か、新緑を交えた葉桜の頃がいい。「君が代」斉唱は一人座っていた。清志郎のロック・ヴァージョンを思い出していた。些細な事だが意思表示はした方がいい。式が終わり、PTA役員の選出をしている間にわたしだけ抜けて、車に導尿の道具を取りに戻った。養護クラスの教室の隣に多目的トイレとシャワー室を学校側が新設してくれたのだ。そこへマットと専用の汚物入れを置かせてもらった。担任の先生とも病気についてすこし話をさせて頂く。30代くらいのはきはきとした女性の先生だ。クラス分けは有難いことに、幼稚園でもいちばん仲のよかったKちゃんとTちゃんがおなじ教室になった。特にTちゃんは良妻賢母・女将さん的な大人も驚くほどのしっかりした子で、幼稚園でもずっと子をサポートしてくれていたから、わたしとしては思わず“Tさま地蔵”にお供えをして拝みたいくらいに有り難かった。母親同士も仲のよいKちゃんは隣の席。偶然、豆パン屋のNちゃんもいっしょのクラスだ。クラス分けはベストと言っていい。むかし、中学の卒業文集に「予定された行事に感動と名の付くものは必要ない」と記したひねくれ者の同級生がいた。「ついこの間、幼稚園に入ったばかりなのにねえ」と涙ぐむYと異なり、案外わたしはそのひねくれ者の同級生に近い感覚かも知れない。「入学式」というものにそれほど深い感慨はあまり感じないんだな。むしろこれから起こるだろう様々な事柄、子の病気にまつわる様々な事柄に対して「さあ、闘うぞ」というのは少々大袈裟だけれど、そんな気を引き締めるような心持ちに近い。

花屋南剛 http://www3.plala.or.jp/nangou/

2007.4.11

 

*

 

 朝、子を自転車のうしろに乗せて小学校へ行く。校区外申請のため登下校は親の責務だ(雨の日は車での送り迎えの許可も頂いている)。自転車で急いで10分もないほどの距離だが、狭い道幅ぎりぎりに裏道をすっ飛ばしていく通勤の車とときおりすれ違うのが少々気になる。入学当初はしばらく短時間の授業のため、家に帰って二時間ばかり経ったら、もうまた迎えの時間だ。校門のそばにママちゃりをとめて待っていたら、担任のT先生が連れてきてくれた。どうだった? と訊くと、「長かった」と答える。それが第一声。それから自転車をこぎながら背中越しにいろいろ質問を浴びせるのだが、「ちょっと疲れたから、しばらく黙っていたい」と言う。そうか、と黙した子を乗せて、こちらも黙って自転車をこいで家に着いた。田圃の畦のタンポポの黄が目に眩しい。泊まりに来ている義母の用意してくれた早めのお昼を食べたら「すこし元気になった」と言う。それから、廊下ですれ違った上級生の男の子が装具の上に履いている子の特性の靴(装具カバー)を見て「でかっ!」と言ったという話をしてくれる。「でも、何とも思わなかった」と言う。わたしは「その子は悪気で言ったんじゃないと思うな」と言い、ただ明らかに意地悪でしつこく言ってくるような奴がいたら「お前の顔の方がデカイだろ」ぐらい言い返して、構わないからケンカしてこい、と半ば冗談めかして言う。昼からYと二人で買い物(子の電気スタンドと夕食の材とわたしの携帯の機種変更等々)に出た。子の話を聞いて彼女は、何ともなかったと言うが、きっとそれが元気のなかった原因だ、と言う。そして、幼稚園でずっと何もなかったから、そんなことはすっかり忘れていた。心構えができていなかったから、もし自分が言われていたら涙声になってしまっていただろう。お父さんが対応してくれてよかった、と涙ぐむ。「おいおい、このくらいのことで泣くなよ。まだまだ始まったばかりだぜ」とわたしは答える。「まだまだ、これからいろんなことがある。あの子もそれに負けないくらい強くならなくちゃいけない」 ダッシュボードから引き抜いたティッシュで目頭を押さえてYはしきりにうなずいている。

 3時頃に戻ると、子は干した布団の上に乗っかって義母を相手に上機嫌だ。「人は缶づめのなかに住んでる でもオレは自由 なんでもできる!」と積み上げられた布団の上で出鱈目な節と踊りをつけて歌っている。「何だその歌は?」と訊けば、子は分からないのかという顔で「バッドキャットだよ」と応える。「おお、清志郎のあの絵本に出てくるやつか。どうりでいい歌だと思った」とわたし。子は相変わらず奇妙な踊りで歌い続けている。やけにハイテンションだ。「しの」 「ん?」とふり向く。「缶づめのなかに住んでいるやつは不自由だけどラクなんだよ。逆に自由でいるためには勇気が要る。分かるか?」 子は歌をやめてじっと聞いている。「たとえばよその子がプリキュアのパジャマを着ているのを見て、あれが欲しいとおねだりして満足する子は、じぶんで考えたんじゃなくて人の真似をしているだけだからラクなんだよ。でもそれはほんとうのじぶんじゃない。ほんとの自由じゃないってことだ。バッドキャットみたいなほんとうに自由なやつは、人の真似をしてラクするんじゃなくて、じぶんで考えて選ぶ。だけどそれが人とは違っているから、どうしてそんな格好をしてるの? とか、どうしてみんなとおなじプリキュアのパジャマを着ないの? とか、あれこれ訊かれるし、ときにはヘンな目で見られたりもするから勇気が要るんだ。おまえの靴も、バッドキャットの靴だよ」 すると子は話し出してくれた。上級生から「でかっ!」と言われたのは、昨日の入学式でのことだった。そのときはあまり気にならなかった。ところが今日、同じクラスの見知らぬ女の子が寄ってきて、どうしてそんな靴を履いているのか、と子に訊ねた。子が「足が悪いから履いているんだ」と言うと、その子はふ〜んと言って行ってしまった。その途端、前日の「でかっ!」と言われたことを思い出して、急にしょんぼりしてしまったのだと言う。「だけどもう大丈夫。ぜんぶ分かって元気になったから、またおんなじことを言われても、もうしょんぼりとならない」 子は自信に満ちた顔で、そう宣言した。「よし、えらいぞ」 わたしは目頭が熱くなりかけるのをこらえながら、子のお尻をぽんとわざと強めに叩いてやった。

 まだまだ始まったばかりだぜ、しの。おまえは強くならなくちゃいけない。でもどうしても駄目なときは、お父さんが命をかけてでもおまえを守ってやる。

2007.4.12

 

*

 

 週の終わり、金曜日もやっぱり元気なく帰ってきた。帰宅後、担任の先生から電話が来た。付き添いの上級生が「でかい靴!」と言ったので、「しのちゃんは足の病気で、こんな可愛い靴を履いているのよ」と先生が応えたとか。「一度、みんなに話をしてみます」とのこと。翌朝、わたしを起こしに来た布団の上で子に訊いたところでは、廊下を歩いていて教室の前に立っていた上級生の男の子から同じようなことを言われたと言ったので、案外、あちこちで言われているのかも知れない。「それでおまえはどうした?」と聞けば、「ふつうの顔をして」通り過ぎたと言う。

 只でさえ馴れない環境のなかだから、尚更だろう。いつも笑顔を絶やさない子が、この小さな身体いっぱいで悲しみに堪えていると思うと、些細なことだとは思いながら、わたしの胸は張り裂けそうになる。わたしは「悲しみの人」になる。「悪質」とは言えない。他意のない、思ったままが口に出ただけの子どもの言葉だ。「差異」に敏感な彼らの。ある意味で馴れていかなければいけない現実だ。

 子を思いやって義父母は一日、宿泊を伸ばした。家に帰ってから、今日ははじめて国語の勉強をしたと、すこし元気になった子が話してくれた。教科書を出して読んでみせた。小学校へ行ったらどんな勉強をするのかが彼女の愉しみでもあったのだ。夕方、学校でもらってきたパンフか広報紙の写真を覗いた。「しの、車椅子の子がいるよ」とYが教えた。「ほら、黒人の子もいる」 「ほんとうだ。いろんな子がいるね」と子はそれを見て、嬉しそうな顔を見せたという。

 わたしは連日、朝早くから深夜まで仕事で、これらはみな夜中や職場の携帯電話でYから聞いた話だ。ほんとうなら透明人間になって、子の授業にずっとついていてやりたいくらいの気持ちだが、あまり出しゃばり過ぎるのもよくないのだろう。親も、我慢だ。

2007.4.14

 

*

 

 昨日は休日。雨のため車で子の送迎。教室の中へ子の姿が消えたあとも、父は立ち去りがたい。養護学級のトイレに行ってメジャーで足下を計らせてもらう。床に敷くマットをもうすこし広いものに変えた方がいいのでは、というYの依頼で。ホームセンターへ寄り、導尿道具を入れた袋をトイレ内で掛けておくためのフックを購入する。道具箱用に厚さ5ミリのタモ材と蓋を止めるマグネットの部品も買う。帰って材に線引きをしていたらじきに迎えの時間だ。近くの信用金庫に寄って小学校の引き落としのための口座を開設する。学校で子を拾い、昼のパスタの麺を買って帰る。帰ってパスタをつくり、食べてから、夕方まで道具箱の制作。切り出しと加工は終わり、完成は次の休日かな。蓋は三輪素麺の箱を転用して、子のリクエストで十字架の切り込みを入れる予定。

 今日は昼頃、職場にYから電話がかかってくる。「今日は元気に帰ってきたよ」と。「いろいろなことに、すこし馴れてきたのかな」と二人で。それから子の持ち帰った学校の書類で「就学援助のお知らせ」というものあり、資格としての「年間所得額が認定基準未満の方」にわが家は当て嵌まるのだが、という話。何とも複雑な心境なり。明日は学校で歯科検診があり、家で歯垢を落としていたら虫歯を見つけた。「しの、どこどこに穴が開いてましたが虫歯ですか?」って歯医者さんに書いて明日渡しなさいとYが言ったところ、子は歯医者に手紙を書いた。おもしろいから読んでみて、ランドセルに入っていると帰宅した深夜、布団のなかでYが目を細めて言う。

 

 はいしゃさんへ

 右の下のおくから二ばんめのはがあながあいています。むしばですか?
 きのうはをかりかりしてたらみつけました。
 おでこのたんこぶはきのう、車のドアでぶつけてなりました。でもしんぱいしなくてだいじょうぶです。もういたいのはすっかりよくなりました。
 みんなのためにおしごとをしてくれて、ありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。

 1年○組 ○○しの より

 

 それから、居間のテーブルに父宛の手紙も。

 

 お父さんへ

 おとうさん、わたしのねがおをみて、なんかちがった? おでこんとこぽっかりふくれてた? じつは、これたんこぶなんだ! じゃ、なぜこうなったかはなすね・・・・あのね、バイオリンにいくとき、ドア、つまり車のドアにおでこあたったの。そんで・・・・そう、はじめのうちはじぶんでもわかんなかったんだけど、手をおでこにもってきてさわったらたんこぶができているじゃありませんか。お母さんにそういったら、お母さんったらあわてて、オークワさんに車をとめて-----といってもあわててたからちゃんととめなかったけどね------こおりをかってきたの。そんでこおりをつけながらバイオリンいったっていうわけ。じゃまたね! バイビー

しの より

 

 

 夕方はヴァイオリン教室だった。夏の発表会のための曲-----子のリクエストでモーツァルトを二つ、先生が用意してくれた。メヌエットとアンダンテ。メヌエットはしっとりした曲で、子は明るいアンダンテの方を選んだ。

 

 

 しの。おまえはおまえを悲しめる理不尽なものに「くそったれ」と言う権利がある。おまえはおまえを愛してくれるものを力いっぱい抱きしめることができる。おまえはお父さんの子なのだから、不器用でも最後にはきっと上手にやりとげるはずだ。

2007.4.17

 

*

 

 朝、自転車で子を送る。夢に出てきた4匹の白い子猫と母猫の話を聞く。帰って道具箱をすこしいじって、またYとふたり自転車で授業参観と保護者懇談会。休み時間をぬって子は導尿へ行くところであった。トイレのある養護教室の扉の前で入っていいものか逡巡している。まだ馴れぬ様子。授業は子らの自己紹介から。名前を言って「わたしの好きな食べものはイクラです。赤くてきれいだからです。」と絵を見せる。「百円回転寿司のイクラですわ」と隣のKちゃんのお母さんに耳打ちする。他の子らはほとんどが「ブドウ」で、「リンゴ」と「イチゴ」と「ケーキ」が少々。それから「サイタサイタ・サクラガサイタ」のような国語と塗り絵。懇談会の間、子らは別の教室へ移動する。整列の間、子はひとりぽつんと所在なく立っている。おなじ幼稚園のTちゃんが来ていっしょにはしゃぎ始めるのを見てほっとする。保護者懇談会はわたしだけ抜けて図書館へ返却に行くつもりだったのが、先生から椅子をすすめられて座る。懇談会、というより担任のT先生の指針演説のようなもの。26歳で三年目。熱心でユーモラスで子どもたちをつかむのも巧そうな女の先生だ。食育の話。90年代を境に家計に占める菓子代が米代を上回ったとか。指定の教材を購入するYを残して、ひとり図書館へ。城下町の旧市街のせまい路地を自転車であちこち曲がりながら走る。古里の東京・下町のようで懐かしい。豆パン屋アポロで合流し、昼食のパンを買って帰る。厨房の主人と勉強机の天板についてしばし話す。午後は夕食まで子の道具箱の制作。蓋部分にルーターと彫刻刀で十字架のデザインを施し、ネジ受けに黒檀をワンポイントで貼りつける。塗装を残すのみ。子は発表会のモーツァルトをたどる。セキセイインコのピー介を部屋に放して遊ぶ。夕食は鰯と軟骨のフライ、味噌汁。

 「毛沢東秘録」(産経新聞社)「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」(ジェフ・エメリック 白夜書房)を読了し、武田泰淳「私の中の地獄」(筑摩書房)を読み始める。

 

 死体を愛することは、だれにも不可能である。だれからも愛されることが全く不可能なモノになること。それが、人間の行きつく一点である。

武田泰淳「私の中の地獄」(筑摩書房)

 

2007.4.19

 

*

 

 あと8年で父が死んだ歳におれもなるのかと、思い始めた頃から心なしか死への梯子の段差が急に広がったようにも思う。あと8年じゃ死ねないな。彼女はまだ14歳だ。父が死んだとき、わたしの妹は17歳だった。父はさぞかし心残りであっただろう。一瞬の衝突だ。実際、思う間もない。映画館のフィルムがとつぜん前触れもなくぷつんと切れるようなものだ。だが意識は、その凝縮された時のはざまに信じられないほどの高まりをみせ、無辺の空間のうちにあらゆることを感じ、理解するのかも知れない。死んだ者にしか分からないが。生者は死者に届かない。だが死者はどうだろう。死者は生者に通信をする手だてはあるのか。夜の夢のうちに。風にゆらぐ木々の梢に。日だまりの一瞬の沈黙に。これも死んだ者でなければ到底、分かりようがない。死んだ者たちの魂は、いまどこに在るのか。そんなものはないのかも知れない。案外そこいらにうようよしているのかも知れない。それが見えたなら、わたしたちの生き方もちっとは変わるのかも知れない。通信が許されている場所。まっしろで、何気ない、茂みの奥にぽっかりと空いた穴ぼこのような日だまりに佇んで、死んだ者たちの声を聞いてみたい。あなたはあれから何を見て、何を感じていたのですか、と。するとなすべきこと、ほんとうに大事なことだけが見えてくるかも知れない。

2007.4.21

 

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 ショッピング・センターなどというところで働いていると日々、理解できないほどの「わがまま」な光景を目にする。いわく、足が悪い年寄りのために段差のないエスカレーターをつけろ、すべての障害者の駐車区画(ブルーゾーン)に警備員を一人づつ立たせて健常者が絶対に停めないように見張らせろ、迷惑駐車のためにじぶんの車が出られないから車止めを撤去してすぐに出させろ、店内で走っていた子どもにぶつかった・何とかしろ、トイレで滑って転んだのは床の構造が悪いからだ、あれこれあれこれ。店側もクレームが怖いからとりあえずは平身低頭の腫れ物に触るが如き対応で、客は益々増長する。よそのMで買ってきたハンバーガーの食い滓一家族分を持ち込んで捨てていく。ゴミ箱が見当たらなければ灰皿のわきに置いていく。排泄物をまるめた子どもの紙オムツをベンチに置いていく。子どもの吐瀉物を黙って残していく。駐車場に古タイヤや腐った野菜やアダルトビデオや雛壇やありとあらゆるものを持ち込んで捨てていく。買い物カートに子どもを二人や三人は平気で乗せ、落ちれば店に文句を言う。子どもに渡されたジュースの空き缶を親がぽいとそばの植え込みに放り投げる。この間もイベントで出店していた駄菓子屋の店先で、平台の量り売りの飴を子どもが素手でじゃらじゃらとかき回し、そばにいる母親は見て見ぬ振りをしているので、店員が堪りかねて「売り物だからやめてね」と子どもに注意したところ、母親は血相を変えて飛んできて店員に体当たりをし「確かにうちの子も悪いが、子どもにその言い方はないだろ」と怒鳴りまくった。結局、店員は謝罪したという。どこか、おかしくはないか。

 先日、長崎市長の銃撃事件のあった翌日に作家の吉岡忍氏がこんな文章を新聞に寄せていた。

 

 人はだれも、廃墟のイメージを持っている。世の中が崩れ、終末を迎えるときの光景だ。普段、口にこそ出さないが、人間の心の底にはそういう不気味なものが必ずある。長崎の伊藤一長市長に対する銃撃事件を知ったとき、とっさに私は、世の中が壊れていくと思った。

 世の中の終末を、真っ暗な闇だという人もいるだろう。別の人は、紅蓮の炎が渦巻き、建物が崩れ落ちていく光景を思うかべるかもしれない。多くの人間たちが狂気に駆られ、「殺せ」「やっちまえ」と叫んでまわるさまを思い浮かべる人もいる。新聞やテレビを通じて、戦争やテロの残酷さ、地震や津波の洪水の惨状を見聞きしている私たちには、この世の崩壊を思い描くことは難しくない。

 だが、私にはそういうどぎついイメージはない。あるのはもっと淡泊な、あっさりした廃墟の景色である。 

 まずそこは、きらきらと明るいにちがいない。人間たちは、自分以外のことは考えたがらない。あれを食べたい、これを着たい、この人が好き、あれもこれもしなくちゃ、と少し忙しく、少し幸福だ。しかし、自分の忙しさや快適さや幸せの邪魔になるものについては、おそろしく不寛容だろう。無視する、キレる、あるいはひょっとして殺すかもしれない。明るくて、無知。忙しくて、攻撃的。快適で不寛容。幸福で、暴力的。そんな人間たちがあふれかえった社会。それが、私が思い描く廃墟のイメージである。

 今回の事件を知った安倍首相の最初のコメントに、私は失望した。首相は「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」と語ったという。この人は、調べさえすれば、事件の動機や真相がわかると考えているらしい。

 世の中はそんなに単純だろうか。幼女連続融解殺害事件や酒鬼薔薇事件を引き合いに出すまでもなく、ここ何年も、本当の動機を不問に付したまま処理された事件が相次いだ。被害者を自殺に追いやるいじめ、親子や夫婦や兄弟姉妹の間の殺し合いなど、きっかけの単純さと結果の凶悪さがどう結びついたのかを解明しないまま、この社会はただ犯人に厳罰を科すだけでやり過ごしてきた。

 もうひとつ、イラク戦争のことも付け加えておくべきだろうか。当時のフセイン政権が大量破壊兵器を持っていると非難して始めたあの戦争は、アメリカ政府とそれを支持したイギリスや日本の政府の過ちだった。しかし、責任ある者たちは動機をごまかし、武力を誇示し、相手をねじ伏せてしまえばいい、とばかりに戦争をつづけ、暴力的風潮を世界中にはびこらせた。

 伊藤市長を撃った容疑者は、市道工事現場での自動車事故をめぐるトラブルがあったとも伝えられる。そこでキレて、市長を殺したとしたら、いくら捜査しても、あぜんとするほどの短絡さが浮かび上がるだけだろう。そこにあるのは無知と攻撃性、不寛容と暴力だけである。この短絡した行為が民主主義を壊してしまう。歴史と文化、知識と知恵に鈍感な者たちが始める戦争と同じことをする。それこそが、世の中の終わりなのだ、と私は思う。繰り返せば、その薄い表面を明るさと忙しさ、快適さとちょっとした幸せが覆い、飾っている。

 世界は終わらない。終わったためしなどないのだが、明るい廃墟は人間の生きる場所ではない。どこのだれが行使するのであれ、武力と暴力にノーを言い続ける、私たちの正気が試されている。

2007年4月19日 朝日新聞(吉岡忍・長崎市長銃撃事件:私達の正気が試される)

 

 この「明るくて、無知。忙しくて、攻撃的。快適で不寛容。幸福で、暴力的。そんな人間たちがあふれかえった」明るい廃墟の風景は、わたしが日々ちんけな日常で感じている前記の空気と、ひどく酷似している。そう、吉岡氏が言うようにそれは、かつてかの新興宗教団体が唱えたハルマゲドンのような「どぎついイメージ」ではなく、まさに「もっと淡泊な、あっさりした」色彩の景色なのだ。一見、平凡で、何事もない穏やかな風景。だが、目に見えぬ奥底で何かが確実に壊れ始めている。崩落の大音響は、聞こえない。飛び散る破片も、見えない。

 

 

 もうひとつ、「私は二年前から、裁判の被告です」という書き出しから始まる作家・大江健三郎氏の文章も、最近目にした紙面の中で心に残るメッセージであった。次に来る世代への、作家の遺言のようにも響く。

 

 さて、私は裁判の開始前からそれを危惧する根拠を持っていましたが、文部科学省が06年度教科書検定で、日本史教科書から、「集団自決」が「日本軍によって強制された」という記述を取り去らせました。

 この修正を報じるメディアで、私が政府の意図にあらためて直面したのは、文部科学省教科書課が次の説明をした、という「琉球新報」の記事によってです。《《『沖縄ノート』(岩波書店)をめぐる裁判で「命令はなかった」とする原告の意見陳述を参考としたことについて「現時点で司法判断は下っていないが、当事者本人が公の場で証言しており、全く参考にしないというわけにはいかない」》

 私は、その司法判断が下る時点で、慶良間諸島での「集団自決」が日本軍の指示、強制によってなされたと確認されることを信じています。しかし高校生たちは永い日々、修正された教科書で学ぶのです。私はこの四月、高校生となり、また高校教師になる人たちに、文章を読みとることについて、こういう手紙を書きたいと思います、あなたは明年からの教科書の、次の点に注意してください。

 《「集団自決」においこまれたり、日本軍がスパイ容凝で虐殺した一般住民もあった。》(東京書籍)

 《追いつめられて「集団自決」した人や・・・・》(三省堂)

 《県民が日本軍の戦闘の防げになるなどで集団自決に追いやられたり、日本軍により幼児を殺されたり、スパイ容凝などの理由で殺害されたりする事件が多発した。》(実教出版)

 《なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。》(清水書院)

 これらの文例で、私が傍点(*ここでは下線)を打ったところを、誰が・なにが、追いやり・追いつめ・追いこんだか考えてください。また、れる・られるという助動詞を取り去って能動態にしてください。

 文章から主語を隠す(井上ひさしさんが指摘する通り)、そして受け身の文章にしてツジツマを合わす。そうすることで、文章の意味(とくにそれが明らかにする責任)をあいまいにする。

 それが日本語を使う私らのおちいりやすい過ち、時には意識的にやられる確信犯のゴマカシです。あなたはこれらの文例を書き直すことで自分を鍛えてください。

2007年4月17日 朝日新聞(大江健三郎・定義集:なぜ主語が隠されたのか)より抜粋

 

 

 完成した道具箱をもって、自転車に子を乗せて学校へ。子を送り出してからそっと渡り廊下まで侵入し、取り出した道具箱をはさんで担任のT先生と談笑している子の姿を覗いて帰ってくる。帰りは下駄箱の見える木の下に立って待つ。階段を下りてくる装具をつけた足が見える。人の波に揉まれながら装具カバーをはずし、上履きに履きかえる姿をじっと見つめる。こちらに気がついて笑顔を見せる。家に帰って、昼のお好み焼きを食べながら学校での話をあれこれ聞く。最後に「もう靴のことを訊いてくる子はいないか?」とさりげなく。子は、いない、と答える。「そうか、みんなもだんだん見慣れてきたのかもな」

 夕方、ヴァイオリンの練習を終えた子と、セキセイインコのピー介をカゴから出して戯れる。いまでは子にいちばん懐いて、呼ぶと鴨居の上から飛んできて子の手のひらや肩に乗っかる姿は見ていて微笑ましい。ピー介を囲んで、家族の笑いがさらに増したような気がする。

 職場のK氏より頂いた Gladys Knight & The Pips の初期のベスト盤を聴いている。やたらぼんついた音質・バランスはかなりひどいものだが(ジェフ・エメリックなら卒倒するだろう)、そんな録音技術を超えたハートフルなソウルがある。魂にデジタル処理は要らないものだ。

 夜、風呂場から寝室の布団の中まで、子の物語る「西遊記」講談を聞く。布団の中でテグジュペリの「星の王子さま」を読み聞かせる。

2007.4.23

 

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 休日。子の整形外科受診。車で家族三人、朝から大阪の病院へ行く。診察が混んでいて昼近くまで待った。待合室で子は岩波ジュニア文庫版の「西遊記」を、Yはヴァイオリニスト・千住真理子の母親の手記を、わたしは姜尚中の「在日」をそれぞれめくる。足は術後からだいぶ落ち着いてきたので、家での外出には様子を見ながら少しづつ装具をはずしてみて、馴れてきたら半年後くらいには学校でも装具なしでいけるかも知れない、と。ただしそのためには日頃からの歩行運動が必要。二分脊椎症の子どもは、神経の麻痺そのものよりも、それによる運動不足がもたらす二次的な筋肉の弱化が危惧される。ふりかえれば休日も、わたしがとくに山などへ連れて行く以外はベネッセの通信教材とヴァイオリン、小鳥との戯れ、それに大好きな絵や文章を書くことに読書と、子の生活の大半は家の中で済んでしまっている。このごろは買い物も「家で本を読んで待っている」とついてこないし、学校の登下校も校区外申請のために親の自転車か車での送迎。学校の帰りに途中で自転車から下ろして歩いて来るなど、もうすこし工夫が必要かも、とYと話しする。診察を終え、子がお腹が減ったとぐずるので病院の食堂で昼食をとる。Yと子はドリア、わたしはランチ・バイキング。買い物を少々してから、クラスメイトのKちゃんの家に寄って預かってもらっていた学校の宿題を受けとり、帰宅する。すでに夕方。子はさっそく宿題、Yは家の用事と夕食の支度、わたしは道具箱の手直しなどをする。机の下に収納するときに、重ねていれる自由帳の分の数ミリのスペースが足りないというのだ。黒檀部分をはずし、やすりをかけ、代わりに径14ミリの丸棒を薄く切ったものをドリルで開けた穴に嵌めて固定し、凸部を6ミリ減らした。夕食を済ませ、いっしょに風呂に入り、布団の中で今夜もテグジュペリの「星の王子さま」。バオバブの木の場面。王子さまが可哀相だと布団を蹴飛ばして憤慨する。

 そうそう、昨日の学校でのこと。体育の時間に同級生の男の子が子のところへやってきて、「おおきなクツ、いいなあ」と感嘆した。子は予想外の言葉に何と答えていいか困ったそうだ。

2007.4.26

 

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 姜尚中氏の「在日」(講談社)はいい本だね。きっと姜尚中氏自身がいい人なんだろう。先に読んだ「毛沢東秘録」は、いわば魑魅魍魎たちの競演だった。自己批判、思想の整頓、反革命闘争、そんな異様な世界には近寄りたくもない。むかし「芙容鎮」という狂おしくも愛おしい中国映画を大事に見たが、姜氏の文章はそんな目線で物語られる。そんな目線で自分史を語りながら世界史を語る。じぶんは狂おしくも世界につながっている。一年中おなじ長袖のランニングシャツにズボン姿で廃品回収の仕事を精一杯働き続けた血のつながっていない「おじさん」のモノクロ写真。わたしは「在日」ではないが、わたしの子どもの頃にもそんな人はいた。そんな匂いがあった。人は貧しかったけれど、やさしかった。いまや神は死に、思想は潰え、資本が買ち残ったわけだ。聖堂の代わりにバベルの塔の如き巨大なビジネス・タワーが屹立し、聖書の代わりに広告が魂の安息を語る。だがわたしが子どもに伝えたいのはそんな世界じゃない。わたしが子に伝えたいのは、たとえば「おじさん」の擦り切れたランニングシャツから立ちのぼる汗と体臭だ。そのかすかなぬくもりの記憶だ。「おれの国はこんなもんだ。おれの人生はこんなもんだ。でもおれは・・・」と言葉に詰まり、慟哭して立ち尽くす、屑鉄を黙々と運び続けた人のまっとうな悲しみだ。悲しみを抱えたやさしさだ。ゴーリキーの貧民窟の酒屋で強い酒をあおる無宿者のように、今夜はディランのゴスペル・ソングのような強烈なサウンドをあおりたい。この弱くされた心に楔を打ち込みたい。

2007.4.27

 

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 わたしはときおり自分は流れつづける一まとまりの潮流ではないかと感じることがある。堅牢な固体としての自己という概念、多くの人々があれほど重要性をもたせているアイデンティティというものよりも、わたしにはこちらのほうが好ましい。これらの潮流は人生におけるさまざまの主旋律のように、覚醒しているあいだは流れつづけ、至高の状態において折り合いをつけることも調和させる努力も必要としない。それらは「離れて」いて、どこかずれているのだろうが、少なくともつねに動きつづけている----時に合わせ、場所に合わせ、あらゆる類の意外な組み合わせが変転していくというかたちを取りながら、必ずしも前進するわけではなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心となる主旋律は不在のままに。これは自由の一つのかたちである、とわたしは考えたい-----たとえ完全にそう確信しているとは言えないにせよ。この懐疑的傾向もまた、ずっと保持しつづけたいとわたしが特に強く望んでいる主旋律の一つである。これほど多くの不協和音を人生に抱え込んだ結果、かえってわたしは、どこかぴったりこない、何かずれているというあり方のほうを、あえて選ぶことを身につけたのである。

エドワード・W・サイード「遠い場所の記憶」中野真紀子訳

 

 堅牢なアイデンティを渇望するでもなく、デラシネの浮遊感覚を言祝ぐでもなく。これは自由のひとつのかたちである、と。折しもはじめて繙いたサイードの「知識人とは何か」にわたしが深く魅了されているその最中に、姜尚中はみずからを語った真摯な「在日」の中でひとつのたどりついた確認としてやはりサイードをあげている。いつもながらのこの偶然の符合に、わたしはだれかがじぶんのために敷いてくれたレールの上を歩いているような感覚をすら覚える。ひとりではあるが、孤独ではない。これもまた「流れつづけるひとまとまりの潮流」であるかも知れない。深夜にディランの Saved を聴きながら、これらの感覚はわたしにとってのあるいは「神」のかたちのようなもの、とも思う。

 

 休日。家庭訪問を数日に控えて、Yは玄関まわりを花や植物や貝殻の額で飾った。わたしは桜の枝で額受けをこしらえたりしてそれらを手伝った。

2007.4.30

 

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 休日。午前中は自転車で子の送迎。合間の手すさびにPCのフリー・ソフトを使って携帯電話の着メロを作ってみる。mp3 を WAVE に変換して1分程度にちょんぎり mmf なる携帯形式に変換するというもの。SDカード経由で本体に読み込ませる。通常の着信音はルー・リードの Sweet Jane ライブ・バージョンのギター・ソロ、友人Aはジョン・リー・フッカーの Dimples、Yの携帯はエヴァリ・ブラザースの Let It Be Me、目覚ましはクレージー・キャッツのホンダラ行進曲で試しに設定。またYから制作依頼を受けた、靴収納と傘立てを兼ねた玄関に置くミニ・ベンチの簡略な図面を引いてみたりもする。あさりご飯の昼食を済まし、午後から家庭訪問。「10分」の予定時間のはずが1時間半以上に。主に病気に関する説明に費やす。熱心そうな先生で、わたしはいつもの悪い癖でシュタイナーの「人間理解からの教育」(筑摩書房)を書棚から取り出し、「とても感銘を受けた一冊なんで、よかったら読みませんか」と持っていって頂く。お八つを食べて、下の公園でしばし子の縄跳びの練習につきあう。Yと二人で百円均一の店へ行き、クランプを二つ買ってくる。インコのピー介につつかれながらソファーで昼寝。夕食後、三人でイギリスで制作された恐竜やマンモスの3G番組を見る。続けて性同一障害の番組を子と二人で見る。子と風呂に入り、布団の上に寝転がって子は相変わらず「西遊記」を、わたしは武田泰淳の「私の中の地獄」を並んでめくる。その後「恐竜はなぜ滅んだのか」という子の質問に答えて、種の進化や地球の成り立ちや人類の二足歩行の話などを10時半頃までわいわいと話し合いYに叱られる。

2007.5.2

 

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 言ってみれば、職場にいるわたしはカラッポの死体のようなものだな。資本がないから、生きるために己の時間を切り売りしているのだ。それ以外の時間は一秒たりとも譲りたくない。むかしから、そんな感覚があった。切り売りしている時間だけで十二分。家に仕事を持ち帰るなど御免蒙る。これまで数知れずの面接でわたしを不採用にした人事担当者は、その鋭敏な嗅覚でそんなわたしの性癖を嗅ぎ取ったのだろう。かれらの嗅覚と判断は、じつに正しかったと言わねばならない。休日の日は、わたしは別段、それ以上世間の中に出ていって交わりたいとも思わない。たとえ善意の人々の集まりであっても気が進まない。わたしはわたしのささやかな家族三人だけでしずかに過ごしたい。ショッピング・センターへなんか行きたくない。どこかへ出かけても、家に帰るとほっとする。家の中は完結していて、ひとつの宇宙のようなものだ。わたしはいつも、その中で永遠に閉じこもっていたい。

 

 生き続けようとする宗教には、ナマ身の人間と同様なナマナマしさがある。なま臭さ、と言ってもよい。宗教が宗教でありつづけようとする意欲が、なま臭いものであるのは、その宗教が生きたがっていることの証拠である。

 宗教者は、文学者の同志である。そして、同志は同志に対してこそ、きびしく、なまぐさくならねばならない。我々は、アタマをなぜられて泣きやむ小児ではない。我々は、永遠の愛も、永遠の定義も信じたくはない。すべての生物の腐敗、消滅についても、多少の知識がある。変化しないモノなど存在しないことも、知りたくなくても知らされてしまっている。つまり、なまぐさき世界の中に生存し、なまぐさきままに生きている我らの実体を時々刻々に感じとっている。その実感は、いいかげんな伝統信仰、調子のよいなぜさすり、きまりきった自己告白など、うけつけがたいほど強烈なものである。

 

 帰宅した深夜。子のおしっこを摂ってから、風呂の中で武田泰淳の「私の中の地獄」を読む。睡眠までのほんのいっとき、切り売りした時間から片足を抜け出したなま臭いままのわたしがそこにいる。生き続けようとしているわたしがいる。

2007.5.3

 

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5/3 木ようび 夕がた ベランダ

きょうのこうえんとだんち、つまり、わたしにみえる、ぜんたいのことをいいます。いまは、こうえんはしずかで、くさはいきいきとして、みどりにかがやいてみえます。こうえんのまわりのきも、かぜといっしょにおどっています。わたしのいえのくさばなや、ねぎやアロエもいっしょです。わたしのいえには、すずめがすをつくっています。でもわたしと、おかあさんとおとうさんとは、ちっともおこりません。みぎの夕やけを、もえるように、赤く、とりたちは、ぬっていきます。なんてきれいなんでしょう! なんと、うつくしいんでしょう! あっ! よかった! じゃない! あっ! よかった。こんどこそ! たぶん、そとにでていったとおもう。でも・・・そっとみてみましょう。いま、おこられていたとこですもの。しー! しずかに! いえいますよ! あっだれかがいえにきた! しずかにしなきゃ! そーと、みてくる。あっしずかにして、おかあさんが! やめて! こないで! よし、こわがっちゃだめ! よし、こうなったら、チャンスをみて、にげるしかない! よーし、えい! だめだ! えい! よし、だいせいこう! っといったって、ねるへやにきただけ。ドアはあいている。はやく! どこかに! えい! ふゥーひィーホォーやっぱりここが一ばんあんぜんだふゥー。あっ! こうえんで子どもと子どものおとうさんがやきゅうをしてる。たぶん子どもが、やきゅうをしてるんでしょ。おとうさんがまえへまえへといってるもん。そうだ、わたしは、やきゅうをみるとしよう。本をよもう。むしめがねで。かえってしまったから。

 

(祝日。子は宿題もヴァイオリンの練習もせずに本ばかりを読んで、母に叱られ放しの一日だったとか)

 

 

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 夜、寝床で子にムーミン谷の物語を読み聴かせる。冬眠のさなかに目が覚めたムーミントロールと友人は、氷姫に見つめられて凍死したリスを見つけその亡骸を弔ってやる。雪の馬がかれを背中に乗せていずこかへ運び去る。

 わたしたちも眠りから目覚めて、弔うべき何物かを探すべきかも知れない。

2007.5.6

 

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 友人のため家族のため、あるいは見知らぬ子どもたちのために、みずからの死も厭わなかった者たちがいた。かれらの魂はいまどこでどうしているだろうか。深夜にひとりディランの Workingman's Blues #2 を聴いていると、不思議とそんなことが思われる。「むかし、小鳥たちにイエスさまの話を聞かせてあげた人がいたよ」 朝の慌ただしい最中、ベランダの子にそう、話しかけた。そのとき彼女が何と答えたかは失念してしまった。彼女はインコの餌をエアブラシで吹いていた。スピリットはけして死なない。モリスンがそんな曲を歌っていた。蒸せるような草いきれの中を死者たちの気配がきらきらと明滅していた遠い夏の日のことだ。昨夜、わたしはネットで模造のサン・ダミアーノの十字架を探していた。始終わたしを見つめる物言わぬ視線があったなら、わたしは道を踏み外さなくても済むかも知れない。わたしはわたしが弱く、盲目で無力であることに気づけるかも知れない。服を脱ぎ、水を飲み干せるかも知れない。寝室のふすまをしずかに開く。月明かりが頬に落ちた子の寝顔を見つめる。彼女がそこにいることを不思議に思う。ほんの数年前には影も形もなかったのに、いまではわたしの寄る辺なき思いのすべてだ。神の贈り給うたものでなければなんだろう。わたしはべつのことを考えている。彼女を残してわたしがこの世から旅立たなければならない日のことだ。わたし自身が草いきれの中できらきらと輝く存在になるときのことだ。そのときは風の吹く道をたどっていきたい。いにしえの草笛の音に沿って歩いていきたい。

2007.5.8

 

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 朝、子を自転車に乗せて学校へ送る。五月の爽やかな空気。学校のある旧市街の路地からは三々五々、子どもたちが集まってくる。「洋傘修理」の古びた看板。精肉店。クリーニング屋。どこか、じぶんが子供時代を暮らした東京・下町の風情にも似て、わたしは一瞬、これらの地域共同体の一員であるような錯覚をおぼえる。半径数キロの生活範囲がこころに近しい。子が下駄箱の奥へ消えてからも、天井部分しか見えない教室を覗いている。気づいて挨拶に来てくれた担任のT先生に、このへんに物見櫓でもあったらいいのですが、などと言う。

 車でホーム・センターへ、玄関ベンチの材を買いに行く。材を見ながら店頭で図面を引いてなぞと考えていたのだが、結局頭の中がこんがらがって出直すこととする。近くのブック・オフで子ども向けの文庫本、百円均一を数冊買って帰る。「霧のむこうのふしぎな町」(柏葉幸子 講談社青い鳥文庫)、「ファーブル昆虫記」(講談社青い鳥文庫)、「オズの魔法使い」(バウム ポプラ社文庫)、「人間になりたがった猫」(ロイド・アリグザンダー てのり文庫)、「星からきた少女」(ヘンリー・ウィンターフェルト てのり文庫)。帰って昼のパスタをつくる。茄子とピーマンと春キャベツ。

 

 ネット・オークションで「三上寛 怨歌に生きる」(彩流社)を落札、今日届く。また昨夜、サンパウロ・ネット・ショップなるサイトでサンダミアーノの十字架、聖フランシスコのポストカードメダイを注文する。メダイは今日、子が見て欲しいと言うので譲ることにする。

2007.5.9

 

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 休日。子を自転車で学校へ送る。教室へ消えた子をヒソカに追い、中庭の茂みの間からしばらく覗き見をしていて同じクラスのTちゃんとKちゃんに発見される。帰ってから入学式のときの写真を数枚印刷し、入学祝いを頂いた親類や小学校時代の友人のお母さんなどにお礼の葉書を書く。昼までに玄関ベンチの図面を仕上げる。Yのつくった炒飯を食べて、二人で自転車で学校へ。授業参観。さんすうの授業を見ながら隣のアポロの主人に「Nちゃんは学校から帰ってから何をしているのか」などと訊く。「よく“疲れた”と言って寝ている」と言う。らしくていいなと思う。昼寝をしたり、焚き火の炎を見つめたり、子どもにはそんなジカンがいい。参観が終わり、Kちゃんの家に遊びに行くというYと子を残して、ひとり自転車で帰ってくる。戸棚にあった珈琲味の八つ橋をつまみながらしばらくシンブンを読む。昨日の強風でまた花粉が飛んだせいか、頭がややぼんやりで眠たい。ソファに寝ころんで映画「ボブ・ディランの頭の中」を見ているうちに寝てしまう。目覚めてから、インコのピー介を籠から出してやってまとわりつかれながら、味噌汁をつくっておく。玉葱、人参、シメジ、小松菜、生姜少々。じきにYと子が帰ってきて夕飯。白ご飯、鶏のたたき、金平ゴボウ、味噌汁。子が宿題をしている間、サンダミアーノの十字架をわたしの部屋の隅に掛ける。Yと子が見に来る。「(喧嘩をしてわたしが)部屋に閉じこもったら懺悔をしているんだと思ったらいいのね」とYが言う。十字架があり、曼陀羅があり、節操がないなと二人で苦笑する。子と風呂に入り、いっしょに布団へ入る。子は「霧のむこうのふしぎな町」(柏葉幸子 講談社青い鳥文庫)を、わたしは旧約の「エゼキエル書」を読む。エゼキエルが古代に見た空飛ぶ円盤は神の姿だったのかと考える。「子どもが寝たらワインを飲みながら映画を見ようか」とYから言われていたのに、いつものように子といっしょに寝てしまう。

 豆パン屋アポロのママさんが手製の地元観光本『YAMATOKORIYAMA 大和郡山』(鑰書林 @700)を出す。予約受付中

2007.5.11

 

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 救出されたフロッピー・ディスクの中の古いワープロ文書に、もう16年もむかしに英語の辞書を片手にモリスンの曲を訳したファイルが生き残っていた。(いくつかは破損していた)

 

 

 ぼくをつれもどしておくれ つれもどしておくれ そう あの懐かしいハインドフォ−ド・ストリ−トへ 永遠の夏の夜 11時半に静けさを感じられるところ ラジオ・ルクセンブルクが電波に乗り その声がビ−チェ川からそっと流れてくる 静けさのなかで ぼくらは沈黙の安らいだまどろみへと沈み 夢を見つづける 神のもとで…

 晴れた夏の午後 線路に沿って ノ−ス・ロ−ド・ブリッジからチェリ−渓谷へと歩いていく サイプラス・アベニュ−の家の庭からたわわに実った 小道のわきの林檎をもいでとる 夜には投光照明に集まってくる蛾を見ながら 橋塔のところでおち会う ケリ−夫人の家の灯り付近で遊び バスでハリウッドへくり出す そして海岸線のはしから歩き始め アイスクリ−ムを食べるために途中フスコへ立ち寄る ロックン・ロ−ルが現れる前の日々…

 ハインドフォ−ド・ストリ−ト アベッタ・パレ−ド オレンジ・フィ−ルド 聖ドナルド教会 日曜の6つの鐘 そして静けさのなかの会話と笑い 音楽に歌声 首のうしろに感じる震え 夜おそくラジオをルクセンブルクに合わせる 一日中ジャズやブル−スのレコ−ドがかかり そしてまた黙想が最高潮の早朝には 第3プログラムでドビュッシ−を聴く…

 キャッスルレイの丘をのぼりつめ 夏の Cregagh の谷間へ ハインドフォ−ド・ストリ−トへもどり おどろきを感じ心のなかに火が灯る 永遠の人生の感覚 ミスタ−・ジェリ−ロ−ルとビッグ・ビル・ブル−ンズィ−を読む そしてメズ・メズロの“Really The Blues”やジャック・ケルアックの“Dharma Bums”を 何度も何度もくりかえして…

 夜ふけにビ−チェ川から響いてくるあの声 いつも今ありつづけている いつも今 いつも今なんだ 静けさを感じられるかい?

 

 ハインフォ−ド・ストリ−ト 永遠の夏の夜 11時半に静けさを感じられるところ ラジオ・ルクセンブルクが電波に乗り その声がビ−チェ川からそっと流れてくる 静けさのなかで ぼくらは沈黙の安らいだまどろみへと沈み 夢を見つづける 神のもとで…

(Van Morrison “0N HYNDFORD STREET”1991 まれびと訳)

 

 

 あのころ胸の奥底に宿った微熱のような感覚が、ひとつも欠けることなくいまも生き続けているとしたら、これまで生き延びてきた甲斐もあるというものだ。

 静けさを感じられるかい?

2007.5.13

 

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 休日。今日はYの買い物につき合う日。そしてひさしぶりに夫婦水入らずで外食(ランチ)をする日。子を学校へ送ってから、車に乗ってまず近くのホームセンターへ。(バーズの「ロデオの恋人」をカーステでかけながら) 鉢植えをいくつか、そして玄関ベンチの部材を買ってカットしてもらう。それから奈良ファミリーへ。ローラアシュレイの店で、彼女は居間のラグとクッションと携帯用スリッパを買う。わたしは文庫本を一冊。遠藤ケイ「熊を殺すと雨が降る 失われゆく山の民俗」(ちくま文庫 @900)。昼過ぎに奈良市法蓮町にあるくるみの木で“初夏のランチ”@1365を。リサイクルの店とユニクロを覗いて帰宅。自転車で子を迎えに行く。夕方ベランダで、去年のYの誕生日に買ったスパティ・フィラムを株分けする。増えた片方を寝室の子の枕元へ。蕾が膨らみかけているジャスミンもすこし大きめの鉢へ移す。ハイビスカスも今年二度目の大輪を咲かせているところ。

 遠藤ケイ氏の本は山に携わってきた男たちの生きた知識がたっぷり詰まっている一冊だ。現地調達した素焼きの川魚に山菜、それに持参した味噌を入れた椀に川の水を張り、焼き石を放り込んで沸かす“瞬間味噌汁”は何とも食欲をそそるね。「山で何が楽しみかって、体いじめて働いて食う飯の旨さ。これが一番だんべ」 いま、そんなメシを食っている人間がどれほどいるだろうか。こじゃれたレストランでマクロビオテックやら無農薬野菜やらのヘルシー・ランチを食べたって、これには敵わない。ちっぽけな人間を包み込む雄大な山の景色と、きつく危険に満ちた労働と・・・ 「トータル」が欠けているのは、何も食だけに限らない。メシというのは五感のすべてで喰うものなんだな。そうして喰うから、山男たちのメシは旨いのだろうな。

 ちなみにこの本は、もともと新聞の書評で見たジョン・クラカワー「荒野へ」(集英社文庫)を探していて、それはなかったのだが、そうして覗いていた文庫の棚で偶然目に入って手に取った。ネット・ショッピングではそうした偶然の出会いはあまりないわけで、ネットの情報というのはいわばピンポイントが主眼といえる。「検索」という行為自体が他の情報・ノイズをすでに排除しているわけだ。要するに部屋の中に閉じこもって、ネットだけで食い物を注文し、生活必需品を注文し、コミュニケーションさえ成立させることはできるが、それらは「余計な夾雑物」を排除したピンポイントの世界だけで成り立っている。そんな「世界」が面白いわけがない。わたしにとって、ネットはあくまで「手段」であり、「目的」は外にある。外の実世界はノイズで溢れかえっている。ノイズが思わぬ演出をしでかす。巷で話題らしい仮想空間セカンド・ライフの街を歩きたいなど、おれはこれっぽっちも思わないね。むしろ難波の狭い居酒屋で現代詩について語る三上寛の、ぶあつい唇の端から飛び出した唾の飛沫をおれは目撃したい。

 ところで数日前、北関東の方よりメールを頂いた。生後二ヶ月の子どもさんが前日、(わたしの娘とおなじ)二分脊椎と診断された由。病院の情報が欲しいとのことで、出勤前にあわててわたしは返信をしたためたのだった。後日にYにその話をすると「そうよ、わたしも東北だろうとアメリカだろうと、(子の手術のためなら)どこへでも行くつもりだったわ」と、そのときのことを思い出したのか急に涙声になる。かなしみはいまも胸の奥を隠れた伏流のように流れている。生きようとする力は、きっとそんな場所から立ち上がってくる。

 1978年6月27日、ドルトムント。ヨーロッパ・ツアーのギターとサックスだけの孤独な Tangled Up In Blue を聴いている。「だが、ひとりでいたその間もずっと 過去はぴったりとついてきて 女は山ほど見たが 彼女をこの胸から追い払うことはできなかった そしておれはますます ブル−にこんがらがっていった 」 ここではサウンドは、狂おしいノイズの奔流だ。儘ならぬことと跳躍がおなじ地平に在る。仄かな温もりの残るビリー・ザ・キッドの銃身のようだ。夕べはこいつをヘルメットの中で叫びながら帰ってきた。Bang!

2007.5.14

 

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 買い物にでかける。見知らぬ一人の男がうしろからついてくる。凡庸なスーツに、ノー・ネクタイ、数分後にはきっと顔を思い出せなくなるに違いない没個性的なのっぺらぼうの男だ。レコード屋に入ってブルースの棚を漁る。ジョン・リー、ライトニン、マディ・ウォーターズ・・ 男は背後からわたしの手元を覗き込み、手にしたCDのタイトルを携帯電話ほどの端末に次々と打ち込んでいく。マディ・ウォーターズの Electric Mud を持ってレジに並んでいる間、男はにこやかにわたしに端末の画面を向けている。そこには「マディ・ウォーターズの Woodstock Album ザ・バンドのリボン・ヘルムらが参加した1975年のグラミー賞アルバム!」と書いてある。通りを渡り、一軒の本屋へ入る。歴史の棚をしばらく眺める。男の端末画面がちらつく。「今月のおすすめ歴史書」 新書の棚に移動する。「まれびとさんが最近買った新書一覧」 チョムスキーの「メディア・コントロール」を手にする。男の端末には「ノーム・チョムスキー・覇権か、生存か・集英社新書」「姜尚中・デモクラシーの冒険・集英社新書」といったタイトルが並ぶ。そうだ、そろそろ子どものビデオをDVDに焼かなきゃなと思い立ち、パソコン関係の書棚を探す。書棚へ行きつく前に、男の掲げた端末画面にはすでにDVD関連のマニュアル書やソフトの一覧が出ている。しかもマッキントッシュ用のやつだ。気味が悪くなって本屋を出て、喫茶店に入って小休憩をする。男も黙って隣の席に座る。エスプレッソを注文する。ちらりと一瞥した端末には「特選コーヒー・メーカー」「直輸入のコーヒー豆」といった文字が踊っている。腰かけているアンティークな椅子に気づき、何の木を使っているのだろうと座板を無意識に撫でる。「早川謙之輔・木工の世界・新潮選書」「The Best Of Fine Wood Working Tables and Chairs」 堪らなくなって「あんたはいったい何者なんだ」とやや声をあらげて男に言う。のっぺらぼうの男は平然と答える。「ご存じのはずでしょう。私はアマゾン・ドット・コム。まれびとさんのお買い物履歴はすべて収集・参照し、弊社の膨大なデータベースの中から常に最適なまれびとさんだけのおすすめ商品を提供します。万が一ご自分が何を求めているのか忘れてしまっても、私どもにお任せしてくれたら安心です」

2007.5.15

 

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 乾いた砂漠のような大地。古いモノクロのフィルムのような。頭の中にザ・バンドの The Moon Struck One が流れている。熊のように気高い男の首が切り落とされ、砂ぼこりの地面の上を音もなくころがる。男は先住民の偉大なる首長で、まだ幼い息子たちがころがる父親の首を無言で見つめている。The Moon Struck One は、殺された男が息子たちに残した秘かなメッセージなのだという夢の啓示を、夜勤明けの午後、子を迎えに行くわずかな時間に横たわったソファーのまどろみの中で見た。

 しばらく前にある人より頂いたザ・バンドの The Moon Struck One というアルバムは、リチャード・マニュエルのボーカル曲ばかりを集めた編集盤だったんだな。むかし、90分のテープにリチャードのボーカル曲ばかりを録音して聴いていたことがあった。なぜならリチャードの歌は、魂の骨格のようなものだったから。

 

 「京都キリスト召団」名の封書が届いた。奥田昌道氏の講演を収めた小冊子が二冊。ひもとけば「神霊の止(とど)まるものを【霊止(ひと)】という」とある。

2007.5.16

 

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 夕べ、食事の席で子から体育の授業の話を聞いた。「お巡りさん」と「うさぎ」に分かれて鬼ごっこのようなことをするらしい。捕まえた人を「収容」するオリのような場所もある。体育の授業はいつも足のことが気にかかる。「お巡りさん」になったと聞いて、だれかを捕まえられたのか、と問えば、「わたし、だれが捕まえられそうか考えてね。Kくんにねらいをさだめたのよ。いつも笑ってばかりいるから。それで男の子の一人に“女の子を一人、Kくんの前でおもしろい方法で捕まえて”って頼んだの。その子はオッケーって言って、女の子を一人、ぐるぐる回しながら捕まえたの。Kくんはそれを見て大笑い。そのすきにわたしは笑っているKくんを捕まえたの」と言う。「へえ、そりゃうまくやったもんだな。おまえの作戦勝ちってわけだ」 もとより実際に、そうしたことがあったかどうかは分からない。ときどき子は空想の話をしたり、じぶんで脚色することもあるからだ。ただ彼女にとって、ときには空想も必要かも知れないとも思う。

 そんな話があったから、今日は一時間目が体育というのを時間割で見て、子を送っていった際に、一時間目の授業を拝見させてもらえまいかとT先生に頼んだ。残念ながら今日は学校に警察官が来て、体育館で春の交通安全週間の話をみなで聞くのだという。「また来週にでもぜひ」と先生は仰ってくれた。「体育はちょっと、気になるもので」とわたしは恐縮しながら。

 帰りに豆パン屋アポロに寄って大ベストセラー中の自作本「YAMATOKORIYAMA 大和郡山」を受け取り、しばらく赤瀬川原平の路上観察や子どもの学校の話などをしてから、二階で開催中の空想エアメール展を拝見させて頂く。自作本も、そして二階の古い土塀に飾られた「大和郡山植物奇譚図録」の写真も、下町育ちのわたしにはごく近しい風景だ。写真も、小沢昭一か宮本常一のように良い。ナマコの眼が古く懐かしい城下町のすみずみを嗅ぎまわり、舌を出し、オシッコをひっかけ、活写する。田圃や商店街や路地裏を撮りながら、見えてくるものは豆パン屋アポロのナマコの眼である。いわばこれは自叙伝のような写真集だ。だから頁をめくっていると、わたしもカメラをぶら下げてもう一匹のナマコに変じ、タイム・トラベラーのような遡行と遡上の旅へぶらりと歩いてゆきたくなる。

 家に戻り、昼食まで、いよいよ玄関ベンチの制作にとりかかる。ホームセンターでカットしてもらった材を仕分け、スコヤ(直角定規)などを使ってホゾ穴等の墨付け(加工予定線の書き込み)をしていく。部屋のBGMにキンクスやアイルランド楽曲をとっかえひっかえ。時折ベランダに出て、煙草を吸いながら家事をしているYと話をする。こういうのんびりした時間がいちばん好きだ。これが山の上の見晴らしのいい一軒家で、実際の職業であったらいいのになあなぞと思ったりする。細かな墨付けは案外と面倒で地味な作業だ。だがここでしっかりと計算しておかないと後で狂いとなる。墨付けが終わったら、ひたすら黙々と手を動かすだけ。材が仕上がり、組み立てていくときがやはりいちばん愉しい。

 Kさんから Eliza Gilkyson というアメリカのフォーク・シンガーを教えて頂いた。"Baby's Waking"という素朴な曲のサンプルを頂く。「これは祖母が孫に歌ふ歌かな、と思ひました。"until then I won't be staying" つて言つてゐるし。無條件の愛にあふれてゐるのに、それだけではない、というのも、母親から子への距離感とはちよつと違ふやうな感じです。理知的な人なのかもしれない。」 歌の原点のような朴としたメロディと語り口。はじまりの場所にもどしてくれるような、さりげない力。とてもいいので、何度も繰り返して聴く。

 もうひとつ、これは友人のO氏が最近お気に入りというスティングの曲を送ってくれた。これが何と、あのスティングがリュートの伴奏に乗って17世紀の放浪リュート奏者ジョン・ダウランドを歌うというものだから驚いた。しかも知的で、端正で、落ち着いた雰囲気がスティングの声に相まってなかなかよい。こんなアルバムを出していたとは知らなかったな。ダウランドはかつてクラシック音楽をよく聴いていた頃のわたしの秘かなお気に入りの作曲家でもあった。これはちょっと買ってしまうかも知れない。

 閑話休題。

 今日は午後から強風が吹き荒れ始めた。これじゃ自転車を漕ぐのがタイヘンだなあ、とわたしは子の迎えを車にしたところ、何と行きすがら信号無視で罰金9千円。帰って事の次第を聞いたYは冷淡に「子どもが春の交通安全週間の話を聞いてきたその日に、親が信号無視で捕まってれば世話ないわ。しのを送って行ったときに、お父さんもいっしょに体育館で話を聞いてきたらよかったんじゃないの」と宣うた。子はお巡りさんから貰ったという交通安全協会の反射ステッカーやらストラップやらを取り出して見せてくれる。「それの全生徒分を今日、お父さんが支払ったようなものだな。ま、エンリョせずに受けとってくれ」とわたしは力なく呟くのだった。

 これから夕飯の餃子をつくる。

2007.5.17

 

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 日曜、休日。朝から自転車で家族三人、郡山城址を散策。さかさ地蔵を眺めたり、カクレンボをしたり。それから図書館で銘々好きな本を読んで、昼までのんびり過ごす。午後からわたしはベランダで、玄関ベンチの部材にホゾ加工などを施す。子のリクエストで、夕食にまたしても餃子をつくる。夜、布団の中で話をしていたら子が突然、左足の「中」が痒いといって騒ぎ出す。ちょうど甲の部分、筋肉の移植をしたところ。しばらく足をぺんぺんと叩いたり、さすったりしてやっていると、やがて眠ってしまった。

 

 私が生まれてくる前、天国にいたときに、私にはお姉ちゃんが一人いたの。でもお姉ちゃんは雲に乗ってやってきた悪魔に、青白い毒のクスリを飲まされて死んでしまったの。天国の兵士たちが悪魔に飛びかかったけど敵わなかった。次に天使たちが次々と矢を放った。私は天使から矢を借りて放ったけど、一本目は当たらなかった。二本目、思いを込めて放ったら、矢は見事悪魔の胸に命中。悪魔は死んでしまった。そうしたら兵士の一人が「悪魔の首を切り落としたらどうでしょうか」と言うので、私は「いいんじゃない」と答えた。首を切り離して、高い崖の上から悪魔の首と胴体を落とした。そうやって悪魔を始末したら、悪魔に殺された人はこんどは天使として数日後に生まれ変わってくる。それが天国での約束事なの。でも私はそのあとすぐに生まれて来たから、お姉ちゃんには会えなかった。いまごろきっと、お姉ちゃんは天使になって天国にいるはずよ。

 

 これは足を痛がる直前まで、わたしに話していた「ほんとうのお話」。

 

 

 図書館でノーム・チョムスキー「チョムスキー、世界を語る」(トランスビュー)を借りて来た。

 

 ビジネスで結ばれた共同体(その半分は米国が占めています)が組織し推進している巨大な規模の宣伝工作(プロパガンダ)のために、大衆はいやでも、むりやり害のない目的のほうを向かされているというのが現状です。このビジネスの共同体は、とほうもない資本とエネルギーを注いで、ひとびとを一個の原子のように孤立した----お互いに切り離され、人間らしい生活とはいったいどういうものであるべきかをまるで考えない-----一個の消費者に仕立て上げ、また、従順で使いやすい生産の道具に仕立て上げようとしているのです(もっとも後者は、そのひとたちに仕事にありつくチャンスがあればの話ですが)。

 〔ビジネスの共同体にとって〕重要なのは、人間的なノーマルな感情を圧殺することなのです。なぜなら、人間的感情は、特権階級と権力に仕えるイデオロギー、つまり利己的な利益を至高の人間的価値であるかのようにまつりあげるイデオロギーとまっこうから衝突し、この両者はけっして両立しえないからです。

 PR、広告、グラフィック・アート、映画、テレビ等々の大企業の狙いは、まず、人心を操作することにあります。「人為的欲求」を創りだし、ひとびとが個々バラバラに、めいめい自分の欲求を満たすことに夢中になるようにしむけなければならないのです。こうした企業の経営者たちは、じつに実利主義一点張りのアプローチをとっています。つまり、「ひとびとが、消費というような暮らしのなかの些末事をめざすように、導いてやる必要がある」というわけです。人工的な仕切りを造って、ひとびとをそのなかに囲い込み、他者から切り離して孤立させるのです。

2007.5.20

 

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 今日は一日、玄関ベンチの制作。ルーターやジグソー、彫刻刀でワンポイントの飾り(傘立ての前板に子のリクエストで月と星)の造作と、一部、材を組み立ててクランプで固定する。夕食後、子が学校の宿題を終えるのを待ちながらソファーで「チョムスキー、世界を語る」をめくっているうちにうたた寝をしてしまう。「寒い」と呟くと、子が母親のナイトガウンを押入から出してかぶせてくれる。いつしか、わたしは夢を見ている。夢の中では家族が増えている。死んだ父がいるのだ。おだやかな日常の場面。父は夢を見るといつも出てくる。かつてかれが生きていたとき、わたしはしばしばかれが死んだ夢を見た。こちらで生きているときは夢の中では不在で、こちらで死ぬと夢の中にいる。まるで狭い炬燵の中で、こちらの足が入ったり、あちらの足が出たりしているかのようだ。そのことを思い、わたしは夢の中で、まるでレールが軋むような声を上げてしずかにむせび泣く。電車に轢かれたコインのような心持ちで、声は低く、重く、足を引きずり、途切れることを知らない。そんなとき、意識のこちら側でもう一人のわたしがよく、リチャード・マニュエルの Whispering Pines を歌っている。

2007.5.21

 

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 いま、職場の休憩時間に「高等学校 琉球・沖縄史」(新城 俊昭 ・地方小出版流通センター)という沖縄の高校の教科書を少しづつ読み継いでいる。まるで地球儀に刺した「ニホン」というピンを外して、沖縄に新しいピンを刺したようで、視点が変わる。視点が変わると、世界が変わる。もちろん、ピンは地球の至るところにあって、わたしの粗末な家の中にも「カゾク」という小さなピンが刺さっているわけで、そうすると結局、地球儀は極小のピンで埋め尽くされ、ピンを刺すという行為それ自体が実は無化してしまうのだけれども、それはさておき、この本はとてもいい。「ニホン」という厚顔なピンをそっと押し退ける、やわらかな矜持と静かな明晰さに満ちている。こんなふうに「高等学校 アイヌ史」や「高等学校 蝦夷史」なんかがあってもいい。こんな教科書を読む沖縄の高校生たちは、大江健三郎いわく「文章から主語を隠す、そして受け身の文章にしてツジツマを合わす。そうすることで、文章の意味をあいまいにする」ニホンの教科書を読まされる子どもたちに比べて、どれほど仕合わせだろうか。沖縄の歴史は悲しみと辱めの連続であったけれど、それを語り継ぐ沖縄の学校の教科書はかくも堂々たるものだ。歴史を語り継ぐということは、無数の声なき屍に痛みと共に寄り添うということだろう。地球儀の上に刺したピンは、そうすると、墓標のようなものかも知れない。墓標はやがて朽ちて、土くれとなり、花に成る。花を咲かせる歴史を語り継ぎたい。

2007.5.22

 

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 子が「おれがあいつであいつがおれで」(山中 恒・理論社)を読んでいる。昨日、学校の図書室から「最後の一人になるまでじっくり」選んで借りてきたのだそうだ。(図書室の本は学年毎に色分けされていて、子いわく「字引の次に難しい本」とのこと) 昨夜は家に帰ってから、宿題の合間にこっそり読み、ヴァイオリンの練習を抜け出して寝室で読み、布団の中でも読み継いで、もうページは終わり頃だ。ご存じ、大林宣彦監督作品の映画「転校生」の原作である。(あの頃のデビューしたての小林聡美は可愛かったな。けっして美人ではなく、おぺしゃで、ちょっとボーイッシュで、大変わたしの好みだった) 原作者の山中恒といえば、わたしにとっては何より「ぼくがぼくであること」(岩波書店)で、これは小学生時代のわたしの「トム・ソーヤの冒険」みたいなものか。煎餅を囓りながら何度も読み返し、こんな夏休みの冒険に憧れた。夜の路上に停まっていたトラックの荷台にもぐり込み、着いた先は山間のへんぴな田舎町で、ひょんなことから泊めてもらったぶっきらぼうで実は心優しい頑固爺さんの家に、男勝りで気だてのいい同い年の孫娘がいた。そこにひき逃げ事件や武田信玄の埋蔵金などのストーリーが絡んでくる。逃避行、異界としての山、冒険と少女。おいおい、見事にわたしの原点が揃っているじゃないか。そういう意味では、これは“男の子”の物語なんだろうな。このときの謎めいて、せつなくて、ワクワクするような感覚は、ねっとりとした夏の夜の樹木の匂いや気配にも似て、いまも鮮やかに思い出せる。子どもの時に読んだ本は偉大だ。

 

 

 5/21 月ようび

きょう、わたしは、いつになったら、にっちょくが、くるんだろうとおもって、みんながかえってしまったあと、こっそり、みようとおもって、にっちょくのかみが、つってあるところまでそっとそっとあるいていくと、Nさんが「はやく、きいや!」と、わたしをせかしました。わたしはおこって「あんたこそ、はやく、いきや! みどりか、あかか、わからないけど、とにかく、おくれるで!」と、いいかえしました。Nさんは「はやく!」やら、「もう!」やら、いいながら、へやであしをふんばっています。わたしは、Nさんを、へやのそとにおしだして、ドアをしめて、かぎをかけました。そして、にっちょくのかみをみたら、25にち、わたしなの! うれしいったらありゃしない! そしてスキップをしながらかえりました。

2007.5.23

 

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 夜勤の晩。ひとしきり「チョムスキー、世界を語る」を読んでから仮眠のベッドに横たわったところ(mp3プレイヤーでディランの福音時代音源を聴きながら)、思想統制のされた全体主義国家で幼い娘を連れてあてどない逃避行を続ける夢を見た。郵便局の裏手のマンホールを下っていき、アンダーグラウンドの住民たちに助けられ、ときに子の服を調達してもらったりして、地下世界と地上を行きつ戻りつする夢。単純といえば単純だが、わたしはもともと単純な人間だ。

2007.5.24

 

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しのへ

 みやざわけんじという人が、むかし、学校の先生をしていたとき、せいとだった子どもの中に、ひとり、オルガンをひくのがとてもじょうずな子がいたそうだ。でもその子は、家がとてもびんぼうだったので、もちろんオルガンなんか買ってもらえなかったし、学校をそつぎょうしたら、家のてつだいをしたり、はたらかなくてはならなかった。おんがくをしているひまがなかったんだね。ほかの子どもたちの中には、その子よりオルガンがうまくない子でも、家がお金持ちだったために、次の学校へすすんで、中にはあたらしいオルガンやピアノを買ってもらった子もいた。そんなとき、オルガンがじょうずだった子にむけて、みやざわけんじはこんな「し」をおくったんだ。「きみがいつか、学校でひいてくれたオルガンのねいろは、とても美しくて、わたしをうっとりさせた。きみはいま、はたらくのにいそがしくて、おんがくをやっている時間がないかもしれない。はたらかなくてもいい、ほかの子のことを、うらやましがっているかもしれない。あたらしいピアノを買ってもらった子の家の前をとおるたんびに、なんでわたしだけ・・と、くやしくなるかもしれない。でも、みんながそうやって、らくをしているときに、きみは、はたけをたがやしたり、わらをしばったりして、いっしょうけんめいにはたらく。あせだらけになって、そのくやしさや、さみしさや、まっくろなよごれた手で、おんがくをえんそうする。なに? オルガンがない、だと? きみ、わすれてはいけない。きみはわたしの、だいじな、でし、なんだ。そんなときは、ひろい草はらの、そらの上いっぱいににひろがった、光のパイプ・オルガンをひきなさい」とね。ほんとうの、おんがくというのは、そういうものだよ、紫乃。

 ひとつのことを、がんばって、やりつづけることは、たいへんなことだ。でも、がんばってやりつづけたら、それはその人の、だいじなちからになる。じぶんは、これだけはまけない、という心のささえになる。あれこれ、いろんなことをして、どれも、とちゅうでやめてしまう子は、けっきょく、そんなものがひとつもない、かわいそうな子だ。しょくぶつでも、土の中から、めを出して、はっぱをふやし、くきをどんどんのばし、ひとつの花をさかせるまでは、おまえには見えないかもしれないけれど、土の中で、はっぱの中で、くきの中で、いつも、いっしょうけんめい、がんばっている。土の中から、水をすいあげ、えいようをすいあげ、お日さまのひかりをたっぷりうけて、たいふうや、つよいかぜや、むしや、とりたちに、まけないように、つよくならなくちゃ、花をさかせることは、できない。あきらめたり、なまけたり、がんばれない、よわいしょくぶつは、かれて、ちゃいろのしわくちゃになって、ひとつの花もさかせることができないまま、土の中に、とけて、きえていってしまう。おまえが家のベランダや、こうえんや、山で見る、たくさんのきれいな花たちは、あれはみんな、さいごまで、がんばることができた、しょくぶつたちなんだ。がんばれずに、かれてしまったしょくぶつたちは、土の中で、泣いている。きれいな花を、たったひとつでも、さかせたかったなあ、と思いながら。

 おまえは、本をよむのがだいすきだし、えをかくことも、おはなしをかくことも、べんきょうをすることも、なにかをつくることも、どれもみんな、とてもじょうずだ。おまえが、これから、どんな花をさかせるのかは、だれにもわからないし、おまえにしか、わからない。どんな花をさかせなさい、とは、お父さんもお母さんも、おまえに言ったりはしない。おまえの、好きな花を、さかせなさい。好きな花を、じぶんで、見つけなさい。だけどその花は、だれかに、かんたんにもらったり、お金を出して買ったり、ねころがってながめたり、ぶらぶらして、ひろったりしたものじゃなくて、じぶんでがんばって、しんどいときでもせわをして、いっしょうけんめいそだてる花を見つけなさい。そういう花だけが、かなしいとき、ひとりぼっちのときに、おまえのたすけに、なってくれる。がんばってそだてた花だけが、おまえのちからになる。そんな花を見つけたら、とちゅうで、すててしまったりせずに、さいごまで、だいじにしなさい。そういう花を、じぶんで、見つけなさい。さいごに、土の中で泣かないように、きれいな花をさかせるために、まいにち、じぶんができることを、かんがえなさい。

お父さんより

 

2007.5.25

 

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 モリスンの Celtic New Year を聴いていると、じぶんには還っていく場所があるのだと思える。ここではない、どこか。それをときに静かな、まったき孤独な時間の内にいて、切実に感じる。それはわたしの逃避の末の哀れな幻想なのか。それともユングふうに云うならば、集合的無意識が放った危機的な矢か。あるいはそれを“神の領土”とある人は呼ぶのか。わたしには分からないが、ひとつだけ確かなのは、わたしが生きたいのはこんな世界じゃないという叫びが、わたしの中に常に存在するという事実だ。わたしが在りたいのはこんな世界ではない。わたしが還っていく場所でもない。いや、わたしがほんとうに還っていく場所を、世界は教えてはくれない。ではそれはどんな世界なのかと問われて、わたしはイヌイットやアイヌらの神話にそれを夢見たり、縄文のなれの果ての人々の苦難にそのまつろわぬ格闘の痕跡を求めたりする。それはときに、純白な氷の世界を飛翔するワタリガラスの魂であったり、人知れぬ山中のかったい道をとぼとぼと辿るさみしいサンカの一団であったりする。とにかく、このわたしにはいつも、いわく云いようのない、拭いがたい違和感が存在して、それはときに切迫した、喩えるなら魂が(もしそれが在るのだとしたら、だが)危機的な水位に晒されて沈みゆくような、そんな焦燥感に囚われるのだ。それがわたしをして希求せしめる。ここではない、どこか。わたしがほんとうに還っていく場所を教えてくれる世界を。わたしは、それが、あると信ずる。理屈でなく、理論でなく、感情ですらない、心の内に希求する力がこれほど強いのであれば、赤子の頃に生き別れた見知らぬ双子の兄弟姉妹を探す者のように、対応する“かたわれ”がこの世界のどこかにきっとあるはずだ。わたしの心とて、そうした、いわば世界の構成物質を成り立たせている法則から無縁なわけではないだろう。モリスンの Celtic New Year は、きっとそのことを歌っている。それの神秘について。不思議について。かつてレノンが Working Class Hero で歌ったように、わたしは“日常の些末事だけに囚われて、消費と快楽とに踊り明かして骸となる”ような愚か者にはなりたくない。わたしはそのために生まれて来たわけではない。わたしの(驢馬のように哀れな)魂は、もっと深みへ、もっと近くへ、と呼んでいる。

2007.5.26

 

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 昨夜、風呂の中で子にふたつの話をする。ひとつは「ことばは“道具”である。正しく使えばいいモノをつくることができるが、悪いことに使うこともできる」という話。もうひとつはわたしが小学生の頃に死んだ祖父の遺体を焼いた火葬場を、後日にひとり自転車で再訪し、煙突の煙を眺めていた話。

 昨日は休日でほぼ一日、玄関ベンチ(ベンチ+靴収納+傘立て)の最終仕上げと組み立て。今日の早朝に最後のベンチ部の板数枚を釘打ちして完成。ベンチ部はたぶんYが観葉植物などを置くのだろうが、いちおう大人が座っても耐えられるよう、今回はホゾ穴を多用して材同士をがっちり組み、最終段階で座板を支える幕板を急遽ひとつ増やした。ベンチ部下は靴収納の空間で、わたしのバイク・ブーツやYのブーツなども置けるよう下段は若干高くとってある。傘立て部の下には水受けに、百円均一の店で見つけたちょうどピッタリのプラスティック製トレイを設置する。三つの用途が混在し、Yの指定で寸法も制限されていたから、設計段階がいちばん難儀したかな。ホゾを多用したため、ホゾ同士が脚材の内部でバッティングするという誤算も発生し、ホゾ穴の中でさらにふたつのホゾが組み合わさる「三枚組み継ぎ」もはじめて経験した。塗装はYと子の担当だが、今回は“傘立て”でもあるため、防水仕様の一般のペンキを使う予定でいる。

 朝、子を送ってから、Yと車ででかける。薬局と保健所、これは子の病気関係。それから近所のショッピングセンターで玄関ベンチの塗料や花の肥料を買い、食料品を買って帰る。昼はわたしが奈良産しめじを加えたトマトクリームソースのパスタをつくる。夜勤のため、子の迎えはYに任せて夕方まで寝ておく。これから久しぶりに子のヴァイオリン教室につきあい、夕食を食べて出勤。明日の昼前まで。

 ここ数日の愛聴盤。某氏より頂いた Eliza GilkysonHard Times in Babylon というアルバム(2000年作品)。サウンドはフォーク調だが、曲作りにはどこかニール・ヤングやトム・ウェイツなどの臭みを感じる。ときにブルージーで、しっとりと聞かせるアルバム。いちばんの名曲は幼子への愛情を歌ったアメリカ版“童神”たる "Baby's Waking" で、これは某氏の名和訳がある(山村暮鳥ぢゃないよ)。

 子の脂肪腫の手術を二度もしてくれたY先生が「子どもの脳」についての本を出した。昨日、子のおしっこの検査に行ってきたYが先生から教えてもらい、大阪の本屋で買って帰ってきた。「子どもの脳を守る―小児脳神経外科医の報告」 (山崎麻美・集英社新書)

2007.5.29

 

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 夜勤明けで土砂降りの中を昼に帰宅。熱いシャワーを浴び、昼食を済ませて、新聞を読んでから小一時間ほどソファーで寝て、子を迎えに行く。夕方まで、ベランダで子と完成した玄関ベンチを塗る。水性塗料の、色はアイボリー。「わたしにまかせて」とわたしから刷毛を奪い取り、ほとんどを子が塗ってしまった。わたしは塗り残しのすみっこや最後の仕上げだけ。夕食はかつおのたたき。食後にNHK教育で地球ドラマチック「取り残される子どもたち〜ザンビア エイズの悲劇〜」なる番組を家族三人で見る。

2007.5.30

 

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 ぼくは蜘蛛のシャーロット。いちども獲物を捕らえたことのない間抜けな蜘蛛だった。そんなぼくの網にきみは見事にひっかかった。これまでお目にかかったことのない極上の獲物だぞ、とぼくは思ったものだ。その極上の獲物であったきみは今夜、ぼくの腕の下で白魚のような裸を折り曲げてくすくすと笑っている。きみの胸の上の小さな木の実。新緑の草原を撫でる風のような肌の心地。森の奥の秘めた泉。パブロなら、どんなソネットを書いただろうな。「あらゆるものは おれの魂でみちているので いろんなものからおまえは浮かびでてくる おれの魂でみちて」 そんなふうにうたうだろうか。夢の蝶よ。ぼくらの魂は似ているか? メランコリーということばにも? きみはぼくの腕の下でくすくすと笑っている。ぼくが懸命に忙しく、きみの中を出たり入ったりしているときに。ボブ・ディランがうたっていたな。「もういちど子どものころに戻れるよ お父さんの膝の上にのったときのように」 きみの父親はきみにどんなことばを残したのだろうか。小さな少女だったきみに。「網にひっかかるときは気をつけなさい。とくに間抜けな奴の網にはな」 そんなふうにきみに教えただろうか。ぼくらはべつべつに生まれてべつべつに死んでいくのに、今夜はまるで融けて交わる原初の細胞のようだ。きみはぼくの腕の下でくすくすと笑っている。まるで子どものように、女のように、風に翻る木の葉のように。

 

おれは坑道のように孤独だった 鳥たちはおれから飛び去り
夜は強引に おれの中に押し入ってきた
おれは生きのびるために 武器のようにおまえを捏造したのだ
おれの弓にあてがう矢のように 投石器の石のように

 

パブロ・ネルーダ「二十の愛の詩と一つの絶望の歌」

 

2007.5.31

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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