■日々是ゴム消し Log41 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 金曜。午前、「Straight To Hell」のビデオ。夕方、アカチャンホンポで幼稚園の上履きを買い、夕食は重の井(http://www.sigenoi.com/)。さだまさしや鈴木京香が食べに来るというのはどうでもいいが、とにかくここの釜揚げうどんは絶品。店の雰囲気もよろし。夜はチビと二人で大門湯、背中の唐獅子牡丹に感嘆す。

 土曜。午前、つれあいと二人で奈良ファミリー。つれあいは秋物衣類数点、私は本屋でレコード・コレクターズのキンクス特集(10月号 @600)と「覇権か、生存か アメリカの世界戦略と人類の未来」ノーム・チョムスキー・鈴木主悦訳(集英社新書・@998)。午後、チビはプールの定期テストに合格して“めだか”のワッペンを貰ってきた。

2004.10.2

 

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 土日の交通隊(外周の車輌誘導)にアルバイトで入っているMくんは、某大学の院生で考古学を専攻しているハンサム・ガイだ。土曜の深夜の防災センター。「ちょっとPCをお借りしていいですか?」とMくんが開いたのは、かれのもうひとつのバイト先である奈良文化財研究所のホームページ(http://www.nabunken.go.jp/Open/mokkan/mokkan2.html)だった。Mくんはそこで木簡の解読をしているのである。隣から覗き込みあれこれとぶつける私の質問にMくんは画面を示しながら丁寧に答えてくれる。木簡はその形状や書式を見るだけで地域や書かれた内容(貢ぎ物の発送品)が分かること。奈良時代では北は多賀城跡のある仙台から南は鹿児島まで至ること。「この木簡は半分に折られてますね。上には役職が記されていて、おそらく欠けた下半分には名前が書いてあったはずです。裏にはこの人の昇級審査のための一年間の成績がまたべつの人の筆で書いてある。半分に折ったのは効力を失効させるためなんです」 死や葬送に関する記述があるものはないかと問うと、古い時代にはそうしたものはあまり見られないと言う。絵馬や呪符といった木板自体にあるメンタルな価値を託すようになったのは室町後期から中世あたりにかけてから出現する。ただ古代からもはっきりと、たんなるいたずら書きではなく丁寧に書かれているのだが、何を書いてあるのかそれが文字であるのかどうかさえさっぱり分からないという解読不可能な木簡も多数存在している。あるいはそのあたりに面白い謎がひそんでいるのかも知れない、とこれは私が言ったのだけれど。Mくんが特に好きなのは奈良市の旧そごう跡で、いまはイトーヨーカドーが建っている場所にあった長屋王の邸跡から出土した遺跡だという。ここからは多数の木簡が出て、そこから当時の人々の暮らしぶりが鮮やかに再現される。「ただ歴史家の網野さんが、現代の我々が感覚的に理解できるのはせいぜい中世までで、その先の古代人の感覚というのはまったく別物だと言っていたように、木簡を読んでいてどうしても理解できない、なんでこんなふうに考えるんだろうとさっぱりついていけない部分というのはありますね」とMくんは言うのである。私はMくんにいくつかのかれのお薦めの歴史・考古学書を教えてもらい(湯浅泰雄「日本古代の精神世界―歴史心理学的研究の挑戦」、和田萃「飛鳥 歴史と風土を歩く」、鬼頭清明「木簡の社会史」、東野治之「木簡の語る日本古代史」、網野善彦「日本中世の非農業民と天皇」「日本の歴史をよみなおす」)、それから話は数年前に惜しくも亡くなった網野善彦黒田日出男といったスリリングな研究書の話題になり、折口信夫や赤坂憲雄の話になり、部落差別や天皇制の話になり、はては明恵やMくんも好きだというユングにまで発展し、おや気がつけばもう明け方の4時近いじゃないか。Mくんは明日の日曜も朝から交通隊で、私も6時までの仮眠時間の後は夜中の11時までぶっとおしの勤務がある。もう寝ようと最近営業所で買ってもらった簡易ベッドに横たわってからしばらくも、さざ波のようなやわらかな興奮に包まれてなかなか眠れないのだった。

2004.10.3

 

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 某日。以前、子どもとおなじ身障児の養護所に通っていたKちゃんとお母さんが訪ねてきた。Kちゃんはうちのチビとおなじ二分脊椎だが、症状はやや重く、装具をつけて何とかつかまり立ちができるくらいで、下の子もいっしょだったので団地の階段は私がKちゃんをおぶってあがった。快活で人見知りしないKちゃんは息をすうはあすうはあさせて大人しく私の背中につかまっていた。最近、Kちゃんちの意向でチビが通っているスイミング・スクールを紹介したのだが、感覚のない足が傷つくのを避けるためにプール・サイドでも靴下を履かせたいというお母さんの話に、スイミング・スクール側は難色を示したという。障害者が多いというイメージができあがると一般の客が逃げてしまう。はっきりと言うわけではないがいつもの遠回しな物言いで、そんなことを言われた、と言う。それじゃあうちの子だっていっしょじゃないか。色めく私にKちゃんのお母さんは、うちに迷惑をかけても悪いから仕方がないと今回は諦めるつもりだと言う。それにもし立場が逆だったら、わたしも絶対におなじ反応を示さないとは言い切れない。Kちゃんのお母さんは、そう、言うのである。結局、スイミング・スクールも慈善事業じゃないのだから客が入ってナンボの世界だ。ほんとうに問題なのは、それを底辺で支えている一般客の無言の価値観のようなものだ。そんな結論で話は終わったのだが、私の気持ちはいまだ腑に落ちない。Kちゃんのお母さんは今回、日本二分脊椎協会が主催する「教育相談会」なる専門医による講演会の情報をもってきてくれた。来月の上旬。会場はうちのチビが通っている国立大阪の病院で、チビを診てもらっている先生方も出席されるので、私も休みをとって参加するつもり。

 

 

 某日。おなじ職場でビルメンテナンスを担当している天才ギタリストのKさんから、これは私の発注で労をとってくれたのだが、ポーグスの Dirty Old Town をロック調にアレンジして録音したバック・トラックのMP3ファイルを頂いた。

 

■アレンジとサウンドについて

曲のテンポはポーグスのに比べて若干速くなってますがリズムのノリからするとずいぶん速いように聞こえるかもしれません。因みにテンポは 130 です。

アレンジは聞いていただくと解るのですが、要はビートロック風になってます。ポーグスのと比べると曲長が短くなってます。

3番目の歌詞の部分でポーグス風のギターカッティングをバックに歌えるようになっており、その後は4番目の歌詞があってENDです。

サウンドについてですが、ドラムは色々悩んだあげくリズムボックスにある生に近いドラム音を選びました。またドラムプログラムでは機械的なリズムになるのを避ける為に自動修正機能をOFFにして実際自分が手でパッド叩いてデータを記録したもので、若干、人為的に聞こえるようになってます。

ベースはコンプレッサーとディレイを使ってエフェクターから直に録りました。

サンプルのギターは、オーバードライブとコンプレッサーとディレイを使ってこれもエフェクターから直に録りました。オーバードライブはごく少量掛けただけです。

 

 あとはこれに私のサイド・ギターとボーカル、Kさんのリード・ギターを入れたら完成で、近日、キング・ビスケット・タイムにも出演予定である。それともうひとつ、B面曲として森山良子「さとうきび畑」のパンク・バージョンを考えている。

 

 

 某日。また夜勤の晩に交通隊のMくんと明け方まで歴史論議をしてしまった。発端は橿原神宮のそばにある大正時代に強制移住を強いられた被差別部落の話(ゴム消し24 2002.6.12の項を参照)である。奈良時代の皇親(天皇とその一族)を専門としているMくんは洞村のことを知らなかったと強い興味を示してくれた。学会のある種おたく的な閉鎖性。頑なな実証主義。中世と古代では論文の基礎からして大きな乖離があり互いに理解できない。たとえば古代の天皇制度を研究している者がそれに絡めて部落問題に触れたりすると「きみは近代をやったほうがいいね」などと言われてしまう。だってさ、大昔の木簡や何やらをこつこつと調べて昔はこうでしたって言ったって、それがいま現在に生きているじぶんに還元されないんだったら、で、それがどうしたの? って、それで終わっちゃうんじゃないの。ぼくとしては発掘や研究の最先端にいる人たちに、希望を言えば天皇制だとか部落差別だとかに対する問題意識をもっと持って欲しいわけよ。いじわるな物言いだったかも知れないが、私はMくんにそんなことを言った。それを言われると辛いんですよ、○○さん、ぼくはほんとうに辛いなぁ。そんなふうに言っていたMくんは今日あたりおおくぼまちづくり館をきっと訪ねている頃だろう。彼はさいごに、じぶんをいまの研究に導いたある尊敬する歴史学者の話をしてくれた。異端であることを恐れずに、硬い研究書のあとがきにマイルスやコルトレーンの名前を記す学者。その本人からもらった励ましのメールをプリンアウトした紙きれを、Mくんはいつもポケットに入れて持ち歩いているという。過日、図書館でMくんお薦めの和田萃「飛鳥 歴史と風土を歩く」(岩波新書)を借りて読みはじめた。また飛鳥川の上流をぶらぶらと歩きに行きたくなるような好著だ。明日香風に吹かれながら。

 

 

 幼稚園からチビの導尿に使う脱脂綿の消毒液が乾いてしまったと電話がきて、消毒液をもってジェベルを走らせる。つれあいに似たのか、チビは何をするにも概してのんびり屋だ。Tちゃんという子が幼稚園でそんなとき、片付けなどを手伝ってくれるそうだ。そのTちゃんが最近、母親に「シノちゃんは走るのがおそいって言ってる子がいる」と言ったという。ぼちぼち、そんなことも始まっていくのだろう。本人もきっともう、そんなことばを向けられることもあるのだろう。家では言わないけれど。でも山や野原に行けば、彼女はとても嬉しそうに走る。愉快でたまらないみたいに。時間が伸びたり縮んだりするのとおんなじで、彼女は流れ星よりはやく走れる。

2004.10.12

 

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 amazon.co.jp より注文していた本2冊が届く。鬼頭清明「木簡の社会史 天平人の日常生活」(講談社学術文庫 @900)、ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫 @760)。最近、本屋で本を探さなくなった。探しても徒労に終わることが多く、疲れてしまうからだ。昨日は同じ職場で働くビルメンテナンスのSさんから広島土産の紅葉饅頭を頂いた。過日の台風で大破した宮島・厳島神社へ行ってきたそうだ。「壊れたと聞くと見に行くんですよ。だからふつうとはちがう旅行ばかり」とSさんは苦笑い。休日アポロを読んでほっとする。チビは久しぶりに借りてきたナウシカのDVDばかり。私はいい作品だから買ってやったらと言うのだが、つれあいは本を読まなくなると購入には反対なのだ。母親とレンタル屋へいくとき「お母さん、ナウシカはちょっと怖いからみんな借りないでいるからきっとあるよ」 あさっては幼稚園の運動会だ。和歌山のおじいちゃん・おばあちゃんの他、関東から私の母と妹も集結して、しばらく賑やかになる。Kさんより借りたグラハム・ボンドの怪しげな60年代サウンドを聴く。なかなかよい。昼は職場でレイ・デイヴィスの苦い独白を、夜中は風呂に浸かりながら飛鳥の古代史を愉しむ。来月は久しぶり(4〜5年ぶり)に一泊の家族旅行にでも行こうかと真夜中の夕食を食べながらつれあいと話す。湖が見たいとチビは言っていたから湖北あたりの国民宿舎へ泊まろうかなどとあれこれ。朝、幼稚園のバス停に置き去りになっていた子どもの蹴り乗りするボード自転車のようなのにジンちゃんが乗って「シノちゃんはむずかしいからのれないよ」と宣った。チビははじめ大人しく聞いていたが、やがて「できるもん」と反論した。ジンちゃんがあんまり何度も言うので、つれあいは腹が立って「よし、これを買って乗れるようになってやる」と思ったそうだ。今日はこれからつれあいと西友で買い物、ユニクロへ二人の服を見に行く。「じぶんのパラノイアを信じることだ。それだけがお前を救ってくれる」とレイ・デイヴィスが書いていた。おれもそう思うね。

2004.10.14

 

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 Amazon.co.jp より新城俊昭「高等学校 琉球・沖縄史」(編集工房・東洋企画 @1,575)と 岡本太郎「沖縄文化論―忘れられた日本」(中央公論社文庫 @720)が届く。

 

 今日は運動会。役員準備のつれあいと席取りの義父母の一陣を送ってから、チビと二人で昨夜奈良のホテルに泊まった私の母と妹を駅まで迎えに向かう。カーステのスイッチをひねるとビートルズの I Follow The Sun が流れ出す。抜けるような青さの秋晴れ。駅前で車を停めておしっことうんこをとる。母と妹を乗せて矢田丘陵の麓の会場へ。矢田山の緑に抱かれただだっ広いグランドのむこうに奈良盆地と若草山の稜線が蒼くかすんでみえる。まっしろな空中庭園のようだ。桃の実のようなピンクのサンバイザーを被ったつれあいはあちこち動き回ったり他の役員のお母さんたちと並んで談笑したりしている。妹はチビとダンス、私は玉ころがし、母は玉割り。最後は教会の音楽で散会。「どんなときもイエズスさまがいちばん」というその歌をチビは駐車場の車のところまで歌い続けた。みんなで海鮮料理の昼を食べて帰ってから、夜勤明けの私はすこし昼寝。夜、奈良市内のホテルへもどる母と妹を送った帰りのカーステは、ビートルズのファースト・アルバム。三条大路を走らせながら、なぜだか夢のような心地になり、サウンドについて考える。この頃のビートルズは、硬い蕾がふくらみはじめたような予感に満ちている。だれでもいつでもその場所に立ち還れる。きっとはじめての運動会みたいなその場所に。

2004.10.16

 

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 運動会の翌日は母と妹を乗せて三重県名張市の赤目四十八滝へ。入り口付近は俗化したありきたりな観光地という感じ。駐車料金800円を払い、散策路のはじまりに入山料一人300円をまた払う。はいってすぐに日本サンショウウオセンターという鄙びたミニ水族館のような建物があって、これはけっこう愉しめた。儚い弱肉強食の進化論を嗤いながら全長1メートルものオオサンショウウオと谷間でひっそりと暮らすというのはどうだい。前日に続いての見事な快晴で、紅葉にはまだ早いけれど、渓流沿いの狭い散策路は人が溢れてちょっとうんざりするくらいだった。バーゲンの百貨店と変わらない。ただ手つかずの川のうつくしさは素敵だったね。流木も砂も岩床も自然のままという感じでうっとりとした。かなりアップダウンがあるので、チビの足では全コースの3分の1も行けなかったけれど、途中の岩盤の上にレジャーシートを敷き朝、豆パン屋で買ってきたパンをひろげて昼食。私はつれあいの膝枕で川のせせらぎを聴きながらしばらく眠ってしまった。夢で見たような幸福感だ。レイ・デイヴィスがパラノイアの束の間に味わったそれのような。目を覚ますとチビは妹と二人で岩盤の横手の砂地に「畑」をつくっていた。葉っぱを2,3枚、母に結んでもらい、それを苗のように砂地に植えていくのだ。谷間のちいさな砂地はメイとサツキがトトロのみやげでつくったドングリ畑のようになった。それからチビと二人で平たい石を集めてきてダルマさん落としのような遊びをしたり。3時頃に引きあげ。帰り道は迂回路の閑かな尾根道をまわったのでチビはいつもの調子を取り戻し自由に闊歩している。人が大勢行き交う狭い散策路では後からせっつかれたり、自由に立ち止まれなかったりで、窮屈な思いだったのだ。帰りの駐車場近くのみやげ物屋でつれあいは、以前にひとにもらったという紅葉の天ぷらを買った。冷めると花林糖のような味で、紅葉の葉の筋がすこし口に残るのはこれも風情か。帰路は途中で立ち寄った国道沿いの道の駅“宇陀路 室生”の片隅にひっそりと建っていた地元出身の彫刻家・井上武吉のモニュメント「my sky hole 地上への瞑想 室生」がちょっと面白かった。

 

 この瞑想の空間へは、薄暗い円形の地下回廊を、天空から差し込む光を求めて静かに降りて行くと、地下の中心に入る。そこには供物をのせる祭式のテーブルがあり、天空からの光を反射している。その静寂な空間には、地球の鼓動が遠くから聞える。

 地上のエントランスにあたる半円形広場の中心に、表素を限りなく磨いた球体彫刻がある。たえず周囲360°すべてを映し取り、球体自らの存在を消すことで風景に穴をあけてしまう。地球をまるごと映し、世界をのみこんでしまう穴だ。球体の前に立つと、見ている自分の姿が必ず中心に映り、その中に入ったら、そこは鏡に映したように心の中がいきいきと見えるような、無限大にして無限小の世界である。それが天をのぞく穴 my sky hole だ。ここでは、室生村を中心に世界を見る鏡となる。

 円形広場から、地下への入り口の両サイドにある階段をのぼって行くと、光あふれる方形の石の座の広場があって、広場の中心には、座の陽を集光させて地下に光を注ぐテーブルがある。その周囲には5つの椅子が用意されている。また東側には2本の木の柱があって、太陽の道を明示してたっている。

 このモニュメントは以上のように「鏡面の球体彫刻がある円形広場」、「地下の瞑想空間」、「天柱と天空のテーブルのある方形の石の座の広場」に合わせて、「大樹のある階段広場」、「芝生の斜面 広場」、「常緑樹の並木」により構成している。

(入り口にあった作家自身による解説・一部抜粋)

 

 「地下の瞑想空間」なる場所へ入って息を凝らしていると、まるで「惑星ソラリス」や「2001年宇宙の旅」といった映画の場面にじぶんが迷い込んだような錯覚を覚える。ひんやりと冷たい石のように無機質だが、意識は深く目覚めていて、賢者の石のような謎に充ちている。宇宙意識とでもいったようなもの。種や生命といった枠組みさえ超えた、そのような意識を持つことが人にはときに必要であり、それらの感覚を理屈ではなく五感で体験させてくれるこのような仕掛けが、山あいの鄙びたドライブウェイの片隅にまるで爆弾のようにこっそりと置かれている光景が何やら好ましい。混み合ってきた日曜日の夕刻の国道を、途中で藤原京の幻なぞを横目で見たりしながら、妹のリクエストで私の職場である某ショッピングセンターへ。雑貨の店などをいくつか回り、さる和食処で夕食。自分がふだん働いている店に客として来るのは何やら気恥ずかしくて落ち着かないね。母と妹を最寄りの駅に送り、家に帰ったのが10時半。連日の活躍でチビはおばあちゃんたちにさよならを言う間もなく車の中で寝入ってしまった。

2004.10.19

 

*

 

 BBSにも転載したが、友人のEちゃんから先日届いたメールを紹介しておく。

 

○○です。久しぶりですね。

いかがお過ごしですか?

○○さんもしのちゃんも、お元気ですか。

わたしは、ただただ忙しかった時期を終わり、今は、ペースダウンして活動をしてます。

別に体調が悪いとかではありませんが、ちょっと余裕を持って、日々の暮らしを楽しもうと思ったので、仕事を意識的に減らしてみました。

やったら、できるもんですね。週に2日から3日は休めるようになりました。

 

さて、先日、携帯メールでお伝えしたデモについて、お知らせします。

これからの障害者福祉の方向性を決める重要なデモになります。ぜひ、参加してください。

 

----- Original Message -----

From: "自立生活センターリングリング" <ring-ring-kobe@nifty.com>
To: "HYOGON" <hyogon@freeml.com>
Sent: Thursday, October 14, 2004 11:45 AM
Subject: [hyogon:0866] 介護保険反対のデモをします!

 

 自立生活センターリングリングです。

 今、障害者施策は深刻な状況を迎えています。国会では「支援費の長時間介助の包括払い案」や「介護保険との統合問題」への議論が進められています。

 このままでは、障害当事者の意見や生活を無視して、介助サービスの大幅な削減や変更が行われてしまいます。

 そこで、介護保険との統合反対のアピールをしようと言うことで、東京の厚生労働省前と大阪の御堂筋で大規模なデモをやります!!東京では障害者団体や個人、感心がある人などが全国から3000人が、大阪では1000人くらいが集まる予定です。みなさん、他人事ではなく、周りの家族・友人・大切な人たちにデモの参加を呼びかけて、自ら行動を起こし、国に私達の声を届けましょう!誰もが安心して生きられる社会を作るために、ともに行動しましょう。

 

●東京厚生労働省前抗議行動

日程 10月20日(水) 12:00から

場所 厚生労働省周辺 *詳しい集合場所等はまだ決まっていません。

 

●大阪御堂筋デモ行進

日程 11月3日(水)祝日 12:00〜17:00

場所 扇町公園集合 (昼食は済ませてきて下さい)

12:00 集会

13:00 デモ行進スタート

16:00 なにわ区役所 または なにわ公園(変更の場合あり)

17:00 まとめの集会

 

 扇町公園の最寄り駅はJR天満駅ですが、階段しかありません。地下鉄もありますが、エレベーターが車いすで大渋滞になると思いますので、大阪駅(梅田)から歩いて行った方が良いと思います。東通りを通って徒歩20分位です。

 関西の有志の団体が集まって企画したことなので、当日志を持った人たちがそれぞれで参加して欲しいのですが、リングリングでは大阪駅御堂筋口前(イカリスーパー、デリカフェのところ)に11:20に集合していきます。もし、場所がわからない等で一緒に参加されたい方がありましたら、リングリングまでご一報下さい。

 当日はプラカードや横断幕などを作ってきて、それぞれ自分の気持ちをアピールしましょう! また寒さ対策などもしてきて下さい。雨天決行です。

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自立生活センターリングリング
電話・FAX  078-578-7358
e-mail : ring-ring-kobe@nifty.com
HP : http://homepage3.nifty.com/ringring/

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さっきのメールの続きです。

----- Original Message -----
From: "自立生活センターリングリング" <ring-ring-kobe@nifty.com>
To: "HYOGON" <hyogon@freeml.com>
Sent: Thursday, October 14, 2004 11:45 AM
Subject: [hyogon:0867] 介護保険と包括払いに関する解説です。

 

 デモに関する情報の追加です。

 デモのテーマである、「介護保険との統合」「包括払いの反対」とはどういうことなのでしょうか。解説を付けましたので読んでみて下さい。

 

◎ 長時間介助の包括払い案ってなんだ??

 例えば今現在、支援費で一日20時間の制度がとれている人がいるとします。その場合、現在の制度では一日20時間×一ヶ月31日の計算で国から介助料が支給されています。それは一日15時間制度がとれている人も、一日24時間制度がとれている人も同じで、時間数×使った日数分の介助料が支給されるしくみになっています。

 ところが、包括払いになると、ある程度の時間数を超えて制度がでている人に対しては、一定の金額しか支給されなくなります。たとえば『一日10時間以上制度が取れている人は、ひと月50万円の支給』と決定されると、一日24時間の制度をとっている人も、20時間の人も、15時間の人も、10時間の人も、全てひっくるめて同じ50万円が支給されることになります。

 まだ、何時間以上が包括払いの対象になるのかも、支給される金額もわかりませんが、現在支給されている金額より大幅に減るのは確実で、半分以下になってしまう・・・ということも充分に考えられることです。

 さて、「包括払い」になると、私たちにどういった影響がでてくるのでしょうか。

 

◎ 障害者にとって・・・

・ 24時間介助が必要でも、介助料が24時間分支給されなくなる。

・ 支給額が減っても、必要な時間数の介助派遣をやるという事業所を探すのがたいへん。

・ 安定した有料介助者から介助を受けることができなくなる。

・ 障害をもっていてもあたりまえに生きていい!というメッセージが国からうけとれない。

・ 今後自立生活を始めようとしようとしても、介助料がおりない→事業所が見つからない→介助者がつかない・・・などあきらめざるをえない要素ばかり。

 

◎ 介助者にとって・・・

・ 障害者に支給されている介助料からお給料が出ている介助者にとって、支給額が減ることはお給料が減るということ。もしくは人員削減により職を失う。

・ 介助の仕事が出来なくなる。

・ 今まで支えてきた障害者の自立生活が崩壊する。

 

◎ その他・・・

・ 介助料が支給されないのがわかっていて、長時間の介助派遣をやる事業所がなくなる。

・ それでも障害者の自立生活を支えるため、長時間の派遣をやりたいと思っている事業  所の経営が成り立たなくなる。

・ 国の福祉制度がどんどん後退する。

・NPO法人などの小さな事業所の場合、経営はよけいに苦しくなる。

 

 以上が包括に関する説明です。

 次に介護保険についてです。現在の支援費制度と介護保険ではどのように違うのでしょうか。

 

◎自立の考え方

(介護保険制)
介助サービスを利用しないことが自立の目標とされ、主に身体的に自分が動けるかどうかで自立の度合いが判定される。現存機能の活用、寝たきりにならない、介護予防などに象徴されます。

(支援費制度)
介助は必要であるということを前提に自分の暮らし方を自分で決めていくことを自立と考える。(障害は治らないから障害なのです)

 

◎介助の保障

(介護保険制度)
ホームヘルプ上限 1日3時間まで。

(支援費制度)
上限なし。(地域により格差はあるが24時間の介助保障を得て暮らしている人もいる。)  

 

◎負担金

(介護保険制度)
サービスに対して一割の負担。1日3時間利用の場合、月3万円以上の負担。介助が増えると負担も増える。)

(支援費制度)
本人、もしくは子ども・配偶者の収入に応じて負担額が決まる。(親の収入とは関係ない。低所得で暮らす人は払う必要がない。)

 

◎決定権

(介護保険制度)
介助の組み方、必要度など福祉・医療の専門家といわれるケア・マネージャー、医師との相談によって決められる。

(支援費制度)
全て本人が決定する。

 

◎福祉用具

(介護保険制度)
車椅子やその他の福祉用具は既製品のレンタルのみ。(一割負担あり)

(支援費制度)
(障害者の場合、支援費外の制度として)自分の身体に合うものがオーダーメイドできる。

 

◎介助の資格

(介護保険制度)
資格取得に長期間かつ、10万円前後の費用がかかる1〜3級のホームヘルパー有資格者に限る。

(支援費制度)
20〜22時間の研修を受ければ介助が始められる。

 

 この表の比較でも明らかなように、介護保険制度と支援費制度には違いがたくさんあります。上記の介助保障「上限1日3時間」に対して国は、「現時点で介助時間が足りない障害者へは支援費による補助を行う」と提案していますが、ではこの先、施設から出て地域で自立生活をしたいと考えてる障害者や在宅で親が亡くなり急に24時間の介助が必要になった場合はどうなるのでしょう? このような疑問や不安の声を現在も多くの障害者があげていますが、それらへの明確な回答を国はしていません。

 そもそも「介助」は、必要が生じたときに必要なだけ保障されなければ障害者は生きていくこは出来ません。それを国は、財源不足を理由に当事者たちの意見や生活を無視して介助サービスの大幅な削減や制度の変更を行おうとしています。このような私たち国民を無視した強引な国のやり方を見逃せば、全ての人が政治の都合で生活が 変えられ、決められる社会になるのではないでしょうか。

 以上が介護保険との統合問題、包括払いに関する説明です。ご参考にして下さい。

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自立生活センターリングリング
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全国障害者介護制度情報 > 厚生省、障害福祉施策を大改定案、法改正目指す http://www.kaigoseido.net/singi/syogai/ver18.htm

 

 

 

2004.10.21

*

 

 日曜。団地の公園の共同草刈りを終え簡単な昼食を済ましごろごろしているとチビが訊く。お父さんは今日はお仕事、お休み? そうだよ、と答えると目を輝かして言う。山、行こうか? いつもの矢田丘陵の人気のない山道を二人で登っていく。世界はこの一瞬だけ、ほんとうに完璧のように思える。尾根道を下った小さな池のほとりで彼女は、ここでお弁当をひろげましょう、と言う。わたしのデイバッグに入っていたビニール袋を地面に敷いて座り、じぶんのバッグから母親の入れておいた剥き栗を出して頬張っている。わたしはそばの石に腰かけ、拾った二股の小枝をナイフで削っている。何をつくっているの? パチンコだよ。池の水面にチビのまいた葉が散らばり、暗い樹の間から西日が射している。彼女はそんなものを剥き栗を頬張りながら愉しげに眺め、そのそばでわたしは小枝をナイフで削っている。誰も邪魔しに来ないし、誰も訳の分からないことを言いに来たりはしない。世界はこの一瞬だけ、ほんとうに完璧のように思える。

 

「コーリン・ザ・スクラップの言ったことは真実だ。目から鱗が落ちた。それが問題を解く鍵だ。RDは観客を失ったのだ。誰かのための何かをしたり、書いたり、生活したり、持ったり、知ったりする。世界のどこかに自分の歌を聴いてくれる人がいる。それは特別な人だ。RDにとってそうするだけの価値のある誰か。たった一人の観客からスタートし、しまいには何千人もになった。それをまた失ったに過ぎない」 レイモンド・ダグラスはまた彼自身に戻ったようだった。この話を聞いて僕はちょっと感情的になったが、RDはコントロール・ルームで安心させるように微笑んでいた。話す声が楽天的だった。「本当に必要なのは、最初の一人だけだ。ジュリー・フィンクルのような、女神だ。彼女を探すんだ。車に乗って、ずっと走り続けるんだ。ある日、ドアを開けて、バーを覗くと彼女がそこにいて君を見つめる。彼女の目が「わたしはあなたの友だちよ」と言っている。それを信じるんだ。どこかにそんな場所がある。それを探し続けるんだ。考えてみるとたぶんジュリー・フィンクルは誰も侵すことのできないわたしの夢の一部なんだろう」

レイ・デイヴィス「エックス・レイ」(TOKYO FM 出版・1995)

 

2004.10.24

 

*

 

 

 純粋培養のニワトリはケージの外に落ちても逃げ出す勇気がなく、自からケージの中に飛び帰るので統制と飼育が実に楽、と10万羽のニワトリを飼う小泉人相に似た養鶏業者は言っておりました。

藤原新也オフィシャルサイト 2004.6.18(Fri.)

 

 たとえそれが幼稚で素朴な疑問から発した行為であったとしても、ケージから逃走した果てに森に棲む獣に喰い殺されたニワトリの死は他のニワトリたちから圧倒的な罵倒と嘲笑を浴びる。ある健全なるニワトリ市民はかく憤慨するのである。「先の台風・地震による甚大な被害でニワトリ国中が大変なときに、まったく、あのアホタレが!!」

 

 ジョージ・オーウェル「1984年」を読み始める。

2004.10.30

 

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 実に稀なことだが、今朝の新聞の社説でこんな的確な論評を読んだ。

 

 彼が生まれ付きの正統派であれば(新語法では正考者・グッドシンカー・と呼ばれる)、如何ような環境に置かれても、何が正しい信念であるか望ましい感情であるか深く考えないもしないで認識できる。然しどちらにせよ、幼年時代に受けた入念な精神訓練は、新語法でいう犯罪中止(クライムストップ)、黒白(ブラックホワイト)、二重思考などを中心に行われる訳だが、それは如何なる問題であれ深く考える気を起こさせないし、且つ深く考えさせもしないのだ。

 ここに於いて鍵の言葉はブラックホワイトということになる。多くの新語法と同じく、この言葉は二つの矛盾し合ぅ意味を持つ。敵に対して使用する時は、明々白々の事実に反して黒は白と厚かましくも言いくるめる習慣となる。党員に対して使用する時は、党の規律が要求すれば黒は白と心から言える事を意味する。然しそれは又、黒は白と信じ込む能力であり、更に黒は白だと認識する能力であり、そして其の反対をかつて信じていた事も忘れてしまう能力を意味する。これは過去を絶え間なく改変する事を求めることになり、それは自余の事を全て実際に取り込む思考方式により可能となるのだ。これが新語法で二重思考(ダブルシンク)と呼ばれるものである

 

 いや、失敬。これは実はジョージ・オーウェル「1984年」からの引用。主人公が地下組織から入手した裏本の一節。

 

 

 深夜、職場のPCで切り離された首を探していた。現場で撮影された動画がはやくも出回っているらしいのだ。2チャンネルでの噂だ。浅ましくも嫌らしい精神でそいつを見てみたかったのだ。生きながら切断された奴の生首とその苦悶の残滓を。己の生き方を模索している青年が「イラクで何が起きているのかこの目で見てきたい」と思った。そして奴は行動に移した。フロリダのビーチみたいに思ってたほど間抜けだったのか? ベガスで一穴当てようとでも思っていたのか? まぁいい。「自己責任」とか「軽率」とかあれこれ言われ放題だが、そんな一般論は切断された奴の生首の前では実際、ウスバカゲロウみたいなもんじゃないか? 生首はもう何も考えないし言い訳もしない。うまく言えないが、もはや動かし難いモノとして存在する。論評の仕様がない。奴はそうしたモノになった。おれはそれを見たかった。

2004.11.5

 

*

 

 昨日は深夜に25時間勤務を終えて帰宅し、今日は朝はやくから家族3人車で大阪へ。日本二分脊椎症協会主催の療育相談会のプログラム。講演「二分脊椎症における整形外科の役割」と関係医師を交えての分科会。折しも隣では四天王寺ワッソ in 難波の宮がたけなわ。昼休みに病院を抜け出して屋台でプルコギや韓国風手巻き、烏賊と胡瓜の和え物、オムソバなどを頬張り、プログラム終了後に大極殿前特設舞台で「キムドクス サムルノリライブ」を堪能した。大阪の町のど真ん中、古代の都の史跡の上で舞い響く艶やかなサムルノリたちはまるでいつか見た幻のようだった。

 例の映像が臓腑の下あたりをのたうち回っている。

2004.11.7

 

*

 

 BBSに書いた。心あらば御意見を。

 

 

唾棄 投稿者:まれびと  投稿日:11月 9日(火)11時13分6秒

 

例の映像を、私は深夜に職場で同僚と見たのですが、その同僚の意見はやはり「危険な場所に自ら行ったのだからこれは仕方がない」「このような残虐な行為があるということもやがて慣れてしまう*慣れなければならない」といったものでした。

殺されて当然である。
その背後にあるおそろしいほどの倒錯。
殺されて当然な人間なんて、本当にいるんか。

2チャンネルに「彼がもし無事に生きて日本に帰れたら、彼の家族はこの国で精神的に殺されたことだろう」という短い投稿があったが、慧眼だと思った。

「殺されて当然の危険な場所」というのは、さわさんの仰るように「じぶんとは関係ないあっち側の世界」なわけですな。「そんなとこ、行かなきゃいいのに」
しかし、そんなとこに軍隊を送り出し、平和のためと称して罪のない人間を殺戮し続けている国とつるんで嬉々としているのはこの国じゃないのか。それが「じぶんとは関係ないあっち側の世界」なのか。
青年はそのために殺されたんじゃないのか。
いわば彼は、はからずもこの国を代表して、「あっち側の世界」のこの国へ向けられた憎悪を我が身に顕現させられた。それがあの最大の恥辱にまみれた殺され方。
この国のあり方によって殺された若者を、自己責任だから「殺されて当然」と言い切って済ましている、この国の自明なる狂気。

首を斬られる瞬間、どんな心地であったろう、かれの頭に何が去来したろうと、なんどもなんども考えようとして、そのたびに吐き気が込み上げてきて、恐怖で大声を出したい気持ちに駆られて、疲労の果て、日常の生活を続けるために思考を中断した。
なんの意味もない、尊厳のかけらもない、理不尽で孤独で、恐怖でいっぱいの死。

青年の首を斬った連中はいかれた戦争好きの狂気の集団なのかも知れない。だが、たとえそうであったとしても、かれらのような連中をあらしめているのは、罪のない子どもや老人や息子や娘を無惨に殺され続けてきた人びとのやり場のない怒りや悲しみや憎悪や絶望であるだろう。

「ひどいことをするものだ」
だが、いまこの瞬間だって、「戦争は平和である」と称する莫迦ものどもによって、罪のないこどもたちの頭がかち割られ、内臓が飛び散っている。
首を斬られた青年の何十倍もの数の無辜な命が。
上空を飛ぶ爆撃機から落とされた爆弾が、消しゴムのようにひとつひとつの命を隠してしまう。「平和のため」というオブラートに包んで、新聞は添え物のような数字しか伝えない。

たったひとつの命さえ、その首を斬られる映像を見たら胸が張り裂けそうになるのに、その何十倍もの残酷な死をいったいだれが正気で受け止められるのか。

もうやめようじゃないか。
おれもあんたも、どいつもこいつも、こんな世界は心底うんざりで反吐が出る。

この国が「平和」なのはその強大な殺戮者たちの側にいるからだ。おれたちはコカ・コーラを飲み、マクドナルドを食い、ポップコーンを頬張りながら、毒にも糞にもならない呑気なテレビ番組を見て今日も微笑んでいる。
「あんな危険な場所にのこのこ出かけて、殺されても仕方ない。馬鹿なやつだ。こっちでおれたちと一緒に楽しめばいいのに」とうそぶいている。

「とりあえず、沖縄タイムスの社説にある考えは自分の考えとおなじである、っていうことを、自分の周囲の100人に口頭で伝えたらどうか。」
その通りだと思います。結局、そこからしか始まらない。
でもどうなんだろう。
Why must I always explain?

ギ論なんかしたくない。
唾を吐き続けるだけ。

2004.11.9

 

*

 

 連絡。明日は朝から、4, 5年ぶりの一泊の家族旅行に行ってきます。つれあいが「どこに行きたい?」と訊いたら、「みずうみが見たい」とチビが答えたので、行き先は湖北方面。

2004.11.10

 

*

 

 琵琶湖は空が大きかった。これは博物館の女性がつれあいに言った言葉だが、ほんとうだ。琵琶湖博物館は展示内容があまりにも充実していて、初日のほぼ半日をそこでたっぷり過ごしてしまった。お陰でチビは丸子舟の大家になった。宿泊は長浜の北ビワコホテルグラツィエ。当初わたしはマキノ町にある白谷荘を目論んでいたのだが、「日常から解放されたい」というつれあいの希望で次回に譲ったのだった。ホテル内のイタリアン・レストランは近江牛のステーキもパスタもなかなかの味で、7階の大浴場もよろし。チビは「ここに引っ越したい」と宣ったほどであった。翌日は長浜散策。ホテルから黒壁スクェアの途中で偶然見つけた鉄道資料館は地味だが味わい深かった。チビは「機関車やえもん」の前で大喜び。昼は米朝師匠・小沢昭一なども時折食べにくるという鳥喜多の親子丼。うむ、納得の味。黒壁スクェアではなぜかガラスではなく、チビが初の陶芸体験。その名も水茎焼きとな。父親との共同作業でコップをひとつ、結構真剣にやっていた。それから琵琶湖を北上して奥琵琶湖パークウェイの静かな林道に停めた車内で三人揃ってしばし昼寝。旅の締めはビルメン屋氏が推薦した雄琴のビッグラーメン。その筋の客が店の女性を連れて集うという、そんな光景が似合う濃厚でえぐい醤油豚骨であった。

 

 帰りの車の中で私が歌って聞かせた「からすの赤ちゃん」を、今日もチビが覚えていてもういちど聞かせろと言う。それで清志郎のバージョンをCDで聞かせてやると、気に入って清志郎の真似をして腰を振りながら巻舌で歌うのが可笑しくてビデオを撮って、それを二人で見ながら大笑いだった。

 夜中にひとり、「からすの赤ちゃん」を聴き返している。

2004.11.13

 

*

 

 ジョージ・オーウェル「1984年」を読了する。「ぼくが書くのは暴露しなければならぬ虚構が存在し、ぼくが注意を喚起したいような事実が存在するからだ」(Why I Wright, 1947) 

 

 岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」を読みはじめる。

 

『日本残酷物語』に、柳田国男氏の「山の人生」の一節が収鋒されている。

 美濃のある炭炊きの話である。

「女房はとっくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、おなじ年位の小娘をもらってきて、山の炭焼小屋でいっしょに育てていた。なんとしても炭は売れず、なんど里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手でもどってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へはいって昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口いっばいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子どもがその日当りのところにしゃがんで、しきりになにかしているので、傍へいって見たら一生懸命に仕事に使ぅ大きな斧を磨いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それでじぶんは死ぬことができなくてやがて捕らえられて牢に入れられた。この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまたわからなくなってしまった。」

 私はかつてない衝撃をうけた。------人間生命の、ぎりぎりの美しさ。それは一見惨めの極みだが、透明な生命の流れだ。いかなる自然よりもはるかに逞しく、新鮮に、自然である。かつて人間が悠久に生きつぎ、生きながらえてきた、そのひとこまであり、またそのすべてを戦慄的に象徴している。ヒューマニズムとか道徳なんていう、絹靴下のようなきめですくえる次元ではない。現代モラルはこれを暗い、マイナスの面でしか理解することができない。だがこの残酷である美しさ、強さ、そして無邪気さ。

岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」(中公文庫)

 

 よその現場における警備員の拾得物紛失(現金数万円)に端を発した騒動で、クライアント側が、全店のうちの会社との契約を年明けに打ち切ろうかという話が出ているらしい。安定した生活というものの如何に遠いことか。そんなものは、きっと存在しないのだろう。また一から出直しか。まぁ、いいが。

 

 ミシシッピー・ジョン・ハートの美しい Nearer, My God, to Thee に耳を傾ける。これは日本では賛美歌の320番「主よ、みもとに 近づかん」として知られるもので、あのタイタニック号が沈むときに船上に残った楽士たちが最期に演奏したといわれている曲だ。もう一月ほど前からこの曲を訳そうと思っているのだが、いまだ完成していない。得意の軽快なフィンガー・ピッキングに乗せたミシシッピー・ジョン・ハートの演奏は、もう晩年のステージで歌詞もだいぶ端折って歌っているけれど、枯死を前にした老樹のような滋味に満ちていてすばらしい。穏やかさや諦念や枯淡といったものを超えた力強さがあるが、それが何に由来するのか私には解らない。何度でもくりかえして聴きたくなる。( Nearer, My God, to Thee の日本語訳について・<オルチン文庫にある「讃美歌集」について その九> http://lib.kobe-c.ac.jp/veritas.html

 

 琵琶湖行きの朝。チビは誰にも言われぬ間にじぶんのリュックサックを出し、せっせとひとり荷物を詰め始めた。色鉛筆、お絵書き帳、折り紙、ハサミ、糊、風船、風船の空気入れ、箱に入ったミニ・ブロック。小さなリュックがはち切れんばかりに詰めたあとで、最後に幼稚園でもらった「いつもかみさまといっしょ」と書かれた木札の飾りを壁からはずしてリュックに入れた。長浜のホテルの部屋に着いたとき、彼女はいちばんにそれをベッドの角の木枠にぶら下げたのだった。

 わたしはわたしのリュックに何を詰めていくのだろうか。

2004.11.16

 

*

 

 一昨日の夜から風邪気味で、昨日は予定していたM君との平城京巡りを断念した。断りのメールに返信が来た。「こちらはいつでもOKです。気にしないでください。1日もはやい復活を。頓首頓首死罪死罪(古代の上表文に使われる言い回しなので気になさらず)」(*古文書の基礎知識 http://www2s.biglobe.ne.jp/~erlove/monjo4.htm) 炬燵にもぐってビルメン屋氏が貸してくれた、ダブリンの下町の若者がソウル・バンドを結成するという映画「ザ・コミットメンツ」を見た。

 

 久しぶりに注文したすずき産地さんの米に同封された「たまご新聞」にて、イラクで殺された日本人ジャーナリストが現地から友人に宛てたメールを読んだ。掲示板でも紹介したが、ここにも転載しておく。

 

・・・・・・・・・・・・・・・ここから転載をお願い致します・・・・・・・・・

メール掲載を希望される方へ

このメールは小川さんが友人に宛てた私的なメールです。
受信者の方が、有意義な議論きっかけになればということでメール掲載の許可をいただきました。
このメールをお読みになって、ホームページ、メールマガジン、MLなどに掲載を希望される場合、特に連絡の必要はありませんが、「メール掲載を希望される方へ」からメールの最後までを 掲載することをご了解の上、掲載をしていただけるようお願い致します。

もし何かございましたら
http://plaza.rakuten.co.jp/tetsugakuessey/
の私書箱までメールをいただければ幸いです。

 

・・・・・・・ここから本文・・・・・・・・・・・・・・

----- Original Message -----

From: "Ogawa Kotaro"
Sent: Friday, April 30, 2004 3:27 AM
Subject: FROMイラク

 

前略。
皆様、お元気でしょうか。私はイラクにいます。

バクダッド到着日に新たに2人の日本人が人質になり、その次の日に3人の人質が解放、その2日後に2人も無事解放と人質関係の仕事ばかりしてました。
その後はサマワに行ったりしたけど(その模様は30日金曜日に「報道ステーション」で放送予定)、今ははっきりいって暇です。
米軍の報道規制が厳しいのと誘拐の恐れがあるのでバクダッドから動けないのです。
同行したジャーナリストの叔父も早々に引き上げ、今は通訳と2人で午前中は難民キャンプなどの取材、午後は読書とチグリス川で釣りをする毎日です。
大手テレビ局が引き上げたので、何かあったときのためのスタンバイという感じです。
日本では人質事件以降イラク報道の熱が冷めたように聞いてるけど、本当ですか。

 

イラクは実は今こそ酷いことになってます。
特にファルージャという町での米軍の蛮行は目に余るものがあります。スナイパーが面白半分に通行人や子供を撃ち殺し、町は手当たり次第に空爆、でも報道規制があまりに厳しいため、こうした現実は町から命がけで逃げ出してきた避難民の証言でしか伝えられません。
2週間で1000人近い人が死んでる。
これはもう戦争というより虐殺です。
罪のない無実の人間を殺す、これこそテロ以外に何者でもないと思う。
今イラクのみならず、アラブ世界全体が「ファルージャを救え」と叫んでいます。
すでに10万人近い市民が町を脱出したけど、脱出途中に撃ち殺されたり、無事抜け出せても住むところもなく、バクダッドに急遽できた難民キャンプで不自由な生活を強いられています。
イラク全土で憎しみが増幅しています。
もちろん米兵も沢山死んでいます。「大本営発表」の倍は死んでる。
ここまで死人を出してアメリカが守りたいものが結局「石油」や「復興ビジネス」でしかないのだと思うと、怒りを通り越して虚無感を覚えます。

 

人質がバッシングの嵐に遭っているそうですね。
かわいそうなことだと思います。
2回目の2人は地元の人の忠告を無視して危険地帯に突っ込んだので仕方ないにしても、最初の3人を責めるのは可哀想だと思います。
彼らが通った陸路は我々も3月に通って何の危険もなかったごく一般的なルートでした。
何よりもかれらはそれぞれイラクのために役立ちたいと考えて来たのに、まるで罪人あつかい。
自衛隊の活動に迷惑がかかるというが、自衛隊も外交官もNGOもジャーナリストも各々がイラクの役に立ちたいという共通の願いを持って来ていて、その思いに上下貴賎はないと思うのですが。
むしろ、自衛隊は守りが堅固で攻撃したくても難しいから民間人が狙われたのです。
こんなこと言ったら今の日本ではバッシングの対象ですか。
個々の自衛隊員には全く罪はないし、とても大変な任務を頑張っていると思うけど、狙われているのは残念ながら事実です。

 

ここ20年、日本のNGOもジャーナリストも世界の紛争地で危険にさらされることなく活動してきた。
第二次大戦以降、日本人がここまで明らかに政治的意志を持って狙われたのは今回が初めてだという事実をもっと真剣に受け止めるべきじゃないのかと思います。
誘拐は追い詰められたファルージャの人々の「窮鼠猫をかむ」的行動でした。
でもなぜ日本人かというと、日本がイラク戦争に賛成し、今も軍隊を駐留させているから狙われた、それだけのことです。
自衛隊が人道援助に来ているというのはサマワの半数ぐらいの人とバクダッドの一にぎりのインテリしか知らないことで、大多数のイラク人は残念ながら「日本はアメリカに味方して軍隊を送っている」としか思っていません。
それでも、バクダッドなどのイラク人は相変わらず親日的なので、町を歩けば皆笑いかけてくれるし、誘拐事件のことは「卑劣な行為だ」とまるで我が事のように同情してくれます。
しかし、ファルージャなどの追い詰められた人々はそんな余裕はありません。
もちろん、アメリカの占領に対して武力でしか戦わないイラク人にも問題はあります。
アメリカはイラクの占領政策について「日本のGHQをお手本にする」と言ったそうだけど、日本とイラクでは事情が違いすぎます。
アラブ人は千年前は自分たちが世界の中心だったという強烈な自負と誇りがあり、決して抵抗を諦めないでしょう。
それがデモなどの政治運動に繋がればいいのだけど、彼らはそれよりも武力を信頼しています。
身の回りに武器があふれていて、政治活動という回りくどくて勝ち目のない戦いよりも、操作さえ覚えれば敵を殺せる「武力闘争」のほうがはるかに説得力があって、どうしても惹かれてしまうのです。
日本で言えば戦国時代の思想なんだけど、武器だけは近代的だというのが問題です(それも結局アメリカ製だったりするんだけど)。
ここでは「兵器」という名の「思想」がはびこっています。
それでも結局彼らに勝ち目はないでしょう。
兵力に差がありすぎます。

 

人質事件が起こった今こそ、日本でもイラク問題に関する根本的な議論が行われてもいいと思うのだけど、バッシングだけで終わってしまうとしたら寂しいことです。
世界の中で日本がどうあるべきか、ということを考える近年まれに見るよい機会だと思うのですが。
でも、日本にいるとそんなこと考える余裕がないというのも確かだと思います。
僕自身、働き始めてからはそうした問題はなるべく考えずに避けて通ってたし。
仕事に追われ、そのうさを晴らすように腹いっぱいメシ喰って、ポンだチーだと叫んでやり過ごしてた。
でも、今回ばかりは・・・という気がします。

 

前回イラクから帰って心から思ったけど、やっぱり平和というのはいいものです。
日本で満開の桜を見て、それを楽しむ人たちを見るだけで涙が出そうでした。
有難いことだな、と。
できれば世界中の誰もがこの幸せを感じられればと思うのだけど、自分に出来ることといえば、目の前で起こってることをなんとか伝えることと、こうして心ある人にメールを書くことくらいです。
安全には十分注意を払い、現地大使館とも連絡をとりながら、なるべくおとなしく暮らしています(今の大使は立派な人で、外務省の退避勧告が出てるのに、私ごときの駆け出しジャーナリストを応援してくれます)。
いのしし歳なので、ときには理不尽な現場に突撃したい衝動にかられるけど、ぐっとこらえてチグリス川の川面を眺めています。
きっといつか役に立てる日が来ると思いながら。
なんだかわからない何かを知るために。

 

少々飲みすぎて感傷的なメールになってしまいました(イスラムの国でも「不良」のためのヤミ酒屋があります)。
あと1ヶ月くらいはバクダッドにいる予定です。
また、メールします。再見。

 

小川功太郎

 

*5月初旬発売の月刊『現代』に前回ファルージャに行った時のことを書かせてもらいました。
よかったら読んでください。

 

・・・・・・転載ここまで・・・・・・・・・・・・・・・

 

 「日本で満開の桜を見て、それを楽しむ人たちを見るだけで涙が出そうでした。有難いことだな、と。」というさりげない一文が、身に沁みた。

 

 

 県内の富雄の小学校に通う7才の女の子が下校途中に行方不明になるという事件があった。その日の深夜、数キロ離れた平群のどぶの中に遺体が捨てられていた。チビがはじめてMRの検査をしてもらった病院の近くだ。いっしょにテレビのニュースを見ながら、「どうしてこの子は殺されちゃったの?」という子の問いに、なんと答えたらいいものか考え込む。思えば世界中、答えようのない問いでいっぱいだ。

 

 一昨日は幼稚園の父兄参観だった。私は仕事で行けなかったが。「画用紙に絵を書いたり色紙や拾ってきた葉っぱを貼りつけたりするのがあってね、あの子ったらいつものように周りの子がやってるのをのんびり眺めてばかり。時間が来て先生のところへ持っていくときも、貼りつけたドングリが床に転がって探し回っているうちに最後になっちゃった。手を洗うときも最初は早く並ぶんだけど、周りの子にあれこれ喋りかけてるうちにどんどん順番を抜かされて、とうとういちばんびりっけつ。ほとんどの子はもう着替えも終えちゃってるのに、(二つしかない水道の)前に並んだ二人がこれまたいつまでも入念に手を洗ってて、そのうしろでひとりだけニコニコして立ってるのよ。もう恥ずかしくなっちゃった」

2004.11.19

 

*

 

 姜尚中・森達也「戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の記憶がある」(講談社・@1890)を購入。

 

 とにかく、奈良の幼女殺害事件。つれあいには絶対に子どもから目を離さないよう言い含める。

2004.11.22

 

*

 

―――――――――――以下、転送歓迎します――――――――――

                       November 14.2004

   若者の死を悼む

      ――香田証生君の死について思うこと

                宮内勝典 【転送歓迎】
                
http://pws.prserv.net/umigame/

 

 日本人青年がアルカイダ系の武装集団に拘束されたと聞いたとき、なんという軽率さだろうとあきれながらも、複雑な思いがあった。常々、ひとり旅に出ることを若い人たちにすすめているからだ。外部と触れあうことによって、生まれ育った日本や自分を初めて相対化できる。それが精神的な成人式となるはずだ、と私は語りつづけてきた。

 

 私自身も二十二歳のとき旅に出てから、六十カ国ぐらいを遍歴してきた。四十代になってから、中米先住民たちの独立闘争に関わり、密林の戦場に潜入したこともあった。まだ幼かった息子を妻に託し、熱帯雨林の奥で人知れず腐乱死体となるかもしれないと覚悟しながら。

 

 香田証生君も、自己責任であるということは自覚していたと思う。「小泉さん、すみませんでした」とつぶやくかれの表情には、首を切断されるかもしれないと覚悟している、悲しいほどの静けさがあった。武装集団の要求に応じて自衛隊を撤退させることはありえないと、かれ自身も知りぬいていたと思う。

 

 香田君とほとんど同じ歳である私の息子も、昨年、バックパッカーとして旅をつづけていたが「これからフンザ渓谷へ向かう」というメールを送ってきたきり、ぷっつり消息を絶った。フンザ渓谷はいくつもの国境が入りくむパキスタン最北部の山岳地帯である。息子が陸路でアフガニスタンへ入国するつもりでいることを私は直感した。

 

 幸い息子は無事であったけれど、香田君はついに生きて帰ることができなかった。二人とも、たしかに軽率であった。無謀であった。だが、かれらの動機に切実さがあることを私は疑っていない。

 

 世界中で一千万を超える人たちが、路上に出て反戦の声をあげたけれど、戦争を止めることはできなかった。日本国民の過半数が反対したにもかかわらず、自衛隊はイラクへ派遣された。かつて客員教授をしていたころの教え子たちも「自分たちが、なに一つ関与できないまま、世界は圧倒的に動いていく」と無力感を洩らしている。

 

 世界貿易センタービルが燃えあがり、アフガンやイラクに火の雨が降りそそぐ光景を、私たちは情報として受けとめるしかない。世界の中にいながら、リアルな世界から疎外されて、架空の情報空間に封じ込まれている。世界はすりガラスに映る影のように空虚で、若い人たちは自分が生きているという実感をもつことができないまま、離人症的な感覚に陥っている。うつ病もひろがっている。

 

 少年犯罪やリストカットには、生の実感を取りもどしたいという衝動がひそんでいると思われる。日本の自殺率は世界一だ。自殺者の数は、年間三万人を超えている。これはアフガン空爆やイラク戦争の死者たちよりも遙かに多い。

 

 香田君や私の息子が危険であることを知っていながらアフガンやイラクへ赴いたのは、リストカットの裏返しのようなもので、自分たちを疎外している世界の実体を見きわめ、ざらりとした現実に触れてみたかったからだろう。状況を突き破って真に生きようという願望でもあったはずだ。

「星条旗に包まれた首は、友人の首、自分の首であったかもしれない」

 と私の教え子たちは口々に語っている。そして、交渉によって救出するということが念頭になかったのか、まっさきに自衛隊の撤退はありえないと宣言した母国の政府に、自分たちは救ってもらえないのだと感じたとも洩らしている。この事件によって若い人たちは二重の意味で世界から締めだされてしまったのだ。そのことだけは理解すべきだと思う。それが、せめてもの鎮魂ではないのか。

                 (共同通信 2004年11月3日記)

 

 

【追記】

 

 イラク戦争の死者数は、これまでNGOの「イラク・ボディカウント」によると、1万人から2万人の間とされてきました。それに基づいて、イラク戦争の死者数を3万人以下とみなして、上記の原稿(若者の死を悼む)を書きました。ところが、その死者数が少なすぎるのではないかという指摘が「非戦」のチームメイトからありました。

 

 イギリスの医学誌「ランセット」(2004年10月30日)に発表された、新しい調査報告によると、イラク民間人犠牲者数は、最低でも10万人を超えているのではないかと推定されているそうです。

 

 これは米国ジョンズ・ホプキンス大学、コロンビア大学と、イラクのムスタンシリヤ大学による「米・イラク合同調査団」による学術調査ですから、客観的で、信頼がおけるものであると思われます。この「村落抽出調査」の時点では、まだファルージャなどが含まれていませんから、死者の実数はもっと多いのではないかと思われます。

 

 くわしく知りたい方は、下記の「イラク戦争被害記録」をご覧ください。
  
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/lancet04oct.htm

 

――――――――――転送歓迎、ここまで――――――――――――

 

 

*

 

 団地の公園の砂場で子が遊ぶのを、かたわらのベンチでチョムスキーの新書を手に眺めている。青い空。祝日なのに子どもの姿がほとんど見えないのは、目と鼻の先ほどで起ったあの陰惨な事件の影響だろうか。こんな明るい陽射しの中にいると、あんなことが起ったのはまるで幻のように思える。だが目を凝らせば、この屈託のない光の向こうに、青白く病んだ吹きだまりの悪意が透けて見える。それは漠とした気配でしか感じられないものだけれど。

 

 ジャン・ボードリヤール「暴力とグローバリゼーション」をひと休みして、「戦争の世紀を超えて」を職場で読み始める。ボードリヤールは、たとえば“出来事”“交換”といったかれ独特の言語が私には勉強不足で、難しいのだ。かれの代表的な著作をすこしさらってから、もういちど読み返そうと思っている。「戦争の世紀を超えて」の冒頭には、ポーランド北東部にあるイェドヴァブネという小さな村で行われた“村人による”ユダヤ人の大量虐殺の話が出てくる。(ゴム消し log27 2002.10.21) ふつうの人びとが恐怖や憎悪に駆られて残虐な衝動に走り、ふたたびもとの家族の団欒へと戻っていく。現場の慰霊碑を厳しい顔でただ見つめる姜尚中と森達也の二人は、そんな地平を見据えている。

2004.11.23

 

*

 

 おだやかな平日の午前。やわらかな陽射し。誰もいない団地の公園。ベランダでコーヒーをすすり、煙草をくゆらせる。ステレオからキンクスの "The Village Green Preservation Society" が流れている。皮膚の下からじわじわと自然な勇気のようなものが静かに溢れてくる。“30才以下を信じるな”などと粋がった音楽より、こんな歌の方が信じられる。ザ・バンドとおなじだ。こんな歌詞がロック・ミュージックに乗って歌われることが素敵だ。

 

We are the Village Green Preservation Society
God save Donald Duck, Vaudeville and Variety
We are the Desperate Dan Appreciation Society
God save strawberry jam and all the different varieties

Preserving the old ways from being abused
Protecting the new ways for me and for you
What more can we do

We are the Draught Beer Preservation Society
God save Mrs. Mopp and good Old Mother Riley
We are the Custard Pie Appreciation Consortium
God save the George Cross and all those who were awarded them

We are the Sherlock Holmes English Speaking Vernacular
Help save Fu Manchu, Moriarty and Dracula
We are the Office Block Persecution Affinity
God save little shops, china cups and virginity
We are the Skyscraper condemnation Affiliate
God save tudor houses, antique tables and billiards

Preserving the old ways from being abused
Protecting the new ways for me and for you
What more can we do

God save the Village Green.

 

 

ぼくらは地域緑地保存協会
神さま、ドナルド・ダックやヴォードヴィルやバラエティ・ショーをお救い下さい
ぼくらは“絶望的なダン”を讃える会
神さま、苺ジャムやその他もろもろをお救い下さい

ないがしろにされてきた昔ながらのやり方を守ろう
きみやぼくのために新しいやり方を守ろう
それ以外に何があるだろうか?

ぼくらは樽ビール保存協会
神さま、『Mrs. Mopp』や素敵な『Old Mother Riley』をお救い下さい
ぼくらはカスタード・パイ品評会
神さま、ジョージ十字勲章とその受賞者たちをお救い下さい

ぼくらのお国言葉はシャーロック・ホームズのクイーンズ・イングリッシュ
フーマンチュー、モリアーティ、ドラキュアにも救いの手を
ぼくらはオフィス・ビル迷惑同盟
神さま、小さな店や茶碗や純潔をお救い下さい
ぼくらは超高層ビル糾弾同盟
神さま、チューダー式建築やアンティーク・テーブルやビリヤードをお救い下さい

ないがしろにされてきた昔ながらのやり方を守ろう
きみやぼくのために新しいやり方を守ろう
それ以外に何があるだろうか?

神さま、身近な緑をお救い下さい

 

** Desperate Dan

** Arthur Lucan / Old Mother Riley

** Mrs Mopp was a character in a BBC radio programme of the 1950s (or maybe it was the 1940s: before my time either way).

 

THE KINKS - "The Village Green Preservation Society" 1968

 

2004.11.29

 

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 深夜に仕事から帰り、寝室で頭からすっぽり布団をかぶって寝ているチビの様子を覗いて台所のつれあいに背中を向けて話し始めたら、急にチビの大きな声が響いて飛び上がった。夕寝をしてしまいまだ眠れずにいたチビはつれあいのガウンの裾に隠れていたのだ。三人で大笑いした。それから私が遅い夕食を食べている間にチビは炬燵の横で折り紙を始めて、気がついたら「二人ともだいぶ眠いのにねぇ」とつぶやきながら親子三人、炬燵を囲んでせっせと水鳥や蝉やコップを折っている。深夜の1時。

2004.11.30

 

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 岡本太郎「沖縄文化論」を読了する。この本のいちばん素敵な箇所といったら、間違いなく、著者が御嶽(うたき)について語る例えばこんなくだりだろう。川端康成が「あの本はいいですねぇ。沖縄に行きたくなっちゃった」としみじみ語り、三島由紀夫が「“沖縄文化論”になぜ読売文学賞をやらないんだ。僕が審査員なら絶対にあれを推すな。内容といい、文章といい、あれこそ文学だ」と憤ったこの一冊は、このような“何もない”空間に立って著者が己をがらんどうのようにびんびんと共鳴させているそんな場所から物語られている。出版から30数年を経た現在でも、どの文章もみずみずしく、ときに激しく、狂おしく、あたらしい。

 

 はじめは清らかに単純だ。美しくしずまった森。神託によって定められた聖域が氏族生活の中心だ。その秘めた場所に、ひそかに超自然のエネルギーがおりてくる。それにつながり、受けとめることをぬきにして、彼らの生活の原動力を考えることはできない。

 そびえたつ一本の木。それは神がえらんだ道。神の側からの媒体である。この神聖なかけ橋に対して、人間は石を置いた。それほ見えない存在へ呼びかける人間の意志の集中点、手がかりである。

 自然木と自然石、それが神と人間の交流の初源的な回路なのだ。

 この素朴な段階でこそ、神と人間は相互に最も異質でありながら、また緊密だった。人間は神を徴底的に畏れ、信じた。

 やがて形式主義がはじまる。ただの石ころから四角い切石の体裁に。神と人間の通いあう清列な流れの中に、人間の匂いが、一種の爽雑物としてまじりはじめるのだ。それは自己増殖する。

 切石が香炉という名でよばれるようになり、そして本当の香炉として実用的形態をそなえてくる。やがてお仏壇に見られるような、飾りのついた陶磁器の鉢となる。今日多くの御嶽(うたき)では、切石と陶器の香炉がダブッて飾られ、混乱のあとを示している。香炉は明らかに後世の仏教の影響である。

 倒錯がおこる。神にむかう手段にすぎなかった香炉、人間側のポイントだけが、次第に意識の中央にせり出してくる。神の側からのかけ橋であった自然木は、その役割がいつの間にかあいまいになって、聖域イビの背景に退いてしまう。

 さて、香炉の上に屋根がつく。雨露しのぎにさしかけただけの粗末なものだった。森の湿気の中で、それは見る間に朽ちて行く。そうした姿もあちこちに現存している。それがやがて丈夫な瓦屋根に変り、囲いが出来、次に香炉だけでなく拝む人をもすっかりおおうようになれば、もうレッキとしたお社だ。いつの間にか入口には門構えが出来たり、内地風の鳥居まで立ちはじめる。社前に並んだ石燈寵なんて、まったくもってガッカリだ。………もう少し戦争が永びきでもしたら、どんなになっただろう。忠魂碑なんてアクセサリーまでとり揃えて、ナントカ嶽神社などと勇ましく、沖縄中の御嶽や日本の皇道精神に右へならえしてしまったに違いない。

 自然のままよりも尊大な形をつけた方が神様を大事にしているんだと思っている。素肌で神にふれ、対決する、きびしい切実なつながり、その緊張を忘れ、人間はこのようにあまりにも人間的な形式主義によって、神をまつりあげる。それは逆に神聖感を消し去り、同時に人間としての充実感をも失わせてしまうのだ。

 

 私は今まで、エジプトの神殿、アクロポリス、出雲大社が神聖だと思っていた。しかし何か違ぅのではないか。それは人間の意志と力にあふれた表情、いわば芸術の感動ではなかったか。それを通して、背後にある恐ろしい世界、その迫力みたいなものに圧倒される。権勢をバックにした豪壮さ、洗練を極めた形式美。つまり力と実に対する驚歎であり、アドミレーションである。

 沖縄の御嶽でつき動かされた感動はまったく異質だ。何度も言ぅように、なに一つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。静かな恍惚感として、それは肌にしみとおる。

 神は自分のまわりにみちみちている。静寂の中にほとばしる清列な生命の、その流れの中にともにある。あるいは、いま踏んで行く靴の下に、いるかもしれない。ふと私はそんな空想にとらわれていた。

岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」(中公文庫 @686)

**飯沢耕太郎“写真家・岡本太郎 −「対極主義」の眼”

**岡本太郎 神秘

 

 

 今日は昼から、チビが幼稚園から帰ってきたら、家族三人でモネを見に行く。

2004.12.1

 

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 美術館へモネを見に行こう。家から車でほんの15分ほど。東大寺大仏殿の甍が見える1日千円の駐車場に車を入れて、県庁裏の舗道を落葉樹の黄色い葉を踏み踏み歩いていく。少しは興味をもつかなと期待したチビは作品の並んだ広間を二部屋ほど覗いたらもう退屈したようで、作品と鑑賞客の間のガラスの縁に家から持ってきた折り紙の犬を這わせてひとりぶつぶつと何やら物語っている。まぁ、そんなものか。ところでモネだ。私は美術史には疎い。印象派の何たるかなんてほとんど知らないしろくな鑑賞眼もない。いま思い浮かぶ限りでは、これまで見た画家といったらベーコン、ピカソ、ミュシャ、クレー、ポサダ、ゴッホ、ブレイク、ムンク、マチス、ホクサイ..... どうにも偏った食い散らかしだ。セザンヌは何となく分かるような気がするんだが、モネは実をいえばあまり興味が湧かなかった。有名な睡蓮も何やら凡庸で大人しい。ところが本物というのはやっぱり接してみるものだ。色とりどりの豊かな水の表情、密生した柳の葉一枚一枚の神秘、霧の中をさまよい滲み拡散するあえかな陽の光。(レイ・デイヴィスも歌っているウォータールー橋!) ほんの一瞬のうつろいに目を凝らし、それを絵筆に還元させようとしている画家の姿が浮かぶ。いわばこの人は、瞬間のうちに永遠を捕らえようとした。それを生涯、黙々とやり続けた。どれも似たり寄ったりと思っていた作品も、よく見れば時代ごとに作風を変えている格闘の跡が伺える。私がいちばん気に入ったのは、最晩年の、自宅の広大な庭の一角に日本風の橋を誂えた風景を描いた作品だ。この頃のモネは目を患い、ほとんど失明状態に近く色がよく見えていなかったんじゃないかとも説明されていたが、白い塗り残し部分も目立つ、まるで晩年のゴッホを思わせるような荒々しいタッチと強烈な色彩で描かれた、それまでの緻密で優雅な作風からひどくかけ離れた異色の絵だ。だが私は、これがモネが最後に到達した場所ではなかったかと思う。ありとあらゆる事象が真昼の炎のごとく燃え上がり歓喜している。風がひるがえす葉のきらめき、光と戯れる水の自在な変化、積み藁のひそかな息遣い、中心のない恍惚な混じり合い、細部に宿る神の似姿、そんなものをひたすら凝視続けた男が最後に見えた世界の実像であったと思うのだ。美術館から出るとチビは前庭に降り立った雀の群れを見つけ、息を吹き返したような顔で駆け寄っていった。車に戻る道すがらに舗道の葉や木の実を贈り物のように拾い集めた。そして駐車場の角の公衆トイレの前のベンチまで来たところ、背中のじぶんのリュックからサインペンとノートを取り出して、見てきたモネの橋のある風景の絵を一枚描いたのだった。

**WebMuseum: Monet, Claude http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/monet/

**Wellcome to Claude Monet's http://giverny.org/monet/welcome.htm

2004.12.3

 

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 朝、9:30。玄関でチビが装具と靴を履くのを待っている。彼女は3ヶ月ぶりに再開するリハビリの今日は初日だ。いっしょに階段を下り、駐車場まで歩いていく。「しのちゃんね、大きな自転車、乗れるようになったんだよ」 階段下で支度を終えて下りてきたつれあいを拾い、駅に向かう。小さな橋のたもとの日だまりで茶色の野良猫がこちらを見ている。「おとうさん、ネコさん、踏まないようにね」 それから彼女は幼稚園の先生が、リハビリを頑張ったらシールを貼ってくれるノートを作ってくれたことを話す。バックミラー越しにちいさな顔を見つめる。駅前のロータリーでチビとつれあいを下ろす。「おとうさんは行かないの?」「おとうさんは幼稚園にね、ちょっと用事があるんだ」 駅のエスカレーターの下で彼女はふり返り、「リハビリに行ったって言ってね」と大きな声で叫んで消えていく。ロータリーを周りながら手元のカセットをカーステに突っ込む。モリスンの Bulbs が温もってきた車内に流れる。城下町の狭い路地を抜けて走る。モリスンの求心的なボーカル。ああ、この感情はまだおれの中で生きている。このままどこか遠くへ走り抜けたい。幼稚園の裏手の高校のグラウンド沿いに車を停めて坂を下っていく。幼稚園の入り口のアコーディオン扉にはふだんは南京錠がかかっているが今日はフリーだ。階段を上った先で豆パン屋で顔見知りになったリッキー・リー・ジョーンズ似のお母さんに会う。「あら、今日は?」「いや、これで」とポケットから紙切れを取り出して見せると、職員室の隣の事務所でやっているからと教えてくれる。白い体操服の園児たちが駆け回っている庭のすみを横切って、スリッパに履き替え、階段を上っていく。おなじように県の保育料軽減に伴う還付金を受け取りにきた若い母親の3人組が喋くり合ってなかなか前に進めない。裸の新札で1万3千円を、いつも静かに微笑んでいる年輩の女性から渡される。何故となく照れくさく「どうも」などと呟いて受け取る。「お年玉をもらった気分ですね」とでも言ったらよかったかなぞと思いながら階段をおりる。アコーディオン扉のところで下の子を連れたジンちゃんのお母さんに会う。「今日は何で来たんですか?」「バスで」 これから駅前の病院でインフルエンザの予防接種を予約しているのだと言う。坂道の脇でお堂に祀られた地蔵を覗く。石のかけらのような磨耗した顔と赤い前掛け。車へ戻ると先の母親3人組が青い新車を取り囲んでいる。一人が携帯電話で「リモコンを押してもドアが開かないのよ。どうしたらいいのよ」と旦那らしき相手に声を吊りあげている。声をかけようかとも思ったが、どうせ車には弱いし、まぁ放っておくかとエンジンをかける。モリスンの And The Healing Has Begun が始まる。帰ってすこし寝てから、夕食の粕汁をつくっておかなきゃ。

2004.12.8

 

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 深夜の国道を途中、幾台もの車を追い抜きながら時速80キロで走る。そろそろ家が近づいてきた頃、大きな木材を満載したトレーラーの尻に食らいついた。数百年は生きただろうと思われる巨大な杉の原木だ。それが古代の剣で断ち切った大蛇の胴体のようにトレーラーの背に積み上げられている。思わず見あげた。その黒ずみめくれあがった樹皮を舐(ねぶ)るように見つめた。山の神の葬列のようだと思った。トレーラーは先達である。この夜のしじまの中、かれをいったいどこへ運んでいくのか。運んでいく当てはあるのか。追い抜きざまの一瞬にそんなことを考えた。深山から切り出され、お前はどこへ連れていかれるのか。アクセルをふかす。

2004.12.9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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