■日々是ゴム消し Log40 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 辺見庸の著書で李芳世(リパンセ)という在日詩人の作品を知った。午前零時、大阪・生野区のとある酒場での朗読会。ハラボジとは祖父のことである。こんな原石のような詩に接するのは久しぶりだ。ネットで500円の中古本が出ていたので早速購入してしまった。風が、こちらのやくざな胸までパンパンに膨らませて知らず涙が溢れてきそうになる。わたしも空気をパンパンに入れた自転車に乗り、朝の光のなかを疾走している。

 

いつも学校に行くとき
ハラボジが自転車のタイヤに
パンパン空気を入れてくれた
------遠いけどがんばっていくんや
あの声がいまも聞こえる
地震が起こり
家が倒れ
ハラボジは下敷きになった
火がどんどん近づいてきた
------はよ逃げ、はよ逃げ 言うて
ハラボジは死んだ.......
空気入れ見たらハラボジを思い出す
仮設住宅から学校に通うのは大変やけど
ぼくはがんばる
朝、自転車に空気を入れる
シュッーシュッー
ハラボジがはよ行け、はよ行け言うて
風を入れてくれている

李芳世詩集「子どもになったハンメ(祖母)」空気入れ・遊タイム出版社

 

 辺見庸が「転げ回って笑った」というこんな短い詩も、もちろん良い。

 

アボジ
キンタマは
ニンゲンの チュウシンか?

李芳世・チュウシン

 

 

 私は笑い崩れた。眼に浮かんだのだ。お風呂場であろう。李さんの子供さんであろうか、彼の「チュウシン」を指さして、真剣なまなざしで見上げている。かねてからの疑問をついに声にしてみた。それが果たして男というものの全体の中心にあたるものかどうか。心の底からの疑問だったのだ。想像するに、この質問は「キンタマは宇宙の中心か?」と問うほどにまっとうで切実だったのである。子供の眼が雲母みたいに光っている。それが私には見える。

辺見庸・抵抗論

 

 問われた父のキンタマがぐいと締まるのである。

 

 李芳世はまた、こんな作品も書いている。

 

ぼくしってんねん
ショウガイシャやからいうて
なんにもしらんおもうて
アホやおもうて
ふざけて からこうて イジメよったこと
ぼくしってんねん

さむいさむい ふゆのひ
こうえんで あそんどったら
ちかづいてきた あんたら
「こいつ チョウセンや 泣かしたろか」
ゆうたことば
ぼくしってんねん

ぼくをとりかこみ
ぼくのふくぬがしよった
オモニがこうてくれたぼうしをほられ
トレーナーや シャツも
なまえとじゅうしょかいてる パンツまでも
みんな とってしまいよった
あんたらのかお
ぼくしってんねん

ぼくしってんねん
やさしさ おもいやり いっぱいもってる
にんげんのこころ
じぶんから ぬぎすてよった
まっぱだかにして
おもしろがってたあんたらが
まっぱだかに なってしもたことを
ちゃんと ちゃんと
ぼくしってんねん

李芳世・ぼくしってんねん

2004.6.7

 

*

 

 夜勤明けの午後、幼稚園から帰ったチビを連れてわたしのお気に入りの散歩道へ行った。奈良盆地のまんなかに横たわる矢田丘陵の、松尾寺から矢田寺へと続く気持ちのいいハイキング・コースだ。緑のトンネルのような涼しい山道を歩きながら彼女が訊く。おとうさんは、ここにきたことがあるの? うん。きみがまだ赤ちゃんだったときにね、おとうさんはよくひとりでここにきて歩いたり、木と話をしたり、絵を描いたり、昼寝をしたりしてた。ここはおとうさんが大好きなところだから、いつかきみも連れてきてあげたいなってずっと思ってたんだよ。すると彼女は言う。しのちゃん、ここ、だいすき。おかあさんはここにきたこと、あるの? わたしは笑って答える。おかあさんは暑いのが苦手だし、それよりも百貨店とか図書館のほうが好きなんだよ、きっと。すると彼女が言う。おかあさん、こんないいところを知らないなんてねえ。おしえてあげなくちゃねえ。さあ、木のベンチがある木陰の広場に来た。このさみしいしずかな場所にわたしはよくひとりで来て、ものを書いたり、善意の人々の悪意について考えたり、なにも考えずただ風の音に耳を澄ませていたりした。でも今日はきみといっしょだ。

 それから二人は形のちがう葉っぱを探してきてベンチの上に並べたり、石ころを積みあげて小山をこしらえたり、棒きれで道に矢印をつけたり、蜘蛛の巣に葉っぱをからませたり、かくれんぼをしたりしてあそんだ。

2004.6.12

 

*

 

 朝からチビと二人、車に乗って大阪の病院へ。駐車場に停めた車の後部座席でオシッコと、昨日浣腸の薬を呑ませたので念のためウンコを掻き出しておく。リハビリを上々に終えて、病院の売店でお昼を買って隣の難波の宮の史跡公園へ持っていく。チビはかぼちゃの種を乗せたパンやオレンジ・ジュース、わたしはチキンカツ弁当と蕎麦茶。夏のような日射しの下、チビは鳩の群にパン屑を放ったりしてしばし遊ぶ。帰りは下の道を通って、石切あたりから急峻な山道の308号線。途中で車を寄せてまたオシッコを摂る。生駒山を越え、矢田丘陵の北に位置する“矢田山遊びの森”に立ち寄る。すでに夕刻に近かったのだが、ボランティアのような老年の職員にチビは虫籠から出したクワガタを持たせてもらう。それから森に囲まれた気持ちのいい広場の芝生の上に二人でごろりと横になる。帰りの駐車場で大量のウンコを掻き出す。途中のスーパーで明日の朝食の食パンを買って6時頃に帰宅。これが今日のぼくらの一日。Brian Wilson の Kiss Me Baby のような完璧で美しい一日だったよ。

2004.6.17

 

*

 

 ある日、買い物へ出かける玄関端で「シノちゃん、どうして装具を履いてるか知ってる?」と子に問われ、ぎくりとする。一瞬ことばに詰まった私を救うように、子は得意顔で「足が悪いから・だよ!」と言う。尤もつれあいの解説によると、かような質問にじぶんがちゃんと答えられることを自慢したかったそうなのだ。幼稚園に通い始めの頃、つれあいは「どうして装具を履いてる子がいないの?」と子に訊かれた。それまで週に二三度通っていた市の養護施設にはおなじ病気の子もいたからだ。先日は同じクラスの男の子に装具を履いているのは足がイタイからだと「解説」され、ちがう、足が悪いからだと「反論」したらしい。あるいはまた、最近隣の席になった女の子は子が装具を履くのを黙って手伝ってくれるという。昼前には親が来て別室で導尿をし、みなが揃いの上履きを履いているのにひとりだけ赤い草履を履いて走りまわっている。きっと親が知る以上にたくさんのことを感じているのだろう。薄暗い玄関で、私は病気のことを子に説明する。しばらく神妙に聞いていた子は「でも大丈夫だよ。装具を付けてるんだから、すぐに治るよ」と朗らかな顔で宣言する。そんなことを夜、子が寝たあとでつれあいに話すと、彼女は音もたてずにしずかに泣き始める。私は見ないふりをして黙ってすわっているのだ。

2004.6.18

 

*

 

 辺見庸の「抵抗論」を読了した。アルンダディ・ロイの新刊「誇りと抵抗 ---権力政治を葬る道のり」(集英社新書)を買った。

2004.6.21

 

*

 

 25時間の夜勤明け。朝食に歯磨き、着替えなどを慌ただしくさせてチビを幼稚園のバス停まで連れて行く。台風一過の伸びやかな天気だ。うわあ、いい天気だなあ。今日は幼稚園行くのやめてさ、お父さんと山の公園に行こうよ、お弁当もって。だが彼女は首を振って、幼稚園がいい、と言う。トモコちゃんがまってるから。今日は給食の日で、帰ってくるのは3時だ。バスを見送り家に帰ると、続いてつれあいが出かけていく。大阪の病院へチビの検査用のオシッコを持っていき、それから友人とお昼を食べて夕方に帰ってくる。ベランダに出て煙草を銜え、青々と横たわる矢田丘陵や二上山やその先の葛城の峰々を眺める。さて、ひとりになった私は、とりたててやるべきこともない。営業所に冬服を持ってかなきゃとか、歯医者に行かなきゃとか、こまかな用事はいくらでもあるのだが、とりあえずみんな放っておくさ。たくさんのことを詰め込むより、すきまをつくって呆けよう。そのすきまに気持ちのいい風を入れよう。ジョニー・キャッシュのカントリー・ソングをかけよう。いちにちにひとつのことだけ、と言ったアマゾンのインディオのことばを想起する。こどもの頃に感じていた夏の冒険を夢見よう。誰もいない公園の滑り台がてらてらと光っている。

 

 職場で読み継いでいた辺見庸の「抵抗論」を昨夜、読了した。午前2時の寝袋のかたわらで、午後1時のパーテーションの裏で読み継いできた。かれは裏返った自明なるものについて語り、国家の悪相について語り、鵺のような菌糸のような不可視の全体主義について語り、スリッパで朝鮮人を殴った父親の古い思い出を語る。そして一人の友人である死刑囚に思いを馳せる。

 

 世界と私の関係はどうしてこんなに疎遠なのか。あるいは「世界の時」と「私の時」はどうしてこんなにも重なっていないのか。疾駆する時と「いま」に怯え、世界を不安視し、巨大な出来事にむろん気を呑まれもするのだが、それ以上に慎みも節操もなく変容しつづける世界へのある種の侮蔑の念が私にはどうしても拭えないのだ。世界という名の軽薄浮薄、世界という名の絶大なる記憶障害----への蔑み。 (中略) だから私はいま、暗く冷たい独居房から彼方に想像の矢印を走らせるように、ひとり世界と私の関係を考えてみたいと思っている。秘すべき「私だけの記憶」にどこまでもこだわろうとしている。世界の激動と私の些事を同等のものとして扱いたいと考えている。

 

 この4年間で、私に決定的影響をあたえたものは、やや強引にいうならば、9・11でも、イラクに対する米英の侵略でもない。それは、どうということはない一つの私事であった。2000年3月13日(月)午前9時23分、東京拘置所の面会室で私は一人の男と透明アクリル板越しに会った。以来何度もそこに通って男に面会し、幾度も手紙を交わし、男に関する膨大な資料を読みあさった。それにより私はずいぶん変わった。変えられた。9・11ょりアフガン取材ょり、この出逢いが私の内面を深く、深く抉った。男はかつて複数の人々を死に至らしめている。その男の存在を私は好いている。この4年間で彼に対して下された死刑判決がついに確定した。男は差し入れた何冊かの拙著(『独航記』も)を監房で舐めるようにして読んだという。刑が確定して以来、私は彼に面会できなくなった。が、彼と私は地下茎で繋がっている。そぅ私は勝手に思っている。人を殺め、捕まり、そして国家によりいつの日か殺されようとしているその男は、時間の滞った監房から私に戦争についての所感を書き送ってきたりした。東京拘置所の独房----アフガニスタン。その位置関係の妙に私は打たれた。確定死刑囚と戦争。その関係性の不可思議に私は呻(うな)った。4年間、例えばカブールやニューヨークにあってさえ私は彼の存在を考え、想像しつづけた。巡航ミサイルにより多数のタリバソ兵や村民が殺された現場で、男が刃物で刺し殺した人々のことや血の海の風景を考えてみた。残虐とはなにかについて思いをめぐらせてみた。想像しすぎ妄想しすぎて、いつしか私は、その男の眼で、すなわち、かつて人を殺し、いま国家により計画的に縊り殺されようとしている者の視線で、世界や国家や戦争や罪や罰について考えてみるようになった。その視座はどれほど偉大な思想家のそれよりも有効である気がしてきた。

辺見庸「独航記」(角川文庫) あとがき

 

 とここまで書いて、幼稚園へチビの導尿に行く。いかしたジェベルに乗っていく。今日は若いH先生だ。園中の先生たちが日替わりで導尿を練習してくれるのである。職員室の隅の介護用のベッドで、子は今日はじぶんでやると自らの手を消毒し、カテーテルを麻酔剤につける。そこから先、細い管を陰部に差し込むのが、うまくいかない。私は園長先生と台風時の園の閉鎖について話す。導尿が済んで、階段を下りかけると教室からトトロの歌が響いてくる。子の履いている草履の、足首に補強でかけたゴムひもがはずれる。おとうさん、はやく結んで、トトロの歌がおわっちゃう、と子が言う。大丈夫だよ、歌はいくらでもあるんだから。急いで教室に駆け込んだらお昼の前のお祈りだ。このたべものでわたしたちのこころとからだをじょうぶにしてください。ジェベルに乗って帰ってくる。帰って冷蔵庫のジンジャーエールを一口飲み、ジョニー・キャッシュの続きをかける。

 

 新聞を開くと相変わらず「テロ」や「過激派」といった言葉が眼に飛び込んでくる。もう、そういった呼称はやめにしようじゃないか。「テロ」はほんとうに「テロ」なのか。精密な爆撃機の上からシュミレーション・ゲームのように無数の爆弾を降り注ぐのが「自由を掲げた大国の政策」で、ボロ服の下に爆弾をしのばせて自らを炸裂せるのが「頭のいかれた非道なテロリストたち」なのか。そしてわたしたちはいつのまにやら前者にすり寄り、後者を蔑むのか。ハンバーガーを喰らい、ブルカを嗤うのか。そうした底の浅い無思想のレッテル付けが、じつはわたしたちの日常を、気づかぬうちに侵し、狂わせているのではないのか。日々のルーティンのすみずみの内で、それらを無関心なまま肯定しているのではないか。最先端の軍需産業に勤める技術者が自然食を喰い清貧なライフスタイルを好み環境問題について真摯に語るように。「こちら側」にいるわたしたちにいったい何がわかるというのか。愛する家族を理不尽な爆弾で微塵に粉砕され踏みにじられた者の痛みや怒りが、わたしたちに果たして理解できるのか。その爪の垢ほどを体感する想像力をわたしたちは持ち合わせているか。かれらはほんとうに「頭のいかれた非道なテロリストたち」で、わたしたちはかれらを打ちのめし根絶しなくてはならないのか。馬鹿げた話だ。そして馬鹿げた話の上にわたしたちの日々の営みが築かれていく。わたしたちのすべてが日々、それを肯定し受け入れている。

 

 幼稚園のバスを迎えにいく。同じ団地に住むジンちゃんといっしょに降りて家に帰ろうとしないのをオシッコの時間だからと無理矢理にひっぱってくる。階段を渋々ついてきながら、「いいもん、シノちゃん、オシッコとってから一人でジンちゃんちにいくもん」などといっぱしな科白をおっしゃる。手洗いにうがい、着替えをさせてから、居間でいっしょにオレンジ・ジュースとおやつのチョコ・フレークを食べる。食べ終えてからわたしの膝元にすり寄ってきたかと思う間に寝入ってしまった。窓からの乾いた風が心地良い。すきまに気持ちのいい風を入れよう。風の中でしばらく眠ろう。

 

 ときどきわたしは、どうしていいのかわからなくなる。新聞やテレビのニュースで見る世界と〈わたし〉のはざまを繋ぎ止める何物をも見い出せず途方に暮れる。日々のルーティンは溢れるほどあるのだが、それを支え成立させている確かな大地が見当たらない。聖なるコーンミールや掌を抜ける風の通い路といった、生に意味をあらしめる“隠れた力”がどこにも見つからない。かつて辺見庸は「餓死する子どもを世界の中心に据えるなら、ことばはもっと戦闘的になっていい」と書いた。そしていまかれはふたたび、国家によって縊り殺される男の視線から世界を見つめたいという。そこから見えてくるものは、おそらく「自明なるものの反転」である。わたしたちの内に巣くったどろどろした面妖な菌糸のように四肢をひろげた怪物の似姿である。ニンゲンの顔をしていまい。

 

 

 世界と私の関係はどうしてこんなに疎遠なのか。あるいは「世界の時」と「私の時」はどうしてこんなにも重なっていないのか。

2004.6.22

 

*

 

 つれあいが台所のすみにちいさなテーブルと椅子を二脚置きたいと言い出したのはもう二三ヶ月前のことだ。隣の居間のちゃぶ台(?)に膳を整えるのは腰につらいし、私が留守のときには台所をしながらチビをそこで遊ばせ、二人でおやつを食べたり食事をしたりできるから。しばらくして近くのリサイクル・ショップで60センチ角のほんとうにちいさなテーブルを二千円で見つけたが、いっしょに並んでいた椅子はつれあいのお気に召さなかった。ジンちゃんのお母さんの知り合いや私の妹から余り物の椅子があるからと打診があってもつれあいはやんわりとことわった。いままでなんにも欲しいものが買えなかったから、こんどの椅子はじぶんたちがほんとうに気に入ったものをじっくり選ぼうね、と彼女は言うのである。そんな折、偶然車中から見かけて立ち寄った奈良市内のある雑貨店で、アンティークの素朴な椅子を前にして私もつれあいも「これだ」と声をあげた。チャーチ・チェアというのは19世紀の頃からイギリスなどで大量生産された教会用の椅子で、特徴的なのは、背ずりの上部がお祈りの際に(後の人が)肘を置きやすいように大きく平らになっていること、そして背中に聖歌等の本を入れるブック・シェルがつけられていること、などである(ブック・シェルはないものもあり、他に十字やクローバーの彫り抜きが背ずりにあるものもある)。なにより私はその朴訥とした飾り気のないいでたちが大いに気に入った。残念ながらそのとき並んでいたチャーチ・チェアはすべて売約済みの札がかけられていて、私たちは定かでない次の入荷を気長に待つことにしたのだが、一ヶ月ほど経って店から連絡が入ったのが月曜日。火曜の午後に私たちはいそいそとでかけて行ったのだった。色は前回見たものより茶が濃く、ブック・シェル付きが4脚に、ブック・シェルのないシンプルなものが1脚。ふたりであれこれ座り較べると、シェル付きは背ずりが後ろに心持ち反っていてゆったりできるが、シンプルな方は背ずりがまっすぐで背骨が正される感じ。前者はみんなで愉しいゴスペル・ソングでも合唱する感じで、後者はいかにも襟を正してお説教を聞くって感じで懺悔のひとつも出てきそうだなあ、などと言っていると店の若い女性も加わって、あらほんと、この子は一見素朴で可愛いらしい表情だけど、意外と厳格な性格ももちあわせているのね、おもしろい、なぞと。結局、タイプの異なるその「二人」を連れて帰ることにした。一人、1万8千9百円也。さて一晩経ってみれば、台所のすみに置かれた二脚はますます味わい深い。ホームセンターあたりで揃えたテーブルやカラーボックスなぞに較べると、モノとしての存在感がまったく違うのである。けして安い買い物ではなかったけれど、これからさらに10年20年、眼を喜ばせ、心を喜ばせてくれると思えば高い買い物でもなかったと思うのだ。今日も朝からコーヒーをいれ、ひとり椅子に腰かけてちびちびと啜りながら、これまでここに尻を乗せた人たちがいったいどんな祈りを捧げてきたのだろうかと空想している。

 

□ くるみの木 http://www.kuruminoki.co.jp/

2004.6.30

 

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 つれあいが子供会の縁で幼稚園に隣接した教会の「聖書の集い」に参加してきた。参加者はほんのかぞえるほど。だが牧師さんのはなしは、とくべつ大層なものではないのだが、つれあいに言わせるとその肉声がなにやらひどく胸につかえて、気がついたらなみだがあふれ出てやまなかった。そして訊かれてもいないのに、子どものころ、船にのった教会がやってきて、お菓子をくれたり神さまのはなしをしてくれた、そんなはなしを隣の老婦人に喋っていた。砂漠のなかを歩き続けてきたひとりの男が、ふとうしろをふりかえったらじぶんの足跡しかついていなかった。かみさまはいつもいっしょに歩いてくれると言っていたのに嘘つきじゃないかと男が叫ぶと、いいやちがう、かみさまはおまえをおぶって歩いていたのだと教えた者がいた。そんなはなしを子どものころに船の教会で聞いたのだけど、聖書にそんなはなしは載っていますかとつれあいが訊くと、隣の老婦人はそれは“シナ書”という聖書のいちばんはじめに出てくるはなしですと教えてくれた。次の日の朝、いつものように支度のはかどらない子を急き立てて幼稚園のバス停へ行く途中、団地の階段下の集合ポストの前で子どもが「おかあさん、ここ気持ちいいよ」と言う。いつもなら「早く来なさい」と手を引っぱるのだが、(じぶんでもよくわからないのだけど、と彼女は言った)なぜかふと子の言う場所へ立ってみた。するとどういう具合か風がみんなそこへ集まってきて、とても心地よい。それでしばらく子と二人でそこに立っていた。そんな話を、夜中に帰宅したわたしに彼女がはなしてくれた。

2004.7.6

 

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 チビの好きなもの。ダンボの鼻先から吹き出たシャボン玉、道端の団子虫、タンポポの綿毛、金平糖。

 夜の9時に家を出て、次の日の夜中の12時過ぎに帰ってくる。また翌日の夜9時に家を出ていく。

 相変わらず、リック・ダンコのこの世の最後の歌声に耳を澄ませている。消えていくとはどういうことだろう。残されているとはどういうことだろう。ひとはどこから来て、どこへ行くのだろう。すべてほどかれてまだかなしい、このかなしみとはいったいなんだ。

 わたしはいったいなにからひきはなされているのか。

 チビの好きなもの。ダンボの鼻先から吹き出たシャボン玉、道端の団子虫、タンポポの綿毛、金平糖。

2004.7.12

 

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 あてもなく、さきにねむった彼女とこどものかたわらにそっとすべりこみ、スタンドの灯りの下で一冊の書物をめくる。そこにはシンプルで生きて在ることばが記されている。

 

「心の奥では、私たちは神がのぞまれることだけをしたいからだ。ただ、それがわからないだけなのだ。だから、主は私たちの内部におりてきて、魂を目醒めさせ、知らずしらずのうちに魂がのぞんでいることを、はっきりさせてくださるのだ。これが秘密だよ、兄弟レオーネ。神のご意志に従うということは、自分自身の奥に潜んでいる意志に従うことだ。いちばん駄目な人間の心の奥にも、いいかい、神のしもべが眠っているのだ」

N.カザンツァキ・アシジの貧者

 

2004.7.13

 

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 チビがつれあいに連れられてリハビリへ行った昼間。夜勤明けの睡魔から目覚めた気だるい身体をベランダに据えて煙草をくゆらせる。ひさしぶりにディランの Desire をかける。欲望とは与えられたものに抗うことだ。かれはかつてこんなふうにも歌っていたよ。「ぼくが見たのは、きみが見せてくれたものだけ」 新聞をひろげ、時間単位で遊び相手を予約したり形ばかりの“二人一組”にすがろうとする少女たちの記事を読む。おれに言えることといったら、孤独を怖れるなということだけだ。なぜならジョン・レノンが歌っていたからだ。「きみが本当にひとりぼっちのとき、他のだれにもできなかったことをきみは成し遂げる」 おおきな河のうねりのような音楽をディランが物語っているよ。ああ、ジョーイのような悪党と連れだって街を歩いてみたいものだ。ビリー・ザ・キッドと夜のしじまの中を駆けていきたいものだ。その果てにはなにがあるのか。そこには〈黄金の町〉がある。そこでは魂を生かしめるものだけが尊重される。ほんとうのじぶんというものが試される。

2004.7.15

 

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午後、風通りのいいベランダ越しの寝室に寝ころがって、豆パン屋さんでお借りした池澤夏樹の「神々の食」(文藝春秋)をぱらぱらとめくる。沖縄の食材に取材したエッセイだが、まえがきの「人の口に入るものを用意する際の基本は誠意である。怪しいものを供してはいけない。この基本を忘れて、ここ何年か、どれほど日本人の食生活は乱されたことか」という一文に改めて肯く。それにしても旨そうな、そして神聖な、こころ踊る食材ばかりだ。豆腐に始まり、かまぼこ、思わず数年前の酒造りの作業を思い出してしまった与那国島の泡盛....。夕刻になってエアコンの修理に出していた車を、奈良市のマツダのディーラーへ受け取りに行く。久しぶりに奈良駅へ出たら、新聞では知っていたのだけど、あの上野の博物館のようなJRの駅舎が北側へ数十メートル、動いていた。リニューアル工事のためで、旧舎はすったもんだの挙げ句、保存されることになったのである。帰りに大安寺にできたイオン・ショッピング・センターでつれあいに頼まれていた買い物を済ます。池澤夏樹本の影響で沖縄産の安い泡盛を一本買う。チビに好物のひまわりの種と、昔ながらの馬蹄型の磁石(砂鉄付き)を買う。 ... どこにも落ち着かないで/ どこにもたどり着かない / 風のオートバイに乗って / 虹の彼方までさ. ... 。入れっぱなしにしていたカーステの中のマーシーを聴きながら帰って来る。リハビリから帰っていたつれあいたちと夕食を食べ、穴を空けたダンボール箱に薄紙を貼り、その上に砂鉄を散らしてチビと磁石でしばらく遊ぶ。夜、エアコンが治った祝いにとか何とかかこつけて、お風呂を済ませパジャマ姿のチビをドライブに連れ出す。天理の石上神宮。石灯籠の灯りばかりの人気のない静謐な境内をそぞろ歩いて、かみさまや木の話をしたり、古代の黒曜石のような池の水面を黙って見つめたりする。帰りの車中でチビは眠ってしまう。古事記を口伝したと伝えられる稗田阿礼を祀った売太神社のわきに車を停め、車外で煙草をくゆらせる。家に帰って、サンダルを脱がしただけのチビをすでに寝ているつれあいの横に滑り込ませ、シャワーを浴び、泡盛をロックで、モリスンの No Guru, no method, no teacher をかけながら、これを書いている。

2004.7.15 深夜

 

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 午前中、つれあいが美容院へ行っている間、チビを連れて天理へ。天理教本部近くの駐車場に車を入れ、豆パン屋さんで教えてもらった本部前の出店の履物屋で子ども用の畳仕様のサンダルを600円。豆パン屋の娘さん(チビと同い年)が履いていたのと同じもの。それから駅まで続く昔ながらの商店街の文房具屋でチビが風船(6つセット・105円)を買い、天理教関連の専門書店を覗き、もういちど本部前に戻ってきてお祭りのお面を売っている店でチビがアイスクリン、200円。裏手の公園の木陰下で“おぢばがえり”の予行練習をしていた小中学生の楽隊の演奏をベンチに座ってしばらく愉しんだ。折角来たので新しくなった参考館をチビに見せてやりたかったのだが、帰って風船で遊びたいと言うのでまたこの次の機会に。車の中でオシッコを摂って帰ってきた。

 「名犬ラッシー」のビデオ返却の際に松岡正剛のNHK人間講座テキスト「おもかげの国、うつろいの国 日本の“編集文化”を考える」を購入。560円。

2004.7.18

 

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 仕事に就く前の僅かな時間、勤め先にテナントで入っている書店へ前日の朝刊から切り抜いてきたジャン・ボードリヤール「暴力とグローバリゼーション」(NTT出版・@1995)とノーム・チョムスキー「秘密と嘘と民主主義」(成甲書房・@1575)の広告を手に立ち寄り、後者があったので購入した。下手なテレビのワイド・ショーを見るよりずっと面白いし、それにワイド・ショーにはない真実の毒と論理がある。前者はネットででも購入するつもり。

 

 チビははじめて三輪車をまともに漕いで何往復かすすんだ。つれあいが夕食の支度をしている間、預かってくれたジンちゃんのお母さんが滑りがちな左足のペダルを足とビーチ・サンダルの間に挟んでサンダルのベルトで固定したら、まだハンドル操作はおぼつかないがするすると漕いでみせたそうだ。

2004.7.19

 

*

 

 

 限りなく抽象でいながら、限りなく具象に近い。
 おずおずと打ち叩いた原初の音のカケラのようにも聞こえるし、弥勒の世に到来する未来の響きのようにも聞こえる。
 会場で流れていたきらきらと跳ね踊る光の粒のようなピアノ・ソロがセロニアス・モンクの演奏だと聞かされて、私は軽い衝撃を覚えたのだった。

 ところで“風の化石”とは言い得て妙である。
 風が化石になる筈がない。なる筈はないのだが、ひょっとして太古の昔にそのような奇蹟があったのかもしれないし、いまもどこかでそんなことは起こり得るのかも知れない。

 作品も、そんな音楽やタイトルと照応している。

 幾千年の波と風に晒された乾いた黄土質の地層のような画布に、しろい、淋しい人形(ひとがた)がまぼろしのように浮かびあがって見える。
 その人は、いま生まれ出るようで、すでに過ぎ去っていた。過ぎ去ることを潔しとしていた。
 さみしい黄土質の地層と風のような流砂にいまにもかき消されようとしていながら、人は、微笑んでいた。

 私はその絵と共に在りたいと思った。
 その絵と共に生き続けたいと願ったのだった。

 

 

 2004年7月22日、神戸。はるさんの個展(こしかたのき3 こうべ)で、私は生涯ではじめて一葉の絵を購入した。心優しき画伯は値引きの上、分割払いを許してくれた。

2004.7.25

 

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 22日(木)は昼食を済ませて出発。名阪から湾岸道路を経てまず神戸・六甲アイランドの神戸ファッション美術館へ。ファッションなど縁もゆかりもない私だが、18世紀からの西欧衣裳の変遷や20世紀のデザイナーの作品、それに世界の色とりどりの民族衣装やその技法など、まぁ、それなりに愉しめる。つれあいは例のコルセットでぎちぎちに締めて雄鳥のような尻を付けた貴族のドレスを前に「わたしもこんなのを着てみたいわぁ」と宣い、レース編みのハンカチをうっとりした表情で眺めていたが、私はどちらかというと民族衣装、それもメキシコやモンゴル、ペルー、中東あたりのデザインに親しみを感じてしまうな。企画展で「古今東西はきもの展」というのもやっていたけど、こちらもやはり煌びやかなブータンのブーツやミャンマーのアメンボウのような下駄がかっこよかった。ところで六甲アイランドって、たぶんはじめて行ったのだが、車窓から過ぎいく洒落た住居群の窓窓を眺めながら、こんな人工的な町は清潔そうで機能的なのかも知れないがオレはダメだなぁと思った。地の霊から切り離された漂泊された洗濯物のコマーシャルのような感じなのだ。人は徐々に狂っていくだろう。六甲アイランドにお住まいの人がいたらごめんなさい。さて、予告通り5時頃に三ノ宮駅前のはるさんの個展(こしかたのき3 こうべ)に出没。1時間ほど絵を見せて頂いてから、奥様が聞き探ししてくれた駅前商店街沿いの(たしか)ニョッキというイタリアンのお店でいっしょに夕食、一年ぶりの再会をガス入りミネラル・ウォーターで祝ったのだった。ちなみにはるさんご夫婦がご馳走してくれたそのお店はつれあいもひどく喜んでいたほど大変美味で、あまりの美味しさに私は数千円しか入っていない貧しい財布を店内に落としてきてしまったのだが、そんな顛末は私の名誉のために端折っておく。それと、私は生涯ではじめて本物の絵を購入した。その“風の化石”と題された小品については昨日、ここに書いた。太っ腹な値引きと貧者のための分割払いを許してくれた画伯に感謝を。絵が届いたら、飾る場所はもう決めている。9時半頃に神戸を出て、湾岸から阪和道経由で11時過ぎに和歌山着。

 その後、23日(金)は昼からチビを連れて海南市にある和歌山県立自然博物館へ。チビは「お母さん、このお魚は顔が上にも下にもあるね」と水槽の中を優雅に舞うエイがお気に召したようで、そればかりを追っていた。「貝の和名に見られる日本人の感性」と題された特別展も面白かった。24日(土)・25日(日)は疲れがたまっていたのかどうも体調がすぐれず、つれあいの実家の仏壇の前でだらだらと寝てばかりいた。夜になって灯りの灯された仏壇の前で線香の薫りに包まれて寝ていると、この世とあの世の境にいるようで妙に気持ちがいいのである。それでも24日は午後から近くの海岸へチビをはじめての海水浴に連れていった。が、初っ端から海水を飲み込み、慌てて砂浜に置いていたタオルを口にねじり込んでからは「海がキライ」になった。あとは打ち上げられたクラゲを棒でつついてばかりいた。25日はクーラーの効いた部屋で寝そべって箕島高出身のつれあいや義父母らと高校野球の和歌山県大会の観戦。箕島対智弁和歌山は0対3。いろいろやりたいこと、行きたい場所はあったのだが、ことしの夏休みはまあ、こんなところ。25日の夜中に奈良へもどってきた。チビは今回、じいちゃんやその他ご近所有志の方々からキリギリス1匹・スズムシ6匹・メダカ20匹を頂戴し、別れ際、義父母に「シノちゃん、このキリギリスをおじいちゃん・おばあちゃんだと思って大事にするからね」と泣かせる科白を宣ったのであった。

2004.7.26

 

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 南の湿った風が吹き始め、空が不気味なほどしんと静まりかえり、やわらかでいて、どこか気圧の膨らみのひりひりとした予兆を感じさせる台風前夜というのは好きだな。何か想像もつかないことが起こり、地上のあらゆる事象を見事にひっくり返してくれるんじゃないかという期待で胸の奥底の理屈にならない部分が知れず弾んでいる。

 今日、ノーム・チョムスキーの本の中で「一着になった者は富のすべてを手中にし、二着になった者は餓えて死ぬ」という言葉を読んだ。かつて辺見庸が記したように、飢餓で死ぬ子どもを世界の中心に据えたら、それはこの世界の真実だろうと思った。

 ありとあらゆるこの世の一切合切を吹き飛ばすような嵐のなかに立ってみたい。限りなく膨張しついに破裂する空の裂け目のようなものがあったら、「もっとその近くへ、もっとその近くへ !! 」と叫んでいたい。

2004.7.29

 

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 8月1日。

 ジャン・ボードリヤール「暴力とグローバリゼーション」(NTT出版・@1995)が届いた。

 レンタル屋へ行って昼はつれあいとニコラス・ケイジ 、ティア・レオーニ 共演の「天使のくれた時間」。夜はアニメ版「銀河鉄道の夜」を、チビと二人で見た。宮澤賢治原作、ますむらひろし画、別役実脚本、細野晴臣音楽、1985年制作。豊穣な賢治の作品イメージをセリフに頼らず美しい画面によって物語った姿勢は爽やか。場面ごとに「どうしたの?」と尋ねながら、チビは1時間40分を食い入るように見続けた。

 

 8月2日。今日はこれからチビと洞川の山の水を汲みに行ってくる。

2004.8.2

 

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 お父さんと山に行こうか。そしておいしい水を汲んでこようか。幼稚園のスモッグを作るというつれあいを残して午前9時、チビとキャロルで出発。途中の「道の駅」で鯖と鮭の混ざった7個入りの柿の葉寿司一箱を買い、吉野山の深奥の行者道と並走する見晴らしのいい林道沿いでチビが3つ、私が4つ食べた。そして天上のハイウェイを二人で大声で笑いながらカントリーロード(もちろん「耳をすませば」のやつだ)を歌い、洞川に下りて行者堂の横でポリ容器を水で満たした。きみは休憩中の巡礼客たちに大きな金平糖を三つもらい、堂守りのお婆さんに茹でたトウモロコシをもらい、ワンピースの前をびしょびしょに濡らしながら柄杓の冷たい水を何度も何度も嬉しそうに呑んだね。熊野の重畳とした山並みを背後にきみは吹き荒れる風にやめてやめてと叫んでは笑い転げ、また途中の道端に転がっている間伐の端材を二人であれこれ物色して拾ってきた。光の粒のような滝の飛沫を浴びては弾けるように笑い踊った。きみがいまいる場所は、かつてはお父さんがたった一人で立っていた大切な場所ばかりだ。そして山は、きみが望むものすべてをきみに与えてくれる。ジョバンニとカムパネルラの旅といっしょだよ。

2004.8.2 深夜

 

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 ノーム・チョムスキーの「秘密と嘘と民主主義」(成甲書房・@1575)は、いわば21世紀のジョージ・オーウェル「動物農場」、あるいはレノンの Working Class Hero 現代版である。ささくれだった場所にひとり、最後の灯台守のように立っているきみはこれを読むといい。少なくとも撃つべき敵の姿は見えてくる。私たちの魂を勝手に喰い散らかす奴輩どもの朧(おぼろ)なその輪郭くらいは。巨万の富にぶくぶくと肥えた醜い腹の下で餓えて死ぬいたいけな少女のこの世の実像くらいは。かつておれがみずからすすんで泥の中の寄生虫のようでいたとき、奴らは善人のように薄笑いを浮かべ、上手に背を向けた。おかしな話じゃないか。おれたちはいまだにあのレノンの歌のように「麻薬とテレビとセックスで縛られている哀れな奴隷」に過ぎない。Gimme Some Truth のように飼い慣らされた従順な豚にすぎない。おれたちは豚だぜ。あんたは「自由市場」とやらで羽根をひろげた金の雌鳥だとでも思っていたのか。スラムのゴミの山を漁るガキどもより幾分は高級なニンゲンだとでも思っていたか。ノラ・ジョーンズがザ・バンドの Bessie Smith を歌っている。まるで深く静かな川面の闇を滑るように羽ばたいていく一匹の夜光虫のようだ。

2004.8.5

 

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 チビはつれあいの実家からお爺ちゃんお婆ちゃんに従姉のSちゃんがきて、夜、みんなでなら燈花会を見に行ってきた。

 私は夜中に帰ってきて、Jimmie Rodgers のCD5枚組・全109曲入り「Recordings 1927-1933 」(@3,401)を Web で注文した。

2004.8.7

 

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図書館のリサイクル市でもらってきた本。ミシェル・フーコー「言葉と物 人文科学の考古学」、ウィリアム・バロウズ「裸のランチ」、佐木隆三「証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪」、森茉莉「贅沢貧乏」、マイケル・オンダーチェ「ビリー・ザ・キッド全仕事」、ジョルジュ・バタイユ「青空」、長田弘「詩は友人を数える方法」、森本哲郎「神の旅人 パウロの道を行く」、レイ・デイヴィス「エックス・レイ」。全9冊。

 夜、三人で Good Will Hunting を見た。

2004.8.8

 

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 ディランの 1984年の David Letterman Show での演奏を聴いている。有名なテレビ番組の生放送で、かれはこのとき若手のニュー・バンドをバックに、一度もリハーサルをしたことのない曲を、コード進行も教えず、いきなり歌い出す。バンドは必死だ。全身を研ぎ澄まされた耳にして、次の瞬間、奈落に落ち込むかも知れない崖っぷちの道をつんのめりながら脇目もふらずに疾走し始める。そしてディランのボーカルは、そんな宙づりのスリルと緊張感の上で危うく跳躍し、ワイルドで限りなくメタリックな輝きを放っている。いわばこれは一瞬の賭けだ。いまのおれに欠けているのはこういうものかも知れない。わかるかい? うだうだ言ってるのはもううんざりなんだ。

2004.8.10

 

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 島巡りと昆虫をこよなく愛し天才的なギター弾きでもある(たぶん)、同じ防災センター内で働いている“設備屋”のKさんより、おすすめのCD3枚をお借りした。Hound Dog Taylor and the HouseRockers の「Natural Boogie」、Jesse Fuller の「Frisco Bound」、そして Patti Smith Group の「Easter」。夜中に帰って早速聴いた Hound Dog Taylor は、一発目の Take Five で吹っ飛んだね。なんてイカれてイカしたサウンドなんだ !! こいつは鳥籠の中に入ったことのない音楽だ。つまり四辻と日照りと土埃と広大な麦畑のまん中からひょいと飛び出してごろごろと不敵に転がり続けていくような音楽だ。そしてこの音楽には愛嬌と祝祭がある。つまり、ソウルに支えられたタフなカーニバルのような音楽なのだ。まぁ、聴いてくれよ。こんな音楽を聴いたらうじうじなんてしてられないぜ。

 

 ノーム・チョムスキーの「秘密と嘘と民主主義」を読了。

2004.8.12

 

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 エミール・クストリッツァ監督の映画「アンダーグラウンド」を見た。「なんという挑発的な映画だろう。なんと蠱惑的な映像であろうか。「アンダーグラウンド」は、戦後民主主義がわれわれに植えつけた善と悪の図式をずたずたに引き裂き、破壊の果てにほの見える新しい価値観へと、眠りかけた魂をそそってやまない」と辺見庸が記したこの作品は、いわば終わりなき破壊と流血の果ての重たい哄笑である。結局のところ、みんなでたらめじゃねか・笑えない喜劇じゃねえかという叛逆の一編であり、ラスト・シーンで登場人物たちの幻世のごとき宴が地上から離れ海の彼方へと漂いゆくのは、否定に次ぐ否定の果ての離脱への讃歌・希求のようなものだ。通奏低音のように随所で流れるブラスのジプシー音楽もじつに印象的。おすすめ・だよ。

2004.8.16

 

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 夕飯の席。チビがじぶんのおはじきのような硝子の箸置きを手にして突然、話り始める。「そしておじいさんは、しばらく手の中で金貨をころがしていましたが、それをそっと地面に置いて、帰っていきました」 つれあいに訊くと、図書館で借りてきた「ハリネズミと金貨―ロシアのお話」(ウラジーミル・オルロフ・偕成社)という本のラスト・シーンだという。森で金貨を拾ったハリネズミがそれで冬籠もりの支度品を買おうと思うのだが、思う品々を行き会う動物たちがみな分けてくれ、結局、また誰かが使うだろうと金貨を道端に戻して家に帰っていく話だ。社会主義の時代のロシアでの、お金よりも人と人との助け合いがいちばん大事だという教訓が反映されている物語なのだという。おはじきのような硝子の箸置きをテーブルに置くと、チビは舞台を降りた素人劇団の俳優のように照れ臭そうに笑った。

 

 

 チョムスキーの「秘密と嘘と民主主義」の中から。

 

 ひとつには、米国人の消費の多くは、人びとが本当に欲しいと思ったり必要とするものとは関係なく、人工的に作り出されているということが挙げられる。そうして買ったものの多くは、おそらく人びとの生活を豊かにしたり、幸せを実感するのに必要なものではない。
 経済の健全性を利潤によって測るのであれば、不要な消費は健全といえる。しかし一般市民に与える影響という尺度で測ると、そうした消費は----とりわけ長期的には----非常に有害である。

 

 社会の底辺にいる人びとは、富みの生産(じつは利潤の生産)には不必要な存在だ。さらに社会の基本となるイデオロギーによれば、人間の持つ権利は、その人が市場システムの中でどれだけの収入を得ることができるかによって決まる。したがって、貧しい人びとは人間として価値がない。

 

 人びとが上からの命令に従わなかったり、管理者に提案をすることはあるが、奴隷制社会でもそれは同じだ。企業のオーナーや投資家でない人は発言権をほとんど持たない。人びとが自分で選べるのは、企業に労働力を提供する、企業が生産する商品やサービスを消費する、命令系統のなかに自分の居場所を見つける、そうした行為だけだ。一般の市民が企業に対して行使できる支配権とは、しょせん、その程度のものだ。

 

 二人のランナーがまったく同じ条件で走るとしよう。スパイクからスタート地点まで、あらゆる条件は同じ。レースの結果、一着になった人は欲するもののすべてを手に入れる。二着になった人は餓えて死ぬ。これが現実なのだ。

 

 企業の存在そのものが、基本的な部分で違法なのだ。この事実を指摘することは今でもできるし、またそうすべきである。企業が現代における形態で存在する必要はまったくない。

 

2004.8.18

 

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 20日は家族三人で午後からぶらっと奈良市の正暦寺へ。わが家から車で15分ほど。日本酒発祥の地と伝わる清流と深い緑に囲まれた境内は深山の趣だ。平日のためかほとんど人気もない。時間が昼寝を貪っているような一刻。チビと紅い花弁をシャンデリアのようにつけたさるすべりの木にカタツムリをみつけたり、小川に葉っぱの舟を流したり。「靴は脱いでくださいよ」「いや、これは装具なんです」 本堂でのそんなやりとりからつれあいは寺のおっさんとしばし病気の話。わたしはその間、チビをつれて弁才天の池のはたでおやつを食べたり、石仏を見に行ったり。薬師如来に供えていたペットボトルの源流の水をもらった。

 台風の接近に伴う雨模様で23・24日と職場の同僚と予定していた本宮キャンプは、場所を本宮から天川へ移し、日帰りの温泉&バーベキューに変更して翌週に順延。

 22日は代わりにシュタイナー関連の蔵書や玩具などが置いてある宇治市の絵本とヨーロッパの木のおもちゃの専門店「KID'Sいわき(ぱふ) 」までドライブがてら。Webで絶版だった「シュタイナー学校のフォルメン線描」(H.R.ニーダーホイザー・イザラ書房・@1500)の他、ドイツ製の水で洗い流せる色つきチョーク・セット、採取した昆虫を入れてフタについた虫眼鏡で観察するキット、それと七色のヘビを組み合わせるカード遊びなどを購入。つれあいは織物機も見ていたのだが、ちょっと単調かな、と。また北海道でシュタイナーの思想に基づいた様々な活動を行っている人智学共同体 ひびきの村 ミカエル・カレッジのパンフも入手。お金に余裕があったらチビをこんなサマー・プログラムに行かせてやりたいな。店で2時間近く過ごしてから、宇治川の天ヶ瀬ダムの裏にあたる森林公園で昼食。夜は帰ってきてアポロのおっちゃん推薦のいごっその塩ラーメンをついに食べたが、これはじつに旨かったね。端正で品格のある、人を幸福にする味だ。私もチビもスープの最後の一滴まで飲み干した。こんどAが来たら連れていってやろう。

 今日は雨中の買い物。ホームセンターでチビの工作用のセロファンと、めだかの水槽の掃除用スポイトと苔の抑制剤。本屋でわたしが「自然木で木工」(安藤光典・農文協・@1600)を。店頭で中古のビデオやCDを売っていて、グレイトフルデッドのファーストを200円で買った。

2004.8.23

 

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 相変わらず、馬鹿のひとつ覚えか壊れた古いレコードのように、ジェベルで夜の路面を舐めるように走りながら再結成したザ・バンドの最後のアルバムばかりを口ずさむ。最盛期のように顫えるようなスリルや輝くばかりの楽曲があるわけではない。そこにあるのは、そうだな、こんな言い方を許してもらえるなら、人の過ぎ去り方のようなものだ。酸いも甘いも知った男たちの行き着く先、どこでもない麦畑で演奏される草笛のような音楽だ。音楽はそこに流れていて、かれらはいない。だが、なかば雑草に埋め尽くされかけたような、歩いていきたい小径があるのを見つける。

 

 ----ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか。」 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。

コリント人への第一の手紙

 

 夜のなかで、夏の力強い光を見あぐ。葉を縁取り切り裂くような光に晒されて、血管の中を砂がさらさらと流れゆくような心地がする。眼を閉じるとまなじりや耳の奥から、砂はとめどなく流れ出てゆくのだ。わたしは空っぽの白骨のように突っ立ち(ひどくさみしい)。死んだ者たちは、どこへ行ったか。どんな感覚を得、あれからどんなかたちをさすらっているのか。かれらとこの真昼の光の中で交信することは可能か。山川草木のようなものか、いま耳元をよぎっていったものはそのちんけなはしくれか。どのみちおれも行くのだが。どのみちこの草に埋もれかけた小径を歩き続けるのだが。

 

 生きていることの証のように白骨はかんらかんらと響く。空(から)の臓腑が痛む。気がつけば、ことしの夏の終わりもまた。

 

 ----死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「このことについては、いずれまた聞くことにする」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。

使徒行伝

 

2004.8.25

 

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 福島在住の友人が送ってくれた凍み天が旨い。もともと江戸時代より「厳寒期、東北特有のヤマセで冷凍乾燥された」保存用の草もちに「ドーナツ風の生地を付けて油で揚げた」アイディア商品だそうだが、外はふかふか中はもっちりのこの触感が実にヒット。まだ未体験の方は、ぜひ賞味あれよ。

 和式鍛造小刀に憧れるこのごろ。数日前からあれこれネットを検索している中で、いま涎を垂らしているのは佐治武士作の「伝古式狩猟刀「白狼」4寸・両刃」。う---ん。カード払いで衝動買いしてしまうかも知れない。一本の小刀とは、生き延びる術であり、生き方そのものであった、そのような世界に憧れる。

 夜、チビとレンタル屋へ。チビは自ら選んだディズニーの短編集 Silly Symphony Series。他にロビン・ウィリアムス主演・フランシス・フォード・コッポラ監督の「ジャック」ジャン・ボードリヤール「暴力とグローバリゼーション」で引用されている「マイノリティ・リポート」を借りようと思っていたら、中古ビデオが200円で売っていたのでそいつを買ってしまった。ディックは好きだけど、この映画はサテ、どうか。

 蛇足だが、こんなおすすめのPC壁紙は如何すか。

2004.8.28

 

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 夏休みさいごの日曜はぶらっと京都の高山寺へ。明恵上人ゆかりのこの古刹はわたしもつれあいもまだ訪ねたことがなかった。故郷・紀州での孤独な修行を経て、後鳥羽上皇より栂尾の地を賜り高山寺を建立したのが明恵34歳のとき。以後、60歳で入寂するまでの後半生をこの寺で過ごした。当時の建造物で唯一残っている石水院は、もともと教典などを収蔵しておく図書館を兼ねた僧侶たちの学問所であったようだ。そこに明恵の自筆だという、自らに課した日々の戒律(予定表)が黒板にぎっしりと薄れかけた白墨で記してあって、ああ、あの自由奔放な夢記も生物全般まで拡大された透徹でのびやかな感性も、この終わりのない日々のルーティン・ワークから生まれ出でたのだと思い、あたかも厳格な教師然たる黒板上の白文字が、逆に、明恵のただただブッダへの素朴な帰依を如実に表しているように見え、その素朴さが熱心なこどもの戯れのように見る者をやわらかく圧倒するのだった。閑かな木立に囲まれた廟所の前に立ったときの感慨も忘れ難い。ああ、ここに明恵が眠っているのだ・真に己の欲する「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」を頑固に貫いた一個の魂が眠っている、と思った。廟所の背後に続く杜(もり)はどこまでも深く、この山ふところのそちこちが明恵という童心の格好の遊び場であったろうと偲ばれた。ふと手元の寺のパンフをめくれば、明恵の樹上坐禅像とフランチェスコが小鳥に説教する場面を描いたジョットの絵が並んでいる。明恵は1173年、フランチェスコは1181年の生まれ。同時代に生を受け互いに似通った生涯を送った二人を顕彰して高山寺と聖フランシスコ大聖堂が兄弟教会(ブラザー・チャーチ)の約束を結んだのだそうだ。

 石水院でつれあいは「こんな離れが欲しい」と嘆息し、わたしは奥山を見上げ「この寺をおれにくれないかな」なぞとほざいているので、チビはここに引っ越すのかと思ったらしい。「しのちゃん、このおうち、いいわ(要らない)。かいだん(石段)が多いし」とやおら言い出すのだった。

 

 帰りは杉坂をまわって京見峠へ出る狭い山あいの途中で湧き水を発見、積んでおいたポリタンクに取水した。大量のペットボトルに汲んでいた京都市内に住んでいるという60代ほどのおばちゃんの話では、多いときは2時間待ちの行列ができるのだという。市内に下り、上賀茂神社の広い芝生でしばらくチビと戯れてから奈良へかえってきた。

2004.8.29

 

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 台風接近中のため車出勤をした翌晩、帰りの車の中でカーステのスイッチをひねると、流れ出すのは若きモリスンのシャウトする Baby, Please Don't Go だ。これはたんに恋人に去られたさみしい男の歌か。いや、違う。これはあらゆる喪失についての歌だ。失うことの意味について。失うことの悲しみを知っている人間は、いつか希求することもできる。これはそんな己を再確認するための曲だ。ついでモリスンとリチャード・マニュエルのボーカルがからみあう 4% Pantomime 。本当の意味でモリスンのソウルとわたりあえるのはリチャードの声しかない。二人の男がテーブルをはさんで「おい、いったいだれがジョーカーをもっているんだ?」と言い合っている。この地上に、この曲以上のどんな意味があるだろうか? ボールルームの喧噪がやむと、静寂のなかから始まるのはモリスンがアイルランドの民謡バンド・チーフタンズと共演した美しい故郷の調べ Raglan Road だ。この曲はいわば、聖玻璃の風のなかでいま生またばかりのやわらかな魂がふるえ、響いているような、そんな曲だ。すくなくともわたしにはいつもそのように狂おしい。Enlightenment, don't know what it is でモリスンは禅の公案について言及する。“樹を切り、水を運ぶ。片手で鳴る音は如何様なものか” 最後ははちきれそうな Bulbs 。かつてこの曲をウォ−クマンで聴きながら、初冬の会津盆地をひとり旅した。わたしはからっぽだった。どこまでもあるきつづけた。松岡正剛のテキストによれば、古来「無常」とは、からっぽの器のなかから何かまったくあたらしいものが生まれ出てくることを指したのだという。それが「うつろ」であり「うつろい」の本義である、と。そのようにわたしは、いつかも、そしていまも、からっぽであった。からっぽであることのさみしさに、ころがりつづけていた。

 曲の終わり頃にテープが切れ、車は駐車場に着いた。

2004.8.31

 

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 先日、おなじ職場で働くビル・メンテナンス担当のK氏宅へ遊びにいった折、お借りしてきたビデオ・CDの品々。ビデオは映画「ブルース・ブラザース2000」、ジョー・ストラマーやコステロ、デニス・ホッパー等が参加したはちゃめちゃ活劇映画「Straight To Hell」、ザ・ポーグスの「Live At the Town And Country」、ジャニス・ジョプリンが1967年にアメリカのテレビ番組に出演したときのライブ・フィルム。CDはドクター・ジョン「Goin' Back To The New Orleans」、ドクターの名盤「ガンボ」のオリジナル楽曲を集めた「The Roots Of Gumbo」、ブルースものではミシシッピー・ジョン・ハートのベスト、ブラインド・ボーイ・フラー「Truckin' My Blues Away」、60年代の英異彩オルガニスト-グラハム・ボンド・バンドの1st&2ndを合わせた「The Graham Bond Organisation」、ニューオーリンズのピアノ弾きであり前述ドクター・ジョンの師匠でもあるというプロフェッサー・ロングヘアーの2枚組ベスト「'Fess: The Professor Longhair Anthology」、キャロル・キング「Rhymes & Reasons」、ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドのシングルを集めた2枚組ベスト盤。どれもこれも極上の逸品ばかりで、食い過ぎで腹をこわしそうだ。それとエレキ・ギターを一本と、ブルースギター・コードブックを一冊、頂戴した。ああ、音楽はなんてステキなんだ。3畳ほどの豚小屋にひとり閉じこもって、一日中ヘッドホンで聴き続けていたいぜ。したり顔のやつらがむかえにきたって、おれは出ていかないぜ。

 いつかの朝、新聞をひろげてたくさんの子どもたちが血にまみれた遠い国の記事を読む。泣き叫んでいる母親たちの写真を見る。500の散らばった死体。500の踏みにじられた魂。ベランダに出て煙草に火を点ける。まのびした平和な日曜の朝だ。新聞に書いてあるこの記事がほんとうなら、目の前のこの風景は最高のいかれたペテンに違いない(ビートルズの I'm lookin' through you だ)。おれは The Pogues のDirty Old Town を口ずさむ。ポーグスはトラッドとパンクが共存しているのが最高なんだ。はちきれそうな音楽だ。

2004.9.6

 

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…南風原村の、昨年の旱魃にやせているサトウキビの灰白色の穂が、雨まじりの激しい風に波立つ小丘陵の斜面に、一族の門中墓からも孤立していたひとつの墓については、本土の日本人が、それとは無関係にわきを通りすぎる、ということはむつかしいのであった。ひび割れた鳥のフンの白くかわいている石塔の表には、弓太郎、タガコ、と夫婦の名のみが優しい書体できざみこまれている。しかし、裏面の文字は1945年5月22日、日兵逆殺(碑文のまま)と「日兵逆殺」のなまなましい四つの文字が、かさねて追体験されるものであったであろうことを、われわれは十分に考えあわせたであろうか?

大江健三郎「思想史を歩く」(1972年4月24日 朝日新聞)

 

 新垣弓太郎は1872年、沖縄の南風原町に生まれた。「1893年沖縄尋常中退学。東京・台湾を渡り歩いた後、東京専門学校に書記として務める傍ら下宿屋を営む。98年に諸花昇らと共に奈良原繁治下の沖縄県政を批判して、自由民権運動を展開する。民権運動の挫折後は、東京で孫文の知遇を得て、中国革命に参加。敗戦後は、沖縄独立論者として活躍した」(http://www.waseda.jp/koho/ichizu/okinawa.html) 中国からの帰郷後は晴耕雨読の生活を送っていたが1944年、米軍の沖縄上陸の際に避難した壕の中で民間人を追い立てようとした日本軍兵士に抗い妻を射殺された。戦後、かれは夫婦の名で裏に「日兵逆殺」と刻んだ墓を建て、じぶんが死んだら妻といっしょにここに葬って欲しいと言い残し1964年3月19日、92歳で波乱の生涯を閉じた。

 

 職場で休憩の合間に佐木隆三の「証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪」を少しづつ読み継いでいる。胸がつかえ、重たくなる。立っていることがままならなくなる。避難壕の中で赤ん坊の泣き声をなじられ子どもを抱いて外へ出て、やがてひとりで戻ってきた母親。ほとんどでっちあげのスパイ容疑で惨殺され燃やされた一家。軍人に自決を迫られ手投げ弾で四肢粉砕した無数の母親や老人やそして幼い子どもたち。見せしめに処刑された男とかれを泣きながら銃剣で突いた地元の女たち。そんな話がどろどろと流れ出すマグマのように頁を埋め尽くし、吐き気さえ覚える。そしてこれらの光景は、いまも、アフガニスタンやイラク、チェチェン、パレスチナ、スーダンなど、世界のいたるところで繰り返されている。無数の女や男や子どもたちがいまも虫けらのように死んでいく。

 

 新垣弓太郎はみずから建てた墓に夫婦の名を仲良く並べ、没年を妻が殺された1945年5月22日としている。その日に、じぶんも妻といっしょに死んだのだ、と言うのだろう。佐木の書によれば、戦後かれは人づきあいも避け、ひとり家の裏の樹木の世話に没頭したという。冒頭に引用した大江の言葉が語っているように、新垣弓太郎がその墓にすべてを託し、沈黙した、その言うに言われぬ思いはまさに何度でも「かさねて追体験されるもの」であるだろう。忘却されてはならない。わたしはいつか、沖縄のその墓を訪ねてみたい。むせかえるような草いきれの中で、分解し地面に溶けていった無数の死者たちの声にこの身を晒し立ち尽くしたい。

 

 

沖縄戦の記憶 http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/

沖縄情報センター>沖縄戦 http://www.asahi-net.or.jp/~lk5k-oosm/war.html

いちゃりばNET>沖縄戦の絵 http://w1.nirai.ne.jp/ken/uruma.htm

戦争を語り継ごう>沖縄戦リンク集 http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/okinawa.htm

ARC平野裕二のサイト>沖縄と教科書問題 http://arc.txt-nifty.com/arc/2004/06/post_20.html

低気温のエクスタシーbyはなゆー>小学校教科書から沖縄戦での日本軍による『住民虐殺』の記述が消えた http://ch.kitaguni.tv/u/1023/%bb%fe%bb%f6%a1%f5%bc%d2%b2%f1%cc%e4%c2%ea/0000091148.html

2004.9.14

 

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 散髪に行く。五分刈りよりやや長めくらいにしてもらう。The Times They Are A-Changin' のジャケットのディランのようになった。チビの批評は「おにいさんみたい」。

 歯医者に行く。一年前に欠けた前歯を入れてもらう。

 チビは幼稚園で芋掘りに行く。次の日の朝、開口一番先生に「きのうのおいもさんはくりでしたねえ」と言ったとか。

 Amazon.co.jp で新城俊昭「高等学校 琉球・沖縄史」(編集工房・東洋企画 @1,575)と 岡本太郎「沖縄文化論―忘れられた日本」(中央公論社文庫 @720)を注文する。

 佐木隆三の「証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪」を読了する。歯医者の待合室でレイ・デイヴィス「エックス・レイ」(TOKYO FM 出版)を読み始める。

2004.9.18

 

*

 

 和歌山からの帰り。深夜。岸和田サービス・エリア。車内で眠っている彼女。サービス・エリアの石のベンチに並んで腰かけているチビとわたし。まばらな車。外灯。やわらかな夜の空気。懐かしいカルカッタの空港のような。いつかもこんな感じだった。まだ恋人でもなかった彼女が友達と鎌倉に遊びに来たときに、無理矢理に当時わたしの住んでいた北関東の土地に彼女を誘った。東京駅から、二人で高速バスに乗り込んだ。当時、彼女はまだひとの妻だった。途中、トイレ休憩でどこかのサービス・エリアに入った。ステップから二人して軽やかに降り立った。チビは販売機で買ったアイス・ココアがとてもおいいしいと言って笑う。停まっている車の下にエアコンの水がこぼれ落ちているのを見つける。このままどこか遠いところへ行こうか。でもずっと走ってどこかで止まったらきっと眠くなっちゃうよ、とチビは言う。そうしたらホテルに泊まって眠ればいいんだよ。車の中で寝てもいいし、山の中でテントを張って寝てもいい。そういうのも愉しいだろ? そう言うとチビは、うん、そうだね、と微笑む。とりとめのない会話。それから、心地よい沈黙。二人で黙って夜のサービス・エリアを眺めている。そんな感じもあのときと似ている。20分後。眠っている彼女の膝の上に頭を乗せてチビは眠りに落ちている。後部座席に二人の無垢な天使を乗せてキャロルは120キロで疾走していく。カーステレオからモリスンの Orangefield が流れている。黄金の秋、オレンジフィールドにやってくるきみ、夢が現実になったあの日。それから、天上の美しさを湛えた Have I told you lately that I love you 。あのときもこんな感じだった。夜の高速道路を路面からほんのすこしだけ浮かんで聖者のパレードについていった。ヘイ、タンバリン楽士よ、ぼくらを連れていっておくれ。憎しみも殺し合いもない国へ。このままぼくらを運んでいってくれ。

2004.9.20

 

*

 

 「やむをえず」といった形で、はみ出してしまうもの、ラインを越えてしまうもの、突出してしまったもの、落ちこぼれてしまったもの。そういうものたちにわたしはずっと心を寄せてきたし、何よりわたし自身がそうした感覚を抱き続けてきた。

 松岡正剛のテキスト「おもかげの国、うつろいの国」で見つけたんだが、内村鑑三が自ら編集した「東京独立雑誌」の中でこんな言葉を明治の青年に向けて発していたそうだ。

 

父母に棄てられたる子は、家族を支ゆる柱石となり、
国人に棄てられたる民は、国を救ふの愛国者となり、
教会に棄てられたる信者は、信仰復活の動力となる。

 

 文言はいささか時代めいて古めかしいが、わたしは共感した。松岡はこれに添えて次のように記す。

 

 棄てられた者が新たな原動力にはなれまいか、と言っているのです。ボーイフレンドや恋人に捨てられたというのではありません。父母に棄てられ、国人に棄てられ、教会に棄てられる。その者こそをもって家を支え、国を救い、信仰を蘇らせたい。内村は、そう言っているのです。金子光晴は自分をあえて異邦人にしましたが、内村は、そのように棄却の立場をもつことには、何か本質的な意味があると言おうとしているのです。そしてここには、野口雨情がその後に「はぐれた子」の心情に何かを訴えようとした感覚の起源があらわれています。

 

 野口雨情(わたしはかれの生家が残る田舎町で青年期の一時期を過ごした)の童謡にみられる異質性はここでは割愛する。ここでは松岡が同じ章で取り上げている西条八十の有名な童謡を引く。これは大正7年・1918年に雑誌「赤い鳥」に掲載された。

 

唄を忘れた金糸雀は 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす

 

 ふたたび松岡のテキストより引く。

 

 この年は、大正デモクラシーの族手となった吉野作造が「黎明会」を結成し、有島武郎が自分の子に贈った『小さき者へ』を、島崎藤村は『新生』を書いた年で、年末からは竹久夢二の『酔待草』が大流行しています。だいたいどんな時代だったか、見当がつくだろうと思います。

 童謡運動をおこしたのは鈴木三重吉と三木露風でした。鈴木は漱石を慕った病弱な青年でしたが、自分の子が生まれたのをきっかけに、子供の心に食いこむような歌が日本にないと思って、「赤い鳥」を創刊します。露風に相談して踏ん切りがついたのです。これが大正七年で、『カナリヤ』はその創刊号に載ります。楽譜も一緒に載りました。その号には北原白秋の『雨』(雨がふります・雨がふる)なども入っています。

 鈴木三重吉の呼びかけは、青年詩人たちを動かします。大正時代は十把一からげに「大正デモクラシー」と総称されてはいるものの、明治末年に石川啄木が言い残したように「時代閉塞の現状」という病気に罹ったままのようなところがあったのです。

 大逆事件の直後ということもあって、社会主義の黎明にめざめようとした青年たちも、その憤藩をどこにぶつけていいのか、かなり鬱屈していましたし、とくに子供たちの学習現場には「教育勅語」が“縛り”をかけていて、歌はありきたりな小学唱歌しか見当たらないという現状でした。とくに明治四十三年に制定された尋常小学唱歌は上からの修身教育の方針が投影されていて、一部の作家や音楽家や詩人たちに不評でした。

 そこへ立ち上がったのが「赤い鳥」だったのです。これはたちまち燎源の火のごとく、「金の船」「童話」「小学男生」「少女倶楽部」といった幼童雑誌に飛び火して、時ならぬ表現運動となつたわけです。

 私は、その童謡第一号が「唄を忘れたカナリヤ」を唄ったものだったということは、たいへんに象徴的だったと思います。

 すでに前回までにいろいろお話ししてきたように、いまや日本は日本の面影を忘れそうになっているのです。いや、何を忘れたのか、何を思い出せばいいのか、それすらもが掴みがたくなっている。そうした時期に、「唄を忘れたカナリヤは後の山に棄てましょか」と、子供に向けて唄ってみせただなんて、なんともものすごいことでした。それはまさに内村鑑三の、「棄てられたる民は、国を救ふ」のかという問いでありました。

「捨てる」ではなく、「棄てる」。そこには棄却という強い「負」が作用しています。

NHK人間講座テキスト「おもかげの国、うつろいの国 日本の“編集文化”を考える」(松岡正剛・日本放送出版協会)

 

 わたしたちに必要なのは「唄を忘れた金糸雀」を「棄てる」ことではない。金糸雀は「象牙の船」に乗せ、「銀の櫂」を持たせ、「月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす」のだ。その唄は「自明なるもの」の上に安穏と腰かけたわたしたちの魂を揺るがす力を持っているに違いない。

 わたしたちは「唄を忘れた金糸雀」を棄て続けてきた。藪に埋め、鞭で叩いてきた。それはわたしたちの誰もが、「象牙の船」も、「銀の櫂」も、持ち合わせていなかったせいだ。そのことの方が大きな罪だ。

 「戦争」が「正義」であるあべこべの世界にあって、しかし、「棄てられる」ことは「再生」の始まりである。

 

 きみを棄てようとするものなど、どのみち大したものじゃないさ。

2004.9.21

 

*

 

 レイ・デイヴィスの半自伝的小説「エックス・レイ」(TOKYO FM 出版・1995)を読み継いでいる。「半自伝的」というのは、これがどこぞの大統領のようなストレートな自叙伝ではないからだ。時代は近未来。社会の管理化は徹底され、無個性で従順な人間が溢れている。老人となったかつてのロック・スターは廃墟のようなレコーディング・ルームにひとり世捨て人の如く暮らしている。そこへ「1960年代中期におけるポップ・ミュージックの勃興に関する歴史」をまとめるよう「会社」からの指令を受けた青年が訪ねていく。「エックス・レイ」のいくぶん韜晦をまじえた記憶の断片を聴くうちに、青年は内なる変化を感じていく。そんな内容だ。

 そのなかに17才、歳の離れた長姉レネの甘美な思い出話が出てくる。幼い頃からリューマチ性心臓疾患を患い、プレスリーの大ファンで、誕生日に新品のスパニッシュ・ギターをプレゼントしてくれ、暗闇を怖がらないようにといっしょにベッドで寝てくれた姉だ。

 

 彼女は正面玄関から出ていった。そこにはさっきからママが立っていた。わたしは窓のそばに立っていたが、何を話しているのかわからなかった。誰にも聞かれたくない立ち入った話だったのだろう。実際に交わされた言葉はとても少ない。でもその情景はスローモーションのサイレント映画のようだった。しかもとても繊細に演じられ、字幕の必要を感じなかった。数分後レネはバス停の方へ歩いていった。ママはそこに立ったままレネが見えなくなった後もずっと通りを眺めていた。翌朝レネの訃報を聞いたときにも、まだ母が門のところに立っているイメージが頭に残っていた。レネは医者のところで寝ているように命じられていたそうだ。もう一度発作があったら致命的だと言われていたのだ。ダンスが大好きだったレネ、だからウエスト・エンドのボールルームヘ向かったのだ。誕生日、彼女はギターを買ってくれ、最後に家のピアノを弾き、リュケイオン・ボールルームヘ行った。そこで倒れ、オーケストラが『オクラホマ!』の歌を演奏しているときに死んでしまったのだ。

レイ・デイヴィス「エックス・レイ」(TOKYO FM 出版・1995)

 

 これがあのキンクスのレコードにある素敵な Come Dancing の生い立ちだ。土曜の夜にダンスホールへ誘いにきたボーイフレンドたちを焦らしている姉さんのことだ。

 

 レネの葬式の後、母は思いつく限りの悪罵を彼女の夫に投げつけた。同様の立場の女性たちが必ずそうするようになじり続けた。かわいそうな彼は椅子に座り、なすがまま母に顔を打たれていた。彼が口にした言葉は、すべて彼の罪で、妻を愛していたということだけだった。そのとき、わたしは決して他人を傷つけるような愛し方はすまいと心の中で誓った。もっとも、すぐに傷つけることも愛することの一部だと知ることになったが。レネの夫が酔っぱらって、暴れているのを何度も見た。父が酔っぱらっているのも見た。わたしも何度も酔っぱらった。暴れもした。たぶん人は愛する人と一緒にいると乱暴になるのだろう。二人の心の中に傷があるからだ。ロマンスの戦場で感情の破片が心に突き刺さる。古くさい歌の文句ではないが、人は愛するものを常に傷つけているのだ。愛するものを殴っておいて傷ついた獣のようにすすり泣く、まるで被害者のように。愛はそれ自体複雑にねじれていて、ゆがんだ姿を鏡に映し出す。その姿を蔑み、鏡を壊してしまいたくなるのだ。

 わたしたちはみな心の中に悪魔が住んでいる。すべての人に神が内在しているのと同じように。我々の愛がねじれているのを見つけると、わたしたちの心の中の小さな赤い鬼は力を蓄えられるのを喜び、振り向いてはほくそえむ。そして真実は嘘に変わり、無垢な者も罪にまみれる。

 

 悪魔はくだらないちっぽけな口論から首をもたげる。夜更けの玄関に仁王立ちになって「出て行け!」と私は彼女に叫んでいる。子どもが絶望的な涙を流して母親にしがみつく。「なら、おまえもお母さんといっしょに出て行け。部屋からじぶんの大事なものだけ持ってこい」 しばらくして子どもがやってきて私に言う。「風船を持っていってもいい? 風船はだいじなものなの」 私は絶句する。

 その夜、私はひとり眠れない寝床で本の頁をめくった。「エックス・レイ」は肌の黒い赤ん坊をつれて再婚したもうひとりの姉について語っていた。

 

 ある日ギターを弾きにマイクのところへ行くと、ペグが彼と別れる決心したところだった。彼女は腕が悪いので、荷物を全部持つことができず、わたしが手助けしてスーツケースをマスウェル・ヒルからママの家まで運ばなければならなかった。ペグの顔には涙が流れていた。途中、突然彼女はフッと立ち止まり、自分の腕を見つめた。

「レイモンド、わたしは腕が不自由なんだわ」まるでそのとき初めてその事実に気づいたようだった。「マイクと別れるなんてわたしにはできない」

 わたしたちはすぐに方向転換して、マイクの待つアパートに引き返していった。マイクと離れるまでペグは自分の腕が不自由だと思わなかったのだ。つまり誰かを愛し、そして愛されたことがあれば、それだけで自分が抱えている障害や問題を忘れることができる。ともかく、わたしはうれしかった。マイクとのギターの練習を再開することができるからだ。

 

 きみがぼくとおなじように気狂いであるなら、きっとキンクスの Come Dancing を聴いてきみも涙を流すことだろう。

2004.9.30

 

 

 

 

 

 

 

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