■日々是ゴム消し Log38 もどる

 

 

 

 

 

 

 元旦。朝、詰め所へ入ると隊長のMさんが雑煮をこしらえてご馳走してくれた。餅は山好きの70歳のTさんが福井の知り合いの農家から送ってもらったというものである。雑煮を食べながら、Tさんと大峰山の山小屋の話をしたり、汽車の旅が好きなMさんが学制時代に北海道をぐるりと回ったときの話を聞いたりした。そんな元旦の午前もいい。

 ところで昨日は東京の友人がCDをたんまり送ってくれた。Howlin' Wolfの「Howlin' Wolf」と「Moanin' In The Moonlight」をカップリングした Two On One のCD全24曲、「Free Soul The Classic Of Al Green」全22曲、Wilko Jonson「Red Hot Rocking Blues」、Neil Young & Crazy Horse「Green Dale」、忌野清志郎「King」、ガガガSP「オラぁいちぬけた」。どれから聴いたらいいか迷ってしまうくらいなのだが、とりあえず昨夜はHowlin' Wolfの濁声で飲み明かし、今夜はソフトなAl Greenのソウル・バラッドにこの身を浸している。一曲目 Let's Stay Together は昔、ピーター・バラカンのラジオで聴いたことがあったな。まるで恋人の腕に抱かれているようで、じわじわと優しく、心地よい。

 そのCDたんまりの荷物の中に「グレートジャーニー 原住民の知恵」(関野吉晴・光文社知恵の森文庫)という文庫本が同封してあった。「600年前、東アフリカに誕生したとされる人類は、その後、揺籃の地を飛び出し、アジアや極北の地を経て、ついには南米大陸の最南端パタゴニアにまで達した。この5万キロにも及ぶ人類拡散の旅を逆ルートで、行く先々の先住民と接しながら、私自身の脚力と腕力だけで辿ろうと試みたのが、グレートジャーニーであった」 BBSで友人も書いているが、友人が現在勤務している都内の高校の卒業生という縁もあって講演を聞く機会もあったらしい。冒頭のはしがきを読み、それからぱらぱらとページをめくって随所に挿まれた写真を眺めたら、怖くなった。明日にもひょいとすべてを放り出して、思わずじぶんもこんな旅に出てしまいそうな思いに襲われたから。

 私の行きたい場所は分かっている。だがその場所は、すでに現在私のいる世界に包囲され脅かされている。だから私はここにいつづけなくてはならない。私のいまいる場所は、かれらの未来の場所なのだ。そんなことをぼんやりと考えた元旦。

 危険できな臭いヘアピンカーブがもう目の前に迫っている。私たちは果たしてそこを無事に通り抜けることができるだろうか。私の愛する娘が成長をしたとき、彼女は世界に希望のカケラを抱き続けることができるだろうか。

 おだやかな冬の日。2004年の年頭に。

2004.1.1

 

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 カヌーが舟着き場に着くと、さっそく懐かしいたたずまいのパンコウツィ(家)に向かった。カアチャンがヒタチ(ヨシの茎を並べて編んだ敷物)の上に座って編みものをしていた。挨拶の声をかけた。「アイニョビ」。「こんにちわ」に相当するものだが、直訳すると、「あなたはいますか」あるいは「あなたは存在しますか」となる。カアチャンは「アーイニョ」と答える。「こんにちわ」の返礼だが、直訳すると「いるよ」「存在するよ」になる。

 マチゲンガという土地を象徴するような挨拶だ。他の動物や植物と同じように「生きている」「存在している」。そのことを大事にしている。「儲かってまっか」の対極にある生き方。カアチャンは生きるために目的を作るわけではなく、生まれ、森や川で遊び、結婚し、子を産み、育て、静かに美しく老いてきた。

 周囲の森はほとんど原生林だ。数千年あるいは数万年、ほとんど変わらないように見える。しかし、人間や動物のようには変わらないが、木々は少しずつ成長し、あるものは朽ち、代わりに若い芽が出てくる。そのような長い時間軸で、ゆったりと変わってきた。その森の歩調に合わせるようにカアチャンは「存在」してきた。それでは他の動物と同じではないか? そのとおり、私たちは他の動物以下ではないが、以上でもない。違うのは「生きている」ことを認識できること。そして文化を作ったこと。ただそれだけだ。

 チンパンジー、ゴリラ、ボノボ、オランウータンなどヒトに最も近い類人猿の一つの特徴は、ヒトと同じように大人になるまでに時間がかかることだ。ゾウと同じように15年もかかる。大人になるまでに周囲の大人の行動を見て、何を食べるか、他の仲間とどのように付き合えばいいか、異性とどのように関係を結べばいいかを学ぶ。多くの動物は「生きていくため」「繁殖するため」の行動は遺伝子に組み込まれている。本能に従って生きればいいのだ。ところがヒトや大型類人猿は、学習によって生活技術を獲得するようになった。すると使わなかった遺伝情報は徐々に崩れ失われていく。本能の壊れた動物になってしまうのだ。そのため文化というものが必要になる。文化も意図してできたわけではない。結果なのだ。

 カアチャンには生きる目的はないが、それゆえに今生きていることを味わい、噛みしめているように見える。生きる目的を見つけ、それを追いつづけることを生きがいとする私たちとは対極の生き方だ。わき目もふらずに前に走り続ける時、えてして二度と釆ない「今」というものを忘れてしまう。

 カアチャンは誰よりも地球に対して優しく生きてきた。私たち都市に住むものが「地球に優しい」という言葉を使うことが場違いで、恥ずかしいほどに徹底して循環型の、持続可能の暮らしを続けてきた。

 カアチャンと向き合いながら、私の暮らしている日本の30年について考えた。日本(人)が迷うことなく目指したもの、あるいはその結果とはなんだろうか。経済成長、GDP、効率とスピード、便利さ、快適さ、競争、開発、科学技術、大量生産、大量消費、大量破棄、グローバリズム。それらは私たちを豊かに幸福に導くはずのものだった。たしかに物質的には豊かになった。モノはあふれている。しかし、過労死、神経症、うつ病、少年の凶悪犯罪増加、学級崩壊、家族崩壊、自殺の増加、オカルト宗教、大量の産業廃棄物、大気汚染、様々な生物種の絶滅、公害、核汚染、環境ホルモン………、負の側面のいかに多いことか。

 カアチャンはこれらとはまったく無縁の暮らしをここ30年間続けてきた。カアチャンを不幸とは思わない。むしろ8年前のトウチャンの不慮の死を除いて、満ち足りた幸福な歳月だったと思う。

 ということは経済成長、GDP、効率とスピード、便利さ、快適さ、競争、開発、科学技術、大量生産、大量消費、大量破棄、グローバリズムなどはなくても人は幸福になれるということだ。

 たしかに、毎日が重労働ではある。子育てから炊事、水汲み、焼畑の収穫と運搬、薪運び。子供の成長を静かに見守り、男たちのとってきた鳥獣・魚を料理し、男たちの会話を聞き、自らも加わる。そしてうまい料理に舌つづみをうつ。ユカイモが余るのを待って酒作りをする。カアチャンが酒を作る時、酒宴は彼女の独壇場になる。男たちに酒を振る舞い、女たちと一緒に飲み、酔えば歌い、踊る。家族以外の仲間との一体感に寝る。それとともに自然の歌、精霊の歌を歌い、それらとの一体感にも寝る。

 カラオケ機器もないし、エンターテイメント産業もない。テレビゲームもないし携帯電話もない。それでも楽しそうだ。私たちのほうが快楽を感じさせる機械の氾濫によって、それらなしで快感を得る、みずからの五感をフルに使って楽しむ能力を喪失させてしまったのではないだろうか。

グレートジャーニー 原住民の知恵」(関野吉晴・光文社知恵の森文庫)

2004.1.2

 

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 3日4日と急遽休みが転がり込んで、3日の朝に電車で和歌山へ向かった。10時頃、電車がのんびりとした田舎のホームに着くと、車で迎えにきたつれあいが改札で手をふっていた。車に乗り込みながらひさしぶりに会う彼女の顔をまじまじと見て「こんなに綺麗だったかな」と言うと、「いつもよく見てないからでしょ」と返された。白け顔も浮かぶが正月だから黙って読んどけ。お昼を食べて午後から、つれあいとチビとつれあいの姪っ子のSちゃんを連れて車で初詣でへ行った。私は明恵ゆかりの湯浅の施無畏寺あたりへ行きたかったのだが、つれあいの意見で和歌浦にある紀伊東照宮へ。関東の東照宮に対して「西の日光」といわれているそうだけれど、見上げるような石段以外、規模はそれほど大きくはない。門前の露店でチビは鯛焼きを、Sちゃんはりんご飴を買って食べた。それからかつて雑賀党という水軍の本拠地であった風光明媚な雑賀崎を回った。このあたり、海に面した旅館街はまるでチビの好きな「千と千尋」に出てくる捨てられたテーマパークのようで、実際に廃業して窓ガラスもあちこち割れている心霊スポットのような大きなホテルもある。車を停めチビを連れて岬の遊歩道へ続く小径を覗きに行くと半壊したみやげ物屋があり、中へ入るとチビは怖いと言う。柱に1991年の日めくりカレンダーがかけてある。近くの茂みにはブルーシートのテントが張られていて、浮浪者が住んでいるらしかった。それからSちゃんのリクエストで国道沿いの喫茶店に入って、チビとつれあいとSちゃんはシフォンケーキのセットを、私はエスプレッソのコーヒーを注文した。夜は伊勢から送ってきたという牡蠣とホタテ、それに近所の漁師さんが釣ってきたばかりの“さごし”の刺身。“さごし”というのはあまりスーパーでは見かけないが、大抵獲れると京都の料亭などへ行くのだそうだ。夜はひさしぶりに三人で川の字になって寝た。4日はつれあいは朝から持って帰るモノの荷支度。途中、近所のイギリス帰りの子どもがいる親類宅へ行って、向こうの知育パズルや聖書のカルタなどを貰ってきた。私はひとり車で有田のまだ訪ねていない社寺などを見てこようかと言いながらごろごろしている。昼前にチビを連れて散歩に出た。港に出ると小さな釣り船が一艘帰ってきてロープをつなぎ、甲板の魚を入れた穴(“生け間”というらしい)から釣ってきた魚を取り出して次々としめていく。そんなのを見てから、こんどは路地の散策へ出た。山を背後に小さな湾を取り囲むようにしたOの集落は車の入れない狭い路地や石積みの石段が迷路のように入り組んでいて、規模の小さな尾道のような風情があるのだ。そんな路地をチビと相談しながらあっちこっちとさまよっているうちに、前に除夜の鐘をつきに行った寺の墓地に出て私が無縁墓の石仏を写真に撮ったりした。そこからさらに石段をのぼっていくと山の中腹にある小学校のわきへ出て、その石段から集落と湾を一望できる眺めがいいなあと見下ろしていたら下の方に二階の屋根瓦に布団を出して干している見覚えのある家があって義母がこちらに手を振っているのだった。もうお昼だから帰っておいでよ、と言われてチビと二人で石段を下っていった。小さなキャロルに野菜やら魚やら荷物を満載して和歌山を出たのが3時頃。帰省ラッシュはどうかなと案じたが阪和道もほとんど空いていて、快調に走って5時前には奈良の自宅へ帰り着いた。

2004.1.6

 

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 昨日の朝日新聞の奈良版、元旦から「古都の心」と題して連載している記事に、以前にもどこかで読んだことがあったが大宇陀町にあるアメリカ人禅僧が住職をしている清泉庵(せいせいあん)という寺のことが載っていた。

 

 本名ジョン・ルイス・トーラ。54年、米軍の一員として来日。除隊後、日本の新聞社や広告会社などで働いた。哲学への興味の延長が、禅だった。75年、京都の大徳寺に出家。師匠は、元首相の故福田赳夫氏に戒名を送った立花大亀老師(104)だった。80年、49歳の時に老師が大宇陀町に最初に開いた禅寺に派遣され、90年に清泉庵の住職になった。

 檀家はない。収入は月1度の座禅教室くらいだ。03年3月に預金残高は2円になった。「ないものは考えてもしょうがない。今までも、どうにかなるだろうと思っていたら、何とかなった」。事実この直後、県外の支援者から宅配便でパスタとともに現金10万円が届いた。

 仕事は寺に住むこと。お金に執着せず、何者も拒まない住職の姿にひかれ、連日様々な人が庵を訪ねる。

 「彼は時間をつかさどる人のよう。ここを訪れる忙しい人は、みな患者のようです」

(朝日新聞奈良版 2004.1.6)

 

 かつてこの寺を訪れたアメリカ人の舞踏家や人気俳優、それにローリング・ストーンズのミック・ジャガーらの名に交じって、記事は一人の托鉢僧の姿を紹介している。かれの姿を、そういえば私も何度か見かけた。

 

 小さな庵の「藤蘿時間」に、多くの人が身を任せている。

 近鉄奈良駅前の噴水広場。網代笠をかぶり黒い衣姿の托鉢僧、藤田康一さん(37)は、修行を始めて5度目の冬を迎えていた。毎朝、奈良市の自宅から50分かけて歩き、5時間以上立ち続ける。

 大学卒業後、県中央卸売市場で働いていたが、肺の病気になり半年で退職。親類の勧めで25歳の時に京都・大谷専修学院で仏教を学んだ。パソコン部品製造やケーキ作りなど七つの職を転々としたが、どれも1年も続かなかった。自分を見つめ直そうと托鉢を始めた。

 托鉢の間は単調な時間が流れる。しかし、雑踏を早足に行き交う人々や渋滞に巻き込まれた車の運転手を見ているうちに、ようやく一つのことに気付いた。「人が本来自分の足で大地を歩き、生きてきたことを今の人は忘れているようです」

 電車で通勤し、会社員をしていたころは時間に追われ、心身ともにすぐれなかった。しかし、托鉢修行で病気とは無縁になった。なによりも「歩く生活を大切にする」ということを確信した。

 自宅では、腎臓の病気で療養中の父(68)を母(62)と一緒に介護している。将来は寺に入ろうと考えている。だが、もうしばらくは広場の片隅で、じっと立ち続ける。

 

 金がないならないでどうにでもなるさと静かに微笑む青い眼の禅僧と、近鉄奈良駅前の広場に毎日立ち続ける若き托鉢僧。二人の視線のその先が喉につかえた一片の餅のように心に残った。いつか機会があったら、清泉庵をふらりと訪ねてみたい。

2004.1.7

 

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 今日も朝から大阪の本部へでかけて資料づくり。PCと首っ引きでエクセルに貼りつけた店鋪図面に客の出口案内等の表示や導線を落としていったものを三十数枚。夕方からは京橋のツインタワーとかいう高層ビルにあるソフト会社に赴き、店内Lanを使ったテナント・事務所・警備で共有するスケジュール管理ソフトの説明会。同行する営業次長のOさんは結構私を買ってくれているようなのだが、形ばかりの一日の手当ては競輪場よりもさらに安いのだから苦労のしがいもない。人より責任のある仕事をして、誘導もろくにできない新人の稼ぎより劣るとはいったいどういう会社なのかと思う。おまけに正月に続いて営業所の担当のF氏からは明日以降の仕事の予定の連絡を今日になっても何もいってこない。正月に転がり込んだ連休も前日まで連絡がなくて問い合わせたところ「休みでも仕事でもなくて“待機”だ」なぞとふざけたことを言うので「なら、つれあいの実家へ行ってきてもいいか」とかすめ取った休日だった。所長のKさんによると年末年始のごたごたに加えてじぶんの仕事も重なって隊員のローテーションを組むのもアップアップになっているらしいのだが、それがあんたの仕事だろうがよ。昼間事務所に電話を入れると電話中だというので事務の女の子に伝言をつたえてもらい、夜に携帯に電話を入れても出ず、夜の10時を過ぎても音沙汰がなく、明日は仕事なのか休みなのか皆目分からない。まともにつきあっているとキレそうになる。もう明日は休みだ休みにしようとつれあいに呟き勝手に決める。8時過ぎに帰宅すると幼稚園とプールでくたびれたチビはめずらしく早く眠ってしまっていて、夕食をひとり済ませて、ストーブの前でつれあいから今日一日のチビの様子などを聞く。帰りの電車の中で「グレートジャーニー」を読み終える。風呂を済ませ、缶ビールを開け、ひとりPCの前に座ってモリスンのCDをヘッドホンで聴いて一日の終わりにぎりぎりでやっとじぶんがじぶんになれたような心地がする。「グレートジャーニー」のなかの薪や干し草を背に懸命に働いているチベットあたりの幼い子どもたちの写真の前でおれはことばを失う。いったい何をやっているのだこのおれは。「大人に媚びない」かれらを未来永劫見習いたい。

 

 古代ギリシャの哲学者ディオゲネスも、アレキサンダー大王がはるばる面会にやってきたとき、望みを訊かれて「日向ぼっこの邪魔なので、ちょっと脇にどいてくれ」と答えたという。

グレートジャーニー 原住民の知恵」(関野吉晴・光文社知恵の森文庫)

 

2004.1.9

 

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 しばらく前にビデオに録画しておいた瀬戸内寂聴氏と現役の僧侶でもある芥川賞作家の玄侑宗久氏、梅原猛氏らとの対談を数日前の夜につれあいと二人で見た(NHK ETV特集 第29回 2003.11.22放送「瀬戸内寂聴 あの世・この世」)。仏教を物理学のエントロピーの法則などと重ね合わせた玄侑氏の、たとえば人が死ぬと50mプール数杯分の水を沸騰できるほどのエネルギーがどこかへ消えてしまうという計測がアメリカの病院などで報告されている話などが面白かった。また氏自身の禅宗の過酷な修行体験と照らし合わせて、仏典にあるという「瞑想によって死と同質の体験が得られる」ということばなど。また梅原氏との対談では、身体の衰えを感じて最後の旅に出たブッダがじつは故郷に向かっていたのではないかという梅原氏の説に対して、もうそんなものは捨て去っていた、どこかでのたれ死にするためにただ歩き続けたのだとする瀬戸内氏の直観にひそかに共感したりした。

 夜、チビを連れて車で灯油を買いに行った帰りに近所の売太神社へ立ち寄った。鳥居を抜けて薄暗い参道をチビの手をとって歩く。灯りの入った石の灯籠が、千尋が銭婆の住む沼の池を訪ねたときに迎えに来た一本足のカンテラみたいだとチビが言う。暗い樹木に囲まれた拝殿にはぼんやりと灯りがともされていた。まるでこの世の果てへ辿りついた父と娘のように、二人してそんな静寂の中にしばらく立ち続けた。

 友人がプレゼントしてくれた清志郎の新しいアルバム KING のなかの「雑踏」というさみしい曲のメロディが耳に飛び込んでくる。「どうしようもなく会いたい人がいるんだ」と清志郎が叫んでいる。じぶんの会いたい人は誰だろうと考えたら、フランチェスコの名前がまっさきに思い浮かんだ。もちろんブッダにも改悛したパウロにも会いたいが、誰より私はフランチェスコに会いたい。

 そういうじぶんに気がついた。

 

....光を探す者です、やみの中で
幸福になりたいのです
空を飛ぶ鳥のように
自由に純粋に生きたいのです
ほかに何も要らない、何ひとつ
愛のない現世の束縛など、私には必要ありません
より善いものが、あるはずです
人には聖霊が宿っています、魂の中に
取り戻したいのです、私の魂を
生きてみたい、野や山で自由に
丘を越え、木に登り、川で泳ぎ
大地を踏みしめて暮らしたい
靴も財産も要らない
召使いも要らない
托鉢をして清貧に暮らしたい
キリストやその弟子たちのように
解き放たれたい

 

 ときどき、どうしようもなく会いたい人がいる。夜の中で、闇の中で。

2004.1.10

 

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 吹き溜まりのなかで、ひさしぶりに水牛サイト高橋悠治雑記帳を読んだ。その柔軟さと緊張感と無骨なまでの誠実さはあの「ロベルト・シューマン」の頃からちっとも変わっていない。

 

(さて詩の朗読会のために書いたが読まなかった文章。Commonplace Book は書き抜き帖のこと。書き抜いては書き直し。)

 

ありふれた本

書かれていることば 行方も知らず書かれているあいだだけ意味をになう この世界でひとをうごかすのは暴力と欲望政治と資本それらなしに生きるにはどうすればいいのですか 色とりどりの生地をあつめて織った織物から幾筋かの糸を抜き ほどけかかったままにして

おなじ手が書くことばはそのつど変わる ことばが意味をになう前にうごきの意味が 

ことばをになう

重みをもって抵抗するもの隙間なく凝集するもの燃えるものうごくものからだんだんに 軽いものパラパラのもの冷えたものゆるやかなものへ

 

テーブルの上の惑星

エアリエルは詩を書いたことをよろこんだ
思い出に残る時間や
見て気に入ったものの詩だった

そのほかに太陽がつくったのは
浪費と混乱
しげった灌木がのたうっていた

自分と太陽は一つだった
詩は 自分でつくったとはいえ
太陽がつくったのではないとは言えなかった

詩は生き残らなくてもよかった
だいじなのは 詩がこの惑星の一部であって
ある輪郭や性格を

あるゆたかさを
ことばの貧しさのなかで いくらかでも
はらんでいなければならないことだった

ウォレス・スティーヴンス 1953年

 

世界は燃えている 過去はすでにない 未来はまだ見えない たよるものはない 問いもなく答えもない

世界の今は 選ばれた少数 となりには 数にはいらない難民の群れ 断片と区切り線 カフカの青いノートブック 書き終えることができないちいさな物語 ちいさなものの受難 全体のない部分 それでも生きつづける 希望もなく 絶望もなく 冷たい目で世界を見わたして

速度を落として どこまでもつづくおなじ模様に切れ目を入れる 絨毯の模様のゆがみ 籠の編み残し とどろく瀧が波うつリズムになり したたる水の隙間が見える 原子の偶然の結合と離散から世界をつくる エピクロス ひとつの世界ではなく 無数の世界 ルクレティウス

ひとがそのひとでありながら他人にひらかれる 理解しようと思わないでください ありあわせの手段を使って むすびめをとりあえずつくり それをまた こだわりなしにほどくことができますか

浮き彫りの世界 奥行きのないふくらみ 2次元と3次元のあいだ その場に埋め込まれた宝石の光が交わすささやき 色と模様の組み替え

野生動物は トラもシマウマもそれぞれ一つの色と一つの模様 人間に飼われると ウシにもネコにもさまざまな色と模様があらわれる 一生になう色と模様 世界を色と模様で認識する 福井勝義

磨いた小石を袋に入れて 歩きながら落としていく 月明かりの道

指先のかすかなうごきを感じると 全身がそれにつれてうごく ほどかれるからだとひろがる世界の分かれ目はない

なにを待っている 木は梢から枯れる スウィフト 葉が落ちると 枝を透かして空が見える

 

一生はすぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ 永瀬清子

 

夏の終わりの真昼の日照りにかげろうが立つ よりどころなくうつろいやすいプロセスをためすなかで それを感じる瞬間 その感じもやがてうすれて

ほとんど音にならない 耳と指と息 川の水が土をはこぶ つもった土で川が涸れないうちに 川は流れを変える

距離のない空間 見えない種から花はひらき やがて色褪せる 時間

黒のなかに白を含む 飛ぶ白 かすれる文字 やぶれた線 前後上下にかすかなしぶき はじける闇

人びとは森に包まれている 森とともにうごいている 速くうごくと森を見失う コリン・ターンブル

……

 

 速くうごくと森を見失う。これがすべて。

2004.1.11

 

*

 

 チビの医療費申請書をイラストレイターでプリント・アウトしたあとで、とつぜんプリンタやスキャナのUSB機器をPCが認識しなくなってしまった。さっそくMacドクターのおもち氏に電話してあれこれと話し込むが、どうもシステム全体をクリーン・インソールする必要があるようだ。そうなるとハードディスクに貯めている諸々のファイルやチビのデジカメ画像などを整理してCD-Rに保存しなくてはならず、ちょっとした面倒な作業になる。来週のつれあいが付き添うチビの排便管理実習のための一週間入院の際にやるとしようか。数日前の休日にチビをプールに連れていった。プールのときにはたまに粗相をしてしまうので、彼女はいまアナル・タンポンというのを挿入している。一個300円で、肛門内に挿入すると化学反応で膨張して栓をするというものだ。そのときはプールの前の体操をビデオに録画したのだが、ひとりだけコーチの横で“他の子どもたちの方を向いて立ち”颯爽と体操している様はまったくいかした光景だったぜ。不自由な脚をばたつかせて跳ねたり伸ばしたり縮めたりしているさまは、まるでアルムの山を羊のように駆け回るハイジのように素敵だった。彼女はほんとうに他の何物にも代え難い私の宝 = 黄金だ。これは何度言ってもまだ言い足りない。今日は一日、競輪選手たちの往き来する宿舎門の前に立ちつづけ、向こうの低い丘陵の魅力的な木立を眺め、8レースあたりで金が尽きてうかない顔でぞろぞろとバス停へ向かう男たちの顔を眺めた。休憩時間には詰め所でバロウズの「ジャンキー」を読み継いだ。バロウズは書いている「彼らは泣きごとを言っても身動きをしても無意味だということを知っていた。もともと人間はだれも他人を助けられるものではないということを知っていた。他人から教えてもらえるような秘密の解決法などありはしないのだ。私は麻薬の方程式を学んだ。麻薬は酒やマリファナのような人生の楽しみを増すための手段ではない。麻薬は刺激ではない。麻薬は生き方なのだ」 またこうも書いている「私は麻薬の使用から多くのことを学びとってきた。モルヒネ溶液の点滴器の中に私の人生のすべてがあった。麻薬切れの病気の苦しい喪失感も経験したし、麻薬にかつえた細胞が針から溶液を吸いとるときの安堵の快楽も味わった。おそらく、すべての快楽は安堵感なのだろう」 ディランの Saved を聴いている「なんど聞かされたことだろう。あいつの金があったならおれの思い通りできるのに、と。だが全くわかっちゃいないのさ。十人にひとりの金持ちも、満たされた心を持っているかどうか」 おれはしなやかな麦穂のように歩いていける。足元をすくわれればすくわれるほど、前よりもっとしなやかに、足取りも軽やかになれるのだ。「一生はすぎてしまったのに あけがたにくる人よ ててっぽっぽうの声のする方から 私の方へしずかにしずかにくる人よ」 私はあなたを待とう。いつかあなたに会える日が来るのだと確信しよう。56億7千万年の後に。あいつのロックンロールは不器用にいかしている。がたついた溶鉱炉の扉から漏れる炎のように熱く輝いている。「そして(知っているね) ぼくらは異邦人で この世界をただ通り過ぎて行くだけ。ずっとあなたのそばにいよう わたしも誓約をしたのだから」

2004.1.12

 

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 西アフリカのシエラレオネの農村で生まれたファトマタ・カラマは当時11歳だった。1995年、学校への登校途中に内戦中の反政府ゲリラに拉致された。いっしょにいた9歳の弟は殺された。ゲリラの支配する町まで連れて行かれ、着いた夜に強姦され、兵士にされた。4年後、15歳になった彼女はゲリラが襲撃した町の住民3人を射殺するよう指揮官から命じられた。「“できない”と泣き出すと“ではおまえを殺す”といわれた」 命乞いをする男たちの胸にカラシニコフ銃を向けて、引き金を引いた。血が飛び散った。そんな記事を新聞で読んだ。(朝日新聞2004.1.12) ファトマタ・カラマのような少女は世界中に大勢いる。

 また深夜にひとり、キンクスの I'm Not Like Everybody Else を聴いている。昨日の夜、焼酎のお湯割りを多少呑みすぎたおれは酔っぱらって彼女の寝ている布団のなかへと滑り込んだ。彼女がうっすらと目を開けた。おれは彼女の耳元に火照った顔と冷たい身体を寄せて「○○さん、愛してるよ。ねえ、知ってた?」と言った。彼女は軽く微笑み、「うん、分かってるよ」と眠たいような声で答えた。それからじきにまた眠ってしまった。

 ぼくはきみを心から愛している。きみやぼくらの愛する天使のためならぼくはどんな泥道でも歩いていこう。けれどもたったひとつだけ、ぼくには譲れないことがあるんだ。こんな反吐の出るような世界にぼくは無抵抗のまま組みこまれたくはない。

2004.1.13

 

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 午前中、会議。帰りに橿原駅前のうどん屋で営業次長のOさん、奈良営業所のFさんといっしょに昼食。私はうどんと肉丼の日替わり定食650円。食事の合間にFさんがOさんに提出した見積書の計算がいい加減だとこっぴどく叱られる。Fさんは哀れなほどにしゅんとしている。人が叱られている場面はやっぱり見ていて嫌なものだ。お陰で日替わり定食もよく味わえなかった。帰って昼からはPC内のファイル整理。車検に出した整備工場からの見積もりの報告。NTTに非通知設定から通知設定への変更依頼。携帯にビルメンテナンスのSさんから電話。防災センターに入れるPCの配置についての相談。夕食は先日の鍋の残り汁を使って私が雑炊を作る。鶏の胸肉、残りの白菜、エリンギなどを加えて、ナンプラーにて味付け。プールでお腹を減らしたチビは「おとーしゃん、すごい」と言っていつもよりもりもり食べる。夜はWebで見つけた無料のペーパークラフトをダウンロードして、チビとレストランや住宅や駅などの町並みをつくる。明日は奈良の競輪場、明後日は京都の競輪場、その次は大阪の本部にて資料作りで、またしばらく二週間ほど休みがない。バロウズの「ジャンキー」を読み続ける。

2004.1.14

 

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 二日ほど前につれあいが所用があって実家へ電話をかけると、近所の家の主人が休日に釣りに出たまま戻らず騒ぎになっているという。その家は最近、娘さんが離婚して二人の子どもを連れて帰ってきたところで、もう60歳も間近い父親は「また一生懸命働かなきゃな」と冗談交じりに言っていたそうだ。入り江の集落では小さな漁船を持っている家も多く、良い魚が釣れると市場へ売りに行ってちょっとした小遣い稼ぎになる場合もあるらしい。それから今日になって、舟は見つかったが人は乗っていなかった、と義母が電話で教えてくれた。今日も朝から夕方まで集落中の男たちが舟に乗り、漁師たちもみな仕事を休んで、捜索に出ていた。義父も請われて明日は舟に乗って底引き網でみなで海底をさらうのだという。当日は風も強かったらしい。海に落ちた死体はいちど沈み、しばらくしてまたいったん浮かんでくるときがある。けれども大抵は海に落ちた亡骸は見つからないことがほとんどだ、とつれあいが教えてくれた。数年前にも村の郵便局の局長が休日に海に出てそのまま帰らなかった。まだ小さな孫が捜索の舟の舳先から波間に向かって「じいちゃあん」と懸命に叫んでいる。そんなのを見たらこちらも堪らなくなって涙が出てきてしまう。義父がそんなふうに言っていたそうだ。「カラが上がらないからもうダメだと言った。カラとは死体のこと」 昔レコードで聴いた三上寛のそんな弾き語りの唄を思い出した。あれは東北の冷たい海の情景だった。

2004.1.17

 

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 今日から三日間、岸和田競輪場。午後から義父母が泊まりに来て、明日のチビとつれあいの入院へ同行する。入院の荷物があるので大阪北東部の病院まで車で行き、仕事の帰りに私が病院へ寄ってひとり車に乗って帰ってくる。

 義父は今朝は早朝から漁船に乗り込んで昼まで底引き網を曳いてきた。遺体はまだ見つかっていない。見つかった舟は小島近くの沖合に沈んでいた。引き揚げられた舟は曳航され、港に陸揚げされてブルーシートがかぶせられた。今朝はその舟のもとに身内の者たちが寄り集まって泣いていたそうだ。

 

 以下、宮内勝典氏の海亀日記(04.01.05付) より転載する。

 

日本が軍国化しないように【転送・無断転載、歓迎】

宮内勝典(作家) http://pws.prserv.net/umigame/

 

 昨年は、戦争。そして今年は、いよいよ大変な年になりそうな気がする。もしもイラクで自衛隊員から死者が出れば、いつでも交戦できるように「憲法を変えるべきだ」といった方向へ、時代の空気がいっせいになだれうっていくかもしれない。

 先日、キッシンジャー元大統領補佐官へのインタビューをを聞いていると「北朝鮮の脅威に対して、日本は核武装するかもしれない」という驚くべき発言があった。

 迎撃ミサイルを配備するところまでは、おそらく政治日程に入っているだろうと思っていたが、いつのまにか核武装すべきだという世論誘導も始まっている。日本列島に迎撃ミサイルを配備するとなると、何千億円(何兆円?)という途方もない金がアメリカに流れていく。

 もしかすると、ブッシュ政権が望んでいる本心のところは、それではないだろうか? 拉致家族の問題で日朝関係がますます緊迫しているというのに、アメリカが調停に本腰を入れてくる気配は、ほとんど見られない。

 拉致家族のことは、おそらくアメリカの権力者たちにとっては、別にたいした問題ではないのだろう。かれらの利害には関係がないから。それよりも、ブッシュ政権が望んでいる本音のところは、日朝関係の緊張に乗じて、日本に迎撃ミサイルを売りつけることではないのか?

 日本列島にミサイル網ができあがれば、急成長しつつある中国に対する軍事的な圧力にもなる。核弾頭はいつでも積める。しかも長距離弾道ミサイルさえ禁じておけば、遠く太平洋をへだてたアメリカへの脅威は、まったくない。ペンタゴンの専門家たちは、そうした戦略をすでに立てているのかもしれない。

 ミサイル配備によって、だれが利益を得るか考えてみよう。「海亀日記」1月5日の下欄に【資料1】を添えた。これはブッシュ政権の閣僚たちとアメリカ企業とのつながりを示している。

 この【資料1】を読めば、ブッシュ政権がなぜ京都議定書から一方的に離脱したのか、すぐにわかる。アフガン空爆、イラク戦争に突入していった理由も、いやおうなく明らかになる。

 北朝鮮の脅威に乗じて、日本列島に迎撃ミサイルを配備することになれば、だれが莫大な利益を得るか、それも一目瞭然だろう。

  この権力者たちと、その背後につながっている企業が、戦争を起こそうとしているのだ。かれらが巡航ミサイルや、劣化ウラン弾、クラスター爆弾など火の雨を降らせ、アフガン・イラクの子どもたちの、片手、片足、命を奪い、血をすすり、ひたすら肥え太っているのだ。

 イラクで自衛隊員から死者が出たとき、あるいは北朝鮮との緊張がさらに高まってきたとき、それに乗じて憲法を変え、日本をふたたび軍国化させようとする動きがかならず起こってくるだろう。世論誘導はすでに始まっている。

 ぼやぼやしていると、すべてが既成事実化して、気がついたときは、おおっぴらに戦争ができる国になっているかもしれない。第二次世界大戦が始まる前も、日常生活はなにごともなく淡々と流れていて、いつからというわけでもなく、いつのまにか戦争に突入することが避けようのない既成事実になっていたそうだ。

 時代の空気といったものは、目には見えない化け物だ。しかも世論は誘導され、操作されている。これからが正念場だ。しかと眼を見ひらいていよう。後になって後悔しないように。

 日本が軍国化しないように、互いにベストを尽くそう。

 

 

【資料1】

 アフガン空爆が始まったころ、私たちはブッシュ政権の閣僚たちと企業がどのようにつながっているか、その資料をメールで流したことがあった。

 World Watch、July/August issue「Dim Vision」に掲載されていた記事であった。翻訳してくださったのは「非戦」の中心メンバーの一人、友人の枝廣淳子さんだ。

 この閣僚リストは、アフガン空爆当時のものであって、現在とは多少ちがっているかもしれないけれど、本質はまったく同じである。ついでに付記すれば、チェイニー副大統領の夫人は、軍需産業ロッキード社の役員である。

 

「ブッシュ政権と企業とのつながり」

 米国のエネルギー計画を策定するにあたって、ディック・チェイニー副大統領は、「エネルギー計画の策定作業に、エネルギービジネスについて知っている人間が入っていると役に立つ」と言った。チェイニー副大統領は、世界最大手のエネルギー会社であるハリバートン社の元CEOである。

 しかし、チェイニーは自分のことだけを指していたのではなかった。チェイニーは、特にエネルギー業界の幹部やロビイストたちをたくさん、ブッシュ政権に集めている。

 たとえば、「クリアリングハウス・オブ・エンバロメンタル・アドボカシー・アンド・リサーチ」が、エネルギー省の政治的な職への任命者を調査するための63人からなる諮問委員会のバックグラウンドを調べたところ、うち50人がエネルギー業界出身であることがわかった(27人が石油・ガス業界、17人が原子力発電・ウラン採掘業界、16人が電力業界、そして7人が石炭業界。再生可能エネルギー業界の人はたったの1人だった)。

 以下のリストからわかるように、ブッシュ政権のトップのポストを埋めた人々のほとんどが、業界との強いつながりを持っているのである。

 

★ Donald Rumsfeld, 国防長官
製薬会社G.D.サール社(現ファーマシア社)の元CEO。ケロッグ社、ギレアデ・サイエンス社(バイオテクノロジー会社)、および、シカト・トリビューンとロサンゼルス・タイムスを所有するトリビューン社の役員をつとめる。

★ Andrew Card, 首席補佐官
米国自動車製造業者協会(いまは存在していない)の元会長。また、ゼネラル・モータース社の主席ロビイストをつとめた。

★ Condoleezza Rice, 国家安全保障担当補佐官
シェブロン社は、2000年8月、石油タンカーに前役員だったRiceの名を冠した。ブッシュ政権との協議の後、4月にそのタンカーは改名された。Riceは、金融会社であるチャールズ・シュワブ社、保険会社であるトランザメリカ社の役員でもあった。

★ Mitch Daniels, 行政管理予算局局長
製薬会社イーライ・リリー社の元副社長。

★ John Graham, 行政管理予算局の情報規制部部長(指名)
ダウ・ケミカル社、化学製造業者協会、塩素化学協議会、その他の業界団体が資金供与するシンクタンク、ハーバード・リスク分析センターの所長。同センターは、健康や安全性、環境に関わる規制の大部分のコストはその便益を上回っていると主張している。

★ James Connaughton, ホワイトハウス環境基準に関する評議会議長
ゼネラル・エレクトリック社とアトランティック・リッチフィールド社がスーパーファンド法による用地浄化を不服として環境保護庁を相手取って起こしていた訴訟で、両社に対して法的助言を与えていた。

★ Gale Norton, 内務長官
NLインダストリーズ社の元ロビイスト。同社は、その塗料に含まれている鉛に子どもたちを暴露したとして裁判に訴えられた化学会社である。Nortonは、業界が支援する環境主唱者連合の全国会長を務めた。環境団体「地球の友」によると、この「えせグリーン」団体は、クアーズ・ブルーイング社、米国森林製紙協会、化学製造業者協会から資金を得ている。

★ J. Steven Griles, 内務長官補佐(指名)
石炭、石油、ガス開発会社であるユナイデッド社のロビイスト。石油、石炭、電力業界の利権を代表するワシントンを本拠地とするロビー活動会社「全国環境戦略」の元副社長。ここには、オクシデンタル・ペトロリアムや、米国鉱山業協会、エジソン・エレクトリックなどが加わっている。

★ William Geary Myers, III, 内務省民事弁護士(発表)
米国牧畜業者牛肉協会と、払い下げ公有地協議会のロビイスト。

★ Linda Fischer, 環境保護庁副長官
バイオテクノロジー企業への転身を図っている農業化学会社、モンサント社の政府関係担当副社長をつとめた。

★ Ann Veneman, 農務長官
世界最大のフルーツ・野菜の生産者であるドール・フーズ社のロビイスト。また、モンサントに買収された農業/バイオテクノロジー会社のカルジーン社の役員でもあった。

★ Francis Blake, エネルギー副長官(指名)
産業界大手のゼネラル・エレクトリック社の上級副社長。同社の汚染は米国内で、スーパーファンド法にひっかかる汚染用地をどの企業よりも多く生み出している(全部で47ヶ所)。

★ Robert Card, エネルギー次官(指名)
閉鎖されたコロラド州のロッキーフラット核兵器工場で、原子力安全基準に違反したとして100万ドル近くの罰金を科された核廃棄物浄化請負業者、カイザー・ヒル社の社長兼CEO。

★ Donald Evans, 商務長官
デンバーに本拠を置く石油会社、トム・ブラウン社の元役員。

★ Norman Mineta, 運輸長官
防衛コントラクター、ロッキード・マーチン社の元副社長。

★ Tommy Thompson, 保健省長官
フィリップ・モリスたばこ会社の株を所有。同社は、彼がウィスコンシン知事に立候補したときに選挙資金を提供し、当選につなげた。

★ Elaine Chao, 労働長官
ドール・フーズ社と、クロロックス社の役員をつとめた。

★ Paul O'Neil, 財務長官
世界最大のアルミメーカー、アルコア社の元会長。インターナショナル・ペーパー社の社長や、イーストマン・コダック社とルーセント・テクノロジー社の役員をつとめる。

★ Thomas Sansonetti, 環境天然資源担当次官(発表)
レーガン・ブッシュ政権の幹部をつとめた後、民間の弁護士業に戻り、鉱山業会社と石炭業界の代表をつとめる。鉱山業の利権を代表して証言し、連邦政府の公有地でさらに採掘を行う必要があると主張した。

 

2004.1.18

 

*

 

 仕事を終えてから大阪の病院へ行く。京橋経由京阪電車の支線の小さな駅から徒歩20分ほど。小児病棟の病室には他に白血病の4歳の女の子と、原因不明の呼吸困難となって救急車で運ばれた3ヶ月の赤ん坊。チビは病院の食事がお気に召さない様子。時折ベッドの柵越しに隣の赤ん坊を覗いている。車を置いておけることになったというので、8時半頃までいて、電車で帰ってくる。JRの駅から田圃道を歩いてきたらはや11時近く。どんぶり飯に卵をかけて夕食にし、風呂に入る。明日は朝5時起きで急遽変更になった別の現場へ。

2004.1.19

 

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 13時間の仕事を終えて夜の9時に帰宅した。妻と子一人のつましい生活を維持するためだけに、人はこれだけ働かなくてはならないのか。神戸の友人のEちゃんが以前から送ってくれると予告していた、彼女たちの主催する障害者の自立支援組織の冊子が郵便で届いていたが、これについては明日にでも書く。病院のつれあいから検査の報告の電話。尿の逆流による腎臓への影響はいまのところ見受けられない模様。膀胱圧圧はこれまで通り良くもないがひどく悪いというほどでもない。後日に担当のM先生から詳細な説明があるらしい。検査はこれで終わりで、明日からは排便の薬を用いての経過観察のようなもの。チビは昨夜は遅くまで眠れずにいて赤ちゃんのベッドの柵に手を伸ばしたりして同室の人たちにだいぶ迷惑をかけたそうで、今日は昼寝をさせなかったという。9時の時点でうとうととしかけていて、「ちょっとお父さんに電話してきてもいい?」とつれあいが訊くと素直に肯いたそうだ。明日は朝から定例会。

2004.1.20

 

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 神戸に住む友人のEちゃんから、彼女が仲間たちと立ち上げた「障害を持つ人の自立生活をサポートする団体」の機関誌(冊子)がまとめて何冊か届いた。「自立生活センター リングリング」は障害者のためのカウンセリング・介助サービス・情報発信などを柱とした、障害者自身が事業主体となって運営されている福祉団体で、2年前にはその介助派遣部門が特定非営利活動(NPO)法人として認証され、これまでいくつかの新聞等でもその活動が紹介されている。その機関誌のなかでEちゃん自身が記している、こんな一文が特に深く心に残った。

 

 権利擁護部門の活動として、事務局会議で、自分の周りの人権侵害の話題を持ち寄り、話し合う時間をつくっている。このコーナーでは、そこで取り上げられたトピックスについて、毎回、書いていこうと思う。今回は、9月9日の新聞に掲載された、「着床前診断」の記事について。

 

 着床前診断といえば、強烈に思い出すことがある。確か、6〜7年前。TVで、どこかの大病院が着床前診断の申請を出すというニュースが流れた。対象になる障害の中には、私の障害と同類である「筋ジストロフィー」が含まれていた。

 私は、用事をしながら、BGM程度にTVを流していた。しかし、そのニュースが始まると、私は画面に釘付けになってしまった。心臓がどきどきした。着床前診断が、もしも当たり前に行われていたら、私は生まれてこなかったに違いないからだ。「筋ジストロフィーの子供は生まれてこないほうがいい。つまり、私は生まれてこないほうがよかった」と、TVで、公然と宣言されていると感じた。きっと、このニュースを見る人たちは、疑問さえ感じず、着床前診断を受け入れるのだ。悪気のない、善良な人々に見殺しにされるんだと思った。一瞬にして、世の中から抹殺される気分だった。あまりの恐ろしさに、身体が震えたのを、今もはっきりと覚えている。

 隣で母がアイロンがけをしていた。「頼むから、何も喋らないで」と願った。母は、私を愛してはくれたが、私の障害については受け入れられないところがあった。母がもしも「良かったなぁ」なんて一言を発したら、私は耐えられないと思ったからだ。心臓の音がドキンドキンと聞こえてくるようだった。

 しかし、私の願いを裏切って、ニュースが終わると、母が喋った。母の言った一言は、「そんなん困るなぁ。そんなんしたら、あんたが生まれてこんかったかもしれへんやんなぁ」だった。全身から力が抜けた。うれしかった。ほっとして、涙が出そうだった。

 今にして思えば、母は、「着床前診断で障害が分かったら、生むことをやめてた」と言ってたわけだから、それもどうかと思うのだが、ともかく、今の私の存在を肯定しているだけで、そのときの私は救われた。

 そして、ほっとすると同時に、命の選別がなされ、私の命は捨てられるべき命と考えられていること、公共のTVが「障害者は生まれてこないほうが良い」と、ためらいもなく発信していることに、激しい怒りと悲しみが襲ってきた。その悲しみから立ち直るために、私は、すぐに友達に電話して、ワンワン泣いた。「私は生まれてきて良かったんや」「私は生まれてきて良かったんや」と、何度も自分に言い聞かせた。そのあと、私を抹殺しようとする力に対し、怒りをもち、闘い続けようと誓った。

 私は、今、自分自身が生まれてきて本当に良かったと思っている。障害があることが、ときには、つらさやしんどさを持ってくることもあるが、逆に、障害のおかげで授かったものも多い。私の周りの多くの人たちも、私が生まれたことを良かったと思ってくれている。

 そして、未来の、私と同じ障害をもつ子供たちにも生まれてきてほしい。その人にしかできない、素敵な人生が送れるはずだから。「生まれてきても苦労することが分かっているから、生まない」という意見がある。大きなお世話である。どんな人生にも、多かれ少なかれ苦労はあって、その苦労も含めて、人生は豊かになるのだ。どんな人生を送っても、生まれてこないよりは、ずっといい。

 「出生前診断そのものは、あくまでも診断であって、生まないという結論を出すかどうかは分からない」という言い訳もある。しかし、実際は、障害があると分かった時点で生まない決断をする人が多いという事実は見逃せない。なぜ、障害をもつことが分かったら、生まないのか。いや、むしろ生めないのである。この社会では、障害をもつ人が、不当に苦労を余儀なくされている現実がある。まして、自分自身が障害をもたず、身近に障害者がいなければ、障害をもつ子供を生むことは、果てしなく恐ろしいものに思えるだろう。たとえ、勇気を持って生むことを決めたとしても、医者も家族も友達でさえも反対していたら、それでも「生みます」と言い続けることに、どれほどエネルギーを要するだろうか。

 そもそも、障害をもつ子を生むことにそれほど多くの勇気が必要である状況を変えていかなければ、この問題は解決されない。障害をもつ子やその親が苦労するのは、決して、仕方のないことではないのだ。

 出生前診断のために莫大なお金や力を注ぐのは、もうやめにしても障害をもって生まれてきても、不当な差別をされたり、むちゃくちゃに苦労しなくてもよいような社会をつくっていくことに、力を使ってほしい。一人一人が何かアクションを起こせば、必ず、この動きは止められる。私は、まず、最初のアクションとして、このことを、できるだけたくさんの人に伝えていきたい。

 

*出生前診断  妊娠中の母体を検査し生まれてくる子供に障害や疾病がないか診断するエコー検査・羊水検査・絨毛検査・臍帯血(胎児血液)検査・母胎血清マーカー検査などがある。

*着床前診断  受精卵を調べて障害や遺伝病の有無を検査する。

(リングリング通信 No.5 より転載)

 

 参考までに「自立生活センター リングリング」の連絡先を記しておく。「リングリング」では一口3千円の正会員・賛助会員の他、寄付金・切手・書き損じハガキ・未使用テレホンカード・不要な封筒等のカンパも募っている。

自立生活センター リングリング
〒650-0802
兵庫県神戸市兵庫区中道通6丁目3-12-101
TEL & FAX 078-578-7358
E-mail ring-ring-kobe@nifty.com

2004.1.21 pm6:00

 

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 夜、夕食を済ませてから「Folkways」という音楽ビデオを見た。これはアメリカ音楽の偉大な先駆け、素朴でつましい魂、砂嵐にさらされた悲しみと勇気、そして何より鎖を連ねる輪のような「伝承」について語られたものだ。ウディ・ガスリーとレッドベリーという二人の誠実なホーボーたちが辿った道のりについて。ビデオを見終えてから、私はギターを引っぱりだして、空の丼と箸の乗ったテーブルに歌詞カードを広げ、ウディ・ガスリーの Deportee という曲をひとつ歌った。それはほんとうに真実の体験だった。その曲のあまりの豊かさに打たれて、まるで身体中がしずかな悲鳴をあげているかのようだった。絞り出されたがらんどうのような反響が声となって出た。それは不法滞在で国外追放された季節労働者たちを満載した、故国メキシコへ向かう飛行機が墜落して全員が死亡したときのことを歌った曲だ。そのとき、アメリカのあるラジオのアナウンサーが「ただの国外追放者(Deportee)たちでした」とコメントしたのだった。

 

収穫も済み、桃は腐りかけている
オレンジはクレオソートの中に詰め込まれている
おれたちはメキシコ国境まで飛行機で運ばれる
金だけ搾り取られ、また川を越えてこちら側へ

おれのじいさんもこの川を渡った
やつらはじいさんが懸命に稼いだ金をまきあげた
弟や妹も果樹園で働いていた
病気になって死ぬまでトラックに乗りつづけた

さようなら ユアンにロザリータ
さよなら友達よ イエスさまとマリアさまも
飛行機に乗せられるときには名前などありはしない
ただ追放者と呼ばれるだけ

おれたちはあなたがたの国の丘で死に、あなたがたの国の砂漠で死んだ
あなたがたの国の山で死に、あなたがたの国の平野で死んだ
あなたがたの木の下で死に、あなたがたの茂みの中で死んだ
川のどちら側で死んでもおなじことだった

飛行機はロス・ガトス渓谷の上で火を噴き
火の玉と稲妻が丘中を揺さぶった
枯葉のように散らばるのは誰なのか
ラジオが言った「ただの追放者」と

さようなら ユアンにロザリータ
さよなら友達よ イエスさまとマリアさまも
飛行機に乗せられるときには名前などありはしない
ただ追放者と呼ばれるだけ

これがこの国の大果樹園を営む最善の方法なのか
良い果物を育てる最善の方法なのか
枯葉のように舞い落ち、土の上に朽ち
追放者としてしか知られぬことが

 

 この歌はアフガニスタンへの空爆で頭をかち割られて死んだ幼い子供が歌ってもいい。内戦のアフリカでゲリラに連れ去られてレイプされた少女が歌ってもいい。差別のために人を殺め自らも縊て果てた悲しい鬼が歌ってもいい。この世のどこにも居場所を見つけられずずるずるとただ堕ちていくジャンキーが歌ってもいい。つまりほんとうの歌とは、そういうものだ。この歌は報われないつましさを歌っている。冷徹な暴力を歌っている。経済の嘘っぱちについて歌っている。残虐なシステムについて歌っている。抵抗と勇気を歌っている。真の愛情について歌っている。ビジネスや政治の愚かさを歌っている。叛逆を歌っている。常識に振り回されないことを歌っている。癒されぬ悲しみを歌っている。希望のかけらを歌っている。思いやりについて歌っている。ビデオの中でU2のボノが語っていた。世界は変えられないし変わらない、という嘘がまかりとおっている。今日、ラジオから流れてくるのはそういった歌ばかりだ。そうした歌は人を眠らせる。だがウディ・ガスリーのような歌は人を目覚めさせる、と。思い出す。友人らとはじめて貸しスタジオに入ったとき、一人が切れた弦を買いに出た合間に私は残ったもう一人の友人と、二人でこの Deportee を歌ったのだった。あれから十数年の歳月を経て、この歌の意味はさらに広く深く、果てがない。たった3つのコードだ。たった3つのコードで歌える歌がいい。

2004.1.21 pm10:30

 

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 夜更けにウディ・ガスリーのCDを聴いている。「世に出ようとしているソング・ライターやシンガーに言いたいのだが、いま流行しているものはすべて無視し、忘れるようにした方がいい。ジョン・キーツのメルヴィルを読んだり、ロバート・ジョンスンやウディ・ガスリーを聞いた方がよっぽどいい」 ディランのことばはほんとうだと思う。この歌には目くらましがない。

2004.1.22

 

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 京都、向日町競輪。あすこのベンチに背の低い酔っ払いがいるがあれは前までうちの隊員だった男だと隊長のMさんに促されて見に行くと、競輪場の隅っこのベンチに赤ら顔のNさんがちょこんと腰かけていた。私の顔を見ると隣に座れと言い、それから手にしたスーパーの袋から寄せ書きの色紙を出して私にも一筆何か書いてくれと言う。まるきり事情を知らぬ私は何を書いたものか戸惑いながらともかく考えて「人生に大穴を」なぞと走り書きをして渡すと、Nさんは嬉しかったのかポケットから小銭をじゃらじゃらと出して私に呉れようとする。詰め所へ戻るとしばらくしてNさんが裏口からふらふらと入ってきた。山好きのTさんがいったい何しに来たのかと叱る。どうも日頃からいろいろ問題のあったNさんは何か大きな不始末をしでかしてとうとうクビにされたようなのだった。寄せ書きに書いてもらいたいとNさんがおずおずと色紙を差し出すと、人にものを頼むのなら素面で来なきゃいけんそれが酒を呑んで来るとは何事だ素面で来たのなら昔のよしみもあるしなら書いてやろうかという気にもなるが酔っぱらってきちゃいけんそうだろうとTさんに諭されて、Nさんは赤ら顔をうんうんと肯かせ素直にじゃ帰りますと一礼をしてまた裏口からしずかに出ていった。

2004.1.23

 

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 大阪の本部にて朝から資料作り。会社の前の交差点で The Big Issue という小冊子をホームレスのおっちゃんから一冊購入する。「雑誌販売者は、現在ホームレスか、あるいは自分の住まいを持たない人々です。最初、販売者はこの雑誌10冊を無料で受けとり、その売り上げ2千円を元手に、以後は90円で仕入れ、200円で販売し、110円をかれらの収入とします。販売者全員が行動規範に同意し、顔写真入りの販売者番号の入った身分証明書を身につけて雑誌を販売しています」 表紙は矢井田瞳(って実はよく知らないが)で結構若者向きな記事が多い。思っていたより立派で洒落たつくりだ。「一冊くれますか」と金を出すと、おっちゃんは「ありがとうございます」と小さな声でぺこりと頭を下げた。資料作りは3時頃には終わるだろうと思っていたら、以外と手間がかかった。おまけにメモリの貧弱なPCで頻繁にフリーズをするので余計時間を食う。朝つくってきた弁当を昼に食べたのが唯一の休憩時間で、何とか夜の8時までかかって次の定例会に提出する図面40枚ほどを作り上げて印刷した。ほぼ10時間もPCと向き合っていたわけだ。疲れた疲れた。明日は体が持たないからと訴えてやっと2週間ぶりの休みをもらえて、天気がよかったらバイクで病院にチビの顔を見に行こうと思っていたのだが、昼過ぎに営業所のF氏から電話がかかってきて急に人手が足りなくなったらしい、いつものホームセンターの駐車場の現場をふってきた。こんなことばかりだ。労働基準法はどうなっているのだ。おれは過労死なんかしたくないぞ。9時過ぎに家に帰ってきて、冷蔵庫にあった豚肉や卵で野菜炒めをつくった。風呂で金子光晴の「どくろ杯」を読んだ。「淫蕩な日常だけが、いたみをしびれさせ、苦しみを忘れさせてくれるものだ。私たちは、健康なからだと、尻のくさったくだもののような精神とをもっていた」 ひとりになると私はいつも、これまでじぶんが彼女にしてきた酷い仕打ちばかりを思い出して苦しくなる。バロウズの「ジャンキー」は面白かった。サブタイトルの「回復不能麻薬常用者」というのはじつは他でもない、この世の私たち全員のことではないのか。少なくとも私はそう感じた。「いつまでも麻薬を続けたくないことは自覚していた。もしおれが何か一つでも決意を固めることがありえたとすれば、それは麻薬をやめる決意だったろう。だが、いざ麻薬をやめる段階になると、それを乗り切る気力がなかった。まるで自分で自分の行動を制御する力がないかのように自分が作った計画を片っぱしからこわしていく自分の姿をながめるのは、恐ろしい無力感を味わわずにはいられないことだった」 これはまさしく私自身のことだ。私は「ジャンキー」とぴったり添い寝することができた。多かれ少なかれ私たちひとりひとりは、誰もが何らかの形で「ジャンキー」であるのだ。数日前、定例会が済んでから営業所のFさん営業次長のOさん交通主任のSさんらとビルの5階にある洒落た店で昼飯を食べた。OさんとSさんは連絡ミスでちぐはぐになった仕事のことで互いに難しそうな顔をしていた。Fさんはその間で恐縮して終始小さくなっていた。私の頼んだ日替わり定食の熱々の唐揚げはなかなかおいしかった。丁寧に剥かれた里芋や、食後のアール・グレイの紅茶もおいしかった。この人たちはいつもこんなふうに味気のない食事をしているのだろうなと思った。経理団子とか段取りハンバーグとか営業パスタみたいなものを。糞にはなるだろうが、心はちっとも美味しくないだろう。チビの入院はもうすこしばかり長びきそうだ。カテーテルという管を尿道にさしておしっこを摂るのをじぶんでする練習では感覚がないので最後の場所がなかなか分からないらしい。それでもあの子はじぶんに任せられるのが好きな性格のようで、まるで新しい遊びであるかのように一生懸命嬉々としてとても熱心にやっているそうだ。浣腸を使っての排便訓練も母親とおまるを覗き込んで「おかあさん、出たねえ」と声を弾ませているとつれあいが言っていた。おまけに小児科病棟にはプレイルームにたくさんのオモチャや本やビデオやそれに同い年くらいの友達もいて、どうやら家よりも愉しいらしいのだ。彼女が生まれてきてほんとうによかった。彼女にもそう思ってほしい。

2004.1.24

 

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 チビの退院がほぼ明日になりそうな模様。一週間と2日。チビは少々風邪気味で、昨日は食べたものをもどしてしまい、今日はほとんど食欲がないという。診察に来た小児科の医者の話では排便のリズムがいつもと違うので、その影響もあるのだろうとのこと。寒い簡易式のパイプ・ベッドで寝ているつれあいも仲良く風邪をひいたらしい。疲れも溜まっていることだろう。そんな状況を見て医者は「お母さんも疲れてきているようだし、あとの訓練はお家で続けてもらうことにしましょうか」と宣ったという。今日はやっと2週間ぶりの休みをもぎとって、ほんとうは足りなくなってきたオムツや着替えを持ってバイクで久しぶりにチビの顔を見に行く予定だったのだが、退院が決まったこともあり、私も少々疲れが溜まっていて、病院に来ても風邪をひいている人が多いからとのつれあいの言で、こちらも一日休養させてもらうことにした。

 入院費用はチビの医療手当から全額が支払われるのだが、県外の病院であるためいちど支払いをして、領収書とともにこちらの役所へ申請を出してから1〜2ヶ月後くらいに還付される。つれあいに会計で訊いてみてもらったところ10万ほどかかる見込みという。その10万が悲しいかな、いまのわが家には無いのである。車検にかかった12万は私の実家の母に借りて、4ヶ月毎に支給されるチビの障害者手当から半分づつ返すことにした。今回の入院費用は妹に頼んだ。30万までならじぶんのへそくりから融通できるというので、チビ名義の郵便局の通帳に送金してもらうことにした。母の電話では、妹はあてにされるのが結構嬉しいみたいだよ、と言う。そんな心持ちもあるものなのかと不思議に思ったりもした。

 気持ちよく晴れた、それほど寒さの厳しくはない、平日ののどかな朝だった。北側のベランダにカバーをかけて長いことくくりつけてあったつれあいの自転車を整備した。じつは私が駅までの足に使っていた自転車が数日前、駅前の不法駐車で強制撤去されて引き取るのに3千円かかるという。そのオンボロの自転車は私が造り酒屋で働いていたときに、杜氏のおやじさんがゴミと一緒に捨てられていたのを拾ってきて修理し、私に譲ってくれたものであった。3千円を惜しんで、もういいか、と手放すことにした。ベランダの自転車は、つれあいが和歌山で前夫と暮らしていたときに乗っていたものである。この自転車で彼女は当時勤めていた市内の博物館まで通い、そこで私たちは秘かな逢い引きをし、彼女は自転車をおして夕暮れの市内を私と歩き、またこの自転車に乗って薄暮の中を帰っていった。子どもが生まれてから自転車屋を営んでいる親類宅でベビーシート付きの中古の電動自転車を貰い、私は私で杜氏のおやじさんからもらった自転車があったので、引っ越した団地の駐輪場が手狭なこともあって「とりあえず」とベランダに置いていたのだった。サドルが茶色で、フレームはクリーム色、洒落た籐の前カゴが付いている。最近団地の駐輪場でも溢れてきたホームセンターの不粋な安価品ではなくて、こんなところにも彼女らしいこだわりが見えると、掃除をしながら微笑ましく思った。空気を入れ、油を差し、ぼろ布で軽く拭き、錆を落とした。4階からの階段を担いで降りて、駐輪場へ持っていった。ついでにバイクにもチェーン・オイルを差しておいた。

 バイクに乗って郵便局へ行った。一年前、何であったか忘れたが急にまとまった金が要り用になってチビの学資保険の貸し付けで借りたその金の返済期限が来月に来るのを、借りていたことも含めてすっかり失念していたのである。郵便局から通知が来て思い出し、こんなところにもまだ借金があったよ、とつれあいに見せて苦笑した。証書と印鑑を持って、一年間の利息分を含め改めて借り換えの手続きをした。ついでに今回のチビの入院で支払われる保険金の申請書ももらってきた。この学資保険は彼女の病気が判明する前に加入したものだった。いまは彼女はどんな保険にも新しく加入できない。

 それからジャスコに寄って買い物をした。厚揚げや豚肉や蒟蒻などを買った。明日、つれあいとチビが帰った夕飯に豚汁でもこしらえておこうと思ったのだった。家に帰ってインスタントのカレーの昼食を食べてから、居間で布団をかぶってしばらく眠った。溜まっている疲労が饐えた野菜屑の臭いのように体中にしみついているようだった。夕方に目が覚めて、いつかの深夜にテレビで録画しておいたダン・エイクロイドの NOTHING BUT TROUBLE という映画を見た。大して笑えなかったが、細かい部分でニンマリとまあ楽しめた。夕食は焼きそばと残りご飯。焼きそばを食べるとときどき、染色工場でいっしょに働いていたYさんのことを思い出すことがある。Yさんはわりと有名な商事会社をリストラされ、法隆寺の近くに買った家のローンの多くを残したままその小さな町工場に転職した。前の仕事のことを自慢ぶったりはしなかったけれど、どこか胸の奥底でプライドを人知れず仕舞い込んでいるようなそんな感じがあった。工場でいちばんきつい染め物を流水ですすぐポストをずっと担当していて、会社のときに不合理な扱いも諦念と歪んだ笑いでじっと堪えていた。軽く受け流しているようで、軋轢が漏れ響いた。私が新人で入社したとき、はじめから声をかけて親切にあれこれと教えてくれたのがYさんだった。そのYさんの持ってくるお弁当が月末になるといつも決まって焼きそばだったのだ。アルミの弁当箱いっぱいにまるで大量のミミズのような焼きそばが詰まっていた。それが給料日まで幾日か続いた。その焼きそば弁当をいつも黙々と、それが残された宿命だとでもいうみたいに食べていたYさんの姿をときどき懐かしく思い出す。

2004.1.27

 

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 昨日は定例会を終えて夕方、駅から自転車をこいで帰るとちょうど家の前にワイン色のキャロルが停まっていた。チビが粗相をしたとかでつれあいが後部座席を拭いているところであった。10日ぶりに見るチビは相変わらずお喋りで元気そうだが、顔がすこし痩せたように思った。お尻をつけられないので手を引いて団地の階段をのぼり、靴を脱がせて、手荒いの踏み台にしているホームセンターで買った白木の万能椅子に古新聞を敷いてその上に座らせた。シノちゃんねえオシッコしちゃったのよお、なぞとほんとうは便の方なのだが相変わらずおどけている。その晩、眠っているときに急にむくりと起きあがって布団の上に吐瀉して泣いた。今日も朝からつれあいが「食事をつくる暇もないくらい」と嘆くほど、ほぼ一時間おきくらいに水様の下痢をしてあちこちを汚し、心配になってつれあいが近所の小児科へ連れていくと、ふつうの風邪の菌といっしょに嘔吐と下痢を引き起こす別種の菌ももらってきたせいだという診断であった。改めてもらってきた薬で夕方からは下痢の症状も収まってきたらしい。おまけにつれあい自身も仲良く風邪をひいて、こちらはいつものように咳が酷いのである。だから今朝はそのまま寝ていたらいいからと、ひとりで5時に起きて弁当を詰め、6時にバイクに乗って仕事へ出かけた。ほんとうは土曜日に和歌山のつれあいの実家で法事があり私もちょうど休みがもらえていて、明日の金曜が奈良の競輪場で帰りが早いから仕事が引けてから車でおばあちゃの家に行こうとチビに約束していたのたが、その計画は中止にせざるを得なくなった。そんな状態ではあるけれども、いつものように彼女と子が眠っている布団に川の字に加わると、やっぱりこれがいちばんいいと思うのだ。

2004.1.29

 

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 チビの風邪をもらって一昨日の夜から床に伏せていた。今日は水曜の定例会にどうしても間に合わせなくてはならぬ資料の作成があったので大阪の本部へ出た。帰りに本屋の新刊の棚にあった文庫を二冊、重松清「世紀末の隣人」(講談社文庫)と辺見庸「独航記」(角川文庫)を買って帰った。明日はもう一日休む。

2004.2.1

 

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 まだ空も暗い早朝の5時に起きて6時頃にバイクに乗って出かけ、夜の10時過ぎに帰って来るという日が続いていた。遅い夕食を済まし、風呂に入り、4,5時間の睡眠時間を確保するのが精一杯という毎日。朝出かけるときには子どもはまだ眠っていて、夜帰ってきたときにはもう眠っている。昨日で内装工事も一応終わり今日から消防などの検査が入るので、私は数日おきに時間の短い巡回業務に入るが、あとは競輪場の仕事に加えて週に一度の定例会などもあってしばらくは落ち着いた日々を過ごせそうだが、月末頃から防災センターの仕事が本格的に始動する見込みである。

 今日は奈良競輪の現場で夕方には帰宅し、ひさしぶりにのんびりと、食事の後にお絵かきにいそしむチビの端で東京の友人が送ってくれたビートルズの海賊版DVD(というのは正式には発売されていない) 映画「Let It Be」を見た。高校生の頃にいちど見たはずなのだがほとんど記憶に残っていなかった。約80分の「動いているビートルたちの映像」を乾燥した細胞が水分を吸いこむかのように見た。やはりビートルズは、別格なのだ。ビートルズを見ていると、中学や高校の頃のようなざわざわとした心地よい興奮にいつの間にか包まれている。好きだった女の子や自転車や野球のグローブのことが蘇り、それらがいまも続いていることが確認できる。映画のなかでビートルズが歌っていたように、まさに I've Got A Feeling (あの感じ) なのだ。ビートルズとは永遠のスタート地点で、それは「いまからでも何も遅くはない」ということだ。この海面のざわめきのような興奮がその証で、その下には底深く謎めいた蒼き静謐が横たわっている。

2004.2.9

 

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 寝室へ行ったつれあいとチビに背を向けて居間でひとり、友人が送ってくれたザ・バンド関連のビデオをふたつ、身じろぎもせずに見た。ひとつはレボン・ヘルムの語りによって綴られたザ・バンド・ヒストリーといえる The Authorized Documentary で、もうひとつはかれらの二枚目のアルバム The Band の制作に焦点を当てた Making Of The Band である。多くは必要ない。ほとんどかれらの音楽からこれまでずっと私が感じとってきたものの再確認だけれど、あえて一言、そのメッセージのようなものを表現するのなら、それは「好きにやればいい」というものだ。プロデューサーのジョン・サイモンが言っていた。「かれらのユニークさは、時代の流行をまったく無視していた点だ」と。サイケやLSDが流行り「30才以上の大人を信じるな」などといった合言葉が語られていた時代に、ザ・バンドの目指していたのは調和であり、家族愛であり、モラルであり、古き良き伝承であり、ハウリン・ウルフやマディ・ウォーターズやロバート・ジョンスンといった先人たちに敬意を表しながら、かれらは周囲のごたごたには見向きもせずにかれらの冒険から音楽を紡いでいった。いまこの21世紀にあって、ビートルズやディランやザ・バンドの音楽をたんなるノスタルジックなものとして聴くのか、連続性として聴くのか。その姿勢には大きな隔たりがある。だから私は「好きにやればいい」というメッセージを勝手に受けとり、「そうだ、おれはおれのままこのままでいい」とうそぶいたのだった。それにしても、ああ、リチャード・マニュエル。やつの歌を聴くといまでも胸が張り裂けそうな思いがする。ビデオの中でクラプトンが言っていた。じぶんの理想とするアーティスト像は「多くの不安を抱えていて、じぶんにまったく自信のない男」で、リチャード・マニュエルがその典型だが、逆説のようだがその男が驚くべきパワーを発揮するのだと。おおリチャード、これはポーカーなのか。そしてジョーカーを握っているまぬけ野郎はいったい誰なんだ。おれたちはここからどこへ向かっていくのか。この世は何でもありだ。そして人生はお祭り(Life Is A Carnival)だ。手持ちのカードは勝手に好きなように使え。

2004.2.10

 

 

 

 

 

 

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