■日々是ゴム消し Log34 もどる

 

 

 

 

 

 最近は、昼間に路上でいろんなとりとめのないことを考えていても、夜になってチビと遊んでいるうちにそれらをぜんぶ忘れてしまって、麦酒を飲んで寝てしまう。そういえばチビのあたらしい装具は踵あたりの金具のでっぱり具合がどうも悪いらしくて、一日つけていたら皮が剥けていた。また修正してもらわなくてはいけない。とりあえず、いまは古い壊れた装具を履いている。神戸のシンポジウムでつれあいが購入してきた病気のテキストを読むと、筋肉というのはたんにその部分を動かすだけではなくて、骨の形を維持する役割もしているそうだ。神経に障害があって筋肉が動かないと骨の形まで変わってしまう。骨というのは自らその形ではなくて、筋肉によって形を維持されているともいえる。つまりチビの場合、変形がどれだけ進むかは今後の経過次第だが、たとえ若いときの変形が微小で済んでも、年をとればふつうの人より脆くなりやすい・あるいは早く歩行に支障が出る可能性が高いということらしい。その頃には当たり前だけれど私もつれあいも、もうこの世にはいないだろう。それがとても悲しく思えるときがあるが仕方がない。ところで今日は、ゴム消しを愛読されているというMさんという見知らぬ人からメールを頂いた。「若狭の一滴文庫が開館しました。ぜひ寄ってください。渡辺淳さんもいます」という短いものだ。若狭にある水上勉氏の一滴文庫は、財政難から存続の危機にあるという記事をだいぶ昔に新聞で読んだ。一時閉鎖に追い込まれた館がふたたび開館にこぎつけたということだろうか。渡辺淳さんは水上氏の著書の装丁などを手がけた地元の画家で、数年前に私とつれあいが訪ねたときには一滴文庫の館長をされていた。そのときのことはゴム消しの過去ログ4に書いた。今朝は机の上につれあいが新聞から抜き取った求人広告が乗せられていた。彼女としてはやはり、安定した正社員の職に就いて欲しいのだろう。そういえば渡辺淳さんは30年間、郵便局の臨時雇いで生計を立ててきたのだった。

2003.5.4

 

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 月曜。仕事が終わってから車でつれあいの実家へ。西名阪で炎上する事故車を見たのもそもそも悪い予兆だったか。阪和道を100キロ走行中に急にスピードが鈍り、じきにぐわらぐわらと酷い音がしてたまたま追い抜いていったヤンキー車を横目に「なんかすごい音で走ってるぜ」「うちの車じゃない?」「え、そうか」「パンクじゃない? ハンドルとられてない?」「いや、とられてないよ」 愛しのキャロルは岸和田サービスエリアのちょうど入り口によたよたと停まった。はたして後輪が見事にバンクしていた。ジャッキを出してどこにかますのかと議論しているうちに高速パトロールが来て「そこは危ないからサービスエリアに入りましょう」と誘導され、結局1,500円でスタンドでスペアタイヤに交換してもらった。空気を入れる口の根元が劣化して漏れていたらしい。のろのろと低速走行で10時半頃に着いた。

 火曜はさっそく隣町へタイヤ交換へ。堺でブリジストンの店をやっているつれあいの親類が紹介してくれ、請求書もそちらに回してもらう。おなじ程度に劣化・あるいは摩耗しているから4本とも交換した方が安全、との店員の助言で結局全取っ替えに。工賃も入れて2万弱くらいだろうとのこと。店が開くまでついでに近くの藤白神社に立ち寄りしばらく付近を散策した。境内の見事な楠の巨木にこころ奪われた。ほかに政争に巻きこまれてここで処刑された有間皇子の墓や、全国の鈴木さんの本家が住んでいたという旧鈴木邸、酒を浮かべて歌をつくったという中世の池の遺構、小栗判官が熊野を目指した小栗街道など。午後はチビと実家の前の石段に腰かけてシャボン玉を飛ばしたり、隣家の犬を見に行ったり。車で浜へも連れていった。さいしょは波を怖がったが石投げをしているうちに忘れてしまった。貝殻を拾ったり、打ち上げられた海藻やクラゲを棒でつついたり。実家からほんの数軒先の駄菓子屋へも立ち寄った。ここのおばさんはいつも「なにをあげようか?」と金を受け取らないので、今回は無理矢理に払ってきた。小さなゼリーが3つとチョコレート4つで70円。港で猫を見つけた。犯人を追う刑事のようにチビはすたすたと狭い路地へ入っていく。下校途中のチビたちと冗談を言い合ったり、港で日向ぼっこをしているおばあさんと話をしたり。この集落にはいつもある種のスローな調和があり、私はそこに浸るのが好きだ。前夜はさごしの刺身。夜は寿司屋の出前。近所の親戚が大きなヒラメが釣れたと刺身を持ってきてくれた。夕食も風呂も済ませ、チビのお古の自転車も積み、ゆっくりと下の道を走って夜中近くに帰ってきた。

 水曜。夕食後、車で城下町にあるお風呂屋へ。チビは入れ墨のおっさんをまじまじと見、誰もいない露天風呂ではしゃぎ、水風呂に手をつっこんで水遊び。

 木曜。朝から強風とどしゃ降りの冷たい雨。同僚のNくんは待機の間、店内のトイレに入って(暖房が入っていた)30分間、小便器の前に立ち続けたという。チビは朝からリハビリで大阪の病院へ。不具合の装具は一週間預かり。リハビリは現在バランスの練習で、大きな積み木でこしらえた段差を一人で登るのだが、チビはやる気がないのならもう来なくていいと担当のM先生に言われて来週の予約を取り消されてしまった、とつれあいは私に話しながら泣いてしまう。さて、どうしたものか。

2003.5.8

 

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 暖かくなってきてから雨の日以外、ぼくは午後の休憩時間に自販機で缶コーヒーを買って例の池の端へ行ってすわり、向かいの畑であのじいさんが畑仕事をしているのを煙草をふかしながら眺める。じいさんは足が悪いらしい。一二度、自転車のミラーやカゴを付けた改造車椅子で店の前の国道を後ろに車の列を従えてのろのろと進んでいるのを見かねて手伝ったことがある。またその車椅子で池の端に止まり、夕陽の沈む二上山をじっと見あげ「双眼鏡を持ってきたらよかったなあ」と呟いているのを見かけたこともあった。そのじいさんが数日前から、なにを植えるのか畑に深い立派な暗渠を掘り始めた。曲がった背中の頂を、手にしたクワと両足で支えるよな格好で少しづつ土を掘り返していく。土色の裸の上半身が滲んだ汗で黒光りしている。地中へのめり込んでいくロダンの彫像のようにも見える。そしてぼくは、そこが地球のヘソだとでもいうようにこれらの光景を眺めている。

2003.5.9

 

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 休日。昼からつれあいとチビ・母・妹を乗せ、車で奈良/京都の県境にある岩船寺や浄瑠璃寺などを回った。いつもの西大寺の近鉄百貨店にある鰻屋で夕食を取っていたとき、つまらぬ口論から私がつれあいに噛みつき、つれあいを庇おうと妹が口をはさんだところで私はテーブルの上の膳を払った。慌ててやってきた店員の前に「すいません。壊した器代ですが足りますか」と一万円札を一枚置いて、つれあいに車のキーを黙って渡し、そのまま鰻のたれが飛び散った姿でひとり、電車に乗って帰ってきた。駅からの夜道をとぼとぼと歩いた。Aよ、私の「安定」とはかくの如しだ。私は何かを築くことができない。みながしあわせでいるときに、私のなかの何かがそれを粉々にしてしまうのだ。私ができるのは壊すことだけだ。いつも、壊すことだけ。

2003.5.12

 

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 チビは昨日は午前は“幼稚園”でのあたらしいクラス体験と、午後は再開したプールの初日。一日雨だったので車がなければどちらも行けず終いだった。“幼稚園”の方はマジックミラー越しに母親が見守るという「ひとり体験」。プールもベビーのクラスからひとつあがってひとりで泳ぐというもの。“幼稚園”は本人も緊張したようで能面のような無表情になっていたらしいが、とくに泣きわめくということもなく、遊びの順番も守り、結構そつなくこなしたそうだ。途中でなぜか鼻血が出てしまって、びっくりしてそのときだけ少し泣いた。プールも他の子にまじって、プールサイドを歩くときは先生が手を引いてくれて順調にやっていたそうだが、プールの中でウンコをしていたのを先生が見つけて処理をしてくれた。この件については「もう一回試してみて様子を見ましょう」とのこと。どちらも親の手を離れてのはじめての体験だったので、つれあいはしばらく前から心配していたようだったが、その点については上々だったようで、「お母さん、シノたんがこんなにエライとは思ってなかったよ」とつれあいはひどく喜んでいた。当日、帰宅した私に玄関でつれあいは「プールでウンコしたことは本人も気にしているようだから言わないでいて。エラかったことだけ褒めてあげて」とそっと耳打ちしたのだった。

 今日はリハビリと装具の調整。あれからつれあいは家でも段差を歩く練習をさせようと、おなじような「大きな積み木」を置いている保健センターや“幼稚園”に貸し出ししてくれるよう、本人にしては「珍しく強硬に」頼んだのだが、どちらも外部への貸し出しはできないと事務的な対応のみ。それからじぶんで作るしかないとジャスコでダンボールなどをたくさん貰ってきたりしていたのだが、取り消されたリハビリの予約も電話でその後気を取り直したM先生が「無言で」予約を入れてくれた旨の連絡があり、前回は縦長に組んでいた積み木(狭いので恐怖感があったのだろう)を受付のSさんが工夫して横長に組んで前方にオモチャの電車を走らせたところ、チビはそれを大層喜んでこんどはうまくやり遂げ、M先生も「こんなふうならできるのか」とひとりごちていたとか。その後装具の調整が手間取り、近くのJRの駅に帰り着いたのが夜の7時で、仕事から戻った私が車で迎えに行き、そのまま国道沿いの王将で夕食を済ませた。

 

 本屋の新刊の棚で見つけたノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」(集英社新書)を先日から読んでいる。巻末に辺見庸によるインタビューが附されている。

 民主主義社会に関するふたつの概念が存在する、と巻頭でチョムスキーは指摘している。一方は「一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会」であり、他方は「一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかからわせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするもの」であり、現実の民主主義とは後者を指すのだとかれは言う。

 「広報(PR = Public Relation)産業を開拓したのはアメリカである」と始まる一章で、かれは「モホークヴァレーの公式」と呼ばれる「ストライキ鎮圧の科学的手法」について次のように語る。

 

 誰がアメリカニズムに反対できるだろう? 誰が調和に反対できるだろう? あるいは湾岸戦争のときのように「われわれの軍隊を支持しよう」と言われて、誰が反対できるだろう? 誰が伝統的に幸せのシンボルとされる「黄色いリボン」に反対できるだろうか? 実体のないものには反対のしようがないのである。

 広報のポイントは「われわれの軍隊を支持しよう」というようなスローガンが何も意味していないというところにある。それはアイオワ州の人間を支持するかどうかを聞くのと同じくらい無意味なことだ。もちろん、問われてしかるべき問題はほかにあった。あなたは私たちの方針を支持しますか、ということだ。

 だが、大衆にそんな問題を考えてもらうわけにはいかない。それが宣伝を成功させるポイントである。必要なのは、誰も反対しようとしないスローガン、誰もが賛成するスローガンなのだ。それが何を意味しているのか、誰も知らない。

 なぜなら、それは何も意味していないからだ。そうしたスローガンの決定的な価値は、それが本当に重要なこと、つまり「私たちの方針を支持しますか」という問いから人びとの注意をそらすことにある。

 

 昨日の新聞は、有事法制が与野党の合意を経て、国会を通過する見通しとなったと報じていた。

 9.11の同時多発テロについてのニューヨークでの講演をまとめた、テロと呼ばれるのは「私たち」が受ける暴力であり逆に「私たち」が為す暴力をテロとは呼ばない、そして、アメリカがこれまで中米や中東でしてきたひどい殺戮がニュースのトップを飾るのはもはや地球ではなく火星の新聞くらいのものだろうという「火星から来たジャーナリスト」はさらに辛辣で、そして切実だ。

 チョムスキーの「メディア・コントロール」は、当たり前のことが如何に当たり前でなくなっているかということを明晰な理性と論理が語っている。これはアメリカの数少ない内部からの勇気ある批判の声だ。かれはみずからの言説がワシントン・ポスト紙で「狂ったように興奮している」と批評されたことについて次のように書く。

 

 私はこの批評がけっこう気に入っている。

 だが、興奮しているという部分は間違っていると思う-----実物を読めば、むしろ穏やかだと思うだろう-------が、狂ったように、というのは正しい。

 狂ってでもいなければ、ごく基本的な道徳上の自明の理を受け入れて、書いてはならない事実を書くなんてことは考えられないのだろう。それはおそらく真実だと思う。

 

2003.5.15

 

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 チビはこんどから毎週水曜は“幼稚園”での「ひとりクラス」。この日はお弁当を持っていき、これも母親と離れてひとりで食べるのだ。それで新しいお弁当箱を買いに、私の職場であるベビー用品店に来ることになった。朝、出勤前に私が急いで書いた地図を片手につれあいが昼過ぎ、キャロルを運転してやってきた。休憩時間を利用してチビ待望の“アヒルのいる池”にも連れていってやった。折しもときどき夕方にパンの耳を放りにくるスクーターのおばさんが来ていて、いつものようにアヒルに餌をやっているところだった。チビは大喜びで「アヒルさん、こんにちわ」と挨拶し、手にしていた紙パックのいちごオレをアヒルにやると言う。夜には、アヒルさんの体はシロでくちばしと足はキイロ、足はこんなんだった、と真似してみせた。私が立哨(出入り口の誘導)に立っているあいだ、別館のオモチャ売り場へ英語教材のビデオなどを見に行っていたのだが、この日の同僚の60代のYさんがアンパンマンの菓子袋をチビに買ってくれ、「ほら、これ貰ったの」と嬉しそうに戻ってきた。そうして夕方、ふたたびキャロルに乗って帰っていった。

2003.5.16

 

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 今日、風呂のなかで、私の問いにチビが苛立ったような答え方をするので、そんな怒ったような言い方をしなくてもいいじゃないか、と言ったところ、おトウさんがオコルからシノちゃんもオコルんだよ、と言われてしまった。なるほど。私は些細なことですぐにカッとなる。ひどいときはこのまま人さえ殺めてしまうのではないかと思ってじぶんが空恐ろしくなる。人間が卑小で、我慢が足りないからだ。だがそれだけではないかも知れない。私が小さなコトで苛立つのは、きっとじぶんのほんとうの居場所を見つけていない・いまだ見つけられないからだ、と思う。わたしにつながっていなさい。葡萄の枝が幹につながっていなければ、それ自身では実を結ぶことはできないのだから、とイエスが言ったような。

 こどもの寝顔を見ていると、ここが私の居場所なのだ、そして彼女と母親のために私は生きてそれがすべてなのだ、と思えてくる。だが夜更けにもうひとりの私が、内なる悪魔と手を携えて砂漠の荒れ地へふらふらとさまよい出す。

 

 むかし見た大林宣彦の映画のなかに、たしかこんな言葉があった。

 

ひとりとひとりは さびしくて ふたりになれば くるほしい

 

2003.5.17

 

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 ジョンスンのヴィジョンは救済、贖罪、あるいは安楽のない世界のヴィジョンであった。それは彼が抵抗し、あざ笑い、ひたりきっていたヴィジョンであったけれども、とりわけそれは彼が追い求めていたヴィジョンなのであった。ジョンスンは、挫折し、みなしごとなった清教徒といったていで自分の道を歩み、女を求め、楽しい夜を求めたが、そういったものが見つかっても見つからなくても、それが本当に自分がほしがっているものだと確信することはけっしてなく、したがって昔ながらの罪と呪いとでもって自分の話を組み立てたのだった。彼の歌には、人間のように歩くブルーズとか悪魔とか、あるいはそのふたつが結託したものが出てくるが、ジョンスンは多くの場合その悪魔たちと仲良くつきあっている。彼が最も恐れていたことは、自分の欲望があまりにも強いために、それを満足させるには自分自身が一種の悪魔になるしかないということであった。

Mystery Train・Greil Marcus 1975

 

 これらがどういう意味なのかを他人に説明することはできない。が、これらがどういうことなのかを感じ、理解することはできる。

 

Me and the Devil was walkin' side by side
Me and the Devil, ooh was walkin' side by side
And I'm goin' to beat my woman until I get satisfied

おれと悪魔は並んで歩いた
おれと悪魔は並んで歩いた
おれの女を気のすむまでなぐりたい

Robert Johnson・Me and the Devil Blues

 

 

 この世の美しさと、それを失う恐怖のすべてがエリック・クラプトンのロックにはある。ロバート・ジョンスンの音楽は、美は恐怖そのものから絞り出せることを証明しているのだ。ジョンスンが最も暗い歌をうたう場合には、恐怖は事実であり、美はかすかな光にすぎなかった。しかし、そのかすかな光は、そしてその光の消えていくさまは、あるゆるものの下に、急所をついたあらゆるイメージの下に横たわっている。ぼくらの文化は、約束の不履行(断念するのではない)と折り合おうと試みながら、そのかすかな光とその光が消えかける時点との境のところに緊張と生命とを見出している。

 

 

 手に入れたものは、いつかは手放さなくてはならない。

2003.5.18

 

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 月曜の休日。昼間はそれぞれ用事を済ませ、夕方、車で奈良公園へ立ち寄った。春日大社行の最終のバスが過ぎた小径のバス停前に車を停めた。夕方の奈良公園は観光客の姿もすっかりひけて、閑かで美しい。庭園風の池の端のベンチに腰をかけたつれあいが、まるでじぶんちの庭のようだわ、と微笑む。三人で途中で買ったパンを頬張った。チビはちぎったパン切れを一頭の遠慮深げな鹿に与え、こちらもじぶんちの飼い犬のように、ほら食べなさい、お行儀良くしなくちゃだめよ、などと言いながらいっしょに戯れている。こんどはこんな時間にお弁当を持って来ましょうよ、夜桜を愉しみながら宴会もするのだから、公園で夕涼みをしながら夜のお弁当を食べるのがあったっていいわ、と彼女が愉しそうに言う。

 

 おそらく登校拒否か引き籠もりの類ではないか、ほとんど毎日のように私が立っている歩道を昼間、自転車で往復する青年がいる。いつも決まって古びたジャージのズボン姿で、サドルの後ろに傘を差し、路面を睨みつけた仮面のような表情でペダルを漕いでいくので、同僚の大学生のS君などは「謎の奴」と嘲笑っている。かれがこの道を往還するのは数キロ先のレンタルCD屋へ通うためだというのは、いつも前カゴに乗っているCD袋から推察される。その青年が、なぜかいつも私の前を通り抜けるその瞬間に「シィーーー!!」と歯の隙間から激しく漏れ出たような声を発していくのだ。それはかれにとってこの世界に対して発せられる唯一の言語ではないかと、私は思ってみる。自転車の前カゴで揺れているCD袋にどんな音楽が入っているのか、ときどき私は覗いてみたい誘惑に駆られるのだ。

 

 沖縄の島唄の先駆者・嘉手苅林昌は16歳のときに本土に向かい、大阪の製材所に勤めるが3年ほどで帰り、ほどなく三味線を手にサイパン、テニアン、クサイといったミクロネシアの島々を放浪する旅に出る。その2年後には太平洋戦争が始まり、「戦火の下で島々の沖縄人町や女郎屋を渡り歩き、歌と三味線だけで糊口をしのぐ毎日だったという」(引き裂かれた声・平井玄・毎日新聞社) そしてその頃、かれは地元・沖縄では「ウフゲーンナー」(妻子を養う能力のない怠け者)と呼ばれて蔑まれていた。

 

 辛い綿摘みの労働を歌ったアメリカの黒人たちのように、“失われた週末”の後の長い沈黙の果てのジョン・レノンのように、人はいつかじぶんの島唄をみずからの力で歌える日がきっと来るのだ。遅かれ早かれ、その日は来るのだ。そう、私は信じている。

2003.5.21

 

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 昼間、路上に立ちながらブルーハーツの“リンダリンダ”を口ずさんでいて、不覚にも泣き出しそうになってしまった。

 

愛じゃなくても 恋じゃなくても
きみを離しはしない

けして負けない強い力を
ぼくはひとつだけ持つ

 

 きっとまだ大丈夫だ。抱えているものはあれこれあるけれど、それでもぼくはまだシンプルで、まっさらだ。

2003.5.22

 

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 職場のサイクルおじさんTさんと事務所の担当F氏と三人で、仕事が明けてから西大寺にある県下随一の熊っ子ラーメンを食し、深夜までカラオケ。私の演目。ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「沖縄ベイ・ブルース」「身も心も」、鶴田浩二「傷だらけの人生」、クレージー・キャッツ「だまっておれについてこい」、河島英伍「酒と泪と男と女」、園まり「夢は夜ひらく」、岡林信康「山谷ブルース」、ブルーハーツ「チェインギャング」、吉田拓郎「落陽」。西大寺駅横の公衆便所で連れションをしながらF氏が「ブルーハーツのあの曲、おれも練習しようかなぁ」とつぶやいた。谷村新司の「三都物語」を熱唱していたあんたに、あのブルースが歌えるかな。歌っていたら土曜日からこじらせていた風邪も治ってしまった。(ような気がする)

 

 そんなことをしている間、チビは家ではじめての文字を書いていた。トトロの「と」の字をクレヨンで書いて「ほら、おかあさん“と”だよ」と持ってきた。

2003.5.27

 

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 いろいろ書きたいこともあって、昼間、路上に立ちながらあれこれ考え事もしているのだが、どうも家に帰り着くと「書きたい」という気がいまいち湧いてこないのだな。時間が足りないというのもあるかも知れないが、どうもそれだけではないようだ。つまり、これまでの言葉がどうも錆びついてきているようで、私はなにか、べつの言葉を探しているような、そんな気がするのだ。いや、言葉だけじゃない。根こそぎの感覚のようなもの。それを全とっかえしなくてはならない、みたいな。

 今日は休憩時間に、しばらく前に買ったシュタイナーの教育についての本を少し読んだ。生まれてくるこどもというのは天界の精神のままで、それが身体というこの世の殻をかぶってしまったことにいまだ不馴れで、だからこどもがはしゃぎすぎたり行儀がわるかったりするのは、逆に天界の精神が着慣れぬ服をかぶってばたついているようなものなのだという。だから「幼いこどもを観察することは、天界を知ることなのだ」と書いてあった。あまりメジャーな見解ではないが、私はけっこう、そんな考え方が気に入ったりする。

 ところで、Webで知り合ったさわさんとbbさんが今夜、東京から車を飛ばして奈良へいらっしゃるのである。もちろんオフラインでは初対面。明日、私は仕事がひけたら前夜祭でラーメンなどいっしょに食いに行って、明後日の休日は私の家族も同行させてもらって飛鳥で遊び、藍染織館でさわさんが豪華な夕飯を馳走してくれる予定である。そんなわけで今夜は早めに寝ときますがな。

2003.5.31

 

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 仕事を終えてから、バイクで猿沢池近くのホテルへさわさんとbbさんを訪ねる。三人で夜の人気ない寺町をひとしきりぶらぶら。カプリチョーザに入って夕食と雑談。なんか、これまでWebで語り合っていたさわさんらと、こうして夜の奈良の路地を実際に並んで歩いているのがひどく不思議な感じだったね。明日は飛鳥でうまいもん食べてのんびりした景色のなかおいしい空気を吸って命の洗濯をしてきます。なんとさわさんはこれまでいちども飛鳥を訪ねたことがないのだそうだ。驚いた。

2003.6.1

 

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 月曜。昼前にbbさん運転するさわさんの車に家族で同乗して明日香村へ。高松塚古墳近くの公園の木陰にブルーシートを敷いて、最近わが家で気に入っている郡山城下に新しくできたパン屋さんのパン各種をつまんでのんびり昼食。食後、チビが導尿をしている間にさわさんとbbさんは古墳と壁画館を覗いてくる。続いて飛鳥寺へ。私も飛鳥大仏に会うのはひさしぶりだった。チビは大仏の手を真似たりしている。ここでもさわさんたちだけ、寺の裏手の飛鳥時代の水時計の遺跡などを見に行った。それから歩いてほど近い酒船石と3年前に新たに発掘された亀形石造物を見学。石舞台古墳を見学し、最後に飛鳥川を遡り美しい棚田の風景を経て上流の飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社や稲渕集落綱掛神事の川面に掲げられたワラ製の男根・女性器などを眺めてから夕刻、藍染織館へ入った。館長のW氏とはチビの宮参り以来だから、もうかれこれ2年ほどのご無沙汰になるだろうか。あれからチビの病気が発覚したりで何となく足が遠のいていたのだった。W氏は相変わらず私に、なかば冗談だろうが蕎麦打ちを覚えてこの館を引き継げと言う。それからチビの顔を目を細めて見つめ「いいなあ、この年齢は。なんの邪心もなくて。あんたは神さまだよ」と言い、店に置いていたお手玉をプレゼントしてくれた。給仕をしてくれたのは旧知のOさんで、東吉野村から手伝いに来ているチャーミングな女性だ。さわさんが大盤振る舞いをしてくれた献立はそれこそ食べきれないくらいで、私も何度か厨房の手伝いもしてきたがこれほどの品数は見たことがなかったくらいのご馳走であった。食後のコーヒーは囲炉裏を囲みW氏も交えてお喋りをし、家に帰ったのはすでに夜の10時近かった。

 さわさんは、じつはもうちょっとコワイ感じかなとか思っていたのですが(^^;;、気さくで自然な親しみを感じる、やはり素敵なお姉さまでした(インドのガネーシャのサイケなTシャツがイカしていた)。bbさんはとつとつと慎重に言葉を選んで話す、どこか誠実なミュージシャンといった感じ。車の中では私がナビ役で助手席に座り運転席のbbさんと音楽談議などをぼそぼそと語り合い、さわさんは後部座席で私のつれあいと女同士の話題に花を咲かせていた。はじてめお会いした二人は何というか初対面なのに「ふだんのようにこうしていっしょにいるなあ」という感じで、その「ふだんのようにこうしていっしょにいるなあ」というのが何やらさり気なく、とてもいい感じのような気がしたのであった。そのために掲示板のような特にハードな話題も少なく、あとで「ああ、こんな話もしたかったなあ。これを訊くのを忘れていたなあ」とかあれこれ思ったりもしているのだけど、まずは初顔合わせということで、それはそれで良い二日間だったような気がするのだ。長いお付き合いの始まりのような、ね。

 さわさんから崎陽軒のシューマイと、それからチビにセロ弾きのゴーシュのビデオと、つれあいには「頑張っているご褒美に」と何とルビーの指輪を頂戴した。bbさんからはお薦めの和田アキラと、鈴木いさおというべーシストのジャズ・アルバムのCDをお借りした。

 過ぎてみれば、あっという間の二日間だった。何やら一抹の不思議なさみしさも残る心地で。この次はぜひ、ひと月くらいの日程を組んでゆっくりいらしてくださいませ。

2003.6.4

 

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 その少年にはじめて会ったのは、私がいまの仕事に就いてしばらくしてからだ。こざっぱりとした髪と服装で、自転車にまたがり、ほとんど毎日のように店の前の舗道を通り過ぎた。私はなんどか駐車場へ出入りする車の足を停めて、かれの自転車を優先した。そんなとき少年は、いつもぺこりとおじぎをして通りすぎていった。4月になり、真新しい中学の制服を身にまとって道の向こう端を歩いている少年を見かけた。まだ若い母親に付き添われ、自転車にまたがって軽快に駆けていった少年と違い、まるで未知の散歩道をどこか不安げに緊張した面もちで母鳥の後をついていくヒナのようなぎこちなさがあった。時折きょろきょろと周囲を伺い、おろしたての制服が初々しかった。少年を乗せた養護学校のバスはいつも夕方のおなじ時刻に、私が立っている路上のすぐ先に停車し、少年をひとり降ろしていく。そのバスが、今日は赤信号にはばまれてちょうど私の目の前に停まった。私は出庫する車をうしろに停めているところだった。ふと見あげると、バスの後部座席のあたりにいた少年と目が合った。その瞬間、少年はぱっと目を輝かせ、隣に座っていたともだちに嬉しそうに何か声をかけた。それから少年はこちらに向かって手を振った。私もそれに応じた。もういちど手を振る。私も応える。さらにもういちど。バスが停まっているあいだ、少年はいくども嬉しそうな顔でこちらに手を振り続け、私もそのたびに手を振って応え続けた。やがて信号が青になり、バスはいつもの場所まで進んでから少年をひとり降ろして走り去った。バスを降りた少年は、いつものように私の目の前の道の向こう端を私には目もくれず、すたすたと家路へ向かって歩いていった。

2003.6.6

 

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 二日ほど前から、なぜか路上に立てば拓郎のこんな曲ばかりを阿呆のようにくり返し口ずさんでいる。気がつけば私は、TONIGHT'S THE NIGHT のアルバムをへべれけに酔っぱらって演奏しているニール・ヤングのような危うくもの悲しい顔をしていずこかを見つめているのだ。

 

なつかしい人や 町をたずねて
汽車を降りてみても
目に映るものは 時の流れだけ
心がくだけてゆく

帰ってゆく場所もないのなら
行きずりのふれあいで
なぐさめあうのもいいさ

シンシア そんなとき
シンシア きみの声が
戻っておいでよと唄ってる

きみの部屋のカーテンやカーペットは
色褪せてはいないかい

シンシア・吉田拓郎

 

 私がこの歌から勝手に感じとっている「帰ってゆく場所」は、不思議なようだが、かつてこの世で私がいまだいちども存在したことのない場所なのだ。それでも「帰ってゆく」と感じて仕方がないのだ。帰らなければならない。狂おしいほどの心持ちで。

 私はいったい、どこへ行けばいいのだろう。

 

 

 そのように教えると、子どものなかに非常に繊細な、美しい感情が生じます。子どもは、植物界を地球に属するものとして、動物界を自分に属するものとして学びます。子どもは地球領域全体と結びつくのです。

 子どもは無機的な土地の上に立っているのではありません。生きている土地の上に立っているのであり、地球を生きものと感じるのです。子どもは、たとえばクジラのような大きな有機体の上に立っているように、大地の上に立っているのです。そのように感じるのが、正しい感情です。そうして、人間は世界を感じ取れるようになるのです。

 

 10歳から12歳ごろまでの子どものなかに、「植物--大地、動物--人間」という表象を呼び起こすことには大きな意味があります。そうすることによって、子どもは心魂のいとなみ、身体のいとなみ、精神のいとなみ全体をもって、世界のなかに位置することができるようになるのです。

 わたしたちが子どもに、植物と大地の結びつきを感じさせることによって、子どもはほんとうに賢くなります。子どもは自然に即して考えるようになるのです。すべてが感情に即して、芸術的に教えられなくてはなりません。人間が動物とどのような関係にあるかを教えることによって、すべての動物の意志が、適切に分化、個別化されて、人間のなかによみがえります。動物に刻印されたあらゆる特徴、あらゆる形態感情が人間のなかに生きています。そのことをとおして人間の意志は強められ、人間はみずからの本質に自然な方法で、世界のなかに位置するのです。

 どうして今日、人間は根無し草状態で世界を歩んでいるのでしょうか。人間が世界を歩んでいるのを見ると、ちゃんと歩んでおらず、足を引きずっているのがわかります。スポーツで学んだ動きも、どこか不自然です、しかし、なによりも人間の思考がどうしようもない状態になっています。人生のなかでなにか正しいことをおこなうことができないのです。

 ミシンをかけたり、電話をかけたり、汽車に乗ったり、世界一周旅行を手配するにはどうしたらいいかを人々は知っています。しかし、自分については、どうしていいのかわからない状態にあります。教育をとおして、適切な方法で世界のなかに据えられなかったからです。しかし、人間を正しく教育すべきだというキャッチフレーズを振り回しても、どうにもなりません。具体的に、植物を正しく大地に結びつけ、動物を正しく人間と関係づけることによってのみ、人間は正しく大地の上に立ち、世界のなかに正しく位置するのです。これが、授業全体をとおして達成されなければならない重要な、本質的なことがらです。

ルドルフ・シュタイナー「人間理解からの教育」・筑摩書房

 

 

 夕食後、チビと二人でキャロルに乗ってジャスコまで、ビールとアイスクリームを買いに行った。天界から戻ったばかりの天使はずっと車の窓から月の姿を追いかけて、「シノちゃのこと追いかけて、どんどんどんどん走ってくるね。その調子、その調子」と歌うように、嬉しくてたまらないとでもいったように月に語り続けていた。

2003.6.6 その2

 

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 真夏のような暑さと蟻のように群れる買い物客たち。休憩時間にポカリスエットを買って、隣の畑のブロックの作業小屋の軒先にふらりと立ち寄る。「ちょっと日陰を貸してもらっていいですか」 ときおり朝の挨拶を交わすおばあさんはどうぞとうぞと椅子まで出してくれて、しばらく二人で畑や田圃の話などをした。

 そういえば昨日は同僚のYさんがチヌ釣り用の古い竿とリールを呉れたのだった。そのうちどっかの正月映画のハマちゃんを気取って鯉太郎ならぬシノ太郎を連れ、つれあいの実家近くの海辺でのんびり釣糸など垂れるのだよ。

2003.6.8

 

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 会社の創業ウン十周年の感謝パーティーとやらに駆り出され、早朝5時起きで大阪は帝国ホテルへ。営業所の所長のKさんと一階ロビーのエスカレーター下に立ちっぱなしで出迎えと見送りの挨拶をし続けたのだった。パーティーがひけた後は社員が集い、客人の余したバイキング料理のお残りを頂戴。並び損ねたFさんなどはすでに皿の上は豚肉のない酢豚とかそんなもの。何とか一皿分かき集めた料理もごた混ぜて何を食ったのかさっぱり分からぬ。デザートのケーキとアイスとババロアはたっぷり貰ってきたけれど。帰りに天満橋の松坂屋で The Gospel Songs Of Bob Dylan のCDと、新刊の棚に積まれていた辺見庸の「いま、抗暴のときに」(毎日新聞社・@1400)を買って夕方に帰宅した。毎月一枚のCDと一冊の書籍(文庫や新書以外のハードカバー)が買えたら、それで仕合わせ也。それにしても帝国ホテル最上階・中華レストランのふかひれと夏野菜1万5千円のコースはうまそうだったな。そのうちがっぽり儲けてこんどは客として食いにいってやるぜ。チビは明るいうちに父親が帰ってきて嬉しそうだった。明日は休日でチビの病院・脳外科の診察と泌尿器科の膀胱造影の検査についていく。

 ところでさわさんの復活HPで先日の奈良巡りの写真が見られます。

2003.6.9

 

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 雨模様もあって、はじめて第二阪奈で生駒山を越えキャロルにて大阪の病院へ。泌尿器科の検査と、ひさしぶりにお会いした脳外科のY先生とは再生医療についていろいろお話を伺ったが、それは明日にでも書く。2時頃に病院を出て奈良に戻り、以前に同僚のNくんにおしえてもらったならやま通りにある Baby Face というレストランにて遅い昼食。880円で2〜3人前あるオムライスはなかなか旨かった。近くのブックオフでエルビス・コステロの20曲入りベスト盤を1300円で購入。それから西大寺のならファミリーにて買い物。ユニクロで私のジーンズと半袖シャツ、近鉄百貨店のディズニー・ストアでチビのダンボのペットボトルのストロー・キャップ、500円処分品の藍染め模様のコーヒー・カップ、ジャスコで食料品とチビの夏服の布地など。8時頃に帰ってきて、簡単な夕食の後でチビと寝ころんでハイジのビデオを見ているうちに眠ってしまった。それにしてもコステロの (What's So Funny 'Bout) Peace,Love & Understanding はたまらなく良いね。泣けてくるぜ。勇気が出てくる。

 

狂気の沙汰のごとき暗闇のなかで光をもとめて
この邪悪な世界をあるきながら、じぶんに問いかけてみる
「希望は消え失せちまったのか?」
「痛みと憎しみと惨めさだけしかないのか?」と

こんな気持ちに襲われるたびに
ひとつだけ知りたいことがある
足元をすくわれそうになるたびに
泣いてしまいたくなる

平和と、愛と、分かりあうことのどこがそんなに可笑しいのか?
平和と、愛と、分かりあうことのどこがそんなに可笑しいのか?

Elvis Costello・(What's So Funny 'Bout) Peace,Love & Understanding 1979

 

 おれには一発で分かったよ。これこそ永遠の名曲というものだ。

2003.6.10

 

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 夕食と風呂を済ませてからチビと遊んでいるときに、ふと思いついて、冬の掛け布団を縦長に三つ折りにして畳の上に伸ばし、その上にチビを歩かせた。馴れてきたらおなじものをもうひとつ重ねて高さをつけて。さらに四つ折にした布団二枚で狭い溝をつくり、ときおり適度な曲線をつくりながらその溝の中を歩かせた。「おとうさん、センセイみたいだね」「うん、体操のセンセイだよ。おとうさんに月謝払わなくちゃね」 そんなことをしているうちに今日は一日が終わった。今宵は夜更かしをせずにチビといっしょに眠る。

2003.6.11

 

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 今朝、職場へ向かうバイクを走り出してから、急に彼女を抱きたくてたまらない気持ちになった。店に着くまでの間ずっと、頭のなかはヘンな空想ばかり渦巻いていた。朝っぱらからいったいオレは何を考えとるんじゃい、なぞと思いながら。

 

 ふたたびブルーハーツの「リンダリンダ」について------

 まだ彼女と知り合う以前、それは未知の誠実さだった。
 彼女を知ってからは狂おしい切実さだった。
 そしていま、彼女と共に暮らし始め、子どもができてから、それはさらに深く、力強い歌としてあり続ける。

 

 中東ではイスラエルのパレスチナ過激派幹部に対する暗殺攻撃の復讐にパレスチナ過激派側がエルサレムで自爆テロを行い16人が死亡、さらに今日、イスラエル軍のヘリがハマス活動家を乗せた車にミサイルを発射して幼い子どもを含む死者が出た。まさに果てることのない殺戮ゲームだ。その幼子たちは、かつてアフガニスタンでアメリカの空爆の犠牲になって殺された少女のように、頭蓋を砕かれ、脳味噌をあたりに飛散させて死んでいったのだろうか。私はそんな空想に思わず身震いする。いや、ほんとうは私の日々の倦んだルーティンワークはそんな想像力の力さえすでに枯渇しているのではないか。けれども、もういちど私はこの怠惰な身を奮い起こして言いたい。

 

 私はこんな世界は

もうほんとうにうんざりだ。

 反吐が出る。

 

 家族の寝静まった深夜にヘッドホンでひとり、コステロの (What's So Funny 'Bout) Peace,Love & Understanding を気狂いのようなボリュームでくり返し聴き続けている。

2003.6.12

 

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 朝、通勤途中の路上で死んだ子猫の骸を見た。二台前を走る大型トラックのタイヤが無造作に踏みつぶしていった。頭と腹から鮮やかな真紅の内蔵物が飛び出していた。アフガンやイラクやパレスチナで殺された幼子たちもきっとこのようなものだったに違いない、と思った。誰に顧みられることもなく、命の尊厳さえ失い、まるでトラックのタイヤに無造作に踏みつぶされていくのが相応しいボロ雑巾のように。そう思った途端、眼窩の奥がカーッと燃えるような気がした。太いコルク栓をぎりぎりと押し込まれているような痛苦を感じた。

 

 「いま、抗暴のときに」(毎日新聞社・@1400)のなかで辺見庸がこんな話を書いていた。

 

 ずいぶん遠い昔である。遠い昔、ベトナム戦争が戦われているころ、ある作家がこんなことを書いた。いま行われている戦争について、関係国の思惑がどうのこうのとテレビの解説者よろしくわれわれが論じ合ってみても、本当のところは無意味である、と。そう水をかけておいて、いまなすべきことを作家は次のように記した。「むしろ日々泥土の内に死んでいく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめることのほうが有意義である」。なぜならば、そうした人間的思念の持続により、大国がただ自国の保全のために直接火の粉のふりかからぬ場所とその民衆を選んで犠牲にしているという「恐ろしい政治の相」が浮かんでくるからだ、というのである。

 

 そうして次のような、おなじ作家の言葉をかれは引く。

 

「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する」

(高橋和巳・孤立無援の思想)

 

2003.6.13

 

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 これからは日常の何気ない風景のなかで大事な選択が迫られるだろう。

辺見庸「いま、抗暴のときに」

 

「ん、なに」
「今日はすごい雨だったねってお母さんと話していたんだよ」
「それでお父さんは、そのなかに立っていたの」
「そうだよ。雨のなかにずっと立っていて、疲れちゃった」

 風呂上がりにチビは髪に櫛を入れるのを嫌ってつれあいに叱られ、長いこと泣きじゃくった。お母さんにゴメンナサイを言ってきなさいと諭すと、言いに行ってからもどってきて「シノちゃんの悲しい顔が消えていくよ」とにっこり笑ってみせた。

 

 明日は仕事が終わってから夜、つれあいの実家まで車で走って一泊してくる。畑のジャガイモの葉が枯れて収穫ができたので。

2003.6.14

 

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 日曜の夜はつれあいが高速を運転し10時頃に和歌山へ着いた。遅い夕飯は獲れたてのアジの刺身とハゲの煮魚。チビは刺身とハゲの肝ばかりを頬張る。風呂に入り、よほど嬉しかったのだろう、チビは深夜の1時過ぎまで“大好きなおばあちゃん”と二階の部屋で遊んでいた。

 翌月曜は朝から私ひとり車でぶらりと近辺の散策へ。有田川近くのまだ訪ねていない明恵の遺跡でも見ようかと思っていたのだが、生憎の雨模様のため、有田市の図書館と併設されている小さな郷土資料室とミカンの資料室をしばらく見学、役場の観光課で市内のパンフなどを貰い、糸我という集落にある熊野古道資料館を訪ねて受付のおばちゃんにお茶を出されて紀伊半島の史跡や古道について延々2時間近くも話し込んでしまった。受付に立派な装丁の集落史が置いてあった。糸我は昭和20年代、有田川の水害によって集落のほとんどを呑まれ道も田畑もあたらしく作り直したため、以前の姿を後世に伝えるべくこのように立派な集落史が編まれたということだ。熊野古道沿いの集落には他に中将姫ゆかりの得生寺という古寺があり、毎年5月に、奈良の当麻寺とよく似た仏の面をかぶさった行列がお目見えする練供養会式という行事が催されるが、当麻寺と異なるのは面をかぶるのが子どもたちであるという点。背後の小高い雲雀山はかつて赤ん坊だった中将姫が捨てられていたという伝説をもつ。他に有田川を海南側へ渡った山中の古道沿いには、徳本上人という地元の妙好人が籠もって修行したという岩場や、熊野巡礼の途中で行き倒れとなったものたちの墓石を集め置いた「伏原の墓」などもあるそうだから、そのうちまた天気の佳い折にふらりと訪ねてみたいと思っている。かつて巡礼人たちは、たしなみとして身の始末をしてもらえる金を衣服に縫い込んで旅をしたという。そのような心持ちでかれらが目指した「熊野」とはいったい何であったのか、と問うてみる。人がモノに狂い、さまよい、倒れて腐乱したそのシミのようなものの連なりが人知れぬ山中の道ではなかったか、と呟いてみる。

 午後、私が夕寝をしている間、チビはつれあいや義父母たちと上の畑へのぼりナスやらジャガイモやらの収穫物をとってきた。夕食と風呂を済ませ、9時半頃和歌山を出る。義父母の見送りに、たまたま通りかかった近所の駄菓子屋 T のおばちゃんも加わり、チビは「T のおばちゃん、シノちゃんがおばあちゃんとバイバイして悲しいと思って来てくれたんだね」と走り出した車の中で言う。「いま、悲しいの?」と訊くと、「うん」と答えたっきり、あとは黙り込んでしまった。

2003.6.17

  

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 幾日前であったか、倦んだ昼下がり。ふと鈍色の空を仰ぐと、一羽のカラスがカアーッと一声啼いて頭上を飛び去っていった。路上に立っていた私は思わず「ああ、そうだな」と声に出してから、一体それが何のことであったのかと、しばらくじぶんを訝しんだ。

2003.6.18

 

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 木曜から今日まで3日間、京都の某高級ホテルで催された某ファッション関連会社の創立ウン十周年パーティーの警備に駆り出されてきた。初日の朝、一足先に来ていた担当のFさんが自転車好きのNさんを朝ご飯でも奢ろうかと誘ったら、朝食バイキングが2500円もしたので二人とも何も食わずに出てきたそうだ。私は3日間とも毛皮や宝飾品を並べた展示即売会場入口にてお客の入場チェック。すべて招待客のみで中でも極上のお得意様ばかりなのだろう、まさにジョン・レノンの言う「拍手の代わりに宝石ジャラジャラ」のゲストたちだ。各支店から結集した店員や支店長らがじぶんたちの顧客を出迎え、まず展示即売の会場に案内してから食事を振る舞い、それから日に三度の夏木マリの歌が混じったファッション・ショーを見てもらい、最後にふたたび展示即売の会場へ招いて商談へ持ち込む。単独の客だと両側にまるでボディガードのように二人の店員が終始付いて回る。そして「素敵なお召し物だとこと」「陶芸もやるんですよ」「あら、いい趣味をたくさんお持ちですごいわ」そんな反吐の出るような世辞が飛び交う。足元もおぼつかない婆さんの客には小太りの中年女店員が腕を組んでぴったりと寄り添い、まるで老いた巨象に群がるハイエナのような気がしたものだ。そうして何十万何百万という毛皮や宝飾品が売れていくのだが、あまり仕事先の悪口を書いてはいけないのだろうけれど個人的に私にはあまり好きにはなれない世界だったね。一方で社員の休憩室の片隅に立てられた衝立の裏で着替えをしているわれわれはといえば、若いころから塗装工の職人だったというチビに菓子袋を買ってくれたYさんが倒産処分市で買った十円のネクタイを見せびらかしたり、会場内でおならをしたくてたまらなかったのを懸命に我慢していたとかいった話をしてみんなでゲラゲラと笑い転げている。差別をするつもりはないけれど、私はこちらの世界の方がずっと自然で居心地がいい。もっとも3日間、私たちにも社員同様のホテルによる昼食が出て、それはなかなか美味しかったのだった。

 初日は帰りにひとり四条河原町のタワーレコードに寄って念願の Gavin Bryars / Jesus' Blood Never Failed Me Yet を買ってきた。同じ値段(2300円くらい)でアルバート・アイラーのラブ・クライやジョン・リーの何とCD10枚組ボックスセット輸入盤、それに千円でサニー・ボーイ・ウィリアムスンの20曲入りベスト盤なんかもあってずいぶん悩んだのだけれど。2日目は去年も同じ場所で飲んで今回も愉しみにしていたというFさんの希望で、京都駅裏手にある京阪ホテル屋上のビアガーデン(飲み放題食べ放題で3300円)でみなで愉快なひとときを過ごしてきた。二日続けて帰りが遅かったのでチビは今日、お父さんが帰ってきたらギュッとしたかったのだと前置きをしてから、抱きついてきた。

2003.6.21

 

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 榎並和春さんから来月、神戸で催される個展の案内が届いた。奇しくも辺見庸が“言葉あたり”をして「魚を買うべし。魚は無声の、光り泳ぐ言葉である」との天啓を授かったという文章を読んだその日、DMに刷られた作品のタイトルは「ことばをさがすひと」であった。7月17日から22日まで、三宮駅に近いギャラリー ル・ポールにて。ことばをさがすひとにあいにいきたいとおもった。

 

 Gavin Bryars の Jesus' Blood Never Failed Me Yet はとてもよい。トム・ウェイツが惚れ込んだ作品だけある。関連資料をWeb検索していて「退屈で何が言いたいのかさっぱり分からない」とか「日々の労働意欲を失う」等の間抜けな寸評にも出会ったが、前者はどうせ聴く者の魂がタイクツなのだろうし、後者はそんな労働などやめちまえ、とひとりごちた。ロンドンのとある浮浪者が口ずさんだという短い歌詞のすべては次のようなもので、私は今日、路上でまさに Gavin Bryars のCDのようにくり返しこれを口ずさんでいたのだった。

 

Jesus' blood never failed me yet
Never failed me yet
Jesus' blood never failed me yet
There's one thing I know
For he loves me so ...

 

In 1971, when I lived in London, I was working with a friend, Alan Power, on a film about people living rough in the area around Elephant and Castle and Waterloo Station. In the course of being filmed, some people broke into drunken song - sometimes bits of opera, sometimes sentimental ballads - and one, who in fact did not drink, sang a religious song "Jesus' Blood Never Failed Me Yet". This was not ultimately used in the film and I was given all the unused sections of tape, including this one.

Gavin Bryars.

 

 今朝の新聞に共産党が天皇制を容認する意向との記事。なしくずしという言葉が浮かぶ。皇室アルバムが好きで熱心な共産党員のわが愚母などはさぞ居心地がよくなったことだろうぜ。この国では所詮、言説も思想もことばもなにがしの重みさえもともと持ち合わせてなぞいないのだ。かつて拓郎が歌ったいたさ。「駆け引きのうまい男ばかり出世して、きれいな腹の男はもうすっかり拗ねてしまってる」

 

 辺見庸が書いていた。

 

 柄谷行人氏の言葉を借りれば、かれらコスモポリタンは「あらゆる共同体に背立する単独者」(倫理21・平凡社)なのである。どこまでも自由であろうとするから「背立」するのである。真に人間的に自由であろうとするならば、国家による国民統合的な謳い文句のすべてを疑り、最後的にはそれに多少なりとも背馳せざるをえないものだ。

辺見庸「いま、抗暴のときに」

 

 私たちは Gavin Bryars のCDの中で歌うロンドンの浮浪者より、はたして仕合わせなのだろうか。まことのことばを持ち合わせているだろうか。

2003.6.22

 

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 褥瘡とは「圧迫によって皮膚の血流が途絶えて皮膚や筋肉などが壊死してしまう病気」で、寝たきり老人の床擦れといえば一般的だろうが、じつは二分脊椎の患者にも馴染み深いものである。車椅子に長時間座っている場合や、うちのチビの場合だと装具の不具合(装具が部分的に足に合わない等)によって発生する。健常者の場合は不自然な圧迫が続けば痛みを感じて「意識する・しないにかかわらず(寝返りをうつ、尻を浮かすなど)」おのずと回避するのだが、神経が麻痺している患者は自覚がないために長時間の圧迫に気づくことが難しい。褥瘡は「皮膚の発赤から始まり、潰瘍を形成し、徐々に深くなって骨や関節に達」する。そして細菌感染によって膿がたまったり発熱をしたりし、ひどい場合は細菌が血管に入り敗血症を引き起こす。褥瘡が深く進展した場合は、壊死した組織を切除したり、手術が必要なケースもある。

**褥瘡については下記のサイトも参考にされたし

株式会社ケープ・褥瘡に関する最新情報
http://www.cape.co.jp/301.html

床ずれ交番
http://www.tokozure-kouban.ne.jp/chiryou/index.html

日本褥瘡学会
http://www.jspu.org/

褥瘡の管理についてのホームページ
http://square.umin.ac.jp/~sanada/

 

 チビに褥瘡ができたのはもう半月以上前で、あたらしく装具を作り直した際(それも5度か6度目の手直しの後で)、彼女の場合は左足の親指が人差し指にななめに交差する形で変形しているために、不自然に体重のかかる親指の側面が装具のどこかに圧迫されてできた。ちなみに変形とは、神経の麻痺によって筋肉の発達が阻害され、その筋肉の力のアンバランスによって引き起こされる。骨というのは周囲の筋肉によってその形を維持しているというわけだ。はじめは表皮がめくれた程度のものだったのだが、他の場所の傷と違って治りが遅く(これは血流が悪いためである)、そればかりかパチンコ玉大のその傷が見た目にもだんだん深くなってきて、親指自体も異様に腫れあがってきた。それで心配になって昨日、念のためと近くの皮膚科へ連れて行った。医者は簡単に傷を診てから、消毒薬と肉芽形成を促進させる塗り薬を出し、プールも風呂も構わない、血行をよくさせるために風呂で足を温めると良い、装具もこれまで通りに付けて差し支えないという診断であった。ところがその夜、私がWebで褥瘡の治療についていろいろ調べてみると、どうも医者の言っていたことと違うことが書いてある。つれあいが心配だと言うので今日、改めてつれあいが車を運転して生駒にある近畿大奈良病院へ連れていったところ、医者いわく、細菌感染を起こしているのでまず細菌対策の治療が必要である。肉芽形成の薬はその後の段階で、いまそれを使用すると細菌を閉じこめて逆に悪化させてしまうことになる。プールも風呂も感染を引き起こすのでしばらくは控えること。足を温めるのは逆効果。装具も圧迫を避けるためにしばらくはなるべく控えるのが良い。入浴はシャワーで済ませ、最後に傷口をシャワーで軽く洗浄してから出る、ということであった。つれあいに言わせると、傷口の見方から、患者との問診、治療の説明など、さいしょの町医者とは雲泥の差であったという。というわけで二人とも、とりあえずはホッと一安心したのだった。

 それにしても医者というものは、個々人で驚くほどの能力の差がある。さいしょの町医者の通りにしていたらどうなっていたかと思うと思わずぞっとする。こうしたでたらめな(あるいは軽率な・無能力な)治療ミス診断ミスについて、患者の側が医者に対して効果的な抗議やあるいは改善を促すこと、はたまた医療費の返還を求めることは果たして可能なのだろうか。ってなことも思いたくなってくる。

 

 チビは今日、私のいない夕方、つれあいと買い物から帰ってきてから「顔を洗う」と言い出した。このごろ水を使うのが好きなのだ。「顔を洗うのは朝だけでいいのよ」と言うつれあいに対し、チビは「(ハイジのビデオの中で)ペーターは夕方も洗っていた」と言って聞かず、困り果てたつれあいが「ペーターはペーターなの。シノちゃんとは違うのよ」と言ったところ、わが姫君は「じぶんの考えは、じぶんで言うのよ !! 」と宣ったそうだ。

 チビの本日の迷言。「お父さんはシノちゃんのお父さんなんだからお仕事に行かないで」

2003.6.24

 

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 昨夜は食後に私が「なんだか急に、マックシェイクが飲みたくなった!!」と言い出して、みんなで車に乗って国道沿いのマック(関西風ではマクド)でひとつのマックシェイクを三人で飲んで、それから深夜の奈良公園へチビの大好きな鹿を見に行った。夜中でもなぜか結構、探すとはぐれ者の鹿が一頭、黙々と草を食んでいたりするのだ。

 今日は夜遅くチビが「どこかに行きたい」と勝手にひとりで靴を履くので、家のそばの田圃のわきを二人でしばらく散歩した。団地の階段の下では隣家の中学生の女の子がボーイフレンドと睦まじく逢い引きの最中であった。こんばんわと挨拶をしてくれ、彼氏にチビを差して「ほら、めっちゃ可愛いやろ」などと言っている。チビは臨場感のあるステレオのような田圃のカエルの合唱にしばらく耳をすまし、道端の雑草をひとしきり摘み集めた。

 そういえば昨日は、私の友人のO氏がチビのためにトトロのサントラCDを送ってくれて、チビは一晩中それを聴き続け「ほら、ネコバスの歌だよ」「おとうさん、マックロクロスケの歌だよ」と喜んでいた。

 おととい足の傷の受診で行った病院では雨のなか、駐車場に初老の警備員がいたそうで、チビはその姿を見て「おとうさんもいまごろ、こんなふうに雨のなかに立ってるんだね」と言ったという。

 今日は食事の席で私がつれあいと話をしている端で訳の分からぬ大声を出し続けて「いまおとうさんとおかあさんがお話をしているのだから、少し静かにしていなさい」と叱られた。つれあいが「おとうさんが帰ってきたから、嬉しくて話に加わりたくてたまらないのよ」とそっと付け加えた。

 

 結婚生活が破綻して、ひとりさみしく庭に咲いた薔薇を眺めている男の叙景を歌ったコステロの Good Year For The Roses に耳を傾ける。

 

今年は薔薇の当たり年だったな
いまもまだ咲き続けている
芝は近いうちに手入れをしなくちゃ
可笑しいよな、気にもならないんだ
きみが歩み去っていったことも、きみの後ろで閉じたドアも
ぼくに言えることは
今年は薔薇の当たり年だったということだけ

Elvis Costello・Good Year For The Roses 1981

2003.6.26

 

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 今日も一日雨のなかを立っていて、くたびれて夕食が済んだら、寝ころがってテレビでタイタニックの映画を見ながら眠ってしまった。きみはそんなぼくの腹に馬乗りになって、きっとたくさんのことを期待していたんだろうに、今日も何にもしてやれなかったね。「おとうさんはシノちゃんのおとうさんだから、お仕事にいかないで」と、朝になったらきみは言うんだ。あしたはダンボールでトトロをつくろう。きっと約束するよ。きみのちいさな胸はいつもたくさんの期待と予感ではちきれんばかりで、両手で世界を抱きしめようとしている。

2003.6.27

 

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 休憩時間にシュタイナーの本(人間理解からの教育・筑摩書房)の中で、8歳頃のこどもに聞かせるという童話の一例を読んだ。簡略なあらすじはこんなふうだ。森の中の小さなスミレの花が葉越しに見える頭上の「大きな青」はなんだろうかと思う。通りかかったいじわるな狐に聞くと「あれはとても大きなスミレで、きみをぶってやろうと思っているのだ」と言う。スミレの花はとても不安で夜も眠れなくなってしまう。しばらくして心優しい羊が来て「あれはとても大きなスミレで、きみのことをいつも見守っているんだ」と教えてくれ、スミレはやっと安心した気持ちになる。

 シュタイナーはこの話の中には「空の青はスミレの花の青の一部であり、そのように私たちは神さまの一部なのだという隠喩が含まれている」という。そして話の中でのいじわるな狐と心優しい羊の役割。そのような価値観が幼い心魂にイメージとして準備されると、それが彼・彼女の生涯において大切な規範となるのだ、と。

 こんな話に果たして興味を持つだろうかと思いながら今夜、風呂の中で試みに娘に話して聞かせた。彼女はじっと大人しく聞き入ってから、話が終わると「もう、いっかい」と声を上げた。

2003.6.28

 

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 夕食後、奈良公園へドライブ。外灯に美しく照らされた(昼間とちがって鹿の糞が気にならない)だだっ広い芝生の上をチビはけらけらと笑い、「おとうさん、もっと早く走って」と言いながらアルムの山のハイジのように駆け回る。「まあ、この子は一分間に何回“おとうさん”って言うのかしら」とつれあいが呆れ顔で言う。群からはなれた鹿が一頭だけいた。持っていった磯部煎餅をチビに握らせると、鹿が顔を突き出してくるので、そのたんびにチビは煎餅を慌てて地面にうち捨てて逃げる。キャーキャー言いながら、それを愉しんでいる。煎餅がなくなると鹿は足元の草を食み始めた。チビは中腰で熱心に覗き込みながら、ときおり自分でも草を引いて鹿に投げる。それから一頭と小さな一人は、しずかなともだちのようになった。鹿が草を食むのをとめてあたりを見回すと、その横で背中を向けたチビがおなじように遠くの車のライトを眺めている。チビが歩き出すと、鹿もしぜんとその後をついてすすむ。ときおりチビが鹿の顔を覗き込み、鹿がチビの顔を舐めにいく。大人は鹿をある種の対象として接するが、子どもにはそうした隔てがないような気がした。小さな子どもと動物の間には、ある種の宗教的ともいえる深いつながりが存在するのではないか、とさえ思った。夜のまばらな木立の間を、まるで二人だけの兄弟姉妹のように、一頭と小さな一人はゆっくりとすすみ、また立ち止まりして、しずかな会話をしていた。それをつれあいと二人で眺めていた。

2003.6.29

 

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 月曜は昼から、山添村の神野山(こうのやま)にある「めえめえ牧場」へ行ってきた。県立公園内に設けられた施設で入場は無料。立て看板によると地方競馬の収益による補助事業らしい。着いてすぐ持っていったお弁当をひろげる。平日とあってほとんど人の姿は見えない。写真で見るより全体にこじんまりした感じだが、約50頭のサフォーク種が区分けされた柵の中に放牧されていて、チビは鹿センベイならぬ羊センベイを与えたりして面白かったようだ。隣接する羊毛館では機織りの作業などをちらっと覗いた。続いて近くにある森林科学館へ。ここで神野山を中心に点在する磐座に関しての新聞や雑誌の記事を読む。(奈良新聞2003年3月11日) 谷筋を無数の岩で覆った鍋倉渓や山中の巨石群とその配置が星座を模して人工的につくられたもので、かつて高度な古代文明がこの地に栄えていた、という説である。(総論−山添村の聖石文化−) (山添村イワクラ紹介) ことの真偽はさておき、私はこの手の話は結構好物である。隣の物産館で野菜をいくつか、それと地元の抹茶アイスを食べながらしばらく店のおばちゃんの話を伺う。神野山というのは歴史的にもかなり昔から信仰の対象とされていたらしい。山裾のぐるりに伏拝や助命(ぜんみょう・と読む)・堂前といった名の集落が集まり、そこから山頂に向かう道が蜘蛛の糸のようにいくつも通じている。おばちゃんの子ども時分には八十八夜の晩に各集落の者たちがいっせいに山頂に登って酒を飲みかわし、とくに若者たちの見合いの場になっていたという。また地元の味「わさびのトウ」というのが面白かった。谷筋にしぜんに生ったわさびの花の蕾を採って塩でもみ熱湯をかけて保存するもので、ツーンとした味覚が酒のつまみによし、ご飯で食べてもおいしいという。5月頃がいちばん旬で美味しいというので、来年を待つことにした。おばちゃんに教えられ車で茶畑を縫うように走る狭い山道をのぼり、神野寺を経て、山頂にのぼってみた。意外と広く、そして何やら不思議な空間のように感じた。UFOがここにひっそり降り立っても不思議でないような、そんな感じ。山頂の一角に展望台があり、その近くにこんもりとした森があって、小さな祠と並んでいかにも雰囲気のある円墳が佇んでいる。説明板によると高名な上人の墓だとか古代の神降りの祭祀跡だとか諸説あるらしいが、はっきりしないらしい。山頂付近に天狗岩や八畳岩とよばれる巨石があるらしいのだが、なにぶん小さなこどもを連れた身で探しきれなかった。先ほどの神野寺の裏手から登る山道はこの円墳の正面に直結している。私はやはりこの素性の知れぬ謎めいた円墳はヘソのような存在で、かつて古代人たちはこの山の頂でたしかに神が降るのを待ちわび、それに関わった霊的な巫女のような人物が円墳に葬られたのではないかと夢想してみたりした。もともと今回はチビの「めえめえ牧場」がメインだったのだが、思わぬ副産物があれこれと見つかり、私自身も充分楽しめた半日となった。帰りは山添のインター(名阪国道)の方へ下り、これまた物産館のおばちゃんに教えられたふるさとセンター造成中に地中から出てきた直径7m、推定重量600tという花崗岩の巨石(山添村イワクラ紹介にある長寿岩) などを見物した。1億年前にマグマのなかで固まったものだという。山添インター入り口はどこか見覚えがあると思ったら、例の月ヶ瀬村の事件現場をひとりバイクで訪ねたとき(ゴム消しlog29・2002.11.26参照)に下りてきた道で、そういえばおばちゃんのガイド付きで物産館の裏手の窓から眺めた山並みの中で月ヶ瀬村はもうすぐに目と鼻の先であり、獄中で縊死した犯人の青年の家族はこの山添村から月ヶ瀬へ移り住んできたのだった。

参考サイト 山添村ホームページ

 

 おとといはチビを早めに寝かせて、つれあいと二人でビデオ屋で借りてきた映画「i am sam」を見た。父と娘のストーリーなら、いまの私はどんな映画だって泣けますがな。とってもいい作品でした。ショーン・ペンも渋かった。ただちょっとキレイすぎるような気も。

 

 月末に仕事先でつまらぬトラブルがあって、ここ3日ほど家で過ごしている。担当のFさんは「申し訳ない。なんとか考えるから」と懸命に他の現場を探してくれているのだが、現時点では明日と今月は土日祝日のみしか現場が入ってない。場合によっては他の仕事へ乗り換えなくてはならないかも知れない。相変わらず、サイコロをふれば振り出しだ。

2003.7.3

 

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 どこかよその現場で、見知らぬ社員が車に巻き込まれて死んだらしい。たかが車の出し入れのために命を落とすなんて馬鹿げている。

 夜、チビにダンボールのめいちゃん(トトロ)をつくった。

2003.7.5

 

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 チビは幼稚園で七夕の飾りをつくってきた。

 夕方、お弁当を持って車で奈良公園へ。薄くそいだ鶏の胸肉にチーズや人参を巻いた包み揚げと、じゃがいもを塩・胡椒・粉チーズで炒めてディルを和えたポテトサラダを私がつくり、つれあいがおにぎりを握った。恒例の新公会堂近くの池の端のベンチに腰かけて弁当を広げながら、つれあいと幼稚園の他の自閉症児たちの話などをする。チビは一口食べては芝生の上を駆け回り、また一口頬張っては池の鯉を覗きにいく。それから、いつものように鹿にセンベイをやりにいった。センベイをすべて与えてから、チビは鹿の首に抱きついた。

 つれあいがしばらく前にベストセラーになった「話を聞かない男、地図を読めない女」という本を図書館で借りてきた。巻末にそれぞれ異性の理解度を測る質問項があって二人で試してみたところ、私は標準範囲内だが女心の理解度は低い方で、つれあいは標準範囲を遙かに跳びこえて男心の理解度が限りなくゼロに近い結果が出た。つれあいは、私の方はもう努力してどうにかなるレベルじゃないから、うちの夫婦円満は偏に○○さんの努力にかかっているのよ、と微笑みながら仰る。

 ゆうべは深夜までひとり部屋で、何も手につかず、ただディランの Saved を聴き続けていた。私はきっとひどい根腐れをしているのだ、と思った。それらを示してくれるのは、いつも私にとっては心ある音楽たちだった。手首の脈を静かに測るように、夜の海原に漂流した小舟が波のリズムに己を委ねるように、音楽を聴く。こんな夜はこれまで何度もあったし、私は私の道を踏み誤ったことは一度もなかった。

 七夕の飾りを居間のカーテンレールに挟んで掲げた。「それで、いい」とチビが満足げに応えた。

2003.7.7

 

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 チビは大阪の泌尿器科の定期検診。だったけれど、いつも朝採りの尿を持っていくだけで、わたしが見た限りこのごろはきれいなおしっこ続きだし、この子の夏のワンピースをつくるのに難波の服地屋さんにも寄りたいから半日見ていてくれる? とつれあいに言われて今日は主夫業である。つれあいを車でJRの駅まで送ってから「どこか、行こうか」とチビが言うので「おお、行こう、行こう」と賛同し、矢田丘陵の方にある県立の民俗博物館へと向かった。父はかねてから開催中の企画展示「祭りと供え物 〜祭礼行事の祭具と神仏への供え物の諸相」を見たかったのだ。古い民家を各所に移築した広い公園内にあるこの博物館、常設展示は県内の稲作・茶摘み・林業についての解説や道具の展示が主で、いたって地味系なのだがじっくり見ると案外と面白い。大人200円。チビははじめひっそりとして薄暗い館内が怖かったようで「帰ろうよお」などと逃げ腰だったが、「ほら、お餅に顔を描いてるよ。こっちのはミカンで目を、栗でお鼻をつくってるね。」「これは神さまのオウチなんだね。お米や野菜を神さまが育ててくれたからありがとうって神さまにも少しあげるんだね」「おじさんがおっきな木を運んでるよ、重そうだね」「シノたんの飲んでいるお茶はこうやって出来るんだよ」なぞと懸命に引っ張り回し、最後に入ったビデオ室では吉野の紙漉のフィルムなどをわりと興味深げに眺めていた。いちばん気に入ったのは木材から鹿の人形を彫っていく一刀彫のフィルムで、これはチビのリクエストで二度見た。十津川の山から伐採した木材を麓に降ろし、あるいは筏を組んで川を下っていく昔の映像も面白かったようで、ビデオ室を出てから「ほら、こんなの、あったねえ」などと木馬の模型に走り寄っていったりした。家に戻ってお昼を食べてから昼寝をさせ、2時に起こして、こんどは自転車で駅前の小児科へ行き風疹の予防接種。つれあいは予定を大幅に遅れて6時半頃に帰ってきた。気に入った服地が500円足りず、さんざ迷っていたのだという。夕飯はつれあいの実家から届いたかつおの刺身で、私が味噌汁だけ用意しておいた。

 夜、「セロ弾きのゴーシュ」のビデオをチビと二人で見た。宮沢賢治の原作をアニメ化したもので、弟の宮沢静六や詩人の天沢退二郎などが監修として参加している。監督は高畑勲。これはさわさんが先の来訪の折にチビにプレゼントしてくれたものだが、トトロと101匹ワンちゃんを親類宅から借りてきたばかりで、ビデオ漬けになるのを怖れたつれあいによってしばらく封印されていたのだった。全編に流れるベートーヴェンの田園シンフォニーの演奏が豊かな自然描写とマッチして清冽で瑞々しい。チビに話が分かるかなとやや心配だったが、60分間を大人しく見続けて、終わってから「もういちど見りゅ〜」と愚図るのをなだめるのに一苦労だった。こんどはゴーシュの人形をつくらなくてはならないかも知れない。

2003.7.8

 

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 和歌山の(熊野にほど近い)北山村出身である私の母方の祖父は、熱心な共産党員で、語学が堪能だったので東京でその方面の事務の仕事をしていたそうだ。母が幼い頃に死んだので、私は色褪せた一枚の写真でしかその面影を知らない。そのように私の幼い娘は、私の父のことを知らない。そしてもちろん私の父も、この小さな命の存在をついに知らない。そこには埋めがたい断絶がある。だが、それはほんとうなのだろうか、と思ってみる。死者には目も、耳もないのか。私たちが見ている風景は限られたもので、ほんとうは死者の側から見える風景というものもあるのではないか。かつて名もなき人々が56億7千万年後に出現するという弥勒菩薩に思いを馳せたとき、かれらはそのような想像力の果てに近づこうとしていたのではあるまいか。そのとき、あらゆる自明なる風景は見事にくずれさるのではないか。

 父が死んだ頃、宮沢賢治の「青森挽歌」と題された悲痛な詩を、私もおなじような心持ちで何度も読み返していた。

 

それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅
(うすもの)をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
交錯するひかりの棒を過
(よ)ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさえたづねることができる

 

 私は父は、いま私のかたわらで無邪気に戯れているこの小さな命をじつはどこかにいて、知っているのではないかと、ときどきそんな気持ちに襲われるのだ。人知れぬ日だまりのなかで石が物を思うように、そんな具合に知っているような気がしてならないのだ。

 人が夢のなかで蝶に変じたように、私たちは日だまりのなかの石のように物を思うこともできる。

2003.7.9

 

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 午前中、足指にできた褥創の件でチビを車で生駒の近大病院へ連れて行く。壊死してゴムのように白く固まった細胞部分を医師がメスで削ぎ落とす。芯の部分が取れたのでとりあえず一安心だと思うが、これまで90パーセントは再発の可能性があるという。プールはもうしばらく先とのこと。いちばんの原因は装具の当たり具合なのだが、他にも足の側面に水疣のようなものが出来ていて、医師によると表皮と真皮の間がずれて水が溜まったものだというので、やはりもういちど装具の微調整が必要かも知れないとつあいと話し合い、週明けの月曜に「幼稚園」を休ませて大阪の病院で診てもらうことにした。

 4歳の男児が立体駐車場の屋上から突き落とされて殺害され13歳の少年が逮捕された事件に触れて、ある大臣が「(少年犯罪の)犯罪者の親はみんな引きずり出して、市中引き回しの上、打ち首にすればいい」「勧善懲悪の思想が戦後教育に欠けている」などの発言をしたとの報道。善悪がそんなに簡単に線引き出来るものか。こういう無神経で、想像力のカケラもない単細胞のノータリンが大臣などやっているのだから、相変わらず呆れてモノも言えない。おまけにこのおっさん、「青少年犯罪やフリーターなど青少年問題に取り組む政府の「青少年育成推進本部」の副本部長」だというオマケ付き。この長崎の事件に限らず、沖縄では中学生がクラスメイトに暴行の果て埋められたり、わが古巣の東京・足立区の女子高校生が殺されて捨てられたりと、このごろやけに咽が詰まるような事件が多い。ついでに奈良公園でも鹿が矢で射られたり、口を縛られて死んだりしたいたずらが頻発しているそうだ。

 近くの古本屋で Bud Powell の Time Waits という中古アルバムを見つけて買う。490円という値段に誘われ、内容も分からずに買ってみたのだが、まるで“前進あるのみ”とでもいったイキのいいサウンドで何だか元気が出てくる。かれのアルバムは The Amazing Bud Powell, Vol. 1を20代の頃の昔に買って聴いたくらいだが、このアルバムの演奏はさらにパワフルでふてぶてしく、ある意味老獪なのではないか。気に入った。

 ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」を読了する。いや、面白かったね。かつてはソビエトのスターリン主義批判だとかファシズム批判だとかの寓話として読まれていたそうだけど、それより人間社会の愚かな性というか、人間という存在のもっと深い内面的な部分をえぐり出したような、そんな作品のような気がした。かつてのこの国の鳥獣戯画あたりに近い肌触り、か。辺見庸が、21世紀のいまこの時代にあってもなお「まことに毒性のつよい」作品だと評していたが、肯く。ある意味で一見自由に見える私たちも、じつはこの動物農場の哀れな家畜たちと同じではないのか。傑作だね、これは。たぶん絶版じゃないかと思うのだが、探してみたら有料だがこんなサイトからテキストをダウンロードできるようだ。有名な「1984年」もいまだ未読でもう長いこと探しているのだけど、きっとこれも絶版なんだろうな....

 「ごちそうさまあ !!」と早々とチビが夕食の席を立ち、すたすたとテレビ台の方へ歩いていったかと思うと「セロ弾きのゴーシュ」のビデオを宝物のように抱きかかえ、こちらの顔を伺うような思わせぶりな仕草でにやりと笑って、「見ても.... いい?」と仰る。今日はこれでもう三度目だよ。そんなに好きなんだったら、見たっていいけどさ。

2003.7.11

 

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 夜、チビに「セロ弾きのゴーシュ」の原作を読んで聴かせた。文庫のページの間から古い本屋のレシートを引っぱりだしてきた。花巻市上町・誠山房。何気なく巻末の解説を眺めていたら次のような賢治のことばが目に飛び込んできた。あふれ出てきそうなものを呑み込んだ。

 

 たヾひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福にもたらしたいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟(くっきょう)の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。

宮沢賢治書簡 「日付 あて先不明」「下書」

 

 

2003.7.12

  

 

 

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