■日々是ゴム消し Log31 もどる

 

 

 

 

 

 ちょっと一人の少年を心に浮かべてみよう。朝まだきに目を覚ました彼は、くねる小川のほとりの、森の空地に出かけていく。暁を喜ぶさまざまな生き物の合唱に聴き入り、水面から渦を巻きながら立ち昇る朝もやを見つめる。川岸の黒土に生えたばかりの白いきのこたちが放つかぐわしい湿った香りを嗅ぎ、地面をはう蔓に生っている熟した野性の葡萄を味わう。冷たい水で顔を洗うと、猫のような伸びをし、筋肉に脈うつ血液の勢いと流れを感じとって、腹の底から笑ってみる.........。朝食に遅れた少年に、どこをほっつき歩いていたと問いただす母親。

 「外さ」
 「で、何をしてたと言うの?」
 「なんにも」

 もっとましな返事をと迫られれば、少年は、「葡萄をつんでたんだ」----くらいは言うかもしれない。

 が、これは大人たちが必要としているらしき一種の便利な答えにすぎない。体ごと感じるトータルな感覚体験に名前を与えたり描写したりするのに、日常的な言葉や通常の概念では不十分なことが、子どもたちにはよくわかっているのだ。

 

 自然は、それだけでは、色彩もなく、音もなく、香りもない。まったく意味をなさないのだ。感覚 (センス) が受けとめるまで、それは無意味 (ナンセンス) なのである。しかし、感覚の検閲機構と脳特有の官僚的手順があるにもかかわらず、われわれはみな、ひじょうに特別な才能をもって生まれてくる。ほかの何ものにも優って、われわれを人間たらしめ、人間を優位に立たせているものだ。それはシネスシージア (synaesthesia ひとつの刺激によって別の種類の感覚を喚起すること) という、生まれながらの、童心にも似た才能のことだ。ものごとを、今までにない予期せぬ方法で組み合わせ、感覚の「減少フィルター」を迂回するバイパスを作ってしまう能力である。

 人間の心の、小さな5つの窓を押し広げる方法をわれわれは知っている。そして、その気になれば、この牢獄の屋根を吹き飛ばしてしまうことだってできるのだ。

(「ネオフィリア」ライアル・ワトソン 筑摩書房)

 

 

 朝まだきに目を覚ました少年のように、山をあるいてこよう。つまりかけた風の通い路を掃除してこよう。

2003.1.11

 

*

 

 

 あれはまだ10代の頃だった。ある日、私は一人のエスキモーの老人と一緒に、アザラシ狩りに出かけたことがある。私たちはカヤックを漕いでいた。と、大きなワタリガラスが一羽、岸の方から飛んで来て、私の真上を飛び去って行った。そのカラスは、ちょうど私の頭上に来た時、美しい、澄んだ、深い、まるで鐘のように響きわたる音色でひと声鳴いた。それは、ワタリガラスの声とは信じ難い音色であった。

 「あいつは、あんたが兄弟だと言ったのさ」

 と、老人は微笑みながら言った。さらに彼は、カラスが私のトーテムであること、だから私が決してカラスを傷つけてはいけないこと、もしカラスのいない土地に長くいると病気になってしまうこと、そして私の「心の主(魂)」は、他に自分の同朋を見つけるために飛び去ってしまう、そうすると私は死んでしまうこと、などを教えてくれた。

C.W.ニコル 1985

 

 自殺禁止の立て札を蹴っ飛ばし、那智滝の落下口から黒潮の海を眺めていたあの夏の日。

2003.1.12

 

*

 

 

 人間が最も激しく冀求するものは、その生ける完全性であり、生ける連帯性であって、己が《魂》の孤立した救いというがごときものでは決してない。

 吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる実体をもったコスモスの一部であるという歓喜に陶酔すべきではなかろうか。眼が私の体の一部であるように、私もまた日輪の一部である。私が大地の一部であることは私の脚がよく知っている。そして私の血はまた海の一部である。私の魂は私が全人類の一部であることを知っている。また私の魂も大いなる全人類の魂の有機的な一部であり、おなじように私の精神は私の国民の一部なのだ。私そのものとしては、私は私の家族の一部である。私のうちにあって、理智以外に孤立自存せるものはなにもないのだ。そして、この理智なるものも、それ自身によって存在するものではなく、まさに水のうえの陽光のきらめきにほかならぬことを、やがて思い知るであろう。

 このようにして、私の個人主義とは所詮一場の迷夢に終る。私は大いなる全体の一部であって、そこから逃れることなど絶対にできないのだ。だが、その結合を否定し、断ち切り、そして断片となることはできる。が、そのとき私の存在はまったく惨めなものと化し去るのだ。

 吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打ち毀し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打ち樹てることにある。まず日輪と共に始めよ、そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう。

D.H.Lawrence 1930

 

2003.1.13

 

*

 

 

やっぱりおかしいね、人間の気持ちって。
どうしようもなく些細な日常に左右されてゆくけど、
新しい山靴や、春の気配で、こんなにも豊かになれるのだから。

人の心は深く、そして不思議なほど浅い。
きっと、その浅さで、人は生きてゆける。

星野道夫「アラスカ 風のような物語」(小学館 1991)

 

2003.1.14

 

*

  

 昨夜は深酒をした。酔狂にも、いっしょになる前にじぶんがつれあいに送った大量の手紙の束を押入の奥からひっぱり出してきて(彼女が大切にとっていた)、それらを夜明けまでつらつらと読み続けた。宛先ははじめは彼女の勤めていた博物館付で、それがやがて自宅となり、それから局留めに変わった。その間に私の住所も、茨城から奈良へと転じた。どれだけ私は彼女を求め、そしてやくざな夢をみたことか。彼女がいなければ私はこの世でひとりぼっちだった。それは、いまも変わらない。

 黄ばんだ封筒のなかから、一枚の写真が出てきた。夜のバラナーシィー(ベナレス)のメイン・ストリートを歩いていくうしろ姿。いっしょにインドを旅した友人が撮ったもので、バカチョン・カメラのスナップだが、私はこの一枚をとても気に入っていた。あの匂い立つような雑踏のなかへ------。もういちど、思い出してみる。

 手紙の束に囲まれて眠った。

2003.1.14 深夜

 

*

 

 ディランが取材に来たタイムズの記者に噛みついている。「あんたたちの書く記事なんて、何も真実を伝えちゃいない。おれのファンはタイムズなんて読みやしない」と。中年のベテラン記者は明らかに不服顔で、唇を歪めている。「確かなのは、おれたちはみな死ぬということだ。それを目の前にして、どこまで本気でやれるかということだ」 60年代のディランのイギリス・ツアーを撮影した映画「Don't Look Back」が終わると、「骨なしの魚・魚嫌いの子どもの救世主 !!」とテロップの入ったテレビの画面が映った。子どもが魚を食べてくれるようになって大満足だという若い主婦の笑顔。ついで画面は中国の工場に変わり、大勢の中国人の労働者が立ち並びピンセットで懸命に魚の骨を抜いていた。こんな国はそのうち滅びるんじゃないかと思う。いや、いっそ滅んだ方がよいとさえ思う。続いて昔録画した「埴谷雄高・独白 “死霊”の世界」(NHK 全5回)のビデオをかけた。埴谷雄高は治安維持法でぶちこまれた独房の壁を眺め続け、社会革命の前に存在の革命をやらなきゃいかん、と思った。存在の革命。AがAであることの自同律の不快。それを超えた、いまだ未出現の存在。「それを小説というもので書いてね、“どうだ”と出したら、宇宙の方はがっくりするわけですよ、あなた」 相変わらず、何度見返してもこのビデオから瘴気のように立ちのぼる妄想は私の脳髄を獣の生皮のように心地よくなめしてくれる。

 

 夕方、親類宅へお年玉を持っていく。途中、寄り道をして、いつもの法隆寺の裏手の松尾寺へ至る山あいの小径をすこし歩きまわった。道をはずれて茂みの中へわけ入っていく。夕陽に照らされた斜面。名も知らぬ小鳥が戯れている。樹木に頬をつけ、耳をすます。堆積した枯葉の感触を心やすく思う。脳溢血を患ったおばさんにワープロの個人授業をして、畑の水菜とかぶらをもらって帰ってきた。

 

 「ひとつぶの砂にも世界を、きみのたなごころに無限を、そしてひとときのうちに永遠をとらえる」とブレイクは歌った。私が欲しているのは、私を世界につなぎとめてくれるもろもろの神秘だ。足元のヒナギクに私はそれを見つける。そのような場所において、私は真に呼吸する。

 かつてアメリカのプエブロ=インディアンを訪ねたユングは、かれらとの対話を次のように記している。つながっていたいのは、そのような世界である。失ってはならないのは、そのような矜持である。それは私を取り巻くこの世界のなかにある。

 

 彼の興奮ぶりから、私は彼があきらかに、自分の宗教のなにか核心的なものに言及していることが分かった。そこで私は尋ねてみた。「では、あなたは、あなたがたの宗教でやっていることが、全世界に役立っていると考えるのか」 彼はたいそう威勢よく、「もちろんだ。われわれがそうしなければ、世界はどうなるか分らない」と答えた。そして大仰な身振りで太陽を指さした。

 ここでわれわれが部族の秘密に接した、瀬戸際にまでさしかかっているのを、私は感じた。「つまり、われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くにちがいない」とオチウェイ・ビアノが言った。

 そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと「気品」のようなものが、なにに由来するのか分った。それは太陽の息子であるということから生じてくる。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、日毎の出没を助けているからである。もしわれわれ自身の自己弁明、つまりわれわれの理性が形成する生活の意味と、インディアンの生活の意味とを比べてみると、われわれの生の貧しさを意識せずにはおれない。偽りのない羨望から、インディアンの純朴さに微笑まねばならなかったし、また自己の利巧さを誇るより仕方がなかった。そうでもしなければ、われわれの貧困とみすぼらしさに気付かざるをえない破目に陥ってしまうだろう。知識はわれわれを豊かにはしない。知識は、かつてわれわれが故郷としていた神秘の世界から、われわれをますます遠ざけてゆく。

(ユング自伝・みすず書房)

 

 Did ye get healed ?

2003.1.15

 

*

 

 

 

 ○○さんへ

 

 この間の夜、悲しい物言いをした時に、帰ってから、ぼくはこんなふうに思いました。ぼくらは常に時限爆弾を抱えているようなものだ、と。突きつめて考えれば、いまのぼくらは様々な矛盾を抱えている。きみはぼくの性格のせいだと思うかも知れないけれど、それは仕方がないんだ。ただぼくらは、眼を瞑って、見ないというのではなく、視線を僅かに上にあげて、涙よりも笑い顔が、様々の問題や苦しみを癒して、いつかよりよい形になることを願っているのだ、と。

 ぼくがきみを抱きたいと思うのは、その瞬間だけは、そうした諸々のことを忘れられるからだと思います。実際、ぼくは忘れる。きみを抱いているとき、ぼくの腕の中で、きみが微かな息を顫わせているとき、きみの手がぼくの背中をさまようとき、その時だけは、きみはほんとうにぼくだけの人だと思えるのです。きみが“一回一回が真剣なのだ”と言っていたのと同じです。ぼくも、すべてを忘れてきみを抱くのです。

 きみの言っていたことも分かるような気がしました。
 あの、彼にすべてが知られてしまったとき、確かにぼくらは既に越えてはならない一線を越えてしまっていたけれど、彼の前できみを支えていたものは、きみが手紙に書いていたように、二人で共有してきた小さな世界の、草いきれや木漏れ日や、水のせせらぎや、笑い声であったのです。それは決してSEXではなかったし、SEXよりも、もっと大きな何かでした。だからこそ、きみは彼の前で誇りを失うことなく、罪を負った者のようにうなだれることなく(「緋文字」の主人公のように)、凛として、冷静でいられたのです。きみを支えていたのは、二人が大切にしてきた、清々とした何物かでした。SEXはその過程で、ごく自然に二人の間に起ったもので、SEXが目的であったことは一度もありませんでした。
 もちろんぼくはSEXを否定するつもりはありません。ぼくらが抱き合い、互いを求めるとき、そこには二人だけしか知らない、ある豊かな感情が流れています。それは男女の不思議な結晶のようなものです。そしてそれは二人の間の清々とした何物かを汚すものではないし、また清々とした何物かがそれの附随物に成り下がってしまうこともありません。
 そのようなことを思いながら、昨夜、きみと水辺の観客席に佇み、祭りの灯りを見あげていました。その間中、ぼくの心はきみを感じ、充たされていました。

 何かが変わってきたように思います。
 それはまだ、はっきりこうだとは言えないけれど、それに近いものです。地中に埋もれているけれども、その姿が見えるような感じです。それはまだ言葉にはできないけれども、かつてなかったものです。容易には、もう壊れないもの。まだ分からないけれども、何か確かなものなのです。きみもきっと同じように感じているのでしょう。ぼくらは二人とも、それを感じているような気がします。それが二人の根茎を、以前のように危なっかしいものでなく、しっかりと、水を含んだ土のようにやさしく包んでいるような気がします。

 ぼくらは以前のように、たやすく、もうやめようなどと言わなくなりました。小さな諍いや言い合いが、大きな結末に結びつかなくなりました。特にきみは強くなったように思います。もう引き返すことはできないと、二人とも分っているからかも知れません。

 “あなたと私は、お互いが、それぞれ相手の成長を願い、それに協力し合い、共に歩んでいける、そういうような関係でありたいのです”
 手紙に書いてきた、きみの心をぼくは忘れません。
 それからきみはこんなことも言いました。ぼくはまだ一人前じゃないけど、いつかそうなれる人だから、それを信じているのだと。

 まだこれから先、様々なことがあるでしょう。でもぼくらはきっと、なるようになるのだと思います。たくさんの人たちが、たくさんのことを言ったけれども、なるようになるのです。前よりももっと強く、ぼくはそのように思います。
 そしてきみに対する新鮮な気持ちを、瑞々しさを、これから先もずっと失わずにいたいと思います。

 今朝は、電話の後で、ポーチュラカとニーレンベルギアと夜香木なるものを買ってきてプランターに植えました。夜香木は名前のとおり、夜になると強い香りを発するのだそうです。ポーチュラカとニーレンベルギアは、どちらも白い透明な、イヤリングのような小さな花です。こんど見に来るのを楽しみにしていて下さい。

 それから夕方まで考え考え、この手紙を書きました。

 

1996.8.11

 

2003.1.16

 

*

 

 きみはいまごろ、どうしているだろう。きみのような美しい人を一人にしておくのは、はなはだ心配だ。電話をかけたら、きみはちょっと沈んだ声だった。ぼくもよく知っている幼なじみの友達が離婚しそうだというのだ。あの旦那さんだろ。あじさい寺にいっしょに行ったとき、うちのチビをずうっとおんぶしてくれて、「こんなに楽しかった日は久しぶりだ」と大層喜んでくれたあの人が? おしどり夫婦のように見えたが、友達はずっと辛抱してきたのだという。結局、外から見えるものなんてたかが知れてるんだ。二人でそう決めたことなら仕方がないさ。でも、ぼくらの愛はびくともしない。そうだよね? と言うときみは、いつまでも仕事が決まらないと三行半になっちゃうわよ、と突き放した。あいたたた。いや、まあ、オレも愛するきみのために奮闘努力するからさ。まあ、見ててくれ。本当さ。

 チビは今日は、近所の小学校まで散歩に行ったのだそうだ。眺めのいい高台にある、彼女もむかし通った小学校だ。そこで飼っているウサギを見てきた。ちょうど昼休みで、子どもたちがサッカーやバレーボールに興じていて、帰ってからオバアチャンに「ボールが、お空にね、飛び出してたの」と説明したそうだ。チビはじぶんも電話に出ると言って、「おとうさん、早く帰ってきて」と元気な声で言った。おいおい、おまえの家はそこになったのか。

 

 ところで昨日、親戚の家でインフルエンザの話が出て、その家ではあちこち電話をかけて聞いて予防接種一回2千円という病院で、家族全員やってもらったのだと聞いた。うちのチビは一回5千円だった。どうしてこんなに格差があるのかと不思議に思ってさっそく、秋田で小児科医をしてらっしゃるgotoさんにメールで訊いてみたのである。お忙しい中、次のような実に丁寧な返事を頂いたので、参考までに、ご本人の了承を得てここにコピペしておく。(gotoさん、いつもありがとうございます。またSMごっこ、しましょうね。)

 

 

じつは、他の予防接種と同じように計算すると、安く見積もっても3500円から4000円になるんです(初診料とか年齢とか手技料とかを考慮して)。だから、一般的に高め設定の関西では5000円というところもありかなと思います。秋田市の小児科医会でも、インフルエンザの料金、どうするか、昨年の一時期もめました。最初3500円を目安にやりましょうと話していたのに、足並みがばらばらで。で、3000円を目安に、常識的な範囲でやってくださいということになって落ち着きました。うちのクリニックでも、消費税込みで3000円です。

1個のワクチンのバイアル(1ml)から、大人ふたり(0.5ml×2)が接種できるんです。1バイアルの納入価は2000円くらい。卸業者とうまく交渉すればもっと安いことも。だから、内科の医院などでは、なんと1000円とか1500円とかの料金でやってしまうところも出てきて。子どももみんな、安い内科医院に流れて行ってしまうのです。でも、問診や診察がちゃんとやれてないとか、母子手帳に記載してくれない医院も多いのです。小児科では、きちんと問診を取って、診察をして、注射したあとはアナフィラキシーショックがおこらないか、20-30分待合室で様子を観察するのです。だから、予防接種は、けっこう大変です。アナフィラキシー様の症状(顔色が悪い・腹痛・嘔吐・咳が出てくるなど)が少しでもあれば、点滴を確保して治療し、救急蘇生の準備までします。

効き目は、でも、どこでやっても同じです。小児の投与量は1歳未満は0.1ml、6歳までは0.2ml、12歳までは0.3mlとなっています。この基準がじつはあやしくて、3歳までの子どもでワクチンで免疫がつきにくいのは、投与量が少ないからではとも言われています(私はいつも気持ちだけ多めに接種してますが)。でも、投与量を守らないと、もし事故が起こったときに、救済を受けられないのです。1歳未満の子に接種するときには、「免疫がつかないかもしれないけれど、来年は確実につきやすくなるから」と話しながら「だから、もしインフルエンザ様の症状が出てきたら、ワクチンやってるからと安心しないで、すぐ病院行ってね」と言っています。実際、うちの病院の保育園児、10ヶ月の児が、2回接種していたにもかかわらず、幼稚園に通っている姉からもらってうつりました。熱性けいれんもおこして入院したのですが、幸い(予防接種の効果が少しはあった?)脳症はおこさずに退院しました。

紫乃ちゃんの場合は、もう少し年齢が上なので、ワクチンはいくらかつきやすいと思います。でも、つきにくいことも承知しておいてください。

で、もうひとつ。最近の重要なトピックスを。きっとそのうちニュースになると思いますが、な、なんと、インフルエンザの特効薬タミフル(AB両方効く)が品薄なのです。吸入で使うリレンザというのも同じです。Aにしか効かないシンメトレルは少しはあるようですが、これも時間の問題。関西では、なくなっている地域もあるようです。そうすると、予防しかない、ということになってきそう(ただし、B型はワクチンが効きにくいので困ったことで)。

ついつい、長々と書いてしまいました。以上のような理由で、ワクチンは病院によって違うので、値段を聞いて安いところで、しかしきちんと診察をしてくれる小児科医で、やってもらいたい。治療薬の望み薄なので、できれば、早めに2回やっておいたほうがよい(通常1週間以上の間隔をあけます)。もしやらないのであれば、人混みをできるだけ避けること。と、いうことになるのでしょうか。

昨日も4名ほどのインフルエンザ患者さんがいました。タミフルを出しました。すると、製薬会社の方が来て、「品薄になってきた」と。小児科のMLでは、「タミフルがどこにもない。どこかの大病院で確保しているのでは」などという憶測も飛び交う始末です。参っています。今日は処方できるのだろうか・・・

 

 

 世の中は何やらじわじわと、きな臭い方向へ進みつつある。今年の年賀状で知り合いの老牧師さんが「大変な時代になってしまったと、つくづく思っています」と書いてきた。でも、大丈夫だ。どんな時代になっても、どんなときでも、ぼくはいつもきみのそばにいる。きみへの愛を証明し続ける。では御免。また会おう。

2003.1.16 深夜

 

*

 

 今日も夕方、和歌山のつれあいに電話をした。チビは今日も小学校へウサギを見に行った。彼女によると、校庭のすみに建っている二宮金次郎は「神さまがミッフィーちゃんの絵本を読んでいる」像なのだそうだ。

 Brian Wilson のライブを聴いている。Kiss Me Baby 。早くきみに会いたいよ。きみと、ぼくたちのやんちゃな天使に。三人でつましく楽しく暮らそう。それがすべてのはずだ。職安に行けば、ぼくはおよそこの世で無価値な人間みたいだが、ほんとうのぼくはそんなんじゃないはずだ。

 早く早く帰っておいで。ぼくらの天使が眠ったら、昔のように二人でお酒を飲んで、いろんな話をして笑い転げよう。

2003.1.17

 

*

 

 結婚をしていたきみが、夫と別れて、ぼくといっしょになろうとしたとき、ほとんどみんなが反対した。たいていの人が、ぼくたちのことを悪く言った。懇意にしてもらっていた飛鳥の染織館のW氏さえ「うまくいきっこないから、考え直した方がいい」と忠言し、ぼくはその話をしながら「誰も、分からない」と言って、きみの前で悔し涙を流した。

 お金ではけっして買えないものを、ぼくがたくさん持っているのだと、きみは言ってくれた。きみだけが。ぜったいに忘れない。

2003.1.17 深夜

 

*

 

 かもめさんのことは私がよく立ち寄る Junk赤煉瓦周辺の掲示板で知った。お名前をときどき見かけるくらいで、実際に会話をしたことはほとんどない。そのかもめさんが「NHKスペシャル『奇跡の詩人』」番組情報交換用掲示板で孤軍奮闘している。この掲示板は、ひとことで喩えるなら、中世の魔女狩り裁判である。何かに取り憑かれたかのような群衆が、真理や良識といった御旗を振ってどっとなだれ込み「魔女を火炙りにしろ」と騒いでいる。かもめさんは単身、立ちふさがって「おいおい、馬鹿な騒ぎはやめろ。よく見てみろ。彼女は生身の人間じゃないか」と叫んでいるのである。

 重度の脳障害を持ちながら自身の言葉で本を出版して話題になった日木流奈(ひき・るな)くんのことは、以前にここでも書いたことがある(ゴム消し過去ログの23、2002.5.17付の記述を参照のこと)。あれから世間では、流奈くんの様子を紹介したNHKのテレビ番組の是非を巡り、国会でもとりあげられるほどの騒ぎとなった。あれはどうもおかしい、眉唾物じゃないか、科学的根拠が何もないし、母親が一人二役を演じているんじゃないか、けしからん、天下のNHKたるものが人を愚弄するような番組を流しおって、というわけである。そしてNHKに謝罪と反省を求め、流奈くんの本の出版差し止めを要求している。

 どっちでもいいんじゃねぇの、と私は思うのだ。眉唾物だと思ったのなら、テレビを消して忘れちまえばいいじゃないか。それを何だってそれほどまでにこだわって、他人の家庭に土足で上がり込み、あのリハビリ法は甚だ怪しい、流奈くんが可哀相だとか、母親がいかれてるだとか、一家でヘンな宗教にかぶれてるだとか、流奈くんの本が売れたお陰で父親は仕事をやめられたとか、そんなことお前らに関係があんのかよ。眉唾を言うんなら、昨日もどっかのテレビで、霊視で殺人事件を解決するとかいう怪しげな霊能者が出てたぜ。NHKの良識を問うなら、アフガン空爆のときに欧米偏重のアキレタ報道を垂れ流し続けた是非を問う方がはるかに意義があるんじゃないの。「科学的根拠がない」と盛んに言うけれど、「科学的根拠」っていったい何なのさ。人知を越えた事柄なんて、この世界には腐るほどあるぜ。少なくとも私はあの番組を見て、おお凄い、頑張ってるなあ、こういうこともあるんだろうなあ、と思った。それでいいじゃないか。「万が一、あれが家族ぐるみの演出だとしたら、放っておいてもあの家族は自壊するだろう。それはあの家族自身がかぶるものだからそれでいいじゃないか。それよりも、人間として、かれらを信じてあげる、あの少年を信じてあげるという姿勢も大切なんじゃないか」みたいなことを、掲示板でかもめさんは仰っていたが、そのとおりだと私も思う。

 とにかく、無限に食べ続ける「千と千尋」の顔ナシの如く膨れあがった情報交換用掲示板の書き込みの、そのかなりの部分を私は眼をこすりながら(珍しく)一生懸命に読んだのだが、かれらの主張する「科学的根拠」の「根拠」は、結局のところ私には遂に分からなかった。「本当のところは本人(流奈くん)の他には誰も分からない」ということだけが分かった。それでいいんじゃないのか。あとは受け取る側の勝手だ。

 あの番組を見て、おなじような病気の子どもを抱えた親がインチキなリハビリ法の犠牲になる怖れがあるという意見もあるが、実際、わが家でも当初、いっしょに見ていたつれあいが強い関心を示してドーマン法の資料を取り寄せてみた。障害を持つ友人のEちゃんから「ドーマン法はしんどいから、個人的には好きじゃない」という意見も聞いた。で、お金がずいぶんとかかることだとか、うちの子の障害が比較的軽度でいまのリハビリでも満足していることなど、あれこれと言っている間に、なんとなくその話は自然消滅してしまった。ただあの番組のなかで、流奈くんの両親が子どもに向き合う姿勢は、私たちにとても参考になったし、かれらが使っていたドーマン法のドッツ・カードと呼ばれる学習カードはつれあいも真似をして自分でつくり子どもに使ったりした。またドーマン研究所から発売されている数学用の学習キットも、その後つれあいの希望で購入した。

 で、何を言いたいのかというと、親は子どものためにそれを選択する自由と責任がある、ということである。興味があったら情報を集めて考える。いい話もわるい話も聞く。その上で、もし有意義だと思ったら、決断して、試してみる。可能であるなら大金も払う(あったら、だけどね)。そうして、あまり成果があがらないからと途中で止める家族もあるだろう。頑張ってやり続ける家族もあるだろう。子どもがあんまりしんどそうだからと止める親もいるだろう。それでもこの子のためだからとやり続ける親もいるだろう。それらはみな、かれらの自由なのだ。ドーマン法に限らず、あやしげなまじない師の元に通うのも自由だ。「あの番組を見て、おなじような病気の子どもを抱えた親がインチキなリハビリ法の犠牲になる怖れがある」なぞという意見は、つまりはそもそも視聴者・障害者の親を馬鹿にした意見なのである。それとも、それほどお馬鹿なの、みんな。自分で判断できないくらいに。もしリハビリがうまくいかなくて、徒労だったとか無駄な時間と金を費やしたとか感じたり、また騙されたと後悔したり、あるいは子どもが辛いリハビリで苦痛を感じたとしても、それは親の責任であって、テレビの責任ではない。子どもは可哀相だけど、そんな親を持ったのが不運だったと諦めるしかない。だから親にはそれだけ責任があるということだ。そうだろ? (もちろん実際に明らかな被害があり、悪徳商法まがいの内実がはっきりとしたなら、それは法律によって取り締まるべきだが、いまのところドーマン法はそれには当てはまらないだろう) そんなことでごちゃごちゃ言ってるような国だからさ、ホームに立ってると「電車が参ります」なんて珍妙なアナウンスが流れるんだよ。“なんでそんなものに謙譲語を使うのか?”って、町田康も書いてたぜ。

 流奈くんの本にしても、私はべつにそれほど神業的なことが書いてあるとは思わないけど、多くの人がそれを読んで感動したのだったら、それでいいじゃない。たとえインチキで母親が書いたものだったとしても、それを読んで勇気が出たりしたんなら、誰が書いたって感動は感動だ。それでいいじゃない。信じるのも買うのも読むのも本を出すのも、人それぞれの自由だ。どうして流奈くんの本を出版差し止めまでしなくちゃいけないのか、私にはまったく分からない。

 眉間にしわ寄せ、どうしても白黒をつけなくちゃ気が済まないと詰め寄る姿は、私にはどこか異常な光景のように思える。「奇跡」という言葉に過剰に反応し、躍起になってその看板を引きずり下ろそうとする姿は、たとえばヨーロッパの小さな町に出現した血の涙を流す聖母像なんてものに何万人もの人たちがおしかける風景と、見かけは正反対だが、しかし質的にはどこか通じるものがあるんじゃないかと私には思える。つまり本当は、じぶんのなかの何かに苛立っているんじゃないのか。「奇跡」はあるんだよ。あったっていいんだよ。なくったっていいのさ。どっちでもいいじゃない。思う人が思えば。思う人を否定する権利なんて、誰にもないだろ。どうしてそうやって無遠慮に、他人の尻の穴をほじくり回すんだ。痛いじゃないか。悲しいじゃないか。やるんならテメエの尻を好きなだけほじくってくれ。それなら誰も文句は言わないさ。

 ともあれ、こうしたことのすべては「NHKスペシャル『奇跡の詩人』」番組情報交換用掲示板(http://bbs4.otd.co.jp/476470/bbs_plain) に書いてある。興味があり、かつ時間に余裕のある人は、ぜひ読まれたし。ちょっとばかし根気が要るけれども。私は、ここでかもめさんが言い続けていることは至極まっとうな感覚だと思う。

2003.1.18

 

*

 

 

 

 ○○さんへ

 

 今日は夢の話を書きます。

 夢の記録をつけているというのは、前に話しましたよね。
 以前にも部分的に書き貯めていたことはあったのだけど、継続的に書くことを始めたのは、92年の7月、いまからちょうど3年前からです。
 人によってかなり違うようですが、ぼくはほとんど毎日のように夢を見ます。子どものときから、そうだったような気がします。
 たいていは昔の思い出とか、バイクで知らない町を走ったりとか、小中学時代の友人や先生がごちゃごちゃと登場したりとか、わりとアホらしい、些末的なものが多いようです。
 けれどもごくたまに、とても深い感情(全身的な)を伴った、忘れがたい夢を見ることがあります。
 今回はそんな夢をいくつか、書いてみたいと思います。

 先日、幼い頃の作文のコピーを送りましたよね。随分と○○さんは気に入ってくれたようですが。
 あれはね、実はふとした夢から思い出して、押し入れの奥から引っぱり出してきたのです。その夢は、前に送った“通信”の「夢記」に載せたので、読んでくれたかも知れませんが、もう一度、簡単に紹介すると、

 

 山の斜面ののどかな牧草地を、じぶんと一心同体のような白い飼い犬と散歩していると、いつの間にか子羊の群れの中に入り込み、そのなかの一頭が死にかけているのを見つける。すぐに医者が呼ばれ、手当するのをじぶんと犬は不安そうに見ているが、子羊は口を半分開けたまま、ミイラのように干からびて弱々しく横たわっている。

 

 ------というものでした。
 この夢を見たとき、ぼくは子どもの頃に書いた、あの作文のことを思い出したのです。そしてすぐに引っぱりだしてきて読みました。ぼくが思ったのは、こういうことです。これはあのときの“タニー”だ、と。そして、この子羊/タニーは、いま死にかけているんだ、と。
 とても悲しい夢でした。

 また、こんな、童話のような神話のような夢を見たこともありました。

 

 無機的な広いコンクリートの大地に、数羽の鳥の家族がいる。そこへ久しぶりに長い旅から戻ってきた兄弟の一羽が舞い降りる。ところがお腹の減っていた家族たちは、その一羽を突っつきはじめて、とうとう食べてしまう。戻ってきた一羽は、驚きながらも、黙ってそれを受け入れる。
 そして最後に残ったかれの羽根が、巨大な金色の羽根に変わり、鳥たちを残らず絡め取って、悲しみとともに天へ昇っていく。

 

 ちょっと文章だけだと、他愛もないような話に見えるかも知れませんが、この夢を見たときもぼくは、何か透明な悲しみ(地上のものでなく、天上の悲しみのような)と深い感情を沁みるように感じました。

 それから、視覚的なものは忘れてしまいましたが、こんな夢もありました。

 

 仏陀の悟りの過程を描いた夢。とても短くて、半覚醒的で、体験的な....。
“ああ、このようなものだったのか ! ”と思う。

 

 こういったテンションの高い夢は、そう何度も続けては見られません。おそらく明恵などは、この種のもっと高次なものを幾度も見ていたのかも知れないな.... とも思ったりします。

 夢の不思議というのは、じぶんの深層に、じぶんよりももっと深くて広い“智慧”の存在があるのではないかと思わせるところにあるのではないかと思います。
 その存在が時折、夢を通じて、警告を与えたり(死に瀕している子羊)、浄化を与えたり(天上へ昇っていく金色の羽根)、また高い意識の世界を垣間見せてくれたり(仏陀の悟り)するのではないかと、そんな気がします。
 ユングが、じぶんたちは“無意識を持つ”などと言うが、実は無意識の方が無限の広がりをもった果てしない存在で、じぶんたちはその無意識の上に乗っかっているに過ぎないのだ、というようなことを言っていました。
 じぶんの中に、深い、とらえようのない、未知の存在があるということ。

 

 一人の神秘的な女性から一枚のメモを渡される。そこにはただ“船は破壊から救われる”と書いてある。

 

 これは、あの夜行バスに乗り込むときに、○○さんに話しましたよね。日付は今年の1月22日の夜。つまり、和歌山へ発つ前の晩に見た夢です。
 これも忘れがたい夢のひとつでした。
 あの全身的な、深い、強烈な感情というのは、なかなか言葉ではうまく説明できません。

 ユングの「自伝」の中で、とりわけぼくの心をとらえてやまない場面は、かれが晩年に見たという、ある夢の記述です。

 

 その夢の中で、私はハイキングをしていた。丘陵の風景の中の小道を私は歩いていた。太陽は輝き、私は四方を広々と見渡すことができた。そのうち、道端に小さい礼拝堂のあるところに来た。戸が少し開いていたので、私は中に入った。驚いたことに、祭壇には聖母の像も、十字架もなくて、その代わりに素晴らしい花が活けてあるだけであった。しかし、祭壇の前の床の上に、私の方に向かってひとりのヨガ行者が結跏趺坐し、深い瞑想にふけっているのを見た。近づいてよく見ると、彼が私の顔をしていることに気がついた。“ああ、彼が私について黙想している人間だ。彼は夢を見、私は彼の夢なのだ” 彼が目覚めるとき、私はこの世に存在しなくなるのだと私には解っていた....

(自伝2・死後の生命・p169)

 

 ぼくは以前、父親が死ぬ夢をよく何度もくりかえし見ました。夢の中で、彼はもう死んでいて、ひどく悲しかったものです。それから目が覚めて、なあんだ、夢だったのか、と思いました。
 ところが父親が車の事故で突然いなくなってから、夢の中に現れる彼は生きていて、いろんな話をしたり、笑ったり、うなずいたりしているのです。
 現実に生きていた時には、ぼくの夢の中では死んでいて、夢の中で生きている時には、もうこの世にいない。
 これは、ただの偶然ではないと、ぼくは思うのです。
 “ぼくらは夢の中から生まれて、夢の中へ帰っていく”
 きっと、そういうことなのだろう、と。
 だからユングの夢の記述を読んだときには、ああ、この人も同じことを体験したのだと、そう思いました。

 ま、ちょっと暗い話をしてしまいましたが、でも夢というのは、ぼくにとってそれだけの深いリアリティを持っています。
 「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」と言ったのは、江戸川乱歩でしたか。
 ユングも、こんなことを書いていました。
「人が夢を見るのではない。人は夢の中で見られるのだ。われわれは夢という過程を終わるのであり、夢の対象なのだ」と。
 夢の話は、ほんとうにキリがありません。
 泉鏡花の小説の中で、主人公のある婦人が、こんな和歌を記して、お寺のお堂に置いていく場面があります。

 

うたた寐に 恋しき人を 見てしより
        夢てふものは 頼みそめてき

 

 夢の中や、月の上で会うというのもオツなものですが、ぼくはやっぱり、この地上で、現実に会うのが一番いいなぁ、と思います....

 今夜はどしゃ降りで、月は皆目行方知れずです。
 ○○さんは今頃、何をしているのでしょうか。
 じゃ、おやすみなさい。

 

1995.7.3

 

2003.1.19

 

*

 

 年末にsawaさんから「バガボンド」(井上雄彦・モーニングKC 講談社)というマンガを送って頂いた。原作は吉川英治の「宮本武蔵」で、全15冊。現在も連載中で、若者やサラリーマンを中心に爆発的に売れているらしい。その人気にあやかってか、NHKの大河ドラマもおなじ吉川英治本を原作とした「MUSASHI」である。ところでこの大河ドラマというもの、私は、歴史を舞台にした現代ドラマ、と解している。つまり史実の武田信玄や織田信長とは全く別個のものなのだ。そういう意味で、この「バガボンド」も、もちろん史実の宮本武蔵とは異なる。作者が描きたかったのは、武蔵に投影した現代人の眠れる魂のようなもの、ではなかったろうか。剥き出しの死があり、剥き出しの生があり、剥き出しの恐怖があり、剥き出しのやさしさがある。そのなかを、幼少より鬼の子と蔑まれてきた一人の若者がぎらぎらと体当たりで、ときに挫け、抗い、突き進んでいく。爆発的なヒット、というのも分かるような気がする。すべてが薄められ、管理され、複雑化した世の中にあって、ほんとうは誰もがそのような剥き出しにされた修羅場、そこで試されるじぶんというものを欲しているのではないか。シンプルで、本能的で、ときに暗い狂気を秘めた、無明の嵐に揉まれる生き様のようなものを。それに比べると、NHKの大河ドラマの方はどこかお行儀がよくて、あのぎらぎらとした何かが抜け落ちてしまっている。マンガの方が、ずっといい。

 ちなみにマンガといっしょに、(sawaさんのお心遣いで)東京・町田の銘菓「はすの実最中」というのが添えられていた。蓮の実を使った菓子というのは、全国でも珍しいらしい。はじめて食べたが、銀杏と栗がブレンドされたような味、といったらいいのかな。乙な風味で、実家へ行っているつれあいにも送ってあげた。とても美味しかったです。ご馳走様でした。

 

 つれあいとチビの実家逗留が長びいているので、紙おむつや導尿のセットをふたたび送ることになった。市役所の近くの薬局に電話をして、足りないものをいくつか届けてもらう。ちょうどメリーズの大きなダンボールに入れてきてくれたので、それに詰めることにした。他につれあいの化粧品や洋裁の雑誌、ディズニーの英語ビデオなども。ついでにチビの髪留めが壊れてしまったので、こちらでひとつ買って送ってくれという。寝しなにチビが「お父さんに直してもらう」と言うので、「新しいのを買ってもらおうね」とつれあいが答えたところ、「お父さん、お金、あるかなあ」と言うので、隣で寝ていた義母も思わず吹き出し、みなで大笑いになったそうだ。きみの髪留めくらいなら、何とかね。

2003.1.20

 

*

 

 東京の上野にある国立博物館は子どもの頃からよく行った。小学生の頃は友人とそこで岩石の標本を買った。おにぎりを持っていって、地下の売店横に並んだテーブルで食べるのが常だった。雨の日の、とくに空いた平日がよかった。恐竜や零戦や、動物の剥製や、瓶に入ったまむしや、ミイラや、大昔の望遠鏡などを、がらんした人気のない通路を巡りながら見ていると、得も言われぬ陶酔感があった。高校の頃には自転車で、よく学校をさぼっては博物館を訪ね、上野公園で弁当を食べ、ベンチで太宰や大江健三郎なんかを読み耽っていた。

 フーコーの振り子は、その国立博物館の古びた本館の階段わきにぶらさがっていた。地球が自転していることをこれによって証明しているという説明を読んで、なんてすごいんだろうと思った。どうして証明できるのか、実はよく分からなかったけれど、小学生のじぶんは、その振り子がしずかに揺れている様を、ときおり飽きもせず長いこと眺めていた。

 先日、作家の宮内勝典氏がかれのサイト海亀通信の日記で、そのフーコーの振り子について書いていたのを読んで、そんな小学生の頃の記憶が蘇ってきた。それはこんな文章だ。

 

November 23,2002

 フーコーの振り子を見たことがある。遙かに見あげるほど高い天井から一本のワイヤー、太い針金のようなものが吊されていた。長い、長いワイヤーだった。さきのほうに錘りがついている。ワイヤーは不動のように見えるけれど、先端の錘りが、かすかにゆれつづけている。地球の地軸が傾いている証拠なのだ。

 そのフーコーの振り子を見るのが、とても好きだった。よく博物館に通い、中二階の手すりにもたれたまま、何時間もぼうっと眺めていた。作家とは、その振り子のようなものだと思う。あるいは、深淵に向かって降りつづけていくワイヤー、測鉛、垂鉛。

 ワイヤーは不動のようで、ふるえている。もしも静止しているなら、その芸術家はすでに死んでいるのだ。ワイヤーはふるえる。錘りはゆれる。戦争や、飢餓や、政治のほうへひきつけられて、ゆれる。抽象的に撓(たわ)むこともある。情や、孤独によってもゆれる。笑うこともある。だが錘りはつねに、深淵の重力にひきつけられている。それが創造者だ。

 

 あのとき、これがこの星の回転している証なのだと、そのかすかな心臓の鼓動のような運動を、新鮮な驚きとともに必死に感じとろうとしていたあの気持ちを、いつまでも持ち続けたい。

2003.1.20 深夜

 

*

 

 夕方、西友へ行ってチビの髪留めを買ってくる。一個100円。茶色と、水色に絵柄のついたのをひとつずつ。もうひとつ、今日になってカルタの追加注文がきた。実家にあったアンパンマンのカルタを、いま夢中でやっているのだという。少しだけ覚えた文字と、あとは絵柄で一生懸命に探す。ただアンパンマンのは、あまりに文章に品がなさすぎるので、もう少し良い物を使いたい。百人一首だと長すぎるから、俳句のカルタで適当なものはないか、と。それで本屋に立ち寄って、春夏秋冬に分かれた公文の俳句カルタの冬篇を試しにひとつ買って送ることにした。830円。前にお祝いで貰った図書券を使った。チビと少し電話で話す。といっても、こちらがいろいろ話しかけているのにケラケラ笑ってばかりで一向に会話にならぬ。荷物を梱包して近くのAコープに出して帰ってくると、入れ違いでつれあいの友人のCちゃんから手作りの焼き菓子が届いた。実家へ行っているのを知らないのだ。さて、向こうへ転送したものか。一人で食ったものか。

 夕食に、豆腐と油揚げと水菜の味噌汁をつくる。それから昨夜、閉店間際のAコープで買った半額のヒレカツと白菜を卵でとじて丼にする。違法な高金利の金貸しが取り立ての電話で「心臓ひきぬいてな、血管ぶち切ったるぞ」と喚いているのを、テレビのニュースで見ながら食う。つれあいがいないとろくに掃除もしない。部屋のあちこちに、よく西部劇で転がっている屑玉のような埃の塊が目立つようになった。そんな部屋で暮らしていると、身体のなかの部品まで軋んでくるような気がしてくる。家の中に大量のゴミを貯めてしまう人も、きっとそんな感じなのだろう。明日は掃除機をかけよう。

 相変わらずイラク問題が騒がしい。先週の記述だが藤原新也がWeb日記に「ほら、正義のメークアップがどんどん剥げ落ちてるぞ」という文を書いていた。すわ戦争がおっ始まるぞとばかり、ノータリンのテレビは予測ゲームに熱中している。むかし、古代ギリシャの時代にディオゲネスという哲学者がいた。無一文で樽の中に暮らしていたので「犬のディオゲネス」と蔑まれていた。子供が手で水をすくって飲むのを見て 「まだ余計な物を持っていた」とただ一つ持っていた椀を捨てた。ときどき、白昼ランプを提げて、街を歩いていることがあった。人が何をしているのかと訊くと、「人間を探しているんだよ」と言って相手の鼻先にそのランプを突きつけた。そのディオゲネスが、コリントの町中が戦争準備に奔走していたある日、 どうしたことか急に忙しそうに樽を丘の上に運び上げては転がし落とし、また運び上げては転がし落とし始めた。人々が「何をしているのだ」と訊くと、かれはこう答えたという。「皆さんが忙しがっているのに、 私だけ何もしなくては済まないと思ったのでね」

2003.1.21

 

*

 

 今日は別のことを書きかけていたのだが、友人のEちゃんより下記のような緊急のメールが届いたので、掲示板とダブるがこれを紹介しておく。

 ご協力をお願いします。

 

 

お元気ですか。毎日、寒いですね。寒いのが苦手な私ですが、日々、活動をしています。

さて、重度障害者の命をゆるがす大事件が起こりました!!
1月14日、厚生労働省がホームヘルパーの時間の上限を1日4時間にすると、突然、言い始めたのです! 容易に想像がつくでしょうが、そんなことをされたら、私たちは生きていけません。
要するに、国は、24時間カイゴが必要な障害者のことは、死んでも知らんと言っているのです。

 先週から、全国の障害者団体が厚生労働省につめかけ、抗議を行っていますが、未だ厚生労働省は、頑固に意見を変えようとはせず、このまま、この「重度障害者切り捨て計画」を強行突破するつもりでいます。
ここは、なんとか阻止しないと、やばいです!!

そこで、●●くんにも力を貸してもらいたいのです。
厚生労働省に抗議のアクションを起こしてください。電話でもFAXでもかまいません。内容は、「私の友達を殺さないで!」とか、「ホームヘルパーの4時間上限を撤廃しろ!」とか、「障害者の命を奪うな」とか、なんでも構いません。短い文章で良いので、名前をそえて、とにかく毎日、書いて送ってください。

ぜひ、手伝ってください!

何が起こっているのか、詳しくは、DPIのホームページをみて
ください。yahooで検索できます。

添付は、具体的な呼びかけ文です。
私も今週末から東京いりする予定です。厚生労働省を囲んできます。

 

 

********以下添付書類**********

 

緊急行動の呼びかけ

                    

 もう既に、みなさんの方に情報が届いていると思いますが、厚生労働省が、ホームヘルパーの上限を4時間という短い時間で設定しようとしています。これは、重度な障害を持つ人には、命に関わる大問題です。

  先週から全国の障害者団体が厚生労働省につめかけ、大規模な交渉が行われていますが、交渉は難航しています。このままでは、私たちの声が届かないまま、厚生労働省は、この障害者の切捨て行為を強行突破するかもしれません。厚生労働省は、「支援費制度に移行しても、今より制度がさがることはない」と明言しつづけていたのにも関わらず、今回のやり方は、あまりにも卑怯です。

  そこで、なんとしても、厚生労働省のやろうとしていることを阻止するために、私たち一人一人が行動を起こしましょう。

 

◎ビラまきと署名活動

 明日、1月24日(金)14:00〜17:00

 神戸駅南口

 緊急連絡先:090−2193−7518 中尾

         090−3679−5491 石地

         070−5653ー8082 船橋

   ※寒いので、防寒の準備をしてきてください。

 

◎神戸市へも個人で要望をあげてください

 各自治体からも厚生労働省に要望をあげてもらうように、それぞれの団体、個人で呼びかけてください。

 

◎厚生労働省に、抗議の電話、FAX、メールをいれ続けてください

 この2週間ほどがやまばです。障害当事者も、関係者も、今まで関係なかった人も、じゃんじゃん、抗議の声を届けてください。数の勝負です。
 とくに、28日の、全国課長主管会議で、厚生労働省が今の方針を発表してしまったらアウトです。なんとか、阻止するよう、激しく抗議してください。

 

【抗議先】

■ 電話

 ・厚生労働省 社会援護局 障害保健福祉部 障害福祉課

   03-5253-1111 (代) 内線 3034  

■ FAX (同じものを3ヶ所に送りましょう)

 ・厚生労働省 

   03-3591-8914 (社会援護局 障害保健福祉部 障害福祉課)

   03-3502-0892 (障害福祉課 企画係)

 ・坂口力 厚生労働大臣

   03-3508-3617

■ Eメール (同じものを3ヶ所に送りましょう)

 ・厚生労働省( 厚生労働省のホームページから送ります)

    http://www.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html

 ・坂口力 厚生労働大臣

    g02158@shugiin.go.jp

 ・首相官邸(首相官邸のホームページから送ります)

    http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html

【呼びかけ人】     

 障害者支援費問題緊急委員会 

  〒652−0802 神戸市兵庫区水木通5丁目3−19−502

  電話&FAX 078−577−2546 

 ・2003年を考える障害者の会 ・障害者問題を考える兵庫県連絡会議 ・社会福祉法人えんぴつの家デイケアセンター ・社会福祉法人えんぴつの家六甲デイケアセンター ・自立生活センター神戸Beすけっと ・自立生活センターリングリング

 

 

DPI-JAPAN(障害者インターナショナル)
http://homepage2.nifty.com/dpi-japan/dpi-japan.htm

全国障害者介護制度情報
http://members.jcom.home.ne.jp/ppp1/

arsvi.com
http://www.arsvi.com/index.htm#z

 

2003.1.23

 

*

 

 あれから今回の支援費制度の問題についての文章をWebであれこれ読んでみた。行政的な事柄は不得手なのだが、私なりにごく大雑把にまとめてみると、こんなふうになるのかな。まず、これまで行われてきた障害者福祉サービスは、市町村が利用者を特定し、サービス内容を決める「措置制度」というものだった。財源は国から各地方自治体に配られる補助金がほとんどで、厚労省はこれまで「障害者に必要なサービスを提供する」との考えに基づき、時間数に上限を設けないよう自治体に指導をしてきた。それが今年4月から、その「措置制度」に代わって、障害者自身が受けたいサービスや事業者を選ぶ「契約方式」へ移行することになった。これは介護保険と同じように「利用者本位」の制度に改め、事業者間の競争を促す狙いがあると説明されている。移行にあたって厚労省は「これまでどおり、サービス利用に上限は設けない」と説明してきたのだが、土壇場で一転、主張を翻したわけである。「一日4時間の上限」というのは、現在検討されている「身体障害者の日常生活支援で月上限百二十時間」案によるもので、厚労省は「国の金なんだから、なるべく公平に分配するため」と説明しているが、これは症状や生活状況等によって各人各様の介護を必要としている障害者を十把一絡げにした粗雑な論理と言わねばならない。要するに「国の財政が厳しいから、まず弱者のきみたちから涙を呑んでくれ」というわけだ。厚労省は「国の補助金に基準を設けただけで、各自治体のサービスは自由なので、結果的に上限を定めたわけではない」と面妖な説明をしているが、これは要するに「国はこれだけしか出さないから、あとは自治体の勝手にしてくれ」というわけで、多くの自治体にそんな負担が出来るアテもなく、結果として24時間介護が必要な人の一日4時間を越える生活は見殺しにされるというわけである。もともと今回の支援費制度への移行は、障害者の自立を促し「施設から地域へ」という理念が謳われたものであったのだが、逆に「生活できない障害者は施設へ戻れ」という、ほとんど脅し文句にも近い結果となっている。ちなみにホームヘルプサービスの来年度の国庫補助金278億円は、高速道路5km弱の建設費に過ぎないそうである(『毎日新聞』1月23日の社説)。

 

 今回のメールをくれた Eちゃんとは、私がちょうど20歳の頃だが、通信大学のスクーリングで知り合った。およそボランティア精神なぞというものには昔から縁のない私が、どんなきっかけだったか、キャンパスでいつしか車椅子を押すのを手伝い、仲良くなったのだから、きっとそれだけ魅力的な女の子だったということなのだろう。授業のない日には、二人で京都の町をデートしたりもした。当時は私は関東で、彼女は姫路の実家に住んでいたのだが、バイクの旅の途中で何度か彼女の家に遊びに行ったことがある。当時のEちゃんは両親とお兄さん夫婦とその子どもたちに囲まれて暮らし、家は車椅子のためのバリアフリーが完備されていて、そこで彼女は週に何日か、自宅で近所の子どもたちに英語を教えていた。彼女が親元を離れて神戸でひとりの生活を始めたのは、私が奈良に来たのとおなじ頃だったろうか。24時間の介護ヘルパーを利用した生活で、神戸はその点でいろいろ行政面が進んでいるからとかいう話を聞いた覚えがある。それからの彼女は、まさに水を得た魚のような感じだった。もともと魅力的な女性だったけれど、スケールがまた一段と大きくなったような気がした。障害者であることの生い立ちや生活は、私には伺い知れぬものがあるだろうけれど、肉親に手取り足取り世話にならなければ生きていけない状況というものは、彼女にとって、どこか息苦しい閉塞感のようなものがあったのではないかと思う。親元を離れても24時間、ボランティアやヘルパーといった人の世話にならなければならないのは変わりはないのだが、それでも親の手を離れて、社会の中へ単身出ていくことは、きっと決定的な違いがあるのだと思うのだ。神戸に移ってからのEちゃんは、以前より増して多くの障害者のグループと交流を重ね、英語の勉強と障害者グループとの交流のためにアメリカに短期留学もし、障害者の人たちで結成された劇団の活動に携わり、ヨーロッパへの公演旅行も経験した。いつまでもうだつのあがらぬ私なぞは恥ずかしくなるくらいの活躍ぶりであった。そして、それらを支えていたのが、行政によって保証されていた24時間の介護制度だったのである。それがいま、まさに根元から引き抜かれようとしている。それはたんに障害者だけのことではない、この国に暮らす全ての良識ある人間に対しての冒涜的行為であるように、私には思われる。

 

 昨夜、Eちゃんからのメールを受け取ってから、その内容を私はメールにコピーして、微力ながら、私の貧弱なアドレス帳にある協力してもらえそうな人たちに送信した。いくつかの適当な掲示板でも場所をお借りして紹介させてもらった。それについて、有り難いリアクションをぼちぼちと頂いている。最後に、そのホンの幾つかを(私信であるため)支障のない程度に紹介しておく。

 

 まず手始めに、都庁に勤めるわが腐れ縁の悪友から。

 

 

力になれるかわかりませんががんばってみます(って、どうやって)。こういうのってよくわかりません。でも東京都にいる身としては、かなり上のほうがやってることで憤ることも多いので理解し、判断し、行動できたらいいなあ。すいません。

 

 相変わらず何を言いたいのかさっぱり分からないが、まあ良い。

 それから、以前につれあいが勤めていた大阪・人権博物館で、ボランティアの解説員をしてらっしゃる年輩の方のメール。

 

 

ホームヘルパーの時間上限1日4時間の件、許せないですね、早速抗議電話を入れました、そしたらまず「貴方はどなたですか」と言うので、自分の住所と名前を言ったのですが、その次に「その情報をどこから手にいれたのですか」と来たので、それは事実かどうかと問いただすと、「いま障害者団体と話し合いをしています」でした、いずれにしろ大問題だと抗議しましたが、やはり行動と声を大にしないとだめですから世論を早く高めないとなめられてしまいます。共にがんばりましょう。

 

 この他に、すずき産地さんのBBSを見た某東ABさんから、関係している18万世帯が加入する組合法人の組織部長さんに連絡をし、「色々な団体があって、難しいことがあるけれど、いっていることは正しいので」「組織の末端まで情報を流してくれる」ことになった旨の連絡を頂いた。また秋田で小児科医をしてらっしゃるgotoさんからは、小児科医のMLに書き込んでくれるとの連絡を頂いた。つれあいと同じ博物館に勤めていた女性のお宅からはいち早く「早速メールを送りました。何かあればまた連絡下さい」という真摯な返事を頂き、チビとおなじ病気を持つ子どものお母さんからも「友人にぜひ読んでもらおうと思います」との返事を頂いた。こうしたひとつひとつの声が、大きな波になっていくことを願う。この場を借りて、賛意とご協力に感謝します。

 

**短い参考**

野崎泰伸「障害者へのホームヘルパー派遣の上限について」(厚生労働省への要望)
 http://www.3oclock.net/rnbn/mhlw.html

野崎泰伸「支援費制度と福祉削減」(新聞への投書)
 http://www.3oclock.net/rnbn/shienpi1.html

 

2003.1.24

 

*

 

 「死」というものをはじめて意識したのは、あれは小学生の低学年の頃だ。夜、布団のなかで「じぶんというものはいつかなくなってしまうんだ。そうしてじぶんの知らない無限の時間が流れていくのだ」と考えてひどく怖しくなり、隣の仕事場で父といっしょにいた母に「死んだらどうなるの。死んだらどうなるの」と泣きついた。母は答えをくれなかった。彼女自身も分からなかったのだろう。大丈夫、大丈夫と泣きじゃくる私を懸命になだめるばかりだった。

 河合隼雄氏のたしか「ユング心理学入門」(培風館)のなかに、おなじように、はじめて死を意識した小さな子どもについての話があった。その男の子は「悲しいことだけど、話さずにはいられない」と毎日のように、じぶんが死ぬ話を母親に泣きながら聞かせ続けていたが、ある朝、「いいことを思いついた。もういちどお母さんのお腹に入って、生まれてくればいいんだ」と明るい顔で言い、それっきり死についての話をしなくなったという。大人からみれば他愛ない結論のようにも思えるが、かれはじぶんのなかの苦しみと向き合い、格闘し、ひとつの象徴にたどりついたのである。それはとても感動的なことであり、やがて成長してその象徴がそぐわなくなったとき、かれはふたたび己と向き合い、またべつの象徴を自らの内から生み出すだろう、と河合氏は書いていた。死というものはそのように、人の精神を高みへと向かわせる、果てのない「自問」のようなものかも知れない。

 いつだったか、榎並和春さんが日記にこんなことを書いておられた。年寄りというものはとても自然に年寄りをやっていて、生まれたときから年寄りをやっているように思える。歳をとれば誰もが、死の恐怖が薄れていくのではないか。榎並さんは行きつけの画材店でよく会うお婆さんに、かねてからの疑問をぶつけてみた。「年取ると死ぬのが怖くなくなるのですか?」「いいや、怖いさ」

 死の存在は、いつも私のかたわらにあって、その暗い無明の口を広げていたが、子どもを持つようになって、その闇はいっそう濃くなってきたように感じる。この子の一生を、じぶんは最後まで見届けることはできないのだ、という当たり前のことが、何やら死を、さらに身近なところへ招(お)ぎ寄せるのである。子どもを見ていると、じぶんの死、子どもの死、そしてもっと大きな死と生命について、深く考えさせられる。いや、考えさせられざるを得ない。

 先日、何気なくつけた深夜のNHK教育テレビで、それは子供向けの科学番組であったが、超新星についての話を面白く見た。超新星というのは星の終末、最後の絢爛たる輝きのことである。内部でさまざまな核融合反応をくり返してきた星は、最後に最も安定な原子核である鉄のコアを抱えるに至る。やがてその大量の質量のために重力による収縮が急速に進み、原子核さえも溶解し、それらが鉄のコアの中心に向かって急激な重力崩壊を起して、ついに大爆発を引き起こす。そのときに、さまざまな物質が宇宙へと散らばっていく。最近話題のニュートリノなども、そのひとつである。そしてそれらの散らばった星屑が、長い漂泊の果てにいつしか寄り集まり、星を成し、銀河を成し、さらにある星では生命をさえ形づくる。つまり私たちの身体を形成している原子の大部分は、かつて「超新星になった恒星の内部に一度は存在していて、その星が爆発した時にこれらの原子が宇宙へと送り出された」のである。そしてまた最近の研究では、「超新星の爆発によって銀河に満ちた高エネルギーの輻射」が、地球を含む太陽系の生成の大きな引き金となったり、また地球上の生命の突然変異を生み出したり、進化を導き出すような影響を与えたかも知れない、とも言われている。まるで遠い彼方の万華鏡のように、無辺の宇宙のあちこちで日々くり返されているこれら収縮と拡散、純粋なエネルギーの運動と明滅。そのような風景のなかに己のちっぽけな死を置いてみて、思わず足元をよろめかせることもできるかも知れない。

 高校の頃、ある人から「意識と脳 精神と物質の科学哲学」(品川嘉也・紀伊国屋書店)という本を渡され、読んだことがあった。それは哲学とも科学とも区別できぬ風変わりな著書で、同時に高校生の私にはひどく難解で根気の要る読書であったが、エントロピーの運動やら何たら、数式混じりのページを分からぬままにめくっていって、最後に、「宇宙は生成をくり返して星をつくり、生物をつくり、人間の脳をつくった。その私たちの脳がいま宇宙を認識している。宇宙が自分自身を認識しているのだ」といった一節に出会ったとき、深い感動を覚えたものだった。それは、前述した子どもが、母親の胎内にもどってもういちど生まれてくることを「発見」したのと似たような感情であったかも知れない。

 だが世界がそのように、ただ純粋な物質とエネルギーの生々流転だけかといったら、私は、そうだとは言い切れないような気もする。たとえば石には、物質としての石だけでない、石の霊性のようなものがあるのではないか。植物にも魂のようなものがあるのではないか。人の魂が、ワタリガラスや熊や狼の魂と入り替わるということも、ひょっとしたらあり得るのではないか。私たちにはまだ見えていない、だがときおり風の瞬きのように感じることのできる(そんな気がする)、すべての物質や生命をつなぐ因子のようなものが偏在しているのではないか。私たちのいまある姿は、ほんとうはそれらが見ている夢のようなものなのではないか。そんな空想を、してみる。

 チベットの古いタントラの教えでは、私たちがいま生きている世界は「存在世界のバルド(ランシン・バルド)」と呼ばれる。バルドというのは「中間」、あるいは「途上」といった意味である。何からの「途上」なのか。それはかつて在った純粋な光から、次なる純粋な光へと向かっていく「途上」なのだ。すべての生き物が本来宿している無垢な魂のようなものを、チベットの教えでは「心の本性(セムニー)」と呼んでいるが、「途上」にある者にはその真の姿が見えない。あるいは感じられない。たとえばミミズはミミズのバルドを生きている。自らの生命システムにしたがい、それに必要な、意味のあるものだけからつくられた世界に生きているために、「心の本性(セムニー)」を見る目が失われている。つまり、ミミズはミミズのバルドを生きているために「じぶんという存在の本来の家であるものが分からない」。人間もそれとおなじように、やはり限定された人間のバルドを生きている。かれはいまだ「途上」の存在なのだ。じぶんはどこから来て、どこへいくのだろうかと、不安で、怯えている。有名な「チベットの死者の書 (バルド・トドゥル)」は、そのような限定的なバルドに閉じこめられた生命を、死をひとつの好機として、大いなる「心の本性(セムニー)」へ投げ返してやるためのテキストである。

 

 ランシン・バルドにある間、あらゆる生き物は、夢のなかを生きているのだ、という考え方が、ここから出てきます。どんな生命も、自分の生命システムにとって意味のある世界の中を生きているときには、まるで夢や幻想を生きているのと同じです。ミミズはミミズの夢を生き、人間は人間の夢を生き、阿修羅は阿修羅の夢を生き、地獄の住人はその苦しみにみちた夢を、現実として生きるのです。この宇宙は巨大な夢の集積体として、つくられていることになるのです。

 ところが、どんな人間にも、生きてランシン・バルドのなかにある間は、けっして触れることができなかった「心の本性」というものに、直接触れることのできる、稀有の機会が与えられています。それが、死なのです。死はあらゆる人間の前に、自分という存在の本性を、あらわにしてみせます。人が死に向かって近づき、死の状態を旅していくとき、あらゆる存在の完成態である「心の本性」が、光とともに死にゆく人の意識に、ありありと出現する(ゾクチェンという言葉は、この存在の完成態という意味ももっています)。死の過程(死のバルド)において、ゾクチェンの教えと死をめぐるチベット的探求とが、まさに偉大な結合を果たすのです。

「三万年の死の教え」(中沢新一・角川文庫)

 

 こうした考え方はおよそ非科学的な、途方もなく馬鹿らしい世迷い言だと思うだろうか。だが私はここには、私たちが近代化の過程と片輪の物質主義的な思考法の中ですっかり失ってしまった、深く鋭い洞察が秘められているように思うのだ。それは死や生命の不思議とまっすぐに対座した、豊かな“智慧”のようなものである。

 おなじ本に台本が収められているが、以前にNHKスペシャルで放送された「チベットの死者の書 (バルド・トドゥル)」を題材にした番組のなかで、次のような場面がある。

 

 小坊主は寺の中庭でくつろいでいる。先輩のお坊さんたちに質問してみようとする。プリミティブな質問なのに、みんな一生懸命に答えてくれる。

別のラマ僧(小坊主にむかい)「死んだら、なにもかもなくなってしまうというのか。そんなばかなことがあってたまるかい。有機体でできたこの身体は、かならず滅びる。でも、生命はそれぞれの生命の死をこえて、流れつづけるのだよ」

また別のラマ僧(小坊主にむかい)「心の流れは、有機体が死んでも、続く。だから、この世界にある生き物で、一度たりとお前のお父さんやお母さんでなかったものはない。この牛をごらん。いまは牛だが、かつての生であの牛は、お前のお母さんだったことがある。そのときは、お前にとっても、優しくしてくれたはずだ」

 小坊主は、牛を優しくなでている。先輩が言った。

「その優しい牛が、殺されたりしたら、どうだろう。お前に優しいお母さんだった生き物が、苦しみながら死んでいくことになるのだよ。そのことを、よく考えてみな」

 小坊主はその言葉を思い出して、急に悲しい思いに襲われた。涙までこぼれでてきた。

小坊主の独白「心の流れが、とだえないから、生命には再生があるから、人は世界にたいしてもほんとうに優しくなれるのだ、とあとで先生はおしえてくれた」

 

 番組の最後に、老僧はかたわらの少年につぎのようなインドの古い文句を教える。

 

誕生の時には、あなたが泣き、
全世界は歓びに沸く
死ぬときには、全世界が泣き、
あなたは歓びにあふれる。
かくのごとく、いきることだ。

 

 そうして、抜けるような青空の下、荒れ果てた山道を二人して歩み去っていく。

2003.1.25

 

 

 

 

 

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