■日々是ゴム消し Log30 もどる

 

 

 

 

 

 風邪をひいてひねもす寝て暮らした。昼、自転車で木枯らしの中を買い物に行っていたつれあいとチビが帰ってきた。チビは階段の下でまだ遊びにいきたくて家に入るのを拒んだのだという。荷物を抱えたつれあいが「じゃ、お母さんは先に行ってますよ」と上の段から少しずつ伺っていたら、チビは結局自力で団地の階段を4階まで這い上ってきた。つれあいは腰が痛いので、チビを抱いて上れないのだ。開いた玄関から、二人のこんな会話が漏れ聞こえてきた。「えらかったねえ。ひとりでのぼってこれたのねえ」「亀さんになってたの」「亀さんでも何でもいいんだよ。頑張って上ってくればいいんだよ」「お母さん、泣いてるね」「うん、お母さん、嬉しくて涙が出てきちゃったの」

2002.12.13

 

*

 

 深夜に、ディランの Carrying A Torch をリピートにして聴きながら、たとえば私はこんな場所を彷徨うている。音のない、人ひとりいない、どこまでも寂寥とした、澱んだ悲しい空間を。傷つけるものは下からの、私の根に棲む鬼火である。突き刺さったその矢は、同時にまた錠をなくした私の鍵でもある。どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも、どこまでも歩いてゆく。どこまで行ってもはてがない。どこまで行っても誰にも出会わない。私はすでにこの世の人間ではないような気がする。だがまだあちら側の人間でもない。私はこのじぶんの惨めな歩が、いったいどれほどの価値があるのかと投げ出したい気持ちで立ち竦む。

  

こんな大切な秘密は、めったともらしたくありませんが-----
深い寂寥の底に、実は美しい女神たちが住んでいるのです。
そこには空間もなければ、時間もありません。-----
女神たちを説明するのは、どういっていいかわかりません。
とにかく、それは「母たち」というのです。
   ………
         人間の聞いたこともない女神たちです。
わたしたちもめったに口には出さぬ名前です。
その住みかへは、どこまでも地の底を深くもぐりこんでゆかねばなりません。
母たちのお世話にならねばならぬというのも、あなたのせいですよ。
そこへゆく道は。
         道などはありません。誰も通ったことのない道。
いや、通りようのない道ですよ。何びとも求めたことのない道です。
何びとも求めてはならぬ道です。あなたは行ってみる勇気がありますか。-----
開く錠もありません。押しあける閂もありません。
あなたはただ寂寥に引きまわされるだけです。
寂寥だの荒涼だのという意味が、ほんとうにわかりますか。
   ………
しかし、ひとりで大洋に泳ぎ出したとしますね。
海も空もはてしがありません。
溺れるかもしれぬという恐怖があなたを襲います。
それでも、波また波が寄せてくるのは見えるでしょう。
とにかく、何ものかは見えてくるのです。無風の海のみどりの波のなかには、
たわむれる海豚のむれもいるでしょう。
雲が動いたり太陽や月や星がかがやくのも見えましょう。
それとちがって、永遠に空虚な広漠たる国では、ほんとうに何も見えないのです。
自分で踏む足音もしません。
自分で腰をおろす固いものもありません。
   ………
さあ、鍵をもっておいでなさい。

   ………
その鍵がまちがいなく場所をかぎつけてくれるのです。
鍵についてゆけば、母たちのところへ連れていってくれますよ。
   ………
では、沈んでおゆきなさい。いや、昇っておゆきなさいといってもいいのです。
けっきょくは、おなじことなのだから。あなたは生成した事物の世界をはなれて、形をもたぬ形の世界へとゆくのです。
もはや存在しないものの形をもとめにゆくのです。
うようよする群が、雲の去来のように絡みついてきます。
そしたら、その鍵をふるって、お避けなさい。
   ………
灼熱した三本足の香炉が見えれば、
それでいちばん深いどん底についたことがわかります。
香炉の光で母たちの姿がぼんやりわかってくるでしょう。
すわっているのもいます。立ったり歩いたりしているのもいます。
その時、その時の工合です。形をつくったり、形を変えたり、
永遠の意味の対話がつづきます。
まわりにはあらゆる生きものの形が漂ようているのです。
母たちにはあなたの姿は見えません。母たちの眼には物の図式
(シエーマ)しかみえないのです。
そこで、一番、勇気を出してください。危険を覚悟するのです。
あなたは、まっすぐに香炉に近づいて、
ぴたりとその鍵を香炉につけなさい。

 

2002.12.14

 

*

 

 しばらく前に書いた、宇治の文学サークルの講師役を私にふってきたつれあいの知人との電話で、かみ合わなかった話題がもうひとつだけ、じつはあった。それは「世間との交流」というのか「意見の交換」というのか、そんなものである。私がWeb上に己の文章を公開するのは、結局は誰かにそれを見てもらいたいからなのではないか。意見の交流をしたいからではないのか。それ故に書いたことには責任というものが伴うのではないか、とその人は言うのである。だが私は、すこしばかり酒が入り、すこしばかりムキになっていたためか、じぶんは誰にも理解されたいなどと思っちゃいない、と突っぱねた。もしWeb上に公開する幾ばくかの理由があるとしたら、阿呆の書いた戯言をどこか見知らぬところで似たような阿呆が読んで、ああここにもオレとおなじような阿呆がもう一人いると安堵をすれば、それでよい。じぶんは誰とも議論をしたいとは思わないし、意見の交換や交流をしたいとも思わない。責任などというものがもしあるのだとしたら、それはただ己にだけであって、それを読んだ人間に対して責任などこれっぽっちも感じない。そんなものはすべて面倒くさい。じぶんの書いたものに賛成の者とも反対の者とも、誰とも交流なんてしたくない。私は勝手にじぶんの感じたことを書き散らかすだけであって、それを勝手に読んで、勝手に思って、放っておいてくれたらそれでよい。そう言うとその人は「複雑な人だ」と首を傾げた。私は多少酔っていて、多少感情的になっていた。極論ではあったが、だがそれは概ね私の真意であった。本物のブルースマンは、聴衆がたとえひとりでも百万人でも、常にただ己のためだけに歌うのだ。歌わざるを得ないから歌うのだ。歌について説明する必要も責務もない。かれの演奏を聴いて、バックステージに花束を持って歌い手を訪ねたいとは思わない。ステージがひけたら、黙ってやつはやつ、私は私の道端へふたたび戻っていくだけだ。一瞬のクールな交感があるだけだ。だから私は、たとえばディランを“追っかけ”たり、かれの日常に立ち入ったり、かれと知り合いになりたいとは思わない。かれの演奏する歌を聴く。それだけで充分だ。受け取ったものを、こっそり腹に溜めて歩いてゆく。そんな感覚がいい。そんな感覚の方が信頼できる。「馴れ合いは好きじゃないから、誤解されてもしょうがない」とマーシーも歌っていたぜ。おや、話がちょいとずれたか。

2002.12.14 深夜

 

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 蛇のような舌が乾いた大地を舐(ねぶ)っていく。はじめはちらちらと、人の早足ほどの速度で舌は溢れ、地表をとりかこみ、小石の触れ合うごうごうとした蠢動を従えながら、忽ち一筋の泥色の流れとなって南へひた走る。

 5月。万年雪をたたえるコンロン山の氷河の先端は、まだ谷間に挟まれ眠っていた。6月に入って、川の流れを見た、という村人の声を聞く。

 

NHKスペシャル「大河出現」− タクラマカン砂漠・ホータン川 −

 中国・タクラマカン砂漠。ウイグル語で「生きては帰れぬ場所」という意味で恐れられてきた死の大地である。日本の国土とほぼ同じ面積をもつ広大な砂漠を、夏の3か月間だけ流れ、突然消えていく大河がある。その名はホータン川。

 ホータン川は、万年雪をたたえるコンロン山脈の雪解け水が、6月から8月にかけて奔流のように砂漠に流れて生まれる。平均時速4kmというスピードで、幅2kmから10kmの大河が、北端のタリム川との合流を目指して突き進む。全長1127km、そのうち500kmがタクラマカン砂漠を縦断する。

 コンロンのもたらす恵みの水は、砂漠の川沿いを緑の灌木に変え、死の大地は一瞬の生を謳歌する。そして10月、コンロン山脈の気温が氷点下に下がると、大河は砂漠の中に再び姿を消していくのである。

 

 突如出現した流れは、勢いを増して麓の村へと下っていく。河床で山羊を放牧させていた飼い主があわてて家畜を避難させる。村では土手が決壊した。水に浸かった男たちが総出で木々を積み、堰き止めようとしている。寸断した道路の割れ目の底では、一人の男が杭にしがみつき、もっとはやく土をいれろ、少しはおれのことも考えろ、と泥まみれで叫んでいる。

 まだ数百キロも南の村では、一人の農民がその流れを待ちわびている。6年前に、家族で開拓地へ移り住んだ。塩分濃度の濃い、乾いた不毛の土地で、さいしょの年は種をまいても発芽さえしなかった。持っていた家畜を売り払い、借金を重ねて、土壌を改良した。トウモロコシと綿。去年は順調に育ったが、川の到着が遅かったためにほぼ全滅した。ふだん、飲み水を汲んでくるのは長女の役目だ。乾いた河床へ行って地面を掘ると、地下水が浸みだしてくる。食事はトウモロコシを挽いて焼いたパンを、その水に浸して食べる。役人が来る。ことしの水代を払わなければ水門を開けられない、と言う。昨年の収穫が1万円でしかなかったかれにとって、5万円の水代はとても払えない。何とか払いを収穫後に回してもらえるよう、懇願する。トウモロコシと綿も、ここまで順調に育ってきているのだ。

 やがて、干上がった水路にちろちろと、蛇の舌のような流れの先端が現れる。じきに流れは勢いを増し、かれの畑を黒く、豊かに染めあげていく。子どもたちが畑に降りて水をかけあい戯れる。口元に笑みがこぼれる。どの顔も歓びで輝いている。その顔を、美しいと思う。

 夏の3ヶ月の間だけ、忽然と姿を現し、まるで生き物のように大地を舐り、ふたたび消えていく川。歓びは、その大自然の不思議な営みに生かされもし、殺されもする。いや、生かされている謙虚さを知っている者の歓びなのだ。いわば「神の許しによってのみ地に墜ちる雀(マタイ伝10章)」のような歓びだ。だからその歓びは、どこまでもまっすぐで、心が洗われるほどすがすがしい。そんな歓びが、はたしてこの私にあるだろうかと自問する。そんな歓びが、はたしていまの私に見えるだろうか。

2002.12.16

 

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 ディランの Carrying A Torch が、私をどこへ連れていくのか、それを私はじつは心の奥底で知っているような気がする。悲しいが、心地よい。切ないが、心が打ち顫える。ディランの Carrying A Torch は、そんな演奏だ。湿った熱帯性の強風のなかにこの世のあらゆる始源の風景が立ち現れるように、この歌のなかには、時速90マイルで袋小路を突き抜けてきた者が帯びた、静電気のような粒子が静かに瞬いている。冷たい風に頬を嬲られながらも、なおも進んでやまない透徹な真情がある。汲めども尽きない地下の伏流のような清冽さがある。四畳半の部屋の薄いふすまを閉め切って、外界のやんぬるかなの一切をしめ出して、私はひとりその暗い波間に浮かび、漂っている。私の胸の器の水量は喫水線を越え、溢れ出んとしている。

2002.12.16 深夜

 

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 「永遠の不服従のために」とは、のっけから大仰だが、じつはそんなものではない。たとえば冒頭近く、北原白秋の歌がひかれる。

 

かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫(こいし)

一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽっぽ飛ぶ

監獄(ひとや)いでてじっと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる

(桐の花)

 

天皇(すめらぎ)は戦い宣(の)らしあきらけし乃ち起る大東亜戦争

ああ既に戦(たたかい)開くまたたくま太平洋を制圧すれば

(あめ)なるや、
皇御神
(すめらみかみ)のきこしをす
道直
(ただ)にして聖戦(みいくさ)とほる。
(中略)
国挙げて
奮ひ起つべし、
大君のみまへに死なむ
今ぞこの秋
(とき)

 

 前者は白秋28歳のとき、隣家の夫人と不倫の仲になり、夫から姦通罪で訴えられ、市ヶ谷の未決監に拘束されたときの歌。後者は功なり名を遂げたその最晩年、昭和17年に雑誌等で発表された歌。辺見庸はつぎのように書く。

 

 白秋だけじゃない、上は茂吉から下は無名歌人まで、みんながこの手の詩を詠んだのだといえば、そうなのだけれど、おいおい、「かなしきは人間のみち牢獄みち」はどこへ行ったの、と問うてみたくもなる。ちょっと、あんた、「林檎さくさく身に染みわたる」を忘れてしまったの、と。人妻に手をつけて姦通罪でブタ箱にぶちこまれるのは、業さらしかもしれないが、戦争讃歌をみんなでうたいあげるより万倍もましだ。若いころの業さらしで、いささかなりとも地獄を見たことがあるのなら、しかも、それを詠んだことさえあるのだから、口をぬぐって「国挙げて / 奮ひ起つべし」なんていっちゃいけないよ、と私は思う。

 白秋を批判したいのではない。問題は、いまなのだ。景気が悪いくせに、いや、景気が悪いゆえにか、頭に血が上り、気持ちがこれまでになく怒張気味のこの国で、トホホの私的過去をかなぐり捨てて、妙に勇ましくなってしまった物書き、評論家、記者が増えている。今ぞこの秋、国挙げて奮ひ起つべし、みたいなことを、眼を充血させていっている。笑止千万である。俺もあんたたちも、業さらしの昔のほうが、よっぽどましだったのに。

 

 それからまた別の項で、こんなふうにも書く。

 

 無口でとても気の弱い友人の中学教諭が、卒業・入学式を前に、独り衝動的に学校長に会いにいき、緊張でぶるぶる震えながら「“君が代”は歌う自由も歌わない自由もあると生徒たちにいってやってください」と申し入れをしたのだそうだ。校長は満面笑みをたたえ、しかし、瞳は少しも笑わずに応じたという。「みんなで歌うという気持ちが大切です。みんなで歌う感動を生徒たちに教えてやってください。批判は学校の外でやってください」。友人の気合い負けだったようだが、私は彼の勇気を尊いと思う。この種の発声は群れてやるより、つまり唱和するより、へどもどしながらもひとりですることで、発声主体としてはなにがしか得心するものがあるものなのではなかろうか。惨めでひどくつらくはあるけれども。

永遠の不服従のために・辺見庸 (毎日新聞社)

 

 このようなトーンが一貫して、この本には流れている。その感覚において、私はこの作家を信頼する。

 遠くの勇ましいかけ声より、卑近な醜さや愚かさを愛する。声高に国や政を論じるより、トホホの歌を口ずさんでいたい。きな臭い合唱や狂騒めいた高揚の群れには加わらず、業さらしのまま、のらりくらりと生きていってやるさ。

2002.12.17

 

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 チビは泌尿器科にて検査。尿が膀胱に50cc以上溜まると、膀胱が小刻みに痙攣を起こしているという。その痙攣によって膀胱の変形と腎臓への逆流等の危険が起きる可能性があるので、今後は子どもの就寝時間を問わず(ということは子どもが寝ている最中でも)、親が寝る直前と起床後すぐに導尿をして、いわば夜間に尿が溜まるのを防ぐようにと言われた。検査の結果次第では導尿の回数を減らすこともありえたのだが、逆に回数を多くしなければならなくなった。この膀胱の痙攣というのは二分脊椎の子どもの約三割がもつ症状で、それが原因で腎臓障害を起こす子どもも多い。薬で緩和させる方法もあるのだが、うちの子どもの場合はまだ状況的に危険ではないので、なるべくなら薬を使わずに導尿の回数を増やすことによって対処したいということらしい。医師の説明によると、これらの症状は年齢や個人差によっていろいろと変化していくのだそうだ。ちなみに便の掻き出しも、指が届かない部分に溜まっている量が多いようで、これも回数を増やし、経過を見てふたたび下剤などの薬の使用も考えていくことになった。

 検査には和歌山からつれあいの両親も同行して、昼食後、二分脊椎の子どもがよく履いているアシックスの「すくすく」という子ども用シューズが、足の甲部分の下までジッパーで下がるようになっていて履かせ易く、それが阪急百貨店で売っているというので梅田まで出たものの、やはり装具を付けた状態ではうまくなかったらしい。代わりにチビは義父にドナルド・ダックの青い子ども用スリッパを買ってもらい、大満足で帰ってきた。じぶん用のスリッパが欲しかったのだ。スリッパを枕元に置いて、いまは眠っている。

2002.12.17 深夜

 

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 奈良国立博物館で開催中の企画展「一遍聖絵 絵巻をあじわう」を見に行った。舐めるようにしゃぶるようにくわえるように見た。噛んでつまんで吸ってころがした。さいごはこちらがしゃぶられて、イッてしまった。ああ一遍くん、いっぺんあんたといっしょにあんたが見たおなじ風景をおれも歩いてみたかった。あるいはまつろわぬ乞食(こつじき)や日慈利(ひじり)や琵琶法師の形(なり)で物陰から、あんたの踊り念仏をパンク・ロックのように見てみたかった。帰ってからWeb検索でこんな一遍バイク旅の頁を読んで、かつておなじようにバイクで経巡った風景を懐かしく思い出した。そうだ、明日こそはあの素敵なピンクローターを買ってこよう。

 

 古本屋で忌野清志郎「瀕死の双六問屋(光進社・2000年・@1905)を280円で買った。附録の4曲入りオリジナルCDもしっかり付いていて、この値段はめっけもの。解説を町田康が寄せている。“「瀕死の双六問屋」。むちゃくちゃカッコええ。” おれもそう思う。

 で、清志郎のHPがあるのをいまごろ知った。
 地味変 http://www.kiyoshiro.co.jp/

 ついでに町田康のサイトも。
 OfficialMachidaKouWebsite http://www.machidakou.com/

 探せばあるもんだ。さっそくリンクに加えておく。

2002.12.18

 

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 きのうの聖絵にひきずられるように、今日はまた新本にて「一遍上人 旅の思索者」(栗田勇・新潮文庫)を、古書にて「一遍・日本的なるものをめぐって」(栗田勇・鎌田東二等の講演と対談・春秋社)を買った。(ジョージ・オーウェルの「動物農場」の文庫もついでに) 

 栗田勇氏が新潮社から出版した、函入りの三部作「熊野高野 冥府の旅」「一遍上人 旅の思索者」そして「飛鳥大和 美の巡礼」を、私はかつて愛読し、こころ惹かれた。その一冊目、「熊野高野 冥府の旅」を偶然手にしたのは、当時住んでいた品川のJR大井町駅前にあった小さな古本屋だった。旧東海道に面した風呂なしの古ぼけたアパートの部屋で、夜ごと、私はその本によって息をつぎ、救われていた。それから神田の古書店街をめぐり「一遍上人 旅の思索者」「飛鳥大和 美の巡礼」と読み継いでいった。

 バイクで出雲から四国・熊野と経巡ったのも、ちょうどその頃だった。自然、一遍の足跡を辿っていた。岩屋寺の岩窟によじのぼり、次のようなかれの言葉を思い起こしていた。

 

 ....罪障の山にはいつとなく煩悩の雲あつくして、仏日のひかり眼(まなこ)にさへぎらず。生死の海には常時に無常の風烈しくして、真如の月やどる事なし。生を受るにしたがひて苦しみにくるしみをかさね、死に帰するにしたがひて闇(くら)きよりくらき道におもむく

(一遍上人語録)

 

 あのときの私の心持ちと、いまの私のそれは、なにひとつ変わっちゃいない。あいかわらず時化た冥府をさまよっている。そしていままた、私のこころはふたたび一遍と向き合おうとしている。あるいは私が聖絵を見に行ったのではなく、聖絵がこの私を誘ったのかも知れない。

 

 ちなみに「一遍上人 旅の思索者」は、実家に置いてきたために、もういちど読み返したいと思って文庫版を買いなおした。冒頭の一節をひく。

 

 たとえば、熊野をたずねて、山路を急いでいると、黙々と足ばやに歩去ってゆく人々の後姿が、鮮やかに目の前を通りすぎて、姿を消してゆくのである。その者たちは、夜、独り、古書をひもといて想いを先人にはせているときにも、足音をたてて、私のまえを影のように通りすぎてゆく。いったい、この物言わぬ者たちは誰なのか。

 

 一遍聖人絵巻と、その時私はめぐりあったといっていい。それまで、絵巻をみなかったわけではない。熊野や、厳島神社、四天王寺などを調べていると、いつも、当時の古建築の現状を示す基礎資料として、この絵巻があげられていて、じつは、どうして、この一遍という、二流か三流の坊主が、私の関心の先廻りをしているのか、気にかかってはいたが、むしろ、正確な絵巻の建物の構図に気をとられていた。それが、いまみると、建物が消えて、風景のなかを、黙々と歩く一団の男女だけが浮かび上ってきた。私は、そこに、あの、古代から声もなく歩んでいる集団の底流が、地表の流れとなって迸っているのをみた。

(栗田勇・一遍上人 旅の思索者)

 

 あのときともう少し違った角度から、もういちど一遍を見直せるような、そんな気がする。

2002.12.19

 

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 昨日から和歌山より、つれあいの両親が泊まりに来ている。つれあいは今日はチビを両親に頼み、大学時代の友人二人とひさしぶりにおしゃべりをしてきた。JR奈良駅前のホテルで昼食後、古式床しき猿沢池近くの奈良ホテルでケーキ・セットとか。

 きはらさんより予告もなく、(たぶん)岩座神の棚田のお米と古謝美佐子「天架ける橋」のCDが届く。ん、ディラン対訳の報酬にしてはちと多すぎるが。さっそく「援助物資到着」の返礼のメールを書く。思えば私はWebで知り合った方々からもらってばかりだ。何のお返しもできない。

 

 「一遍・日本的なるものをめぐって」の端書きで栗田勇氏はつぎのように記している。

 

 それは、物質性と功利性に溺死しかかっている私たちへの鋭い提言である。一口でいえば、まさに「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた人にふさわしい、「捨ててこそ」という全否定のうえにたつ生命の霊的なトータリティの全肯定の提言である。

 

 聖書にもおなじような記述がある。「じぶんの命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、じぶんの命を失う者はそれを救うであろう」(マルコ 8-35) この不可思議なパラドクス。否定によって、立ち上がってくる肯定とは、いったいどのようなものか。それはエックハルトの言った、闇にこそ宿る光のようなものか。失うことによってしか得ることのできないものというのがあるのではないか。そのとき、まさに見たこともない風景が立ち上がるのではないか。

 「捨ててこそ」とつぶやいてみる。

2002.12.20

 

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 このごろ文字に興味を持ってきたチビのために、声の出るあいうえおの文字盤を義父母がクリスマスのプレゼントに買ってくれるという。駅前の西友になかったので、私がバイクで国道沿いにあるトイザラスという大型店へ見に行く。つれあいはいつものように、クイズや録音など余計な機能の付いたものでなく、ただ文字盤の見やすいごくシンプルなものが欲しいという。クリスマス前で店はげっそりするほど混雑していて、帰りたくなる。ディズニーの手頃な一品を見つけて買って帰るが、喜ぶチビの前で電池をセットしたところ、声がとても判別しづらい。大人たちが目を閉じて聴いても、なかなか当てられないくらいなのだ。これはひどいということで、こんどはつれあいをバイクの後に乗せ、二人で返品に行く。みんなで口々に「これはダメだなあ」と言っていたせいか、チビは目の前のおもちゃが消えても文句を言わない。返品はすんなり受けてもらえた。こんどはつれあいが代わりの品を探すが、欲しいモノがなく、風呂場に貼るあいうえおの表を一枚だけ買って帰る。ひさしぶりに彼女と二人乗りをした。帰り道の、ライトアップされた薬師寺の塔が夜目にきれいだった。帰って鶏の団子鍋をつくった。

 ところで私がひとりでトイザラスへ行っている間、先に西友から帰ったつれあいがトイレに入ったのだそうだ。トイレの中で義母が家から持ってきた臭い消しのスプレーが隅に置いてあるのを見つけて思わず「あ-----」と素っ頓狂な声をあげた。すると居間で義父母と遊んでいたチビが「お母さんがびっくりしてる」とやおら立ち上がり、「大変だ。お父さんがいないのに」と言い捨てて「お母さん。お母さんどこ」と母親を探しに行ったという。頼もしいね。

2002.12.22

 

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 一遍のおもしろさは、ひとつに正統的な仏教からのはずれ方にある。伊予の海民・河野水軍の出であること。西山浄土宗の正統を継ぎながら、空海の足跡で修行し、山岳信仰の匂いを漂わせていること。神道である熊野本宮で啓示を授かったこと。踊り念仏というパフォーマンスを始めたこと。等々。

 「一遍・日本的なるものをめぐって」(栗田勇・鎌田東二等・春秋社)を読んでいたら、「阿弥衣(あみえ)」についての記述があった。阿弥衣というのは一遍たち時宗の宗徒が用いていた十二道具の生活用品で「雨合羽や寝具の代わりあるいは法要のとき」に使う衣服の一種である。

 

 時宗の法衣は従来の中国的,また日本の貴族的な法衣を捨てて,庶民的な服装のなかに法衣を見出した。即ち式正(しきせい)の衣,裳の観念を排した裳なしの衣で,粗雑な繊維の故に網衣(あみえ)と呼ばれ,人の用いるものではないという意味から「馬ぎぬ」とも呼ばれたが,宗団の人は却ってこれを阿弥衣と尊んだ。

http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/busou/13new.htm

風俗博物館 http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/

 

 この阿弥衣が、じつは遠く縄文時代まで遡るというのである。アンギン(編布)とも言い、古くは縄文の遺跡から出土した「カラムシ、アカソ、ミヤマイラクサ等、靭皮繊維を用いて編み上げた布」をさす。その作り方を紹介したこんな頁もあるので参照されたい。

 

 単に一遍の持ち物、そういう宗教的な衣であったということだけではなくて、何か日本の民族的宗教とでもいうべきものをもっていたことの象徴的あらわれと、いっていいかもしれません。

「一遍・日本的なるものをめぐって」

 

 つまり仏教の正統よりはずれていって、逆に日本のさまざまな古層を身にまとっていった。そんなおもしろさが一遍にはある。

 

 今日は昼から自転車で「音楽のおくりもの」と題した市民ホールでの音楽会(500円)へチビと二人で行ってきた。市内の少年少女合唱団と県内の音楽家たちが集い、ヴァイオリン・マリンバ・フルート・ピアノ・ソプラノ独唱・合唱の小品が並んだ多彩な催しである。当初はつれあいが連れていく予定だったのだが、年賀状の宛名書きで忙しく、私におはちがまわってきた。2時から4時まで、約2時間の長丁場だったが、20分ほど(私もそろって)うたた寝した以外は、チビも結構大人しく見ていた。ただヴァイオリンの演奏のとき、片手を首にあてがって真似をし、「シノちゃん、ヴァイオリン教室に行ってるんだよね」と大きな声で言ったのには参ったが。まだ見学だけだろうが、おい。最後はオール・キャストによる「サカナサカナサカナ....の歌」「大きな古時計」、それと「きよしこのよる」。

2002.12.23

 

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 チビはめばえ学園でクリスマス会。市長の挨拶があり、いなり寿司などの昼食、そして園長氏がサンタ役で、それぞれ親子でつくった厚紙製の長靴いっぱいの菓子と絵本のプレゼントを配った。すべて無料である。市長は挨拶のなかで「いま国が助成金を打ち切ろうとしているが、もしそうなっても、市としてはお母さんたちに負担をかけないままでいきたいと考えていますから」と述べたとか。つれあいは他の母親たちといっしょに、親子で手製のゴリラの面をかぶって「ふりふりゴリラ」なる面妖な歌を踊ったそうな。二人で帰ってから、踊って見せてくれた。

 当初は二泊程度の予定だった義父母は明日の午後、病院やめばえ学園、インフルエンザ接種等のすべての年内の予定を終えたチビとつれあいの二人といっしょに、一足お先に和歌山の実家へ向かう。明日の晩からはしばらく、またひとりの生活である。一遍に浸りたい。

 

 彼は、生と死の間で救いを求めず、生と死をともに離れることを目指す。念仏によって救われるか否かを思念せず、信、不信を放棄して、ただひたすら念仏する。

 これを、いま、言葉で言うことは、あるいは易しい。だが、これを行ずることは至難の業であり、かつ、生死を離れることは、只一回離れればすむことではなく、時々刻々、生死を離れ、離れても生死の間にあるという矛盾を生きることであり、また、信、不信を問わぬことは、同時に、不信を抱きつづけることでもある。厳密にいえば、智真(一遍)が、熊野で到達したことは、救いへの到着ではなく、救いの無いことへの男らしい断念あるいは諦念であったといってもいい。だから、この後も、彼の行状や言葉には、みずからの悟りや救いに安住した言葉は一切みあたらない。あえていえば、智真が到達したのは虚無との間断なき闘いの始まりであった。

(栗田勇・一遍上人 旅の思索者)

 

 そして、だからこそ、かれは生涯をひたすら歩みつづけた。「捨ててこそ」と放ちながら、捨て切れぬものをふりほどくように。場所と時が違えば、かれはひょっとしてハンク・ウィリアムスであったかも知れない。ジャニス・ジョップリンだったかも知れない。江戸アケミのように不様に風呂場で死んだかも知れない。一遍の聖絵は、だからかれらの残したレコードといっしょだ。少なくとも私は、そのように絵巻の風景に浸る。

 

 きはらさんに頂いた古謝美佐子「天架ける橋」のCDを、こうして机の前に座れば、毎日のように聴いている。気持ちがスナオな砂粒となって、指の間からさらさらとこぼれおちる。脱穀機でよけいな籾殻を吹き飛ばされて落下する米粒のように、魂が軽やかになって、懐かしいむかしの大地へふわりと降り立つ。ことばが虚しく思えてくる。認識と信仰との間に無限の隔たりがあるように、感じることと論じることもそうなのだと思う。木は感じるが論じたりはしない。私は一本の木のようでありたい。

 音楽というのは、いつもやさしいなあ。人を追いつめたりしない。どうしようもない重荷を、ひと粒の涙に還元してくれる。私は、泣いているのかな。

 

一ぬ橋二橋
(あま)架きる橋や
(さち)立ちゃる夫(うとぅ)
手取
(てぃとぅ)てぃ渡す

(てぃん)に舞い昇(ぬぶ)
あたら母親
(ふぁふぁうや)
残る子孫
(くわんまが)
光給
(たぼ)

(わし)ることねさみ
我親習
(わうやなれ)
(ちむ)に抱ちしみてぃ
浮世
(うちゆ)渡ら

 

一の橋二橋 天に架ける橋よ
先だった夫が 手を取って渡す

天に舞昇る 私の母親よ
残る子や孫に 光を下さい

決して忘れられない 親の教え
肝に抱きしめて 生きていこう

古謝美佐子・天架きる橋

 

2002.12.24

 

*

 

 チビとつれあいは和歌山の実家へ。がらんとした部屋でひとり夕食を済ませたら、特別やりたいこともない。テレビもつけず、呆然と座っている。日々のルーティン・ワークが消えたあとでまざまざと立ち上がってくるもの。それこそが真の実像ではないか。私は、からっぽだ。生きるに値する何ものもない。停止した時間のなかで、薄汚れたぼろ切れのように跪いている。

 

 古謝美佐子の「童神(わらびがみ) 天の子守歌」を聴きながら、ディランの小品 Lord Protect My Child を訳した。「沖縄では物心つくまでの幼児は、純白で何物にも汚されていない、神の魂に近い心を持つ、ということから“童神”と呼ばれる」という。この曲の歌詞は初孫の誕生に際して書かれた。また前掲の「天架きる橋」は、「2日前に亡くなった母トミの遺影の前で夢現つのなか詠んだ琉歌。ちなみに父瑞得は美佐子が4歳の時(1958年)、米軍嘉手納基地内で交通事故死しており、トミはその後40年間、独身のまま、基地などで働きながら3人の子を育てた」(CDのライナーより)

 

雨風(あみかじ)ぬ吹ちん 渡る此(く)ぬ浮世(うちわ)
(かじ)かたかなとてぃ 産子(なしぐわ)花咲かさ
イラヨーヘイ イラヨーヘイ
イラヨー 愛
(かな)し思産子(うみなしぐわ)
泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
(てぃん)ぬ光受きてぃ
ゆういりヨーや ヘイヨー ヘイヨー
高人
(たかっちゅ)なてぃ給(たぼ)

雨風の吹き渡るこの世間
身を楯にして守るから
花を咲かせてね
愛しい我が子
泣くんじゃないよ
天の光受けて
どうか良い子に
どうか立派な子になってね

古謝美佐子・童神(天の子守歌)

 

 コードをさがし、下手なギターで口ずさんでみる。ここにある、素朴な、だが圧倒的な歌の力は何だろう。ぼろ切れのような私は、思わず泣き出しそうになる。それは胸にずしんとくる、まっとうな、単純な、そして失い難い何かだ。私が遠く離れてしまった、言葉ではない何か大事なものだ。

 ああ、ああ、と「千と千尋」に出てくる顔無しのように、声にならぬため息をついて跪く。くずれおちる。

2002.12.25

 

*

 

 見知らぬ土地の鄙びた駅でつれあいと、義父母が帰るのを見送る。電車はなかなか来ない。ひとり駅をはなれて、田圃のなかに建っている大きなガレージのようなさびれたレコード屋へぶらりと入る。店内にチャボのラジオ番組が流れていて、お、ここならチャボの新譜もあるに違いない、と棚を探すが置いていない。がっかりしたところで目が覚めた。チビのケロッピーの掛け物にくるまっている。

 きはらさんの日記にリンクしてあった「生から死へ」という文章を読む。こういう夢の話はほんとうだろうなあ、と思う。なぜか懐かしい感覚をおぼえる。この人は天理教無教会派というサイトを開いていて、天理教の信者でありながら、組織としての教団を批判・批評する文章を公開している。キリストはキリスト教徒でなく、ブッダも仏教徒ではなかったということだ。

 HPといえば、しばらく前からこんな毒舌サイトを時おり覗いて愉しんでいる。狩人〜ラブチャットログ〜というのが結構面白くて笑える。

 本屋に注文していた倉多江美のマンガ「お父さんは急がない」が届く。ひさしぶりの新刊。万年四段でうだつのあがらぬプロ棋士(碁打ち)の父親とその家族の飄々とした日常。相変わらずいい味を出していて、肩がほぐれる。こんな父と娘になりたいけれど、私のキャラじゃ無理か。続刊もあるよ。

 京都の信金に立てこもっていた犯人が投降した。NHKの報道では70年代には南ベトナムにいて、匿名で本も出版しているとか。ちょっと面白そうなおっさんだ。バブルの9.11テロみたいなもんか。

2002.12.26

 

*

  

I'm tired Joey Boy
While you're out with the sheep
My life is so troubled
Now I can't go to sleep
I would walk myself out
But the streets are so dark
I shall wait till the morning
And walk in the park

This life is so simple when
One is at home
And I'm never complaining
When there's work to be done
Oh I'm tired Joey Boy of the makings of men
I would like to be cheerful again

Ambition will take you
And ride you too far and
Conservatism bring you to boredom once more

Sit down by the river
And watch the stream flow
Recall all the dreams
That you once used to know
The things you've forgotten
That took you away
To pastures not greener but meaner

Love of the simple is all that I need
I've no time for schism or lovers of greed
Go up to the mountain, go up to the glen
When silence will touch you
And heartbreak will mend.

Van Morrison・I'm tired Joey Boy ,1989

 

おまえが羊をつれて出ていっているあいだ
ジョーイよ わたしはくたびれてしまった
つらい思いばかりで
眠ることもできない
ぶらつきたい気分だが
そとはあんまり暗いから
朝まで待って
公園を歩いてくるよ

家にいれば
すべては単純だ
仕事もあるし
文句はないさ
だがジョーイよ 人間というものに疲れてしまったんだ
もういちど元気になりたいんだよ

野心はひとを
はるか遠くまで運んでいって
保守的傾向が倦怠へとつれもどす

川辺にすわって
川の流れを見つめる
かつては明瞭だった夢が
よみがえってくる
忘却がおまえを
痩せてみすぼらしい牧草地へと
連れ出したのだ

まっすぐな愛 それだけでいい
分裂や男女の貪欲に関わっているひまはない
山をのぼり 谷をのぼり
静寂に触れたら
このかなしみも癒えるだろう

 

2002.12.27

 

*

 

 午からエリコさんへ荷物を届けにいく。頼まれていたフランチェスコの映画のビデオと、古謝美佐子「天架ける橋」のCD。年末で忙しいだろうからと、黙ってポストに放り込んでくる。帰りに立ち寄ったブックオフで、めっけもの。Staple Singers のevangelist パパ、Pops Staples の1992年のソロ・アルバム Peace To The Neighborhood が500円で。Ry Cooder や Jackson Browne、Bonnie Raitt、それに娘の Mavis Staples などがゲスト参加している。へえ、こんなのが出てたのか。他にこれも注文しようかと思っていた倉多江美の「顔色が悪い ! 」(小学館)も100円で。なんてスバラシイ古本屋なんだ。やっぱり高級住宅街は客層が違うのか。

 

 夕刻に帰ってから急いで夕食の餃子をつくり、薬師寺・唐招提寺の近くにある三松寺へ座禅に行く。以前に何度か行ったことがあるのだが、子どもが出来てからはご無沙汰になっていた。前のアパートよりぐんと近くなって、バイクでほんの15分ほど。この寺では毎週土曜の夜7時から座禅を行っていて、誰でも無料で自由に参加できる。かなり立派な道場で40分座禅をし、それから10分ほど呼吸に合わせて半歩づつ場内を回り、ふたたび40分座禅のセット。久しぶりだったので足が痺れたこと。いつもそうだが、はじめの40分は姿勢も窮屈、頭の中は雑念ばかりで落ち着かず苦しいばかりなのだけれど、二巡目からは不思議と呼吸と体と頭の中がしっくりと合ってきて、とてもいい感じになってくる。「外の物音も体のもろもろの感覚も頭に浮かんでくる雑念も、そのまま放っておけ」と背後で声が言う。そう。はじめの40分はそれらと格闘していて苦しいのだ。それがいつのうちにか、しずかにやり過ごせるようになる。そんな感じだろうか。座禅は深い呼吸を用いて体の感覚と頭の中を掃除するようなものだ。終わったあとは、3千メートルの山塊を覗いてきたような、どこか晴れ晴れとした気持ちになる。

 ところで三松寺では、大晦日の夜10時から元旦の朝3時にかけて「徹宵坐禅」をする。常連のおじさんの話では座禅の後、年越しそばを頂き、鐘をつき、御神酒を頂いたりするのだそうだ。つれあいの実家行きをすこし遅らせて、私も参加しようかなと思ったり。どなたか美人の独身女性の方、私といっしょに夜明けの御神酒を飲みませんか。

2002.12.28

 

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 昨日はほぼ半日かけて、PCにたまっているディランの海賊音源(mp3)をCDに焼いて整理した。前々からやりたいと思っていて、設定がメンド臭そうで放ってあったのだけれど、やってみたら以外とカンタン。かくして私がかつて、新宿の怪しげなマンションなどで数千円を出して入手していたブートレッグがロハで立派にできあがった。こういうとき、PCとインターネットというのは凄いモノだと感動する。ついでにザ・バンドの英語サイトで、これまた貴重な音源を発見してしまい、せっせとダウンロードした。すっかりオタクである。

 昼は納豆たまごご飯とひじき。夜は白菜としいたけのあんかけ丼。夜食にチキンラーメンのそばめし(あまり旨くなかった)。

 深夜に「日本の黒い夏」という、例の松本サリン事件での冤罪を描いた映画をテレビで見た。地元の高校生の取材を受け、事件をふり返りながら、テレビ局のスタッフが自身の報道姿勢を反省していくといった内容なのだが、何やら優等生というか、きれいすぎる映画のようにも思えた。それなりに面白くはあったのだけれど。そういえば私が拙いHPを立ち上げた当初、そのコンテンツは音楽評・書評・映画評という平々凡々な三本立てであったのだが、ある日遠くの友人より「なんだよアレ、映画評ってテレビでやったやつばっかじゃん」と言われ、映画評のページはわずかひと月で消滅したのであった。

 

 明け方、寝しなに読んだ「一遍上人」の一節より。

 

....しかし、中世になって、人々が気づいたのは、老、病、死、苦、地獄の前で孤独な自我の存在であった。自分を支えるにたる現世のいかなる体制もない。もはや水平線上には、自分と心を通わすものの影もない。人は眼を内なるものへと向ける。そこにみえたのは、天上と奈落だった。こうしてはじめて、人はおのれを水平線上にではなく、垂直線の上にあるもの、滅びと救いの中間にあるものと自覚するにいたる。このような位置におかれた人間にとって、愛もまた、水平線上にいくつもあるものではなく、永遠にして絶対的なものとしてとらえられる。こうしてはじめて肉にとじこめられていた性愛は、感性のなかにとき放たれるにいたるのである。中世が暗黒と悲惨の時代であるとともに、激しい感動的な愛の時代でもありえたのはそのためである。性愛は、中世にいたって、はじめて、感性の愛に変身したからだ。中世の新興宗教もまた、この内面の垂直線的な志向に、絶対への渇きに答えたものであり、それを、感性と行動によってとらえた一遍時宗の特徴がエロス的だといえるのはそのためなのである。現実的ということが、はげしい厭離穢土(おんりえど)につながる逆説もエロス的だといえる。

(栗田勇・一遍上人)

 

 ああ、リチャード・マニュエルが聴きたい。残されたレコードではなく、かれの生の声が聴きたい。いま地上に生きて在る者ではなく、悲しげにこの地上を立ち去っていった者、地上の一切は「大いなる神の瞬き」だと信じていながら手をはなしてしまったこころやさしき者の、かつてと変わらぬ声を聴きたい。いまもその声が聴こえてくる場所へ行きたい。

2002.12.30 

 

*

 

 つれあいから電話があり、チビが肺炎にかかって和歌山の病院に入院することになったというので、これから着替えなどを持って行ってくる。

2002.12.30 pm3.15

 

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 30日は6時半頃、病院へ着いた。さすがに師走の夜はバイクでは寒い。部屋は個室で、チビはむくんだ顔を上気させ、腕に点滴をつけてベッドにいた。前々日の夜から40度の熱が出て、翌日、和歌山市内の緊急病院で風邪の処方をしてもらったのだが、熱が下がらないので念のためもう一度この病院へ来たら、すぐに入院をした方がよいと言われた。検査の結果は、RSウィルスによる肺炎である。実家へ行く直前にこちらの小児科でインフルエンザの2回目の予防接種をしたのだが、その際、待合室で2時間半も待たされて、医者はおそらくそのときに感染したのだろうと言う。このウィルスはふつうの風邪をこじらせた肺炎よりタチが悪く、乳児だと重体になる場合もあるらしい。

 30日は付き添いをつれあいに任せ、夜は彼女の実家で泊まった。実家から隣町の病院まで、車で20分ほどの距離である。31日、弁当を持って朝から行くと、チビは熱も37度代まで下がり、元気になっていた。その晩は私が交代して病院に泊まった。点滴で水分を入れているので、おしっこがふだんよりも多く、夜中も3時間おきに導尿をしなくてはならないのである。復調したチビは夜中まで本を読めだのカイモノに行きたいなどと言って手こずらせ、このまま治ってしまうのかと思われた。ところが1日の朝からふたたび熱が40度にあがり、昼間もこんこんと眠りつづけた。食事もほとんど口をつけない。点滴も電解質の何やらが増やされ、それから肺の機能が落ちているためだろう、血液中の酸素濃度が低いというので、濃縮酸素を煙状にして送風するパイプを顔の上に吊って常時吸わせることになった。

 医師の話では、現在のところRSウィルスに有効なワクチンはなく、点滴によって水分を補給して脱水症状になることを防ぎ、抗生物質で他の感染を防ぎ、また栄養を補給し、あとは患者自身が体内で抗体をつくっていくのを待つしかない、と言う。入院早々、大きな注射を2本も打たれ、点滴の針を刺され、採血をされ、チビはすっかり病院が嫌になっていた。何より嫌いなのは呼吸を楽にさせるために鼻の穴深くに管を突っ込まれて鼻水を吸引される機械で、まさに絶叫して全身で抗うのを親が懸命に押さえつけて行われるのである。これが毎日4回ほどあり、見ているこちらも可哀相になってしまう。どうしてもやらなくてはいけないのかと看護婦に問うが、必要な治療ですからと答えられたらこちらも返す言葉がない。チビは病室のドアのガラス越しに人の影が映っただけで怯えるようになった。そしてすっかり母親にべったりになった。常に母親がそばにいてやらないと不安で、父親ではダメなのである。私が泊まった夜にも「お母さん、すぐにくるよねえ」と泣き出しそうになったり、挙げ句は「お父さん、帰って。お母さんがいい」なぞと言われてしまう始末で、これはやはり体細胞を共にした深い本能のなせる業で、私はこれを勘定に入れたら、山や土俵に入れないくらいの女性差別は在っても当然ではないかとさえ思えてしまう。

 次の日の朝早く、病院のつれあいから電話が来た。明け方に目を覚ましたチビが錯乱状態で、母親の顔も分からないのだという。看護婦が医師の自宅に連絡し、朝からCTスキャンをとることになった。つれあいも混乱し、泣いているようだった。急いでバイクで実家を出た。海沿いの道を80キロで飛ばしながら、まさかこのまま死んでしまうのではないだろうな、と思って涙が出てきそうになった。死ぬなよ、と思いながらバイクを走らせた。病院へ着くと、チビはもうだいぶ落ち着いているようだった。医師の話では、深い睡眠から急に起こされたために一時的なパニックになったのだろう、と言う。CTも必要ないとされた。この頃がいちばんピークであったように思う。翌日から熱も下がりはじめ、ほとんど口にしなかった病院食も少しづつ食べるようになり、点滴の量が減らされ、抗生物質が抜かれ、酸素吸入の機械も止まり、鼻水の吸引も回数が減らされた。チビの風邪がうつったのか、一時は38度の熱で子どもと仲良く伏せっていたつれあいの体調も徐々に快復してきた。また点滴こそ続いていたが、呼吸の音もすっかりきれいになり、退院もじきだという医師の診断を聞いて、5日の午後に私だけひとり奈良へ戻ってきた。帰り道はときおり、小雪がちらついていた。

 というわけで、新年といっても今年は明けたのやら何やらほとんど実感がない。和歌山へ着いた日、「正月をいっしょに過ごしたいと思って、紫乃があんたを呼んだのかも知れないよ」と義母が私に言ったけれども、あるいはそうなのかも知れない。そして深夜の病室で私は、栗田勇氏の「一遍上人」を読了した。

 

追記  明日の退院が決まったと、つれあいから電話があった。もうしばらくは向こうの実家で静養させる予定。

2003.1.6

 

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 病院のベッドにいる子どもがじぶんの絵本を読み飽きて、お母さんのご本がよみたい、と言い出した。金井田英津子氏の幻想的な版画で飾られた漱石の「夢十夜」。つれあいはその第一夜を読んで聞かせた。百年たったら会いにくる、と言い残して死んだ女を待つ男の話である。男は百年を待ち、やがて女を埋めた地面に百合の花が咲き、その真っ白な花弁に接吻をする。子どもはひとこと、こわいねえ、と言った。

 

 蜜柑のつまったダンボール箱が玄関先に置いてあった。それを茨城のお母さんのとこへ送っちゃろかと思ってね、と義母が言う。近所に住むつれあいの小学校のときの同級生の母親が持ってきたのだそうだ。その同級生は就職をして数ヶ月後に自宅で首を吊って死んだ。父を早くに亡くし、妹が大阪にいるがあまり帰ってこないので、母親は正月もひとりで過ごす。手入れをしていないので、じぶんの畑の蜜柑の木も少しづつ枯れてきた。毎年お盆にお供えをしているつれあいが帰っていると聞いて、実を選ってきたのだろう。そんな蜜柑はどんな味がするのだろうか、とふと思った。

 

 よく眠っている子どもの顔を確かめて、煙草を吸いに病室を出た。深夜の病院の廊下はどこか虚ろで、夢の中を歩いているような気がする。暗い階段を下りて、手術室の前に出た。こつこつと足音ばかりが響く。夜間の出入り口からおもてへ出て、煙草に火をつけたとたん、どこか遠くの方で除夜の鐘が鳴り始めた。病院の正面玄関の古びた通りを、初詣の人影がまばらに歩いている。みな着物姿で、猫の顔をしている。藤白王子へお詣りに、と猫のひとりが言うのである。ことしも鳥居の下で御神酒を呑んで、とべつの猫のひそひそ声も聞こえた。煙草を二本吸って、病室へもどった。 

2003.1.7

 

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 山田洋次監督の映画「家族」(1970年)は、長崎の小島から北海道の開拓村へ、電車を乗り継いで日本列島を縦断する家族の数日間を描いた秀逸なロードムービーである。その映画のなかで、具合の悪くなった赤ん坊を抱えて夜の東京の街をさまよい、あちこちの病院で断られた挙げ句に子どもが死んでしまうという場面があった。そういうものが、子どもをもって、いまではさらに切実に感じられる。

 昨夜のNHK「クローズアップ現代」で、そうした緊急医療の現場で小児科医が不足しているという話を見た。岩手である夫婦の赤ん坊が夜中に具合が悪くなり、市内にある三カ所の緊急病院に電話を入れるが、一カ所は電話に出ず、二カ所は眼科医と外科医の当直しかいなかった。赤ん坊は結局、その外科医の診察を受ける。40度を越える高熱の赤ん坊を見て、外科医は自宅の小児科医をポケット・ベルで呼び出すが応答がなく、仕方なくじぶんで治療をする。高熱や下痢・嘔吐の場合、脱水症状というのが小さな子どもにはいちばん危険なのだが、それをサポートする点滴は乳幼児の場合、流す量などが専門医でないと難しいのだそうだ。外科医はとりあえずの応急処置でブドウ糖を注射し、赤ん坊を帰宅させた。そして翌朝、赤ん坊は発熱による脱水症状のために死亡した。点滴をしていれば助かったのである。

 番組のなかで、全国の緊急医療(小児科医)体制の整備状況というのが県別の地図で示されていたが、未整備の地域がかなり多く、幸い奈良県は整備済みとなっていたが、つれあいの実家のある和歌山県は未整備地域であった。今回の年の瀬のうちのチビの入院に際しても、つれあいの従兄弟たちが車を出してあちこち病院を探してくれたわけだが、下手をすると岩手のケースの二の舞になっていた可能性もなきにしもあらずである。

 改善策としては、病院間の垣根を越えた連携・役割分担といったネットワークづくり(熊本の一例)と、小児科医を増やすというのが二つの大きな柱であるように説明されていたが、小児科医のなり手というのは年々減ってきていて、これは何故かというと子どもの診療は手間がかかるので回転が悪い、つまり実入りが少ない。あるいは医療事故があると補償が大変だとか、少子化で将来性がないとかで、医学生の多くが小児科医への「選択意思がない」と答えているとか。って、行き着くところはやっぱり金(money)なんだよね。この国に相応しく。

 そりゃ、医者だって人間だ。しかし他の医師からネットワークへの参加を求められて「じぶんの時間がなくなる云々」のぼやきを言う姿を見ていると思わず、司馬遼太郎の「花神」の主人公である蘭学医・大村益次郎(村田蔵六)が言った「己を滅して人の命を救う覚悟のない者は医者になるべきではない」という言葉が思い出されたりするのである。

 というわけで和歌山から帰ってから、私も遅ればせながら役所のHPなんぞで地元の緊急病院などをチェックしたのであった。それと、やはり自家用車の必要性というものを痛感した。

 

 最愛のチビは昨日、めでたく退院して、夜につれあいから電話がきたのだが遊びに夢中で、「お父さんだよ、お話する?」とつれあいが受話器を向けても「いんない」だって。

2003.1.8

 

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 昨年 Y さんにダビングしてもらった、NHKの「エンデの遺言」(1999年制作の本編と、2年後にそれを引き継ぐ形で坂本龍一が案内人として制作された続編2篇を含む3本分) をやっと見ることができた。本編の冒頭で、エンデさんは次のように語りはじめる。

 

 そこで私が考えるのは、もう一度貨幣を実際になされた仕事や物の実態に対応する価値として位置づけるべきだということです。そのためには現在の貨幣システムの何が問題で何を変えなければならないかを皆が真剣に考えなければならないでしょう。人間がこの惑星上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いだと私は思っています。重要なポイントはたとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と株式取引所で扱われる資本としてのお金は2つの全く異なった種類のお金であるという認識です。

 

 おなじ内容だけれど、お金についてのエンデさんの発言で私がもっとも強く印象に残っているのは、たとえば次のような比喩だ。私はこれまでも、この話をさまざまなところで引用してきた。

 

 ある人が西暦元年に1マルクを預金したとして、それを年5%の複利で計算すると、現在その人は太陽とおなじ大きさの金塊を4個分所有することになる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の財産はどのくらいになるか。驚いたことに、1.5メートルの金の延べ棒1本にすぎないのだ。この大きな差額の勘定は、いったい誰が払っているのか。

 

 それから、次のような言葉もまた。

 

 お金は社会の中を循環する血液のようなものであり、それが資本としてたまるのは、本来病気と考えなければいけない。

 

 本来量としてとらえられないものが、量として考えられて、そのものの価値がまるごとうばわれる。

 

 お金というのはそもそも交換手段にすぎなかった。それがいつのまにかお金自体が価値を持ち、貯えられるようになった。そして利子というものができて、交換価値から離れ、無限に増え続けていくものとなった。番組のなかでも出てくるが、現在、世界中のほんのひとにぎりの人たちが巨大な資本を独占している。かれらは先の比喩でいえば「西暦元年に1マルクを預金した者」だ。そしてその代価を払っているのが、ろくな食事さえ出来ないようないわゆる第三世界と呼ばれるところの人たちである。この世の中には二種類のお金がある。そのことが混乱と分裂を引き起こしている。ディランが World Gone Wrong のライナーで「利息のために金を貸すなんてむかむかしてぞっとする」と書いているのも、そのような感覚だ。自然界のすべてのものは時の経過によって劣化し消えていくのに、お金だけが無限に増え続ける、とエンデさんは言うのである。そしてお金という量によって、「本来量としてとらえられないもの」までもが換算され、「そのものの価値がまるごとうばわれる」。それが私たちがいままさに目の当たりにしている世界の現実ではないか。

 エンデさんの「モモ」のなかで、町の人々に貴重な時間を時間銀行に貯えるようにそそのかす「灰色の男たち」にとっては、計算・計量・測定できるもののみが現実的で価値のあるものにすぎない。人々は時間を貯えることによって、逆にせかせかと忙しくなり、ゆとりを失っていく。そしてモモは、その対極にある「全一なる存在」として描かれている。お金に換算できないもの、量として測れないもの、第三の何か、を湛えた存在として。

 エンデさんが注目したのはシルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell、1862〜1930)という人が1916年に刊行した「自然的経済秩序」という一冊の本であった。ゲゼルは「お金は老化しなければならない」とういうテーゼを立て、また「お金は経済活動の最後のところでは、再び消え去るようにしなければならない」と考え、新しいお金の在り方を提示したのだった。

 

 つまり、例えていうならば、血液は骨髄で作られて循環し、役目を終えれば排泄されます。循環することで肉体が機能し、健康が保たれているのです。お金も、経済という有機組織を循環する血液のようなものだと主張したのです

 

 ゲゼルの考えは継承され、やがて世界中のあちこちで実践されていくことになる。番組の後半ではその新しいお金、地域通貨のさまざまな試みが紹介されていく。このお金には利息というものがない。いやむしろ持っていると価値が下がるので、人々は積極的にそれを使い、お金は町中を血液のように循環していく。どこにも貯まらない。貯める人もいない。詳しい内容は後述するサイトなどをぜひ読んでいただきたいが、そこから浮かび上がってくるのは、貯まるお金は人と人との間に争いや分裂をもたらすが、循環するお金は人と人との間につながりをもたらすという光景、そのかすかな予感のようなものである。

 

 参考になるサイトをいくつかここにあげておきたい。

 「エンデの遺言」 http://www3.plala.or.jp/mig/will-jp.html は、個人のサイトだが番組の内容を丁寧に再現したページで、ぜひ併せて読まれたし。

「エンデと金融経済」 http://www.fsinet.or.jp/~necoco/endekinyuu.htm は、うちのサイトからもリンクしている森陽子さんのミヒャエル・エンデ館から。

そして貴重なビデオを提供してくれた Y さん地域貨幣についてのページ http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/kahei.html。

 

 また次の関連書籍も出版されている。

●「エンデの遺言 根源からお金を問うこと(河邑厚徳+グループ現代・NHK出版 2000)

●「エンデの警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来(坂本龍一+河邑厚徳 編著・NHK出版 2002)

●「パン屋のお金とカジノのお金はどう違う? ミヒャエル・エンデの夢見た経済・社会(子安美知子 監修、廣田裕之 著・オーエス出版社 2001)

 

 そしてこの番組は多くの人にぜひ見てもらいたいので、もし希望する人がいたらビデオをお貸しします。連絡下さい。

 

 アフガニスタンの戦争やテロやオウムの事件などとおなじように「自明なるもの」として、お金の問題がある。私たちはいまこの「自明なるもの」を、ほんとうにその根源から問い直し考え直すときに来ているのではないか。エンデさんは、もうこの世にはいない。だからこれらの言葉はかれが、生きて在る私たちひとりひとりに残していってくれた「最後の遺言」である。私たちは、この心やさしき見者の遺言を、真摯に受けとめるべきではないだろうか。

 

 今日のシステムの犠牲者は、第三世界の人々と、自然に他なりません。このシステムが自ら機能するために、今後も、それらの人々と自然は、容赦なく搾取され続けるでしょう。このシステムは、消費し、成長し続けないと機能しないのですから。成長は無から来るのではなく、どこかがその犠牲になっているのです。歴史に学ぶものなら誰でもわかるように、理性が人を動かさない場合には、実際の出来事が、それを行うのです。私が作家としてこの点でできることは、子孫たちが同じ過ちを冒さないように考えたり、新たな観念を生み出すことなのです。そうすれば、この社会は否応なく変わるでしょう。世界は、必ずしも滅亡するわけではありません。しかし、人類はこの先、何百年も忘れないような後遺症を受けることになるでしょうでしょう。人々はお金を変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間が作ったのですから

 

 

 ところで番組の最中、坂本龍一の手元のPCに寄せられたアンケートの紹介場面で、知り合いの Iさんがみずからの肉声で登場したのにはびっくらこいた。

2003.1.8 深夜

 

*

 

 実家のチビの具合は良好のようだ。というか一人だけ元気で、つれあいはなかなか体調が回復せず、義母も義父も風邪気味という状況らしい。二人が戻ってくるのは、もうしばらく先になりそうである。さみしいねえ。私は、骨抜きされた秋刀魚のような日々である。チビとほんの少し電話で話をする。実家では、ドアホンが鳴ると「だれだろ-」とバアちゃんの後を颯爽とついて出ていくのだという。ちょうど私がつれあいと話しているときも近所のおばさんが来ていたようで、「あ--、たのしかった」と戻ってきて、第一声が「エビ、もらったよ」であった。

 

 

 古い文化が残る世界のどの町でも、その中心には、聖堂や神殿があります。そこから秩序の光が発していました。今日では大都市の中心には銀行ビルがそびえ立っています。私は、『ハーメルンの笛吹き男』をヒントにした最新のオペラで、お金があたかも聖なるもののように崇拝され、祈りの対象になっている姿を描きました。そこでは、『お金は神だ』とまで、誰かがいいます。なぜなら、お金は奇蹟を起こすからです。お金は増え、しかも、永遠不滅という性質があります。しかし、お金というのは、神とは違って、人間が作ったものです。自然界に存在せず、純粋に人間によってつくられたものがこの世にあるとすれば、それはお金です。だから、歴史を振り返るということが重要なのです。

(ミヒャエル・エンデ 「エンデの遺言」より)

 

 あの番組のなかでは、地域通貨の稼ぎだけで暮らしているよそから流れてきた青年がいた。事務所の屋根裏部屋を間借りし、かれは庭の掃除や、畑の手伝いをし、屋根裏で地域通貨と交換する手製のパスタをつくる。また政府の対外政策に反対だから地域通貨を使うと言うアメリカの女性もいた。スウェーデンだったか、何十年も昔に金利のない銀行を考えた人がいた。かれは貧農の出身で、はじめに小さな土地を買い、開墾して耕した。次にまた借金をして土地を買い、開墾して耕した。耕したばかりの土地は収穫が少なかったから、そのうち利子の払いが膨らんで生活が圧迫されたとき、かれは考えたのだそうだ。おれは荒れた土地を開墾して豊かな畑にしているのに、なんでこんな目に合わなきゃならないのか、と。かれが創立した銀行で、無利子のローンを組んで町の郊外に土地を購入し、有機農業を始めた家族がいた。町の一人が言う。土地は放っておくと痩せて荒れるだけ。だからエコ・バンク(無利子の銀行)はこの町の環境にも役立っている。大手の銀行にお金を預けてわずかな金利をもらうのもいい。けれどエコ・バンクへ預けた私のお金は、目的をもって、この地域のために使われ役立てられる。

 地域通貨、あるいは利子のつかないお金というのは、貨幣経済に倫理を取り戻す試みだ、と誰かが言っていた。たとえばここにふたつの融資先があったとする。ひとつは熊野の荒れた植林を整備したり山の原生林を蘇らせるための事業で、実入りは少ないし、収益があがるには50年、100年単位の時間を辛抱しなくてはならない。もう一方は、そう、何でもいいけれども、バブルの日本でいえば土地転がしとか巨額な利益を即座にもたらすマネーゲームの類だ。50億の金が、明日には100億になる。さて、ふつうの銀行ならいったいどちらに金を融資するだろうか。もちろん後者に決まってる。回復した山の自然などというものは、金にはならないからだ。だが実体のないマネーゲームに投資した後者の金が世界に分裂をもたらし自然環境を破壊し、まわりまわって結局は最後にじぶんの首を絞めるということがかれらには想像できない。実体のない金を生み出す銀行の仕組みを「信用創造」というのだそうだ。(「やきもので知る経済学」http://www.yakimono.net/yomimono/keizai/keizai12.htm ) そうして無限に増殖するお金が奇蹟を起こし、人々を果てのない欲望へと駆り立てる。まさに世界中の町の中心に銀行が聖堂の如くそびえたち、金という輝かしいばかりの秩序の光を発している。それはコマーシャルが人の心に浸透するように、金にならないものは無価値なものなのだと電波を発し続ける。一方それに叛逆した若者たちはその電波から逃れるように、おなじように奇怪なヘッドギアをつけてショーコーの讃歌を反復する。いらねえじゃねえか、そんなもん、どっちも。なんでもっと単純に考えられないのか。どうしてもっとシンプルに生きられないのか。生きるのにそんなに沢山で複雑なモノが必要なのか。戦闘機が買えるくらいのはした金なんて、おれはいらないよ。

 

 昨夜、部屋の灯りを消し、布団にもぐり込み、枕元に置いたCDラジカセでディランの Good As I Been To You をずっと聴いていた。1992年に出た、27年ぶりの全曲アコースティック弾き語り、そして全曲古い伝承曲ばかりという内容の異色アルバムである。ここには不思議なある種の心地よさ、いまでは失われてしまったある素朴な感情が、ざらざらとした手触りの中で奇跡的に再現され、確かに脈打っている。それは島流しにされた船乗り歌や、浮気をして恋人に撃ち殺された男の歌や、恋に落ちた山賊や、“つらい時代はもうたくさん”と戸口で立ち尽くす者の歌、人々がほんとうの生命のなかに生きていた時代、「足を八方に広げて寝そべっているタコみたいにすべてのことが組織の一部になって」しまうずっと以前の歌たちだ。かつてディランは、こんなことを言っていた。

 

 ....偉大なフォークと偉大なロックンロールをもう聴くことはできないかもしれない。馬車がもうなくなってしまったようにね。確かに、馬車の方が車より魂がこもっていた。目的地に着くのに時間はかかったし、途中で殺されてしまうこともあったけれども。

 

 そしてまた、1998年にかれ自身が企画した偉大なヨーデル男 Jimmie Rodgers のトリビュート盤に附されたライナーのなかで、かれは次のように記している。

 

 ....このアルバムによって人々をかれの時代へと引き戻し、われわれがどれだけ遠くへ来てしまったかをじぶんの心で感じて欲しいと思う。かれの声はわたしたちの頭の中にある荒野だ..... ボリュームをあげることによってのみ、人は自らの運命を決めることができる。

 

 ディランの Good As I Been To You は、そういうアルバムだ。かれが生ギター一本で見事に再現してみせたのは、そのようなある種のエモーションだ。素朴な、道しるべだ。苦痛の墓標ともいえる。私はこのアルバムを、闇の中で、明け方まで何度もくり返して聴き続けた。つまり何を言いたいのかというと、マネーゲームで億単位の金を儲けるよりも、きっと私の魂はこんなささやかな一枚のレコードを欲している、という事実だ。そしてきみもきっと、ほんとうは私とおなじ気持ちじゃないかということなのだ。そうだろう?

 

 ところで話はがらっと変わるが、上の写真(http://theband.hiof.no/band_pictures/hideki/el_nude_girl.html)。いいでしょ。これは説明にもあるが、ザ・バンドのデビュー・アルバム Music from Big Pink のジャッケット撮影の一場面で、メンバーがあまりにも固くなっていたため、友人の奥さんがヌードになって場の雰囲気をやわらげたというもの。私はこの写真、好きだなあ。ヌードになった奥さんもチャーミングだけど、それを前にしたメンバーの様子がそれぞれの性格をよく表しているようで面白い。左から、リック・ダンコはストレートに「うひゃぁ」ってな感じだし、レボン・ヘルムは酸いも甘いも知った大人の沈着さ、中央のリチャード・マニュエルははじめて女性の裸に遭遇したうぶな中学生みたいに直立しちゃって、ロビー・ロバートスンは曖昧な笑みを浮かべ、ガース・ハドソンは牧師のように手を前に組み微笑している。これは古き良き時代、そしてたぶん、ザ・バンドがみんなほんとうに幸福だった頃の写真だ。

 

 最後に、先日の「エンデの遺言」の感想を、さっそく榎並和春さんが書いてくださった。「画家 榎並和春」(http://www.kis-net.ne.jp/~enami/) の中の“日々好日”(609) 

2003.1.10

 

 

 

 

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