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 「悲しきかな、悲しきかな、いかがせん。ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつわ物にあらず」と法然は嘆息し、「悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり」と親鸞はつぶやき、「人間の偉大さは人間がみじめさなるものと知ることにおいて偉大である。樹木は自己をみじめなるものとして知ることができない。それゆえに自己をみじめなるものと知ることはみじめである。しかし自分がみじめであるということを知ることは偉大である」とパスカルは言う。

 

 通常、われわれ人間の生命力は、みずからの発する光によって世界を照らし、秩序づけ、意味づけている。だが、ひとがひとたび、何かに挫折感を感じたり、重い病にかかったり、また死に直面したりするとき、これまでの生命力の発した光によって照らし出された眼前の世界は、実在性を失い、無意味化してしまう。つまり、イメージや意味の凝縮力である生命力の衰退によって、自分を中心に秩序立てられている見慣れた世界の風景は解体され、無意味化するのである。そのとき、われわれの自我は、おのずと存在根拠を失って、自己の足元に底無しの虚無の深遠を見るのである。

(術語集・中村雄二郎)

 

 だが、エックハルトは「光は暗きに照る」と言う。「すべてが神を通過して人間に与えられているのであるから、人が何かの原因で悩み悲しむということは、それ以上に神が悩み苦しんでいることである。だからこそ“その苦悩そのものが当然神的な色を帯び、恥辱は名誉、苦しさは甘さとなり、暗黒の闇も光り輝く光明となるであろう”(教導説話)」 ここにはいわば、逆転の価値観がある。とめどなく堕ちていった底が、崇高なる山の頂であったというのである。そのとき、かのネイティブ・アメリカンたちの聖なるサン・ダンスのように世界の座標軸は反転し、そのとき、蔑まれてきた者たち、追い出されてきた者たち、一処不在の境涯に身をやつしていた者たちのすべては浮上し、巨大な蓮の一花となって麗しき芳香をあたり一面に放つことであろう。

 

 レコード屋の試聴コーナーで、ジョニー・キャッシュのトリビュート盤に収められたディランの Train Of Love を聴いた。曲の出だしに珍しくディランは例の性急な口調でジョニー・キャッシュに熱っぽく語りかけ、それからギターをかき鳴らして素晴らしい演奏を聴かせてくれた。あのざらついた、メタリックな輝きに満ちた、黄金のサウンドだ。どこのファースト・フードの店で頬杖ついて呆けているんだ、おれは相変わらずこのぼろ馬車に乗って突っ走っているぜ、とでもいったようなサウンドだ。山岳を駆け抜ける行者のような音だ。あの伸びやかで自由な、風の吹き心地だ。列車よりも馬車の方がいい。たとえ途中で殺されてしまうことがあったとしても。

 私は、負けない。

2002.10.24

 

*

 

 Y さんにお借りした「引き裂かれた声 もうひとつの20世紀音楽史」(平井玄・毎日新聞社) を読み始める。序文より引く。

 

 1950年代のフランス領アルジェリア。フランスというよりスペインの対岸に近い、地中海に面したその中心都市アルジェから内陸へ向けて南西に50キロはど行くと、ブリダという街がある。この街に、1930年代に創立された大きな精神病院がある。当時ブリダ=ジョアンヴィル精神病院と呼ばれたこの病院は、主に慢性患者を中心に収容する広大なサナトリウムに近かったようだ。

 1953年11月、ここにカリブ海のフランス領マルティニック島出身でフランスで教育を受けた一人の黒人青年が医師として赴任する。28蔵のこの青年の名はフランツ・ファノンといった。そして、ちょうど一年後の54年11月、民族解放戦線(FLN)の名の下に全土でフランスの植民地支配に対する武装蜂起が開始される。黒人医師ファノンは、おそらく事態が決定的な対決へと進んだ1956年のある日、一人のフランス人の友へ手紙を書いている(『アフリカ革命に向けて』所収、北山暗一訳、みすず書房)

 

 君がアルジェリアを離れたいといった時、ぼくの友情は突然沈黙した。湧き上り、まといつく、決定的ないくつかのイメージは確かにぼくの記憶の入口にあった。

 ぼくは見つめた、君を、傍の君の妻を。君はすでにフランスにいるような気でいた……。君のまわりの新しい顔、数日以来事態が明らかに悪化しているこの国から遠く離れて。

 君はいった、空気が険悪になってきた、俺は帰らなくちゃ、と。(……)なぜだかしらぬが刺々としたこの国 ! もはや安全ではない陸路。真赤な炭火に変わった麦畑。性悪になっていくアラブ人。誰もがいっているよ----女たちは犯されるだろう。男たちの睾丸は切られ、口につめ込まれるだろう。セティフの惨劇(1945年に抵抗する数万人のアラブ人が殺された事件。当局はアラブ人同士の凶行と伝えた)を思いだせ ! 君たちはセティフ事件の再演を望むのか?(……)

 こうしたことを、君は笑いながらぼくに語った。しかし君の妻は笑わなかった。そして、君の笑いの背後に、ぼくは見た。この国の事情に関する君の根本的な無知を。(……)アラブ人には誰も目をとめない。知られざるアラブ人は無視される。アラブ人は黙殺される。アラブ人は欺かれ、隠蔽されている。アラブ人は日々否定され、サハラの背景に変えられている。(……)踏みにじられた原住民の街。土地を持たぬ農民。絞りかすの農民。かまうものか、農民なぞ、この国が美しいなら。

 君は発つだろう。が、こうした疑問、こうした回答なしの疑問。80万フランス人の一致した沈黙、この無知な沈黙、この無辜の沈黙。そして900万の(ァラブの)人間は、沈黙の死装束に身を包んでいる。

 

 -----そして、医師ファノンは吐き出すようにこう書き記している。

 ぼくは荒々しい声が欲しい。美しい声はいらぬ、澄んだ声はいらぬ、声域の広い声もいらぬ。ぼくは端から端まで裂けた声が欲しい。

 

 この医師ファノンの言葉が、この著書のタイトルである。この後、いよいよ本文はハーレムの真ん中で最上の「イカがわしさ」をまとっていたデビュー当時のデューク・エリントン、ドイツの子供向けラジオ番組でジプシーの音楽の持つ憂愁について語りかけていたユダヤ人のベンヤミン、混合された民衆音楽のイミテーションに心血を注いだバルトーク、狂おしい〈異化〉の越境者として逃避行を続けたクルト・ヴァイルとロッテ・レーニャへと続いていく。もちろんそのどの章もが、私の心根の琴線を乱暴に、だが的確にはじく。

 

 さて、私の「引き裂かれた声」は一体どこにあるのか。そしてその声で、私は何を歌いたいのか。

2002.10.25

 

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あかんぼをほめれば
むやみとうれしがる
一足あるいてほめられたときに
かけ足もできる大人のあるのがなぜくやしくないだらう

(八木重吉)

 

2002.10.26

 

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 日曜。年に2度ほどあるらしい団地の草刈りの日。9時に降りていくと、3台ある草刈り機はすでに使われていて、私は置いてあった刈り込みばさみをとって植木の剪定をする。これは結構いちばん面倒な作業のようで、ほかに誰もやる者がいない。しかしだらしなく伸びた長髪を丸刈りにする床屋のような気分で、やり出すとわりと面白いのだ。「なかなか良い腕前じゃない」なぞと、見知らぬおばちゃんに褒められる。女性陣は主に刈り取った雑草の袋詰めと掃除である。一時間ほどの作業が終わってから、班長と団地内の駐車を管理するスペース委員会役をくじ引きで決める。うちはまだ引っ越して間もないので免除された。それから清掃活動に参加しない家に罰金を課するかどうかという話。いつかそんな集金に行ったら男の人にひどく怒鳴られた、誰が集金に行くのか、という若いお母さん。結局、罰金は3千円で、役員総勢で猫に鈴をつけに行くということに決まって、散会となった。

 昨日はつれあいとチビが図書館の「お話し会」に行っている間、新聞の営業マンが来た。人の顔を見るなり、「息子さん?」と訊かれてげんなりする。「主です。あるじ」とこちらの口調もいささか刺々しい。昔からそうなのだが、すでに30代も後半にかかってきているにも関わらず、私は相変わらずハタチ程度の若造によく間違われる。それはロックを正しく聴いているからだと思うのだが(たとえばストーンズのあの若々しさと、同年代の日本のくたびれたおっさんの姿を比較せよ)、世間では「若さ」はつまり「幼さ」と同義語である。外見でしか人を判断できない手合いはすぐに横柄な態度をとるので、そのたびに度量の狭い私はあちこちで腹を立てる。若く見られていいじゃないかと人は言うが、私は年齢相応に見られたいのである。女性が若く見られるのはいいかも知れないが、いい歳こいたおっさんが学生くらいに見られるのは悲しいものがある。父っつぁんボーヤのポール・サイモンじゃあるまいし。バイアグラでなく、老け顔になるクスリというのを誰かが開発してくれたら、私は即座に購入するに違いない。誰かそんなものをつくってくれないか。

 

 世間では連日、北朝鮮拉致被害者の話題で賑わっている。私は政治的な部分は抜きにして、何というか、ときに一種の興味深い時間の断絶の風景として眺めたりする。つまり24年の間、こちら側からの時間は止まっていたが、あの北朝鮮へ連れ去られた人たちにとって、時間は変わらず流れ続けていたのである。ある女性被害者が友人に言った言葉として紹介された、はじめの頃は泣いてばかりいたが、あるときぷつんと切れて、何としてもここで生きていこうという気持ちに切り替わった、その言葉がとても印象に残った。あるいは永住帰国を説得されて「おれの24年間を無駄にするのか」と怒ったというある男性被害者の言葉にも思わず頷く。たとえひどい体制のもと、理不尽な状況のもとでも、かれらには一様に「ここで生きていく」という決意のもとでの短くはない時間が流れた。それもかれらにとっては貴重な人生の一部なのである。「現状復帰」を合い言葉に断固永住帰国を言う政府や被害者の親族たち、あるいはメディアの側も、そのようなこちら側では止まっていた幻の時間に対する感受性が、少なからず欠けているような気がして私にはならないのだ。もちろんそれは拉致を是認するということでも、かれらが北朝鮮へ帰った方がいいとかいうことでも、全然ないのだけれど。

 モスクワの劇場でチェチェンの武装勢力が多数の人質をとって立てこもっていた事件は、女性を含む約50人の武装勢力側のほぼ全員近くと、100人以上もの人質側の犠牲者を出して幕が降ろされた。「射殺された犯人らの多くは、ほとんど無抵抗状態で頭部を銃撃されていた」(asahi.com) という。私はやはり、かれら(殺された武装勢力)の末期に一抹の悲哀のようなものを感じてしまう。「憎むべきあのテロリストども」と唾棄されるその唾を、私も受けたいのだ。かつてこの国であのオウム信徒たちに浴びせられた視線と罵倒を。そして作家の宮内勝典が書いていたように、「かれらに向かってふつうの秩序へ戻って行けと言えるほど、果たしてわれわれの社会はほんとうに健全なのだろうか」と思う。

 

 おとといの夜、寝床でつれあいとつまらぬ口論を始めて「もう、いい ! 」といきり立ち、別の部屋へ行って布団を敷いた。戻って子どもも連れて行こうとし、「まだ風邪気味なんだからやめてよ」と抗うつれあいの手をはねのけ、火のついたように泣き出した子どもを無理矢理抱き上げてきて傍らに寝かせた。子どもはじきに落ち着いたが、しばらくして何か思い出したのか「オ母サンノトコガ、イイ」と言って泣き顔になる。「そうか、そんならお母さんとこへ行けばいい」とつれあいの隣へ戻した。5分ほどして、こんどはつれあいがこちらにやってきて「子どもの様子が変だ」と言う。行ってみると、じっと天井を見あげたまま何も物を言わない。ただ目を開けて、無表情のまま、天井を見つめている。添い寝をしてしばらく話しかけ続けていると、やっと少しずつこちらの言葉に応えるようになったが、やがてふいと、天井から目を離してこちらへ顔を向けたかと思うと、私の胸にすり寄ってきたその瞬間、大きな涙がひとつぶ、そのちいさな頬の上をつたい落ちた。私は、胸が張り裂けるようだった。私という人間はこの小さな胸さえも悲しみでいっぱいにする。「天国は幼子にもっとも近い」とイエスは言ったが、おそらくこの私の心は天国からもっとも遠い。

 

あるときは
神はやさしいまなざしにみえて
わたしを わたしのわがままのまんま
だきかかへてくれそうにかんぜられるけれど
またときとしては
もっともっときびしい方のようにも おもわれてくる
どうしても わたしをころそうとなさるようにおもへて
かなしくてかなしくて たえられなくなる

(断章・八木重吉)

 

 

 オーライ。分かっているさ。私には、私のこの聖なる家族の他に、私をこの地上につなぎとめているものなど何もないことを。

2002.10.27

 

*

 

 「〈狂い〉と信仰」(PHP新書)のなかで町田宗鳳は、ヨハネ伝の8章に出てくる次のような風景を引いている。姦淫の現場をとりおさえられたひとりの女がイエスの前に連れてこられる。イエスは身をかがめて指で地面に何かを書いている。「モーセは律法のなかでこのような女は石打ちに処すべきだと言っているが、あなたならどうするか」としきりに問われたイエスは、「あなたがたのなかで罪のない者が、まずこの女に石を投げるがよい」とだけ言って、ふたたび地面に指をはわせる。やがて、集まった人々がひとり、またひとりと立ち去っていき、とうとう女がひとりだけ残されると、イエスは彼女に向かって言う。「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはもう罪を犯さないように」

 町田はこの場面を受けて、次のように書く。

 

 私は、このとき地面にしゃがみこんで、黙々と砂文字を書いていたイエスは、恐怖と羞恥で震える女性と同じ地平に立って、自分の内なる〈狂い〉を感じとり、それに翻弄される人間の悲しい運命に思い耽っていたのではないかと解釈している。そこに描かれているのは、犯してはならない罪と分かっていながら、それを犯してしまう人間の悲しい性(さが)である。そのような自分の中のおぞましさをほんとうに知れば、痛みなくして他人を裁くことなど、とうていできるものではない。私は黙って砂に文字を書き続けるイエスの姿に、新しい道徳の予感すら覚える。

 

 「新しい道徳の予感」 まさにユングが新約聖書において解き明かしたのは、そのような人間の内面的な進化・意識の跳躍のような光景の軌跡だった。私は町田のこのようなさり気なく、しかし鋭い感性に共感する。(おそらくかの太宰治が摘みとろうとしたのも、そのようなチサの葉一枚の“あたらしきモラル”だったと思う) さらに町田は「このときのイエスが見せる行動から、湯浅泰雄は道徳的判断がもつ限界について、深い洞察を加えている」と、ふたたび湯浅の著書からの引用を掲げている。

 

 イエスは、肉の罪に汚れた女を石もて打ってはならぬと言った。心理学的観点から言えば、この教えは、日常的自我意識の立場に立つ道徳的判断を人間本性に対する究極の価値尺度としてはならぬということを意味する。究極の価値尺度は、超越的次元から与えられる霊のみちびきでなくてはならない。そのみちびきの可能性はすべての人間の身体に宿っている。日常的意識の立場からひるがえって自己の内なる深層に目を向けるならば、人は肉体のくらい「影」の領域の底から、現世の光とは異なった光がさしてくるのを見ることができる。その新しい光においては、エロス的なるもの・女性的なるもののみちびきによって、非合理な愛の心情が男性的な義の立場とはじめて結びつくことができる。ここにおいて、霊魂と肉体、意識の領域と無意識の領域を不可分に結びつける人間観が確立したのである。

(湯浅泰雄・ユングとキリスト教・講談社学術文庫)

 

 「日常的自我意識の立場に立つ道徳的判断を人間本性に対する究極の価値尺度としてはならぬ」というのは、要するに(このサイトの表紙にも小さく掲げているが)ディランのいう「法の外で生きるには誠実でなくてはならない "But to live outside the law, you must be honest"」ということだ。何に対して誠実であるのか。それは聡明なる意識と仄暗い無意識からの要請との危ういバランスにおいて、だと私は考えている。

 現代社会はその近代化の発展と恩恵と共にあまりにも合理的精神の側にすり寄ってしまったために、非合理的なもの・あいまいなもの・非効率的なもの・あやしげなもの・生産性に貢献しないものなどを削ぎ取り、葬り去ってしまった。そして残ったのはコンビニエンス・ストアの明るい、こざっぱりとした、息の詰まるような均質空間である。だが行き場を失った仄暗い無意識の要請は、そのためにかえって凶暴な獣となってある日突然、間欠泉のようにこの日常社会に吹き上がる。それがオウムの事件であり、酒鬼薔薇少年Aの事件であり、あの9.11の惨劇である。私はそのように考える。つまり、あれらを生み出したのは、奇妙に均質で清潔な私たちの〈明るい病理〉なのである。それは遠い異界から到来したものではなく、まさに私たちがいま安住している秩序の裏側に閉じこめられた〈狂い〉が変質した姿・私たち自身の似姿なのだ。かつては神々に捧げるダンスを踊り、あまたの動物たちの魂と交感し、大地と祝祭を交わしたその〈狂い〉と戯れる術を、私たちはすっかり失ってしまった。

 たとえば著書の後半に町田は、こんなことを記している。

 

 人間性の本質に潜んでいる狂おしい情熱を必要以上に抑圧する社会は、停滞するだけではなく、反動的にさらに恐ろしい狂気を招いてしまう。ヒットラー政権誕生前夜のドイツや、エリート軍人の未熟な指導力に翻弄された昭和初期の日本が、どれほど病的にマジメで一徹な社会であったことか。そのようなことを少し思い浮かべてみると、狂気を疎外することの危険性が伺いしれる。

 そのような反省にたてば、現代の日本の教育の在り方には、大きな落度があるのは火を見るよりも明らかである。マジメな教師がマジメ人間になることをマジメに一生懸命教えてくれる学校に何年か通ううちに、若者の健康な想像力がすっかり抹殺される仕組みになっている。イジメ、家庭内暴力、登校拒否、学級崩壊などの問題も、疎外された狂気のしっぺ返し以外の何ものでもない。狂気の中でも、マジメという狂気が、いちばん恐ろしいことに、私たちは一刻も早く気づかねばならない。したがって、次の世代が想像力を失わないようにするためにも、〈狂い〉という異質なものを生活圏外に疎外するのではなく、それと和解し、積極的に人間形成の糧となるような教育方法を確立することが、何にもまして重要なのである。

 

 「いかなる理由でも暴力は容認できない。あのいかれたテロリストたちは抹殺しなくてはならない」と言うことは、あまりにも自明なる正論である。しかしその〈自明なる正論〉こそが、実は絶え間ない暴力の連鎖を目に見えないところでひそかに形作っているのではないか、と私は空想してみる。冒頭にあげたイエスのような言葉に、もしかれらが包まれたとしたら、かれらはどのように反応・変化するであろうか。

 「〈狂い〉と信仰」の終わりに当たって、町田は次のような美しい映画の話を書き記している。これはぜひ紹介したい。

 

 20年ほど前に見た短編映画なので、題名も筋書きも覚えていないのだが、その中で、あるシーンだけがはっきりと眼底に残っている。どしゃ降りの雨の中で、傘をさして長靴をはいた少女が、花壇に立っている。見れば、彼女は知的障害のある少女であり、自分が種をまいて大切に育てていた花に、嬉しそうに水をやっているのである。私はそのシーンを見て、とめどなく涙を流した記憶がある。

 あの幼い少女が見せたような、常識的判断が一切進入しない、あれほど純粋な時間を、私たちは長い人生の中で幾度もつことができるのであろうか。「無用の用」ということをいったのは、老子である。映画で見たあの少女は、普通の人間よりも、少しばかり知能が遅れているばかりに、神に一歩も二歩も近づいている。私が本書を通じて訴えてきた〈狂い〉も、決して現実からかけ離れた異常な世界ではなく、結局のところ、雨の中で愛情をこめて花に水をやるような、はからいを捨てた至誠の行為にほかならない。

 

 このような〈狂い〉の風景は、あのテロリストたちの〈狂い〉の風景と、どこかで深くつながっているような気が、私にはしてならない。〈狂い〉とはまさに私たち自身が、その内なる鏡に映った似姿によって名付けるものの名前であった。

2002.10.28

 

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 沖浦和光氏の「竹の民俗誌 日本文化の深層を探る」(岩波新書)の中で、「復(また)草木(くさき)(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいうこと)あり」という記紀の一節を見る。(この列島では、草木にも精霊が潜んでいてそれぞれ物を言って脅かしていると言うのだ) 脅かされるのは、いにしえにこの国の素朴なる国津神たちを攻略・征服した天孫族の側である。これはかつて柳田国男が『遠野物語』の序文において記した「国内の山村にして遠野より更に物深き所には、又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」といった叫びのトーンと似ている。戯れの空想だが、私はそのような声なき声を背後に聴きながら物語りたい、と思う。

 

 昼から子どもの言う「デデンシャ」に乗って娘と二人、駅前まで買い物に行く。ペダルを漕ぎながら「寒くない?」と後ろに訊くと、「寒くないねえ。冷たいねえ」と元気な答えが返ってくる。空気ははやくも冬、である。買い物を終えたジャスコの前のベンチで、パックのバナナ・ジュースをハンブンコずつ飲む。ジャスコのことを彼女はどうしてか「ヨシコさん」と言う。

2002.10.29

 

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 チビはリハビリ。M先生の説明では、この子の当面の問題点としては大まかに4つあるらしい。ひとつは身体を支える腹筋がいまだ弱いこと。これは腹這いになって鳥の形にのけぞるようなトレーニングをさせる。ふたつめは内股の筋肉が弱いために、歩行時に足が開き気味になってしまうこと。これはなるべく椅子に座らせて遊ばせるようにして、その際、内股をしっかりと閉じる姿勢にさせる。みっつめは左の足首を上へ向ける神経が麻痺しているために、その影響で、前へ踏み出すときに膝がつっぱってしまうこと。これは実際に足首を固定して歩いてみたらよく分かる。一歩を踏み出すときに、私たちは無意識に出した方の足首をやや上にもちあげ、そのために自然に膝も屈折して滑らかな歩行へとつながるのである。逆にそれが出来ないと、左右のバランス(体重移動)はぎくしゃくしたものになり、実際にうちの子どもは(まだ身体が小さいので大きくは目立たないが)そのような歩き方になっている。これについては以前にも記したが、あたらしくつくった装具の左踵部分が若干角度をつけて固定してあり、それで矯正を試みる。そしてよっつめは、弱い左足を無意識に避けて、ふだん右足を軸に立ちがちであるために、その状態を長く続けていると、脳の中のバランス感覚がそれが正常であると錯誤してしまうということ(つまり中心がずれてしまう)。これについては、たとえば立ってテーブルの上に玩具を広げて遊んでいるようなときに、身体の右側に置いて遊びがちな物を左側に置き換えて遊ばせ、バランス及び体重の軸を左へと振り戻すように心掛ける。あるいは立ち遊びをしているときに、左の足裏前部分にタオルを敷いた矯正を心掛ける。要するに、左足首というたった一点の運動機能に障害があるために、身体のさまざまな部分に悪い影響が及び、あるいは筋肉の発達を阻害しているわけで、ふだん私たちが何気なくしている歩行というものが、いかに多くの部位の微妙なバランス運動から成り立っているものかが思い知らされる。以上のような事柄に極力注意を払い、こまやかなリハビリを日常生活においても(または日常生活においてこそ)実行するようにとM先生は仰るのだが、毎日のように病院やプールや交流施設などに通わせ、2,3時間おきにおしっこ・うんこを取り、そのなかで買い物へ行ったり家事をこなすような状況で、いったいどれほどのこまやかな配慮ができるだろうかといつもつれあいと話をして、頭を抱えてしまうのである。しかしそれでもこの子の将来のためには、出来る限りそれに近づけるように努力しなくてはいけない。

 今日はsawaさんのBBSなどで懇意にして頂いている横浜在住のIさんより、諏訪湖畔にある北沢美術館のガレやドームなどのアール・ヌーボーの作品をあしらった来年のカレンダーが宅配便で届いた。私のつれあいがアール・ヌーボー・ファンであることを知ったIさんが、わざわざご厚意から調達してプレゼントしてくれたのである。昼に私が受け取ってから職安に出かけ、先に病院から戻ってきたつれあいはテーブルの上のカレンダーを見つけて「なんで! なんで! なんで!」と歓声をあげ、そばでチビも「なんで! なんで! なんで!」と真似をして、二人して騒いでいたらしい。つれあいは北沢美術館も過去に何度も足を運んで一万円の写真集(図録)も購入し、千葉の幕張にある別館まで訪ねたくらいのアール・ヌーボー愛好者なのである。「しばらくは諏訪にも行けないけど、このカレンダーを見て我慢する」といたくご満悦であった。ありがとうございます。

 職安の帰りに立ち寄った国道沿いの古本屋で、荒俣宏「目玉と脳の大冒険 博物学者たちの時代」(ちくま文庫)と狩撫麻礼原作のマンガ「サード・ギア」(双葉社)を、それぞれ百円で購入する。

 中断していた野迫川のKeiさんに頂いた沖浦和光「竹の民俗誌」(岩波新書)と、Yさんにお借りした平井玄「引き裂かれた声」(毎日新聞社)を、平行して読み継いでいる。

2002.10.30

 

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 週払いのバイトを始めた。某宅配便の集配所での仕分け作業。10時間、ダンボールの山と格闘して汗を流し、へとへとに疲れた。前任の若い子は、一日で辞めてしまったという。昼から夜10時まで。土日祝日休み。とにかく、金を稼がなきゃならない。

 チビはめばえ学園という、市で主催している障害者児童を対象にした母と子の交流会のようなものに行ってきた。おなじ二分脊椎の子どもも二人いるが、多くは自閉症などの精神障害の子どもが多いようだ。体操や歌を歌ったり、玩具で遊んだり、おやつをもらったりして、チビは結構楽しかったらしい。お父さんが帰ってきたら今日のことを話すんだと、ずっと待っていたという。玄関が開いたら、食べかけのミカンを放り出してすっ飛んできた。

2002.10.31

 

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 Clean Cut Kid (http://www.cleancutkid.co.uk/) という海外のサイトで、ディランの最近の貴重なライブ音源がMP3でダウンロードできる。こんなホットなブートレッグが容易に入手できるのも、インターネットの時代ならではこそ。ストーンズの Brown Sugar やニール・ヤングの Old Man の驚くべきカバー、それに正式のライブ盤では聴けなかった I Dreamed I Saw St Augustine や In The Summertime もなかなか感動的だし、いかしたバンド・バージョンの It's Alright Ma (I'm Only Bleeding) は何度聴いても実にカッコいい。そうさ、“賢者や愚か者は規則を決めるけれど、おれには従うべきものなんて何もない”のさ。曲は30年以上も前のものだが、相変わらずクールでタイトな進行形のディランがそこにいる。かれは錆びることがない。だからこのおれも錆びついたりはしない。風呂場で死んだ江戸アケミがシャウトしていたように、“いまが最高だと転がって”いくだけだ。オヤジになってもジジイになっても棺桶に片足突っ込んでも、それは変わりはしない。

 

 エリコさん(朱さん)が自身のサイトの日記に先日、こんなチャボの曲を引用していた。

 

複雑な事情で昔僕らは
首をたてには振れなかった訳ではなくて
単純な理由で昔僕らは
首をたてには振らなかったのです
ごらん
今もうすぐ新しい朝日が顔を覗かせるよ

仲井戸麗市・HORIZON

 

 昔、図書館で借りたウォーキングの本の中で、こんな素敵な聖句を見つけたものだ。

 

 幸福 (happiness) とは、あらゆる事物の中に単純さ (simpicity) を見つけだすことなのだと気がつくに違いない。

コリン・フレッチャー・遊歩大全・なぜ歩くのか?

 

 戦闘機でも戦車でも月賦で買った新車でもなく、生まれたままの、この足でどこへでも歩いていこう。近所の公園でも、もっと遠い山の端までも。ランボーのように“そして遠くへ、遙か遠くへゆこう。ボヘミアンさながら、自然のなかを------女と連れ立つときのように心たのしく” 初恋だった女の子と二人並んで自転車で、微熱の向こう側へ、緑輝く水路沿いのあの小径を走り抜けたように。

 

 ディランやビートルズが導いてくれた埃だらけの道を、相変わらずよたよたと歩き続ける。そしてドロ水を飲んだり、言い訳をしたり、溺れそうになって、諦めかけたりして、“おれはまた河を渡った”。

 

 いつもあらかじめ結果を知りたがる人は、決して精神と生の真の冒険に身をゆだねることができません。人はいわば闇の中へと堕落し、そのあと、そこで会得した別の編成を整えて、自力で、独立独歩、創造的に前進すべきなのです。

 

 自分自身の道を歩む勇気をもて------間違えたり失敗する危険をおかして。間違いと失敗は、共に人生で最も価値のあることです。いつも前もってすべてを正しく行おうとする者は、何事も正しく行えないでしょう。

 

 実に、この、作り出せるということ、これを私は、ファンタジーと呼んでいるのです。つまり、あらゆる状況から、新たなものを創造する能力、まだどこにも存在しておらず、リスクに満ちたものを作り出せる能力です。

ミヒャエル・エンデ

 

2002.11.2

 

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 文化の日。郡山城址で催された「親子まつり」というのに出かけてきた。チビは紙芝居の席でさっそく飴を貰い、野外ステージで地元の少年少女合唱団の歌を聴き、箱本十三町というかつての職人街を模した催し場で小さな藍染めの風車を染め、犬の風船を貰い、ミニ動物園でゾウガメやヒヨコに触り、関西電力のIH体験テナントで揚げたてのスナックを貰い、商工会のおばちゃんたちの店でおでんを買って食べ、持参したおにぎりの昼食を食べてからひとしきり大好きな落ち葉を拾い、先月能舞台を見たおなじ場所で地元のやまと獅子太鼓なるメンバーの和太鼓の演奏を飽きずに終わりまで見て、短大生のおネエちゃんたちの人形芝居を観劇し、金魚すくいをして、最後に出口付近で売っていたサモサ(インドのスナック)をひとつ買って食べ、たっぷり半日を遊んで夕方に帰ってきた。「あしたも、またくるの」と言われても、お父さんは困るんだけど。

2002.11.3

 

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 まだ子どもが生まれる前、夏につれあいと二人で青春18切符を使って湖北から若狭を巡った。湖北の十一面観音、雨の菅浦の風情、敦賀の鄙びた寺と地元の盆踊り、明通寺でのスケッチ、若州一滴文庫での語らい、道に迷った馬居寺など、どれもみな愉しかったが、食に関してのいちばんの収穫は、何といってもダントツに小浜の寿司屋「かねまつ」だった。たまたま手元のガイドに載っていて、さして期待もせずぶらりと入ったのだが、これが大当たり。ネタが驚くほど分厚く、新鮮で、かつ値段もリーズナブル(ランチ・タイムで千円ちょっとくらいだった)。以来、寿司というとわが家では「小浜の寿司屋」で、「また食べに行きたいねえ」が口癖になっている。二年ほど前だったか、そんな私たちの話に誘われて、四日市に住む友人が「では車で日帰りで小浜へ行って、その寿司を奢ろう」という太っ腹な約束をしたのである。もとより私たちはなかば冗談として笑ったのだが、それから子どもの手術などでごたごたとしはじめ、すっかりそれどころではなくなった。

 ところが律儀な友人はその約束を覚えていて先日、「小浜までは何かと大変だから、代わりにWebで見つけた奈良県内のちょっと高級な回転寿司はどうだろうか」と電話で言ってきたのである。これは最近めっきり車酔いをするようになったチビへの配慮である。場所は前のアパートに近い、すし処函館市場というチェーン店。株主優待で割引がきくという。それで昨日、祝日の振り替え休日の夕方に、四日市から来た友人の車に同乗して行ってきたのだった。連休の最終日とあって店内は盛況で、待つこと小一時間。チビを含めて4人で50皿近くというのは、人様の払いともあって結構食べた方か。ところがチビはせっかく寿司屋に来たのに、食べるものはといえばコーンやいくらばかり、しかもネタの部分だけを一粒づつつまんで頬張っている。それに北海道のソフトクリームとチーズケーキ。それから回転寿司は初めてというわけでもないのだが、ボックス席のレーンの前に立って皿が回っているのを愉しげに眺めている。見本のミニチュア・ビールが来ると、ふうっと泡を吹いたりしている。いちどコーン巻きをじぶんで取ろうとして失敗し、それを見ていたレーン内のおばちゃん店員が「おばちゃんが取ってきてあげるからね」とつれあいの制止を振り切って走り出した。おばちゃんはレーン内を約半周して結局追いつかず、新たにつくってもらったコーン巻きを手に戻ってきたのだった。

 友人はそれから12時近くまでわが家にいて、ということは友人が大のお気に入りのチビもずっと起きていて、友人の母親がつくってくれたお手玉などで遊んでもらっていたのだが、明日は所用があるというので深夜の道をふたたび四日市へ帰っていった。今朝、目が覚めたチビの第一声はこうである。「おのち(友人の愛称)、サイコウだったね」

 

 野迫川のKeiさんに頂いた「竹の民俗誌」(沖浦和光・岩波新書)を読了する。表題は地味すぎて、サブ・タイトルの「日本文化の深層を探る」は奥床しい。前半は竹をめぐる民俗や歴史・生態のくだりなどで、それだけでも充分に面白いのだが、後半からそれら竹文化の源流に古代・先住民族の隼人の悲哀に満ちた幻像がからみつき、あるいは竹細工を細々と伝承してきた被差別民やサンカたちの苦難の歴史が真摯に語られる。いわばこの書は、竹の文化によって日本の正史、その底辺と上澄みをひっくりかえそうという革命の手引き書である。圧巻は「竹取物語の源流考」と題した章で、著者はここで貧しく差別の対象であった竹取翁に、権力によって「夷人雑類」と呼ばれ正史から抹殺されてきたものたちの声なき叫びを聞き取り、「竹取物語」とは、じつにそれらの蔑まれてきたものたちの権力に対する抵抗とみずからの希望の書であったと読み解く。これはこの国の古層に興味を抱く者ならきっと読んで欲しい、そんな気骨に溢れた得難い一冊である。少し長くなるが、終章部分の一節を引く。

 

 太古のアニミズムの時代では、まだ〈聖・俗・穢〉は末分化であった。それぞれが異次元の世界として分化し始めるきっかけになったのは、征服者による「国家」の形成であった。征服者は「王」を名乗り、あらゆる手段を用いて自らを神格化しようとする。ヤマト王朝について言えば、紀記神話による万世一系の皇統という擬制の確立である。そして、その王=国家による支配的「宗教」の定立によって、王権のまわりに聖なる境域がはりめぐらされ、その対極にケガレの領域が設定された。

 〈聖・俗・穢〉がまだ未分化の渾沌の時代にあっては、〈神・人・獣〉もまだ未分化であり、〈獣〉もまた容易に〈神〉の化身たりえたのである。そういう呪術的思考が、自らの種族と探い関係のある動物をはるかなる祖神として崇めるトーテミズムとして現れたのであった。

 しかし、ヒトとヒトとの問に「征服 - 被征服」「支配 - 被支配」の関係が現実化するにつれて、〈聖・俗・穢〉はしだいにバラバラに解体されて、征服者=支配層が〈聖〉を占有し、被征服者=被支配者は〈俗〉の領域に分離され、あるいは〈穢〉の領域に隔離されていく。

 それとともに、〈神・人・獣〉もバラバラにされて、征服者=支配者が〈神〉格を独占し、被征服者=被支配者がタダの〈人〉か〈獣〉に近い存在に貶められる。

 

 このような因果性・関係性は、日本の歴史の中にもはっきりと現れている。すなわち、万世一系の皇統を称する天孫族の支配が確立するにつれて、それに抵抗した先住民族はいずれも〈獣〉の烙印を押されたのであった。

 すなわち、東北の先住民族は「蝦夷」と名付けられたが、蝦夷の「蝦」はエビで、蝦蟆と書けばヒキガエルをさす。南九州の先住民族は「熊襲・隼人」と呼ばれた。隼人の「隼」は、ワシタカ料の勇猛で敏活なハヤブサである。本州の各地にいた先住民族は、やはりヤマト王朝によって「土蜘蛛」と呼ばれたが、土中から現れ出るクモをさし、今なお穴居生活をやっているかのようなイメージで描かれたのである。

 そしてこの〈獣〉の烙印は、そのまま〈穢〉のしるしともなったのである。この場合のケガレは、ヤマト王朝に隷属することを拒んで、国家的秩序の外にハジキ出された状態をさしている。

 ただし支配者に忠誠を誓って、王化に浴すべく帰順した者は〈俗〉界に組み入れられ、賤民になることを免れたのであった。ヤマト王権に服属して畿内に移住することを承諾した隼人は、夷人雑類の末裔ではあったが一応は〈俗〉界のヒトとして遇された。だが、徹底的に抵抗して俘囚となった蝦夷は、卑賤の民として諸国に配流されたのであった。

 

 もちろん、ここで私が思い浮かべているのは埋もれた過去の歴史だけではない。現代の「ハジキ出された卑賤の民」、闇の中で光の通信を交わす者たちのことである。

2002.11.5

 

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 私たちのひとりひとりが Stardust Children であるというのは、どうもほんとうらしい。この地上で死を迎え、アミノ酸やタンパク質に還元された私たちの組成物質は、いつかこの星の死滅とともに宇宙へと放たれ、無限に漂い、拡散していく。そしてあるときべつの星に降りたって、あたらしい命を形作るかも知れない。

 私たちは無明なる宇宙の塵・芥に過ぎない。だが別の視点から見たら、私たちは天空に輝く星屑の貴重な一粒一粒でもある。

 

 ヴァン・モリスンの Wasted Years という曲で、いまは亡きジョン・リー・フッカーが「暗く長い無駄な歳月を過ごし、さみしい旅を続けて、おれはいまやっと目が覚めた。何かを得た。もう誰にも馬鹿にされたりはしない。そうだろ、ヴァン? なあ、そうだろ?」とモリスンに歌いかけるのを聴く。

 

with your long robes on, we will surely rome
by the ancient rosds, I will take you home again
to the forest

satisfy the soul
birds sing all day long of the mother lode
we can surely shade let it roll
in the forrest

Van Morrison・in the forest 1993

 

2002.11.5 深夜

 

*

 

 子どもは昨日は脳外科と泌尿器科の診察、今日はリハビリで、連日の病院通い。つれあいは腰痛が首に来たといってサロンパスを貼っている。リハビリはあと2回で、ふたたび3ヶ月の休み(インターバル)に入る。尿検査の結果は良好。脳外科ではY先生がわが家の二分脊椎協会への参加を所望しているとのこと。「紫乃ちゃんのお父さんに新風を吹き込んで欲しい」との伝言。うちはそれほど症状が重度ではなく、また年会費が一万円もするので、ちょっと足踏みをしていたのだ。

 先月、新しく転入した市の福祉課の人に勧められて県に申請書を出していた、障害児童のための特殊児童手当が認可されたという通知が届く。2級の認定で、毎月3万4千円ほどが3ヶ月毎に支給される。少なくはない金額だ。これはなるべく全部を貯金して子どもの将来のために残してやろう、とつれあいと話す。

 そういえば今回の診察の折にY先生が、うちの子どもとおなじ程度の二分脊椎の病気を持つ患者さんが、ことし滋賀医科大の試験に合格したという話をしてくれ、「紫乃ちゃんも滋賀医科大、行こうか」と言ったとか。やはりこんな病気を抱えた子どもであるから、彼女にはなるべく早いうちから自分の進路を見定め、(私が言ってもあまり重みがないのだが)ひとりで生きていく力を身につけて欲しいのだ。順当に言えば、親である私たちの方がいつかは先に死んでしまうのだから。だからこの子にはなるべく多くのことを体験させてやりたい。たくさんの機会を与えてやりたい。そこからじぶんの好きなものを見つけて、じぶんだけの道を切り拓いていって欲しい。医者でも、教師でも、音楽家でも、人権の活動家でも、素朴な伝承文化の職人でもいい。親の欲目を差し引いても、利発な子だ。きっとタフに、自由に、誠実に生きていってくれるだろう。お父さんたちがしてやれることは少ないが、与えられるすべてのものをお父さんたちはお前にあげよう。それ以上のものは、この世の自然の万物が、あるいは運命が、そのつど必要なものをお前に授けてくれるだろう。成功だけでなく、ときに失敗や無駄に思える道草でさえも。

2002.11.6

 

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 図書館にて貸し出しカードをつくる。

 「洞村の強制移転 天皇制と部落差別」(辻本正教・解放出版社)という本を見つけ、借りてくる。例の神武陵の拡張にともない村ごと移転した洞村(現大久保町)の顛末である。陵のある橿原の地名について「“橿原”とは、遺棄された遺体が累々とした地のことであり、流された血があたり一面を覆っている地のことである。その上に帝宅を築くということが、征服者にとってふさわしい行為と考えられていた」と推論するくだり。また洞村の洞(ほら)とはもともと「まほろば」の「まほら」であり、かつて同所が「ひじり垣内」とも呼ばれていたことなどから、古くは祝・屠・葬にかかわったハフリの民が住んでいた、とするあたりが面白い。ここにも聖と穢れの奇妙なねじれの風景が透けて見えてくる。また、確たる史料はないのだが、大正時代にある貴族議員が述べたという「かつてのミサンザイ(現在の神武陵)は、洞村における牛馬の皮の乾場であった」という言葉も紹介されている。続けて筆者は「洞村に太鼓張りが存在したことは明らかであり、そこから斃牛馬処理権があったことを類推することは充分に可能である」と書いている。現在では神聖なる国家的空間として祀られている場所に、かつては死んだ牛馬から剥ぎ取った生皮を天日干しにするようなのどかな時間が流れていたと想像することは極めて痛快である。その程度の土地であった、ということだ。

 sawaさんのBBSに触発されて「新潮45」7月号に掲載されていた「虐げられた人びと 奈良月ヶ瀬村女子中学生殺人」(中尾幸司)を読み、コピーしてくる。咽の奥底に汚泥が詰まったような、何ともいえない気分に襲われる。わずか13歳で理不尽に殺された少女も、少女を殺して後に刑務所の独房で自ら縊れて死んだ青年も、すでに二人ともこの世にはなく、ただどうしようもないほどの虚しさ、底深い空井戸のような空虚だけが無表情に横たわっているのを呆然と見つめる。事件の詳細を書き連ねる気分にいまはなれないので、詳しくはsawaさんのBBSを参照されたし。ときどきそんなことがあるが、やわらかな、だが救いがどこにもない大きな布に全身を包まれて、抗うこともできないまま無音の深海の底へ引きずり込まれていくような、そんな心地を覚える。人はどこまで冥く、底無しに悲しい存在になれるのか。

 深夜、眠っている子どもの顔を見つめ、その小さな手をわけもなく握りしめる。

2002.11.8

 

*

 

 

私の脳髄のずっとうしろ側を辿っていきますと
窓のないさみしい小部屋があり、それで行き止まりです

そこには青い銅製の額縁が冷たい光を放ち
銀の触手をぷるぷると顫わせた奇妙な生物が蠢いている

 

 これは10代の頃に戯れに書いた、拙い詩のようなもの。

 もうひとつ、こんなノートへの書き殴りもある。

 

すすき野の真ん中にひとが立っていて
「こっちへ来るな ! 」と、そのひとは
歯をぎしぎしと怒らせ
阿修羅のように私を睨みつけ
嵐のなかを-----それでも哀しそうに
ひとり両足を踏ん張っていた

私は見たくないものを見た思いで
怖ろしさのあまり、走って逃げてきたが
その日は一晩中ひゆうひゆうと
風が暗い枝を顫わせ
おおきな影が
部屋のすみで泣き続けていた

 

 何も懐かしの同窓会を開きたいわけじゃない。(そんなものは、あのノーテンキな○○にでも呉れてやるさ) もしじぶんの裏側の顔を覗き込んだとしたら、私はきっと気が狂うことだろう。私はまさしく、おぞましいもので膨れあがった醜い肉袋のようなものだ。私は酒鬼薔薇聖斗にもなれたし、月ヶ瀬のあの丘崎誠人にもなれた。これからだってそれはなり得る。だから、おれに背中を向けて歩くときは気をつけた方がいい。

 ディランが歌っていた。〈私と私 一方が他方に言う 私の顔を見たら生きてはいけない、と〉 ロバート・ジョンスンが歌っていた。〈年がら年中動き続けてなくちゃならない ブルースが霰のように振ってくるから 毎日のようにはっとする おれの後を地獄の猟犬がついてくるから〉

 封を切った半パイントのウィスキー瓶が届けられたとき、共に演奏をしていたサニー・ボーイ・ウィリアムスンがそれをはたき落とし「ぜったいに封を切った瓶から飲んじゃだめだ。何が入っているか分からないのだから」と諭した。だがロバート・ジョンスンは「おれの手からウィスキーをはたき落とすなんてことは二度としないでくれ」と言い返し、女房を寝取られた男によって毒を盛られた二本目の瓶に口をつけ、気狂いのようになって死んだ。だがやつの残した音楽は、人間の実存の暗い不思議に根ざした、小綺麗な朝の牛乳瓶からははみ出しそうなリアルで奥深い生命力に溢れている。

 ロバート・ジョンスンは四辻(Cross Road)で悪魔に魂を売り渡したという伝説がある。それはあるいは、ほんとうだったかも知れない。やつは死の直前に「神よ、私の体を墓からひきずり出して欲しい」と書き留めたという。だが、知っているか。神と悪魔はそれぞれ互いの裏側の顔なのだ。信じなくてもいいが。

2002.11.10

  

*

 

 チビの日課は売れっ子のアイドル・スターのように忙しい。

 昨日の午前は前述した「めばえ学園」の正式な入園に向けての面接。妊娠時の状況や家庭のことなどを詳しく訊かれた。遊びの話で「お絵かきでやっと丸が描けるようになった」とつれあいが言うと、「丸が描けるようになるのは普通は3歳くらいだから、それはすごい」と驚かれたという。後で住民票に書類を添えて提出し、通うのは1,2週間後からになろうか。おなじ病気をもつ親子にも会った。二分脊椎と水頭症を合併して、うちのチビと同い年だが、まだハイハイしかできない。最近よく耳にするAD/HD(Attention Deficit/Hyperactivity Disorder・注意欠陥多動性障害)の子どもも来ているらしい。子ども同士の交流はあまりないのだが、手遊び歌をしたり、貼り絵をしたり、おやつをもらったりして、チビは結構愉しいようだ。集団生活に馴らすために、幼稚園の始まる3歳までのつなぎのつもりで通わせようか、と話している。帰りのたんぼ道で、自転車の後ろのカゴから「お母さん。ここ、みーんなお米なんだよ」 そして「お父さんが教えてくれたの」と言ったとか。

 夕方はふたたびつれあいと自転車で、20分ほど離れた近鉄の某駅前にある音楽教室(ヴァイオリン)へ、話を聞きに。昼寝をしそこねたチビは行きの自転車のうしろでこっくりと居眠りを始め、教室の中でふと目が覚めた。寝起きはたいてい機嫌が悪いし、この頃は人見知りもするようになったので、「これは泣かれる」とつれあいは覚悟したそうだが、チビは寝ぼけ眼で前のソファーに座っている教室の経営者の手にしたヴァイオリンをしばらくじっと見つめ、隣の若い女の先生がつれあいに子どもの名前を尋ねたところ自分で立って「○○紫乃です」とはっきりと答え、「紫乃ちゃん、この曲知ってる?」(と“どんぐりころころ”を弾く)「知ってる」「ヴァイオリン、触ってみたい?」「触ってみたい」と奇蹟のようにはきはきと答え、教室を出るなり第一声「良かったねえ ! 」の感嘆符を発したそうだ。そして「お父さんにお話しするの」「イッコちゃん(私の妹)にお電話しよう」とか。帰り道はすっかり眠気も吹き飛んで、ずっと歌を歌い続けて帰ってきたという。実際は1/16とかの極小サイズのヴァイオリンでもまだ大きいために3歳にならないと始められず、それまでは家のキーボードなどで親が音階などを少しずつ教えておいてくれたらいいと言う。月謝は月7千円ほどで、ヴァイオリンは2.3年ごとの買い換えで一台5万円ほど(サイズが大きくなってくる)。もともとはつれあいが言い出したものだが、何も英才教育を施したいわけではない。無論プロになるのを期待するのでもなく、本人が好きならば、それで音楽に親しむきっかけになってくれたらいい。そして何より障害がある分、好きなこと・打ち込めるものをひとつ見つけて、それが彼女自身の支えのようなものになってくれたらいい。それが障害というハンデをはじき飛ばすバネとなり、差異にとらわれない自由な精神を育んでくれたらいい、と願う。ヴァイオリンは足を使わなくてもいいから、というつれあいの意見による。

 そして今日は「めばえ学園」の書類をさっそく提出しに行った帰りに、JRの駅前にある河合音楽教室に飛び入りで一日体験入学をしてきた、という。ふだんはわりとおっとりした性格なのだが、こういうときのつれあいの行動の早さは驚嘆すべきものがある。だが、こちらは内容が音楽教室というより、お粗末な託児所のようなもので、あまりたいしたことがないそうだ。先日郵便受けに入っていた公文の2週間体験入学も近くにあり、入るつもりはないのだがテキストなんかも貰えるし、遊びのつもりで行ってこようかなと言うので、そのうち体験入学のブラック・リストに載せられるぞ、と茶々を入れる。ちなみにつれあいは以前に短期間だが、こども英会話教室に勤めていたこともある。だが本人に言わせると、「自宅」で「実の親」が、というのは子どもがあまり集中しないのだとか。

 ところでチビだが、このごろはずいぶんイッパシの言葉を言うようになってきた。先日も夕食の席で、椅子を離れてテーブルの他の端に立って食べようとするのでつれあいが「ちゃんとじぶんの椅子に戻りなさい」と注意したところ、「べつにココでいいじゃない」。あるいは歯磨きを終えて「さあ、ペー(うがい)しに行こう」と促したとき、ストーブの傍らに私が放り出していた見慣れぬ電池のテスターを見つけて、興味津々で手に取りながら「ご用があるから、ちょっと待っててね」とか。前者はたぶん私で、後者はつれあいの真似である。それからまたしばらく前に、たまたまつけたNHKのテレビで京都在住の狂言一家・茂山家を訪問するという番組をやっていて、面白そうなのでそのまま見ていたのだが、そこで人間国宝の茂山千作氏が実際の狂言の場面を演じて見せた。柿を枝からもいで、ハムハムハムと大げさに頬張り、ウマやあ・ウマやあ(旨い旨い)と喜悦の表情を浮かべるシーンである。私といっしょに見ていたチビはそれがいたく気に入ったようで、それからときどき、病院の行き帰りなどに外でおやつをねだったときにそれを真似て菓子を頬張り、つれあいを困らせていると聞く。ヴァイオリニストよりも、吉本の方がいいかも知れない。

2002.11.12

 

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 チビは病院。「本格的なリハビリは、やはりじぶんで足の矯正を意識できるようになってから」とM先生の言。帰りにどこかで拾ってきた真っ赤に紅葉した落ち葉を三枚、私にくれた。

 夜は鶏団子鍋。鶏団子はミンチに細かく刻んだニラ・人参・白菜などを混ぜ、卵とおろしたニンニク・生姜、それに塩・胡椒、少量の水で溶かした片栗粉を入れて、手でよく練る。前回はニラの代わりにバジルの葉を入れたのだが、つれあいはこの私のテキトー思いつき団子がいたく気に入って、今年のわが家の冬の定番になりそうである。

 いつからか、私は以前ほど、子どもの障害をそれほど悲しいと思わなくなった。いや、いまでもやはり時折、それは真昼の幻のようにこの胸に突き刺さることもあるのだが、それでも以前ほど悲しいとは思わなくなった。この子が内包している豊かな無限の可能性、それに比べたら障害などちっぽけなものに思えてくるのだ。やわらかな感受性を湛えた子どもの表情を眺めていると、ほんとうにそうなのだと思える。

 家族。というのはほんとうに大事なものだが、私はこの大事な家族を、世界のように見て、世界のように接したい。それはかつて宮沢賢治が友人宛の書簡に記した「私は一人一人についての特別な愛情といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さふいう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」という言葉を常に頭のどこか片隅におきながら、という意味において。

2002.11.13

 

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 わが家の子育ての風景はいささか変わっている。私がいない昼間、たとえば子どもが着替えや導尿や歯磨きをふざけたり嫌がったりする。つれあいは私のようにお尻を叩いたり強い口調で叱ったりしないので、多少甘く見られているのだ。つれあいが堪らず叱り、子どもが反撥して泣きじゃくる。そのうち、叱られている子どもが可哀相になってきて、つれあいは叱りながらぼろぼろと涙をこぼす。すると子どもは泣くのをやめて「おかあさん、泣かないで」と心配そうに言い、「だいじょぶ、だいじょぶ」と泣いているつれあいの背中を小さな手でさするのである。

2002.11.14

 

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 KさんのHPの日記で「かみさんの堪忍袋の緒が切れる」と題した文章を読み、どこの家でも似たようなものだな、と思わず苦笑する。以下、全文を無断にて転載。

 

 夕食のとき、子供たちが言うことを聞かず、食卓を離れて遊び回り、一向に食事に身が入らない。かみさんが、堪忍袋の緒が切れたのか、突然、「もう食べなくてもいい」と怒鳴って、ほとんど手のついていない子供たちの食事を片付けて、部屋を出て行ってしまった。しばらくして戻ってきて、洗い物をしながら泣き出してしまった。

 

 わが家でもつい最近、おなじような情景があった。食事を片づけられて泣き叫び続ける子どもを前に、私は「もう充分反省しているだろうから、可哀相だから食べさせてやろう」と主張し、「ここで撤回したら意味がない」と譲らないつれあいと、とうとう喧嘩になった。つれあいに言わせると、子どもはまだ理屈では分からない部分があるので、ときに「事実」として示さなければならない。一時的に可哀相に思えても、長い目で見たら結局、それが子ども自身のためになる。ただしそのときに怒って抱っこまで拒否すると子どもはじぶんの存在を全否定されたと受け止めてしまうので、食事は断固として戻さないが、その代わりに泣いている子どもはしっかりと抱きしめてやる。そうして何がいけないのかを根気よく言いきかせてやることだ、と言うのである。ちぇっ。大量の育児書を読んでいる人間は、言うことが違うねえ。

 

 昼から、市役所に近い三の丸会館にて催された県警音楽隊のブラスバンドの無料演奏会を、子どもを連れて見に行く。「お巡りさんだよ」と教えると子どもは「どこ、どこ」とキョロキョロ。歌の「犬のお巡りさん」を探していたのであった。帰りにスーパーによって買い物をしている最中に子どもが寝てしまい、仕方なく図書館にある子どもの「お話の部屋」にチビを寝かせ、大人はそれぞれ調達してきた本をその傍らで読む。つれあいは柳美里の小説。私は雑誌「部落解放」バックナンバーの特集で、関東大震災のどさくさに利根川のほとりで村の自警団たちによって惨殺された四国からの行商人の家族グループについての記事を読む。殺された家族は被差別部落の人間で、なかには妊娠中の女性や、幼少の子どもも数名含まれていた。

 県立図書館の郷土資料室にて、「部落解放 なら」の第12号(1999.10・奈良県部落解放研究所刊) に例の月ヶ瀬事件の担当弁護士が寄稿した文章を見つけ、コピーしてくる。高野嘉雄氏の「月ヶ瀬事件と差別」と題した8頁の文章の他に、編集部が加えた「奈良新聞にみる月ヶ瀬報道」の資料10頁。

2002.11.16

 

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 午後、図書館で催された子どもの映画会にチビを連れて行く。つれあいは昨夜借りてきたビデオの「カサブランカ」をその間に見る。映画は30分ほどで、キティちゃんを交えた「金太郎」ゃ「わらしべ長者」の日本昔話。図書館の児童室でしばらく遊ばせ、買い物をして夕方に帰ってくる。

 チビはこのごろ、並んで敷かれたじぶんの布団より、私とつれあいの真ん中に割り込んで眠りたがる。今日も図書館で借りてきた「赤ずきんちゃん」を布団のなかで読み聞かせているうちに、おなじように反対側から身体を寄せているつれあいといっしょに仲良く眠ってしまった。しばらくうたた寝をしてから、夜中にふと目覚めて、やわらかな寝床をそっと離れ、ひとりヘッドホンでこんな音楽を聴いている。

 

Well John Henry went up on the mountain
Well the mountain was sinkin' in
He said come on captain I know what I'm doin'
It ain't nothin' but my hammer suckin' wind
Lord, lord, lord, It ain't nothin' but my hammer suckin' wind

Well john Henry went up on the mountain
Lord the mountain was so high
He said we're gonna shake this steel drivin' down
Give me a cool drink of water before I die
Give me a cool drink of water before I die

ジョン・ヘンリーは山に登った
沈みいく山に
やつは言ったものだ “なあ親方、おれはじぶんが何をしてるか分かってるぜ
このハンマーがただ風を吸いこんでいるだけさ
このハンマーがただ風を吸いこんでいるだけ”

ジョン・ヘンリーは山に登った
とても高い山に
やつは言ったものだ “さあ、この鋼
(はがね)を打ち込んでゆすってやろうぜ
おれが死ぬ前には冷たい水をくれないか
おれが死ぬ前には冷たい水をくれないか”

John Henry・Traditional / Arranged by Van Morrison 1977

 

2002.11.17

 

*

 

 シノちゃん、足がワルイの。と突然、子どもが湯舟の中で言う。そうだね。だけど頑張れば治るんだよ、とつれあいは答える。2歳といえども、ちゃんと分かっている。じぶんの足が思い通りに動かないことを。図書館に行けば、装具の上に特別仕様の革靴を穿いている彼女の足元を、隣の女の子が不思議そうに見つめている。だが子どもはそんな視線に気づく余裕もなく、前屈みで一生懸命に革靴のベルトを止めようとしている。その革靴を彼女はとても大事に思っていて、脱いだあとは必ずきちんとジッパをあげベルトを止めて、いつも、きちんと揃えて置く。センセイがなおしてくれたの、と自慢するように言う。ここがカタイの、でっぱってるの、と説明をする。父がベランダに出て煙草をふかしていると、玄関から革靴を持ってきて急いで穿きにかかる。彼女は今日、母に連れられて自転車で近くの小学校を見に行ってきた。校庭で子どもたちが遊ぶのを面白そうに眺めていた。偶然、隣の家の小学生のお姉ちゃんに会って話も交わした。そしていま、湯上がりの身体を母と横たえ両足を高く上げ、ほら、(足首で)コンニチワってしてみて。あれえ、出来ないの。と言いながら、二人してけらけらと笑い合っている。

2002.11.18

 

*

 

 Clean Cut Kid で、ディランがモリスンの美しい小品 Carrying A Torch を演奏するのを聴く。先月のサンディエゴでのホットなライブ音源。この胸につまるような、つましい秘め事のような讃歌を私はもう10年も、暗い孤独な夜ごとに口ずさんできた。そしていま、60歳を越えた徒手空拳のディランがおなじその曲を、裸のまま・剥き出しのままの声で歌う。感無量というほかない。いや、そう思うのは私だけかも知れないが。ここには少なくとも私にとっての、真実の魂とあの“顫え”がある。愚直なほどの裸心と切実な欲望があり、私はそれを愛する。ディランはここで、モリスンの原曲では「どれほどの代価を支払っているかあなたは知っているはず」というバースを「あなたは知らない」と歌っている。かれの声は、暗い雨雲とこの地上の間を低空で滑降していくようにも聴こえる。

 

I'm carryin' a torch for you
I'm carryin' a torch
You know how much it costs
To keep carryin' a torch

Flame of love it burns so bright
That is my desire
Keep on liftin' me, liftin' me up
Higher and higher

You're the keeper of the flame
And you burn so bright
Baby why don't we re-connect
Move into the light

I've been going to and fro on this
And I'm still carryin' a torch
You must know how much it's worth
When I'm carryin' a torch

(Van Morrison・Carrying A Torch 1991)

 

あなたに恋い焦がれています
あなたに恋い焦がれています
どれほどの苦みか知っているはず
あなたに恋い焦がれることが

眩いほどに燃えあがる恋慕の炎
それはわたしの望み
わたしをひきあげてください
さらなる高みへと

あなたこそが炎の守護者であり
眩いほどに燃えあがるそのもの
なぜわたしたちはふたたび交われないのか
光のなかへ移りゆく

これだけあちこちをさまよいながら
いまだにあなたに恋い焦がれています
どれほどのものか知っているはず
あなたに恋い焦がれることが

 

 

 この世でいちばんちっぽけな魂こそが、あの世では眩いばかりの光を放つのだと思う。私はこの星の裏側の物音まで聞こえる耳を持っているが、私のなかで実を結ぶものは結局いつも、この私にとって切実に思えるわずかなものだけに過ぎない。私はそれほど多くのことを話せないし、私の目はおそらく盲(めしい)に近い。だが私の掌にはいつも清澄な一筋の川が流れている。私は植物のような根を持ち、風を感じることができる。黄金に染まった葉を落とし、秋を讃えることができる。誰にも邪魔されない場所でひとり静かにため息をつくこともできる。

 

 あなたに恋い焦がれて、もうずいぶんと久しい。

2002.11.19

 

 

 

 

 

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