■日々是ゴム消し Log23 もどる

 

 

 

 

 

 昨日から、関東に住むバカババとバカオバが泊まりに来ている。狭いわが家でレンタルの布団を手配しての滞在である。夜になれば、私のパソコン机の前も敷き詰められた布団で封鎖されてしまう。夕べはチビも大興奮して、夜中の12時にやっとご就寝。まあ、女どもが三人寄れば姦しいことよ。今日も朝から自然化粧品のカタログを前に三人で車座になって盛り上がっている。私は仕方ない、子どもと遊ぼうかと招き寄せたら、やはりチビも女で姦しいのが好きなのかぺたぺたと這っていって車座に加わり、いっしょに何やらうにゃうにゃと話をし始めた。私は部屋の隅っこに寝転がり、4対1では勝ち目がない、これも将来の父親像かと、ひとり読みかけの頁をめくる。明日は愚母の希望で奈良市まで、博物館でやっている東大寺展を見に行くそうな。

2002.5.11

 

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 一条の朝日をあびて輝く谷間のシダは荘厳である。深山の野性の鹿のごとく、高貴と神秘に満ちている。足下で黙している苔むした石も、土に臥してしずかに朽ちなんとしている老樹も、また荘厳である。この静謐な谷間いっぱいに、凛とした巨大な透明球体が静止している。

 そして〈わたし〉は、この何処(いづこ)にもいない。

2002.5.13

 

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 火曜に母と妹が関東へ帰ってから、気疲れのせいか、つれあいと仲良く風邪をひいてしまった。親二人がダウンして子どもだけ元気というのも辛い構図である。一人が寝ている間に、もう一人が何とか起きて食事の支度をしたり、オムツを取り替えたり、浣腸をしたりする。幸い今日になって、二人とも多少回復してきたかと思ったら案の定、こんどは子どもがうつった。熱は38度で、鼻がつまって鼻水が止まらず、少しいらいらしている。

 

 日曜は予定通り、母や妹たちと奈良市の県立博物館で開催中の東大寺展を見に行ってきた。ゴールデン・ウィークも過ぎて、少しは空いているのではないかと期待したのだけれど、相変わらず凄い人出であった。入り口でベビー・カーは入れないので預け所に置いてくれと言われて赤ん坊は抱いて入場したのだが、これが余計に疲れた。同行した母と妹がときおり代わって抱いてくれたものの、ああした場所に赤ん坊を連れて行くのはやはりなかなかに難しい。

 内容の方はというと、三月堂の有名な日光・月光の両菩薩をまぢかで見れたり、資料でよく見かけた古地図の実物を見れたりといくつかの見所はあったが、多くはいわゆる東大寺の資財帳や寄進の文書・歴代の僧侶の座像などビジネス的な社史とでもいった趣で、私はあまりそうしたものには興味が薄い。それよりも、宣伝のわりに意外と地味な展示内容に集まった大勢の老若男女の群れを眺めながら、「仏像」や「寺」といったものは日本人にとっていまも一種の文化的ステイタスなのだろうか、それは果たしてほんとうに自明の風景なのだろうか、てなことを考えたりしていた。

 ちなみに妹によると赤ん坊は、仏像の手の格好を一生懸命に真似てみたりして、それなりに愉しんでいたらしい。邪鬼が四天王に踏みつぶされているところでは「あっ」と叫び声をあげて隣にいた老夫婦を驚かせたそうだ。

 

 孫引だが「過去の透明は神々の注視のもとにあった人間の素朴な存在から産み出されたものであったが、新しい透明は自我との内的な関係であり、自己の自己に対する関係なのである」(透明と障害---ルソーの世界・スタロバンスキー)というルソーについての言葉を考えている。

 私たちは相変わらずパノプティコンの監獄の中にいる。唯一許された内面の自由とは、いわば怜悧で巧妙な監獄による囲い込みの別称に過ぎない。そして私たちの内面はひどく病んでいる。近代が人間による自然の支配、人間による人間の支配と均質化によるその魂の分断化であるとすれば、私たちは前近代の透明から容赦なく切り離され、追放されている。

 ノイズを増幅させよ。

2002.5.16

 

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 日木流奈(ひき・るな)くんは現在12歳。極小未熟児で腸がはみ出した状態で生まれてきたために三度の手術を受け、そのストレスによって脳にたまった水が脳を圧迫・一部を破壊し、重度の脳障害となった。その後ドーマン法というリハビリ・プログラムを受け続け、文字盤による意志疎通が可能となり、これまで多くの詩集や自伝をみずからの言葉で出版している。

 しばらく前にNHKでかれの日常が放送され、またつれあいが買ってきた「ひとが否定されないルール 妹ソマにのこしたい世界」(講談社 @1500) といういちばん新しい著書を、私はいま読んでいる。

 ドーマン法というのは手作りのカードを使って行われる特殊なプログラムで、流奈くんはこれによって多くの知識を得、また小学生の頃から大人も顔負けの難しい哲学や天文学・生物学等の読書をこなし、文字盤によって伝えられるかれ自身の言葉も実にウィットに富んで理論整然としたものなのだが、そのことが一部の人たちの間に疑惑を抱かせているらしい。つまり、全身が不自由で発声もままならず呼吸さえ困難な子どもがほんとうにこんなことを考えこんな文章を操れるのか、文字盤を読みとっている母親のでっちあげではないのか、という「かんぐり」である。

 実際に、やはりテレビで番組を見たという私とつれあいの双方の実家でも、ちょっと信じ難い、という表情をしていたのだが、私は母に「かれの言葉は真実、言語を奪われていた者でしか書けないリアルな重みがある。だからじぶんは本当だと信じている」と伝えた。

 私はその状況においてカスパール・ハウザーのことを想った。カスパール・ハウザーというのは、ヨーロッパのある時代に謎の経緯で赤ん坊の時より外部との接触を遮断されてひとり穴蔵に幽閉されていたところを発見された青年の名前で、かれが言語というものを新たに発見していく過程は、たとえば種村季弘氏の「謎のカスパール・ハウザー」(河出書房新社 1991) などに詳しい。そしてかれ(流奈くん)のことばの透明な深度において私はときに、インドの哲人・クリシュナ・ムルティを想起する。

 とはいえ、よくよく考えてみれば、流奈くんは当たり前のこと(少なくとも、この私にとっては)を当たり前に考えているのであって、ただかれの場合、その当たり前を邪魔されたりスポイルされることのない環境に恵まれていたのと、意志疎通が困難であった障害が逆にかれに物事の本質を見抜く冷静な視点とことばの深度と誠意をもたらしたのだ、ということに気づく。NHKの番組では、流奈くんの著書に感動した大人たちが交流会に集い、幼い流奈くんに人生の意味について様々な質問をする場面があるのだが、私にはそれは逆に大人たちの社会がいかに病んでいるのかということを如実に映し出している風景のように思える。

 つれあいは、一見英才教育に見違えられがちなそのリハビリ法よりも、絶えず子どもの心に寄り添おうとする両親の愛情に満ちた子育ての記述が私たちにも参考になる、と言う。私は、たとえば「五体不満足」のような明るい障害者の本がベストセラーになったりする状況についてはやや眉唾物であったが、この流奈くんの本には結構感動したし、すがすがしいものを感じたのである。

 

 私は、混沌の中にいました。この混沌が秩序あるものに変化していくのを私は体で感じとることができました。私がまだ肉体的に混沌の状態でありながら、精神的には混沌の中に残らずにすんでいるのは、私が言葉を伝える術を得たからです。

 

 私は条件をつけずに愛されました。このまんまの私を受け入れてもらえました。脳障害であることは大変ではあるけれど、私の存在を否定する材料にはなりえませんでした。

 そして、そこから始められた私は、それ以後もだれかと比較されたことはなく、テストされたこともなく、きのうの自分よりあしたの自分が優秀になっていればいいという思想のもと、育てられました。

 私は常に成功者でした。私自身において。だれかと比べてでは決してなかったのです。私は私自身でありさえすればよかったのです。

 

 私はとても恵まれた子どもですが、脳障害というハンディのほかに、私自身の存在の説明をすることを余儀なくされるようになりました。私は、子どもとしても、脳障害を持つ者としても、世の中の誤解と向き合わなければならない立場に追い込まれました。私が語れば語るほど、私は子どもや脳障害のことを知らない人たちに出会うのです。これは、たぶん私が生きている間中、続くことでしょう。私は、ですから、手放すことを覚えました。私は語り続けますが、共鳴し、共感してくださるかたに語るだけにしたのです。ただ語るのです。

 

 自分が教えてやったというおごりを捨て、子どもと共に学ぶことができる大人たちは、心が平安です。私はそういう大人たちと初めに出会ったおかげで、体が不自由でも、苦しいときも、心だけは平安でいられたのです。

“平等”という言葉は、時として人を大きく勘違いさせることがあります。同じ時間、同じ量のことを、同じようにしなければ平等だといわないとしたら、この世はもっともっとおかしなことになってしまいます。私は、平等というのは、それぞれの人が必要な時間、必要なだけ、その人に合ったやり方で接してもらえることだと思っているのです。ですから、世の中でいう“平等”がおかしく感じるときがあるのです。

 

「ひとが否定されないルール 妹ソマにのこしたい世界」より

 

 かれの言う“平等”は、いま世界中を覆っているグローバリゼーションの弱肉強食の中での“平等”とは明らかに異なる尺度を持っている。それは人を否定しない尺度、差異を否定しない尺度でもある。

 

● 参照

Online Luna (流奈くんのHP) http://www2.odn.ne.jp/luna/

ドーマン研究所 http://www.doman.co.jp/

2002.5.17

 

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 午前中、三人で買い物に行く。特売の98円の卵を2パック、ミンチと豚バラ肉、牛乳、人参、ジャガイモ、春キャベツ。文具売り場で子どもはチョコランタンのパズルを買ってもらう。10ピースのが出来るようになったので、こんどは20ピースのやつだ。昼は焼きそば。夜はつれあいがオムレツを、私が人参のスープをつくった。夕方、手押し車の子どもとアパートの周辺を散歩。いつものように斜面の際で寝そべって、蟻を眺めている。小石と枯葉と梅干しの種を拾い、電信柱を見上げて「オオキィ」と言う。

 

 古本屋で買った「ヒジュラに会う 知られざるインド・半陰陽の社会」(大谷幸三・ちくま文庫) という本を、昨日から読んでいる。

 

 ヒジュラっていうのは、ヒンディー語で半陰陽のことだ。男でも女でもないんだ。インド人なら誰でも知っているが、彼らが生まれると、子供のうちに必ず、ヒジュラの社会へ連れてこられる。10人ぐらいずつの集団を作って暮らし、歌や踊りを人に見せて金を乞う。

 死んだときが哀れだ。仲間だけで通夜をする。一晩中、ああして歌をうたって弔うんだ。そして死体を裸にして、殴り、蹴り、傷めつける。「二度とこんな呪われた身体で生まれてくるな」 そう言って呻くんだ。死体は深夜にジャムナ河へ流すらしい。だけど誰もこれを見た者はいない。

 

 私はじぶんも、かれらと同じようなものではないか、と思う。

2002.5.18

 

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 インドには「カマラプジャ」として広く知られる行為があるという。これは自己の肉体の一部を神へ捧げるもので、たとえば田舎の農夫が突然、神のお告げを聞き、農機具で片腕を切り落とす。また中には、己のペニスを切り落とす男たちもいる。20世紀に入ってからも、「神が命じられた」と叫び、神懸かりになって草刈り鎌でじぶんの首を切り落とした例も報告されている。「ヒジュラに会う」の著者は、次のように書く。

 

 カマラプジャによって切り落とされた腕に痛みがないように、体から離れた頭にも、すでに生きるための役割はない。人は切断した肉体の一部に、それ以前の自己の生命を込めて、捨て去るのである。腕も頭も、このとき、苦悩と矛盾に満ちた精神を捨てる、ゴミ袋になっている。カマラプジャは、人間に現実と異なる生命を得る可能性を示唆している。

 

 これを馬鹿げた行為だと冷笑する者は、身を引き裂かんばかりの苦悩に苛まれたことがない者だろう。実際、明恵は紀州の山中で仏眼仏母像を前に己の片耳を切り裂き、ゴッホもまた同じ行為へ追いつめられた。かれらは激しい葛藤の末に、ディランの歌った“this chain of events that I must break (断ち切らねばならない鎖の連なり)”を、まさに断ち切ろうとしたのだ。それはより高き生への希求、破壊による再生である。草刈り鎌で切り落とした首も、かのインドのような土地では、ひとつの絶望的なチャクラ(環)を閉じ、己を次の生命のサイクルへ投げ入れる荒技であると思えば得心もする。

2002.5.19

 

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 カルカッタの喧噪から汽車で数時間、さらにおんぼろバスで小一時間揺られたコナーラクという田舎の村に一週間、滞在したことがあった。太陽を讃えた未完成の古代神殿があるほかは何もない、鄙びた農村だった。朝起きて、馴じみの屋台の雑貨屋でペットボトルのミネラル・ウォーターと煙草を買い、宿で借りた自転車に乗って未舗装の田舎道を走った。畑のはたで車座になってお喋りをしているサリーを着た女たち。道沿いの雑貨屋の前でコーラをラッパ飲みしている半裸の男たち。自転車をとめ、誰もいないだだっぴろい荒野に座って、灼熱の大地を眺めた。木陰に横たわっている牛。まばらな草地をときどき鮮やかに駆け抜けていく原色の尾長猿。こんなところをブッダも歩いたのだろうな、と思った。時間の流れがどこか違った。ガラクタを捨て去って、ほんとうに必要なものだけを考えられる場所だった。

 ガンジス川に面したガート(沐浴場)に隣接するベナレスの焼場では、一日中、石段に腰を下ろして炎に包まれる死体を黙って眺めていた。一日に何体もの死者たちが運ばれ、ひと握りの灰となって川面へ流された。吹き抜ける風はやわらかだったが、頬は炎で熱かった。夕闇のガートをいつまでもさまよい歩いた。

 あそこではほんとうの〈いのち〉が見えた。ほんとうに必要なものはわずかでしかない、それを手放してはいけない、と思ったのだった。

2002.5.20

 

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「江戸のノイズ 監獄都市の光と闇」(櫻井進・NHKブックス) を読了する。実にスリリングな知的興奮に満ちた読書だった。たとえば冒頭、「日本といえば桜と富士山」という美意識は果たして自明なるものなのか、と著者は問う。桜はもともと朝鮮半島から伝播したものであり、富士山はかつて関東の仄冥い修験信仰の対象でしかなかった。富士山でいえば、明治期の地理学者によって日本人の国民性に結びつけられ、各地の名山に○○富士といった名称が与えられ、さらに関東大震災後、再建された多くの銭湯の背景画に模写されることによって国民的な風景へとなっていった。逆に徳川期の美意識を代表する「日光の東照宮や葵の紋」はどうか。家康を神として祭った東照宮は、現代人の私たちにはあまりにもケバケバしく、神聖なる葵の紋はいまやテレビの水戸黄門がふりかざす程度のものでしかない。そうして著者は次のように書く。

 

 葵や東照宮がうさんくさく、まがいものに見えるのは、われわれが徳川の権力の内部にいないからである。そして、桜や富士も、国民や民族性という枠組みから出てしまえば、充分いかがわしく、うさんくさい存在なのである。

 

 私たちはそのような物語から解放されねばならない、と著者は言うのである。中世的な自由の領域=アジールは、監獄都市・江戸の排除と囲い込み・絶えざる監視という権力のシステムによって巧妙に取り込まれ、管理されていった。そうした抑圧による無意識のささやかな叛乱=ノイズを、著者は「八犬伝」や「雨月物語」などに探っていく。そのような雑音・非-情報に耳を傾けよ、と言う。それは「自明なるもの」の解体である。

 

 戦後50年以上にわたって、日本社会は「正常に」機能してきた。1945年の敗戦によっても日本は、対共産主義の世界戦略の中で、従来のシステムを保持してきた。しかしそのような中でわれわれは、いつしかシステムとは絶対的で不変のものだという意識を持つようになったのではないだろうか。本書で紹介したベンヤミンやフーコーらは、常に彼らが属しているブルジョワ社会に対する違和感を持ち続けてきた。そのことが彼らのいう「生の技法」に関わっている。システムに対する違和感に敏感であり続け、自己自身のもうひとつのありかたを求め続けること。そして、絶対化されたシステムによって、排除され抑圧された人々の発するノイズに耳を傾け続けること。われわれは、自国にあっても一人の異国人(エトランジエ)である。多くの人々が信じ続けている「自己同一性」なるものも虚構であり、「想像の共同体」と結びついたものでしかない。

 くり返すが、近代・前近代という歴史的分割線を超えて、ノイズは常にシステムの中に潜在してきた。従来の歴史=物語が隠蔽してきたノイズのダイナミズムに敏感であることによって、今こそわれわれは、システムの内部でしか生きることができないという態度を放棄するべきではないか。脱システムの運動が始められなければならない。

 

 

 「ヒジュラに会う 知られざるインド・半陰陽の社会」(大谷幸三・ちくま文庫) を読了する。これも面白くて、一気に読んでしまった。かれらもまたインド社会の闇に産まれ落ちた鬼子=ノイズであり、かつて王たちに仕え「性なき者」として出産の祝い事を歌う聖性をまとっていたその歴史的光景は、日本の河原者やホギトたちとおなじである。しかしインドにおいても貨幣経済が浸透するにつれてその聖性は剥奪され、かれらはかつての聖なる残滓をまとった怪しげな物乞いもどきへと没落していった。解説をかの藤原新也が寄せている。これはかつて、インドのカースト制について素朴な疑問を呈した私の友人にもぜひ読んでもらいたい内容なので、少し長いが一部をここに引いておく。

 

 もしかりに戦後日本の合理的な教育で育ったに違いないその日本人僧がインドにおけるカースト制度に直面したとき、どのような態度を示すかほぼ見当がつく。おそらく彼は“人はみなすべて平等”というだろうと思う。平等思想とはご承知のように近代の西洋から入ってきた考え方である。それはアメリカでリンカーンが大統領であった時代に渡米した福沢諭吉が“天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”と、リンカーンの民主主義思想の受け売りとも思える格言を吐いて進歩的日本人と崇められたあの時代から、ずっと今日まで続いているのである。

 このような時代の流れの中で、私に限らず人はみなすべて平等であるべきだ、との思いは誰にもあり、それは特別な考え方ではないわけだが、ではそれぞれの個体がすべて平等に生まれついているかと天に向かって問えば残念ながらあらゆる個体はあらかじめ不平等につくられている、という動かし難い現実がある。天は人の上に、人をつくり、人の下に人をつくっているのである。

 たとえば本書の主題である現実の肉体として半陰陽で生まれてきた者と、男や女の機能を十全に備えて生まれてきた者との間には、どちらが上下であるかという問題は別として、天はあらかじめ人の間に差異を与えているとしか考えようがない。あるいはさらにつきつめるなら人の生き死ににはあるいは神の意志というものは介在していないのかも知れない。

 おそらく人にはこのようにあらかじめ差異があることにより、平等主義が生まれ、また逆に差別思想が生まれたわけである。しかしインドに古代からあるカースト制度は、それを乱用する局面では悲惨な結果を招くことがあるが、それは本来はこの天の成した理不尽をいかに受容し、その矛盾をどのように人間集団の中で解消していくかという生活の知恵でもあったように思う。たとえばヒジュラがそのよい例である。

 明治の文明開化以降、自由と平等という西洋の理念をわがものとして、それがいまや一見空気のように当たり前のものとなっているこの国において、皮肉なことに半陰陽に生まれついた人々がそれでは世間並みに平等であるかというと決してそうではない。世間を大手を振って歩けない日陰者として、負い目をもって暮らしているというのが実情である。にもかかわらずカースト制度という、私たちの側から考えると“野蛮な制度”がいまだに厳然として存在するインドにおいて、半陰陽の人々がわれわれの国における以上に世間に負い目をもって暮らしているかというと、これが逆にそうではない、という本末転倒のようなことが起こる。

 つまり本書の記述にもあるように、ヒジュラはインドの広義の意味におけるカースト制度の中においてヒジュラにしか出来ない職分、つまり人間社会の中における「役割」を歴史上の自明の事実として獲得している。彼らは社会から“必要とされている”のである。存在を否定されることが最大の「差別」であってみればこれほどの救済があろうか。

 

 

 「江戸のノイズ」の著者が指摘していたことだが、かつて古代において犯罪者の刑罰は共同体の外部への追放刑であった。しかし近代以降、かれらは「監禁され、消毒=教育されることが必要になった」 そしてそれは監獄と学校との類同性を示している、という。つまり一見自由で平等に見える私たちの社会システムは、インドの“野蛮な”カースト制度の寛容さすら持ち合わせていない、ということではないか。これらはみな、「自明なる」風景の裏側に巣くうノイズの荒れ野である。「自明なるもの」はそこから瓦解していく。

2002.5.21

 

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 子どもは一ヶ月ぶりの病院。脳外科では足の回復はとても良い状態になってきていると言われた。泌尿器科の評価はいつも厳しい。これからは毎日、オムツを取り替えるたびに便の掻き出しをするように、とのこと。

 いつの頃からか、外の通路に並べているプランターに毎夕水をやるのを、子どもは手伝うようになった。靴をはいて、手を添えられて如雨露を動かすのである。そのたびに、植えられている植物が何であるかを説明しながら水をやる。おかげで子どもは「はぶ (ハーブ)」という言葉も覚えた。ひとつだけずっと土しかない鉢があって、子どもはそれを気にかけてその鉢に多く水をやろうとしていたのだが、そこもいまはバジルの小さな芽がたくさん出てきた。いま、彼女のいちばんのお気に入りは苺のプランターである。その前へ来ると、鬱蒼と茂った葉をかき分けて熟した実を見つけ「アカイ」と言う。摘んだ苺は水やりを終えてから台所へ持っていって、お母さんに「キレイキレイ」してもらう。それからお皿に乗せられた二つ、三つの苺を嬉しそうに頬張る。ときどきお父さんにひとつ、分けてくれるときもある。

2002.5.21 深夜

 

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 中断していたユングの「ヨブへの答え」(林道義訳 みすず書房) をふたたび読み始めている。このユングの“問題の書”はまさに怪著である。かれは神を精神分析しようと試みている!! しかも壮大な精神の、深い変容のドラマとして。旧約聖書に記されたヨブ記のあらすじについては省く。たとえばこのようなくだり。

 

 打ち倒され、迫害された者が勝利するのは当然である。なぜならヨブはヤーヴェより道徳的に上に立ったからである。この点では被造物が創造主を追い越したのである。外的な出来事が無意識の知に触れるときにはいつでもそうであるが、無意識の知が意識化されることがある。[その場合には]その出来事は《既視》のものとして認識され、それについて予め存在していた知が思い起こされる。この種の事がヤーヴェに起こったにちがいない。(中略) こうして重大な結果をもたらす決断がなされる。つまり彼は以前の幼稚な意識状態を越えて高まるのである。彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。

 

 つまりユングは、ときに人間の精神的発達(道徳や知恵)が神を追い越し、その人間の営みによって神自身がさらに高みへと目覚めさせられる、ということを聖書のテキストから読み解くのである。そしてこの本の中でそれはまだ序章であり、ヨブの物語は、キリストという新しき(ある意味で高度な)精神を人間の内に誕生させるための前準備であり、そのために必要とされた神と人間の緊張状態であった、というのがこの本の(おそらく)主題である。そのためにユングの語り口は慎重で、切実で、しかも深い確信に満ち、伸びやかである。この異邦人(エトランジエ)は何と奇怪で巨大な絵筆をもって数千年の人間の無意識を描こうとしていることか。

 

 また、かれは次のようにも記す。

 

 キリストの誕生は歴史的な一回限りの出来事であるにもかかわらず、しかしそれはいつでも永遠に存在し続けているのである。この種の事柄にうとい人にとっては、無時間的な永遠の出来事と一回限りの出来事とが同一であるという観念はつねにしっくりこないものである。しかし彼は次のような考え方に慣れなければならない、すなわち「時間」とは相対的な概念であって、本来は、あらゆる歴史的な現象がバルドないしプレローマにおいては「同時的に」存在しているという概念によって補われるべきだ、という考え方である。プレローマの中に永遠の「範例」として存在しているものは、時間の中に非周期的な反復として・すなわち多くの不規則的な繰り返しとして・現れる。

*バルド......「チベットの死者の書」において、人が死んでから再び生まれ変わるまでの期間を指す。
*プレローマ.......グノーシス主義における霊界、根源的な原初の状態。プレローマは形も音もなく無の状態であるが、永遠であり充溢である。本書では、被造物の世界に対する天界、の意味で使われている。

 

 こんな引用をすると、思わず顔をそむける人もいるかも知れない。私はキリスト者ではないし、何らかの特定の信仰も一切持っていないが、このようなユングの、ある意味で難解に見える文章はほとんど感覚的に「解る」。いつもそうだが、ユングの本は私に何か新しいもの・未知のものを示してくれるわけではない。すでに私の内部にあるものを気づかせてくれるのだ。それはただ「名付けられる」のである。「ところで、予め存在するモデルがなければ何事も起こりえない------《無からの創造》でさえつねに「女性の工匠(たくみ)」の空想の中の永遠のイメージの宝庫に頼らざるをえない------のであるから」 さらに言うならば、現代の私たちの悲劇はこのような内部の錬金術・深い無意識の神話的ドラマ・世界の見えざる領土との交通を自ら遮断し、逆にそれらから放逐されてしまったことにあると私は考えている。そしてユングの本は確実に私の魂のパンである。ここでなら私は生きられるし、私の魂は活気を取り戻すことができる。つまりそれ以外の場所では、私の魂は常に窒息しかけている。

 

わたしのこの歓びは
この世がわたしに与えてくれなかったもの

2002.5.22

 

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 石室(いしむろ)にひとり閉じこもり、お前の〈下から〉やってくる声に耳を傾けることだ。それ以外の声は、お前の魂をばらばらに引き裂いてしまうだけのものに過ぎないから。お前の暗い深みに棲んでいるぬらりとした盲(めしい)の古生物だけが、この世で唯一のお前の真の助言者である。

 

 あなた自身のなかへと上昇するように努めなさい。それには身体からあなたのすべての[霊の]肢体[部分]を集め入れることです。これらの肢体は、かつて大いなる力に満ちていたあの統一から多様性のなかへと散乱し撒きちらされたものなのです。あなたの内なる生得的観念をひとつに集め、統一しなさい。そして、それらが混乱していれば明晰に言い表し、闇につつまれていたならば光のもとに引き出すよう試みなさい。

Porhyr. Ad Marcell. ィ

 

2002.5.23

 

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 ときどき、地獄へまっしぐら、という気持ちがする。ときどき、黄金色をした一面の麦畑をどこまでも歩いていく、そんな気持ちがする。私にもし「信仰」というものがあるとしたら、それは一本の素朴な麦穂のようなものだ。私は森のなかで、荘厳な瀧の前で、それはどこから来てどこへ去っていくのか、と問うてみる。雨に濡れた舗道の上を小躍りして歩む。私は私をやわらかに取り巻く世界の神秘を信じている。それらが終わりなく続くことを信じている。

 小さな娘はさっき、私の目をじっと見つめながら、私の唄う「揺りかごの歌」を聞きながら寝入ってしまった。その穏やかで静かな睡眠は、私にある種のささやかな確信を約束してくれる。

 

 自然は教師であり、こころ(ゼーレ)は弟子である。教師が教えることや弟子が習うことは神から与えられたものであり、神こそは教師の師そのものである。こころ(ゼーレ)がその最高の師から自らの内に受け取ることのできるものを、あなたはあなたの内なるあなた自身のこころ(ゼーレ)を通じて理解することができる。あなたの感情を揺り動かす、そのこころ(ゼーレ)をこそ感じとりなさい。こころ(ゼーレ)は、未来を暗示する出来事に対してはあなたの予言者であり、前兆に対してはあなたの解釈者であり、結果に対してはあなたの保護者であることを思いなさい。

(テルトゥリアヌス・こころ(ゼーレ)の証言について)

 

ニール・ヤングの「Silver & Gold」を聴きながら

2002.5.24

 

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 子どもは今日はひさしぶりのプール。鼻風邪がまだ治りきらず、鼻水を垂らしながら、それでも嬉々として泳いでいたらしい。前述した泌尿器科の医師のアドバイスで、このごろはオムツの交換のたび、つまり一日約6回ほど便の掻き出しをしている。医療用の薄いゴム手袋をはめたつれあいが指を入れ、子どもはそのたびに泣いて嫌がる。毎日のことながら憂鬱な時間である。鹿のフンのようなかけらが2. 3個出るときもあれば、何も出ないときもある。子どもはこのごろ、私を指して「とお」(お父さんの意)と言う。

 昼食後、子どもが昼寝をしている間に(といっても途中から起きてきたが)、録画しておいた伊丹十三監督の「タンポポ」をつれあいと二人で見る。改めてその才能が惜しまれる。うまいラーメンが食いたくなったが、残念ながら今夜はイカとほうれん草のソテーの予定である。

 夜、NHKのテレビで、第三者からの提供による人工授精(AID)で生まれた子どもたちが成長後に「遺伝上の父親」を探す、という番組を見る。これは同じような記事が金曜の朝日夕刊にも載っていた。AIDの契約・同意書には提供者(ドナー)の情報は伝えないという項目がある。だが生まれてきた当人たちは、私たちはその席にはいなかった、私たちには知る権利がある、と主張する。当然のことである。番組に登場した米国の男性はおなじような境涯にある世界中の人たちとメールでやりとりをするうちに、その中に自分と特徴などが似ている3人の男女がいることに気づく。かれらは一堂に会してDNA鑑定を依頼する。結果はうち3人が異母兄弟であった。つまり同じ男性から提供された精子の遺伝子を、互いに見知らぬ3人は受け継いでいたわけである。ヨーロッパなどではすでに、AIDによって生まれた人間が自らの出生情報を知る権利を盛り込んだ法律が制定され始めているという。他人の精子を使ってでも子どもが欲しい、そのためにドナー情報は隠蔽して自分たちの子どもとして育てたい、という親のエゴイズムが生まれてきた子どもたちの心を引き裂く。あるいは親と病院側の意図が、子どもたちの叛乱に晒される。これは前にも書いたことだが、私はいまのつれあいといっしょになろうと思ったとき、私はじぶんの子どもがとても欲しかったけれど、彼女が前の夫との間に子を成さなかったこと、彼女がすでに高齢出産といわれる年齢に充分であったこと、彼女自身が当初は子どもを望んでいなかったこと、などを含めて、もし子どもが出来なくても仕方ない、と半ば覚悟した。そういうことは運命で、こちらから望んで得られるものでなく、思いがけずもたらされる人智を超えた贈り物にすぎないから、と思ったのである。人は己の欲望のために、どこまで自然のモラルを改変したら気が済むのだろうか。だから私はあえて「エゴイズム」と記す。まだかつての、孤児院の不幸な子どもたちをもらい受けて育てるという社会的なシステムの方がいっそより人間的ではないか。スイスではすでに前述した「知る権利」の法律が制定されているために、情報開示を許諾したドナーの精子しか使用を許されていない。だがプライバシーを侵されることに同意するドナーは僅かである。したがって将来的には同一人物の精子だけが世界中に多数「流通」することも危惧される。「スイスは大口の大事な顧客だからね」とドナー・バンクの事務員は微笑み、机の上の発送伝票を軽く指ではじく。番組に登場した男性は、この町にもまだじぶんの見知らぬ異母兄弟がどこかにいて暮らしているのではないかと空恐ろしくなることがある、と言う。かれは自ら突き止めた数十人の「じぶんの父親の可能性のある人物たちのリスト」にある住所に宛てて、「私はほんとうの父親を知りたいのです」という手紙を何枚も書きつづる。これらはすでに、充分に狂った世界の光景であるように私には思われる。

2002.5.25

 

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 日曜。午前中、家族三人で買い物へ行く。帰り道、横断歩道を渡っているとどこからか坂本九リメイクの「明日があるさ」が流れてきて、つれあいが「この歌、何かいいよね」と涼しげな顔をして言う。私はどちらかというとジミ・ヘンの I Don't Live Today (今日を生きられない) だな、と思う。

 午後からひさしぶり(2,3年ぶり)に近所のとある教会へ、「テロリストから平和の使者へ」と題したヒュー・ブラウン氏の特別講演を聴きに行く。ブラウン氏は北アイルランドのベルファスト生まれ。プロテストタント系住民だったかれは15歳の時にIRAに対抗するテロ組織UVF(アルスター義勇軍)に加入し、資金調達の銀行強盗の罪で18歳のときに逮捕・入獄。その後、獄中でクリスチャンとなり、出獄後に牧師となって来日、現在は兵庫県の教会の宣教師として刑務所や少年院へも出向いて話をしている。

 獄中でかれはある日、他の囚人たちとテレビ放送の映画「ベン・ハー」を見た。信仰心のカケラもなかったかれは、映画の中に出てきたキリストの処刑の場面を見て、ある特別な体験をしたのだと言う。「私だけが別の何かを見ていた」 それからかれは獄中で聖書を読み始め、二週間後のある日、ひとりで聖書を開いていたときに「キリストが自らの内に入ってくる」のを感じた。「心の目が開かれた」のだと言う。

 私は、かつてテロリストだった人間の瞳をこの目で見てみたかった。かれの瞳はおだやかで、安らかであった。

 講演に際して、かれが朗読した聖書の一節は次のようなものである。

 

 そして、かれがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために、生きるためである。

 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。

コリント人への第二の手紙 5章15〜17節

 

*ヒュー・ブラウン氏についての参照

2002.5.26

 

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 ときどきメールのやりとりをしている、うちの娘とおなじ病気のお子さん(4ヶ月)を持つ東京のお母さん・Mさんから、数日前に久しぶりにメールを頂いた。内容は病気のためにお子さんが学資保険に入れなかった、というものである。メールの一部をここに引く。

 

 上の子の時には出産と同時に入ったのですが、●●はすぐに二分脊椎が疑われていたのでのばしのばしになってしまっていて、退院後一段落したので申し込んだところ1ヶ月以上もたってから”お断りします。お金はお返ししますので”という書類が届き呆然としてしまいました。●●区は乳幼児医療制度で6才まで医療費が無料なので特約はつけていなく、死亡保障のみのものだったのですが、”保険金をお支払いする事由の発生する見込みが高いので”という理由で断られました。それって●●が死亡する可能性が他の子より高いってこと??とムッときたのですが、それは抑えて事務局の方に”二分脊椎といっても合併症もないし、生死に関わるようなことは一切ない、医療費も特約をつけていないのだからもし通院することがあってもそちらに損になることはないはずだ”と抗議したのですが、二分脊椎、という病名で断る理由になるそうで、結局入れませんでした。

 

 私はこと保険については世間並み以下と断言していいくらい疎いのだが、このメールを拝読した上では、いかにも面妖な話だと思う。詳細はともかく病名がその理由だというのは、いかにもお役所的な説明で、実際のところ説明にさえなっていない(ということを、恐らく当人は自覚もない)。私だったらもっと噛みついていたことだろう。それはそれとして、Mさんはこの件によって、じぶんの子どもにはこんなふうに将来に渡ってハンデがつきまとうのか、と悲しくなって泣いてしまったと書かれていた。そして、ならば障害が軽く日常生活を支障なく営める程度であるなら、通院の交通費の割引等の恩恵を差し引いても、障害者という保険にも入れない「社会的弱者」のレッテルを貼られないために、いっそ障害者手帳の申請を控えた方が良いのではないだろうか、と続けていた。私の娘はすでに手帳を取得しているが、その点についてはどう考えられたか? というご質問であった。

 以下は本日書き送った、私の返信の一部である。

 

 

 障害者認定やハンデの件について、つれあいに訊くと「私は病気そのものについては心配したり落ち込んだりしたけれど、障害者であることやその立場について落ち込んだりしたことはない。それは私(たち)がそうした問題意識に以前から触れたり学んだりしていたからだと思う」と言っていました。ご存知かも知れませんが、彼女は以前に人権関連の博物館施設に勤めていて、それは私が差別の問題について考えさせられるきっかけにもなりました。

 ですからその件については、私たち夫婦の意見は(珍しく?)一致しております。(正確に言うと動揺した時期もあったと思いますが)

 被差別部落の問題でよく言われる話ですが、関東はどちらかというと「寝た子を起こすな」というタイプで、関西は逆に問題提議をする国柄なのだそうです。私は、手帳の申請による恩恵も大事ですがそれ以前に、自分の子が障害を持って生まれてきたことは事実なのであり、そしてそれは社会的に後ろ指をさされるようなことではもちろん決してないし、その事実に対して納得のいかないことがあれば、それは子どもに限らず、親に限らず、社会全体の問題であり、堂々と納得のいかないものに対しては立ち向かうつもりでいます。言ってみれば障害を持った子供を、●●さんの仰るような「社会的弱者」と「感じさせてしまう」社会の方に問題があるのだと思うからです。

 最近ゴム消しで紹介した脳障害のハンデを持った12歳のルナくんは、「両親はじぶんをありのままに受け入れてくれた。それで自分は楽に生きられた」と書いています。障害の程度の差はあるでしょうが、どれだけ軽度の障害であっても、社会の側(価値観など)に顔を向けた親がそれを(たとえ子どものためと考えたとしても)隠そうとする・あるいは認めまいとする態度は、実は障害を持った当の子ども自身にとっていちばん辛い光景なのではないかと考えます。親はどんなときであっても、社会の側でなく、子どもの側に立つべきだし、そうしたいと私は思っています。

 健常者であることがふつうで、それを価値基準として障害者を見るというその視点こそが変わらなければならない、と私は考えています。それは何も障害者のことだけでなく、部落差別でも人種差別でも宗教観の対立でもみな根はいっしょで、だからこそ社会全体の一人一人が考えなくてはいけないことである、と。

 ウチの娘はこの先、どの程度まで症状が回復するかは分かりませんが、完治する見込みはありません。おそらく日々のなかで、大なり小なりの問題意識も持たねばならず、悲しい目に会うことや、理不尽な視線に晒されることもあるでしょう。しかし私は、そのことによって娘に、ある種のコンプレックスや負い目を持ってもらいたくないと思います。そんなものを背負う必要はないのだ、と。隠す必要も、負い目を感じる必要もない、と。

 「障害が素晴らしい」とは口が裂けても言いたくありませんが、障害を持っている現実をしっかり見つめて、そこからさまざまな問題意識や他への思いやりの心を育て、時には苦しんで欲しい、それは逆に他の子には持てない娘の特権であり、それを親として共有していくことがカミサマより娘の命をプレゼントされた私たち夫婦の役割なのだと、そんなふうに思っています。

 もとより、これはあくまで私たちの考えであって、●●さんに無理強いするものではありませんし、手帳の申請をどうするのかも(当たり前ですが)ご自由なことです。少々辛辣な返事で、もし嫌な気がされたらお詫びしたいと思います。

 

 

2002.5.27

 

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 プール教室の月謝が勿体ないとの父親のチビた思いから治りかけのところをプールに連れて行かされふたたび風邪をぶりかえした哀れな赤ん坊は、昨日からまた熱があがって、今日は朝から39度である。貧乏人はこれだからいけない。幸い赤ん坊はうわべは元気そうだが、やはりいつもより我が儘で、食卓の献立にないスープを出せとか無理な要求を言ってくる。うちはホテルのレストランではないのだよ、紫乃くん。

 しばらく前に発売されたザ・バンドのリチャード・マニュエルの、死の数ヶ月前のソロ・ステージを収録したアルバムをずっと探しているのだが、マイナー・レーベルのせいかどこにも売っていない。というか、そもそも奈良にはロクなレコード屋がないのだ。奈良の文化は地中に埋まっているだけ、というのが私の持論である。リチャード、リチャードと目を血眼にしてあちこちを探し回っていたら、7軒目かの店の棚で「リチャード・クレイダーマンの団子三兄弟」なんてCDを見つけてしまった。どうしてくれる。

 ユングの『ヨブへの答え』から。「彼(イエス)は、人類が神とのつながりを失って、単なる意識とその「合理性」へと迷い込むことを防ぐ。もしそれが防がれなかったなら、それは意識と無意識の分裂を・つまり不自然なあるいはむしろ病理的な状態を・いわゆる「霊魂の喪失」を・意味していたことであろう。人間はそれに太古の昔からつねに脅かされてきたのである」 それを神と呼ぼうが、集合的無意識の元型と呼ぼうが、なんでも構わない。私はユングの言っていることは正しいと思う。つまりわれわれは、自我を超えた何かとつながっていなくてはならない、という魂の要請である。私たちはまさに「単なる意識とその「合理性」へと迷い込」んでしまっているのではないか。

 前述したMさんのメールと私の返信を併せて転送しておいた友人のN嬢より、さっそく次のような感想が届いたので最後に紹介しておく。

 

 

こんにちは。メール読みました。
保険ですか。やっかいですねぇ。
闘うことは大切ですが、それだけの価値があるのかどうか、私自身、分かりません。
いや、価値はあるんでしょうけど、それ以上の疲労は残りますからねぇ。消極的な意見と映るかもしれませんが、無駄な闘いに身を投じて、特攻隊みたいに玉砕するのは、もったいないです。
少なくとも、保険に入れない障害者に問題があるのではなくて、障害者を受け入れない保険のシステム、ひいては社会のありように問題があるのだということはおさえておいて、(むしろ、その考えを誰に納得させるわけでもなく、自分の心に落していく作業が一番たいせつだと考えてます)まずは、その社会を構成している、一人一人に働きかけていく(まきこんでいく)のが、遠回りに見えて、最も近道だと思います。障害者は、人を巻き込む天才だと思ってます。
その才能に制御をかけず、活かせれば、つまり、障害を隠すのではなく、あえて前面に押し出して行けば、結構な数の人間が刺激を受け、変わっていくんじゃないかなぁ。

 

> 障害の程度の差はあるでしょうが、どれだけ軽度の障害であっても、社会の側(価値観など)に顔を向けた親がそれを(たとえ子どものためと考えたとしても)隠そうとする・あるいは認めまいとする態度は、実は障害を持った当の子ども自身にとっていちばん辛い光景なのではないかと考えます。

そうですね。若かった時代のうちの親に、そのセリフを聞かせてあげたかったです。うちの親などは、まさしくその時点で長らくつまずいてた人ですから。
でも、そういう環境に育っていても、いつか子どもは自分で勝手に気づいていくんですから、まぁ、そう悲観的なことでもないんでしょうね。子どもの人生は子どものものですしね。
親は子どもの将来を心配するより、自分のために、障害者を受け入れられない社会(自分の内にある社会)と向き合ってほしいなぁ。
あと、障害の重度、軽度に関してですが、軽度の方がラクに思われがちですが、その点もあやしいですよね。
ある意味、軽度な障害者の方が、重度な障害者よりも、「障害をもつこと」の責任を自分でとらされてるようなところがありますから、かえって、しんどい部分があるかも知れません。

> 「障害が素晴らしい」とは口が裂けても言いたくありませんが、

●●君のいうような価値観の中で育てば、「障害はすばらしい!」と、紫乃ちゃんは言うかもしれませんよ。
障害をもつことは、しんどいことも多々ありますが、それと同じくらいかそれ以上の良いことがあって、人は一通りの生き方しか出来ませんから、それが障害をもたない人と較べてどうなのかとかは知りませんが、私は、人生を楽しむには有利な要素を与えられて生まれたのだなぁと、感じてます。

 

 

2002.5.28

 

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 水曜の昼、ふと思い立ち、書き置きをおいて、バイクを南へ走らせた。天辻峠を越え、十津川へ至り、そこから、玉置山へかけのぼった。夕闇の迫った玉置神社の鬱蒼たる境内で、樹齢600年の大杉と向き合った。かたく厚い樹皮に触れたとたん、こどもが老父の深い知恵に抱かれたような、大きな安らぎを感じた。〈私ハ、アナタノコドモデス〉 じぶんはこの大杉に会うために今日、ここまで来たのだ、と知った。足下に白い丸みを帯びた小石がひとつ落ちていた。拾いあげると、掌に心地よかった。杉が私にくれたものだと分かった。小石をポケットに入れて、境内を後にした。山頂の人気のない駐車場から、雪舟の墨絵のごとき重畳たる山並みに夕日が沈むのを眺めた。それから夜の本宮の大斎原、新宮のゴトヒキ岩を巡り、真夜中の新宮からとって返して、ふたたび家路をめざした。どこまでも暗くうねうねと続く山間の道は、さながら古代寺院の回廊のようだった。半日で延べ400キロ近くを走り続けたことになる。なかば無目的な長距離走のようだが、意味がないわけではない。バイクの良いところは車と違って、外界に身を晒していることにある。玉置神社の境内で拾った小石を胸ポケットにひそませて、大和から熊野に至る広大な山塊とその地霊を私は、わが身に写実したのである。それは私の中の何かを整えてくれた。

 

 ところで数日前、熊野・中辺路に住むヤゾーさんより愛らしい素焼きの置物が届いた。森の中で二人の子どもがカミサマと佇んでいて、裏に「豊かな森には神様がいて、小さな命を大切に見守っています」という文字が刻まれている。娘はこれを握って離さず、樹上に描かれた鳥をさして「ちっち」と言い、それから座っている女の子がじぶんで、カミサマはお母さんなのだと言う。そんなものかも知れない。あとで頂いたメールには「何年か前に焼いたものです。娘さんに差し上げる為に勝手にお送りしました」とあった。素朴な色と造形が、まるでかのフランチェスコが手すさびにねって焼いたもののような、そんな感じがした。子どももきっと大事にすることであろう。まさしく熊野の森の神からの素朴な贈り物であった。ヤゾーさん、どうもありがとう。

2002.5.30

 

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 朝から大阪・天王寺の職安を覗きにいく。駅前の王将で昼飯を食べてから、本屋で文藝別冊の「ボブ・ディラン特集」(KAWADE夢ムック・河出書房新社) を買う。近鉄百貨店へ入り、リチャード・マニュエルのソロ・ライブを買う。子ども用の安全ハサミ(紙しか切れないというもの)を買う。駅の裏手にある古めかしい種苗店でディル(ハーブ)の種を買う。それから四天王寺まで歩いていって、境内の宝物館で天王寺舞楽の面と装束を見る。この「仏教最初」の官寺に、朝鮮から中国、果てはベトナムやインドに至るアジアが渦巻いている。中上健次はかれのロード・ムービー「紀州 木の国・根の国物語」(角川書店)の旅の最後に、熊野からこの天王寺にたどり着いた。かれはこの土地を「一種身を紛れさせる〈闇〉である」と言い、「いつの時代でも貴賤混淆する場所の名でもある」と言う。そこで「ある少女が「三」に朝鮮人を言い、「四」は被差別部落民を言い、だから混血の自分は「七」だ、とケラケラ笑った」ことを回想する。石段の木陰で大きなリュックを傍らに置いた浮浪者が文庫を読んでいる。亀井堂の井戸に浮かんだ木札が柄の長いザルですくい上げられる。石舞台の脇の池で無数の亀たちが甲羅干しをしている。子育て地蔵の陰で白髪の老婆が一心に何かを祈り続けている。五重塔を見上げる木陰に腰を下ろしてユングの「ヨブへの答え」を読む。群れの中にびっこをひいた鳩がいる。ひとりの老婆がやってきて「たんとお食べよ、仲良く分け合ってな」と話しながらビニール袋のパン屑をばらまく。飛来した鳩の群れに、小柄な老婆の姿は一抹の風の如くかき消えてしまう。

2002.5.31

 

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 土日はひとりバイクに乗り、泊まりがけで野迫川へ行ってきた。今回の作業は、何と言ったらいいか、妻の部分で屋根を直立に支える柱の材づくりで、寝かせて皮むきをした太めの杉をまずご主人のKiiさんがチェーンソーで上下を平行に削ぎ、その面を私が電気のカンナで仕上げていくのである。長い杉の木をきっちりと割っていくKiiさんのチェーンソーもしんどいが、私の電気カンナも相当な重量でこれが結構大変なのである。どちらも腰にくる。まあ詳しいことは野迫川倶楽部のサイトを見て欲しいが、ともかく二日間、二人とも汗と木屑にまみれての二人三脚の作業で、何とか予定の材づくりをすべて終えられた。奥さんのKeiさんはその間、主に庭の草取りである。土曜の夜はバーベキューですでに顔なじみの近在の人たちも交えて酒盛り、日曜の昼はKeiさんがタコとセリのパスタをつくってくれた。夜はログで雑魚寝。この若い肉体をKeiさんの毒牙にかけられないかと冷や冷やして寝たのだが、それも杞憂に終わった。朝の5時半に「鳥がたくさん鳴いてるね」というKeiさんの声で目が覚め、いったん外に出て早朝の山の空気をひとしきり吸ってから、また8時頃まで眠った。天気のよい土日でも、ここは思い出した頃にときおり僅かな車が通りかかる程度である。あとはたくさんの野鳥のさえずりと(キツツキのドラミングも聞いた)、夜はフクロウの鳴き声が山に響くのを、作業の合間にコーヒーやお茶を飲みながら静かに耳を傾ける。萌え出たまばゆいばかりの新緑を眺める。早朝などは、水のせせらぎに混じって鳥たちの声が峰々を埋め、かれらこそが山の主人公なのだと思わされる。ここはまさに私にとって、ネイティブ・アメリカンのあるメディスンマンの言う「じぶんにとって居心地のよい場所」のひとつである。自然の呼吸ができる。帰りはいつものように摘みたての三つ葉や各種ハーブの他、たくさんの子どもへの手みやげを頂いて、橋本へ至る丹生川沿いの静かな渓流を抜けて8時頃に家に戻った。一晩だけとはいえ、「とお、とお」とすり寄ってくる子どもの匂いがひどく愛おしい。

2002.6.3

 

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 子どもは膀胱の検査。夕方、食事の支度をしているとつれあいより電話があり、荷物が多いので駅まで迎えに来て欲しいとの由で、行くと大きな紙バックをふたつ抱えて改札口から出てきた。中身は500mlの消毒薬が6本、導尿用のストロー状の管(カテーテルという)50本入りが4箱、ガーゼ6ダース(すべて一月分)、などである。残尿検査の結果、膀胱に溜まっている尿の量が前回より多くなっていて、まだ年齢的に確定はできないが、おしっこを止める筋が早めに締まっている可能性があり、導尿を指示されたのである。尿が残っていると、膀胱の変形を招いたり、あるいは逆流によって腎臓機能を阻害することにもなってしまう。導尿というのは、尿道にストロー状の管を差し込んで、強制的に残りの尿を排泄する方法である。就寝中を除いて、それを毎日2時間ごとに行う。外出のときにも前記のセットを携帯する。もしこれらの症状が神経の麻痺によるものだと確定されれば、子どもは生涯にわたってこの導尿を行い続けなくてはならない。小学生になれば、早い子はひとりで処置できるようになるそうだ、とも。医師の説明を話しながら、つれあいは思わず涙ぐんでいた。

 私は子どもが不憫で、ほんのときおりだが、いっそこの子を殺してじぶんも死んでしまおうか、という悪魔的な気持ちに駆られる。もちろん、それは比喩に過ぎず、一瞬の幻でしかない。それほどの悲しみが余りある、ということである。私はまだそれほど強くはなれないのである。

2002.6.4

 

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 つれあいに教えられて夕方、私も導尿をやってみる。はじめに石鹸で手をよく洗う。カテーテルを一本袋から取り出し、挿入する先端部分にゼリー状の潤滑液を塗る。消毒液にあらかじめ浸したガーゼ数枚を使って、さらに両手を念入りに拭き、続いて子どもの陰部の両端、そして中央を拭う。それからカテーテルを挿入するのだが、尿道を探すのが難しい。膣の上方になかば隠れるようにあった尿道を何とか探し当てて挿入する。数センチほど先端が入ると、もう一方の端から残尿が勢いよく流れ出てくる。それを紙オムツで受ける。これで導尿は終わりで、続いて便の掻き出しである。だがこれは、病院から支給された薄いゴム手袋が女性用であったのか私の手に入りきらず、仕方なくつれあいに代わってもらった。サラダ油をつけた手袋をはめたつれあいの指がこんどは肛門に挿入され、鉤型に曲げられた指が硬い幾切れかの便を掻き出してくる。不快感から身をよじって泣き出す子どもの身体を押さえつける。これが毎日、2時間ごとである。こうした毎日のことが、子どもの精神にどんな影響を及ぼすのだろうか、と考える。他の健康な子供たちが何気なくしていることが、この子は自力ではできないのだ。

 カミサマは頑張れる子に障害を与えるんだよ。そしてカミサマはそうした子どもを育てられる親に障害をもった子どもを配るんだよ、とつれあいがなかばじぶんに言い聞かせるように、子どもに話しかける。子どもは私とつれあいの間のほんの半メートルほどの距離をよたよたと往還しながら、けらけらと無邪気に笑っている。

2002.6.5

 

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 夜、NHKのテレビで「にんげんドキュメント 心の音色を教えたい 知的障害児が輝くピアノ教室」、つづいて「ETV2002 浪費なき成長は可能か 世界の環境知性と内橋克人が語る21世紀」を子どもを遊ばせながら、つれあいと二人で見る。前者は自ら知的障害の息子を持つ父親が、なかばボランティアでよその知的障害児たちにピアノ教室を開いている話。発表会を経て、成長していく子どもたちの姿が感動的だった。後者はデンマークの工科大教授との対話。「市場経済に支えられた価値観を問い直さなくてはいけない」「これからは経済成長でなく経済発展を」「がむしゃらに競争しなくなれば分別ある考えができるようになる」といった言葉に同感した。

2002.6.6

 

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 昨夜は家人が寝静まってからひとり、深夜にヘッドホンでリチャード・マニュエルのアルバムを聴きながら、かつてこのHP上で書き継いでいた子どもの妊娠から出産に至る記録をプリント・アウトしたものを読み返していた。いまではそれはひどく無邪気な、悲しく懐かしいものに思える。

 もし神というものが存在するのなら、私は神を呪いたい。私には神を呪う権利があるはずだ。異議申し立てを行う正当な理由があるはずだ。なぜ無邪気な子どもにではなく、この私の上にヨブの如き仕打ちを与えられなかったのか、と。いったい生まれたばかりの幼子に、どんな罪があるというのだろうか。なぜこの私の脚を砕き、私の神経を断たなかったのか。

2002.6.6 深夜

 

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 いまならはっきりと分かる。かれはザ・バンドの魂そのものだった。それも傷つきやすく、言うに言われぬ悲しみを湛えた輝く魂だった。魂の脱け出でた肉体は、もはや空虚な器にすぎない。ぼくらはそんな場所に取り残されてしまった。失ってしまってから、ぼくらは「かれに会いたい」と切実に思うのだ。〈届かない〉想いだけが、夏の草いきれのように散らばっている。人生はいつも取り返しがつかない。

 リチャード・マニュエルが死んだのは1986年3月4日。フロリダのモーテルの浴室のカーテンレールにベルトをひっかけて首を吊ったのだ。それは1978年にザ・バンドが解散し、その葬送セレモニーを華麗に企画・演出したロビー・ロバートスン抜きで再結成したツアーの最中のことだった。ツアーというよりも、かつての華やかなステージからほど遠いドサ回りのようなものだったらしい。リチャード・マニュエルはすぐれたソング・ライターだったけれど、ザ・バンド解散後もかれはソロ・アルバムというものを作らなかった。そしていま、死の数ヶ月前にウッドストックの小さなクラブで行われたソロ・ライブの音源が届けられた。もとより、かつてのザ・バンドの精妙な調和美・奇蹟のような魔法のサウンドはここに望むべくもない。ただ素朴な、剥き出しにされた美しい、かれのピアノと歌ばかりがあるだけだ。だがこの剥き出しにされた音楽こそが、ザ・バンドの魂だったのだ。ぼくらはそれを知らされる。死んだ人間の残された声というものは、いつも奇妙なものだ。

 You Don't Know Me というレイ・チャールズのスタンダードなラブ・ソングがある。再結成のときの来日公演でも歌われたし、このソロ・ライブにも収録されている。リチャードのお気に入りの一曲だった。どこかの場末のカフェにかれはいる。一人の魅力的な女性が入ってきて、顔なじみのかれに声をかけていく。男は女にぞっこんなのだが、内気で話しかけられない。しばらくして女は別の男と連れだって、かれに「さよなら」と言って店を出ていく。そんな歌だ。そしてリチャード・マニュエルは、きっと、そんな男だった。分かるだろう? そんな男だったのだ。かれの心の奥底には、そんな不器用な、やり場のない愛情がいつも狂おしく揺れていた。ぼくにはこの曲が、リチャード・マニュエルという人間をとてもよく表しているように思える。

 ロビー・ロバートスンは「ロックンロールのために死ぬなんてダサイことさ」と言って、さっさと舞台から降りてしまった。時代がそうだったのかも知れない。ロックは巨大な産業・システムとなり、片腕のゴーゴーダンサーや、四辻で悪魔に魂を売り渡したギタリストや、空き缶に血の唾を吐きながらハーモニカを吹き続けた男たちの伝説は過去のものだった。ロビー・ロバートスンはレコード会社の重役に収まった。だがリチャード・マニュエルには、そんな器用な生き方はできなかった。器用に立ち回るには、かれの魂はあまりにも重く、素朴で、繊細すぎた。You Don't Know Me の男のように孤独な場所で、かれは愛し、歌い続けたのだ。そしてある日、悲しみに跪いてしまった。もうそれ以上、歌い続けることができなかった。すべてを委ねて、魂が安らげる場所へ行きたかった。あの悲しい孤独な夜、カーテンレールにベルトを巻きつけた最後の瞬間、救いはかれのもとに訪れたのだろうか、と思う。残された者たちを置き去りにして、淋しい魂はどこへ行ってしまうのだろう?

 だが、生き続けている者たちもいる。ぼくら全員がそうだ。ぼくらの心の中で、リチャードの歌はいまも歌われ、ぼくらはそれを引き継いでいく。かれの歌が生きられる場所を探して、歩いていく。かれはとても遠くへ行ってしまった。もはやぼくらは、かれの肉体に触れることは敵わないが、かれの魂ならいまも感じられる。いまならはっきりと分かる。かれはザ・バンドの魂そのものだった。それも傷つきやすく、言うに言われぬ悲しみを湛えた輝く魂だった。

 リチャード、ぼくらはあなたの音楽をけっして忘れないだろう。あなたに生きていて欲しかったけれど、残されたあなたの歌を、ぼくらはくり返し聴き続ける。そして、あなたがきっとそうしたかったように、ぼくらはこの道を歩き続けていくだろう。 

2002.6.7

 

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 四日市に住む友人が泊まりに来ている。子どもはこの友人が大のお気に入りで、一日大はしゃぎである。つれあいと子どもがプールに行っている間に、昼は友人が豆腐のリゾットのようなものを、そして私が麻婆茄子をこしらえた。この豆腐リゾットは素朴だがなかなかの逸品で、後日にレシピで紹介したいと思う。夜はまたしても中華で、友人に子どもと遊んでもらっている間に私とつれあいで酢豚と焼き餃子をつくった。酢豚は買い物に行った私が勘違いで鶏のもも肉を買ってきてしまったために、酢豚ならぬ「酢鶏」になったが、これもなかなか乙なものであった。餃子はキャベツとミンチとシソ、それに味噌を少し加えた。子どもは友人とテレビのワールド・カップの中継を観戦して、いっしょにウヒョーなどといった奇声をあげている。

 さながら真夏のような暑い日が続いている。夏が近づくと、私はいつも(なぜだろうか)死んだ者たち、いまはもうこの地上にいない者たちのことを思い出す。夏の光の輝きは彼岸へいった者たちの思いに満ち溢れている、と思う。ものの輪郭をくっきりと映し出すあの光の充溢のなかで、私は何かを語りたい。手探りのなかで、届きたい。

2002.6.8

 

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 友人の車を利用してみんなで二上山へ登ってきた。いつか子どもを連れて行きたいと思っていたのだが、電車だと便が悪い。結局は、じぶんの好きな場所を子どもにも好きになって欲しいという親の身勝手な欲望なのだが、それを車で来た友人の来泊に便乗させてもらったわけである。二上山の雌岳へは、竹ノ内街道の大阪側にある「万葉の森」から登るのがいちばんのショート・コースで、山頂までほとんど公園並みのゆるやかな道が整備されている。子どもは親類から借りているパイプ製の背負子で背負った。古代の石切場跡や石窟寺院跡の岩屋などを経て、山頂付近で(急に事が決まったために)スーパーで買ってきたおにぎりやコロッケなどの昼食を頬張り、持参した装具の上に靴を履かせてしばらく子どもを遊ばせた。つれあいと友人は空気が心地いいと言って、ビニール・シートの上で寝そべっているうちに寝入ってしまった。ひとり草の上で昼寝をしていた体格の良い初老の男性とひょんなことから言葉を交わした。男性は大阪の住之江区から原付バイクできた。独り身だそうで、よくこの辺りの山間に登って昼寝を愉しんでいるという。リュックから先月、小学生の孫を連れて大峰山の山上ヶ岳に登ってきた写真を取りだし見せてくれた。「こういうところにいると、いつまでも帰りたくなくなっちゃうんだよなあ。ふだんの面倒な人間関係とも無縁だし」「人間っていうのは不思議なもので、こんだけ広い山でも来る場所はいつもたいてい決まっている」などと言う。帰りは途中から岩場の多い山道にそれて、鹿谷寺(ろくだんじ)という石切場を利用したやはり古代の石窟寺院跡を回って下山した。息も絶え絶えだったつれあいは、麓の茶屋でかき氷を食べて機嫌を直してくれた。蛇やトカゲや大好きな蟻もたくさん見れた子どもも、帰りは背負子に揺られながら眠ってしまったが、結構それなりに愉しんでくれたようだ。登山口の売店で手みやげに友人が買ってくれた力餅なる地元のヨモギ餅も、腰があってひどく美味しかった。 

2002.6.9

 

 

 

 

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