■日々是ゴム消し Log22 もどる

 

 

 

 

 

 一方で民族のため国のためと一切の未来の風景を捨てて、己の身にまとった爆薬に点火する18歳の女子高生がいれば、もう一方では妻への携帯電話に「もう時間がない。さあ、行こう」と言い残し、ハイジャック犯たちに立ち向かい死んでいった男たちがいる。私の生は、そのふたつの象徴的な死のあわいの、ながく間延びした緩衝地帯にだらしなく投げ出されている。

 

 sorairoさんのBBS アフガンめもでおしえられた「パレスチナ子どものキャンペーン」さんの「現地緊急速報」の悲惨な記事を読む。その一部を引く。

 

水を飲ませて。「爆破犯の町」から子どもたちの叫び
ジャニーヌ・ディ・ジョバンニ、Rummana(ジェニン近郊) April 09, 2002

 ハミードが最後に見たジェニン難民キャンプは、死体だらけだった。 14歳のハミードは、30時間にわたる爆撃のあと、土曜日の夜にイスラエル軍に投降した。破滅的な状況を語るハミードの体は、少しばかり震えている。ブルドーザーが死体の山をかたづけていた。家のがれきからは煙が上がっていた。子どもたちが水をもとめて泣き叫んでいた。下水を飲まされる子もいた。ハミードはイスラエル軍に投降したあと、兵士に衣服をはぎとられて下履き一枚の姿だったが、今は、パレスチナ人の支援者が買ってくれた新しいトレーナーを身につけている。爆撃にたえられなくなって、投降したのだという。 彼が避難していた家では、ロケット弾によって3人が殺された。

「でもほんとうに恐ろしかったのは、イスラエル兵士が8人の男たちを捕まえ、並ばせてから殺したのを見たときだ。」ハミードは、一部始終と男たちが受けた傷について詳しく語った。この後、ハミードと双子の兄弟アフメッド、兄のハディルは、白旗を作ると窓から出してうち振った。外に出るにはこの方法しかなかった。

 外に出たハミード兄弟は衣服をはがされ、後ろ手に締め上げられると目隠しをされた。100名あまりのパレスチナ人男性とともに、イスラエル内にあるサレムの兵営まで連れていかれた。サレムに着くと叩かれ、イスラエルのスパイになれと言って金を渡されたという。

 シン・べト(イスラエル社会安全保障組織)による48時間の尋問が終わると、はだしの男たちは近くの村に連れていかれ、西岸地区まで歩いて帰るように言われた。イスラエルと占領地域との間にあるオリーブの茂みをどうにか通り抜けてRummanaにたどり着いた。現在は、受け入れてくれた家庭に身を寄せている。だが、自分の家には二度と戻れない。 彼らにできるのは、壊された家々から数キロメートルにあるこの村にいて、攻撃ヘリによる爆撃を見ることだけだ。アフメドは腎臓のある場所の背中をひどく蹴られたため、苦痛に顔をゆがめながらマットに横たわっている。ハディルの目のまわりにはあざができて打撲傷も受けているが、兄弟たちは生きのびるだろう。

 

 だが、それほど幸運ではなかった人々もいる。モスクには土曜日に投降した人々がいた。そのうちの何人かは、人間の楯にされて衣服をはがされ、 何時間か戦車の前に立たされて辱めをうけてから、サレムの軍事基地に連れていかれた。

 イスラエル人の質問に「きちんと答えなかった」人々は、ひどく叩かれた。 ハーリド・ムスタファ・ムハメッド少年もその一人だ。彼は血まみれのマットにうつぶせに横たわり、背中には包帯が巻きつけられている。

 ハーリドは肋骨2本が折れて内出血をおこしており、半ば昏睡状態でうめき声をもらしている。町にいるたった一人の医師は疲れきっている。歯科医のファルーク・アルアフメドは、鎮痛薬の投与を試みているが、銃床でなぐられたことによる内部損傷があまりにもひどいため、治療を受けられなければ、少年は3日以内に死亡するだろうという。

「落ち着かせるための処置をして、折れた肋骨を固定したが、できるのはそこまでだ。わたしは歯科医なのだから。」 疲れきった医師はそう語った。昨夜、赤十字が述べたところでは、ジェニン難民キャンプへの立ち入りが許されず、 何時間も交渉したがパレスチナ側の救急車3台によって3名を収容したのみだという。

 

 昨日は一日中、イスラエル側の呼び名によれば「爆破犯の町」ジェニンの破壊が続いた。昼食時を過ぎたころ、澄み切った青空にいた攻撃ヘリが体勢を整えた。 ヘリの一団は旋回すると機首をさげ、一機がミサイルを発射した。

 空で音がしたかと思うと爆発がおこった。大気が震え、ジェニンからは柱のような煙がつきあげてきた。住民は、過酷な制裁が行われるのではないかと恐れている。ジェニンからは多数の自爆犯が出ているからだ。ファルーク医師は「 虐殺がおこるのではないだろうか」と述べた。ある目撃者によると、「女性と子どもたちは夫や父親からからひき離されて、近くの森に連れていかれた。」と言う。 Rummanaにいて危険にさらされているパレスチナ人の男たちは、残してきた家族を思って苦悩している。ジェニンからは何の情報もない。

 電話線は切断されており、電気もストップしている。イスラエル軍によると、パ レスチナ人の死者は70名、イスラエル兵士の死者は9名であるという。だが、目撃者によると、死者の数はもっと多い。ジェニン難民キャンプで商店を営んでいたモハメッドは「通りは死体だらけだ」と言う。「夜から朝まで、聞こえたのはロケット弾の音だけだった」。彼は、ジェニンから追い出され、難民となる経験を2 度も味わった、悔しさと情けなさで心がいっぱいだと語った。モハメッドは簡潔にしめくくった。「どうしようもない」。夜になっても戦闘は続いた。

 イスラエルのグリーン・ライン内にあるサレムから来たパレスチナ人らが、難民のための食糧と毛布の準備にとりかかった。

 本当に心配なのは、逃れてきた難民ではなく、後に残された人々の身の上だ。サブラとシャティーラの難民キャンプで虐殺がおこなわれたのは、それほど前のことではない。難民のために毛布や果物、靴を集めていたサレムの村人が言った「朝までにはもっとたくさん死ぬだろう。」

http://plaza17.mbn.or.jp/~CCP/news/updateJ.html

 

2002.4.13 深夜

 

*

 

 ついこの間まで寒さに荒涼としていたわが家のささやかなプランターに、いつの間にかみずみずしい植物の若葉が勢いよく萌え出している。かつて酒造りをしていたときに倉の隣家で株分けをしてもらったライラックには白い花が咲き、親類の庭から譲ってもらった山椒の枝には芳しい木の芽がぎっしりと生え、苺は大きな葉を伸ばしてこれも花を咲かせている。去年の球根のチューリップが蕾を赤く染め、種々のハーブが風になびき、つれあいの実家から貰ったユキノシタが鉢の外まで根を伸ばしている。いつも、春を迎えたこの旺盛な植物の力には純粋に驚かされる。気持ちよく伸びていく自然の神秘な力を、だ。そして草いきれの間に、輝かしい夏の予感を嗅ぐ。永遠の youth of a thousand summers を。

 昼前、子どもを近くの公園に連れて行った。彼女は芝生の上をオモチャの手押し車を押して駆ける。地面に座り込んで小さな石粒やボールペンの蓋や針金などを宝物のように大事に拾い集める。散歩中の飼い犬を見つけて嬉しそうに指さし「バイバイ ! 」と声を投げる。クローバーの茂みを嬉々としてはいずりその葉を引き抜いて回る。自転車で競争をしている小学生たちにつられて奇声を発する。舞い上げた枯葉を全身に浴びて笑っている。

 複雑なことは考えたくない。見えないものに踊らされたくない。ふつうの日の光の下で、ふつうの風に吹かれていたい。

 芝生のこちら側から、立ちあがりズボンの枯れ草をはたいて、両手を差し出した彼女を迎えに行く。

2002.4.14

 

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 むかし、実家の繭に閉じこもり、世の中にさみしく背を向けていたとき、よく夜中に押入から古いアルバムをひっぱり出して、幼いじぶんの写真を聖書の詩篇のように眺めた。これぞ究極のナルシズム。だがモノクロ風景のなかの幼いじぶんが、どれだけ愛おしかったことか。上野動物園の柵に手をかけて目を瞠っているじぶん。公園の鳩を追いかけるじぶん。銀座のデパートの屋上のベンチで、ストローを差したジュースの瓶を満足げに眺めるじぶん。怖れもなく、笑いと驚きに溢れ、ささやかなものでいつも満ち足りていた。涙が出そうだった。

 

 ある美しい一冊の本の中で、今はなき現代音楽の作曲家・武満徹が、カリール・ギブランという人のこんな詩を引いている。

 

 あなたの子どもは、あなたの子どもではない。
 かれらは、人生の希望そのものの息子であり娘である。
 かれらは、あなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。
 かれらはあなたとともにいるが、あなたには屈しない。あなたは、かれらに愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない、何となれば、かれらはかれら自身の考えをもっているからだ。
 あなたは、かれらのからだを家に入れてもいいが、かれらの心をあなたの家に入れてはいけない、なぜなら、かれらの心は、あなたが訪ねて見ることもできない、夢のなかでさえ訪ねて見ることもできないあしたの家に住んでいるからだ。
 あなたは、かれらのようになろうとしてもいいが、かれらをあなたのようにしようとしてはいけない。なぜなら、
 
人生はあともどりしなければ、昨日とともにためらいもしないからだ。

(音、沈黙と測りあえるほどに・武満徹・新潮社)

 

2002.4.15

 

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 昨日はタンスの衣替えをしたいと言うつれあいに替わって、朝から子どもを大阪の病院へ連れて行った。泌尿器科、リハビリテーション科、脳神経外科と忙しく回って会計を済ませ、2時にやっとロビーでおにぎりの昼食。手術から半年が過ぎたため、リハビリは今月一杯で3ヶ月のインターバルを置き、その後は3ヶ月単位で通院とインターバルを繰り返していく。リハビリ科のI 医師の説明では休みの間のデメリットはあまりないと言う。もとより、これは規定なのだから受け入れるより仕方ない。泌尿器科のあるO病院では、アルミ製の支柱で挟んだ装具を両足に付けた女の子が、紫乃さんと遊んでくれた。プレイ・ルームの積み木を積んで見せて、な、アタシって親切やろ? などと惚ける。私に「おにいちゃん(←ここ留意)、いっしょに遊ぼうよ」などと宣う。帰りは天王寺公園前の広場に立ち寄って、紫乃さんに鳩の群れを見せてあげた。野宿者の飼っている犬も見せてもらった。大和路快速の座席でいっしょに並んで居眠りをして、4時に帰宅した。

 

 「われわれが呼吸したり食事したりしている今日ただいま、つまり現在という「実時間」に、歴史の危機を感じ取るのは至難の業だ」と辺見庸がかれの「単独発言」の中で書いていた。この「実時間」という言葉を、このごろよく想起する。かつてこの国が「国民的昂揚」の雰囲気の中で「大東亜戦争」に突入していったときも、あるいはヒトラーのナチスが政権を取ったときも、人々は変わらず恋をしたりマスをかいたりクソをしたり夜の献立を考えたりしていた。

 

 思えば、1930年代だってそうだった。「満州国」建国のときに、まさにその実時間に、いったい、どれほどの人々が危機感を抱いたか。文部省が「国体の本義」を発行したとき、さらには廬溝橋事件の際、マスコミは異を唱えただろうか。作家たちの何人が危険を冒し時代の危機を訴えようとしたか。ごくごく少数の偉大な例外を除けば、実時間にあっては危機はそれとして認識されなかったのだ。それどころか、多くの作家たちは「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」を賛美する文章を進んで書きもした。

 

 すでに紙に書かれた「後知恵」の歴史でない、「いま」という「実時間」の危機を感じ取るための想像力の困難さを思う。

 昨夜、有事法制関連法案が閣議決定された。弘兼憲史という馬鹿な漫画家が新聞で「全体の利益のためには、個人が多少の我慢をするのはやむを得ない」といったコメントをほざいていた。要するに「欲しがりません、勝つまでは」ってことだろうが、それは。

2002.4.17

 

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 深夜、友人に送ったメール。

 

ネイティブ・アメリカンたちのサン・ダンス(太陽の禊)は、グレート・スピリットが降臨してこの世の座標軸をひっくり返してくれるための踊りなのだそうだ。

「真実の世界に入るためには夢(ヴィジョン)を見なければならぬ」
これは合衆国によって謀殺されたクレージー・ホースの予感。

ニール・ヤングの新譜を聴きながら、そんなことを考えている。

日の出を迎える海岸でサン・ダンスを踊りたい。 

 

2002.4.18

 

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 いつであったか友人と電話で話をしていて、経済の話題になった。私はその方面の知識はほとんど皆無に近く、一般的な常識でさえ疎い。そんな私が友人に質した。金が金を生む金利というものは果たして正常なものなんだろうか。成長率を常に右上がりにしなければ成り立たないシステムというものは、どこか狂っているのではないか。

 金の話といえば、私はいつも、あるネイティブ・アメリカンのこんな風景を思い出す。ローリング・サンダーというメディスン・マンが、己の歯痛を和らげるために砂漠へ薬草を摘みに行ったときのことだ。

 

 そして今まさに太陽が沈みきろうかというその時、彼はとうとう一群のあの小さなミントのような植物を見つけたのだ。彼は立ち止まってしばらくその植物の群れを見下ろしていたが、やがて自分のポケットに手を入れた。小さな黒い小銭入れを取り出すと、彼はそれを開き、何枚かのコインを取り出し、それらを沈んでいく太陽の光にかざしている。

 思わず私は目をそらした。

 しばらくして彼がその植物を摘みはじめたので、振り返ると、その植物の前の地面になにがしかの金が置かれてあるのが見えたのだ。次の瞬間、私たちはひとつかみの小さな植物をたずさえて車のところへ戻りはじめた。

 捧げ物というものの持つ意味と、その象徴的意義が、私には次第にはっきりとしてきた。植物にとっても、お金はある意味では役に立つのである。もちろん植物がコインを使うことなどありはしない。しかし少なくとも植物たちは、ローリング・サンダーの彼らに対する感謝の気持ちぐらいは汲み取ることができるのだ。

 それはひとつのエネルギーの交換というべきものであった。

 お金であれ、自分の所有物であれ、なんであれ、それを与えたり受け取ったりする行為はいずれも、強力なエージェントになりうるのだ。そしてそれはエージェントであるかぎり、良いエージェントであるか、または悪いエージェントであるかの、いずれでしかないのである。

 そこに置かれた数枚のコインは、愛がひとつの形をとったものであった。

(「ローリング・サンダー」ダグ・ボイド・平河出版社)

 

 

 ところでいま、古本屋の百円の棚で見つけた豊浦志朗著「叛アメリカ史 隔離区からの風の証言」(ちくま文庫 @600)という一冊の本を読んでいる。豊浦志朗とは、後の作家・舟戸与一である。この本はいわば、正史に対する「叛史」への熱い共感に溢れた叛逆ののろしのような書物だが、その第一章はネイティブ・アメリカンの悲壮な歴史より始まる。

 アメリカという移民の国が、先住民のネイティブたちに課した運命は実に悲惨極まりない。たとえば「体の大小にかかわらず殺し、頭皮を剥げ。しらみの卵はしらみになるのだ」といった号令のもとに、無数のネイティブ・アメリカンの戦士たち、そして無抵抗の女子どもまでもが殺戮し尽くされ、「1776年のアメリカ合衆国建国当時115万人と推定されたアメリカ先住民インディアンは、1870年の記録で2万5千人に激減する」という歴史的にも類を見ない民族絶滅策(ジェノサイド)を経て、過酷な不毛の土地である居留区内(リザーベーション)に押し込められた。この本が書かれた1970年代の居留区内の生活について、こんな数字がある。

 

1. インディアンの男の平均寿命は、44, 5歳である。
2. 自殺率は、全米平均の15倍である。
3. 居留区内における栄養失調は日常のことである。
4. 学校からのドロップ・アウト率は75%である。
5. 失業率は90%以上である。
6. インディアン一世帯の平均年間収入は千ドルである。
7. 住居の95%は水準以下である。

(叛アメリカ史・豊浦志朗・ちくま文庫)

 

 もちろん、誇り高きかれらがこんな絶望的な状況に甘んじているわけではない。AIM(全米インディアン運動)の活動家たちにより、1969年、サンフランシスコ湾のアルカトラス島占拠、1970年、マサチューセッツ州プリムス港のメイフラワー号実物大模型占拠、1973年、インディアンの聖地ウーンデッド・ニー占拠。

 

「インディアンの行動は解せない。あれほど小さな人口で、あんなことをしても意味がない。むかしの英雄叙事詩の世界をコピーしても、滅びゆく民族の美学としてしか意味を持たず、美学では革命はできない」

 ある黒人解放運動の指導者はこう語ったが、インディアンにしてみれば、美学こそ重要である。彼らの想いはただひとつ、神話世界にしっかりと結びついた英雄叙事詩のむかしに帰ることなのだ。

 他の少数民族、黒人やチカーノ(メキシコ系アメリカ人)、プエルトリコ系の解放運動が過去の呪縛を断ち切り、「未来」を獲得することにあるのにたいし、インディアンのは「過去」を奪還することを目的としている。すなわち、白人たちがやってきて殺戮と収奪の果てに国家を築きあげる前の状態----“偉大なる精霊(グレート・スピリット)”とともに暮らした日々に還ることを夢みている。

 

  

「真実の世界に入るためには夢(ヴィジョン)を見なければならぬ」 これは合衆国によって謀殺された伝説の戦士クレージー・ホースの予感だ。私はかれらの戦いに心の奥から共鳴する。私もまた絶望的で、ときに滑稽にさえ映る前近代の戦士の一人である。“偉大なる精霊(グレート・スピリット)”を欲している。そしていつか夜明けを迎える海岸で、幻の風景のようなサン・ダンスを踊りたい。

 

 インディアンの神話によれば、“偉大なる精霊(グレート・スピリット)”はいつかかならず天空より舞い降りるはずだ。太陽に宿る万能の神であり、ひとたび地上に降りたなら万物を蘇らせるという、このアニミズムの王者はいつ出現するのか。森や湖を駈けぬけ草原に獲物を追ったいにしえの夢はあとどのくらいで現実となるのか。一切が可能となるためには、何よりもまず“偉大なる精霊(グレート・スピリット)”がお出ましになることだ。“偉大なる精霊(グレート・スピリット)”が降臨して、この世の座標軸をひっくり返さねばならぬ。恒例の“太陽の禊(サン・ダンス)”はそのためのものである。

 

 1973年のウーンデッド・ニー占拠に参加して射殺されたパイン・リッジ居留区のバディ・ローレンスは、最後に姿を消す前に母親とこんな会話を交わしたという。

 

「母さん、羽根をもがれた蝶を見たことがあるかい?」
「ないよ」
「まるでウジ虫と同じだよ」
「 …… 」
「誇りをなくしたインディアンは …… 羽根をもがれた蝶と同じなんだ」

 

参照 : 日本語のネイティブ・アメリカンについてのサイト Big Mountain Web Site

 

2002.4.19

 

*

 

 土曜日は野迫川のKeiさんたちに招かれて「野迫川の花と山菜を愉しむ宴」に家族三人で行って来た。いつも同行してくれる友人が直前に急用ができてしまい急遽、わざわざ大阪からKeiさんたちが車で迎えに来てくれた。申し訳ないことである。出席者はKeiさんの長年の友人のT氏一家、近くでやはりログづくりをしているKさんご夫婦、それに近在に別荘を持っているKa氏など総計十数名。9時過ぎに着いて、10時から前の渓流のゴミさらいを全員でして(役場の人が回収を請け負ってくれるとのこと)、それから宴へ突入。今回はKさんご夫婦の提案で自慢の料理を持ち寄ってということで、私も先日レシピに書いた鶏のささみの山椒味噌漬けを拵えていったのだが、そんな素人料理など霞んでしまうくらいの豪華さで、メインの山菜のテンプラ(タラ、タケノコ、アザミの新芽、アケビの新芽、アカシアの新芽、ワラビ等)に、新鮮な刺身やてこね寿司、バーベキューの焼き鳥、そば飯、それに鹿肉まで飛び出して、酒の方も秋田の秘蔵酒や鹿児島の40度の焼酎まで揃い、まあすごいものである。ふだんは小食な紫乃さんも、野外の雰囲気も手伝ってか刺身をばかすか食い、鹿肉までペロリと平らげていたから驚いた。ところで当日は、実はひょんな事情から「水戸黄門」のロケハンが野迫川に撮影に来て、私も年貢を払えず悪代官にいたぶられる貧農の役で出演した。ほんとうかと疑われる方もいるかと思うが、事実は結構ほんとうに近いのである。どさくさに紛れて、紫乃さんも出演させてもらった。夏頃にオンエアの予定。これ以上は現在箝口令が敷かれているので、いまは言えない。運が良かったらどこかで見てくれ。そんなこんなで、ロケハンのスタッフも合わせると総勢20名以上の大所帯で、まあ賑やかなものであった。そんな中で、紅一点の(いや、違うか)紫乃さんはみんなにとても可愛がってもらって、親ばかの私としてはそれがいちばん嬉しいことであった。きっと本人もとても愉しかったのだろう、昼寝も忘れて様々な花の咲き始めたあちこちを手を引かれて歩き回り、大いにはしゃいでいた。帰りはおなじ奈良から来ていたTさんご一家が、大きな7人乗りのバンに乗せてわが家まで届けてくれた。これもまた、かたじけないことである。早いとこ、中古の車でも買わなきゃな。

 

 今日は夜、NHKの「日曜美術館」でカンディンスキーの特集を見た。かれの抽象画は昔からときおり接してはいたが、いまはいちばん自分にとって「時季」ではないかと思う。奥底に、自然に流れ込んできそうな予感がする。番組の中でかれは、色彩は魂に直接訴える力を持った表現形態であり、それらはピアノの鍵盤のように機能する、と語っていた。魅力的なコンポジション7。ロシア革命成立後に、政府の芸術委員会のメンバーに任命されたカンディンスキーが、あまりに個人の内面を重視したために結局、そこを離れなければならなくなったというのは示唆的である。真の芸術とは、やはり権力と対峙するものではないか。現在、かれの展覧会が東京で催されているが、6月から京都にも巡回するらしいので、できたら見に行きたいものだと思っている。

2002.4.21

 

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 ささやかな夕食を済ませてから、紫乃さんが外へ行きたいと言うので、買い物がてら二人で散歩に出た。帰りに人気のない夜の公園に立ち寄った。紫乃さん、ブランコに乗ろうか。特売の紙オムツをベンチに置いて、二人して揺られながらけらけらと笑っている。最近潰れたホーム・センターの跡地のプレハブの建物から、一様にティッシュの箱を手にした大勢の人影がぞろぞろと出てきた。ネクタイ姿の若い社員が見送りながら、じゃ、頑張ってね、などと奇妙に明るい声をかけている。おおかた、何かの怪しげなネズミ講の説明会の類なのだろう。人は欲望の為なら何だってやり遂げるのさ。でもぼくら二人はそんな世界とは無関係だ。なぜってぼくらは、月から舞い降りた居留者に過ぎないのだから。いつか月へ帰っていく日まで二人で、こうして夜のブランコを漕いで無邪気に笑っているんだよ。

 

"Oh Lord, there's so much hate
In a world where we're from another place
Take me up to the mountain high
Or a building top where the spirit fly"

ああ主よ、この世はひどい憎しみだらけで
ぼくらはどこか別の場所から来たみたいです
この魂が飛び立てるような
山の頂きかビルの屋上まで私を連れて行ってください

(Two Old Friends・Neil Young 2002)

2002.4.22

 

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 ニール・ヤングのニュー・アルバム「Are You Passionate ? 」がいい。このところ、毎日のように聴き続けている。バックにはあの MG's からキーボード奏者のブッカーT とベーシストのドナルド・ダック・ダンが加わり、他に一曲だけ、盟友クレージー・ホースとのテイクが収められている。MS's のギタリスト/ スティーブ・クロッパーが参加していないのはちょっと残念な気もするが、これはニール・ヤングの計算であったように思う。アルバムの冒頭を飾る You're My Girl の出だしのリフはいかにも MG's だけれど、そこにニール・ヤングのギターが加わると忽ちかれのサウンドに変化(へんげ)する。つまりあのオーティス・サウンドのエモーショナルなコアの部分だけを抽出して、ニール・ヤングという物質を化学反応させたような、そんな古くて新しいサウンドのように思える。

 ニール・ヤングというと私はいつも、あの気怠いラスト・ワルツのスクリーンのなかでただひとり目をぎらぎらとさせていた場面を思い出す。ディランが「マスターベーションの時代」と表現した80年代にはニール・ヤングは正しい迷走をくり返し、虚ろな90年代が来ると「自由な世界でロックし続けよう」と激しいノイズをかき鳴らした。私はそんなかれのバランス感覚、時代を嗅ぎとる嗅覚が好きだし、それを信頼している。では、あの衝撃的な同時多発テロを経て発表された今回のアルバムはどんなものであるのか。

 あの同時多発テロの新聞記事に触発された Let's Roll というブルージィーな曲がある(「Let's Roll さあ行こう」というのは、ハイジャックされた乗客が妻への携帯電話の最後に残した言葉だ)。またネイティブ・アメリカンとの戦いで全滅したカスター将軍が登場する、クレージー・ホースとの畳みかけるようなサウンドの Goin' Home もある。だがそれ以外はおおむね、タイトでメロウなラブ・ソングがほとんどだ。けれどもそれらは、たんに心地よいだけの曲なのではない。つまり、空虚な絶望の穴ぼこから這い上がってきた男の精一杯の意思表示なのだ。男はテロリストを抹殺しろとは叫ばないし、殺し合いを止めろとも叫ばない。ただ暗い穴ぼこの中で打ちひしがれて、それから精一杯の歌を歌い出す。「Are You Passionate ? 」というのは、「熱くなりすぎるなよ。もういちど人を愛することや好きな音楽を思い出そうよ」というメッセージなのではないかと思う。もちろん拭うことのできない深い絶望や悲しみや自己嫌悪を身にまとったままで。だからそのサウンドは、ぼくらの心に沁みてくる。

 大事なのはギ論でなく感情だ。それは言葉では言えないものだ。このアルバムのすみずみに投げ出されている感情に、私はすべて共鳴できる。ラスト・ワルツでぎらぎらとした目をしていたニール・ヤングを信頼したように、混乱した世界のなかでメロウなラブ・ソングを歌うかれを信頼する。

 さて、これらの歌を口ずさみながら、私はどこへ行こう?

2002.4.23

 

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 先日の野迫川での山菜祭りの様子が、野迫川倶楽部のページで見れる。私が写っていないのは、Keiさんにカメラマン役を指名されたからである。って、たんにやることがなかったからだけど。

 子どもは今朝、はじめてオマルにオシッコをした。といっても、テレビの子ども番組を見ながら跨っていて知らずにしていた、という様子だったから、じぶんの意志でしたとは言い難い。今日は朝から大阪へリハビリ。数日前から体のあちこちに発疹が広がっていて、医者はただの湿疹だろうと言うのだが、今日は手の平まで赤いぶつぶつが出来ている。つれあいは、あるいは手足口病ではないかと言う。体中に発疹ができて高熱が出るらしい。それでも風呂に入って寝るまで熱もなく、夜には私が清志郎の真似をして「愛し合ってるかぁい」と言うと片手をあげて「イェー」と言うのを覚えさせて遊んでいたのだが、いま夜中に急に大きな泣き声をあげて、熱を計ったら40度もある。とりあえず熱冷ましを貼ってみたが、火のついたように泣き叫んでいる。心配なので私も今日は早めに寝る。

2002.4.23 深夜

 

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 カンディンスキーの作品を見つめていると、一瞬じぶんに、まったく新しい目が生えてくるような錯覚にとらわれる。〈私〉が見ている対象は、〈私〉の目を通して脳(あるいは心)に伝えられた情報であって、それらはすでに酷く手垢にまみれてしまっている。〈私〉はモノに名前をつけることによって安心する。それを“知ったつもり”になる。だが、ほんとうにそうか。〈私〉が見ているのは“すでに用意された知ったかぶりの世界”ではないのか。ほんとうは世界は“得も言われぬ”ものたちによって満ちあふれているのではないか。その豊かな混沌とした色彩が奪われていないか。たった一枚の葉でさえ、それを形容するためには一冊の前衛的な詩集が必要なのではないか。そんなふうに、〈私〉たちの目が変われば、世界は一変するのではないか。〈私〉には、新しい目が必要だ。

 

EYE から、ちっぽけな I を、すなわち「あなた」とか「わたし」とかを、削りとること。眼はだれにも属さない。

眼には眼を-------なぜこの言葉が、敵意を、憎悪を意味するのか ?

(武満徹・Jasper Johns 9)

 

2002.4.24

 

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 夜更けに雨が降っている。ときどき私はそんなとき、二上山の雄岳にある大津皇子の墓のあたりはいまごろどんなだろうか、あるいはだいぶ昔に歩いた大峰奥駆けの深仙の宿では暗い熊笹を雨がぽつぽつと叩いているだろうか、と夢想する。もう10年も前のことになるが、かつて私はじぶんの見た夢をノートに書きとめていた時期があった。そのなかに山人に関する印象的な(というのは、いまでもリアルに思い出せる深い感情をともなった忘れがたい夢という意味で)記述がいくつかある。あるときは突然訪ねてきた老人に、私が蝦夷の血を継いでいると告げられた。あるときは深い山中の隠れ里に案内され(巫女のような神秘的な女性がいた)、平地の人間たちと闘うための砦が築かれているところだと秘密のルートを記した山の地図を見せられたことがあった。また河原の寂れた小屋で迫害された山民の血を残すために女を孕ませていた。〈鬼〉が“まつろわぬものたち”に与えられた畏怖と蔑視の刻印であるのなら、私はこの世の〈鬼〉であってもいい。

 

夢の破片を胸に抱き
鬼の児よ。けふからまた、君の
三界流浪がはじまるのか。
----- 鬼の児の鏡みる夜のさむさかな。

(金子光晴・鬼の児の唄)

 

2002.4.24 深夜

 

*

 

 子どもは結局、手足口病ではなくて、発疹をともなった風邪らしい。今日も昼から39度の熱があったのだが、鼻水を垂らしながら遊んでいた。ふだんより甘ったれで、いろいろ五月蠅いが。今夜は解熱剤を入れて、熱も37度台に収まって眠っている。はやく元気になって、公園で遊べたらいいと思う。

 

 バイクのヘルメットのなかで、ニール・ヤングの Two Old Friends を口ずさむ。このやくざな魂をどこへ置いたらいいだろうか。この世界のどこかに、人の休める臥し処はあるのだろうか。バイクを走らせながら、思わず泣き出しそうな気持ちに駆られる。

 夢ノートの7年前のある日付に、こんな短い記述があった。

 

ひとりの神秘的な女性から一枚のメモを渡される。
そこには「船は破壊から救われる」と書いてある。

 

 いつだって、そうしてきたのだ。そう思ったら、開き直れる。

 

しかし、かれらを怖れる必要はない。覆われているもので顕れないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇で話すことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。肉体を殺しても、魂を殺すことのできない者たちを怖れる必要はない。

(新約 マタイ伝 10章)

 

2002.4.25

 

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 あなたと出会ったのは、渇きから、一杯の水をもとめたときだ。あなたは冷たい井戸水を大きな両手にすくい、ぼくに差し出した。あなたは冬にTシャツ一枚で過ごし、夏には厚いコートを着込んでオロオロと歩き回った。あなたは鳥と話すことができたし、樹の中へ入ることもできた。汚れた水を見つめて悲しんだ。けれど、そんなことは、連中にはまるで価値のないことだったのだ。連中はあなたの奇行を笑った。あの日、あなたが広場で“最期の説教”をしたとき、耳を傾けていたのは路上の孤児たちと片輪の踊り子だけだった。灯油をかぶり、黒焦げになって、転がり落ちたあなたのこの世の肉体を、たいての人は顔をそむけるか、見ぬふりをして通り過ぎた。命を賭したあなたはただの石ころだった。石ころ以下だった。ぼくは今日、森へ行って、あなたに教えられたように樹の中に入ろうとしたけど、うまくいかない。きっとテレビで流れていた、爆弾を抱えて犬のように撃ち殺されたあの少年たちのニュースが、ぼくの心を引き裂いているからだろう。ぼくの心はこんなに渇いているのに、もう水をくれる人はいない。この世であなたに二度と会えないのなら、いったいどこで再会できるのだろうか。あなたが言っていた“天の家”はどこにあるのか。あなたを嘲笑い、あなたを見殺しにした人々は、いつ裁きを受けるのか。ぼくらの日常の毒が、ペストのように世界中に散らばっていく。聖なるコーンミールは黴だらけだ。

 

世界ハ君タチニ
ワズカナ負イ目モナイ
君タチガ出テユキタケレバ
誰モ止メナイ

(ブレヒト・世界の住み心地)

 

ある山間の日溜まりで、ニール・ヤングの Two Old Friends を口ずさみながら。

2002.4.28 深夜

 

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 金曜は夕方、役場へ子どもの障害者手帳を受け取りに行ってきた。30分もあれば終わるだろうと駆け込みで行ったところ、さにあらず。相変わらずのお役所的言辞のお化け屋敷。たとえば子どもの場合、ぼうこう直腸障害が4級、肢体不自由左下肢機能障害が4級、肢体不自由右足関節機能障害が6級、総合で3級という等級がついた。ところが手当や優遇措置等の説明を聞いていると、前出の総合の等級と各部位毎の等級、さらに特別保護手当といった項目ではそのふたつの等級とも別の等級が出てきて、三種類の等級が何の説明もなくばらまかれている。つまり3級といっても三種の3級があるわけで、こちらはいちいち聞かなければ区別がつかないわけだ。各部位の等級は正式には「障害程度等級」と呼称されているらしい。それで判別のために「では総合の等級の方は何と呼ばれているのですか」と聞くと、何やら奥から分厚い書類の束を持ち出して慌てて調べ始める。あるいは、仕事中の事故で難聴になりやはり手帳を所持している義父は詳しい内容の書かれた手引き書を持っていたのだが、奈良ではそうしたものは配布していないと言う。ごく簡略な表の書かれたコピーが一枚だけで、あとは詳しいことはそのたびに窓口で質問してくれ、詳細を記した書類はこちらにあるが読んでも難しくて分からないから、と言う。そう言われてもある程度のベースになる情報がなければこちらも質問さえ思い浮かばないのではないか、と問うと、何をトチ狂ったかまた分厚い施政書の類を開いて「そもそもこの施政の成り立ちはこの条文によって...」と棒読みの説明を始める。万事がこんな具合である。「係長」の名札を付けたこの女性は長時間、私の執拗な(必要な)質問に嫌な顔ひとつも見せずに真摯につきあってくれた。多分この人は「とてもいい人」なのだろう。ただ奇怪なお役所的言辞に骨の髄まで浸かってしまっているだけなのだ。しかし、いい人であることと愚昧であることは別のものである。終わってみれば時計はすでに夜の8時半を指していて、私は教えられて裏口から役場を出た。家に帰るとつれあいは私が事故にあったんじゃないかと心配して、いまにも警察に電話を入れかねない寸前だった。

 深夜、ひとりのときに手帳を改めて眺めた。あどけない顔写真の横に添えられた事務的な「第2種身体障害者」なる表示。知りたくないものに、これは必要だからと無理矢理に烙印を押されたような気持ち。私はいまだに、悲しいという気持ちを拭いきれない。

 

 

 昨日は朝からバイクに乗って野迫川へ、ひとりで杉の皮剥きに行って来た。Keiさんは関東の娘さん夫婦のところへ行っていて、この連休中はご主人のKiiさんひとりである。10時前に着くと、Kiiさんはユンボで木の根っこを引き抜いていた。四国の山で実際に使われているという柄の長い皮剥き用の鎌で、伐採した杉の皮を剥いでいく。皮のついたままでは中に虫が寄生するためである。厚い樹皮とその下の薄い甘皮の部分を削ぎ取るのだが、角度が深いと内側の固い本体まで食い込み難儀するし、逆に角度が浅いと表面をなぞるだけで、この力の加減が難しい。一本目は勝手が分からずに苦労したが、二本目からやや調子が出てきた。さっと鎌を引くとときどき、水しぶきのようなものが顔にかかる。甘皮の部分がまだ水分を含んでいるのだろう。きれいな肌をさらしていくのを見るのは、まるで惚れた女を磨き上げてでもいるかのようで気持ちがいい。あるいは女の余計な衣服を脱がして、美しい裸体にしていくようなものか。ひょっとしたら山の男たちはこんなふうに、樹とまぐわっているのではないか、とふと思った。山の神が女であるのはそのせいではないか。ただしこの作業はかなりキツい。腰にくる。山男ふうに言えば「今夜はカアちゃんとはお預けだ」といった具合か。昼は山菜のテンプラと網で焼いた手羽先やソーセージをご馳走になった。帰りに三つ葉と山ウドを貰って、8時頃に家に着いた。

 

 

 「叛アメリカ史 隔離区からの風の証言」(豊浦志朗・ちくま文庫) を読了する。70年代のなかばに書かれ、80年代の終わりに文庫化されたこの本の内容は、いまだ少しも色褪せていない。そればかりか、いまこそもういちど読まれるべきものだと私は思う。たとえば、アメリカのエネルギー政策を支えている原子力についてのこんなくだりはどうか。

 

 敵対者ガ原子力発電所ヲ占領シタ.......この恐怖のためにはどうしても厳重な管理体制が必要だ。警察国家である。かといって、手荒な警察権の行使は思わぬことを起こさせる可能性がある。そこで、静かな、しかも確実な警察管理国家が理想となる。その方法は----万人ヲシテ万人ヲ見張ラセヨ。これは社会全体を魂の仮死状態におくことを意味する。新・隔離収容方式の少数民族の魂圧殺体制は、権力にとって幸運なことにその包囲網たる市民主義の群れの魂も殺してしまうものだ。これは、南ア共和国の対黒人愚民化政策が同時に白人の愚民化を進行させねばならない必然と同様である。

 

 あるいはまた、著者が「アメリカ合衆国における少数民族にたいする新・隔離収容の様態」として記述する以下の「基本原理」。これは私たちのことではないか。現在まさに、進行しつつあることではないか。

 

1. 隔離され収容されるのは誰か
 潜在的な敵対者。したがってほとんどの少数民族。顕在的な敵対者は銃によって殲滅、ないしは情報機関によって謀殺される。

2. 何から隔離するか
 民族的な事実と歴史性から隔離し、すべての民族意識、歴史認識を収奪する。

3. いかに収容するか
 諸要求を吸収することによって、改良主義すなわち現秩序の発展的維持という魂の不毛地帯へ収容する。

4. 隔離収容の番人は誰か
 進歩的市民主義者の群れが真綿のように包みこんで突破口を見えなくする。

(以上、叛アメリカ史・豊浦志朗 より)

 

 私たちはみな、羽根をもがれてウジ虫のようになった蝶である。

 

2002.4.30

 

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 リハビリ最終日。つれあいが連れて行った。来月より3ヶ月のインターバルを置いて、8月から再開の予定、と。しばらく前から子どもの背丈ほどある大きなゴムまりに子どもを乗せ、腹筋や背筋をつけるためにバランスを取る練習をしていて、本当はそれらを継続したいのだが家では不可能なので、とりあえず立つ練習と、床に座らせて体を傾けバランスを取る擬似的な練習をさせて欲しい、と。医者の話では、もう自力で立つ寸前まで来ているので、あるいはこの3ヶ月の間に立てるようになるかも知れない、と言う。歩くのはまだ難しいそうだが。診察を受け持っているI 先生の話では、結局は「受け皿」の問題だと。体を支える(特に左の)足首や膝下部分がまだ未成熟なのである。

 帰りがけにつれあいは「ひとが否定されないルール」(日木流奈・講談社)という、ある脳障害の少年の書いた本を買ってきた。この著者のことは先日たまたまNHKの番組で紹介されて、わが家はまだ未見で録画しておいたのだが、店頭で立ち読みをしてこの子の受けたドーマン法というリハビリが偶然、いまかかっているM医師と同じリハビリ方法であるため、何か参考になるのではと思って買ってきたらしい。これについてはまた後述したい。

 

 今日の夕食は野迫川で頂いたウドのレシピ。Keiさんに教えられたように(野迫川倶楽部BBS参照。あとでまた男のレシピに記す)、葉の部分はテンプラにし、茎の太い部分は水上勉「精進百撰」(岩波書店)に倣いアク抜きをし湯がいて味噌和えにして、皮の部分はキンピラ用に残した。それと、やはり頂いた三つ葉で例の鶏のささみの酒蒸し辛子和えもつくって、並べると結構なご馳走である。

 この頃は台所に立っていると、チビが引きずってきた自分の椅子を台にしてならび流しを興味深げに覗くので、説明をしてやりながら調理をしているのだが、今日は特に腹が減っていたのか、椅子の上で天ぷらや味噌和えを欲しがり、ずいぶんつまみ食いをした。夕食前に、すでにウドばかりたらふく腹に収めたのである。後でつれあいの実家から電話があったとき義母にその話をしたところ、経済的末期状態にあるわが家の食卓を怪しんだのか「風邪をひいたばかりなのだから、もっと栄養のあるものを食べさせてやらなきゃ」と苦言された。と言われても、本人がウドばかり要求するのだから仕方がない。私は子どもに「キミがウドばかり食うものだから、お父さんが叱られたんだぜ」と文句を言った。

2002.4.30 深夜

 

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 つれあいは、娘がじぶんの子どもだという気があまり無い、と言う。そうではなくて、彼女は大切な預かりものであって、だからしっかりと育てて返したいのだと。あるいはまた、こんなことも言う。彼女の病気を知ってから、ひょっとしたらじぶんはこの子のためにこれまでの人生を生きてきたのかも知れない、と思うようになった。彼女が主役で、じぶんはそれを支える裏方の役目なのだと。この子を輝かせるために、じぶんは生を受けたのかも知れないと。

 先日、リハビリへ行く途中、電車から降りたときにひとりの品の良い中年女性に声をかけられた。「実は私は、いまはやりの“お受験”で有名な学校の校長をしているのですが」とその女性は名乗ってから、電車の中で子どもに接するつれあいをずっと見ていたのだ、と言う。「“お受験”で多くのお母さんたちが子どもに礼儀や知識を無理に詰め込もうとしますが、ほんとうに大事なのは心なんです。あなたのお子さんに接する態度はとても適切で、だからきっとお子さんは気持ちのやさしい素直な子に育つでしょう。失礼ですが、ひとことだけお伝えしたかったもので」と女性はそれだけ言って、静かに立ち去っていったという。

2002.5.1

 

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 生き延びるために、ときには小さな穴ぼこが必要なんだ、とかれは言う。世界はぼくに何の勇気も与えてくれないから、ぼくはときどき怯えたネズミのようにじぶんの穴ぼこにもぐりこんで、そこでありもしないたくさんの夢を見て泣きながら眠る。処世術なんかでなくて、ほんとうの勇気についてぼくは考えるんだ。たとえば戦場の街をぼくは歩けるだろうか。愛するひとのために死ぬことができるだろうか。死に行くひとを前に背中を向けていないだろうか、とか。みんなはぼくに、なぜ学校に行かないのか、と言う。学校に戻れば、ああよかったと言って喜ぶ。ぼくが校庭の隅で悪魔を育てて、いつか教室で誰かを刺したら、なぜこんなことを、と叫ぶ。結局、あのひとたちは、ぼくの魂のことなど何も考えていやしないのだ。ぼくはほんとうはただ家に帰りたいだけなのに、家の中はからっぽで、ぼくにほんとうの勇気について教えてくれる人なんて誰もいやしない。穴ぼこのなかでラジオを聴いていると、もっとボリュームを下げなさい、と言う。そして決まって、どうして学校に行かないの、と訊く。それを説明するのはとても難しいんだ。ぼくにも分からないことが多いから。ぼくがどれだけ周りの人たちに迷惑をかけてきたか、じぶんでもよく知っている。ぼくは盗みもしたし、物を壊したりした。ほんとうはぼくは、誰よりもじぶんを責めているんだ。ここから必死に抜け出そうとしているけれど、誰か一人でも、そこで待ってくれている人はいるだろうかと、そんなことを考えている。雨に濡れたあとの緑の空気を嗅ぐのはとても気持ちがいい。ぼくはただ、ちょっとばかり寄り道をしているだけ。静かな池のほとりにひとり座って、草を食(は)んでいるだけ。みんなが見せてくれるものじゃなくて、ぼくはじぶんがほんとうに見たいものを見つけたいだけ。

2002.5.2

 

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 今日は昼前から奈良市へ、家族三人で県営団地の視察。今月の募集に春日大社に近い新築の物件が出ていて、ちょっと見てこようかという話になったのである。JR奈良駅から寺町の細い路地を抜けていき、ひとしきり団地や周辺の環境を眺めてから途中、「頭塔」という復元された奈良時代の四角錐台の仏教遺跡などを見物して、奈良公園でレジャー・シートを広げてのんびりお弁当を食べたり、子どもを鹿と遊ばせたりして、夕方に帰宅した。

 ところで帰り道で、ちょっとした災難にあった。JR奈良駅前の交差点で信号待ちをしていたときである。駅前から続く三条通りは、ゴールデン・ウィークとあって大勢の観光客でもの凄い人の波であった。信号が変わってぞろぞろと歩き始めたとき、空のベビー・カーをついていたつれあいに後ろから自転車に乗った中年の男が激しくぶつかり、何をトチ狂ったかその男は謝るどころか、ひどい言葉でつれあいを罵倒したのである。彼女の斜め後ろ、つまり男のほぼ横でベビー・カーに飽いた紫乃さんを抱いていた私は、すぐに状況を理解してムッとした顔で黙って男を見すえた。男はそれが気にくわなかったらしい。何だその目は、何だその目は、と言いながらこんどは自転車を押してまっすぐ私の方に向かってきた。私はなるべく男と距離をとろうと(男を睨みつけながら)歩いたのだが、やがて追いつかれて背中と首のうしろを二三度殴打された。子どもを守りながら後ずさりするのが精一杯だった。すると通行人の間から一人のやはり中年男性が私たちの間に割って入り、男を制止した。「そっちがぶつかってきたんだろうが」と、私は思わず叫んでいた。男は歩道に自転車を止めて、改めて私に向かってこようとしていたが、立ちふさがった男性にもういちど何か諭されて、結局、ふたたび自転車に跨り、ぶつぶつ何やら言いながら踏切の方へ走り去っていった。私は子どもを抱えながら、割って入ってくれた男性につれあいと共に「ありがとうございました」と、とりあえず礼を言った。妻子と観光に来ていたらしいその男性は「大丈夫ですか。」と訊いてくれた。とまあ、そんな次第である。

 男に殴打されたとき、私は正直言って恐怖というよりも、唖然とした。痛みというよりも驚きの、奇妙に現実味のない感覚だった。ともかく私は男がつれあいにした行為は絶対に許されるものではないし、「おれは絶対にそれを認めない」という思いで男の顔をずっとまっすぐ見すえ続けていた。だが赤ん坊を抱きかかえているという体勢は何分にも不利であった。抱きかかえたまま、子どもに危害が加えられないようにと背を向けて守るのが精一杯だった。もし子どもを抱いていなかったなら、私は正面から男に立ち向かったことだろう(男の方がずっと体格はよかったが)。こんな奴の粗暴が許されていいはずはない。だから勇気ある男性が間に入って事を収めてくれて男が立ち去っていったとき、私は実は、少しばかり不満な気分だった。たとえこちらの肋骨をへし折られたとしても、せめて男の保険の利かない前歯くらいはへし折ってやりたかった。あのまま、謝罪もさせずに、男を行かせるべきではない、という苛立ちに似た気持ちだった。私は背中のデイ・バックに登山ナイフがあるのを知っていたし、男がもしつれあいや子どもに何らかの危害を加えたなら、それを使ってでも奴に相応の制裁を加えるつもりだった。実際、そんなことをふと思った。一方、つれあいの方は一瞬、私から紫乃さんを受け取りに行こうかと思ったが、私が子どもを抱えたままの方が私の性格上、事が酷くならないのではないか、と思ってやめたのだと言う。「あの人はちょっとふつうじゃなかったわよ。ああいう人は、まともに取り合わないのが一番よ」と彼女はあとで私に言った。男が果たして酔っ払っていたのか、覚醒剤でも打っていたのか、精神に異常を来していたのか、あるいはもともと恐竜並の脳味噌の上に何か不機嫌になることでもあったのか、私には分からない。ともあれ、大勢の衆目のなかで、赤ん坊を抱いた人間がいきり立った男に一方的に殴られている。これは尋常でない光景のはずである。だがたった一人の人間を除いては、その場に居合わせた多くの人々は見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎていった。もしこれが抵抗する力もないつれあいと赤ん坊の二人だけのときであり、そして男の精神がはっきりと正常ではなく、さらに男が刃物を持っていたとしたら、つれあいと赤ん坊は衆目のなかで最悪の場合、あるいは殺されていたかも知れない。それは決してあり得ないことではない。私は男の狂気より、人々のその「無関心」の方をずっと恐怖するのだ。

 そして私は帰りの電車の中で、殴られた首をさすりながら、理不尽な暴力の立ち現れる刹那に、じぶんはいったい何ができるだろうか。愛しい人間を守るためにどのように行動すべきなのだろうかと、ずっと考え続けていた。ぶつけられたつれあいの足は少しばかり青い打ち身のようになっていた。子どもの方は瞬間、驚いたろうが、特に怯えて泣きじゃくるということもなく、帰りの電車の中でもごくふつうの様子だった。

2002.5.3

 

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 イギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視装置)という監獄の設計図がある。そこでは看守は囚人に見られることなくかれらを監視することができ、逆に分断された独居房の囚人たちの側からは直接看守の姿を見ることはできない。この巧妙なシステムのなかで、あらゆるプライバシーを喪失した囚人たちが唯一免れ得た「自由」の領域とは、つまり看守がけっして覗き込むことのできない「内面」であった、とフーコーはかれの著書『監獄の誕生----監視と処罰』の中で記している。それはいつの時代も人の精神における希望、まつろわぬノイズの反乱に満ちた最後の領土である。叛史は常にそのような「抑圧された無意識の閉域」において暴発する。真の文学やロックも同じであろうと思う。

2002.5.4

 

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 今日もまた、朝から野迫川へ杉の皮剥きに行ってきた。まだ子どもの寝ている7時に家を出て、9時前に着いた。足場用の比較的細い丸太を十本ほど剥いて、気持ちのよい汗をたっぷりかいた。風はほとんど無く、木も草も花も穏やかであった。まるでゴールデン・ウィークの喧噪からすっかり置き忘れられ、時計の針が止まったかのように、野迫川は、日溜まりの中で涼しい顔をして座っていた。山はぽつぽつと、そこに在った。間延びした虫の羽音がときに降った。ときおり作業の手を休めて、麦酒や焼酎や冷たい湧き水を片手にKiiさんととりとめのない話をしながら、それらを静かに眺めた。最高に贅沢な休日のように思われた。

 帰りにまた、セリと三つ葉をたっぷり頂いてきた。夕闇が夜に変わった7時半に辞して、10時に帰宅した。ちょうど寝かけていた子どもがニコニコ顔で玄関まで這ってきた。昼間、つれあいが教えて、子どもはハサミで紙を切れるようになった。こどもの日。ひとり、菖蒲湯に浸かった。

2002.5.5

 

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 今朝はつれあいがついも見ているテレビの「花まるマーケット」に、なんと忌野清志郎がゲストで登場した。清志郎、いやあ、やっぱりいいねえ、なんとも。スルメのごとく味わい深い。Aよ、見たか。

 ゴールデン・ウィーク最終日の今日は、昼に弁当をもって近くの公園へ行ってのんびり過ごした。つれあいがおにぎりを握り、私が卵とウィンナーを炒め、また野迫川で頂いたセリと三つ葉を炒めてゴマだれドレッシングをかけてみたら、これが結構旨かった。おひたしにするより歯ごたえが残っていて、野性味がある。紫乃さんは相変わらず小枝や石ころを拾ったり、毛虫を眺めたり、タンポポの種を飛ばしたり、鳩を追いかけたりして愉しんでいた。

 夜はセリでKeiさんに教えてもらった鮭(安いアラを買った)との混ぜご飯にして、それとつれあいがお気に入りの三つ葉とささみの辛子和え、シイタケと素麺のすましなどをつくった。子どもはセリも三つ葉もなぜか苦手らしい。

 友人から5月3日付の記述について「読んでいてぞっとしました。紫乃さんに何もなくて(といってもショックは受けたかも)よかったです。幾ら相手が100%悪いからといってけしかけるようなことはいけません。最悪なことが起こらないように最善を尽くすべきです。暴力に対して暴力で向かうことは、決してよい結果を生まないことは、歴史が不勉強の私でもわかります」といったメールを頂いた。それが正論であるのだろう、と思う。それがきっと正しいのだろうな。私はガンディーやマーチン・ルーサー・キングにはなりきれない。つまり私は、じぶんが理不尽な暴力のために愛する者を奪われたら、復讐のためにテロをやるかも知れない。

2002.5.6

 

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 ある人がこんなことを私に言った。じぶんがどれだけ悪人かと知れば、たいていの他人のすることは許すことができる。それはその人の一面でしか過ぎないのだから、と。そう言われて、たぶん私は心の奥底で、じぶんはきっと善人であると信じているのだろう、と思った。

 今夜も雨が降り続いている。植物たちはしずかな芳香を放ち歓びの声をあげているだろうが、私の気持ちはひどくちぐはぐだ。あの子どもの頃の無邪気な土地から、どうやってここまで辿りついてきてしまったのだろうかと思う。かつては単純であったものが、いまは複雑で、なにひとつ取り返しがつかない。

 たくさんのものは要らない。たった一枚の清楚な絵を賛美し感じられるだけの心を、私に取り戻させてください。

Willie Nelson の How Great Thou Art を深夜に聴きながら

2002.5.7

 

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 私は多くの悪事を成してきた。その最たるものは、じぶんの子どもに健康な肢体を与えてやれなかったことである。妊娠中、私はつれあいに多大な心的不安を与えた。それは私が一生背負っていかなくてはならない軛である。

 私はときにひどく冷酷な人間になれる。泣いている者に背を向けて眠ることができる。ガス室のスイッチを押してから、音楽を愉しむことができる。私はじぶん以外の対象に対してひどくものぐさで無感覚である。

 自転車に乗って二人で水元公園へ行った。道端で、パンクしたきみの自転車を直してあげた。もう二度とあの頃には戻れない。この灰色の夜明けを黙って駆け抜けて、もういちどあなたに会いに行けたらなあ。

 週末から私の母と妹が泊まりに来る前に美容院にパーマをかけにいきたいとつれあいが言った。悪いけどもうウチにはあまり金がないんだよ、と言うと彼女は、うん分かった、我慢するよ、とさりげなく微笑んで美容院に予約の取り消しの電話をかけていた。

 

僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから
ブルースにとりつかれたら チェインギャングは歌い出す
仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない

人をだましたりするのは とってもいけないことです
モノを盗んだりするのは とってもいけないことです
それでも僕はだましたり モノを盗んだりしてきた
世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに
一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた
なんだかとても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない
キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

生きているってことは カッコ悪いかもしれない
死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう
だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し
人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ

一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた
一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた

 

チェインギャング・The Blue Hearts 1987

2002.5.8

 

*

 

大和 二景

 

●屯鶴峯(どんづるほう)

 

 屯鶴峯------。彼方の石の記憶、岩の戦慄、いや大地の、神聖なる地殻の象徴(しるし)。閉じ込められた力。漂白された変節。天に踊り、地に伏し、さらに隆起して、大いなる高貴な皺と成りて止みしもの。流れ、流れのままに凍結した混沌、地の霊、地底の王。此(これ)より二上山を仰ぐ。風騒ぎ、森翻る。一万の猿の幻が峰々に哭く。ふたかみの雌しべ、雄しべに寄り添い、和合して、これらすべてを呑まんとす。空は鮮血に染まり、地はただ瞑目する。山は孕み、その冥い裂け目から、やがて奇怪な嬰児を産み落とすだろう。屯鶴峯の熱い石塊にへばりつき乍ら、こんな空想を持て余し、どうかすると俺はやっぱり笑ってしまう。いまでは空漠たる石くれだ。風も頬を嬲る。

 

 

●大峰 深山宿

 

 土が軋んでいる。漆黒の天板からはらはらと落ちる愁いを浴びて、草は黙している。樹間をするすると蛇の如くつたうもの。音のない透明な裸身。饐えた、鱗の匂い。闇は密度の分だけ、硬く冷たい。蔦草が朽ちた古木に触手を伸ばす。女を縊るような優しさで。熊笹の群れが騒ぐ。夜更けの雨は亡者の呟きだろうか……。 山の瘴気が忍び寄る。ひたひたと、しめやかな、濡れた足取りで。息を吐きかけられたそのとき、俺はもうこの世にいないのだろう。青い眼を光らせた山の魑魅魍魎どもの片割れとなり、どこか淋しい心持ちで、この世の景色を眺めているのだろう。

(1998)

 

*

 

 〈私〉は病んでいる。「フロイトによれば、理性によって抑圧された無意識は、理性の検閲をかいくぐって、理性の世界に環流する」(江戸のノイズ・櫻井進) 「ノイズの叛乱」である。病んでいるのは〈私〉の無意識である。いわば、この世の秩序に寄り添おうとした理性が分泌するケガレなのだ。「外に向けて放出されないすべての本能は内に向けられる-----私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったところのものは、このようにして初めて人間に生じてくる」(道徳の系譜学・ニーチェ) 病んでいるのは〈私〉ではない、〈私の無意識〉である。〈私〉はそれをどうすることもできない。説教浄瑠璃のテクスト「をぐり」に登場する小栗判官は、地獄から餓鬼阿弥(癩病者)の無惨な姿で地上に戻され、救済をもとめて熊野をめざす。彼は秩序の侵犯者であった。共同体の無意識から分泌したケガレが、彼の肉を腐乱させるのだ。それは正当化された意識に対する冥い無意識の叛乱である。それは常に〈下から〉やってくる。〈私〉を滅ぼそうとするのは、他者ではなく、内なる〈もうひとりの私〉である。

2002.5.9

 

 

 

 

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