■日々是ゴム消し Log21 もどる

 

 

 

 

 

 先日、東京から来た友人とザ・バンドの話をした。いっしょに三人になってしまったザ・バンドのコンサートも見に行ったし、下手くそなバンドを組んで The Weight も演奏した友人だ。ぼくは以前にこの項にも書いたが、ラスト・ワルツの参加リストからマディ・ウォーターズを外したいとロビーに言われてレボン・ヘルムが激高した話をした。それから気取ったニール・ダイアモンド。ロビーの推薦でラスト・ワルツで歌った彼は、楽屋裏に戻ってきて「ぼくの後にやる人は大変だね」と言って、「どうしろってんだ。ステージで寝てて欲しいのか」とディランを怒らせた。そんな話をだ。

 ぼくはずっとロビー・ロバートソンの才能に魅せられてきたけれど、でもザ・バンドというのは結局、レボンのバンドだったようにこのごろは思う。そしてバンドの中心に自殺したリチャード・マニュエルの魂がひっそりと座っている。そんなことも言った。ロビー・ロバートソンは「ロックン・ロールのために多くの人間が死んでいったが、そんな人生は不可能だ」と言って華麗なラスト・ワルツを踊り、自らの手でザ・バンドに幕を引いてしまった。けれど残された4人はその後もザ・バンドを忘れられずにふたたびバンドを組んで、アルバムをつくり、ツアーをした。そのツアーの途中でリチャード・マニュエルは首を吊って、リック・ダンコも不健康が祟って死んでしまった。もうザ・バンドはレコードの中にしかいない。老いぼれになってもザ・バンドのままで続けて欲しかった、そんなかれらを見たかった、と友人は言った。

 昨夜、再発売されるラスト・ワルツのBOX盤の情報をWebで検索していて偶然、萩原健太氏のザ・バンドについて書かれたこんな文章を見つけた。これはぼくが感じていたことを適切に表現している。少し長いが一部を引用したい。

 

 なんか、こう、日本では…というか、音楽ジャーナリズムみたいなところでは、“頭脳”というか“理念”というか、そういう部分ばっかりが評価されがちで。これは、CRT&レココレのイベントでザ・バンドを取り上げたときにも話したことだけれど。ビーチ・ボーイズにおけるブライアン・ウィルソンとか、ザ・バンドにおけるロビー・ロバートソンとか、そういったグループのコンセプトを司る存在だけをありがたがる傾向が強すぎる気がする。

 確かに大事な存在なんだけどね。そういう“頭脳”がなければ新曲もできないし。けど、“頭脳”だけじゃ、これがまたどうにもならないというか。ザ・バンド脱退後のロビー・ロバートソンのアルバムとか聞いていても、結局、そこにあるのはコンセプトばかりで。そのコンセプトを体現する適切な“肉体”というか、“歌声”というか、そういうものを、どのアルバムでも見つけられずにいるような感触がある。だから、方向性とか目標とかはわかるものの、こっちの下半身をどすんと直撃するような何かは感じられない。ザ・バンドの来日公演にはそれがあったのに。

 当たり前の話だけれど、やっぱり“頭脳”と“肉体”、両方がいいバランスで共存していないとグループってのは有効に機能しないのだ。で、不幸なことに“頭脳”と“肉体”とに分かれちゃった場合は、むしろ“肉体”だけのほうが迷いなき力を発揮してくれる局面も多いんじゃないか、と。まあ、異論が多々あることを覚悟のうえで、ぼくはそう思ったりするわけだ。だって、レコード会社の重役になってばりばりエグゼな生活しているロバートソンと、他の仕事なんかできるわけもなくバンド活動を続けて、左右違う靴下はいたりして、中にはそのまま死んじゃった人までいるヘルム/ダンコ/マニュエル/ハドソン組と。どっちがロックな生き方だろうか。

( Kenta's Nothing But Pop! )

 

 もちろんこれは好みの問題だろうけど、ぼくは圧倒的に後者の方が好きだ。音楽をやるしか能がなくて、他の生きることには不器用で、音楽以外のすべてを失っても不様にそこに居続けようとする。あるいはときに、その音楽とやむにやまれず心中してしまったりもする。そんな奴の奏でる音楽がぼくにとっては本物の音楽なのだ。ロビー・ロバートソンは「そんな人生は不可能だ」と言って上手に降りてしまったけれど、リチャード・マニュエルやリック・ダンコはそんなふうに上手に降りられなかった。ぼくはかれらのそんな生き様を愛する。上手になんかやりたくはないし、やれなくたっていい。音楽はビジネスとは違うのだから。それに、それは魂の尺度とも違う。

 スマートなやり手のロビー・ロバートソン(とはいえ、彼はザ・バンドの重要な“頭脳”でありサウンド・クリエータであって、ぼくはいささかもそれを過小評価するつもりはない)と対を成すような、ザ・バンドの初期のある曲をぼくは思い浮かべる。Long Black Veil のなかで主人公の男は、ある殺人現場でかれを見たと疑われる。男にはアリバイがあったのだが、それは親友の奥さんのベッドの中だった。かれはそれを黙したまま、処刑台へのぼっていく。冷たい風の吹く夜に、黒いベールを被った彼女が自分のためにひそかに泣いてくれるだろう、と歌の最後に呟きながら。リック・ダンコがリードをとるこの歌はザ・バンドのオリジナル曲ではないが(昔の古い伝承歌だ)、かれらの音楽のコアをよく表しているように思う。つまり、ある種の素朴なモラルのようなものだ。リチャード・マニュエルとリック・ダンコはきっとそんなふうに、かれらの音楽を奏でながら死んでいったのだとぼくは思う。

 ところで今日の夕方、ザ・バンドののCDの歌詞カードを眺めながらレボン・ヘルムの歌う The River Hymn を何気なく口ずさんでいたら、それを見て赤ん坊がなぜか本棚に立てかけてあるギター・ケースをぽんぽんと叩いて「出せ」という。それでぼくはギターを手にして、たった一人の聴衆にその曲を歌って聞かせた。

 

息子よ、おまえはまだじぶんというものを見つけていない
澄んだ鏡もそれを明瞭に映せはしない
それよりここに来るがいい
息子よ、苦しみから解放されることなどありはしないのだ
川底にその身を横たえるときまでは....

The Band・The River Hymn 1971

 

2002.3.23

 

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 ウルトラの星にも日曜はある。日曜はウルトラの星でも家族団らんの日なのである。ウルトラのシーノがウルトラの母に連れられて散髪屋に行っている間に、まめなウルトラの父は白菜と辛子明太子、納豆と葱とセロリ、昆布と鰹節の三種のおにぎりをこさえ、残り物の菜を詰め、お茶を沸かし、それらを持って昼から家族三人で仲良く近くの公園へ花見と洒落た。ウルトラの星の桜は六分咲きといったところであった。そのころ怪獣キングギドラが地球に上陸したとの報があったのだが、生憎ウルトラの父は携帯の電源を切っていて気づかず、とうとう地球は壊滅してしまった。かくしてウルトラの父は完全にお役ご免となり果てた。いまは縁側でひとり番茶を啜り、かつての地球での活躍を懐かしんでいる。

2002.3.24

 

*

 

 

 二十世紀は資本主義が、想像もできなかった形に爛熟した。ヘッジ・ファンドがもてはやされ、投機が市民権をえて、人々が投機に血道をあげる光景は、しかし、資本主義の病状がかつてないほど危険な段階に入っていることを物語っていはしないでしょうか。

 家にいながらにして入手できる情報も以前の数万倍にまで増え、人はインターネットの端末にしがみつき、世界から取り残される不安に日夜おびえている。グローバル化しつつある巨大システム自体が、人を不安にさせるのです。

 一方で社会主義という対抗軸は挫折し、それに代わる人間のモラルパターンはできていない。冷戦時の大枠での価値観がなくなり、政党をはじめ旧来型の組織の器が音を立てて解体し、人はなにをよりどころにすればいいかわからなくなっている。

 そこで失われていったものはなにか。僕はリアルさの感覚であり、人間の鮮やかな身体感覚だと思う。

 資本の蓄積を自己目的にした虚構の経済が、額に汗して働くリアルな労働の意味を空洞化している。メディアも、情報商品として売れる話題を、1999年に成立したガイドライン法のような重要な問題より優先する結果、価値の軽重が引っくり返り、世の中の実際の手触りがどんなに不気味かということを覆い隠してしまう。

(辺見庸「単独発言」角川書店)

 

 テレビをつけると様々な消臭商品のCMが溢れている。私は以前からこれらが嫌いであった。へっ、と唾を吐きかけたくなる。休日の朝からパジャマ姿でカーテンの匂いなんぞを陶酔して嗅いでいる男を見ると、その頭に一発ぶちかましたくなる。トイレの消臭スプレーは、なるほど来客のあったときなどに便利なのかも知れない。しかしほんとうにそうか、と思う。糞をしたら臭いのは当たり前じゃねえか。夏の靴下が臭うのは当たり前じゃねえか。ニンニクを食ったら臭うのは当たり前じゃねえか。家には家の体臭があるのであり、男と女が裸で格闘すれば愛液や汗や唾液の混じった濃密な匂いを発する。口臭、脇の下の匂い、台所やトイレや部屋や車の匂い。それらを一切きれいに消していったその果てにあるのは、あのイカレた教団の撒いた無色無臭のサリンである。匂いがなくなったら、動物も昆虫もわが道を失う。

 かつてWebで知り合ったある人とメールのやりとりをしていたとき、そんな話になった。その人は「ニンゲンは言語を介してコミュニケーションをとるのだから、生身の欠けた言葉だけのやりとりも、それはそれでリアルなものであると思う」というようなことを主張した。私はどこかで魚の小骨の如き違和感を感じながらも、「そういうことも言えるのかも知れない」とそのときは思ったりした。だが先日、東京から遊びに来た友人とそんな話が出たときに、かれは「いや、おれはそんなのは駄目だね。やっぱり直接生身で会わなきゃ。チャットやメールだけの人間関係なんて気持ち悪い。そんなものは信じていない」と明快に言い切った。それが、気持ちよかった。私は、やっぱり後者である。もちろん、だからといってWebでのやりとりを軽視するつもりはないし、ある部分までは確かに共感したり解り合えたりすることもある。だが、やはりそこには決定的な欠落がある。生身の肉体が欠けている。相手の口臭も腋臭も靴下の匂いも屁の匂いも分からない。恰も公園でよその犬の小便の匂いを嗅ぐ野良犬のように、私もそのことには最後までこだわり続けたい。

 情報なんかなくたって、街を歩けば世の中の空気は感じとれる。天気予報を知らずに山中で遭遇した台風には始源の驚異がある。履歴書や大金をはたいた興信所の調査書なんかより、己の目で確かめたニンゲンを信じる。湯舟のなかで嗅ぐ子どもの屁の匂いを愛おしいと思う。女の乳首を濡らした己の唾液の匂いにさえ安らぐ。カルカッタの路上で物乞いをする不具者の悪臭に畏怖する。牛の糞を拾い歩く女の汗を美しいと思う。私が信じている世界は、そういうものたちだ。

2002.3.25

 

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 火曜、朝9時。レンタカー屋へ車を借りに行く。軽のアルト、チャイルド・カー・シート込みで一日5千円弱。戻ってきて、ちょうど電車に乗り込むつれあいとチビを車上から見送り、段ボール2個分の荷物と紙オムツ1パックをトランクに積み込む。今回ははじめてだが、高速は使わずに下の道で大阪まで行ってみようかと思う。BGMのカセットは、むかし友人らと東京の貸しスタジオで録ったへぼバンドの演奏。Have You Ever Seen The Rain、The Weight、Deportee、All Along The Watchtower、I Shall Be Released、Jumpin' Jack Flash、Irish Heartbeat、Helpless、Knockin' On Heaven's Door。うん、信じ難いほど下手糞だが、このバンドには正しいロック・スピリットがある。ああ、またバンドでも演りたいぜ。BGMは続いて、仲井戸麗市ことチャボの DADA。「子どものままの大人」と「夫婦善哉」にこころ洗われる。10時前に家を出て、だらだら走って11時半に大阪城近くの病院に着いた。こんなものかと思う。チビはちょうどリハビリが終わったところだった。土踏まずが思っていたより残っていて、当初の予想より状況はこれまでのところ順調に仕上がっている。家できちんと装具を履かせていた結果でしょう、とはM医師の言とか。来月からは前述したように隔週で20分だけのリハビリになる。それから道向こうの病院の泌尿器科で障害者手帳の申請書類を書いてもらったり、また戻ってきて昨夜から少々風邪気味のチビを小児科でも診てもらったり、院外処方の薬を取りに行ったりと、あれこれ忙しい。1時過ぎにようやく2階のロビーで、持参したおにぎりの昼食を親子三人で食べる。チビは極小の一口大おにぎりを頬張りながら、私とつれあいとじぶんを順番に指さして名前を確認させる。このごろ覚えたので得意げに、何度も飽きずに繰り返す。うん、お父さん。お母さん。紫乃さん。そう、大海に漂うちっぽけな方舟のような三人きりの〈聖家族〉だ。折り畳んだベビ・カーを積み込み、2時頃に病院を出発。時間に余裕があるのでふたたび和歌山まで下の道を行ってみる。当初は和歌山城にある無料のちいさな動物園をチビに見せてやろうかと思っていたのだが、それ以外は取りたてて用事もない。風邪のひき始めと診断されたチビは車が走り出すと忽ちに眠ってしまった。チャイルド・カー・シートの上にやや腫れぼったい、丹波屋の大福のよう顔をして収まっている。つれあいは車上から通り過ぎる心斎橋や西成の風景を眺めながらあれこれ話をして、ドライブ気分を愉しんでいる。堺市からは国道を離れて海岸よりの道を行く。岬町まで出て、そこから峠越えで和歌山市内に入る。万葉集の歌で有名な和歌浦や巨大な観覧車の回るマリーナ・シティの横を抜けていく。つれあいの実家には6時前に着いた。春休み中の姪っ子のSちゃんが前日から来ていて、チビの遊び相手にと10日間ほどつれあいと二人で滞在することにしたのだ。つれあいもその間にじぶんの服やパンツを仕立てようと、数日前に難波で服地を買ってきた。みんなですき焼きを囲み、SちゃんといっしょにV6の番組を見終えてから8時半頃、「じゃ、そろそろ」と腰をあげる。駐車場の前で煙草に火をつけ、ひとり夜の漁港を眺めていたら、いつの間にかつれあいといっしょに玄関で見送ってくれたはずの義母が後ろに立っていて「ま、ゆっくり一服しなよ」と言う。義母も義父も今回は仕事のことを何も聞かない。言いたいことは山ほどあるだろうに何も言わない。私も言うべきことばを持たない。義母と二人で黙って海を眺めて、宜しくお願いします、とだけ言って車に乗り込む。マンネリの紀ノ川沿いの国道をやめて、美里町を抜ける真っ暗な山間のコースを選んだ。九度山へ下るいつもの三叉路(ロバート・ジョンスンの四辻のようだ)で一瞬迷って、高野山へのぼる右の道へハンドルを切った。深い闇のなかで小刻みなカーブを延々とのぼりつめながら、空海の歩いた時代の高野山を想った。険しい山襞に喘ぎ、ニンゲンの皮を脱いで畜生になり墜ちて、かれらは〈異界〉へ入ったのではないか。以前に友人にもらったグレツキの、波のような静謐なシンフォニーの3番を聴きながら車を走らせた。やがてひっそりと静まりかえった門前町の通りに出て、参拝者用の駐車場に車を停めたのはもう11時前だった。目の前にライト・アップされた根本大塔が、まるでNASAの巨大なアンテナのように建っていた。高野山の中心にして密教の源泉である大日如来、胎蔵・金剛の両界曼陀羅を体現するこのモニュメントは、空海が意図した創建当時の再現であるという。誘われるように誰もいない境内にあがって、思わず見上げる。こんな深い山中の頂きに、こんな馬鹿でかい非実用の建築物をこしらえた者はよほど愚かか、あるいはこの世の愚かさを超えた何かを見ていたに違いない。こいつは夢幻の電波塔だ、こんな人界を隔てた深山の頂きから日夜、目に見えぬ怪電波を発し続けているのだ、とも思った。ふと気がつくと、塔の上層部分から奇妙な音が聞こえてくる。なかで僧侶が勤行でもしているのだろうか。時折きいきいと金属の回転板を擦りあうような音に混じって、やはり金属の飾り物を振り鳴らしたようなシャンラシャンラとした音が間断なく聞こえてくる。そして、風の音がする。無辺の荒れ地をひゅうひゅうと吹き抜ける密度の濃い風の音が、不思議だが確かに塔の内部から聞こえてくる。この建物の中には、外からは伺い知れぬ広大な空間がひろがっているに違いない。と、背後の鐘楼にいつの間にか人がきていて、ど---んと腹を刺すような鐘の音を響かせた。鐘はいつまでも鳴り続け、私は山の冷気に晒されて、どこかあらぬ場所に立ち続けている。帰途は門前町を抜けて橋本へ至る丹生川沿いの、深い谷底を這うようなさみしく昏い山道を帰った。家に着くと深夜の2時をまわっていた。発泡酒を一缶煽って、風呂も入らず寝床にもぐり込んだ。

2002.3.27

 

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 先日、東京の友人からもらった、ビヨークの debut を聴いている。もらった5枚のCDのなかで、なぜかこのごろはこればかり聴き続けている。ビヨークの曲、あるいは彼女の声は、何というか純心と否定と躍動と静けさが同居しているような、どこかクセになる奇妙な魅力があって、そこにはたとえばチャンプルーの中のニガウリに似た一抹の苦みがある。それは常に「在ること」に不安で歌うことによってしか生きられない、とでもいった歌のように聴こえる。

 というわけで、これも友人がおすすめの、ビヨーク主演の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のビデオを昨夜、レンタル屋で借りてきて見た。いやあ、なかなかのものだったね。いまだ独身の友人は映画館に誘った女の子が途中で寝てしまったそうだが、そんな女はとっとこ別れた方がよい。ストーリーについては実際に映画を見て欲しいが(って、今頃そんなことを言ってるのはおれだけか)、ラストの死刑執行に至るシーンなぞは、昔サルトルの「嘔吐」だったか「壁」だったかの小説を読んでしばらく死の恐怖で夜中に何度も脂汗をかいたという人がいたけれど、そんな夢でうなされそうな迫真に満ちている。「何というか、後味の悪い映画なんだけど」と友人が言っていたが、確かに救いはどこにもないように思えてしまう。だが幕が閉じてしばらくすると、救いようのない現実よりも、主人公のセルマがひたすら空想のなかで歌い踊り続けた〈そうありたいと願った〉場面の方が、よりリアルで鮮やかに残っていることに気づく。結局、映画はそうしたことを語っているのではないか、と思ったりする。

 ところでヒサアキさんのサイトで教えてもらったのだが、ビヨークの公式サイトもある。クイック・タイム・ギャラリーで彼女のビデオ・クリップも堪能できるが、いかせん私の貧弱な通信環境では重すぎた。

2002.3.28

 

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 テレビのニュースで偶然、パレスチナの映像を見た。検問所でイスラエル兵によって銃撃を受けた家族の車。シートを貫通した銃弾が母親の首を射抜き、彼女が盾となって守った小さな女の子だけが一人、無傷だった。まだおそらく2, 3歳の女の子は、救い出した女性の腕に抱えられて泣き叫んでいた。あるいは殺されたパレスチナ人警官の遺体の前で、こぶしを叩いて絶叫する男。そしてまた、イスラエルで大きな自爆テロがあった。辺見庸のいうように、己の身体を粉砕する覚悟で行われる行為に対して、ほんとうに、いったいどんな言葉が対抗し得るだろうか。いったいどんな言葉が、それだけの深度を持ち得るだろうか。私たちは果たして、そんな言葉を持ち合わせているのか。不条理な暴力によって、一瞬にして両親を失ったあの小さな女の子に向かって、私はいったいどんな言葉が言えるだろうか。私は一切の言葉を失う。私の語る言葉などは、あの場所で、死体に群がる一匹の蠅にすら値しない。無差別のテロは確かに何物も生み出しはしない。だが同時に、私はあれらのテロを否定し得るだけの言葉もまた持ち合わせていない。自分の妻や子どもが同じような目にあったら、私はあるいはそれをやるかも知れない。すべての言説や知というものが全くの無力で、ただ理不尽な暴力しか存在しないあの場所でなら、私はきっとやるだろう。己の身体を粉砕する覚悟さえ厭わないだろう。そのとき私は、安全な場所に立って「いかなる理由でもテロはいけない」という言葉に、唾を吐きかけてやるだろう。

2002.3.29

 

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 私はときに夢想する。有り金をはたいて中東までのチケットを買い、何とかパレスチナの土地まで辿りついて、発砲するイスラエル兵の前に不様に立ちはだかり犬のように撃ち殺されるじぶんを。運が良ければそれはこの国のニュースに取り上げられ、いっときの衝撃を人々の心に与えるだろうが、やがてそれも日々の雑多な情報によって薄められていく。それはそれで所詮その程度の、生きるにも死ぬにも値しない世界であったと、あの世で得心するだろう光景を。

2002.3.29

 

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 しばらく前に東京に暮らす従兄から電話があって、じつは3月いっぱいが期限のUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のただ券が2枚あって、家族の誰かを連れて行こうと思っていたのだがみなインフルエンザなどで体調が悪くなってしまった、それで男二人というのも何だけれど、よかったら一緒に行きませんか、というお誘いを頂いた。自慢だけれど私は、東京ディズニーランドさえまだ行ったことがない。しかしもともと遊園地の類は嫌いでないし、ただ券だし、なかば社会見学のつもりで、こんな状況の時に少々後ろめたいけれども、しかしまあ和歌山の実家へ帰っているつれあいたちも白浜のサファリ・パークへ行くって言ってたしなあ、などと思いながらお受けすることにしたのであった。それが今日なのである。従兄は早朝の飛行機でやってきて、**時にUSJの駅で待ち合わせとなっている。しかし春休みの土曜に、いい歳こいたオッサンふたり、仲良くUSJである。これってビューティフルな光景じゃないか? ああしたところの食堂はどうせ高くてたいして旨くないだろうと思い、当初はおにぎりでもこさえて持っていこうかと考えたのだが、従兄と二人で手弁当をひろげている光景を想像して、さすがにやめた。高かろうが不味かろうが、せっかく行くのだからあとは郷に従え、だ。奇しくも中東ではイスラエルがパレスチナへの大規模な侵攻を始めたちょうどそのときに、私はアトラクション用のカッパ片手にUSJへ遊びに行く。これも日本の日常である。昨夜は予習のつもりでテレビで「ダイハード3」も見た。準備は万端。ではちょっくら、USJとやらへ行って来る。

2002.3.30

 

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 USJの体験記を書こうと思ったのだが、今日はどうもその気になれない。明日にしておく。

 明け方、寝覚めの悪い夢を見た。見知らぬ一人の女を殺してしまった夢だ。どこか雑然とした狭い地下室で、古墳にあるような水を満載した石棺の中にその女の死体は沈んでいて、私はひとり、それを凝視している。ああ、また自分は人を殺してしまった。(夢の中で私は何度か人を殺している) この事実からは生きている限り永久に逃れられないのだ、と私は恐怖している。私が女を殺めた地下水道の現場ではすでに、警察によって私の体毛と女の血液が発見されていた。捜査の手が私の身に及ぶのは、もはや避けようがなかった。私は狂おしい思いで、石棺を覗き込んでいる。水の中に沈んでいる女の死体はひどく生々しく、〈物体〉としてのリアリティを湛えている。それは戦慄というに相応しかった。

 そんな夢を見たときには、一日がその夢のトーンで支配されてしまう。雨戸を閉ざしたまま、暗い地下の根茎を締め付けられているような思いで、モグラのように太陽をやりすごす。夜になって、近所のレンタル屋に行ってビデオを2本、借りてきた。そのうちの1本、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を照明を落としたままの部屋で見た。戦争・軍隊における人間性の剥奪。この皮膚がひりひりとするような殺伐とした感覚も、いまの自分にぴったりくる。エンディングに流れるストーンズの「黒く塗りつぶせ」もまた、いまの私の気分に似つかわしい。

 さながら地中深く降りていって、突き当たった冷たい岩盤に突っ伏している、殺人者にして死刑囚の心地だ。どうにも逃れようがない。

2002.4.1

 

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 深夜の数時間を使って、ディランの Slow Train を訳した。訳している間ずっと、この曲をリピートで聴き続けた。何十回も、くりかえし、くりかえし。これと、数日前に訳した Foot Of Pride の二曲は、私の現在の心根にもっとも近しい。要するに、のっぴきならない歌だ。昨日、パレスチナのデモに参加していた日本人の留学生がイスラエル軍の発砲に遭い負傷したという。そのおなじ銃弾を、いっそ私も受けてみたい。

 もうひとつ、訳したい歌があった。ディランが1980年のゴスペル・ツアーで演奏していた曲で、公式には発表されていない Ain't Gonna Go To Hell For Anybody というタイトルの、颯爽としたメロディを持った歌だ。さわりの部分を訳出しておく。

 

But it don't suit my purposes, it ain't my goal
To gain the whole world and give up my soul.

I ain't gonna go to hell for anybody
Ain't gonna go to hell for anybody
Ain't gonna go to hell for anybody
Not for father, not for mother, not for sister, not for brother, no way !!

けれど全世界を手に入れたり この魂を手放すことは
私の意図ではないし、私の目標でもない

たとえ誰のためであっても地獄へ行くつもりはない
たとえ誰のためであっても地獄へ行くつもりはない
たとえ誰のためであっても地獄へ行くつもりはない
父でも 母でも 姉妹でも 兄弟でも 誰のためであろうが、けっして!!

 

 いや、私は銃を捧げ持ったイスラエル兵なのだ。私はガス室のスイッチを入れた後でモーツァルトを聴いて涙するナチス党員だ。そして苦悶の表情を浮かべたベトナムの少女にとどめの銃弾を撃ち込むアメリカ兵士だ。それらのどこにも、〈私〉はいる。私の精神はなかば、壊れかけている。

 

 Slow Train を収めたアルバムの最後、美しいピアノの弾き語りの曲の中で、ディランは次のように歌っている。

 

どれだけ長いこと 荒野で私は恐怖を飲み続けていられようか
どれだけ長いこと おまえは己の弱さを隠すことによって、自分を憎み続けていられようか

(When He Returns・Bob Dylan 1979)

 

2002.4.2

 

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 3月30日、土曜の午前10時。予定通りUSJ 駅に降り立った。いやはやもの凄い人の波である。絵に描いたようなアベックや家族連れやガキどものグループのなかで、私はどうもひとり場違いなところに来てしまったような気がして仕方ない。改札口の端に立って辺見庸の対談集「不安の世紀から」を読む。やや遅れて従兄が到着し、いざUSJの入り口へ歩き出した。駅前から数百メートルの道のりは、片側にずらりと、すでにここよりおとぎの国の始まりといったハリボテ然の奇抜なデザインの店々が並んでいる。入り口で従兄の持参した招待券を磁気のついたチケットに引き替える。ちなみに料金表を見ると大人一名5,500円である。頭上に掲げられた星条旗が何となく目に入る。ゲートを抜けると、やはりハリボテ然としたアメリカの、古き良きオールディーズ風の街並みが小綺麗に広がっていた。以前につれあいの実家近くにあるマリーナ・シティに夜、ちょっとだけ足を踏み入れたが、あれを規模をさらに大きくしたような感じ。生活の臭いが完全に存在しない、無菌のパノラマ・ワールド。その通りを突っ切っていくと大きな池があって、アトラクションの施設はだいたいそのぐるりを取り囲んでいる。道端に各施設ごとの待ち時間を表示しているボードがあり、人気のあるアトラクションはすでに2時間待ち3時間待ちである。ガイドで予習してきた従兄の計画に沿って、まず一番人気のジェラシック・パークの予約チケットを取りに行くがすでに完売で、仕方なく唯一残っていたバック・ドラフトのそれを辛うじて手に入れ、それからさてどうしたものかと立ちつくす。私の提案で30分後に始まるブルース・ブラザーズのライブ・ショーを見ることにした。やがて映画に出てくる例の拡声器を天井に据えたポンコツ・パトカーに乗った黒ずくめの二人組が現れて通りに面したステージにあがり、Everybody Needs Somebody を歌い出す。長身のエルウッドの方は結構似ている。太ったジェイクの方はそこらでハンバーガーでも囓りついているのが似合っている。そしてとにかくがっかりしたのは、一人のサックス奏者を抜かしては、演奏がカラオケで生のバンドじゃなかったってことだ。途中からやけに背の低いアレサ・フランクリン役の黒人女性が出てきて Think を歌ったりもしたけど、毎日20分のショーを何度かくりかえすかれらの仕草のちょっとした端々に、「こいつは物まねのお仕事だぜ」というある種の気怠さが透けて見えてしまい、最前列で見ていた私はどうにもイマイチ乗り切れない。私はニセモノの音楽には感動できない。それから途中、昼にハンバーガーとポテト(マックのそれよりは旨かった) を食った以外はそれこそ夕食も後回しにして、ときには2時間(映画一本分) の長い長い無為の立ちっぱなし待ち時間にも耐え難きを耐え忍び難きを忍び、二人のオッサンは園内をそれこそコマネズミのごとく駆け回った。実に閉園の夜10時まで、延べ12時間、である。その狂おしいほどの熱意と忍耐によって、閉園間近で惜しくも終了してしまった ET を抜かせば、主要なアトラクションはほぼすべて見れたと思う。いやいや、お疲れさま。一番人気のジェラシック・パークは、そこらにはべっているハリボテのロボット恐竜こそ何やらチープな博物館もどきだったけれど、約30メートルの高さからほぼ垂直に滑降するラストのジェット・コースターのスリルは侮れない。「え。うそ。ひえええええええええ」という感じで、そのお間抜け顔の瞬間写真をあとでお望みなら出口で買える(ビジネスよ、ビジネス)。ハリボテ・アトラクションなら、ジョーズの巨大鮫くんの方がまあまあの出来だ。幌付きの遊覧船に乗ってジョーズに追いかけられるのだが、これも最後に大口を開けて左舷より襲いかかるジョーズが銃弾を撃ち込まれ、もういちど血だらけの姿で浮かびあがってくる一連の場面はわりかし臨場感がある。一方、西部劇のセットをバックにしたザ・ワイルド・ワイルド・ワイルド・ウエスト・スタント・ショー(どうにかしてくれ、このタイトル) は保安官と悪役のコミカルなドンパチ・ショー。客席ではチャップリン姿の俳優がおどけて誘導をするのだが、あまり受けていない。出てきてから周囲の植え込みを触ってみたら、すべてプラスチックのまがいものだった。ここではすべてがニセモノなのだ。ウォーターワールドは映画を知らなかったけれど、廃墟になった近未来の人工島で繰り広げられるアクション・ショー。前から3列目に座っていたわれわれは水上ボートのドリフトに巻き込まれてしとどに濡れた。アトラクションの規模としてはなかなか。3Dを駆使したターミネーター2は、出し物としてはいちばんよく出来ているんじゃないかな。映画には出てこない新型の巨大蜘蛛ロボットが液体窒素で凍らされるシーンでは、天井からひんやりとした空気とともに細かい霧状の水が降ってきたりしてなかなか凝っている。本番前の前戯を担当するダイナ社のネエちゃんのSM女王風の喋り(「あんた、どこから来たの? え、東京? 東京だからってイケテルと思ってんじゃないわよ!!」)もまるで吉本興業で、このへんは東京ディズニー・ランドにはないだろう関西のノリである。このターミネーター2の演出に比べると、消防士の活躍を描いたバック・ドラフトは、化学工場を模したセットで火災が発生し、流出した薬品に引火して次々と大爆発が起こる様を張り出した通路から眺めるのだが、これは結局たんなる火事もどきを見物したというだけで、終わってみればとりたてて何というものでもない。何というものでもないもののために律儀に長時間並ぶのが、ここUSJにおけるレーゾン−デートルである。最後にライドしたバック・トゥ・ザ・フューチャーは、はっきり言って期待はずれ。据え付けられたタイムマシンに乗り込んで、前方の円球スクリーンに映し出される画面に連動して座席ががっくんがっくんと動くのだが、要するに仕掛け的には昔からデパートの屋上にある子どもの乗り物を大がかりにしたというだけで、気分が悪くなるだけの代物である。乗車前にスタッフのネエちゃんから「気分が悪くなったら座席で×印を出してくれれば私たちが救助に参ります」と言われていたのだが、私は途中から目をつぶって我慢した。さて、そうこうしているうちに日もとっぷりと暮れた。ニセモノ街に灯るイリュージョンは眩く、通り過ぎる幸せなゲストたちの顔はどれも上気していまだ疲れた様子もない。最後に従兄の提案で、中央の池で催されるハリウッド・マジックなるショーを見ることにした。私はひとり隅の喫煙所で一服してから(さすが禁煙運動のリーダー国アメリカ、僅かな喫煙所を探すのも一苦労)、先に席取りに行った従兄の姿を探しに出かけたのだが、いつの間に池のぐるりは蜂蜜に群がった蟻のような群衆で埋め尽くされている。こりゃとても見つかりっこないだろうと諦めて、この間に土産物屋でも覗いてくるか、と池と反対の方角へひとり歩き出した。従兄のガイド本に載っていたスヌーピーの絵柄がついた八つ橋を、せめてチビに買っていってやろうと思ったのである。スヌーピー・グッズの土産物屋は反吐が出るほど混んでいた。入り口近くで品出しを終えた空の段ボール3箱を抱えて行きかけた店員を呼び止め「スヌーピーの八つ橋はどのあたりか?」と問うと、わざわざ段ボールを下ろして案内してくれようとする。「いやオタクも忙しそうだから、だいたいの目星だけ教えてくれたら自分で行くから」と制止したのだが、「ドウゾこちらです」とすでに先へ歩き出している。仕方なく哀れな八つ橋のところまで連れて行ってもらった。大体にしてここのスタッフたちはこちらが驚くほど、誰もがまるで訓練された接客ロボットのように対応が細やか親切で、あんまり親切すぎると私などはかえって気味が悪い。八つ橋を手にレジに並ぶ。前の若い女の子が持ってきたマグカップにバー・コードが抜けていて、店員がひとり慌てて値段の確認に走る。レジのモヤシのようなひょろっとした若い男の店員は客を前に、手持ちぶさたでしばし困ったように沈黙していたのだが、次の瞬間、ふっとにこやかな笑顔を取り戻して女の子に向かい、モヤシを湯通ししたような声で「今日はアトラクションはいくつぐらい乗られましたか?」と話しかけた。私は堪りかねて隣のレジに移動した。あの手の間抜けな会話はとてもじゃないが聴き続けていられない。外へ出るとおそらくハリウッド・マジックのショーがいよいよ始まったのだろう、賑やかなサウンドが池の方から聞こえてくる。と、俄にその心地よいサウンドに雑音が混じり出し、壊れたラジオのような悲鳴を上げてプツリとやんでしまった。気のせいか、周囲の照明もいつの間にか薄暗い。思わず足をとめた目の前で、ニセモノ街の町並みが板に描いた古い映画のセットのようにドミノ倒しでバタバタと倒れていった。驚愕した。ヘンな表現だが、本物のニセモノだったのだ。セットの倒れ尽くした後には、テレビで見たどこか中東の景色のような、殺風景な岩と土埃と粗末な石組みの建物だけが残っている。そこへ銃を手にした迷彩服姿の兵士たちが通りの四方からなだれ込んできた。かれらはどこから来たのか。これは現実なのだろうか。それとも、これも新手のアトラクションなのか。私も含めて、それぞれの場所に呆然と立ちつくした幸福のゲストたちはみな一様に、いったい何が起きたのかという表情のまま凍りついている。大柄な迷彩服姿の兵士たちは物も言わず、銃の筒先で私たちを一列に並べようとしている。「何だこれは。お前らいったい何なんだよ」と叫んで抗った若者が、忽ち一人の兵士に撃ち殺された。さらにもう何人かがあちこちで射殺され、やがて一時騒然としかかった空気は恐怖によって不気味な沈黙に押し込められた。後にはすすり泣きの声と甲高い子どもの声、そして路上に点在しているいくつかの血だらけの死体だけが残った。歩きながらゲロを吐いている奴もいる。私たちはいくつかのグループに分けられ、銃で小突かれながら歩かされた。誰も何も喋らなかった。ついさっきまでハンバーガーやホット・チョコレートなどを売っていたスタンドは粗末な板葺きの屋台になっていて、いまは木の皮と瓶詰めの泥水のようなものが置いてある。もちろん、誰も買っている者などいない。風に乗って、どこからかヘドロと糞尿と血と火薬の混じったような臭いが漂ってくる。ある大きな建物の前まで来て列が止まった。たしかビートル・ジュースなどの歌舞伎ロック・ショーをやっていた辺りだが、そんな雰囲気は微塵もない。押されるように中へ入ると、剥き出しの地面ばかりのだだっ広い体育館のような空間だった。兵士たちは入口付近で立ち止まり、私たちだけに先へ歩いて行けと促す。正面のかなり先に小さな扉が口を開けているのが見える。しばらくのろのろと進むと、どこかで凄まじい轟音が響いた。ずっと右端の方で何人かの人間らしき影が倒れている。続いてまた轟音。こんどはわりと近くの左手で、家族連れが無惨な肉片と化していた。ここは地雷原なのだ。一斉に背後の入口へ駆け戻ろうと殺到した人々が兵士たちに次々と撃ち殺されていった。あとは阿鼻叫喚、まさに地獄絵である。とてもここで描写できるようなものでない。私は、すでに失禁していた。大粒の脂汗がとめどなく額を流れ落ち、次の瞬間にも気が狂ってしまいそうだったが、地面に貼りついた胴体の一部や頭を潰された赤ん坊の死体を踏み越え、何か自分でもわけの分からない言葉を叫び続けながら、無我夢中で走った。あとで人づてに聞いた話では、元のジェラシック・パークの建物に入れられた組は、そこは強力な新型爆弾のアトラクション(?)で、ほとんど全員が粉々に吹き飛ばされてしまったらしい。それよりまだマシだったと言うべきか、倒れ込むようにしてようやく地雷原の出口まで辿りついた私は、その瞬間にほとんど気を失い倒れかけたが、待ちかまえていた兵士の一人に銃床で尻をどやされ、辛うじてまたよろよろと歩き始めた。右側の耳の鼓膜が破れたようで、だらりと下がったままの左腕から血が滴り落ちていたが、痛みは感じなかった。朝とおなじ駅の改札前で、私とおなじくボロ雑巾のような姿に変わり果てた従兄と偶然再会した。かれは全身真っ黒の煤だらけで、右手の指を3本ほど欠いていた。どんなアトラクションであったのか、従兄は一言も話さなかったし、私も聞こうともしなかった。二人で黙って、最終の電車に乗り込んだ。電車が走り始めたとき、はじめて「ASJ (アフガン・スタジオ・ジャパン) 駅」というホームの表示がちらっと目に入った。やがていつもの見慣れた大阪の夜景が見えてきた。通天閣が眩しくライト・アップされて建っている。「きれいやなあ」と誰かが呟くのが聞こえた。そのときはじめて、左腕に鋭い痛みを感じた。通天閣を見つめながら、私は知らず涙を流していた。腕の激痛と濡れたズボンから匂い立つ小便の臭いがなぜか無性に愛おしく思えた。

2002.4.3

 

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 レンタル屋で借りてきた映画「サイクリスト」を見た。現在上映中の「カンダハール」を撮ったモフセン・マフマルバフ監督の作品で、すべてのイラン人が見たといわれるほどイランでは大ヒットした映画だそうだ。戦火のアフガニスタンからイランへ逃れてきた元サイクル・チャンピオン(自転車長距離走?)の主人公が、重い病に罹っている妻の手術代を稼ぐために7日間の間、不眠不休で自転車に乗り続けるという見せ物に挑戦するという筋。男が狭い広場のぐるりをひたすら走り続けている間、詐欺師じみた興行師が駆けずり回り、大金を賭けた金持ちたちが暗躍したり、総領事が反体制活動ではないかと妨害したり、慈善家を気取ったテレビの人気伝道師が業病や不幸な年寄りたちを連れてかれらの前で説教を始めたりする。あるいは睡魔に襲われる車上の父親に、幼い息子が「父さん、眠っちゃダメだ」と懸命にその頬を叩く。そして最後に(実は途中で知られざるダウンがあったのだが)、とうとう7日目の朝が明ける。見物人たちが大きな歓声をあげ、テレビの取材陣たちが詰め寄り、幼い息子が「もう終わったんだよ、父さん。もう走らなくてもいいんだよ。はやく病院の母さんに会いに行こう」と言うのだが、男はもはや息子のその声さえ耳に入らぬかのように、ただ一心不乱に自転車を漕ぎ続ける。ここまできてこの映画を見ている者は、主人公にとって真の問題は見せ物の達成によって得られる金ではないのだ、と気づかされる。見せ物が終わってたとえ手術代が手に入ったとしても、妻が助かるという保証はない。そしてアフガン難民という惨めで苦難続きの男とその家族の境涯が変わるわけでもない。さらに大きく、映画を撮影したマフマルバフ監督の視点に立つならば、この主人公の男とおなじような虐げられ続けてきた無数の人間たちの苦しみが終わるわけではない。映画はなおも走り続ける男の姿を映しながら終わる。

参照 : Makhmalbaf Film House (英文サイト)

2002.4.3

 

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 緊迫したパレスチナ情勢も気にかかるが、たまにはテンションを下げて他愛のない話をする。みなさんは“八木さおり”というアイドルをご存知か。なに、知らない? 結構。“八木さおり”は私が生涯において唯一、夢中になった売れないアイドルであった。もともと私はあまりテレビを見ないし、芸能界のタレントといったものにも昔からひどく疎い。小学生の頃は従兄からもらった天知真理に始まって、高田みずえ(はじめて自分の小遣いでデビュー曲「硝子坂」を買った。ちなみに宇崎竜童の作曲)、石野真子、榊原郁恵など、それなりのアイドルものは聞いて育ったのだが、高校生にもなるとだいぶ堅物になってきて、部活の後輩に「先輩、キョンキョンも知らないの」と呆れられたり、友人に当時デビューしたてだった菊池桃子の生写真を見せられ「おれの彼女」と言われて驚愕したりした(「え。こんな可愛い子をいつの間に、この野郎」とひそかに拳を握りしめた)。そんな堅物の私がなぜ突然“八木さおり”なぞというアイドルにうつつを抜かしたかというと、たんに当時働いていたレコード屋(ということは、私が20歳前後の話だ) の壁に貼ってあった彼女のデビュー・アルバムのポスター(ちなみに水着)を見てつい魔がさしたわけで、そもそもアイドルに夢中になるのに理由などいるか。それから私は彼女のアルバムもシングルもすべて買ったし、写真集も買ったし、テビュー直後の貴重な写真が掲載されている古い雑誌さえ神田の書店街で探し出して揃えた。NHKの「ジェニーがやってきた」や「徹子の部屋」に彼女が出たときのテレビも録画したし、ドラマ「星野仙一物語」で仙一少年の姉役として出演したのも録った(これらはいまも実家にある)。そうそう、握手会なるものにもはじめて行った(おそらく最初で最後の)。一人で行くのは恥ずかしいので、先日遊びに来た腐れ縁の友人を連れて行った。場所はどこだったか、FM東京のスタジオである。新曲のプロモーションがあって、それから一列に並んで握手をしてもらうのだが、先に立った友人は「あ、ど---も。頑張ってください」とお気楽に話しかけたりしていたが、私はえらく緊張して結局、口の中でゴニョゴニョと自分でも聞き取れない言葉を発して終わってしまった。何とも情けない。そうしてとうとう「パンダ物語」が封切られた。なに、「パンダ物語」を知らない? 結構。わが“八木さおり”初主演の映画「パンダ物語」は、しかし大いにコケたのである。私も当時暮らしていた北関東のある地方都市の映画館に見に行ったが、日曜なのに観客は私ひとりであった。彼女が歌った主題歌の「SAYONARA」は、これは細野晴臣と松本隆という黄金コンビが提供した楽曲で、なかなかよい曲だったのだが、これも当然のごとく売れなかった。あとはお決まりのパターンである。急に彼女に関する情報が少なくなり、ごくたまにテレビの「女ねずみ小僧」なんてのにちょい役で出たりしていたけれど(ちなみに私はこれもビデオに録画した)、まあさっぱりで、そして最後はお決まりのヌードになった。私はしかし、それらの雑誌や写真集は買わなかった。ホントは見たかったけど、見たくなかった。「ダメだよ、さおりちゃん。ヌードになんかなっちゃ」と、私は心の中で泣いていたのである。ひとつの季節が終わった。  というわけで、この間ふと“八木さおり”のことを思い出し、試しにWebで検索をしてみたら、そんな売れず仕舞いだった彼女でも結構出てくる出てくる。こいつらよっぽど暇な奴らだなという手合いがせっせと昔の画像をアップしている。その中でもやっぱりヌードの写真が圧倒的に多くて、ほとんどアダルト・サイトも同然の野卑なページで晒しモノになっているそれらの写真を眺めながら、もうそろそろいい歳になったであろう彼女もどこかでこうした過去の自分を見てるだろうかと思うと、やはりちょっぴり悲しくなった。ああ、あのとき無理を言ってでも止めて、おれが代わりにヌードになってあげたらよかったかも知れないなぞと、このお馬鹿なオッサンは呟くのである。

 

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 sprairoさんのアフガンめものBBSでRobert Fisk : 2002年3月30日付記事・戦争を起こしたい時に、リーダーたちが口にする嘘 の訳を読む。すずき産地さん野菜だよりのページで「発ガン性の農薬が基準値の9倍もオーバーしている冷凍野菜」の分析結果表を眺める。東北大教授・後藤斉氏のサイトWeb上のリンクについての見解を読む。購読しているメール・マガジン 田中宇の国際ニュース解説4月5日付記事・変質するパレスチナ問題を読む。「酒鬼薔薇」のWeb検索でかれの顔写真を拾う。Van Morrisonの英語サイトSpirit の歌詞を入手して歌う。NHK総合「関西クローズアップ」で「密着取材・星野阪神 快進撃の秘密」を見る。夕食に鶏もも肉のステーキとほうれん草とモヤシのソテーをつくる。撮りだめしていた赤ん坊のビデオを編集する。風呂に入ってクソして寝る。

2002.4.5

 

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 障害者問題について、私のメールを介した友人N嬢とヒサアキさんとの間接的対話を、一部再録になるが、ここに引いておきたい。

 

 

 対談の文章(*五木寛之 VS 沖浦和光)、面白かったです。システムとしての文化の中で、人は自らを生きづらい方向へと運んでいると感じています。

 そうそう、春から新しい活動を始めようと思っています。これまで関わってきた団体をやめて、新しい組織をつくる予定です。一応、自立生活センターみたいなもんなんですが、テーマは、障害者問題に閉じなくて、「いごこちの良い社会をつくる」ことを目指して、「共生」を常に念頭において活動していきたいと思ってます。

 「障害者は健常者がいないと生きられない」っていうのは世の中的にわかりやすい発想だと思うんですが、「健常者も障害者がいないと生きられない」って、ちゃんと感じられるようなコミュニティをつくっていきたいです。

 

 

そう。僕も思った。
養護学校に勤務していた頃。
子供(高校生)を近くの普通の高校につれていく。
いわゆる「交流」という行事です。
あの行事は向こう側にこそメリットがある、と思う。
こっちはいわれているほどの成果はないんです。相手の高校の
研修に一役買ってるようなもの。
かれらが学ぶ(あるいは学ばない)。
かららにこそ必要なんです。

 

 

 ほんとに、そう思います。

 学生時代、そのことには随分、苛立ちを感じてました。

 交流学習は、私らにとって、あんまし良いことはなくて、便利に、道徳の教材に使われている気分。終わってから普通校の生徒たちが書いた感想文に、「僕らは五体満足で良かった」「私は元気なのに、恥ずかしい。もっと頑張らなくちゃと思いました。」と、彼らの根底にある差別心が羅列されてるのを読んだときには、苛立ちというよりも、とても悲しくて私には、メリットがないというより、デメリットのほうが大きかったです。

 分断は、子どもの頃に、すでに生まれてるんですよね。

 幼稚園までは一緒に遊んでいた障害をもつ友達が、小学校では、なかよし学級とかいう遠くのクラスに行っちゃって、中学校からは完全に姿を消す・・・ あまりにも自然に消えていくので、分断されたという意識も無い。それで、大人になった頃には、お互いに近づくことに恐れを感じるようになっていて、だから近づかない・・・って結果を生んでるんじゃないでしょうか。

 6月頃に、神戸大学の学生をまきこんで、子ども時代にスポットを当てたワークショップをしようと思ってます。子ども時代にすでに分断があったんだとしたら、どんなふうに分断されたのか。

 私の思い出では、部屋で遊ぶ、トランプとか人形遊びとかおはじきとかは、いっしょにやったけど、おにごっこや、ジャングルジムやゴムとびになると、誘ってもらった記憶がありません。一緒におはじきをやってても、それに飽きて、「鬼ごっこしよう」ってことになると、私だけぽつんと取り残されるんです。で、それが怖いので、私が遊べる遊びに、みんなをひきこんでくるように、私が一人で努力して、遊びを成立させてました。必死だったので、遊んでてもあんまり面白く無かったです。でも、その努力をまわりのみんながしてくれたら、きっと、もっと楽しめたと思う。

 だから、今、大人になった自分たちの頭を使って、障害者が遊びに参加するために、それを障害者の責任にするんじゃなくて、皆で解決していくワークショップを開こうと思ってます。

 障害児と本気で鬼ごっこを楽しむためには、どんな工夫をすれば良いのか。障害児とジャングルジムで遊ぶにはどうしたらいいか。あくまでも、追求するのは、一緒に楽しむことで、決して、一方的に遊んであげるんではないということが、ポイントです。

 たぶん、独創的な、いろんなアイデアが出てくるんじゃないかなぁと、わくわくしています。

 

2002.4.6

 

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○田○子様

 

 ○ちゃんの子ども時代の話は、ちょっと胸にくるものがありました。
 うちのチビも、これからきっと、そんなことを経験していくのだろうな、と。

 交流学習の話。
 「彼らの根底にある差別心」というのは、本当にその通りです。
 「五体不満足」の類の本がベストセラーになって(昔からよくありましたが)、みんなが感動したり勇気づけられたりすることは、私は結構、懐疑的です。
 何か違うんじゃないかな、と思うのです。
 極論を言うなら、あれらの本を読んで感動したおなじ母親が、いざ自分の子どもの学校のことになると「おなじクラスに障害者の子どもがいると、全体の勉強が遅れる」と懸命に抗議したりする。
 もちろんこれは極論だけれども、そういうものだと思うのです。
 根っこの部分まで届いていない、ということです。
 だからその感動には「嘘」があるのです。

 私はだいぶ前から「差異」の風景というものに強い興味を持っています。
 この対他の境界で不断に分泌される不可思議な風景は、障害者や部落差別、いじめや、さらに言えば民族間・国家間での争いに至るまで、すべて根続きなのだと思います。
 たとえば現在、ご存知のようにパレスチナやアフガニスタンで酷い蛮行が繰り返されている。
 それに対して、大使館へ抗議デモを行ったりボランティアに参加したり抗議広告を出したり様々な場所で議論をしたりすることももちろん大事なのでしょうけれど、ほんとうに大事なのは、実は各個々人の暗い無意識に根ざした「内なる他者」の問題ではないのか。
 あるいはそれらを支えている「自明なるもの」をもう一度見つめ直し、疑い、解体し、新しい形に紡ぎ直すことが必要なのではないか。
 たとえば私たちの無意識に根ざしている「国家」という価値観、あるいは観念。
 国境というものはほんとうに存在するのか、人種というものは存在するのか、金利というものは当たり前のことなのか、進歩というものは必要なことなのか、あるいは天皇制とはいったい何なのか。
 それは国会の審議やテレビの討論会やその他の抽象的な場所で問い見物するものではなく、私たちのごく日常の生活の中で、私たちの肉体的な実感をともなった場所で、私たち一人一人が己に問い、ふだん「自明なるもの」と意識すらしていない無意識に根ざした頑強な「自明なるもの」を壊していかなければいけない。
 それが何より必要なことであり、そうでなければ、私は何も変わらないのだと思っています。

 ○ちゃんの望んでいる障害者と健常者の「まったく新しい関係」は、それだけの広がりがあり、それだけの深さがあり、ということは、それだけのっぴきならない場所で試される「遊技」なのだと思います。
 「自明なるもの」を解体しなければいけない。

 数日前、障害者手帳の申請書類を役場に出してきました。
「ショウガイシャテチョウ」と改めてその文字をたどり、私はひどく生々しいものを感じました。そういう感覚も、まだ私のなかに拭いがたく存在しています。
 たぶん○ちゃんが味わってきたさまざまな感情を、私は自分の子どもが受けとるものとして、これから、大なり小なり経験していくのだろうと思います。
 それは彼女(子ども)が私に与えてくれる、意義深く貴重なプレゼントなのだと、私は考えています。
 私が「学ぶ」ことは、きっと大きいでしょう。
 私もまた、たくさんの「自明なるもの」を抱えているからです。

 ワークショップ、そのうち見学に行きたいですね。

 

4月6日 まれびと

 

2002.4.7

 

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 土曜は夕方にレンタカーを借りて和歌山へ。やっぱり、泣かれた。あれほど毎日顔をつきあわせているのに、たった10日くらいで父親の顔を失念するとは何事か。一泊して翌日の日曜は、和歌山城内にある無料のミニ動物園に立ち寄った。鳥や手長猿、ペンギンといった小動物のほかはツキノワグマやシマウマくらいしかいない。白浜のサファリ・パークに行ったばかりの姫は大層ご不満だったようで、帰りの車内でバーム・クーヘン、パン、バナナとやけ食いをしていた。帰ってきて月曜は歯医者とプール、火曜はリハビリ、水曜はポリオの予防接種、木曜は1歳6ヶ月検診と、ふたたびせわしない日々が始まる。

 白浜へ行った日は、深夜までオルカ・ショーの真似をして(オルカが跳びはねる真似)をしてなかなか寝なかったそうだ。動物、なかでもとくに犬が好きで、日に何度か義母に背負われて近所の犬を飼っている家をまわる、いわゆる犬巡りのツアーにでかけた。つれあいの従妹の家では「サクラ」という小さな洋犬を飼っている。あるときつれあいがその「サクラ」に顔を舐められそうになって嫌がったとき、紫乃さんがゲンコツを伸ばしてどけてくれた、とか。あるいは別の日に玄関で紫乃さんが泣くので、たまたま居合わせた従妹の兄が「サクラ」を隠そうとして妹に「違うよ。サクラじゃなくてお兄ちゃんで泣いてるんだよ」と言われた、とか。

 実家に預けてひさしぶりに再会すると、いつもずいぶん成長したように思う。片時もついて離れないという従姉のSちゃんの貢献も大きい。絵を描くのも好きだし、Sちゃんがやっているのを見て、髪をくくるのも嫌がらなくなった。階段もひとりで登るし、病院の先生に勧められた高這い(四つ足で這う)もだいぶ出来るようになった。腹筋も毎日、つれあいがさせている。何より、自分で立って歩こうすることが多くなってきたという。もちろん誰かの手を持って歩く練習をするのだが、これもヒトの動物的な本能かも知れない。あるいは他のみんなと同じようになりたい、と思うのかも知れない。夜は二階の布団を並べた部屋で、血圧測定器でしばらく遊ぶ。腕に巻いてもらって、自分でスタート・ボタンを押して膨らむのが面白いらしい。昼間は近所のお婆さんたちが紫乃さんを見に来たり、義母に背負われていっしょに畑の野菜を採りに行ったりする。このままずっとここにいたら、きっと気持ちの優しいお婆ちゃんっ子になるだろう、それもいいけどなあ、とも思う。

 帰ってきた日の夜、ひさしぶりのわが家の食卓で、紫乃さんはひどく陽気に騒いでいた。いつものお父さん・お母さんの指さしをし、私が意地悪で「じゃ、お爺ちゃんは?」と訊くと、はっとした顔であたりを見回す。さらに「お婆ちゃんは?」と訊くと、ひどく悲しげな顔になってつれあいのところへにじり寄り、「ブーブー」(車のことだ)と言う。そして玄関の方を指さして、連れて行けと必死な顔で要請する。「もう夜だから行けないの。お婆ちゃんのところは遠いのよ」と子どもに言い聞かせながら、つれあいは思わず涙ぐんでいた。

2002.4.8

 

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 この〈どうしようもない私〉を、どこへ置こうか。〈どうしようもない私〉でも、在り続けなければならないとしたら? ランディ・ニューマンは、かれの悲しく優しい歌 I Want You To Hurt Like I Do の中で、じぶんが捨てていく幼い息子に向かってこんな言葉をいう。「息子よ、おまえも私のように人を傷つけてほしい」 誰も望んでそうしたいわけではない。誰もそれほど強いわけでもない。いつも正しいわけじゃない。そしてきっと、傷つけることは、傷つくことでもあるのだ。「息子よ、おまえも私のように人を傷つけてほしい」というのは、〈どうしようもない私〉が小さな息子に伝えるはだかの言葉、とても悲しく美しい精一杯の言葉のように思う。

 

子どもも見捨ててきたし
妻も捨ててきた
そうさ、ぼくはきみからも逃げ出しちまうだろう
一生を、そうして生きてきたのだから
ほくが出ていった日、みんな泣いていた
そう、ほんどの人が泣いていた
幼い息子はじっとうつむいていた
ぼくはこの腕を、息子の小さな肩にまわして
そしてこう言ったんだ
「息子よ、おまえも私のように人を傷つけてほしい
おまえも私のように人を傷つけてほしい
おまえも私のように人を傷つけてほしい
心の底からそう思う 心の底からそう思う 心の底から」

ひとつだけ望みがあった
実現できると知っていた夢だ
ぼくは世界中の人々に話しかけたかった
壇上にあがって、いつものように1, 2曲を歌う
それからぼくがしてきたことを言うのだ
みんなに語り、そしてこう言う
「とてもつらい世界さ とても厳しい世界さ
物事がいつも計画通りに運ぶとは限らない
でもたったひとつだけ ぼくらが分かち合えることがある
誰でも分かることさ
世界中のみんな 歌っておくれ
「あなたも私のように人を傷つけてほしい
あなたも私のように人を傷つけてほしい
あなたも私のように人を傷つけてほしい
心の底からそう思う 心の底からそう思う 心の底から」

I Want You To Hurt Like I Do・Randy Newman 1988

 

2002.4.9

 

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 急に思い立って昼飯も食べずに、二上山に登りに行く。息もつかずに駆け上がる。山で人は〈意味〉を見出そうとする。だが苦しい呼吸と滲み出す汗とともに、〈意味〉は乾燥したかさぶたのようにボロリボロリと落剥していく。ピークを過ぎれば〈意味〉はすっかり剥がれ落ちて、肉体はふと軽やかになる。純粋な精密機械のように、ただ両足だけが前へ前へと運ばれる。がらんどうのようになった内部へ、自然のもろもろの事象が流れ込んでくる。感覚が歓びの悲鳴をあげて踊り跳ねる。二上山の雄岳の中腹から、葛城山系の峰々をはるかに眺め、聖フランチェスコの歌を口ずさんでいる。〈私〉はこんなにちっぽけで、こんなに広い。

2002.4.10

 

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 赤ん坊は町内の保健センターで一歳半検診。身長72センチ、体重9キロ少々。痩せ型である。あごが小さいので固いものを食べさせるように、とのこと。

 パレスチナでの惨劇はもはや泥沼の様相を呈している。シャロンもアラファトも、私には同じ類の人間のように思える。ロバート・フィクスの言うように、無数の人々の無惨な死は、かれらにとって冷徹な計算に過ぎない。フィクス記事によると、イスラエルのある司令官は第二次世界大戦下のナチスの戦略を研究するようにと部下にアドバイスをしている、という。「我々が分析すべきは、ドイツ軍がいかにして、ワルシャワのゲットーを操作したか、についてである」(イスラエルの日刊紙・Ma'ariv紙) こうしたニュースが、いかに私たちの心を底なしに暗くすることか。ここでは人間の精神性の廃墟だけが横たわっている。私たち自身の精神性の廃墟を見るのだ。

2002.4.11

 

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 柳田国男が京都の御大典の式のときに、東山のむこうから煙が立ちのぼるのを見て、「あれはサンカの煙だ」とつぶやいたという印象的な一節。あの山襞のいずこに天皇の儀式(この国の制度)とは一切関わりなく暮らしている漂泊の民がいる、という幻視。かつて私も河原にむなしく佇み、かの山人の娘が現れてじぶんを連れ去ってくれないものかと夢想した。土地に縛られず、この国の奥襞を血液のように往来した漂泊の民たちは、天皇の「大御宝(おおみたから)」に属さないアウトサイダーであったために、長く差別の対象であった。

 

 マージナル・マン(marginal man)といいますか、周縁の人ですね。国家の定めた身分体制からハミ出していて、境界領域にいる人たち。かれらは常民の共同体から見れば、その由緒や正体のよく分からない異人(ことひと)なんですね。

 社会学ではマージナル・マンは、二つの異なった文化集団の間にあってそのどちらにも属さない人、すなわち、境界にいるがゆえに自分たちのアイディンティティがなかなか確立できない人間を指します。しかし、形容詞のマージナル(marginal)には、さらに「辺境に住んでいる」「欄外の余白部分の」「耕作しないので生産性がない」といった意味もあります。

 もうひとつ大事なことですが、さっき「遊芸民や漂泊民が、定住民の村に入ってきて大きな刺激を与える」とおっしゃったでしょう。いわゆる常民の文化集団に属していないマージナル・マンは、既成の支配文化には完全に同化していません。そこからハミ出した存在ですね。ですから、それを批判する革新性といいますか、体制内の人間にはない想像力を持っている場合が多いんですよ。 (ええ、よく分かります。体制に組み込まれていないから、それを外側から刺激する創造性を発揮することができるわけだ)

(辺界の輝き・五木寛之&沖浦和光・岩波書店)

 

 年貢を納めず、聖と賤の両義性を身にまとい、あらゆる腫れ物を分泌する境界のあわいを流浪するかれらの存在は、いまなお私にとって刺激的である。「風の王国」のロマンチストと底辺の民俗学者との語りが紡ぐ「辺界の輝き」は、そんなエッセンスに満ちている。

 

 つれあいと子どもが眠りについてから、たいてい私はパソコンの前で夜更かしをするので、このごろは朝は子どもと同じか、子どもよりやや遅れて起き出す。先に起きた子どもはつれあいに言わせると、隣の部屋から何度も私の方を指して「ネンネ」とつれあいに確かめ、私が目を覚ますと嬉しそうに這い寄ってくる。今日はプールの日で、つれあいが連れて行った。脱衣室で顔見知りのHちゃん親子と話をしていて、つれあいがHちゃんに「今日はお父さんは?」と訊くとHちゃんは「カイチャ(会社)」と言う。おなじ質問をHちゃんの母親にされて紫乃さんはすかさず、「ネンネ」と答えたそうだ。

2002.4.13

 

 

 

 

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