■日々是ゴム消し Log19 もどる

 

 

 

 

 

 数日前に深夜のテレビで録画しておいた大林宣彦監督の映画「SADA」を見た。SADA = 阿部定、昭和11年に惚れた男を絞殺した後にその陰部を切り取った有名な事件に材をとっている。阿部定役に黒木瞳、陰部を切り取られる男を片岡鶴太郎が演じている。あの大林監督と阿部定の組み合わせは、はじめは意外に感じたものだが、センセーショナルな猟奇的犯罪として語られがちな事件でさえ、大林流のどこかノスタルジックで切なくふわふわとした“純心”に包み込んでしまうのはさすが。前半の得意な活動写真風空想絵巻の仕掛けをそのままひっぱって、もっと好き放題なアレンジをしてもらいたかった気もするのだけれど、後半のオーソドックスな仕上がりはやっぱり現実の阿部定の迫力につい押されたのかな。事件の概要くらいしか知らなかった私は少しばかり興味を覚えて、当時の予審調書の全文を掲載しているこんなサイトも見つけた。興味のある方はご覧あれ。また出所後の阿部定とあの坂口安吾が対談をしていて、坂口の全集に収録されているはずだという記事も見つけ、これもいつか探して読んでみたいものだと思っている。事件後、阿部定は15年の求刑のところを6年の判決が確定し、それも模範囚のために5年で出所をした。その後は名前を変えて浅草で小料理屋を開いていたり、自ら「阿部定」を演じた巡業に出たりしていたとかで、60歳の頃のある日に書き置きを残してそのまま行方知れず、という。もしいまも生きていたら90歳くらいになるそうだ。それにしても愛するあまりに男の逸物を切り取るとは、私もせいぜい気をつけなければ。って、これはどうもご馳走致した。

 

 今日は数日前からわが家のトイレがチョロチョロと水漏れをしていて、できるものなら自分で修繕しようと思ったのだが、パッキンとゴムフロート弁が両方とも摩耗して分解が面倒そうだったので、大家さんに連絡をして業者の人に来て貰った。ちなみに Do It Yourself のこまめなお父さんのためにこんなお助けサイトを参考まで。

2002.1.25

 

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 今日はこどものプールだった。私が連れて行った。ロッカー・ルームの床におしっこをした。小さなきれいな水たまり。そばのロッカーのオヤジがひとり迷惑そうな顔をしていた。すいませんと謝って、ティッシュで拭きとった。プールで彼女は誰よりも目立っている。誰よりも大きな歓声をあげて、誰よりも張り切って懸命に体をうごかして楽しそうにしているから。すごいですねえ、と他の親やコーチたちに言われる。地上ではいまだ立てない足も、水の中では自由なのだ。なんの束縛もないから。私は彼女と二人だけのメリー・ゴーランドに乗っているような気分で、すぐにみんなの輪からはみ出してしまう。水の中でふたつの貝のように戯れる。

 夜、夕飯の支度をしながら、台所のラジカセでダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドのテープを聴く。宇崎竜童の体温は昔から近しい。裏切り者の旅、シークレット・ラブ、身も心も。沖縄ベイ・ブルースを口ずさむ。私が欲しているのは理屈ではないのだ。ある種のソウルだ。深夜には、オーティス・レディングがそいつをたっぷりくれる。私はいろいろなことばをぜんぶ忘れて、私の深奥の存在がリズムに身体を揺らしたり、熱い間欠泉を浴びて立ちつくすのを見る。遠い国からこんなメールが届いた。「こちらでは、生後3ヶ月の女の子が父親に犯された事件があった。赤ん坊は外科手術を受けたんですが、この子の一生はどうなるのだろうかと思う。先週は、アビニョンで69才の人気者のおばあちゃんが、16才と19才の子供に強姦されたあと、ひどい殺され方をした」 私はひたすらオーティス、死んだかれの歌声に耳を傾ける。

2002.1.26

 

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 図書館で「インディアン・サーカス / マリー・エレン・マーク写真集」(宝島社 1993)という本を借りてきた。作家のジョン・アーヴィングが序文を寄せている。そのはじめの一枚目の写真に私はひどく惹かれた。ボンベイの町中。敷設されたサーカス・テントの脇のせまい土の道を、化粧をしたこびとの芸人が、かれにとっては一抱えもある健康そうな赤ん坊を両手に抱いてあるいている。赤ん坊はかれの息子なのだ。私ははじめ、これはじぶんなのだと思った。こどもの障害が逆転して、じつは私の方がこんな姿で五体満足のこどもを抱えてあるいている。いや、そうではない。ほんとうは写真の中のかれの足下にも、この私は及ばない。美しい親子の姿だと思った。いい写真だ。

2002.1.27

 

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 精神病院の患者は、外部の人間がどうして笑みをうかべているのか、まったく分からない。

 

一、おまえに同意する者は狂っている。
二、おまえに同意しない者は権力を持っている。

 

 これはディックのSFに出てくる言葉だ。わたしは誰にも同意などしてもらいたくない。わたしは残忍な権力者が好きだ。かれのためなら、わたしはじぶんの尻さえ喜んで捧げるだろう。わたしは豚のように縮こまった性器をもっている。そいつを猿のように日がないじくり続けて日が暮れる。(それはひどく悲しい)

 

 わたしは。わたしは、ともかくあるきつづける。ここではないどこかへ。あまりにもうんざりしすぎたわたし自身の暴力と汚辱を抱えて。

 

Come in the garden and look at the flowers
That's what you were saying, right ?

(“庭にきて、花を見て”
きみはそう言ったんだよね ? )

Stepping Out Queen part2・Van Morrison 1979

 

2002.1.28

 

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 こどものリハビリに同行する。今回はこちらも意地があるから、私はこどもの注意を一瞬たりとも逸らさせないつもりで恥も外聞もかなぐり捨て、ひたすら喋りつづけ、あらゆる芸を演じ、手拍子を打ち、足踏み高くリハビリ室内を行進した。おかげでこどもはリタイアすることなく、「お父さんは遊ばせ方がうまいなあ。家でもよくやってるんですか」とM先生も上機嫌で、リハビリはほぼ順調に済んだ。「紫乃ちゃんは能力は問題ないんです。大事なのは本人に目的を持たせた遊ばせ方ができるかどうかということです」 終わった途端にこちらはどっと疲れが出た。それから三人で天王寺までもどり、高層ビルの15階にある中華レストランで昼食を食べてから、私だけ職安をしばらく覗いて夕方に帰ってきた。

2002.1.29

 

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 本日の新聞ダイジェスト。

 サックス奏者でミジンコ研究家でもある坂田明のことば。「人間が生きているのは、他の莫大な数の命のおかげです。他の命を食べて生きているのです。今日、その仕組みが見えません。だから、死んでくれる命に心が痛みません」 つまるところ、これが雪印騒動の底辺にあるほんとうの起因。

 小泉首相が波乱含みの田中外相と事務次官を更迭した。大橋巨泉が民主党に愛想をつかして議員を辞職した。ようするに政治や官僚主義を内側から変革するなんて出来やしないし、期待するのもナンセンスだ。もうほとんど潰れかかっているのだから、勝手に自壊するのを日和見していればよい。

 ブッシュ大統領の一般教書演説。ディランいわく「すこし盗めば悪党で、多く盗めば王様」だ。つまりブッシュ=アメリカは、いまや世界の王なのだ。かなり気の触れた哀れな「はだかの王様」だ。

2002.1.30

 

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 新聞の読者の声欄に、雪印で働く息子を持つという母親の投稿があって、今回の事件について「いったい愛社精神はどこへいってしまったのか」と嘆いていた。そうじゃないんだよ、と私は呟く。愛社精神があったからこそやったのだ。欠けているのは「人間としてのモラル」だ。極言するなら利益を追求する企業にそんなモラルなどさして必要でなく、いまごろ愛社精神なんて言っているあんたもそれらの仕組みに少なからず荷担している。そういう場面はよくあって、たとえばテレビの街頭インタビューで「昔のようにまた景気が良くなって欲しい」なんて誰かが答えているのを見ると、こいつらは本気で言っているのか、と疑う。単純に金回りが良くなったらそれでいいのか。国民がそんなことを言っているから、政治家も金をばらまくことくらいしか考えつかない。まさにお似合いのコンビだぜ。あの神戸の地震の瓦礫が私たちに見せたものは何だったのか。酒鬼薔薇少年Aやオウムの事件が私たちに突きつけたものは何だったのか。いったい「愛社精神」や「景気回復」なんてもので今更、この果てしなく深い闇を穴埋めできるとでも思っているのか。明るい百円ショップに積み上げられた無数のプラスチック商品は石油から簡単大量につくれるが、人の心はそうはいかない。私はこの国は、いっそアフガニスタンのようになればいいと思っている。あるいは、もういちど60年前のあの焼け野原に戻って、一切を失い、餓え、ボロを着たところから始めたらいい。そうしたら土門拳の写真集にあるような、本当にこどもらしい笑顔をもったこどもたちの姿もやがて見られることだろう。私たちが失ったものは金では決して買えないもの、ひょっとしたらもう二度と取り戻せないかも知れない、果てしなく深い心の中の何かだ。

2002.1.31

 

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 昼から大阪・梅田にほど近い、ある新築の瀟洒なマンションを訪ねた。つれあいと以前おなじ職場だったNさん(旧姓)が、新婚のご主人と三ヶ月のベビーの三人で暮らしている。感じのよさそうなご主人が電子ピアノで、ジャズのスタンダードを演奏してくれた。紫乃さんは吹き抜けの階段の下でずっと、内気なJ (飼い猫)が降りてくるのを待ち続けた。Nさんは背の高いとても美人な女性だ。つれあいと一緒にある博物館の受付をしていたNさんを、いまのご主人が見そめた。こんなことは書いていいものか分からないが、Nさんの家はいわゆる「部落」の出身だ。ご主人の実家は結婚に猛反対で、ベビーの顔もいまだ見に来ないという。こういうくだらないことが、世の中にはいまだにわんさかと存在している。良識ぶった市民の顔をして歩いている。今日は節分だから巻き寿司を買いに行くというNさんとマンションの前で別れてから夕刻、梅田の阪神百貨店に少しだけ立ち寄って電車に乗り、近所のサティでわが家も3割引の巻き寿司を買って帰った。

 面と向かっては言わないが、つれあいの実家の義父は義母に「ほんとうに働く気があるのか」と怒鳴っているらしい。私は、そうなのだろう。私はルー・リードが歌っている薄汚い“ふくろねずみ”(*捕まったり驚いたりすると死んだふりをする) のように、ここにひとり立っている。私のまっとうな精神はほとんど崩れかけていて、ほとんど私はこの世に存在しないも同然の骸(むくろ)のようなものだから、自分がいったい何を言われているのか分からない。私は空虚なからっぽなのだ。私は白痴のようにただ見ている。たとえばディランの歌のように、グランド・ストリートに積まれた煉瓦とネオンの狂人が同時に完璧にタイミング合わせて墜落するさまを。あるいはまたマルグリッド・デュラスが描いているこどものように。「この子は見つめる子だ。海でも砂浜でも虚空でも、なんでも見つめている。彼の眼は灰色だ。灰色なのだ。雷雨のように、石のように、北国の空のように、海のように、物質や生命のもつ内在的な知性のように。思考のように灰色なのだ。時間のように。過去と未来が混合した幾世紀のように。灰色なのだ」 灰色の眼のこどもは本当は何を見つめたかったのか。灰色の眼のこどもはそのとき、どんな言葉を聴いていたのか。

 3割引の巻き寿司を三人で小さな食卓を愉しげに囲み食べながらひとしきり、話題は今日訪ねてきたNさんの新居の瀟洒なマンションの話になった。彼女は日本風の狭く仕切られた間取りは息がつまる思いがすると言う。だから最初の結婚で県営住宅から市内のマンションに移ったときにリビングを抜いてほっとした。「それでまた (自分といっしょになって) この狭い間取りに戻っちゃったんだね」と私が茶々を入れると、彼女は軽く睫毛を伏せて声を落とし「もういちど一から始めてみようって思ったの」とぽつりと言う。私は思わず、言葉を失う。

 

Your street, rich street or poor
You should always be sure of your street
There's a place in your heart, when you know from the start
And you can't be complete without a street

きみのストリート、そいつが豊かだろうが貧しかろうが
己のストリートをきみは常に確信しておくべきだ
始まりときからの こころのなかのある場所
ストリートなくして〈全
(まった)き〉きみはあり得ない

The Street Only Knew Your Name・Van Morrison 1975

 

2002.2.3

 

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 昼前、台所でれんこんの和え物を作っていたら玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると義父が立っていた。義母の年金の手続きで役場に出たおりに、ふとその気になって電車に乗ってきた。今夜はうちで一泊して、明日の病院のリハビリに同行して帰るという。いっしょに昼食を食べて、しばらく仕事の話なぞをしてから、こどものプールを見学しにつれあいと出ていった。私は和歌山へ電話を入れて、義父が泊まっていくことを伝えた。義母は私に介護士の資格を取ったらどうかと言う。「あんたはおばちゃんたちと話をするのが上手だし、向いていると思うんだよ」 近所で実際に働いている人がいて「おばちゃん、ボロい仕事だよ」と言った。これから老人は増えるし、安定もしている。だが私は介護産業そのものを胡散臭く思う。金儲けしか考えていない連中がハイエナのごとく多く群がっている。それにかつて同居していた私の祖母が晩年に呆けてなかば寝たきりの生活になったとき、私は彼女にひどく冷淡だった。私は自分の心が冷たいのを知っている。そういう人間は医者や介護の仕事に就いてはいけない。職安で求人票を見たときも、私はそう思っていた。これは私のささやかなモラルである。だが義母には、そんな私の説明は耳に入らない。私のことばの意味が理解できない。そのうちに電話の向こうの声が揺れ、いったいいつまで待てばいいのか、お母さんはあんたが可哀想で仕方がない、と言って泣き出してしまった。私は沈黙する。電話を切って、大昔に従兄から貰ったスキー・ウェアを着てバイクに乗り出かけた。いまに始まったことではないが、私は自分がひどい極悪人であるような気がしてくる。実際、そうなのだろう。私は母が言っているように家族など持たずに、サリンを撒いたあのイカレた教団の残党になって住民票さえ拒まれ流浪している方が相応しかったかも知れない。

2002.2.5

 

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 つれあいと共に義父が同行し、こどものリハビリ。今日はまあまあソツなくやれたらしい。リハビリの前にいつも、若いI女医の診察を受けるのだが、前々回の15分で終わった時のM先生のカルテに「本人がやる気なし」とひとこと書いてあったと笑いながら教えてくれた。「そんな、この子がやる気満々の時なんてあるわけないわ」とつれあいは帰ってからなかば冗談めいて怒っていた。

 もうひとつ、今日は別の病院で月に一度の泌尿器の検査もあったのだが、こちらはあまりよくない話。もう2週間以上もほぼ毎日排便が続いているのは、医師 (泌尿器科の医者だが、二分脊椎のこどもの排便についてもキャリアがある) の見解では決して排便機能が回復したわけではなく、単に以前に比べて運動するようになったのと、そのために詰まった便が自然に押し出されて出ているだけだという。その証拠にこどもは排便のために力む姿がまだ一度も見られない。(後で看護婦さんが話してくれたところでは、同じ病気で中学生などになったこどもが体育の時間に、力んで知らず粗相をしてしまうケースがあるのだという。将来的な回復は稀にないでもないが、期待しすぎるのも良くない、と) そして常に便が残っているのも好ましくなく、また薬の頻用も良いことはないので、できたら指で毎日掻き出すのがいいと医療用の薄いゴム手袋をひと箱、つれあいは買って帰ってきた。もちろん大人の太い指で肛門内を掻き回されるのだから、こどもは大層泣き叫ぶのだ。

 

 夜になって、つれあいの実家から電話があり、彼女の同級生の夫が事故で死んだという報せ。近くの国道を単車で走っていて、前の車が急ブレーキをかけたために避けようと転倒し、病院で息を引き取ったのだという。つれあいの同級生といえばしばらく前にもやはり夫を亡くした人がいて、脳卒中ということだったのだが、本当は自殺であったらしい。この同級生の家はこどもの頃はすいぶん貧しかったそうで、つれあいが彼女の家に遊びに行ったとき、「もうじきご飯だから」とつれあいが言って帰ろうとしたところその同級生は「ご飯って言うのか。上品な家ではそんなふうに言うんだね。アタシんとこではメシって言っている」と答えたのがいまでも鮮やかに記憶している、とつれあいが言う。死はどこにでも無造作に転がっているのに、私たちが思い出すのはせいぜい他人の葬式の時くらいだ。私たちが死をもっと身近なものとして意識していられたなら、私たちの日常を埋め尽くしている様々なものや風景の意味も自ずと変わってくるに違いない。

 

 病院での報告のためにつれあいが私の実家にかけた電話で、母が聞いたという知り合いのプロテスタントの老牧師さんの私に関する話。○○くんはあまりに純粋すぎて、なかなか社会に出ていきにくい部分があるのだろう。だからいっそ僧侶にでもなった方が、私はいいのになと思う。もうひとつある。○○くんは20歳で父親を亡くしたから、ある意味で父親を超えられていない部分がある。私もそのことで社会へ出るときに散々苦労をしたが、そのときに支えになったのは私の場合はキリスト教の信仰だった。それはいつかは自力で超えなくてはならないものだから、いまは何も言わずに放っておくのが最良である、と。

 

 これを書いていたら、そろそろ寝ついたろうと思っていたこどもを抱いて隣の部屋からつれあいが出てきた。パジャマが汚れたので新しい別のパジャマに着替えさせ「可愛い、可愛い」と褒めたところひどく喜んで、まず同じ部屋にある鏡台に連れて行って見せろと言い、次にお父さんにも見せると言ってきかないのだという。

2002.2.5 深夜

 

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 人々が恐怖を感じるのは己が見慣れぬものに対してだが、なかでも人々がもっとも強い恐怖を感じるのは、いままで己が見慣れていたものが知らぬうちに見慣れぬものに転じていたと気づくその瞬間である。

 

 人の精神の多くは悪意や冷笑や耐え難い暴力などによって破壊されるのではない。人の精神の多くはたいてい、善意や良識といったものたちによって破壊される。ニーチェやニジンスキーのように。

 

 

 わたしたちとホースラヴァー・ファットのちがいは、ファットが自分の立場を知り、わたしたちはそうではないということだ。だからファットは狂っていて、わたしたちは正常なのだ。

フィリップ・K・ディック 「VALIS」

2002.2.6

 

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 昼前、つれあいが先日受診した泌尿器科へ電話をかける。先日病院で便を掻き出してきたのに、その日の夜にまた排便があった。とすると、詰まった状態から押し出されるというのは必ずしも正しくないのでは? 親の方では指示された毎日の掻き出しに、やはり一抹の抵抗があるのだ。訊くと、それは上の方に残っていた便が落ちてきて、何かの折りに肛門の筋が弛んだ拍子に出たものだろう、という。電話に出てくれたのは婦長さんらしい年輩の看護婦さんだが、ではしばらく様子を見て、時々残っている便がないか確認したり、あるいは出ないようなときだけ試して、来月の診察のときにふたたび先生に相談してみたらどうか、と言ってくれた。看護婦さんの話では、排尿の障害についてはこれまで研究が進んでいてほぼクリアできているが、排便の方はまだそこまで至っておらず、そしてやはり日常生活で影響が大きいのは排便の方である。以前に神経を刺激して回復させるという試みも行われたのだが、あまり良い成果が得られなかった。よって可能性がないわけではないが、将来的な神経の回復についてはあまり期待しない方が良い、という話であった。同時に「ただし、紫乃ちゃんの場合は完全な二分脊椎というわけではないから...」という言葉もあった。つまり瘤があったり神経が剥き出しになっているような状態でなく脂肪腫が神経を圧迫していた「比較的軽微な状態」だった、という意味である。要するに神経の働きというものは外部からは見極めが難しく、さらに成長途中にある幼児に関しては経過を見なければ分からない部分がまだまだ多い。そこが私とつれあいに残された、かすかな希望の切れ端である。

 

 友人から森林ボランティアに参加してきたというメールが届いた。以下はその実技演習の前に、樹木医によって行われたという「松食い虫に関する講義」の要約のくだり。カミキリムシや回虫の間から、人間たちの滑稽な姿が浮かび上がってきて、実によい話だ。

 

 

 松食い虫は、以前はある種のカミキリムシなどを指していたそうですが、マツノザイセンチュウという回虫のような虫が原因であることが30年前に判明しそれ以来松食い虫とは「マツノザイセンチュウに浸食され枯れる」事を意味するようになったそうです。

 マツノザイセンチュウは自力では隣の木にも移ることができないそうで、カミキリムシなどの二次害虫に寄生して、カミキリムシが移動し、木肌を噛むときにマツに移るのだそうです。カミキリムシが元気なマツに卵を植え付けても松ヤニに包まれてしまい孵化できないのですが、マツノザイセンチュウがとりつくとたちまち松が弱ってきてカミキリムシの卵が孵るようになり、孵った幼虫に寄生して他の松に移っていく共存関係にあるのです。

 実はこのマツノザイセンチュウは100年前にアメリカから船に乗ってやってきたそうです。それならどうして昭和40年代から松食い虫の被害が拡大したのかというと、30年代までは、松は薪として使用されており、枯木はこぞって切られ燃やされていたのが、40年以降薪の使用量が激減し枯れた松が放置され、マツノザイセンチュウが広がっていったようです。対策としては、1.カミキリムシを寄せ付けないようにネットで覆う2.マツノザイセンチュウが来る前、もしくは枯れ始める前に防除剤を打ち込む、の二通りしかないようです。

 余談として、松はてっきり昔からあったものだと思っていたのですが、実は、古墳時代の日本以前にはほとんど存在しなかったようです。薪として落葉広葉樹が伐採され山が荒れてきたところに成長の早い松が進出したと推測されるそうです。

 

 この講義の後、実際にドリルで幹に穴をあけ 60ml のアンプル(松食い虫の防除材)を直径30cmの松で3、4本打ち込むを作業実習に移ったのだそうだが、そのとき友人は「さっき打った松は形が悪かった。損したな。」「高い薬だから選んでうたなけりゃ」といった言葉を耳にし、思ったそうだ。ボランティアの場でもこんな経済原則に基づいた話が出てくる。苦しんでいる木があれば見つけた順に助けてあげようと思うのが自然なはずなのに、これは形がよいから、これは元気がなさそうだから、と区別してしまう。しかも樹木よりも、人間が利益を得るために作った薬により高い価値を見いだしてしまう。そして友人は、このような人が果たして私の仲間なのだろうかと疑問を感じた、と記していた。

2002.2.7

 

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 しのさんはシンブンがきらいだ。あのマメつぶのようなジのたくさんつまった大きなカミをお父さんがみているあいだは、あそんでもらえない。だからお父さんがすわってシンブンをひろげると、しのさんはすぐに大きなこえをあげてシンブンをたたき、タタミの上におしつけて、そのうえをブルドーザーのようにふみつぶしていく。

2002.2.7 深夜

 

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Song Of Being A Child

 

こどもがこどもだった頃
腕をぶらぶらして歩いていた
小川が河に 河が急流に
そして水たまりが海であったらいいのにと思った
こどもがこどもだった頃
じぶんがこどもであるとは知らなかった

 

あらゆるものが生命に満ち 生命はひとつだった
手を伸ばすこともなく地平線を眺めた
じぶんを急かすことはできなかったし
命じられて考えることなんて
たいてい ひどく退屈だった
待ちきれず
挨拶もそこそこで
唇の先で祈りを唱えた
こどもがこどもだった頃
物事について何の見解も持たず
慣習もなく
よく足を組んですわり 走り去り
髪ははねあがり
写真を撮るときにはまともな顔をしなかった

 

こどもがこどもだった頃
疑問だらけだった
なぜぼくはぼくで きみじゃないんだろう
なぜぼくはここにいて そこにいないんだろう
時間はいつはじまり 宇宙はどこで終わるのだろう
じぶんが見るもの、聴くもの、嗅ぐものは
世界の手前にある 見かけのものにすぎないんじゃないか
日々の生活は夢にすぎないんじゃないか
人間の内にはほんとうに悪魔が棲んでいるのだろうか
悪魔とは何者なのだろうか
なぜぼくがぼくになる以前は
ぼくはぼくじゃなかったのだろう
そして なぜぼくはときどき
ぼくじゃなくなってしまうのだろう

 

こどもがこどもだった頃
ほうれん草や、豆や、ライス・プディングや、茹でたカリフラワーに喉をつまらせたけれど
食べなきゃいけないわけではないが いまはぜんぶ食べている
こどもがこどもであった頃
一度だけ寝つかれないベッドで目が覚めたけれど
いまではそのくりかえし
多くの人が素敵に映ったものだけれど
いまではそんな人は少ないし いたらラッキーな方だ
天国をはっきり思い浮かべることができたけれど
いまではぼんやりと思い描けたらマシな方
空虚など想像もできなかったのに
いまではその前で震えている
ボールを追いかけたものだけれど
いまでは足の間に転がっている
そしていまでは空っぽな家に
ただいまと言って帰る

こどもがこどもだった頃
熱中してあそんだ
いまでは仕事に関わるときに
それなりに専念するくらい
ゲームも、責務も、活力も、テーマも、仕事になってしまう

 

こどもがこどもだった頃
パンとリンゴだけで生きるに充分だった----いまもそうだ
こどもがこどもだった頃
小さな果実はふさわしく掌に落ちた----いまもそうだ
あたらしいクルミは舌を刺した----いまもそうだ
山の頂上に登りたがった、もっと高い山へと
そして大きな町へ行きたがった----いまもそうだ
木のてっぺんのサクランボをつかんだ
いまもおなじように得意げにつかむ
見知らぬ人の前ではシャイだった-----いまもそうだ
初雪を待ち焦がれた----いまもおなじように待ち焦がれる
こどもがこどもだった頃
愛する人の帰りを毎日、落ち着かない気持ちで待った
いまもそんなふうに待つ
こどもがこどもだった頃
棒きれを槍のように木に投げつけた
いまでもそこで揺れている

 

こどもがこどもだった頃
こどもがこどもだった頃
こどもがこどもだった頃

 

Words by Peter Handke / Music by Van Morrison 1987 (まれびと訳)

 

2002.2.9

 

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 純粋なだけの人間なんているわけがない。純粋と悪意が絶妙なバランスで混じり合っているってのが俺は好きだな。

 

 結局のところ、あんたらは単なる時代遅れの哀れな形式主義にすぎないんだよ。高価なスキー・ウェアに身を包んで、斜面を転がり落ちているようなものだ。学校に行け、働きに行け、こうした忠告は断言しておくがすべてくだらない。他人のことより、じぶんの尻が燻っているほうを心配しな。いいんだよ、俺の尻は手前で拭くんだから。それとも俺の尻の穴まできれいに舐めてくれるってのかい。

 

 いまいちばんのお気に入りは、愛するモリスンのディラン・トーマスに捧げた歌だ。信じられないことだけれどこれは長いことお蔵入りになっていて、かれの未発表曲ばかりを纏めたアルバム The Philosopher's Stone でやっと公表された。はじめ聴いたときには長くて単調なだけの曲だと思ったものだが、こいつが実にいかしていて何とも小気味よい。こいつを軽く口ずさみながら、頭の中の珍妙なパレードに加わって、ひとり踊ってあるく。

 

証拠書類A: かれは伝統的な行を用いている
母さん、この胸の痛みにはうんざりだ と歌っている

おお、ミスター・トーマス ミスター・トーマス
なぜおれたちは感じられるだろうことを感じられないのか
おお、ミスター・トーマス 真夜中の市をうろつかせてくれ
観覧車に古びた瓶を投げつけさせてくれ
図書館に図書館を上塗りし 月明かりを襲わせてくれ
盗めるべきものを盗ませてくれ

For Mr.Thomas / Van Morrison 1983

 

2002.2.9 深夜

 

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 数日前にあるメールを頂いた。2ヶ月になるお子さんが、うちの紫乃さんとおなじ「脂肪腫を介在した二分脊椎」と診断されて来週に手術を控えているという東京の女性からで、Web検索でこのHPに辿りつき、ご苦労なことに過去の「ゴム消し」のログを遡って読んでくれたという。そこで今後もあるいはそんなことがあるやも知れず、駄文混じりの長文をリロードさせるのも心苦しいので、手術前後の関連の記述を「ゴム消し」より抜粋し「こどもの脂肪腫を介在した二分脊椎症・手術と入院の記録」として別にまとめ、others に設置した。おなじ病気のこどもさんを持つ親御さんのささやかな参考にでもなれば幸いである。

 ところでその紫乃さんは、この冬で何度目かの風邪ひきの最中である。金曜の昼に私が公園に連れて砂場で遊ばせたのだが、ずっと地べたに座らせていたのが冷えたのかも知れない、夕方から鼻水がたらたら開放状態で、昨夜は熱が38度にあがった。今日は咳が出始めて、ときどき苦しそうにしている。体調がすぐれないためか機嫌も悪く、これせいあれせいと我が儘な暴君のように甘えてこちらも疲れる。さっきまで隣の布団を敷いた部屋でなぜか親子三人で屈伸運動をしていたのだが、いまはやっと静かになったようだ。

 

 五木寛之の「日本人の心 2」(講談社 @1500) を読了する。前回は京都と大阪の、いわば都市の深部に流れる地下水脈を考察したものであったが、今回は九州の「隠れ」念仏と東北の「隠し」念仏に焦点を当てたエッセイである。江戸期における九州の隠れキリシタンは有名だが、仏教徒でありながら時の権力者やときには本山の組織からも身を潜めてきたかれらはそのために長い間、邪宗の徒として疎んじられてきた。いわばここでも作家がすくい取ろうと試みているのは、近代からこぼれ落ち退けられてきた異形の心根である。作家はいまという時代が、それらを見直すべき時ではないかと主張する。後半は東北の「隠し」念仏から、「遠野物語」において柳田国男が排除したもの、近代の徒たる宮沢賢治の限界などについて触れている。私の好きな気鋭の民俗学者・赤坂憲雄氏の学説をからめた終章部分も、視座の連なりを思い、感慨深かった。語りは終始平明素朴だが、深く枝分かれした地下茎をたたえている一冊だ。

 この本の中で著者が触れているように、宗教というものはそもそも世俗----この地上の論理とはそぐわないある意味で「危険な」一面を常に抱えている。であるなら、「隠す」という行為は実は宗教の根幹にある姿勢なのかも知れない。

 

 弥陀の本願はどこにあってもいい、本願寺はどこにあってもかまわない、という流転沙弥(るてんしゃみ)の伝統のようなものを、蓮如は背負っているといえる。蓮如の、この定点のない思想にも、私は強くひかれるのだ。
 私たちはどうしても、「一揆」のように権力に対して立ち向かうことが勇気だ、と考えがちである。あるいはすぐに「対決か、あるいは屈服か」と二者択一的に考えてしまう。
 しかし、本当は「逃げる」ということにも勇気が必要なのではなかろうか。逃げるという選択をする精神性の高さを考えたとき、それは、蓮如の考えかたとも重なっている気がする。
 「逃散の思想」というものがあってもいい。
 「隠れ念仏」を探索して出会った「逃散」という言葉。私にとって、これをどう受けとめていくかは、まだこれからの問題かもしれない。

 

2002.2.10

 

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 いつもこのHPを読んでこどもの病気を気にかけてくださっている秋田の小児科医のGさんより届いたメールの一部。

 

 一喜一憂の毎日かと思います。お仕事探しも大変そう。あんまりいろいろあって、奥様がつぶされないかなぁと心配です。自分もそうだけど、母親って目の前のことしか見えない時があるんですよね。まれびとさんが、そんなとき、奥様の代わりに遠目をきかせてあげてください。でもね、そんなとき、たぶんいちばんの救いになってるのが紫乃ちゃんでしょう。足のこととか、便のこととか、ハードルは次から次へと現れるけど、きっと紫乃ちゃん飛び越えたいと思ってるはずですから。紫乃ちゃんのエネルギーは、その程度のレベルじゃないと思ってますし(笑)。

 

 

 つれあいが先日、友人に書き送っていたメールの一部。

 

 うちも一緒になるとき、彼に定職がないということで猛反対がありました。無理もないと思います、私もやはり一番それが心配でしたもの。2年ほどでしょうか、電話で会話するなんて事は殆どなく、手紙での通信が主でした。といってもこちらから出すばかり、向こうからの返事はありません。その間も彼は私の実家に足を運び、自分を信じてくれと懇々と説得を続けました。彼のその一途さと熱意が両親に伝わったのでしょうか、だんだんと雪解けに向かい、親子の関係を取り戻すことが出来ました。が、彼の仕事がなかなか思うようにいかず、自分の言った言葉と現実の違いに今は彼自身随分と苦しんでることと思います。こどもも出き、責任も重くなりなおさらのことでしょう。
 私に何が出来るかと悩むこともありますが、信じてくれといった彼を信じ、そばにいることが私に出来る最良かと思います。
 どこの家庭でも一つ二つうまくいかないことがあるといいます。前は神様に恥じないよう頑張っていれば、苦あれば楽ありでいいこともあると思ってましたが、こどもが出来てからはこどもに恥じないような生き方をしようと思うようになりました。

 

 

 今日は昼から雪が降った。風邪をひいている赤ん坊を連れ出して叱られた。

2002.2.11

 

*

 

 リハビリと脳外科の診察。私も同行する。リハビリは最近は歩行器を使ってが半分くらい。まだ短時間で膝を下ろしてしまう。M先生がリストバンドのような重りを計3キロ分装着してくれる。お腹の筋肉がまだ弱いために抑えが効かず、ひとりだと前へつんのめってしまうのだ。家で買った木製の手押し車も、何か重しを乗せて調節したらよいと助言してくれた。つかまり立ちはだいぶ良くなってきた、と。脳外科では主に前回の泌尿器科での診察の報告。詳しい説明は省くがY先生いわく、神経活動は多くの複雑な連携より成っており、便秘もあくまでひとつの傍証にすぎないから、いまは結論を急いで小さな部分であまり一喜一憂しない方がよい。ただ現実に下肢への症状が現れていることから、やはり排尿排便への影響も少なからず存在すると覚悟しておいた方が無難だ、と。つれあいが質問する「先生、この子とおなじ状況の二分脊椎の他の子の場合はどうなんでしょう、やっぱり排便の障害もあるのですか」「それは一概に比べられないですよ、お母さん」 万事、こんな調子だ。私たちはただ、よい報せだけを聞きたいのだ。

 帰りがけに近鉄百貨店の海鮮料理の店で遅い昼食を食べた。蒸した豚肉をもやしとゴマだれにつけるもの、鮭を白菜ではさんだ炊き物、揚げ出し豆腐などの菜で、紫乃さんももりもりと喰う。親のひいき目だろうが、この子は結構舌が肥えているように思う。昨日まで風邪ひきで一昨日の晩は39度の熱を出して、今日の病院もどうかと危ぶんでいたのだが、幸い治りかけてきたようだ。

 ところで天王寺駅の地下鉄の改札口で、いままでもあったのだろうが、「ベビー・カーの乗客は他の客の迷惑にならないように注意しろ」といった文言の張り紙を見つけて、つれあいと二人で憤慨した。これは強者の側の論理であろう。本来なら「車椅子やベビー・カー利用の乗客には皆さんどうぞご協力を」と言ってしかるべきでないのか、と私は思う。要するにベビー・カーなぞは邪魔だから小さくなっていろ、と言うわけだ。こういうのは本当に旧態依然たる哀れな意識で、この国の市民レベルの貧しさを物語っている。バリアフリーだ何だと謳っていても、実際はこの程度なのだよ。地下鉄側にひとこと、言ってやろうかな。

2002.2.12

 

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 おいおいホントかね。というのは今日の新聞に載っていた、若者世代の嗜好傾向についてのリポート記事のこと。魚のフライは「衣がカリッとしている」より「衣が柔らかい方が好き」で、春巻きは「皮がパリッとしている」より「ベタベタ」の方が「コンビニの春巻きのようでおいしい」 全体に「やわらかい」「甘い」「本来の香り、風味がない」食品が好まれる傾向がある、という。つまりこどもの感覚なのだ。コンビニの弁当なんか、ほんとうに旨いか、あれが。マクドナルドのスカスカのポテトや、ファミリー・レストランの無機質なチャーハンでほんとうに満足しているのか。私は自分で作った方が百倍も旨いと思っている。ベタベタの春巻きなんて死んでも喰いたくないね。人間の文化や精神というものは、実はそうした卑近なところから壊れていくのだろう。

 というわけででもないのだが、今日は所用で大阪へ出た折りにたまたま本屋で見かけた「食と日本人の知恵」(小泉武夫・岩波現代文庫 @1000) という本を買ってきた。著者は発酵学・醸造学を専門とする農学博士で、解説を荒俣宏が書いている。これがまた実に愉しく、読みやすく、為になる本なのである。古来よりこの列島に生きた人々がいかに豊かで知恵に富んだ食文化を育んできたことか。帰りの夕刻の電車の中で私は、おいしい糠床や削り節のごとき硬い六条豆腐の作り方や、嘗物(なめもの)たる味噌や乾燥椎茸の話などの頁をめくりながら、幾度も涎が垂れてきそうで仕方なかった。喰うことは、生きることだ。この本を読んだあなたはきっと、もはやコンビニ弁当なぞ見向きもしなくなるだろう。あんなものは犬にでも喰わせておけばいい。

2002.2.13

 

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 2月12日に記したベビー・カーについての地下鉄の貼り紙の件だが、さっそくつれあいの知人のNさん(旧姓)から「そうだ !」という威勢の良い同意のメールを頂いた。私信ながら一部を無断で紹介する。

 

 HP拝見しました。ベビ−カ−のお話、なんですかそれは! 私からすれば、私以外の人や車は全て邪魔です。ベビ−カ−で出掛けるのがどれだけ大変か。エスカレ−タ−のナレ−ションもそうでしょ? 「ベビ−カ−は折りたたんでお乗り下さい」だぁ〜!? 出来る訳ないやろ! ば〜か!と思うのは私だけでしょうか。片手でこどもを抱え、片手でたためとでもいうのでしょうか。確かにそのまま乗ると危ないのは分かりますが...。あんな無茶な事を言ったり、書いて貼り付けたりする人達は、実際にどれだけ大変か知らないのでしょうね。

 

 そこで、全世界の女性の味方を自認している閑人の私は、当の大阪市交通局へ電話で問い合わせてみた。とりあえず電話帳で見つけた「料金・時刻案内・行先案内センター」へかけて要件を伝えると、「高速鉄道営業課」(たしか、そんな名前) なるところへかけてくれと言う。電話口に出たのはおそらく私より若干年若いだろうと思われる男性で、こちらの話もよく聞き、誠実な対応をしてくれた。以下はその要旨である。

●まず、もともとベビー・カーはその製造元のメーカー側が電車の揺れなどに対応できる構造になっていない、と説明している事実がある。故にこれまで起こった事例はないが、たとえば車輪止め等の不備でベビー・カー本体が横滑りして他の乗客に当たる可能性も予想される。

●そのために鉄道各社としては当初、ベビー・カーは「手荷物扱い」で、車内においては折り畳んで欲しい旨のお願いをしてきたのだが、関西では数年前に阪急交通が音頭をとって「実状にそぐわないから容認しようじゃないか」ということになり、ベビー・カーのままで乗車してくれても構わない、という方向に変わった。ちなみに関東の主な鉄道各社では、現在もベビー・カーでの乗り入れは「原則禁止」だそうである。

●駅構内には小さな文字であまり目立たないが「危険物やペットの持ち込みを禁ずる」等の車内での規則・お願い事を記した掲示板があるのだが、ベビー・カーの名はそれらの規約にはなく、また実際に無遠慮にベビー・カーで通路を塞いだりしている乗客も稀にいるので、今回指摘された貼り紙もその古い規則・お願い事を補う形で掲示されたものであると思われる。故に、ベビー・カーだけを特別にとりあげているわけでは決してない。

●これまでベビー・カーに対する苦情はときどき承ったことがあるが、今回のような内容の電話は、自分がここで応対を始めてからはじめてのことである。さまざまな乗客からの意見があり、またある意味で結局は個人個人のモラルに帰すことであるので、こちらとしても「ベビー・カーの乗客に協力してくれ」と言うのもなかなか難しい部分がある。

 

 最初から私には分かっていたことだが、結局のところ、一人一人の意識が変わらなければダメなんだ、ということである。終始真摯な口調で応対してくれた交通局の男性職員は、「じつは私にもおなじくらいの赤ん坊がいて、ベビー・カー、使ってるんですよ」と苦笑し、何度も「いや、仰ることはよく分かるんですが...... う---ん....」と言葉に詰まりながら話を聞いてくれた。そして、「こういうことは今も、これからも変わっていくわけですから、こうしたご意見を頂いたということは確かに承って、ご指摘の貼り紙の表現についても併せて今後の参考にさせて頂きたいと思います」といった言葉を聞いて、私は「お願いします」と受話器を置いたのだった。

 といったところで、とりあえずよろしいでしょうか、Nさん?

2002.2.14

 

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 こどもが昼寝をしている間に、先日の深夜テレビで録画しておいた遠藤周作・原作の映画「深い川」をつれあいと二人で見た。主演は秋吉久美子。登場人物たちがそれぞれの思いを胸に秘め、団体旅行のツアーでインドの聖地ベナレスを訪ねるストーリー。遠藤周作といえば、若い頃に初期のキリスト教ものの代表作はほとんど読んだ。高校の倫理の授業で自主発表をする機会があって、(たいていの生徒は渋々やっていたのだが) そのときにかれの「イエスの生涯」をテキストにしてキリスト教と仏教の共通点を蕩々と論じたことを懐かしく思い出す。キリスト教の歴史には拭いがたい人間中心主義がある。ヨーロッパ人の抜き差しならない孤独感というのは、実はそのためではないかと私は思うのだ。遠藤周作がかれの小説の中で終始描いてきたのは、それらヨーロッパのキリスト教から見ればやはり異端の、多分にアジア的な(ということは仏教的な)絵筆で描き直された物語であった。映画の方は何やらお行儀のいい、どこか優等生の作文を読んでいるような感じで、残念ながら私にはイマイチだった。画面を辿りながら、私の想念は別の方角へゆらゆらと飛びまわっていた。「深い川」というのは、あらゆる宗教の底辺に流れている共通の何ものかを指しているのだろう。作品はその深部へ届くには、少しばかり行儀が良すぎた。

 話は変わるが先日、わが家のお米を届けてもらっているすずき産地さんのメール・マガジンに、地元の小学校の学校給食に虫の付いた枝豆が入っていたという話が載っていた。「いまごろの枝豆。冷凍の輸入品しかも学校給食向けでは安物で、たんに品質管理に手落ちがあった劣悪品にすぎないはず」とはすずき産地さんの意見だが、調べたところ「今回の枝豆を納入したのは、○○のある仲卸さんでした。もちろんそれは書類と金の動きで、じっさいの品物は岩手県のほうの業者から納められたと聞いているとのことでした。 以上が、センターで把握している全部でした。岩手県の業者とやらの名前すら不明。もちろん枝豆は岩手産などではないでしょうが、そこから先の現物の動きは全然さかのぼることができないのです。」 そして記事の最後を「当面、今回の枝豆が子どもたちの口に入るまでの経過をすべて明からにしてほしいと要望をしてきました。どんな結果が出るか…後ほど報告いたします。 さらに、本来なら給食の原材料すべてが素性のはっきりしたものであるべきだという点も強調してきたのですが、そんなことを言い添えねばならない実態に愕然とする思いです。 どんな処理を施され、どんな経路でテーブルまで届いたのか、どこで誰がどんなふうに作っているのか、そんなことがさっぱりわからない食べ物を子どもたちが毎日まいにち口にしている現状を放置してはおけませんよね。予算がない、で片づけていいはずもありません」と結んでいる。こうした話は、雪印食品の後からもまたぼろぼろと出てきた牛肉すり替え事件などとも、確実に根がつながっているのだと思う。食べているものが見えない。いのちが見えない。こどもが浮浪者を殴り殺したり、老人をキタナイと表現したりする。こうしたものはすべてどこかでリンクしている。

 もうひとつ、今日の新聞にはまた、こんな記事も載っていた。全国4,300余の温泉を調査したという札幌国際大学教授の投稿だが、「天然温泉」の看板を掲げる日本中の多くの温泉の湯がいま、浴槽洗いの人手を省いたり湯を再利用してコストを削減し客室回転率を上げるために、循環装置を導入してときに1ヶ月も同じ湯を使い、大腸菌だらけの湯を殺菌するために水道水の数倍もの大量の塩素を混入している、という信じがたい話である。「温泉成分と塩素が化学変化を起こした場合、泉質や効能はどうなるのか? 循環風呂に限って肌がつるつるするのはなぜなのか? そもそも入湯税を徴収できる温泉といえるのか? 疑問は尽きない。肌のつるつるは、塩素で皮膚が溶けるためだが、いずれにせよ、こうした事実が全く伏せられていることが恐ろしい」 それを可能にしているのは「現行の温泉法が、浴槽水ではなく、地中からの湯出口で採取した温泉を分析し、温泉か否かを判定することにしているからである。「天然」を証明する温泉分析書を一度入手すれば、浴槽に別の温水を入れることも可能なのだ」 そうして「湯質の向上に何の努力もせず、カネにまかせて近隣市町村と施設の豪華さのみを競ってきた」(2月16日付朝日新聞・松田忠徳氏) 経済のシステムに乗らない大切な何かを私たちはすっかり見失い、その円環があちこちで無惨に寸断されている世界に私たちはいま暮らしている。

 たしか野迫川へログづくりの手伝いに行く車の中でだったと思うが、同行した友人との会話でインドの話が出た。「あの国はどこか懐かしく、居心地がよかった」と語る私に、友人は「だが、あんな酷いカースト制度のある国がほんとうに良い国なのだろうか?」と素朴な疑問を呈した。確かにインドの現実は、一介の旅行者の目から眺めても悲惨なものに違いない。貧富の差は激しいし、カーストの理不尽な身分差別もいまだに厳然と存在する。通りにはいかがわしい詐欺師や、大麻の売人がうろうろしている。空港には銃を持った兵士が立っている。川辺には赤ん坊の死体が流れ着く。路上で粗末な食事をすする少女や、牛の糞を拾って歩いている母親や、雑踏の中で物乞いをする不具者がいる。その一方で豚のように肥えた体躯を高価な絹のサリーでまとった上流階級の女たちや流暢な英語を話す男たちがいる。だが、少なくともあの国には〈嘘〉がない。映画の中のベナレスの景色を眺めながら、私が思い出していたのはそのようなある種の皮膚感覚だった。〈嘘〉がないから、聖も俗も貧困も汚辱も生も死も何もかもが強烈にストレートにありのままにぎらぎらと輝いている。それが、心地よい。そしてこの「マガイモノ」だらけの国にいて私は、ひどく息苦しく、目はかすみ、指先は萎え、つかむものもなく、耳を閉じ、じぶんだけの巣穴に引きこもって、いつか路上の通り魔のように暴発しそうになる。

2002.2.16

 

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 日曜から関東の愚母が泊まりに来ていて、昨日・月曜日は四人で大阪・天保山にある水族館・海遊館へ行って来た。海遊館、そういえば昔つれあいとデートで行ったな。こどもは大はしゃぎ、というかただただもう目をみはるばかりで、入り口の海底トンネルから興奮し、目の前を交差するアシカに見とれ、イルカの餌づけを熱心に観察し、厚さ30cmのクリスタル・ガラスに包まれた巨大水槽では回遊するエイに思わず身をのけぞらせた。大人ひとり2千円はいつも高いとおもうのだが、こどもはきっと大満足の一日だったろう。昼は隣接するマーケット・プレイスでファースト・フードのチャイニーズなどを食べ、あとは雑貨屋などを覗いて回った。母にチャイニーズ風の紐ボタンの付いたこどものシャツを一枚買ってもらう。私もインド雑貨の店でネパール製・麻原ショーコー風の白の上着が気に入ったのだが、つれあいに「こどもっぽい」と諭されて渋々諦めた。おなじネパール製の葉っぱの刺繍のついた肩掛けバッグも「もうそんな歳じゃないでしょ」とばっさり。夜は乗り換えの弁天町まで出て、シュラスコなるブラジル料理をメインにしたバイキングの夕食。巨大なサイコロのような牛肉をいくつも鉄串に刺して焼いたのを店員が皿の上に立ててそぎ落としててくれ、それに特製のソースをつけて食べるのだが、焼きたてはなかなか旨い。夜の9時半に帰宅した。

 

 東京の友人からメールが届いた。「最近コルトレーンにはまってます。というか命がけのジャズにはまってます。モンクとか。アイラーのゴ-ストとかスピリチュアルユニティとか。ロックは好きだけど、飽和状態だす」 音楽にしろ何にしろこのごろは、「命がけの」ものに出会うことさえ難しい。おれは「命がけの」ものに触れているか、と自問する。

 

 ところでしばらく前に、この駄文を読んでくれているというある人から、2月9日に記した Song Of Being A Child の訳詞はヴィム・ベンダースの映画「ベルリン、天使の詩」で朗読される詩とおなじものか、という質問のメールを頂いた。私は気がつかなかったのだけれど、調べてみたら実にその通りだった。私のテキストはわが Van Morrison のアルバム The Philosopher's Stone で Morrison が曲をつけ女性と二人で朗読している作品から用いたもので、ライナーによると「Wings Of Fire」なる映画に使われる予定であったものだという。レコーディングは1987年で「ベルリン、天使の詩」が制作されたのと同じ年である。映画の中では「わらべうた」というタイトルがつき、一部 Morrison の朗読しているテキストと異なる部分(省略) があるようだ。

 

 赤坂憲雄の「王と天皇」(ちくま学芸文庫・@800)をやっと読了する。あとで余裕があったら詳述したいが(たぶん無理だろう)、豊かな視座と真摯でしたたかな知的作業に満ちた天皇制をめぐる確かな爆薬。「日本人の美意識の根っこを昏い力で緊縛しているかにみえる、あえかにして美しき小さなハタモノの影....」「〈王〉という普遍の場所へ、そのハタモノである小さな〈王〉の影を投げ返すとき」「もはや〈わたしたち〉という、暗黙の共同性(あるいは、共犯関係) を他者に漠然とではあれ求める、思想の場所に立つことはない。わたしは〈わたし〉である、そして、これからも可能なかぎり〈わたし〉でありつづけたい」 「解説」が記しているように「ともかく本書は、「天皇制」の問題をよく考え、解明したいと望む者、さらには天皇制と対峙し、無効にしたいと考える者にとって、最も重要な書物の一つであることは疑いない」

 

 本といえば、数日前の新聞に載っていたある哲学者のエッセイで、亡き寺山修司を追想するこんなくだりがあった。

 

 「走りながら読む書物はないだろうか? と真剣に考えることがある」。そんな寺山修司の言葉がいまも耳についている。車中の読書のことではない。「『時』という名の書斎と、『教養』という名の椅子、それに少しばかりの金銭的余裕をもちあわせている人生嫌いの人たちに、代理の人生の味わいを教えてくれるだけ」の書物への決別宣言だ。

 同じ寺山は、「たたみ一畳位の大きさで、とじこみの部分は蝶番(ちょうつがい)がついて」いる鉄の本も夢想していた。その鉄のページをめくってそこに刻まれた「意味の世界」と対峙しうるだけの体力をもってせねば読めない本を。

(朝日新聞 2002年2月15日付 鷲田清一氏「夕暮れはまだ遠い」)

 

 ぜいぜいと喘ぎながらこのふやけた肉体にとどめを刺す、そんな本を見つけたい。

2002.2.19

 

*

 

 机の上、パソコンのディスプレイの足下にふたつの石ころを置いている。ひとつは三輪山の中腹、荒ぶる縄文の祭祀遺跡が残る禁足地から拾ってきた。もうひとつは二上山の、古代に石器や石室に利用されたサヌカイト石である。それと妹が青森のみやげに呉れた三内丸山の縄文集落より出土した木の実を模した土鈴のレプリカを、三つならべて置いている。

 三輪山と二上山。ここ“まほろば”の地にあって、この箱庭のような奈良盆地を東西より抱くふたつの峰は、いつも私に近しい。そしてそのときによって、三輪山に登りたいときと、二上山を訪ねたいときと、私のなかの心持ちがすこしばかり異なるようだ。その違いが何に由来するものなのか、私は知らない。だがどうやら、三輪山はのぼる朝日にあって死に近く、二上山はしずむ夕日にあって死に近い。これは私のなかの、さしずめお伽噺のような神話である。あるいは、私のパンだ。

 当麻寺の方角から二上山へ登る登山道の途中、馬の背迄500mの湧き水の箇所を左へそれてしばらく行くと、雌岳の山頂に至る包丁の刃先のようなきれいな尾根道に出る。古くからの小径のようで、先へ上がると僧院の跡などもあって、信仰の山の往時が偲ばれる。尾根道に合流する手前に古びた石の十三重ノ塔がひっそりと建っていて、私はその足下に腰をおろして山の表情を眺めているのが好きだ。コースを外れているから、人も滅多にやってこない。

 柔らかな産毛のように見える落葉樹に覆われた山肌のなかほど、大きな岩がぽつりと転がっているその岩の上に、私は悄然と立ちつくしているもうひとりの自分のまぼろしを見つける。岩の上の私はそこから遠い何処かを一心に見つめているのだが、こちら側の私にはそれが何であるのか、分からない。

2002.2.21

 

*

 

 「この子ね、じぶんの足が悪いっていうこと、悟ったわよ」と、つれあいが声をひそめて私に言った。こどもを風呂からあげて湯舟で私が聖書を読んでいたころ、パジャマに着替えたこどもは、内が空洞になっている丸いプラスチックの積み木を前方に突き出したじぶんの足の指にひっかけて遊んでいた。(これは今朝帰っていった私の母が教えたのだ) はじめに右足の指にかけた積み木を指先をうごかし揺らして愉しんだ。つぎに左足にかけた積み木でもおなじことをやろうとしたが動かない。こどもは積み木に何か問題があるのだと思ったらしい。べつの積み木を左の指先にかけてみたが、動かない。もうひとつ、変えてみるがやはり動かない。とうとう諦めて、左足を折り畳んで股下に隠してしまった。そんな話をつれあいから聞き、シマジローのビデオを愉しげに見ているこどもの横顔を眺めながら、私は何やらひどく悲しくなってしばし黙り込んでしまう。

 

 今日は関東に住む知り合いの老牧師さんより手紙が届いた。数日前、正月に私がフランチェスコの映画を見て軽い瘧(おこり)に罹ったときの記述(*ゴム消し・ログ18)をプリント・アウトして送った、その返書である。

 

 

 お便り有り難うございました。先の手紙と行き違いになったのですね。どうしていらっしゃるかと思っていたところでした。

 このところ国の内外を問わず、凶悪な事件が後を絶ちませんが、たぶん、いつの時代も同じようなものだったのかも知れません。

 特に、終末的様相を深めつつあるのがこの時代であり、人間が罪の奴隷になっているかぎり、何があっても不思議ではないと思います。将釆、黙示録の預言のように、もっともっと大変な事が起こるでしょう。

 この度、大変貴重な体験をなさったとのこと。それを「μεγανοια」(メタノイア)と言い、聖書では、「悔い改め」と訳されており、「回心」を指します。

 ●●さんの体験は、ダマスコ途上、使徒パウロがキリストに出会って、その心をひっくり返された(回心)経験と同質のものと私は判断します。

 フランシスコもザビエルも、その師のロヨラも、世々の聖徒たちは、みな同様の回心の経験をしているのです。これは人間の思いを超えた出来事で、大少にかかわらず、この種の経験なしに真のキリスト者になることは出来ません。                

 現代のキリスト者は、この体験に欠け、その結果として知識や教義や神学理論に傾き過ぎて力を失ってしまった、と私は思っています。                 

 この回心の経験は、神の心である「愛」に触れることであり、「聖霊体験」と言うことが出来ましょう。                               

 ご存知のように、神は「存在」するもので無く、「存在を存在させている超越的存在」ですから、人間が「存在する」とか、「存在しない」とか決定づけることは出来ません。

 また、人間が主体的に「信じる」ことの出来るものでもありません。一切の原因はすべて神に在るべきで、すべては神の賜物に過ぎません。                 

 信じても信じなくても、「神」と名づけた人格的超存在によって、一切が在らしめられて在るので、パウロのアテネでの説教の通りです(使徒行伝17章16節以下参照)。   

 その神の人格(ペルソナ)を、人間の言葉で「愛」(アガペ)と呼ぶのです。この「愛」は、すなわち「神」であり、その具現者をキリストと言います。「愛」は、宇宙を創り、万物を貫く「法則」でもあり(人はこれを、宗教や道徳と呼びます)、時に「聖霊」とも呼ばれるものです(「父神」「子神」「聖霊」の三位一体」)。             

 この「愛の霊」に触れると、人は内部(魂)が照らされ、深い畏れと共に無限の赦し、すなわち創造者の愛によって、「受容」されていることを感じ、言いようの無い平安と歓喜に導かれ、ただ涙があふれるのです(これを「悔い改め」とか「回心」と言う)。私も若い日に、この体験をさせられ、三日三晩涙が止まりませんでした。今、年老いてなお説教に立てるのは、この経験があるからです。

 現実がどうであれ、誰が何と言おうと、神によって「肯定されている」との決定的な霊体験が私の確信であり、支えであり、生きる意味の拠り所です。

 人は、神を信じると否とにかかわらず、神の愛の中に生かされて在るのです。これに気づいた者を信仰者と言うに過ぎません。しかし、この体験をした者の内側には、必ず何かの変化が生じるはずです。それは、蛹が蝶になるのに似ていると思います。静かに、しかし確実に変貌を遂げる事でしょう。

 今はこの世で、いろいろの事に制約され、思うような生き方が出来なくても、いつの日か羽を持った蝶のように、自在にはばたく時がきっと来ます。その日の来ることを私も待ちこがれています。

 ●●さんのためにも、いよいよの開眼と神のご加護をお祈り致しております。何はともあれ、お体お大切にお働き下さいます様に。文末ながら奥様によろしく願い上げます。

 ご平安を念じつつ。

合掌

 

 

 旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、とつぜん天から強い光がわたしのまわりを照らした。わたしは地面に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねると、「わたしはお前が迫害しているナザレのイエスである」と答えた。いっしょにいた者たちは、その光は見たが、わたしに話しかけた方の声は聞かなかった。

(使徒列伝22章6〜9節)

 

2002.2.22

 

*

 

 夜、NHKのテレビでアラン・ドロンが孤独な殺し屋を演じた「サムライ」という古い映画を見た。珍妙なタイトルでさほど期待していなかったのだが、これがけっこう良かった。クールになれる。はじめに見ようと言い出したつれあいは、疲れているのか途中で先に眠ってしまった。で、いまはひさしぶりにマイルス・デイヴィスなどをひとり聴いている。Kind Of Blue。

 金曜に関東から来た母が帰って、日曜の昨日は、いまは三重に住んでいる友人が遊びに来た。夜は近くの王将へ食べに行き、深夜の2時過ぎまで話し込んでから友人は車で帰っていった。「最後はいつも小学校や中学の頃の思い出話になるのね」とつれあいが言った。

 先週から近所のサティでやっている中国物産展で、山査子(サンザシ)という木の実の瓶詰めを買ってみた。血液浄化や健胃作用があるというのだが、つれあいとこどもはひどい顔をして吐き出した。私はけっこうオツな味だと思う。で、この瓶詰めは私ひとりで独占できる。この物産展では茶や香や食材の他に、印床という篆刻の石を固定する台座も安かったので買った。もうひとつ、垂らし髪の付いたチャイナ帽もこどもによく似合っていたのだが、これはつれあいに止められた。

 業務連絡をひとつ。近日中に相互リンクをすべて廃止することにした。相互リンクなんてものは、要するに打算を含んだ一種の「契約」だ。HPを立ち上げた当初は私にもそんな打算があった。だがいまは己のサイトを広めたいといった気があまり無い。リンクは勝手自由にやればよい、というのが遅まきながらの結論である。

 ひさしぶりに聴くマイルス・デイヴィスはなぜかとてもいい。私も銀幕のなかで寡黙な殺し屋を演じてみたい。最後まで人を殺せずに逆に殺されてしまう不様な殺し屋の役を。

 私はいまだ神の存在を信じていない。私がいまも唯一信じているのは、たぶんディランの次のような歌だ。

 

If my thought-dreams could be seen
They'd probably put my head in a guillotine
But it's alright, Ma, It's life, and life only

もしおれの思念まぽろしが暴かれたら
おれの頭はおそらくギロチン行きだろう
だが構わんさ、それが人生、ただの人生だ

Bob Dylan, It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding) 1965

 

2002.2.24

 

 

 

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