■日々是ゴム消し Log18 もどる

 

 

 

 

 

 2002年である。今年も正月が偉そうな顔をしてわが家にもやってきたが、生憎だらけた男手しかない。出涸らしのお茶をいれて、確かそのへんに雑煮の残り汁くらいあったはずだがと言うと正月の奴は、ちぇっ、時化た家だ、と舌打ちをしてそそくさと出ていった。さて、今年もしがない戯言を続けるか。新年になったといっても、何が変わったわけでもない。相変わらずのさえない男がひとり、ここにいて、さえない顔で背中のあたりをぽりぽりと掻いている。

 元旦は昼前に、万年床から這い出してきた。コーヒーをいれて、分厚い新聞とポストにあった年賀状を見る。年賀状はほとんどはつれあいのもので、私宛のものは僅かしかない。良いことである。腹が減ってきたので、そこらに転がっている食材と、先日米を注文したときにオマケで付けてくれたすずき産地さんの玄米餅で「雑煮らしきもの」を拵えることにした。具は大根と人参とサツマイモを、関西風の味噌味で。試みに柚子胡椒を加えてみたらピリリと辛い、時代にも私にも相応しい変則雑煮となった。

 大晦日の深夜にNHKで「ジョン・レノン・スーパー・ライブ」なる番組をやっていた。日本のミュージシャンたちがレノンの曲を歌う。変則雑煮を食べながら、録画しておいたビデオで見た。まあ熱演といえばどれも熱演なのだけど、見ているうちにやはりオリジナルの方が聞きたくなってくる。それに最近の若いミュージシャンばかりで、おじさんには同年代の奥田民夫くんと、それに仙人ムッシュかまやつくらいしかロクに顔も知らない。元ミスチルとかの God はわりと良かったかな。I don't believe in .... のリフレインで、ケネディの部分を「ブッシュ!」と苦々しく吐き出した。最後に巨大なモニターに中継でニューヨークのオノ・ヨーコが映し出され、出演者全員がジョンへの想いを語ったあとレノンの Happy Xmas を合唱したあたりは、何やら面映ゆい気がして困った。

 あらためて、今年はじめてかけたCDはモーズ・アリスンの二枚組のアンソロジーであった。クールでヒップでどこかアイロニカルなサウンドは新年のスタートに相応しい。それにラウンジ・リザーズのフェイク・ジャズをもう一枚。それから炬燵に寝ころんで、アルヴォ・ペルトのヨハネ受難曲をかけながらユングを読む。そのうちうつらうつらとしてしてきて、ああ、ベルトの音楽は水平のメロディじゃなくて垂直なんだ、つまり《神の旋律》だ、なぞと思いながら眠ってしまった。

 夕飯はレトルトの旨くもない辛口カレーを食べた。ひとりだとご飯を炊くのも億劫だ。やはり料理は誰かに食べてもらうために作るものらしい。少なくとも私にはそうであるらしい。自分だけが食うなら、丼に盛ったご飯に納豆と生卵をかけただけのものを日に二食でも別段構わないのだ。そういえば下着と靴下を除けば着ているものも、おなじ服をもう一週間ほど着続けている。

 夜はテレビでテロ事件に関連したNHKスペシャル「世界はどこへ向かうのか・新たな秩序への模索」をやはり炬燵に寝転がって見る。アメリカの歴史学者やアラブの知識人たちが出てきて喋っている。だが「新たな秩序」など、どこにも見えてこない。続けて「蘇る幻の古代芸・伎楽」を見ようと思っていたのだが、また眠ってしまった。何といっても炬燵は気持ちがよい。このまま炬燵に入って一生を暮らせないものかと思う。

 深夜に目が覚めてチャンネルを変えたら、メル・ギブソンの「陰謀のセオリー」という映画をやっていたので炬燵に入ったまま見る。ジュリア・ロバーツは最近、ちょっといい。それが終わってから別の局で「イージー・ライダー」を炬燵に入ったまま見る。澄ましたピーター・フォンダよりアホ役のデニス・ホッパーがいい。ラストのシーンは、やはりいまも衝撃的だ。殺されてたまるものか、と思う。ところで The Weight の演奏シーンでテロップに「歌 スミス」と出てたけど、あれは何かの冗談なのかな。初期のバーズを聞きたくなった。でも手元にないので、'90年にデニス・ホッパーがキーファー・サザーランドと共演した「フラッシュバック」のサントラをいま聞いている。Born To Be Wild や Walk On The Wild Side、ジミ・ヘンの All Along The Watchtower やディランの People Get Ready などが入っている。

 「イージー・ライダー」を見終えてから明け方にようやく寝床に入ったのだけど、どうも映画のせいで気分がワイルドになっちまったせいかなかなか眠れない。それに独り寝の布団は寒くて哀しい。それでまた炬燵に戻って、さらにワイルドなこどものビデオを朝まで見て過ごした。というわけで、正月といっても着飾って初詣に行くでもないし、獅子舞を踊るでもないし、新年の気構えを書き初めするでもないし、世界平和を祈願するでもないし、いまさらこの歳でお年玉を貰えるわけでもない。ただむさ苦しい芋虫のごとくひとり炬燵にくるまって、およそ非生産的な惰眠を貪っている。そもそも、何もないのが正月だ。

 ところで最後に、以前に野迫川倶楽部のkeiさんから紹介してもらった東北の秋田でドクターをしているGさんよりこんな賀状メールを頂いた。まだお会いしたことはないがGさんは長年、二分脊椎を含む障害をもったこどもをたくさん診られてきた女医さんである。私信ながら一部を紹介したい。

 

 

 まず最初に伝えたいこと。紫乃ちゃん、膀胱機能検査で大きな異常がなくて、よかった! 排便機能も大切だけど、QOLは排尿機能の方が影響されます。膀胱機能は脊髄の一番下の神経なので、下肢機能の快復も期待が持てますね。障害者の会に参加しにくい気持ちわかります。紫乃ちゃんはたぶん、健常者の中でほとんど健常者と同じように暮らしてゆくことになるんじゃないかしら。紫乃ちゃんが足のことを恨みがましく思わずに成長してくれることを祈っています。自分の愛すべき一部、誰にも蔑まれることのない誇るべき一部として大切に思ってくれることを。精神発達はいいと思います。この時期は人とのやり取りとか指さしとか言葉の発達が大切な時期です。言葉の数は少なくても、だいたいクリアしているように思います。

 

 これは親にとって大変嬉しい便りであった。つれあいにも早く見せてあげたい。さて、そろそろ束の間の「独身生活」に別れを告げて、あののどかな海辺の村へ“聖家族”を迎えにいこうかな。やりたいことも自由に使える時間もそれこそたくさんあるのだけれど、どれもイマイチする気が起こらない。あるいは柱も土台もない屋根のように、風に煽られてどこかへ飛んでいってしまいそうになる。ヴァン・モリスンのラブ・ソングに「おれの Ball & Chain (重しと鎖) になってくれ」という曲があったが、どうやら私もそんな種類の人間であるらしい。この地上に自分をつなぎとめてくれるものが必要なのだ。そう、それにジョン・レノンもこんなことを言っている。

 

 なんにもないところからはじめるんだ。ピルスベリーかなにかを一袋買ってきてそれをパンにまでするのさ。小麦粉と手だけでやるんだよ、手でね。 人は食事によって生きる、食事と食事の間の規律によって生きるんだ。

(ジョン・レノン ラスト・インタビュー・池澤夏樹訳・中公文庫)

 

 最後になりましたが、今年もよろしくおつきあいのほどを。

2002.1.2

 

*

 

 ひさしぶりにつれあいのいる実家へ電話をいれた。年末から、私は電話が鳴っても受話器をとらなかった。全きひとりになりたかったから。さぞや怒っているだろうと思っていたら、これがそうでもない。すこし話は飛ぶが、船会社を経営しているつれあいの従兄が最近、何億もかけてあたらしいタンカーを新造した。この不況の時代にあって大きな賭でもある。実は私にも、もしその気があるのだったら、と船の仕事を誘ってくれたことがある。メルヴィルの「白鯨」の世界に憧れる私はかなり気持ちが動いたのだけれど、船が出ると一月や二月は家へ帰ってこれない。その間はつれあいにも赤ん坊にも会えない。それはやはり自分には到底無理だろうと考えて諦めた。そんなこともあったりしたのだが、ともかくその従兄がこの正月は四国の丸亀で、ただひとりで舟守をしているという。いつもなら家族が会いに行ったりするのだが、ことしはいろいろひとりで考えたいことがあるようだからそっとしておくことにした、と奥さんがつれあいに話した。「それを聞いてね、私も同じようにすることにしたの」と、いとも明るい声でつれあいが私に言う。そんなふうに言われてしまっては、私ももうしばらく、ここにひとりでいなくてはなるまいて。

 それと、赤ん坊が風邪をひいたらしい。熱はないのだが、咳がひどく、声も荒れ、鼻水が出る。前述の従兄の家で車を出してもらって休日の担当医で診てもらったが、帰りの車の中で吐いてしまった。それでも帰ってからうどんをたくさん食べて、いまは遊んでいるという。まあ食欲があるのはいいが、おそらく今夜から熱が出るのではないか。しばらくは向こうで様子をみて、落ち着いてから、また車を手配して迎えに行くことになりそうか。そんな事情もあって、映画の感動的なラスト・シーンのように家族を迎えに行く、という私の脚本はあえなくボツになってしまった。さみしい独り寝はもうしばらく続く。南無三。

 しかし風邪こそひいたものの、それ以外は赤ん坊に問題はなく「こっちへきてから、またずいぶん成長したよ」とつれあいは言う。甘いものを口にして「アマイ」と言うようになった。「イタイ・イタイ」も覚えた。寝転がった自分の腹を手で叩いて「ネンネ・ネンネ」と言うのは義母が教えた。階段もひとりでよじ昇っていく。つれあいの妹さんのところで貰ったお菓子の箱の「カバン」が気に入って、いつもそれを首からかけて遊んでいる。寝るときにもそれをかけたまま寝る。一度壊れたのでセロテープで修理をした。そんな感じ。

 

 例の、大阪池田市の小学校で多くのこどもたちが無惨に殺された事件の検察側の冒頭陳述、これは年末の夕刊に掲載されたものだがずっと読めずに置いていたのを、やっと今日になって目を通した。読んで、この宅間という私とそれほど歳も違わない狂気に取り憑かれた男は結局、人を愛するすべを知らなかったのだ、と思う。誰も(おそらく、それは特に両親だろうが) それをかれに教えるものがいなかった。かれは自分の望むものを力ずくで手に入れようとした。それが拒絶されれば相手を、そして世間を憎んだ。自分はこの世界からはじき出されているのだと思い込んでいった。これも同じ頃の紙面に載っていた記事だが、かれの手によって命を奪われたこどもの親の多くが事件の夜、冷たくなり変わり果てたわが子と添い寝をしたという光景は、きっと想像を絶するほどに (誤解を恐れず言うならば) 美しく、痛ましい。その永遠とも思えたに違いない幾つもの夜を思い描いてみようとするたびに、私は思わず身震いがする。この事件が私たちに突きつけてくるのは、世界からつまはじきにされてひとりぼっちになったと思い込んだ哀しい魂が、振りあげたその絶望的な復讐の刃をこの世界でいちばん無力でか弱い命へ向けて振りおろしたという、そのあまりにも悲しく理不尽な構造だ。つまりこの国の狂気 / 犯罪は行き着くところまで行ったのだ。これから先、何が起ころうと私はもはや驚かないだろう。何が起こってももはや当然だと思う。昨夜、ある人がメールで悲しげに書いていた。「まだ地べたが地べたであるところ」 そんなところがもしあるのなら、私は飛んで行きたい。

2002.1.3

 

*

 

 夜、ひとりだけの食事を済ませてから、何気なく、聖フランチェスコの映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」のビデオをかけた。もういちどだけ見たら、消してしまおうと思ったのだ。この美しい映画はもう何度か見た。だが、今日は違っていた。十字軍の悲惨な戦場から戻ったフランチェスコは、病を経て自閉症のようになってしまう。一切を黙したまま、野原で鳥や草花としずかに戯れる。町の者はみな、かれは気がヘンになってしまったのだと噂をする。ある日、かれは父親の命でミサに同行する。贅を尽くした教会で、着飾った裕福な人々が神を讃える。フランチェスコは次第に息苦しくなってくる。聖服の襟をひきはがし、はじめて口を開き絶叫する。「No ! 」 それから、長い苦痛から解放されたようにもういちど、静かに「No 」と言って微笑む。それからしばらくしてある日、フランチェスコは家の財産を窓から投げ捨てる。怒り狂った父親は息子をひきずり、司教に裁いて欲しいと申し出る。司教と両親と取り囲む大勢の群衆の前で、「おまえは何が望みなのか。おまえは...」と司教に尋ねられフランチェスコは答える。

 

....光を探す者です、やみの中で
幸福になりたいのです
空を飛ぶ鳥のように
自由に純粋に生きたいのです
ほかに何も要らない、何ひとつ
愛のない現世の束縛など、私には必要ありません
より善いものが、あるはずです
人には聖霊が宿っています、魂の中に
取り戻したいのです、私の魂を
生きてみたい、野や山で自由に
丘を越え、木に登り、川で泳ぎ
大地を踏みしめて暮らしたい
靴も財産も要らない
召使いも要らない
托鉢をして清貧に暮らしたい
キリストやその弟子たちのように
解き放たれたい

 

 かれは言葉通り靴も衣服も脱ぎ、それを両親へ手渡す。父親が怯えたように何かを叫ぶ。「もう息子ではありません」 次いでフランチェスコはイエスの言葉をひく「肉から生まれるものは肉。魂から生まれるものは魂です」 そしてかれは生まれたままの姿で、ひとり野へ出ていく。

 

 私は、泣いていた。こんな体験ははじめてだった。涙は次から次へとあふれ出てやまなかった。これは理屈ではない。頭脳から出たものではない。感情でさえもない。いうならば、私の魂が何かに反応したのだ。ヒットした。全身が小刻みに顫え、身体の奥から何かあたたかいものがとめどなく湧き出してきた。フランチェスコの純粋さにうたれたのか、かれの勇気に? あるいはおのれの汚らわしさを悲しんだのか。それとも歓びの嗚咽であったのか。何か目に見えない弾丸を撃ちこまれたのか。分からない。分からないが、何か大きなものが私のなかに生きて存る。それが目を覚まして、私を内から激しく揺さぶる。ずっと私の内で眠っていた何かだ。私はおびやかされているのではない。裁かれているのでもない。私はたぶん、“肯定されている”。炬燵で寝そべったまま、私は泣き続けた。フランチェスコを呼び戻そうとやってきた友人が、別のもう一人に言うのだ。「無知だったから、(かれを)笑ったんだ」と。私は泣き続けた。洗われているようだった。

 

Brother Sun and Sister Moon
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery

Brother Wind and Sister Air
Open my eyes to visions pure and fair
That I may see the glory around me.

I am God's creature, of Him I am part
I feel His love awakening my heart.

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey.

 

兄弟なる太陽よ 姉妹なる月よ
あなたが見えない
あなたの調べが聴こえない
じぶんのくるしみばかりにとらわれていたから

兄弟なる風よ 姉妹なる空気よ
この目をひらいて 正しく清らかなヴィジョンを見せておくれ
わたしをとりまく恵みに気づけるように

わたしは神がつくられしもので 神のかたわれ
神の愛によってこころが目覚めてゆく

兄弟なる太陽よ 姉妹なる月よ
やっとあなたが見える
あなたの調べが聴こえる
見わたすかぎりの愛に抱かれて

 

Brother Sun and Sister Moon, Donovan 1968

 

2002.1.4

 

*

 

 昨夜はどうもある種、異様な興奮状態だった。何やら読み返すとしどろもどろのひどい文章だが、これはこれで置いておこう。何が自分の身に起きたのかを考えている。これまで映画や小説や音楽に接して感動をし、あるいは涙したことは幾度もあるが、それとは明らかに違うものだった。ある種の化学反応のように、私のなかで何かが反応した。私はまるでマラリヤに罹った患者のように激しく顫え続けた。それはとてもリアルな体験だった。私のなかに確かに何かの存在があって、それが私を揺さぶっていた。それ自身が命を持つ何か、だ。昨日のチャットでKさんが「キリスト教徒なら、あれを《聖霊降臨》と呼ぶのだろう」と言った。そう。私は確たる信仰を持っているわけではないし、何やら霞の帳に包まれた怪しげな神秘思想も不得手だ。だが、ふとどきを承知で言わせてもらうならば、私はあのとき、あの映画を見ながら、ひとりの個の人間として、確かにフランチェスコの生身に触ったのだ、と思う。私の魂の触手が、800年前のかれの肉体に触れ、おののいた。そういうことは、この世界で、あるのだと思う。一夜あけて、私はふだんの何の代わり映えもない自分でいる。あのときの興奮はすでに去った。いまではまるで遠い夢のような気がする。私はふだんの私で、何ひとつ変わらないが、自分の身に起こったことははっきりと覚えている。私はそれを“体験”した。それは疑いようもない事実として存在する。たとえ百人の人間が信じないと私に告げても、私のなかでは岩のような事実だ。あのとき私が顫え、涙し、信じ難い奔流のなかで味わった感覚は忘れようもない。エンデさんが言っている。

 

 たとえばある人が、いわゆる聞こえない声を聞いた、と言う。それに対して心理学者は、幻聴だ、と片づける。そのことが私にはいつも腹立たしいのです。人間にとって、唯一ほんとうのことは、自分が経験したからほんとうだ、と言える事柄なのではありませんか? 他にいったいほんとうのことがあるでしょうか?

 

 だからといって、私がイエスに帰依するというわけでもない。私はきっと、相変わらずの私で居続けることだろう。いままでどおり、ときには聖書を読み、仏典を開き、アイヌの神話に胸をときめかすだろう。イヌイットの人たちのように、カラスの魂を夢見たりするだろう。ネイティブ・アメリカンの人たちのように、掌をわたる風を見つめたりするだろう。だが何かが、これまでとは違う。確かに違う。私は象徴=サインを受け取った。「橋のむこうの世界」からのしるしを。それが私に何をもたらし、そこから何が見えてくるのか、ゆっくりと見とどけたい。

 

 ユングが「ヨブへの答え」に記していた言葉を思い出している。

 

なぜなら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。

 

2002.1.5

 

*

 

 これからレンタカーを借りて夜道をひた走り、和歌山までつれあいとチビを迎えに行く。明日の夜に戻り、あさってからチビはリハビリ。またいつもの日常、聖なる日々の暮らしがはじまる。

 ある人が夕べ、メールに書いてきた。アフガニスタンの人々のことだ。

 

しかし、なんであそこの男たちはこんなに sexy なのか? 何であんなに笑えるんだ? なんであそこの子供たちは本当の子供たちなんだ? なんでみんな詩を歌い上げるのだ?

体を張って生きているからだね? 違うかな。

でも私たちはいったいどこに行こうとしているのか?

 

 ぼくは sexy になりたい。フランス流に言うならね。そしてオーティス・レディングのような魂をもった、本物の男になりたい。これが今年の所信表明。

2002.1.6

 

*

 

 まいった。わずか10日間はなれていただけで、こどもは私の顔をすっかり忘れていた。抱き寄せようとすると怯えた表情でつれあいにしがみついて泣き、あとは私をまるで他人か泥棒でも見るような目つきでじっと監視している。私は近寄ろうにも近寄れない。つれあいの実家で一泊して帰ってくる車の中でもまだどこかぎこちなく、アパートに入ったらやっと思い出したようだ。私はアパートとセットでしか存在し得ないのだろうか。お義母さんは「父親なんて所詮、そんなもの」と言って笑っていたが、私の失意は計り知れない。

 帰ってきたはいいが、つれあいがこどもの風邪がうつったのか酷いがらがら声で咽が潰れてしまっている。それで今日は朝から私が大阪の病院へこどもを連れて行った。いつものリハビリと、それに今回は隣接する別の病院の泌尿器科で検査があるので忙しい。朝取った尿を泌尿器科に預けておいてからリハビリへ走り、リハビリが終わると急いで泌尿器科へ走る。会計を終えてやっと病院のロビーで家から持ってきたおにぎりの昼食をこどもと二人で食べ、小児科の待合室を借りておむつを交換する。

 泌尿器科の検査では「おしっこはキレイになっている」とのことで、前回の膀胱炎は治ったようだ。あとは半年後にもう一度モニター等の詳しい検査と、毎月一度の尿検査である。

 リハビリは、今回ははじめて歩行器を使った訓練をしてなかなか上手く歩くことが出来た。左足が不安定なので、右足がその分急いて前へ出過ぎる。それを後ろから歩行器をセーブして左右のバランスを調節してやるのが難しい。そつなく歩けるときもあるが、左足がもとでもつれてしまうときもある。父親の顔は忘れたくせに、担当のM先生の顔は年が変わっても恐怖とともにしっかり覚えていて、先生が足を触りにかかるとひどく嫌って泣く。最後は中学生の背丈くらいはある大きなゴムマリの上に乗せられて、これが最近の終わりの儀式だが、いつもこの世の終末が来たかのようにすさまじい声で泣き喚く。身体のバランスをとらせ、主に歩行に必要な腹部の筋肉を鍛えるリハビリだが、以前よりは少し良くなってきたという。こどもが頭を壁や床に打ち付けるようなことをしたら、ストレスが溜まっている危険信号だからすぐに教えてください、とM先生は少々怖いことを言う。

 帰りがけ、歩行器ならぬ手押し車のオモチャを家でのリハビリ用にと思い天王寺の近鉄百貨店に寄って玩具売り場を見てから、10日間のささやかな汚名挽回にとすこし寒かったが屋上のミニ遊園地に上がってみた。私が一服していると、ベビー・カーのぐるりを何故か鳩の群れが取り囲み、こどもは嬉しそうに笑って見ている。がらがらのメリー・ゴーランドに乗った。前抱きにして馬に乗ろうとすると嫌がるので、馬車の方に乗り込む。ぐるぐる回転する景色を珍しそうにきょろきょろと見ているが、さして愉しいといった感じでもない。200円、損したような気持ちになる。天王寺駅でホームへの狭い階段をベビー・カーを抱えて下りていると、前の高校生が「おい、どいてやらんか」と隣の友人を注意する。どうも、と言って下りていく。

 家に帰ってから夕方は買い物や、先月分の医療控除の申請書の手続き等で小児科や役所をまわる。それから近くの玩具店「ハロー・マック」へ行ったら、手押し車が近鉄より安く売っていたので買ってきた。いまは電池式の賑やかなものがあれこれあるが、選んだのは昔ながらのシンプルな木製のやつである。ただしキティちゃんの絵が描いてある。家に帰るとこどもはだいぶ気に入ったようで、狭い部屋の中を何度も往復してやりたがった。まだ親がいっしょに押さえてなければならないが。

 夕食はつれあいが実家でもらってきた太刀魚を炊いて、私がやはり実家の畑で獲れた大根に葉っぱがわんさか付いているのでほとんどを油揚げと甘辛く炒め、それに豆腐の味噌汁に少しを入れた。剛直な歯触りの葉は、味噌汁にはちょっと不向きであった。赤ん坊はもういつものごとく、夕飯を作っている私の足下にしがみついてくる。お膳の上で悪さをして叱られる。やれやれ。

2002.1.8

 

*

 

 赤ん坊は今日は知能テスト。これはリハビリで精神的発達が6ヶ月程度と酷評された話を聞いて脳外科のY先生がもし心配であるなら、と小児科へ手配してくれたものである。発達心理学の医師による、積み木などの簡単な玩具を使って遊びの延長のような小一時間ばかりのテスト。結果は1歳4ヶ月相当の能力は充分にあり、ことばの数などを見てもあるいはそれ以上である、との診断。私はつれあいに、一筆書いて貰ってリハビリ科へ持って行け、と。

 彼女の語彙は正月から急に増えて、ちなみにいまは「ハーイ」、「ハイッタ」(入った)、「ナイ」(無い)、「ナイナイ」(片づける・仕舞うの意)、「アッタ」、「アマイ」(甘い。ときにオイシイの意も)、「カイ」(貝)、「ビーン」(電子レンジの音で、温めた牛乳を意味する)、「オモイ」(重い)、「イタイ」(痛い)、「バウバウ」(犬の鳴き声=犬、英語式である)、「ア−−ア、イッチャッタ」(人が立ち去ったあとで)、そして「ネンネ」などが言える。いちばん最新のは「紫乃さんは幾つですか?」との問いかけに、まるで映画の中のガンマンのようにさっと人差し指を立てて「ヒトツ」と得意げに言うやつである。

 

 夕方、職安から戻ると、近所の親類の家で畑で獲れた野菜をあげたいから取りに来て欲しいとの伝言をもらう。ふたたびバイクを走らせて行くと、まあお茶でも、と言われ、居間へ招かれるといくぶん遠慮がちな「説教」あるいは「忠言」であった。失業状態が長引くとこんなことが多々起きてくる。私はそのひとたちがみな、いっそ腹の底からの悪人であってくれたらいいのに、と思う。だがかれらはみな善人で、私や家族のことを我が事のように心配して、そのために言わずにいられないのだ。かれらの多くは、それがたとえどんなものであれ、一日も早く私が社会復帰することを願っている。そしてひとたび、ともあれ現存するシステムに無事に組み込まれたなら、そこに深く根を下ろし、けっして疑いを持つことなく、ただ個人の幸福と日々のささやかな慰みだけを望んで、余計なことは考えてはいけない、間違ってもふたたびはみ出すような真似をしてはいけない、岩に付着した海藻のように何があってもそれに囓りついていなさい、と優しく要請する。それが多くの、この世を支配している「善良さ」の姿だ。総体としての善意が悪意に代わる瞬間だ。私はそのひとたちがみな、いっそ腹の底からの悪人であってくれたらいいのに、と思う。だが私は、心配をおかけして申し訳ありません、ありがとうございます、と頭を下げる。ほんとうにそうです、心を入れ直して頑張ります、と言う。腹の底で、何もかも崩れてしまえばいい、あのニューヨークの高層ビルのように善意の裏に付着している悪意が露わになればいい、とつぶやいている。

 そんなとき、あのヴァン・モリスンの切実な Why Must I Always Explain (なぜおれはいつも説明しなくちゃならないのか) を思い浮かべる。特売の卵を買うときには、列に並ばなくてはいけないのだ。

2002.1.10

 

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 ようするに、いまの世の中で「良識」ほど胡散臭いものはない、ということだ。私は、そう思っている。死ぬまで唾を吐きかけてやる。

2002.1.11

 

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 つれあいに代わってこどもをプール教室内の体操に連れて行く。ごく簡単なマット運動や鉄棒、体操など。みな裸足だが、うちのこどもだけ両足に装具を付けている。だからコーチをはじめ、周囲の親たちも微妙に接し方が違う。ひどく親切か、あるいは逆にさりげなく腫れ物を回避するような雰囲気。もちろん、それが悪いというのではないし、互いに仕様がない。ただこれからきっと、こうした空気をいつも感じていくのだろう、と思う。いちど家へ戻って遅い昼食にお好み焼きを食べてから、こんどは三人で散髪屋に行く。私が散髪をしてもらっている間、赤ん坊もつれあいに抱かれて前髪をカットしてもらう。やはり女の子だから長く伸ばそうと思うのだ。前髪だけだから500円。美容師の女性の話では揃うまで3ヶ月くらいかかると言う。前回はつれあいの手による即席カットだったが、やはりプロはそれなりに上手いものでだいぶ可愛くなった。帰りがけに、今月末に店仕舞いをすることになった近所のホームセンターを覗く。全品2割引ということで、棚はすでにあちこち空きがみえる。つれあいはあるオッサンが店員に「ふだんもこんだけ(客が)入ってたら良かったのになあ」と言っているのを聞いたとか。夜は和歌山の実家でもらったカワハギを使った鍋を、シンプルに大根下ろしとポン酢で。赤ん坊は魚、エビ、カニ、貝など海のものが大好きだ。私のルーツは両親とも山の出だから、これはきっとつれあいの方の血かも知れない。ちなみに納豆も好きだし(これは私の方だろう)、漬け物も大好きで、塩気が強いからと隠しているのを見つけてせしめた沢庵を食後によくチューインガムのように口いっぱいに頬張って玩具で遊んでいる。

 

 つれあいが私の出かけている間に10日付けのゴム消しの記述を読んだ。そして、何も無理な思いをしてまで働かなくてもいい、お金がすっかり底をついて、家財道具を売り払ってもっと小さな部屋で暮らすことになっても、親子三人が仲良く暮らせたら私はそれでいいから、と言う。だが別の話で、わが家によく遊びに来る昔からの年下の友人から「○○さん、もっと昔みたいにお洒落もしてよ」と言われたという話も聞く。彼女は私といっしょになってから、自分の身につけるものなどロクに買っていないのだ。そう、私と出会った頃の彼女は、まるで映画の中の女優のようだった。私はなにも労働を拒否しているわけではない。私はまだ若いし健康で、よい働き手だし、大抵のことはソツなくやれる。ただ私は、うまく言えないが、不様な抵抗を見せたいのだ、きっと。自分があの狂気に取り憑かれた殺人犯にもなり得たかも知れないというアリバイを語りたい。そしていつも不思議に思うのは、私だけが自分の立場や価値観の説明をうんざりするほど要求され、連中の方は一度たりとも疑ったこともない昔話の泥船のような足下にどっかりと腰を据えて話しかけてくる、その滑稽さだ。私はじぶんの価値観を人に押しつけたりはしない。だからあんたらの尻にすでに火がついているのも黙って眺めていてやる。

2002.1.12

 

*

 

 今日の新聞で、ある日本の映画監督が「アレクセイと泉」という映画について語っていた。

 

 チェルノブイリ原発事故の日に吹いた風は、北隣に位置するベラルーシ共和国に大量の放射能を振りまいていった。この映画の舞台となったチェルチェルスク地区は放射能汚染の被害が最も大きかった地域なのだ。

 僕が初めてこの泉を訪れたのは95年の春のことだった。チェルチェルスクの町から北東へ50キロ。県道をはずれ、村へ続く深い森の小径に入った途端、放射能測定器がけたたましく鳴り出した。その数値はあの事故を起こした4号炉の5キロゾーンと同じ値だという。

(朝日新聞1月13日付 本橋成一)

 

 この村の中心にその泉はある。これまで一度も放射能が検出されていないこの泉を、村人たちは「100年の泉」と呼んでいまも飲み続けている。「大地に降り注いだ天水が100年の時を経てわき出しているのだろう」 かれらは政府の移住勧告を無視して住み続けている。その理由のひとつが「この村から出ていってしまったら、この泉から借りていた水をこの地に還(かえ)せないから」だと言う。

 いつだったかもうだいぶ以前に、テレビで似たような光景を見た。やはりチェルノブイリの原発事故で汚染された村に、たったひとりで居残り続けている老人。「わしはもう80歳だ。いまさらどうなるもんでもないだろ」 かれは汚染された牛の乳を飲み、貯えていたジャガイモを食う。すべての住民が避難していった廃墟のような村で。「わしが変わり者だって? 自分の生まれた土地で生きられないことの方が変わってるのさ」 それからしばらくの間、私はその老人と二人きりで暮らすことを夢見た。

 21世紀はウォーター・ビジネスとやらの時代なのだそうだ。水が世界の商業主義の中に組み込まれてその市場原理 (神の見えざる手) によって売り買いされる。地中海を水を満載した巨大な浮き袋が船に曳かれて渡っていく。しばらく前の新聞で、各国の取り決めで今後はCO2の排出量を企業が売り買いできるようになるという記事を読んだ。いまや空気さえも、この巨象のような経済システムの対象なのだ。それはもはやかのネイティブ・アメリカンの先祖たちが「掌に吹き抜ける風」と呼んだものとも、フランチェスコが「兄弟なる風のゆえに 空気と雲と 晴れとすべての時候とのゆえに わが主を賛美せよ」と歌った世界とも違う。人間はすでに途方もない狂気に取り憑かれている。

 水といえば、いつもタルコフスキーが遺したあの聖なる映画「ノスタルジア」を思う。廃屋でひとり水が汚されていくのを見つめていた聖なる愚者・フールは、最後に町の広場で道行く見知らぬ人々に向けて演説をして、焼身自殺する。

 

いかなる祖先の声か?
この私の声は同じ時には生きられない
頭と 肉体の声だ
わたしはもはや 一人の個の人間ではない
自分がいくつもの無限定の
事物として感じられる
我々の時代の不幸は
大いなる人間が存在しないことだ
我々の心の道は 影に覆われている
声は聴くべきではないか
無用と思われる声でも
脳がいかに下水道や学校の壁
アスファルトや福祉事業で詰まっていようと
虫の羽音も入れるべきではないか
我々の目に 耳に
おおらかな夢の一端が
見えて 聞こえて よいではないか
ピラミッドを創ると だれかが叫ぶべきなのだ
実現する しないは 大事ではない
大事なのは夢をはぐくみ
我々の魂をあらゆるところで
果てしなく広がるシーツのように
のばしてやることだ
世界が前を向くことを望むなら
手に手を携えるべきだ
混じり合おう
いわゆる健全な人も
いわゆる病める人も
健全な人よ
何があなたの健全さなのだ?
人類の目は崖っぷちを見つめている
転落寸前の崖っぷちを
自由に何の意味があろう?
あなた方が我々を正視する心を持たず
我々とともに食べ ともに飲み
ともに眠る心がないなら
いわゆる健全な人々が
この世を動かし
破局のふちに来たのだ
人間!
聞いてくれ
君の中の水よ!
火よ!
灰よ!
灰の中の骨よ!
骨よ!
灰よ!

…どこに生きる?
現実にも生きず
想像にも生きぬなら
天地と新しい契約を結び
太陽が夜輝き
8月に雪を降らせるか
大は滅び去り
小が存続する
世界はふたたび一体となるべきだ
ばらばらになりすぎた
自然を見れば分かることだ
生命は単純なのだ
原初に戻ろう
みんなで
道を間違えた所に帰るんだ
戻らなければならない
生命のはじまりに
水を汚さぬ所にまで
なんという世界なんだ
恥を知れと
叫ばねばならないとは!

…母よ
母よ
空気は こんなにも軽く
顔にそよいで
微笑めばいっそう澄んでいる

 

 ところで冒頭にあげた新聞記事を、チェルチェルスク地区の村人たちの言葉を受けて筆者は、次のような問いで締めくくっている。「ペットボトルで水を買ったとき、僕たちはどこに水を還せばいいのだろうか」 「いのちを宿す」水を還せないということは、私たちの魂が還っていく場所もまた、すでに存在しないということだ。そして私たちはもはや何処にも還すことのできない水を金を出して買う。まさに狂気に満ちた世界だ。タルコフスキーの映画の中の「愚者」の言葉を、私はもういちど呟いてみる。

 

健全な人よ
何があなたの健全さなのだ?

 

2002.1.13

 

*

 

 NHKのテレビで「対論“テロ後の世界”を読む」という番組を見る。イタリアの大学教授であるアガンベンという人の話はなかなか興味深かった。ひとつは古代のギリシア人がかつて人間の生を身体的な生と政治的な生とのふたつに分けて考えていたという話をベースに、ナチス時代のユダヤ人の強制収容所や現在の難民キャンプでの極限的な環境においてはこれが混在してしまっている、そしてその図式は奇妙なことにわれわれの現代の生活にも当て嵌まる、という話。もうひとつは「古典的な国家間の戦争」が幕を閉じた現在、国家は市民の生活を守るという命題の下に無制限な警察国家へと変貌する。もともと重農主義から派生した Security という言葉は、法や道徳によって秩序を打ち立てるのではなく、無秩序なところへ介入してそれを支配するという性格を有している。つまり「グローバル化した世界的内戦」において、国家は支配のために目に見えないテロリズムという口実を常に必要とする。そんな話である。

 今日は午後からひとりで愛車の250ccに跨り、東大寺三月堂の本尊・不空羂索観音像をこっそり見てきた。新年が明けたばかりの穏やかな連休とあってか、奈良公園も大仏殿へ至る参道も多くの家族連れやアベックたちで賑わっていた。それでも石段をすこしばかり登った二月堂・三月堂のあたりまで来ると人の姿もややまばらだ。私は仏に祈らない。これまでまともに祈ったことがない。せいぜいぺこりと挨拶代わりにお辞儀をする程度だ。ひんやりとした本堂に入って、いつも私が空想するのは、これらの仏たちがまさに造られたときの風景、人々の新鮮な心の風景だ。仏教という、ある意味でひとつの膨大な宇宙論のような世界認識に接して、当時の人々が畏れ戦慄した精神が、その驚きを混沌から捏ねあげこの世の形象に仕上げた。それが仏像というものだ。私はそのように理解している。もともとブッダの時代には、仏像など存在しない。祈るとすれば、仏という人格的な存在にでなく、それらの精神の振動に時代を超えて向き合うのだ。そうして30分あまりも凝視して、わが身をそんな空想に遊ばせ、やがてぺこりと軽く会釈をして光の地上へ出ていく。天平時代の作というこの不空羂索観音像は、がっしりとした体躯ではじめ、まるで不動明王のようだと思った。羂索(けんじゃく)とは狩猟の道具を指し、「羂」は獣を捕らえる網、「索」は釣り糸を意味し、菩薩がそれら慈悲の網や糸であますところなく衆生を救う姿を表している。この仏は、どこか危うげに前方へとその巨躯を傾いでいる。傾いだ姿勢のまま宙吊りにされている。急いているのだ。この地上にあまりに不幸な顔の人々が多すぎるから。やがてこの世界から人間たちが消え失せた後、宙吊りにされた巨体がどうと倒れ、粉々になった身から華厳の種子が散らばりまた新しい生命を産み出していく。それもいいだろう、と私はひとりごちた。

2002.1.14

 

*

 

 朝から雨だったので、ベビー・カーを連れたつれあいを案じてこどもの病院へ同行する。世間ではバリアフリーが流行でも、実際に駅にエレベーターが設置されていないところはまだまだ結構ある。様々なこども用品を持った母親が、しかも雨傘を持ち、長い階段をベビー・カーを抱えて上り下りするのは、実際なかなかにしんどいものだ。ベビー・カーを連れて外出するとときどき不思議に思うことがある。たとえば駅に設置されたエレベーターだが、年寄りはともかく若い女の子まで乗り込んで、そのためにこちらは(あるいは別のベビー・カーを連れたお母さんなどが)一台見送る羽目になる。何のためのエレベーターか、と思うのだ。若い連中など歩いて階段でもエスカレターでも上りゃいいじゃねえか。いまからそんなに楽ばかりしてたらすぐにボケ老人になっちまうぞ、と私は言いたい。おじさんの私だって、ひとりのときはエスカレターは使わずにせっせと階段を上る。それから電車の乗り降りのときでも、とかく時間に追われて生きている現代人はせわしなく、ベビー・カーなどまるきり眼中にないのか、ベビー・カーをけっ飛ばされたり後ろからどつかれたりして危ないので、大抵はいちばん最後になってしまう。だから混んでいるときはまず座席には座れない。ときには(稀に)気遣ってくれる人もいるのだけれど、それでも肩身の狭い思いがする。ベビー・カーや、あるいは車椅子の人間などは常にスミマセンスミマセンと呟いて列の後ろでしおらしくしてなくてはいけないのだろうか、と思う。以前にこれは私とこどもだけのときであったが、朝の通勤ラッシュの時間帯に乗り合わせて、「こんな混んでいるときにベビー・カーなんか乗せるな」と一人のサラリーマンのオヤジに怒鳴られたことがあった。勿論こちらだって混雑した電車に乗りたくなどないのだが、病院の時間に間に合わせるために仕方のないときだってある。そしてそんなときはベビー・カーは折り畳んでこどもを抱っこすればいいのだろうが、これもタイミングが難しかったり荷物が多すぎて困難なときもある。私はそのとき即座に「テメエだって鼻水垂らした赤ん坊の時があっただろうがよ」とオヤジに言い返してやった。まあ、そんなわけで他にも色々あるのだが、ともかくベビー・カーを連れていると、またこれまでとは違った風景が見えてきたりしていろいろと面白い。腹が立つときの方が多いが、さりげない親切が嬉しく思えるときもある。男性諸君、ベビー・カーを連れて困っている母親がいたら、たとえ美人でなくてもなるべく手を貸してやってください。空腹の時にはおっぱいくらい飲ましてくれるかも知れない。昔、モーパッサンの短編にそんな話があった。

 赤ん坊は今日はリハビリの方はソツなくこなし、だいぶ集中力もついてきたし、お腹の筋肉も付いてきたようだ、と珍しくM先生からお褒めの言葉を頂いた。また脳外科のY先生のところに先日の知能テストの詳しい結果が届いていて、それによると三つの項目別のいわばIQに値するような数値がわが子の場合、運動能力=65、認識能力=109、言語能力=106で、これは90が標準で、100を超えたらかなり良い数字であるという。運動能力の65はやはり足の障害の影響で仕方のないことで、これからリハビリ等で戻してゆけばよい。むしろその他の認識能力と言語能力は平均以上の良い出来映えなので、その点については安心してくれていい、というY先生のお話であった。ちなみに前に触れた療育施設の件も、Y先生がリハビリのM先生に訊いたところ「必要ないんじゃないか」という返事であった、と。

 病院のロビーでいつものようにお昼を食べ、天王寺で私はひとり職安に立ち寄るために別れたのだが、還りに駅ビルの書店に立ち寄ったら、近鉄を覗いてきたというつれあいと偶然再会して、結局三人でいっしょに帰ってきた。文庫版の「フランチェスコの生涯」とデュラスの「破壊しに、と彼女は言った」を探したのだが、どちらも無かった。また先日の新聞の書評に載っていたローレン・アイズリーというアメリカの人類学者の哲学的エッセイ「星投げびと」も欲しかったのだが、これは三千円もするのでまた仕事が決まったときに買うことにした。電車の乗り換えのときに、駅前の撤去予定のマンションの裏から一匹の野良猫が出てきた。近寄ってきて、私のズボンに盛んに顔をすり寄せる。通りがかった喪服姿のオバサンが、この猫は誰に対しても引っ掻きにくるのに、こんなふうになついているのは初めて見た。顔をすり寄せるのは匂いを付けているのですよ。きっとやさしい人だというのが分かるんでしょうね、とひどく感心していつまでも立ち止まっていた。赤ん坊がその様子をとても喜んで見ているので、しばらく親子三人でその場にしゃがみ込んでいた。あの野良猫はきっとオーデンの熱心な読者に違いない。

2002.1.15

 

*

 

 こどもが早く寝たので、ひさしぶりに二人で映画を見た。山田洋次監督の「学校4」。不登校の15歳の少年が家出をして、ヒッチハイクで屋久島の縄文杉を見に行く話だ。良い作品だった。オーソドックスだが、良い映画だった。つれあいが、少年はどこか私に似ている、と言う。

 それから、とてもつまらないことから彼女とひどい言い合いになった。私は彼女を殴り殺し、赤ん坊を刺し殺してじぶんも死んでしまいかねないほどに激高する。私はじぶんがきっと気狂いなのだと思う。聖者の衣にすがりつくが、実際は悪魔の手を握っているのだ。

 ひとり起きて、ルー・リードの Tatters という曲をリピートで繰り返し聴いている。すべてが粉々のままで立ち去るのは悲しい、すべてが粉々であるのを見るのは悲しい、という歌だ。

 トラック一杯分の大きな穴が開いている。夜の川面に使用済みのコンドームが浮かんでいる。それって、愛らしいと思わないか。

2002.1.16

 

*

 

 暴力は森の中に巣くっている。「破壊しに」では、暴力は森の中に巣くっているにちがいない。だけどね、「破壊しに」では、アリサとシュタインは、愛し合いにゆくとき、森に行くのよ。

 

 映画「トラック」では、ある暗室で、デュラスとジュラール・ドゥパルデューがテクストを読んでいる。霧のかかった、見わたす限りの麦平原がスクリーンに映し出される。遠くにトラックが現れ、スクリーンを横切ってゆく。デュラスが、オフの声で語る。

彼女は言っただろう、私の頭の中は、目眩や叫び声でいっぱいだ。
風でいっぱい。
だから、時々、たとえば、書く。何ページもね。

( 間 )

あるいは眠る。

マルグリット・デュラス

 

2002.1.17

 

*

 

 明日はひさしぶりに野迫川倶楽部、Keiさんたちのログ・ハウスづくりの手伝いに行くことになった。今回は杉の伐採と皮むきがメインとなるそうな。うまい山の空気を吸って、フキノトウのテンプラを食って、ふやけた肉体を少しばかりいじめてくる。早朝に三重から同行する友人が車で迎えに来るので、今夜は早めに寝ておく。

2002.1.18

 

*

 

 安っぽい女たちはジャラジャラと鳴る玩具(おもちゃ)が大好きだが、冬の森(しん)と張りつめた空気のなかで、美しく倒れる一本の樹が放つ悲鳴は、実際のところ本物の金(きん)の声だ。まだ聴いたことがなければ、ぜひ聴くといい。大昔のブッダのことばのような清らかな放物線を描いて、樹は、威厳を湛えて誇らしげに倒れる。まるでアフリカの大地の上に巨象が弊れるように。そうして人間どもの不自由さを圧殺する。山の樵(きこり)たちはそんな悲鳴を何千本も、腹にためて樹を伐る。

2002.1.19

 

*

 

 夕食はスーパーで買ったサンマの開きのほかに、Keiさんのところで頂いたおからをシイタケ・人参・切り干し大根といっしょに炒り煮し、また西吉野の特製の油揚げを油と砂糖・味噌で炒めた。

 昨年の秋に伊賀上野の忍者屋敷で知り合った日系ブラジル人の家族から、ブラジルのチョコレートとブラジルを紹介したビデオ等の小包が届いた。3歳になる可愛いハーフの女の子がいる家族だ。前にいちどだけ電話がきたのだが、夫婦とも日本語がままならないので手紙代わりのプレゼントなのだろう。日系二世の旦那さんは仙台・埼玉・名古屋を経て、いまは伊賀上野の城跡に近い工場で働いている。

 昨日の山仕事は楽しかった。「疲れるけど、気持ちがいい」と帰りの車の中で友人が言い、「心が気持ちいい。身体は疲れるけど、心に余計なものが残らない」と私が付け加えた。チェーンソーで切り目を入れた木がメキメキと音を立てて地面に倒れるさまは、ほんとうに厳かな瞬間だ。

 まともな仕事が「経済」として成り立たない。いったいどちらがおかしいのか。10年、20年をかけて育った身を地面に突っ伏す木か、秒単位で加速していく経済のシステムか。冷たいプラスチックの歯車になるくらいなら、うち捨てられてただ腐っていくだけの間伐材の方がいい。俺はそれでいい。枯れ葉に埋もれて野暮な夢を見続ける。

2002.1.20

 

*

 

 あの9.11のテロが起こり、アメリカによるアフガニスタンへの空爆が始まってから、この人の意見 (いま何を感じ、何を考えているのか) を聞いてみたいという人間が私には幾人かいたが、作家の辺見庸はその一人であった。今日、NHKの夜の番組でその辺見庸の出演した「アフガニスタンをめぐる対話」と題された対談が放送された。相手はタリバン政権下でのアフガニスタンを題材にした映画「カンダハール」を撮り、あのバーミヤンの石仏が破壊されたときに「石仏は破壊されたのではない、恥のために自ら崩れたのだ」とコメントした、イランの映画監督マフマルバフである。二人の対話は、あたかも深い川の流れのようで、私はそのすべてに共感できた。世界にはあまりにも過剰に語られ過ぎていることと、あまりにも少ししか語られていないことがあって、それはひどくバランスを欠いている。メディアは常に満腹の人間の痛みしか語らない。辺見庸は最近訪れたアフガニスタンで拾ってきたというアメリカの最新型の殺傷爆弾の破片・溶解し歪んだ金属の塊を新聞紙の包みからひろげて見せ、これが数キロ四方に渡って至る所に散らばっていた、これがタリバンの兵士やアルカイダだけでなくアフガニスタンの一般の人々・老人やこどもたちの肉体を貫いたのだ、と語る。誰も言っていないことだが、もし今後おなじ状況下でどこかの国がテロリストを匿ったとしたら、アメリカは、たとえばそれがイタリアやドイツであっても空爆をするのだろうかという疑問が残る、と言う。それから二人は、あのニューヨークでの衝撃的な映像が喚起したハリウッド映画について語った。辺見庸が語る。自分はあれを見たとき、これを計画した者はよっぽどハリウッド映画に毒されている、と思った。作曲家のシュトックハウゼンが「あれは最高の芸術作品だ」と語ったけれど、私にはそれほど上等のものではないという思いがある。ついでマフマルバフが語る。映画は鏡のようなもので、あれはハリウッド映画が産み出してきた暴力が写されたものだ。ハリウッド映画は人生に大切なものを何も描いていない。人々はポップコーンを食べ、コカ・コーラを飲み、やがてハリウッド映画のように思考するようになる。二人が口を揃えて言ったのは、こんな言葉だ。人間の存在というものはハリウッド映画やブッシュの言うような悪と善の単純な図式ではない、それはもっと複雑で、もっと深いものだ。マフマルバフの言ったこんな言葉が忘れられない。「人間性があるとしたら、恥ずべきことだ」 かれのある作品はやはりアフガニスタンからの難民が主人公で、その初老の貧しい男は死にかけた妻の治療費を稼ぐために7日間眠らずに自転車に乗り続けるという見せ物に挑む。まだ幼い息子が車上で朦朧としている父親の顔を悲鳴をあげながら叩く。この映画はすべてのイラン人が見たというほどの大ヒットになったという。私はなぜか唐突に思ったものだ。こんな腐りきった日本より、たとえブルカを着てもイランの人々の方が本物の魂を持ち、本物の映画に感動する心をいまだ持ち続けている、と。最後にマフマルバフがこんなふうに締めくくってくれた。「芸術と現実の間に線を引くことはできない」 かれは思慮深い遊牧民の末裔の詩人だった。いつかあれらの国々を訪ねてみたくなった。

2002.1.21

 

*

 

 昨日はリハビリ。つれあいは帰ってくるなり「今日はたった15分で終わってしまった」と。M先生が来るまで彼女は机の上に玩具を乗せてこどもを遊ばせていた。やがて先生が来て、こどもを椅子に座らせて足を触り始めるがすぐに嫌がって降りてしまう。そのうえ隣で別のこどものリハビリが始まって、紫乃さんはそちらも気にかかる。M先生は何度か「お母さん、椅子に戻させてください」と言ったそうだが、じぶんから降りた椅子にこどもを固定させておくことなどそうそう出来るものではない。それでM先生は、もうこれではリハビリは出来ないから今日はやめにしましょう、と宣言してお終い。あとで隣のこどもの両親が、きつい言い方ですねぇ、なんかちょっと癖の強い先生みたいですねぇ、と同情してくれたそうだ。つれあいの話では、何やら前の患者の時間が長引いたとか少々トラブルがあったようで、はじめから機嫌が悪そうだったらしいのだが。彼女は最初、話しながら涙声になってしまったのだが、話し続けているうちに落ち着いてきた。わざわざこの寒い冬空の下をベビー・カーをついて電車をいくつか乗り継ぎ病院へ着いたら、あんたのこどもはじっとしてないからもう帰ってくれ、と言われる。しかしわずか1歳4ヶ月のこどもが、果たしてそんなふうに大人の思惑どおりに動いてくれるものなのか。そんな赤ん坊がいるのなら見せて貰いたいものだ。M先生は確かに優秀なリハビリ医なのかも知れないが、私も彼女もときどき首を傾げてしまう。私たちだってなるべく彼の意に添うように言われたことは家で一生懸命心掛けているのだ。足首のマッサージも欠かさず、お腹の筋肉が弱いと言われれば腹筋をさせ、歩行器に似せた玩具も買い、集中力が足りないと言われれば玩具を変え遊び方を変え、育児書を何冊も読み、食事の時にはテレビを消し、少しでもリハビリの足しになればとプールや体操教室にも通わせ、いったいこれ以上何をしろというのか。3分とじっとしていられないのが本来こどもの自然体であって、遊んでいる最中に余計な身体の部分を触られれば嫌がるし、よそのこどもが傍で遊んでいればそちらに行きたくもなる、それを何とか工夫し誤魔化しながらやるのがあんたら医者の技術ではないのか。もちろん親の私たちもできることであるなら何だって協力しよう。だがこどもを長時間椅子に縛り付けておくような魔法までは使えない。来週は彼女に代わって私が連れて行こうと思う。できることなら余計なもめ事は避けたいのだ。紫乃さんの足のためにも。

 赤ん坊は今日ははじめて「パン」という言葉を発した。語彙は急速に増えている。それからこれは良い兆候であってくれたらと思うのだが、これまで薬や浣腸を使わなくては出なかった便が、今日も含めて6日間続けて薬を飲まずに毎日数回づつ出続けている。これは手術以来はじめてのことだ。同じ病気の人たちのHPのBBSやメーリング・リストなどを見ていると、中学生になった女の子が学校で粗相をして周囲に臭いと言われたなどという話もよく見る。歩行障害も大変だが、泌尿器や直腸障害も生理的な日々の行いであるだけに影響はとても大きい。願わくばこれが排便の神経の回復を示したものであってくれたら、と思わずにいられない。赤ん坊はこのごろは、これはつれあいが教えたのだが、「ヨーイ・ドン (ジョーイ・オンと聞こえる)」とじぶんで掛け声をかけて息遣いも激しく這っていき、壁に手をつけて「たっち」と言う遊びが流行りである。

 

 ところで作家の池澤夏樹氏がかれのメール・マガジンで、前述したイランの映画監督の作品「カンダハール」を見た映画館で買ってきたというマフマルバフの著書について触れているので、そのくだりをここに転載しておく。

 

 映画館で彼の著書を売っていたので買いました。

 本の方はもっと直接的に、具体的に、アフガニスタンの惨状を訴えます。

 長いタイトルが、この本の内容を雄弁に説明しています──『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(刊行は現代企画室、定価1300円+税)。刊行されたのは2001年の初め、つまり9月11日の前、全世界がアフガニスタンに注目する以前のことです。

 マフマルバフは映画制作者になる前にまず作家になった人物ですから、文章がうまい。簡潔に真実を伝えるのがうまい。これを書く前に1万ページの資料を読んで勉強したと言っていますが、その成果をわずか150ページの中に見事に要約している。

 このような、エッセンスだけを収めた本は、書評者の立場から言うと、実は紹介しにくい。それ以上の要約は不可能だからです。こういう本はさわりを引用するしかない。英語でいうところの quotable な本の典型です。

 二か所だけ引きます──

 「このレポートを最後まで読むには、一時間ほどかかるだろう。その一時間のあいだに、アフガニスタンでは少なくとも一二人の人びとが戦争や飢餓で死に、さらに六〇人がアフガニスタンから他の国へ難民となって出ていく。このレポートは、その死と難民の原因について述べようとするものである。この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」

 「私は、ヘラートの町のはずれで、二万人もの男女や子どもが、飢えで死んでいくのを目のあたりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れている。ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の干魃である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本女性(訳注 緒方貞子氏)もこの二万人のもとを訪れ、世界は彼らのために手を尽くすと約束した。三カ月後、イランのラジオで、この国連難民高等弁務官の日本女性が、アフガニスタン中で餓死に直面している人びとの数は一〇〇万人だと言うのを私は聞いた。

 ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。」

 この部分を読みながら、ぼくは最近、バーミアンの磨崖仏を復元するプランがあるという記事を読んだことを思い出しました。恥辱の思いで自ら崩れ落ちた仏像は、恥辱の事態が解消されないかぎり、ただのコピーに過ぎないだろう、というのがぼくの感想です。

新世紀へようこそ 067

 

 もうひとつ。私と友人が参加した先日の野迫川でのログ・ハウスづくりの模様は、更新されたKeiさんのサイトにて。

2002.1.23

 

*

 

 雪印食品がストックしていた輸入牛肉を秘密裏に国産牛肉の箱に詰め替えて処理していた事件は、言ってみれば何も雪印一社だけに限った問題でもないだろう。人の食い物を扱っているという「心」が脱落して、しょせん利益を追求せざるを得ない構造の中ではどこにだって起こりうることではないのか。今朝はつれあいがいつも見ている「はなまるマーケット」で「何とかうさぎ」とかいう、ブランド物漁りとホスト通いで莫大な借金をしてそれをネタに書いた本がいま売れているのだという女がゲストで出ていて、まあ結構面白いオバチャンだったけれど、結局は誰もが心の奥底にそんな欲望があって、でも怖いからほどほどのところで自制していて、代わりにじぶんの身代わりを覗いて馬鹿だなぁと笑ったりそれでいてどこか密かに共感したりして、それがタマタマ受けているってな程度のものだろ。戦後の焼け野原からがむしゃらに働き続けているうちに、この国は、どこかでふいと道を誤ってしまったに違いない。がむしゃらに働き続けて、気がついたら残ったのは歪んだ個人の欲望だけ。信仰心も共同体のモラルも自然への畏怖の感情もどこかへ置いてきてしまった。家族を犠牲にして、ひたすら身を粉にして会社に身を捧げてきた父ちゃんたちがわが子に残したのは、そんな欲望だけだった。その一点に限るならば、「この国にはセックスと欲望しかない!」と叫んだオウム信徒に私は心から同調する。そしてこの俺にしたって、そんな欲望にすでに骨の髄まで浸かっちまっている。

 

 夜、たまたまかけていたテレビで、常習犯の飲酒運転のトラックに激突されて幼い娘を二人失った母親の番組をつれあいと二人で見た。この母親は強い。無惨なわが子の遺体を正視できなかった彼女は、後に自分のこどもたちがどのように殺されたのかを知らなくてはいけないと思い、検察側に談判して死亡時の生々しい写真を見せて貰う。そして黒こげの遺体から僅かに色の薄い部分を見い出し、これがオムツの交換のときに何度も拭いた尻の一部だ、これが私の首にまわされた腕の一部だ、じぶんはずっとこれが見たかったのだ、と得心し救われる。それから「過失」による上限5年の刑法に疑問を抱いて署名運動を始め、やがてその努力が法務省を動かし上限15年にまで法律が改正される。じぶんは二度ともとの自分にはどうやっても戻れない。それでも変わっていくじぶんを認めてやりながら、じぶんはこれからも生きていく。そしていつかあの世に行ったとき、ママは頑張ったね、と死んだこどもたちに言われたい。これもまた彼岸へ逝った者と、残された者とののっぴきならない対話だ。ときに生者は、死者のために生き続ける。自らに問い続ける。

 

 今日はトム・ウェイツをひとつ訳した。静謐だが、こころ騒ぐ哀しいバラッドだ。もちろんこの素朴な曲は、ここ数日間の私のハートを代弁している。旅暮らしの人生の合間にいつも柴又の寅屋に還っていく寅さんのような歌だ。

 

うちの近所に
棄てられさびれた一軒の家がある
住人たちがそこを出ていったのは
もうずい分、昔のこと
荷物をすっかり運び出して
かれらは二度と戻ってはこなかった
窓という窓が割れて
まるでお化け屋敷のようなその家を
みんなは“住み人知らずの家”と呼んでいる

かつてはそこに笑いがあり
かつてはそこに夢もあった
やつらはそれをぽいと捨てちまったのか
それがどんな意味か分かっていたのだろうか
誰かの心が引き裂かれたのか
それとも誰かが誰かに何か間違ったことをしでかしたのだろうか

そこら中のペンキはひび割れて
壁から剥がれ落ちていた
おれの立っていたポーチは
紙くずの山
生い茂った雑草は
ほとんどドアの高さまで伸び
煙突や古いタンスの引き出しには
鳥が巣をこさえていた
この“住み人知らずの家”には
もう誰も帰ってくる者はいないらしい

かつてはそこに笑いがあり
かつてはそこに夢もあった
やつらはそれをぽいと捨てちまったのか
それがどんな意味か分かっていたのだろうか
誰かの心が引き裂かれたのか
それとも誰かが誰かに何か間違ったことをしでかしたのだろうか

だからもしあんたが
ふさわしい誰か、抱きしめる誰かを見つけたなら
たとえ金や銀を積まれても
交換しちまったらいけないぜ
おれはこの世の宝をぜんぶ持っている
そいつは素敵なものだし、良いものさ
それらがおれに、家なんてものは
たんなる木の作り物だと教えてくれる
家を立派にするのは
屋根やドアじゃない
家の中に愛があれば
それはぜったいに宮殿だ

だが愛がなければ
それは“住み人知らずの家”にすぎない
そう、愛がなければ
それは“住み人知らずの家”にすぎないのさ

Tom Waits ・House Where Nobody Lives ,1999

 

2002.1.24

 

 

 

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