■日々是ゴム消し Log14 もどる

 

 

 

 

 アパートの通路にしゃがんでプランターのバジル(ハーブ)の種を収穫する。二鉢のうちの片方を、一房づつ押し出してこどもの玩具の器に落とすと、だいぶの量になった。来年はこれで苗を買わずに済む。一部を一歳半の女の子のいる隣のMさん宅へあげる。ところで親類宅から株分けしてもらった山椒の葉が、蛾の幼虫の芋虫にやられてほぼ全滅してしまった。割り箸で引き離して広告の紙に乗せ、殺すには忍びなかったのでまとめて隣接する草むらに放った。

 木原さんの日記にご教示いただいていそいそと覗きに行ったのだが、宮崎学の Web サイト「事態は信じられんぐらいアホらしい方向に暴走しとるな」はなかなかおもろかった。こういうとき大阪弁は妙味があって、ごっつエエ感じや。おなじく妖精現実 フェアリアルの「アフガニスタン - 縛られた手の祈り」も読み応えがある。通読している村上龍のメールマガジンでも先日、緊急レポートが届けられたが、忙しくてまだ目を通していない。

 夕べはこどもを寝かし、さてつれあいと夫婦交歓を始めようかという直前に、野迫川倶楽部のKeiさんからお電話を頂いた。週末開拓民と称して、ご夫婦で高野山の麓・奈良の野迫川村の土地にログ・ハウスや農園をつくり田舎生活を堪能している。実は私のマック・ドクターであり、有能な株使いであり、紫乃さんのパトロンでもある四日市在住の友人が、株価低迷のこの時期に赤ん坊の退院祝いをしてくれるということで、今週末は赤ん坊の一歳の誕生日に因んで私の母親が泊まりに来るため、来週末にどこか県内の寺で懐石料理でも奢ってもらおうかと話していたのだが、ふと気が変わって、前からお誘いを頂いていた野迫川村へひさしぶりに山の空気を吸いに行こうかと思いたったのである。Keiさんいわく「紫乃ちゃんに会えるのなら、都合なんてあるものですか」との有り難いご返答。というわけで現在友人の返事待ちだが、来週の土曜日は、あるいは野迫川村のどこかで立ち小便でもしてるかも知れない。

 赤ん坊の宮参り以来すっかりご無沙汰している飛鳥の藍染織館・館長氏より、「蕎麦振舞」と題したお誘いの葉書が届いた。

 

 

蕎麦振舞 2001年9月30日(日)

草木塔“息吹式”10:00〜 神社
産霊舎“呱々式”11:30〜 当館
蕎麦振舞    12:00〜 当館

--出欠のお電話をいただきたく思います--

 

 鈴木正彦記念飛鳥土鈴館が完成しました。ご恩返しと思っています。いつか鈴木先生の収集した13000点の土鈴の館を作らねばと思い続けてきました。漸くかたちになりました。小竹さんの写真館も。藍染館開館から7年目のことです。

 神妙、不可思議。昨夏大阪の老舗の料亭から巨根飛来。時を同じくして巨鈴も。鈴は民間信仰では女陰。時機の絶妙さに館を一願成就の、産霊舎(むすひノや)と名付けました。

 二基目の草木塔が古社の境内に立ちました。田原本の花田さん夫婦のお力をかりてです。山形の千歳さんが一基目の時と同様全て段取りをして下さった。字は植松弘祥さんの書。女神を祀るお社らしくたおやかな書体です。

(写真割愛)

 

2001.9.19 深夜

 

*

 

 赤ん坊は病院でリハビリと装具の型どり。お掃除のおばさんが手作りの毛糸編みのぬいぐるみを赤ん坊に呉れた。夜、新幹線で着いた母が奈良市内のホテルから来て、明日は一日レンタカーを借りて岩船寺・浄瑠璃寺あたりをまわることになった。

 友人のN嬢より次のようなメールが送られてきたので、紹介しておく。

 

 

こんにちは。

今回のテロ事件が起こってから、恐怖と悲しみと怒りの混ざった、落ち着かない感情で過ごしています。人間が、情報操作によって、正気を失い、人殺しへと駆り立てられていく弱さ、そして、それを止められず、ただ見ている私の存在の無力さに途方にくれています。

しかし、人間の感情が、政治に利用されることはどうしても許されません。まず、今、私に出来ることとして、私の信頼する皆さんに、このメールを転送します。

以下の文は、できるだけ広範囲の方々に読んでもらいたい、ということですので、 他の方にも紹介して下さい。

                        ○尾 ○子

 

 

こんにちは。アメリカでの同時多発テロ以降、アメリカによるアフガニスタンへの報復攻撃も間近に迫り、情勢は緊迫しています。すでにお読みの方もおられるかと思いますが、以下のメールが送られてきましたので転送します。この件に関する情報交換ができればと思っています。情報をお持ちの方、お送りいただければありがたいです。

河○子

以下、転送メールです。

****************

マスコミは、報復戦争を当然とするような論調で組まれていますが、インターネット通信で、このような戦争に反対する世論を高めていきましょう。送られてきたアフガニスタンからの手紙を転送します。一人でも多くの方に読んでいただきたいとのことですので、紹介します。

国連難民高等弁務官カンダハール事務所で働いていらした方−千田悦子(ちだ・えつこ)さんという方の手記を紹介させてください。

千田さんは、国連難民高等弁務官カンダハール事務所で仕事をしていましたが、オサマ・ビン・ラディン氏をかくまっているとされるタリバンの本拠地へのアメリカの軍事行動などの危険性が出てくる中、一時的に勤務先をパキスタンに移転するという措置で、「避難」をしていますが、その緊急避難の最中にしたためた手記です。

 以下、千田さんの手記です。

***********

報道機関の煽る危機感

9月12日(水)の夜11時、カンダハールの国連のゲストハウスでアフガニスタンの人々と同じく眠れない夜を過ごしている。私のこの拙文を読んで、一人でも多くの人が アフガニスタンの人々が、(ごく普通の一人一人のアフガン人達が)、どんなに不安な気持ちで9月11日(昨日)に起きたアメリカの4件同時の飛行機ハイジャック襲撃事件を受け止めているか 少しでも考えていただきたいと思う。テレビのBBCニュースを見ていて心底感じるのは 今回の事件の報道の仕方自体が 政治的駆け引きであるということである。特にBBCやCNNの報道の仕方自体が根拠のない不安を世界中にあおっている。

 事件の発生直後(世界貿易センターに飛行機が2機突っ込んだ時点で)BBCは早くも、未確認の情報源よりパレスチナのテログループが犯行声明を行ったと、テレビで発表した。それ以後 事件の全貌が明らかになるにつれて オサマ.ビン.ラデンのグループの犯行を示唆する報道が急増する。その時点でカンダハールにいる我々はアメリカがいつ根拠のない報復襲撃を また始めるかと不安におびえ、明らかに不必要に捏造された治安の危機にさらされる。何の捜査もしないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単に パレスチナやオサマ・ビン・ラビンの名前を大々的に報道できるのだろうか。そしてこの軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。

 1998年8月にケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件があった時、私は奇しくも ケニヤのダダブの難民キャンプで同じくフィールドオフィサーとして働いており、ブッシュネル米国在ケニヤ大使が爆破事件の2日前ダダブのキャンプを訪問していたという奇遇であった。その時も物的確証も無いまま オサマ・ビン・ラデンの事件関与の疑いが濃厚という理由だけでアメリカ(クリントン政権)はスーダンとアフガニスタンにミサイルを発射した。スーダンの場合は、製薬会社、アフガンの場合は遊牧民や通りがかりの人々など 大部分のミサイルがもともとのターゲットと離れた場所に落ち、罪の無い人々が生命を落としたのは周知の事実である。まして 標的であった軍部訓練所付近に落ちたミサイルも肝心のオサマ・ビン・ラデンに関与するグループの被害はほぼ皆無だった。タリバンやこうした組織的グループのメンバーは発達した情報網を携えているので、いち早く脱出しているからだ。前回のミサイル報復でも 結局 犠牲者の多くは 子供や女性だったと言う。

 我々国連職員の大部分は 今日緊急避難される筈だったが天候上の理由として国連機がカンダハールに来なかった。ところがテレビの報道では「国連職員はアフガニスタンから避難した。」と既に報道している。報道のたびに「アメリカはミサイルを既に発射したのではないか。」という不安が募る。アフガニスタンに住む全市民は 毎夜この爆撃の不安の中で日々を過ごしていかなくてはいけないのだ。更に、現ブッシュ大統領の父、前ブッシュ大統領は 1993年の6月に 同年4月にイラクが同大統領の暗殺計画を企てた、というだけで 同国へのミサイル空爆を行っている。世界史上初めて、「計画」(実際には何の行動も伴わなかった?)に対して実際に武力行使の報復を行った大統領である。現ブッシュ大統領も今年(2001年)1月に就任後 ほぼ最初に行ったのが イラクへのミサイル攻撃だった。これが単なる偶然でないことは 明確だ。

 更にCNNやBBCは はじめからオサマ・ビン・ラデンの名を引き合いに出しているが米国内でこれだけ高度に飛行システムを操りテロリスト事件を起こせるというのは大変な技術である。なぜ アメリカ国内の勢力や、日本やヨーロッパのテロリストのグループ名は一切あがらないのだろうか。他の団体の策略政策だという可能性は無いのか?

 国防長官は早々と 戦争宣言をした。アメリカが短絡な行動に走らないことをただ祈るのみである。

 それでも 逃げる場所があり 明日避難の見通しの立っている我々外国人は良い。今回の移動は 正式には 避難(Evacuation)と呼ばずに 暫定的勤務地変更(Temporary Relocation)と呼ばれている。ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろうか? アメリカは隣国のパキスタンも名指しの上、イランにも矛先を向けるかもしれない。前回のミサイル攻撃の時は オサマ・ビン・ラデンが明確なターゲットであったが 今回の報道はオサマ・ビン・ラデンを擁護しているタリバンそのものも槍玉にあげている。タリバンの本拠地カンダハールはもちろん、アフガニスタン全体が標的になることはありえないのか? アフガニスタンの人々も タリバンに多少不満があっても 20年来の戦争に比べれば平和だと思って積極的にタリバンを支持できないが 特に反対もしないという中間派が多いのだ。

 世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センターやハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から死を悼み 無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、アフガニスタンにも たくさんの一般市民が今回の事件に心を砕きながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々がいる。世界中で ただテロの“疑惑”があるという理由だけで、嫌疑があるというだけで、ミサイル攻撃を行っているのは アメリカだけだ。世界はなぜ こんな横暴を黙認し続けるのか。このままでは テロリスト撲滅と言う正当化のもとに アメリカが全世界の“テロリスト”地域と称する国に攻撃を開始することも可能ではないか。

 この無差別攻撃や ミサイル攻撃後に 一体何が残るというのか。又 新たな報復、そして 第2,第3のオサマ・ビン・ラデンが続出するだけで何の解決にもならないのではないか。オサマ・ビン・ラデンがテロリストだからと言って、無垢な市民まで巻き込む無差別なミサイル攻撃を 国際社会は何故 過去に黙認しつづけていたのか。これ以上 世界が 危険な方向に暴走しないように、我々も もう少し 声を大にしたほうが良いのではないか。

 アフガンから脱出できる我々国連職員はラッキーだ。不運続きのアフガンの人々のことを考えると 心が本当に痛む。どうか これ以上災難が続かないように 今はただ祈っている。そしてこうして募る不満をただ紙にぶつけている。

千田悦子    2001年9月13日 筆

 

2001.9.20

 

* 

 

 予定を変更して、母がかねてより行きたがっていた三重県の伊賀上野へ行って来た。レンタカーはヴィッツ、名阪を使って車で約一時間ほど。市内の上野公園に車を止めて、芭蕉記念館、忍者屋敷、そして城跡などの定番コースを半日かけて巡った。芭蕉記念館はごく小規模なもの、大学時代につれあいといっしょに学芸員の資格を取った知り合いが勤めているという。芭蕉、一茶、蕪村等を集めた古風なつくりの俳句カルタを紫乃さんに買った。忍者屋敷では忍者姿の男たちによる手裏剣や分銅を垂らした鎌を使った実践的アトラクション、外国の取材チームが来ていていつもより長い特別なショーだとのこと。昼は公園内で手打ちソバ、なかなかおいしかった。夜は奈良市内のホテルで洋風バイキングを食べ、JR奈良駅に近い別のホテルまで母を送り、9時頃に帰ってきた。

 上野公園を巡っている途中で、二歳の可愛らしい女の子を連れた夫婦とひょんなことから知り合いになった。Kさんはブラジルの日系二世で、父親は秋田の横手出身、母親は九州・福岡、異境の地で出会い伴侶となった。質朴とした、穏やかな瞳で話す。奥さんのジェニーさんは純粋のブラジル人、紫乃さんを何度も抱き上げて頬ずりしたり、裸足の赤ん坊を見て「靴下を買ってあげて」と言う。そして一人っ子のナツミちゃん、いつも家で母親と二人きりなので人見知りをするらしい。わずかな日本語はテレビの「おかあさんといっしょ」で覚えた。Kさんはややたどたどしい日本語ができ、奥さんは片言、私たちの言葉を時折Kさんがジェニーさんに母国のポルトガル語で通訳する。

 Kさんが日本に来たのは10年前で、主に自動車の組み立て工などで働きながら、宮城、群馬を経て、半年前にここ伊賀上野に来た。城の北側の石垣を指して「あのすぐ向こうに私の会社があります」と教えてくれる。だが最近の不況で「首を切られる人が多く」て、自分の仕事もこれから先どうなるか分からないと言う。ジェニーさんがつれあいに語ったところでは、宮城がいちばん人がよかった、群馬はダメ、そしてまだ来たばかりの三重もどうも人が合わない、という。10年を経てまだぎこちないKさんの日本語が、そのあたりの事情を静かに物語っているようにも思える。Kさんによると日本で暮らしているブラジル人は、現在20万人いるそうだ。父親の出身の秋田は前に訪ねて、親戚の者が「また遊びに来い」と言ってくれる。こんどは母親の故郷の福岡をいちど見に行きたい、とKさんは言う。日本の国をなるべくたくさん見てみたい。

 いっしょに撮った写真を送りますから、と住所を書いて貰った。すべてローマ字で、電話番号も添えてくれた。うちは奈良だと教えると、ジェニーさんは「知らない」と言う。隣の県だから近いです。車で一時間くらい。こんど遊びにきてください。そう言うとKさんは「電車ではどうやって行きますか?」と訊く。ああそのくらいなら、朝早く行って、少しのんびりできますね。それから他愛ない互いの子育ての話などをしばらく話す。うまく言えないが、この国の人間たちが忘れてしまった素朴で何の虚飾もない、自然でつましい家族の愛情のようなものを私はかれらに感じている。そしてそんな人々がこの国で住みにくそうに肩をすぼめているどこか寂しい風景を。

 陽気なジェニーさんは、紫乃さんはつれあいに「半分」似ている、私の母にも少し似ている、そして私を指して「お父さん、全然ないね」と笑って言う。母は何となく会話に入りそびれて、さっきから辺りを所在なげにひとり歩き回り退屈そうにしている。日系ブラジル人と聞いて私の頭には数年前のあの悲惨なエルクラノ君の事件のことが浮かんだが、話題が重たくなるのを無意識に避けた。別れ際、とうとう最後まで私に抱っこをさせてくれなかったナツミちゃん(つれあいはOKだった)が、ブラジル風の(?)投げキッスの挨拶を返してくれた。ちいさなあたたかい家族の姿が、石垣の向こうへ消えていった。

 そうそう、今日は赤ん坊の一歳のバースデイであった。つれあいの前の職場の同僚だったO嬢から、たくさんのクマさんで賑わう「飛び出す絵本」のようなお祝いのカードが届いた。赤ん坊は歓声をあげて、カードの隅に付いているハッピー・バースデイの曲が流れるスイッチを押せ、といくども私に要求してやまない。大人たちの都合で近所の店に頼んであるケーキは明日、つれあいの両親と私の母たち“ババ・バカ”が一堂に会し、私と赤ん坊の華麗なる水中競技を披露したあとで用意される予定、である。

2001.9.21 深夜

 

*

 

 私が独裁者になったなら、きっとあの冷血なロベスピエールのように、孤独と怯えから多くの罪のない人々を殺戮することだろう。私がいなくなったなら、きみのその苦しみがどれだけ軽くなるか知れない。かつても、そしていまだって、ぼくがきみにあげられるものなど何もない。自分のために残っているものさえ、もう何もないほどだ。彼岸花が田舎道に、まるで切り取られた心臓のように咲いている。きみのもとを去ってから、ぼくは工事現場や港町やいかがわしい場所で働きながらぼろぼろになってしまった。いまは地下鉄の通路で、ひとりの爺さんと暮らしている。夜になれば、ぼくらは砂をまかれて追い立てられる。夜の中を彷徨いながら爺さんが言うんだ。「いい夢を見ようと思っちゃいけない。きっと裏切られるから」 こんな夜にチャボが歌っていたよ。「一人の寂しさならば 飲んだくれて眠るさ / 二人の寂しさだから かなしばりさ」と。ああ、そうだ。神さまよ、どうかこのぼくらを裁かないで欲しい。たとえぼくが無差別に人を殺してしまった死刑囚だとしても。ぼくの心は怯懦で、あなたのくれる荷は背に重い。誰も、そうしたいと望んで墜ちていくわけではないのです。そして誰だって、過去に笑いかけることはできても、昔にあと戻りすることはできない。ぼくを裁いて欲しい。処刑台でこの首を括って欲しい。風を感じさせて欲しい。解き放して欲しい。私はロベスピエールのように人を殺すだろう。そのおなじ腕でぼくはきみを抱くだろう。昨日はアルミ缶を集めてしのいだ。今日は一日、風に吹かれて立ちつくした。サラリーマンが夕陽の中を帰っていくよ。雲が彼岸花のようにまっ赤に染まっている。田舎道で揺れているあの花をぼくは想い出している。きみの涙が空に滲んでいる。激情にかられて、壊れるものなら壊れてしまえ、とぼくは思ったのだった。ロベスピエールのように、ぼくはきみの魂を窒息させるから。

 

浮き沈みの毎日に 励まし合うことばも
口から出た時にゃ からいばりさ

一人の寂しさならば 飲んだくれて眠るさ
二人の寂しさだから かなしばりさ

またひとつふみこたえ またひとつのりきって
いつか笑える日まで いまいる日々を

今日のところは 何もかも忘れて
飲み明かしたところで 苦酒さ

黙りがちの暮らしに お前は腕をからます
慰めだとしても 深い絆さ

またひとつふみこたえ またひとつのりきって
いつか笑える日まで いまいる日々を

仲井戸麗市・いつか笑える日 1997

 

2001.9.23 深夜

 

*

 

涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出ていく者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

(旧約詩篇・126-5,6)

 

すべての眼から流れるひとしずくの涙が
永遠界で赤児となる。
その児は輝かしい女性に捕らえられ
みずからの歓びへと還される。

(ブレイク・無垢の占い)

 

2001.9.24 深夜

 

*

 

 今回、HPの内容を大幅に縮小することにした。理由のひとつは、今後のリハビリを含むこどものためになるべく時間を割きたいということである。医師が言うには「何もしなければ歩けない」、そして「親がリハビリの先生にならなくてはいけない」 具体的な例を挙げればこの頃つかまり立ちを頻繁にするようになったこどもは、そのたびに反り返った足首を直して彼女が立ち続ける間は固定してやらなくてはならない。その他、インターネットに関して言えば、こどもの病気のための情報収集やメーリング・リスト等で費やす時間も少しづつ多くなってきている。言わずもがなの当たり前のことだが、それらのことに比べたら、このHPの運営などまったく屁の如きものに過ぎない。もうひとつのオマケ的な理由は、これは前々から感じていたことだが、悪しき惰性への自己嫌悪と、同じ事だが己の表現をこのような形で公開することへの懐疑との、いわば妥協である。要するに手間のかからない、そしてつましい、シンプルな形にしたかったということだ。

 これまでも主にそうであったが、形の上でも、今後は「日々是ゴム消し」への記述をメインに据えたいと考えている。書評と音楽評は、どちらも私の拙い生活と切り離せないという意味で当然「ゴム消し」の範疇に入るものであり、最近流行の吸収合併することにした。ある奇特な方のメールによるひょんないきさつで成った「BobDylan対訳集」は、おそらく期待してくれている方はごく少数だと思うのだが、これは私の趣味的分野としてささやかながら続けていきたいと思っている。また「男のレシピ」は、私自身の実用的メモとしても活用しているので残す。親バカ丸出しの「Oh Baby」は、当初は廃止を考えたが、身内や友人たちを含めて楽しみにしている方々も多いので、とりあえず続けることにする。いわゆる世間の保守本流というやつで、こうしたものには逆らわない方がよい。

 以前にも書いたと思うが、私は自分のHPが間違っても一日に千人もの人が訪れたり、雑誌で紹介されるようなものにはなってもらいたくないと思っている(ま、言わずともそんなことはないと思うが)。多くの人をもてなすには、私はいたって愛想がない。むしろ私の偏狭な人間関係と同じく、月にひとりくらい私と同じようなしょぼくれた価値観を持て余した誰かがぶらりとやってきて、ああこんなところに、Webの膨大な情報にほとんどさみしく埋もれるように自分と似たようなしょぼくれた奴がいる、と微笑む。そんなのが私の理想である。

 改造に当たって、デザイン面も含めてシンプルな構成にふさわしい紙面にこの際、一新したいと考えているのだが、まあその辺は折を見てぼちぼちと変えていきたいと思う。

 というわけで、引き続きご愛顧のほどを。

2001.9.25

 

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 今日も些細な言葉のすれ違い。私は作りかけていた昼のうどんを思わず鍋ごと流し台に叩きつけて、バイクに乗って家を出た。夜、11時を過ぎても寝ようとしない赤ん坊を抱きあげて、ビートルズの I Will を子守唄に囁く。「一生待ってもいい。きみがそうして欲しいのなら、ぼくはそうする」という歌だ。あの頃と何が変わってしまったの、おしえて、私が変わったの? と彼女は聞く。腕のなかで、赤ん坊は安らかな寝息を立てている。

2001.9.25 深夜

 

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 紫乃さんの足につける装具ができあがってきた。実に生々しい。足の型をとってつくる別注品のため一足で8万円もするが、一時立て替えで、健康保険から7割、乳児医療から残り3割の全額が、後日役場より返還される。

2001.9.27

 

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 夜更かしの癖がついている赤ん坊を抱いて、子守唄をうたう。Morrison のあの狂おしいアイルランドの調べ、Carrickfergus、Raglan Road (ひとりになるのはさみしくて、ふたりでいるとくるおしい)、それから「わたしのヴィジョンであれ、わが内なる神よ」と歌われる Be Thou My Vision。「わたしの胸当てであれ、闘いの時の剣であれ、わたしを守る鎧であれ、わたしの力であれ」 そうして、眠りに入っていく赤ん坊のやわらかなぬくもりを全身で感じながら、私は「こどもより親が大事」という太宰のことばを呟いてみる。相反しているようだが、私には太宰の気持ちがいま分かるような気がするのだ。こどもより親が大事、と思いたい。そう言って顔をそむけたかれの背中は、しかしじっと動かない。何の変哲もないある晩、夕食の席で父が何かを話していて「そうだよな、○○」と私の名を呼んだ。反抗期だった私は「知らねえよ」とひとこと答えて、それが父との最後の会話になった。翌日、かれは暴走車に追突されて即死した。人生というものは、たぶんそんなふうに回転している。後悔や悲しみというものさえ、道化の似姿に過ぎない。ひとは死ぬ。あたりまえ過ぎることだが、ひとはいつかほんとうに死ぬ。「誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき、心で憶念している状態に必ず移る。常に思っていることが死に時に心に浮かぶ」というインドの古典・バガヴァッド・ギータのことばはきっとほんとうだと私は思っている。静かに寝息をたてる赤ん坊の身体をそっと布団の上にうつすとき、私のなかに得も言われぬ悲しみが一瞬、よぎる。

2001.9.28

 

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 土曜日。友人のO氏の車で奈良県野迫川村に野迫川倶楽部のKeiさんKiiさんご夫婦を訪ねた。堺の市場で仕入れてきたという大きなカンパチをメインにした魚しゃぶをはじめとしたご馳走の数々と酒盛り。おまけに紫乃さんに絵本のプレゼントまで頂いて、まったく恐縮の極みである。私は感謝の気持ちを伝えるのが不得手な人間だ。仕事の事故でいまもリハビリを受けているというご主人のKiiさんは、私の書く赤ん坊の入院記にどれだけ励まされたか知れないと仰る。紫乃さんをまるでほんとうの孫のように歓迎して頂いた。豪勢な昼餉がひとしきり済んでから、建設中のログ・ハウスや、まるで植物園か薬草園のごとき庭を丁寧に案内して頂く。ご主人のKiiさんと川向こうの余所の荒れ果てた檜の植林を見たり、渓流沿いのあけびの実を貰って頬張ったりした。こどもの絵本と赤毛のアンが好きでとてもハート・ウォームなKeiさんは宮城真理子、軽妙洒脱で妙味のある釣り好きのご主人Kiiさんはさしずめ井伏鱒二と勝手に見立てたい。夕方、倒木の切れ端が残るログ裏のきつい斜面をひとり登ってみた。立木の陰で予告通り立ち小便をして、標高700mの低い峰々に抱かれた、まるで隠れ里か桃源郷のような敷地をしばし見下ろした。野迫川倶楽部の詳細は写真も豊富なKeiさんのページを参照して頂くとして、私はとにかく食事の最中も会話の途中でも、山の端とその空気をいくども見上げた。金と暇と業者にまかせた、私の嫌いなタイプのお気楽な田舎暮らしでない。うまく言えないが、KeiさんKiiさんご夫婦の生き方と価値観に根ざしたただ純粋に自分たちのための表現の場なのであり、それはここでは木を倒し、皮を剥ぎ、チェーンソーで削り、チェーンで巻き上げ、あるいはユンボで大地をめくり、石を積みあげ、水をひき、あるいは土を耕し、さまざまな果実やハーブや土地の固有種の植物を夢を見るようにひとつづつ植えていくことなのである。私はその確かな手応え、絶対の即物性とでもいったようなものがとても羨ましかった。私はといえばただ世間に背を向けて、形のないもの、触れることのできぬもの、自分でもわけの分からぬものを、チンケな頭の中でひねくり回して嘆息して生きているに過ぎない。ここにいると真理というものは人でなく、人が自然の中で石をころがしたり、芋虫を踏みつぶしたり、雲行きを気にして空を見上げたりする単純自明な行為の中にあるのではないかとすら思えてくる。

 今日は珍しくこどもが早く寝てくれたので、ずいぶん昔に私が録画して放っていた中国の映画「紅いコーリャン」のビデオを夜、つれあいと二人で見た。圧倒的な映像美。風に揺れるコーリャン畑の、人間の悲しみや運命さえ呑み込むリアルな存在感。臓腑をえぐられた。

2001.9.30

 

*

 

 今日はテレビをつけたらアフガニスタンと国境を接しているパキスタンの町で、武器商人と父親から銃の撃ち方を習う幼いこどもの姿が映った。生きるためにこどもたちでさえ武器を手にする国。だが日本のこどもたちだって、ひょっとしたら別の銃を手にしたいのかも知れない。「見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる ほんとうの声を聞かせておくれよ」とブルーハーツが歌っていた。こんなふやけた国より、「貧しい」アフガニスタンの方があるいは「ほんとうの声」があるかも知れない。新聞で建築家の安藤忠雄氏が今回の事件は「米国のスタンダードの押しつけによる経済至上主義や西欧文明と、非西欧文明の衝突ではないか」とまえおきをし、旅客機が突っ込んだ世界貿易センタービルは「同じ規格のスペースが積み上げられた構造で、経済合理主義の権化のようなビルだ。建築学用語で「均質空間」と呼ぶ。いわば米国流のスタンダードともいえる」と言っていたのが興味深かった。テレビの画面は続けて、こどもの未来のために闘うと言ってあどけない男の子の手をとるタリバンの兵士を映していた。金魚の糞よろしく何の思想もなくアメリカに追随して、法をねじ曲げてまで軍隊を送ろうとしている馬鹿げたこの国より、気持ちとしては私はかのタリバンの兵士の方がずっと近い。ヨーロッパの農民たちだって自国のマクドナルドを襲撃したのをもう忘れちまったのかい。私はモスバーガーの方が好きだけど、それより茶粥の方がもっと好きなんよ。日の丸は別にどうでもいいけどさ。

 テレビといえば、今日からあたらしいNHKの朝の連続ドラマが始まった。場所がいきなり熊野の山の中で、主役が池脇千鶴ちゃんときたら、私の好きなものばかりだ。もっともうちの赤ん坊は前の「ちゅらさん」の主題歌が大好きで、曲が始まると毎朝食い入るようにじっと聞いていたのが、こんどは歌なしですこしばかりさびしそうだ。

 今日はプールで、腰が痛いというつれあいに代わって私が参加した。浮き輪でひとり浮かび、きゃっきゃっと実に楽しげに、エビのように体を曲げて後ろへ押しだして進もうとする。コーチの先生も「わあ、すごい」と驚いていた。

2001.10.1

 

*

 

 赤ん坊の成長というものは実にめざましい。最近はこちらの言うことがある程度分かってきたようで、「お風呂行こう」と言うと嬉しそうな顔をするし、動物写真の絵本を教えて「ペンギンさんはどれ?」と尋ねればちゃんとその箇所を指指す。大人のやることをじっと観察していて、すぐに真似をして扉でも箱でも容易に開けてしまう。バイバイはもちろん、いただきますやありがとう、いい子いい子、手を口に当ててアバアバの仕草などもできるし、イナイイナイ、ハイッタハイッタなど、こちらの言うことも真似をする。自分に扱えない道具はこちらに差し出してきて「やれ」と要求する。スプーンの上から自分の好きなものだけを口でかっさらおうとする。新奇な体験に出くわすと「ほうっ」と大げさな驚きようをして、それを何度もくりかえす。そんなこんなで、見ていて実に飽きない。その分、こちらの愛おしさも増幅するというものだ。

 数日前、つれあいの以前の職場の同僚のOさんから、赤ん坊の誕生祝いに岩崎ちひろの可愛らしい絵皿が届いた。遅ればせながら今日はお礼の電話をしたのだが、生憎Oさんは仕事で不在で、電話口に出たOさんのお母さんとつれあいはしばらく話をしていた。Oさんのお母さんはこのHPを通してずっと赤ん坊のことを心配してくれていたらしい。「ほんとうにあんなに可愛い子が」と一気呵成に喋り出して、応じるつれあいも途中から涙混じりであった。「神様はいると思うから、きっと歩けるようになるに違いない」 Oさんは幼い頃に父親を亡くして、母親がひとりで育てあげたのだった。

 実は同じ職場の元同僚のNさんが折しも出産間近で、つれあいが今日書いていたメールの一部を内緒でここに引く。

 

>出産を間近に控え「健康であれば」と思う反面、どんな重い病気であれハンディ
> キャップであれ自分達の子供。天使に決まってる。甘いですかね?少しは母としての自
> 覚が芽生えてきたのでしょうか

甘くないですよ。ほんとかわいいですもの。かわいくて、愛しくて。
たとえ、ハンディキャップのない健康なだれかととりかえてあげようと言われても、紫乃さんでなきゃ絶対いやですものね。

だけどね、愛しいからよけいハンディキャップがあることが、情けなく思えてくるんです。
代わってやれるものならって本気で思いますもの。
この子のこれからするであろう苦労をすべて私が引き受けてやれたらって。
健康で生まれてきても誰にも苦労はあるんですから、それだけで十分です。

○○さん、健康な子を産んでくださいよ。
健康が1番!!
健康でさえあれば男の子、女の子なんて小さな問題です。
どちらでもみんなかわいい。

紫乃さんはね、ハンディキャップはあるけれど、あまりの元気さとひょうきんさでそんなことを忘れさせられてしまうほどです。

 

 つれあいはよく人に己の健康を問われて「私がいなかったら、この子は歩けるようにならないから」と答える。それはほんとうにその通りで、彼女はそれこそ自分のすべてを日々赤ん坊のために費やしている。私なぞはこんな駄文を綴る時間があるだけ余裕があるというものだ。

 ところでMacのトラブルでメール・アドレスを消失したことなどもあって長らく音信不通であった、前掲のアフガン・レポートを送ってくれた友人のN嬢に宛てて、私は最近ひさしぶりにメールを送り、赤ん坊のことなどを知らせた。N嬢は通信の大学時代の友達で、生まれつきの障害者で車椅子の生活をしており、数年前から障害者の人たちでつくる劇団に参加していて、9月末にベルリンで公演をする、とあった。その彼女からこんな返事が届いた。

 

こんにちは。
久しぶりに近況が聞けて、うれしかったです。

> わが家の近況ですが、実はこどもが二分脊椎という脊髄の先天的な病気であることが
> 判明し、

おお!!それは、すばらしい。
「障害を持って生きる!」っていうのは、なかなかにエキサイティングで楽しいですよ。
この社会では、障害者は、まだまだ受け入れられていない状況で、「障害は無いほうが良い」という優性思想の考え方は根強いものです。
しかし、この優性思想の考え方は、障害者だけではなく、結局は、すべての個性を排除する思想で、優性思想が蔓延している限り、誰にとっても、この社会は生きづらいものなのだと思うんです。
短絡的な戦争を引き起こすのも、この(一見)強者の論理です。
障害を持つことは、この優性思想と、真っ向から対立することを余儀なくされ、しんどい部分ももちろんありますが、その分、生きることの意味、社会を変えていく楽しさ、そして、自分の中にある力を感じることが出来ます。

残念ながら、すべての障害者が自分の障害を肯定し、優性思想と闘おうと思っているわけではありません。
この社会の中で、自分の障害を肯定するためには自分一人の力では、とても難しいからです。
優性思想と闘うというのは、社会の優性思想と闘うことのように思えるかも知れませんが、一番、大切なのは、自分の中に根付いてしまった優性思想と闘うことなのです。
その点、子どもの段階で、優性思想の社会のからくりを知り、障害をもつ自分を肯定できるようになれば、これほど、強いことはありません。
まずは、「障害を持って生まれてきたことが決して間違いではないこと」を、まわりの大人たちが伝え続けることが大切だと思います。
そうして、自分自身の存在を肯定できたらさえ、人間は、どんな状況の中でだって、自分で生きていく力を持って生まれてきてるんですから、大丈夫です。
きっと、自分もまわりの人間も大切にしながら、必要ならば社会を変えながら生きていく、頼もしい大人に成長することでしょう。

> つれあいはまだこどもの「障害」を認めたくない、というか事実を呑み込むことがで
> きず、よく夜中に「可哀相だ」と泣いています。

障害児をもつ親の心理として、当然、そういうのもあるでしょうね。
泣けるだけ泣いたら良いと思いますよ。
泣きつづけたら、いつか、どこかに辿り着くでしょ。

> それで(といったら失礼なのかな?)何かえっちゃんとも久しぶりに話したいなあと思っ
> ていたのでした。

ぜひぜひ、会って話しましょう。
○○さんとも、お子さんとも会いたいです。

> また気が向いたら、近況などしらせてください。

私は、24日の月曜日から、ドイツへ行きます。
26日、27日、28日の3日間、ベルリンで劇団態変の公演があって、10月1日に帰国予定です。
今度の作品は、まさしく、優性思想をテーマに取り上げたものでどういう反応が返ってくるのか、楽しみでもあり、心配でもあり、といったところです。
まぁ、私に出来るのは、私のベストを舞台に乗せることだけなんですけどね。

 

 京都の学舎ではじめて出会って以来、もう15年近い長いつき合いになるが、私は彼女のいつも前向きなその姿勢と精神に敬服してきたものだった。彼女の言うことはまったく本当のことで、私たちの脳味噌を入れ替えなくてはいけない、ということである。だが私はまだこのメールをつれあいに見せていない。あるいは、見せることができない。

 いつも将来的な病状の話になると、つれあいは赤ん坊の足が治るのではないかというあてのない希望を語り、私はそれを戒めて、彼女の期待に添うような返事をあえてしない。希望も必要だが、覚悟も必要なのだ。つれあいが希望にすがる分、私はあえて逆の方向に重しを乗せておこうという判断が働く。つれあいはそんな私の答えにいつも不満そうだが、それでいいと思っている。二人とも手放しで希望にすがってしまえばバランスが崩れてしまう。いま彼女の気持ちは「障害といかに向き合うか」ではなく、その前段階としての「障害からいかに逃れるか」というところにあって、必死に心の均衡をこらえている。

 腹を括ったと思っている私だって、まだ分からない。目隠しをして括っているだけなのかも知れない。ぎこちなくびっこをひいて歩くわが子の姿を、頭の中から追い出そうとしている。どこかでそれ以上は考えまいとしている。

 つれあいがときどき赤ん坊を眺めて、こんなことを言う。ずっとこのまま小さくて可愛いままでいてくれたらいいのにねぇ。そうしたら歩けなくてもいいし、オムツをしていてもおかしくないのに。そのたびに私は苦笑して否定するが、だが私も気がつくとそんなふうに思っているときがあるのだ。

2001.10.2

 

*

 

 昨夜は筑紫哲也氏のテレビのニュースで狂牛病騒動についての特集を見た。農水省の大臣がご出席あそばしていろいろ答えていたのだが、まったくあの手の連中ときたら毎度の居直りと韜晦と自己宣伝と頭の悪さで辟易する。いつまでもあんなぼんくらに政治を任せておいてはやっぱりいけないよ。あんなのが「先生」なぞと呼ばれてふんぞりかえっているのだから、世の中やっぱりどこかおかしい。倒産する中小企業の社長の方がもっと優秀なんじゃないの。ニュースではアメリカのテロ事件の陰にやや隠れがちだけど、狂牛病、タイヘンです。しばらく前に、うちのお米を送って頂いているすずき産地さんの掲示板に「牛肉、大丈夫? ヨシノ屋はやめとこか」なんてことを書いたら、生産者の立場であるすずき産地さんからは「う--ん。風評被害っていうのはこんなふうに広がるのかなあ」と釘をさされてしまったのだけど、その後も焼却処分した牛が実は肉骨粉になっていたとか、肉骨粉の輸入はある時期からしていないはずなのにイギリスの方に300トンも送った書類が残っているとか、本来は危険な部位は使わないから大丈夫と言っていた肉処理の過程もどうも怪しい部分もあるとか、いろんなほころびが出てきて、どうもこれは先のエイズ感染被害にも似て、もっぱら杜撰な行政による「人災」の色も濃くなってきた。結局、お役所の方で「ノー・プロブレム」なんて言われても、インドの物売りの決まり文句と同じようにこちとらはなかなか信頼できないのだよ。ヨーロッパの研究で危険部位以外の肉や牛乳はOKとされているそうで日本の行政も水戸黄門の印籠のように盛んにそれを繰り返すけど、それだって本当に長いスタンスでの影響を観察しなきゃ誰にも分からないんじゃないのかな。これはまったくシロウト考えだけれど、そもそも草食性の牛を経済的な効率のために共食いをさせてたのが結局は巡り巡ってこんな因果になってしまったんじゃないか、と私などは思う。これも自然を勝手に搾取/操作してきた人間の自業自得かも知れなく、その意味ではきっと私たちみんなにその責任の一環があると思うのだが、とりあえず人間様の「あほ代表」としてあのぼんくら大臣の脳味噌がスポンジのごとくなるのを見てみたい。え、もうなってるのも同然だって? いくら私でもそこまできついことは言いませんがな(思ってても)。

2001.10.4

 

*

 

 朝からつれあいは赤ん坊を連れて病院のリハビリへ。昼の1時に戻ってきて、私がつくっておいた昼食を30分でかき込み、こんどは2時からのスイミングへ。というわけで木曜は病院とプールが重なるので慌ただしい。今回の医師の話では、だいぶ良い状態になってきてはいるが、まだ足首の横っ腹で立つ癖があり、それを矯正しないと脳がその部分を足の下だと認識し固定してしまうので、立たせるときは装具をしっかり足首まで密着させて練習するように、とのこと。

 ダイエーのホークスお疲れさまセールでレコード屋の平台、500円均一CDのなかに Bessie Smith の17曲入りベスト盤を見つけて買って帰る。そういえば Basement Tapes のなかに The Band 演奏のイカした同名曲があった。ベッシー・スミスのもとへ帰ろう、という哀愁に満ちたナンバーだ。Nobody knows you when you're down and out はレノンのブルーな Nobody loves you when you're down and out の源泉だろうか。すべての良き音楽はこんなふうにバトンを手渡していく。時代を超えて、おなじ魂がおなじ悲痛に呻く。おれは(わたしは)生きてここでこうして感じている、立ちつくし顫えている、だがおれは(わたしは)ぜったいに跪いたりなどしない、してやるものか、と主張している。けっして懐古趣味などでなく、古い時代の音楽というのは何故、こんなにリアルで力強いのだろう。おそらくいまよりずっと真実が見えていたのだ。脳味噌をかきまわす煩雑なものが少なかったのだ。生命(いのち)の力そのものがシンプルで、自明のものであったのだ。そして誰ひとり、そのことを疑わなかった。

 12歳で自殺したある少年が確かこんなふうな詩を遺していた。

 

じぶんのこころをちょうこくする
あらけずりに あらけずりに

 

2001.10.4 深夜

 

*

 

 えーとですね、突然ですが掲示板を変えました。ご迷惑をおかけします(って誰に?) これまではフリーのCGIを自分で設定して使っていたのだが、デザインを少々変更しようといじくっていたら何やら作動しなくなってしまったのである。えーい面倒臭いわい、と結局以前のニフティのレンタル版にもどすことにした。こう見えても私は根っからのアナログ人間なので、パーミッションの設定やら何やらと一定時間以上考えていると頭痛がしてくる。プログラマーなぞには絶対に向かないに違いない。余計な労力はなるべく省きたい。というわけで、一応ご報告まで。

 野迫川倶楽部・Keiさんのひとりごとにて、先日のわが家の訪問に関する記述。ほかにもイノシシ大奮闘の記事も。

 いま、村上春樹の「スプートニクの恋人」(講談社文庫) を読んでいる。国立大阪病院のかたわらに建っていた大村益次郎の銅像から司馬遼太郎の「花神」をすすめてくれた友人が、次はやはりおなじ著者による同時代の吉田松陰と高杉晋作を描いた「世に棲む日日」でも読もうかなあと言った私に、「坂の上の雲」/ 文庫版で全7巻をこれも面白いと持ってきてくれたのである。村上春樹はそのときのオマケで、友人が新幹線のホームで週刊誌代わりに買ったものだそうだ。で、私はこちらから読み始めた。

 ひさしぶりのハルキ節である。デビュー作の「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」あたりまでは好んで読んでいたものだが、中上健次に入れ込むにつれてあのドライな文体に反目するようになり、じきに離れた。村上春樹の都市を切り捨て、中上健次の土着を渇望したわけなんだな、あの頃の私は。で、今日は「スプートニクの恋人」の中のこんなさり気ないことばが残った。

 

 彼女にはまだあちこち寄り道をするための十分な時間がある。あわてることはない。ことわざにもあるように、よく育つものはゆっくりと育つ。

 

 たぶん私は土中に埋まっているジャガイモか何かの姿を思い浮かべたのだと思う。ジャガイモはたいてい1年で収穫されるものだけど、なかには何十年も土中に埋もれたままの情けない奴もいるかも知れない。そんなんで肉じゃがでもつくったら、それはそれできっと格別なんだろう、てなことをぼんやり考えた。

2001.10.5 深夜

 

* 

  

 あるひとが訪ねてきて、つれあいもこどももいる身なのにこれからの生活をいったいどう考えているのか、と私に質した。誰だってみなどこかで妥協して生きているのだし、間口を広くとったらそれだけ生きるのも容易くなるだろうに。世間のくだらない価値観と言うが、そういうあなただってその世間の一員ではないのか。そしてそのひとは、自分はともだちとして心配して言っているのだ、と言った。私はひとこと、そんなオマケつきの友情など自分は要らないし、誰かに理解して貰いたいとも思っていない、と答えた。そのひとは怒って出ていった。やさしい気持ちから少しばかり熱くなっていたから、帰りに事故でも起こさなければよいがと案じている。

 布団の中で、わたしたちはお父さんの価値観についていくよ、ねえ、とつれあいがじゃれている赤ん坊に語りかける。

 私はただ、己がいくども自問していることを人に言われたのが嫌だったのだ。

 ディランのあたらしいアルバムをヘッドホンで聴く。

 

いまも、そしてこれまでだって、わたしがきみにあげられるものなど何もなかったし
きみがわたしに売りつけられるものも、もう何も残っちゃいない
何でも言いたいことを言えばいいさ、どれも疾うに耳にしたことばかりだから

(Mississippi)

 

わたしはみんなの嘲笑の的になっているサリー伯母さんといっしょにいる
ほんとうの伯母さんってわけじゃないけれどね
生きている一瞬ごとが、何かとても汚い真似をしているように思う

(Sugar Baby)

 

 私はときに、実に容易にひとの気持ちを切り捨てる。そのひとが言ったように、どこか砂漠の岩窟にでもこもって、たったひとりで暮らすのが私には似つかわしかったかも知れない。消えてしまえと言われたら、私はいつでもそうしたい。

 この世にたったひとりでも、理解してくれる人がいたら、それでいい。だがそのひとりでさえ、必要でないときがある。

2001.10.6

 

*

 

 日曜はふたたび野迫川倶楽部さんを、こんどは私ひとり単車で訪ねて、ささやかながらログ作りの手伝いをさせてもらった。「させてもらった」というのは字義通りで、こう見えても私はログ作りなどこれまでまったくの未経験で、丸太の上に登りはじめて手にするチェーンソーや電気カンナ等の扱いをご主人のKiiさんに丁寧に教えて頂き、人様の家を不器用に切り刻んだのである。それにしてもチェーンソーなどはかなり重く、また怪我を案じて緊張するため、見かけよりかなり重労働である。そんなどシロウトの私の飛び入りで、かえって作業が緩慢になってしまったのではないかと恐縮している。それでも木を切るという行為は、何かひとの深い精神に根ざした有史以来の「快感」のごときものがあるのではないかと、ふと感じた。

 夜はふらりと立ち寄られた常連のJoeさんを交えて、早めの夕食となった。釣りと「バリバリ伝説」をこよなく愛し、NHK朝ドラの「ほんまもん」に深く感じ入り、夜ごと近所にできたキャバクラの女の子たちに「人生を語って」いるという、一見原田芳雄風だがどこかお茶目な私よりやや年輩のナイス・ガイである。ログ作りで出た杉の余り材で焚き火をし、炭を起こして手羽差しやウィンナーや野菜を炙り、ビールにワイン、熱燗を啜る。まわりは低い峰々に抱かれた漆黒の深い闇で、あるいは森の奥から狸や猪たちがこっそり、そんなニンゲンたちの宴を覗いていたかも知れない。ちらちらと暖かく燃え、ときに勢いよく爆ぜる薪のように会話は続き、野迫川を発ったのは実に深夜の11時であった。心地よさから、思いもかけず長居をしてしまった。夜の山は思っていたより冷え込み、停めていたバイクもすでに夜露で濡れている。持ってきた替えのシャツやカッパなどをすべて着込み、Keiさんご夫婦が心配してホカロンをたくさん体に張り付けてくれた。

 帰り道、熊野川沿いの国道の橋の上でバイクを止め、しばし静寂に包まれた川と深い山の影と玲瓏たる月を眺めた。こんなとき、ひとは何も考えることもない。ただ呼吸をするように感じるだけだ。深い闇と大地の存在を全身で受けとめて、陶酔する。かつて池原ダムで仰ぎ見た圧(の)しかかるような山の影もそうだった。ほとんど足もとをさらわれた。孤独だが、一人ではない。痛みを感じるが、それはやわらかに吹き抜けている。熊野(ここでは十津川や大台周辺を含めた広範囲な意に用いるが)の山塊が招(お)ぎ寄せる私のこの魂の同調とは何だろうか、といつも不思議に思う。ここは特別なのだ。妄想かも知れないが、あの魑魅魍魎の棲む山のすべての木々や腐葉土や吹き渡る風に私の魂の根っこがあるのだと思う。新宮から五条に至るこの険しい道を、闇に紛れてこれまでいくど走ったことだろう。このぐねぐねとした回廊を走るたびに、私は何か大きな存在に自分が抱かれているように感じる。だからがらんとした五条の町に出たとき、私は思わず落胆した。もういちど引き返して、このままあの熊野の山の闇の向こうへ消え入ってしまいたい、と思った。それから遙かな懐かしの下界・大和盆地の灯りを見下ろす葛城・金剛山の中腹をなぞって、家に着いたのはちょうど深夜の1時だった。

 山は異形のモノたちの住処である。だがひともまた、ときに異形の魂を抱えているのではないか。少なくとも私は時折、それらを渇望してやまない。

 

 赤ん坊は昨日から少し風邪気味らしく、鼻水が出る。数日前に何かの予防接種を受けたから、あるいはその影響もあるのかも知れない。今日はプールだったのだが、念のために休ませた。

2001.10.8

 

*

 

 とうとうアフガニスタンへの空爆が始まってしまった。ブッシュのおっさん、あんたはやっぱりこのHPを読んでくれてなかったんだね。午前1時半というから、奇しくも私が熊野川にバイクを止めてあの玲瓏たる月を眺めていた頃に「かれら」は出撃間近であたふたしていたというわけだ。

 確認しておきたい。ぼんくらで無力な教師のクラスに、先生の前では巧みに優等生のふりをしているいじめっ子とその取り巻き連中がいる。かれらのいじめかたは実に巧妙で陰湿なのだが、ある日、いじめられていた生徒のひとりがとうとう思いあまって背後から、いじめっ子を階段より突き落として怪我をさせた。さあ大変だ。ホームルームの時間にいじめっ子は包帯を巻いた片腕を大げさに振り回して、今回の事件の卑怯な手口と自らの正義を主張する。取り巻き連中はそうだそうだと意気込み、弱い層は怖くて何も言えず、中間層はまったくそのとおりだと思うかあるいは表向きだけとりあえず同調して、黙認を決め込んだ教師の前でいじめっ子を突き落とした生徒の弾劾裁判が始まる。つるしあげを食った形の「かれ」は、まったくもやしのようなひ弱な外見なのだが、目だけはするどい光を放っていじめっ子をじっと見据えている。私は今回の一連の事件は、およそそんな構図だと思っている。「ぼんくらで無力な教師」はさしずめ国連とでもしておこうか。そしてその場合、ただ階段の一件だけをとりあげて、被害者であるいじめっ子の主張する正義の側に立つか、卑怯にもかれを背後から突き落とした「悪行」の側に立つか、と二者択一を迫るのはあまりに粗暴な論理といわなくてはならない。

 「暴力は持たざる者の最後の武器じゃないか」ということばに含まれた「痛み」は、結局、「持たざる者」の側にしか分からないのだろう。分からないひとたちが「テロは酷い=かれらは悪人だ」という短絡的なことを善人ぶって宣う。「テロリスト」たちがアメリカと同じくらいの「暴力」を持っていたら、かれらだって何も好んでカミカゼみたいなチャチな真似はしまい。いわゆる先進国とおなじようにその「暴力」をちらつかせながら「ごく紳士的に」、ワインでも傾けながら優雅に「交渉」をしたことだろう。タリバンが麻薬の取引で資金づくりをしている、なんていう今朝のニュースで流れたイギリス首相の談話も同じこと。だからかれらはやっぱり悪者だとブレアのおっさんは言うわけだけど、多数の経済システムからつまはじきにされた者が金を稼ぐといったら、そんな裏家業しかないだろう。真っ当な商売をできなくさせた方にも責任の一環はあるんじゃないの。

 どこのチャンネルだったか忘れてしまったが、生物化学兵器の話題のひとつとして、3年前、アメリカがスーダンにあるテロリストと関係の深い生物化学兵器の工場を爆撃したという写真付きの説明があった。だが今朝の朝日新聞に載せられたある評論家の投稿では「米国は朝鮮戦争以来、ベトナム、イラクなど20カ国以上の国々に無差別爆撃を行ってきた。湾岸戦争当時、米軍がイラクに投下した劣化ウラン弾はどれほどの放射能被害をもたらしているか。続く経済制裁では、多くの子どもたちが栄養失調で死んでいる」とまえおきした後で、スーダンへの爆撃も「医薬品工場への誤爆」であり、次のように続ける「その結果、予防ワクチンが不足し、2万人の子どもたちが死んだことに、米国はどう責任をとるのか。米国こそ最大のテロ国家ではないのか」(北沢洋子・10月9日付朝日新聞) このようにマスコミの側が大本営発表よろしく、欧米の側に立った報道をそのまま垂れ流しているのも気になる点だ。だってそもそも今回のビンラディンくんの「犯罪」だって、悪そうなイメージばかりで、きちんとした証拠っていまだ何も提示されてないわけじゃないの。言ってみりゃあ、集団によるリンチに等しい。そんなんで盛り上がってるんだからさ、「文明国」とか「先進国」とか「法と正義と自由の国」とか言ったって、ちゃんちゃらおかしいんだよ。

 もうひとつだけ、同じ今朝の朝日新聞より、私の好きな作家で元共同通信の記者であった辺見庸氏の投稿の一部を紹介したい。もちろん私は、このかれの主張に心より同調するものだ。

 

 そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかも知れない。建国以来、200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下をふくむ、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。おそらく、われわれは、長く「米国の眼で見られた世界」ばかりを見過ぎたのである。今度こそは、自前の眼で戦いの惨禍を直視し、人倫の根源について、自分の頭で判断すべきである。米国はすでにして、新たな帝国主義と化している兆候が著しいのだから。

 今回の報復攻撃は、絶対多数の「国家」に支持されてはいるが、絶対多数の「人間」の良心に、まちがいなく逆らうものである。問題は、「米国の側につくのか、テロリストの側につくのか」(ブッシュ大統領) ではない。いまこそ、国家ではなく、爆弾の下にいる人間の側に立たなくてはならない。

(辺見庸・10月9日付朝日新聞)

 

 ついでだけれど、もしこの国に徴兵制があって、逃げる間もなく無理矢理に銃を持たされてアフガニスタンの前線まで連れて行かれたら、私はあるいは勝ち目のないタリバン側に寝返り「アメリカに死を」「天下分け目の壇ノ浦」などとわけの分からないことを叫びながら、竹槍を構え自衛隊へ突っ込むかも知れない。そして映画「明日に向かって撃て」のラスト・シーンのように滑稽にくたばる。どうせ死ぬんだったら、せめてそんな死に方がいい。

 しかし幸いにしてと言うべきか、あるいは不幸にしてと言うべきか、この国には徴兵制はない。そのうちにアホどもが制定してくれるかも知れないが、いまはまだない。だから私はロバート・レッドフォードのように死ぬことはできない。ではこの私に、いったい何ができるのだろうか。アメリカ大使館へ押しかけてプラカードを掲げるほどの情熱もないし、抗議のチェーン・メールを送ったりその手の掲示板で議論を交わすほどマメでもない。私はいつものように職安へ通い、赤ん坊のおむつを取り替え、夕飯の玉葱を刻む。そしてこの世界で何が起こり、何がなされていくのかをただじっと見つめる。目を背けず凝視する。それだけだ。それしかないように思う。

 

 赤ん坊は今日は国立大阪病院に隣接する大手前整肢学園にて泌尿器科の検診。おしっこが上手く採れなかったために導尿といって管を尿道に差し込んで採取した。ふつうはかなり痛いのだが、麻痺のためか泣きもしなかったそうだ。そして尿圧といって尿を押し出す力を測るための検査を12月初旬に予約してきて、治療はまたその結果次第である。

 今日は鼻水はだいぶ治まってきたので安心していたのだが、代わりに咳が多くなってきて、夕刻の6時5分前頃に熱を測ったところ37度5分あったために、慌てて6時までの近所の医者に連れて行って診て貰った。数日前より風邪が特に流行っているらしい。私とつれあいも少々その気味がある。

2001.10.9

 

*

 

 こどもとつれあいが寝静まった深夜に、ディランの Masters Of War の歌詞を辞書を片手に訳す。湾岸戦争のときに、ディランはこの曲をテレビで歌った。だからこんどは私が、この曲の詩をひそかになぞってみる。かれはいまごろ、何を思っているだろう。かつてあの国で、かれの Blowin' In The Wind がいくど唱和されたことか。あのときのあのひとたちは、みなどこへ行ってしまったのだろう。人間はそんなものさ、とかれはさびしく答えるかも知れない。人間というものは移ろいやすく、そして愚かだ。ガス室でユダヤ人を殺戮したあとで、自室でモーツァルトの音楽を聴いて涙したゲシュタポを、きっと何人も非難することなどできないのではないか。こんな狂気と暴力の支配する世界で、どうやって生きていけるのだろう。愚かな爆弾の降り注ぐ遠いあの町にいた方が、いっそ眠れるかも知れない、と。明日でなく、今日を生きられない、というジミ・ヘンのブルースがあった。叩きつけるような、絶望的なビートが躍動していた。ミサイルがひとつ着弾するたびに、どこか気の抜けて平和な場所にいる自分が、透明になってかすれていく気持ちがするのだ。何が世界の裏側で、この狂気と暴力を支えているのだろうか。明日、私がスーパーのレジの前でつまみあげる硬貨の感触や踏んづけたキャベツの切れ端も、それらとどこかでつながっているのだろうか。

2001.10.10

 

*

 

 昨日は朝からつれあいは赤ん坊を連れて大阪の病院へ。リハビリ、脳神経外科、整形外科と一日がかりの診察。

 脳神経外科は月に一度の定期検診。赤ん坊は現在まで、ほとんど浣腸をしなければ便が出ない状態が続いている。直腸障害の神経は泌尿器とのそれと近いので、先日受診した整枝学園の医師にもその件を話しておいた方が良い、との助言。

 整形外科もやはり定期検診。医師の見立てでは膝の筋肉はだいぶ強くなってきたが、左足首を内へ反らせている筋肉もまた強くなっている。いざとなったらその強くなった筋を、足首を上下に動かす弱い筋と手術によって交換する方法もあるが、それはあくまで最後の手段である。家でもなるべく装具を長い時間付けた方が好ましい。

 そしてリハビリは先生が時間を都合してくれて、来週から月曜と木曜の週二回に増えることになった。月曜は木曜とおなじくプールの日と重なり、かなり慌ただしく、時間によってはプールが間に合わないこともあるやも知れないが、リハビリには代え難い。こちらもだいぶ立つのがしっかりしてきた、と言われた。足首の後ろの筋肉を伸ばすマッサージを欠かさないように、とのこと。

 おなじ二分脊椎で、琵琶湖の旅行にもいっしょに行ったKくんのお母さんからメールが来た。Kくんは脊髄の圧力を調節するシャントという人口の管を背中から脳にかけて通していて、入院中もその管が少し詰まりかけているという話だったのだが、やはり手術のために再入院することになった、と。やっと叶った家族三人の生活も、わずか二週間でしかなかった。頭部と腹部、背中を開けてシャントを交換しなくてはならないため、わずか生後半年のKくんは、また大手術になる。

 

 赤ん坊は最近、ますます“やんちゃくれ”になってきて親を手こずらせている。とにかく障害を抱えていることが嘘のように、活発なのだ。そしてこの天使は、親ばかと言われるだろうが、どこか不思議な愛嬌があって、いつも私たちを笑わせてくれる。いまはまだ、おそらく私たちも、病気の真の実状を知らない。それはきっと、ほんとうの意味でこれからなのだと思う。これから、私たちも、そして彼女自身も、たくさんの現実にぶつかり、悩み、乗り越えていくのだろう。私たちは、まだそれを知らない。

 この愚かでしかない父は、母と子が静かな眠りについた深夜に、隣室でひとりこんなふうにキーボードを叩く。そしてパソコンのスイッチを切ってから、そっと隣室の襖を開け、焼酎のお湯割りで火照った顔を近づけて、我が子の寝顔を眺める。ひとしきり、時にはずっと長いあいだ。

 今日は近所の中古レコード屋で、ウィリー・ネルソンが古いゴスペルのスタンダード・ナンバーばかりを取り上げた、ピアノとギターだけの How Great Thou Art (1996) というCDを見つけて買ってきた。その朴訥とした敬虔な歌声が、今宵は肌にまとった薄い絹のシャツのように胸に沁みる。

2001.10.12

 

*

 

 ひとが夢を見るのではなく、眠りのなかで夢が己を語るのだ、と思う。かつて在った全体性、失われた根茎を夢見るのだ。それを信じたがゆえに、わたしはこの世で失格者の烙印を捺された。が、その烙印はわたしのやわらかな臥処(ふしど)でもある。5世紀の写本に記録されている、こんなイエスのことばをきみは聞いたことがあるか。「ひとよ、もしあなたが自分が何をしているのか分かっているなら、あなたは祝福されている。だがもし分からずにいるなら、呪われており、律法にそむく者である」 わたしは自分が何をしているのかを知らない。ここからどこに行けばよいのかも分からない。実際わたしは、手綱をなくした哀れな騾馬のように途方に暮れているのだ。わたしを殺すものは、外部の敵ではなく、わたしの内部にある。傷つける矢はいつも、その内なる潜伏場より飛来する。「…焼き滅ぼす火、名状しえぬ恵み」 ある月夜の晩、わたしはゴッホのようにナイフで己の心の臓をえぐりとった。わたしはそれを両手にかき抱き、そして高々と、窓辺の皿の上に置いて供物のように月光に捧げた。わたしの目は涙で濡れていた。わたしは蛆虫のように美しい。気ぐるい気ぐるい、ということばに追われて、わたしは山へ走った。闇が濃い。植物が生理のときの女のような生温い息を吐いている。道の真ん中に、尖ったわたしの白骨がしらじらと刺さっている。微かに笑っているようにも見える。熊笹になかば覆われたその道を、わたしはひとりすすんだ。

 

真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道

(中村草田男)

 

2001.10.13

 

 

 

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