■日々是ゴム消し Log13 もどる

 

 

 

 

 生後二ヶ月のKくんのところが退院をして、入れ替わりに一歳八ヶ月のSくんが病室に入ってきた。水頭症で、知的障害があるらしい。頭の形もすこしいびつに歪んでいる。長男に続いておなじ病気であるという。だからもう何を聞いてもおどろかない、と言う母親は入院生活も手慣れているようで、また前述した今回の滋賀での交流会のとりまとめ役をしていて、夕方から行った私も詳しい話を伺ったのだが、ちょっとクセのある感じだなあという気がしていた。その感触は当たっていて、このお母さん、入ってきて早々つれあいに紫乃さんの病状を聞き、え、水頭症はないの? 二分脊椎なら大抵の子は水頭症を併発するものなのに、こんな言い草であったという。またRくんに対しては股関節脱臼を軽んじるような態度で、後でRくんのお母さんが廊下で会っても知らぬふりをされた、とか。

 つれあいは家に帰ってきてから、退院したKくんのお母さんが病院でも毎日小綺麗な格好をしていたこと、またお尻の湿疹に貼るテープをいつも花びらの形に切っていて、問われると恥ずかしげに「これも気分転換みたいなもので」と応えていたことなどを言い、自分たちはみなああした病気のこどもを抱えて、でもすこしでも明るく希望を持ってふつうに過ごそうと努めているのに、あのSくんのお母さんは深刻な病気の話ばかりで何だか聞いていると気持ちが暗くなってきて、滋賀の交流会も今年の夏は何にも思い出がなかったからペンションに泊まってバーベキューをして... って愉しみに考えていたのに、私、こんなのだったらもう交流会も行きたくない、と言いながら泣き出してしまった。

 私は、あのお母さんも二人目のこどももまたおなじ病気で、きっととてもショックだったに違いない。だから他の軽症のこどもは許せないという妬みもあるだろうし、逆に自分の背負った苦痛を歪んだプライドにしなければ自分が保てないということもあるのだろう。そういう意味ではあのお母さんも可哀相な人かも知れない。交流会でおなじ障害を持った人たちがおなじ気持ちを分かち合えるというのは幻想に過ぎないわけで、やはり色々な人がいるのだから、今回はちょっと覗いてみて、どうしても嫌な雰囲気だったら来年からは行かなければいい。それにああいうお母さんのような人ばかりでもないかも知れない。今後の入院生活に関しては、あまり無神経なことばかり言うようであるなら、私から婦長さんか、あるいは本人にきっちり言ってやるから心配しなくていい。何にせよ、くだらないことを言う奴に心を乱される必要はない。適当にあしらっておけばいい。そう言って、なだめたのだった。

 ところで明日はわがMacドクターの友人・O氏が四日市から車で来て、昼から私といっしょに電車で病院へ、紫乃さんの見舞いに来てくれる予定。赤ん坊はなぜかこの友人がお気に入りで、きっと喜ぶことだろう。同時にSくんのお母さんからの防波堤にもなろうというものだ。なるべく早めに行ってあげよう。

2001.8.17 深夜

  

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 病気も、最近世間を賑わす少年犯罪も、すべてご先祖様の供養が足りないからだと言う89歳のお婆さんに、売店近くの喫煙所でつかまり延々40分ほど話を聞かされた。高野山で遭遇した白い蛇も、朝のお勤めのときに目の前に坐していた仏様も、あるいは法華寺の秘仏開扉の翌日にぽろりと落ちた足のイボも、お婆さんにとっては紛うことなき真実である。天上の階段に坐した仏様をはっきりと見たから、いまはもう身・口・意をきれいさっぱりして、ただ静かな心持ちでお迎えの来る日を待っている、と言う。

 赤ん坊は友人に遊んでもらって大はしゃぎである。ベッドの友人の方ばかり頭を向けていた。親の顔も毎日でそろそろ飽いてきたか。つれあいだけ先に帰らせ、友人と二人でいつもの10時の電車で帰ってきた。ドゥルーズの話をするのだが、私自身まだ茫洋としたイメージでうまく説明できない。ただこんな哲学の講義なら、もういちど大学に入り直して勉強してみたいものだと互いにうなずきながら帰ってきた。林業への転職の夢を捨てきれない友人は、深夜の名阪道をさらに四日市へ向けて帰っていった。

 気がつけばすり足で、だが確実に、秋の気配。だが私の夏は、すこしだけ足取りも重たい。もうすこしだけ、この夏をひきずって歩いていこう。

2001.8.18 深夜

  

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 大型の台風が近づいているようで、朝から強風が吹き荒れている。夜の弁当に豚肉とニンニクの芽の炒めもの、もやし炒め、ポテトサラダ、キャベツの千切り、おにぎり4個をつくって病院へいく。夕方にK先生が回診に来て、明日から抜糸を始めましょうか、と言う。月曜から三回に分けて様子を見ながら糸を抜き、早ければ水曜には、すでに一月近くにもなるうつ伏せ固定がようやく解かれるかも知れない。現状では皮膚下での脊髄液の漏れもないようで、うまく接着してくれたと判断して構わないという。つれあいはうつ伏せから解放される日が間近になってとても喜び、もう一日中でも抱っこをしてあげると言う。私は、言葉が理解できたら「おい、もうあと三日の辛抱だぞ」と赤ん坊に伝えてやりたいものだ、と言ってK先生に笑われる。

2001.8.19 深夜

 

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 午前中、郵便局でこどもにかけておいた学資保険の説明を聞く。今回の入院に際して、(まだ加入一年未満のため僅かだが)お金が出るというのだが、果たして先天性の病気はその適用範囲かどうかが不明なのだ。センターに問い合わせたら、とりあえず入院証明書を提出してもらって判断材料とするというのだが、入院証明書を書いてもらうのも金がいるので、提出をしてダメだったら損をすることになる。私が直接センターに聞くからと連絡先を問うと、奥から局長が出てきて、加入時に病気の存在を知らなかったことが確認されたらまず大丈夫です、退院の時に証明書を依頼して、あとは何時でもざっくばらんに相談にきてください、こちらもなるべく良いようにフォローしますから、と言う。この郵便局では以前に杓子定規な証明書の提出に私が立腹したことがあって、局長氏はあのときのように直接センターへもめごとを持ち込まれるのを恐れたらしい。べつにそんなつもりじゃないんだがと思いつつ、今回は素直に従うことにする。

 10時半の電車に乗り、途中天王寺の王将で餃子弁当と麻婆豆腐丼弁当を買って病院へ行く。今日は昼からつれあいの両親が、また3時頃からつれあいの博物館時代の友人が見舞いに来てくれた。午前中に抜糸が行われた。等間隔に半分。赤ん坊はさいしょに一言、ほおっーと声をあげただけで泣かなかったらしい。残りは様子を見て明日か明後日に。

 台風が接近中。近畿は明日の夜から朝にかけてが山場らしい。電車が止まる恐れもあるので、どちらかが病院で一泊しようかとつれあいと話すが、彼女は前の大型台風のときにわが家のアパートがひどく揺れたのが怖かったらしく、家でひとりでいるなら病院の方がいいと言う。

2001.8.20 深夜

 

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 前にこの項に記した「いわゆる教科書問題」ついて、友人より次のようなメールをもらった。

 

 

 突然話は変わりますが、「ゴム消し」にいわゆる「教科書問題」ついて記述がありました。かなりご立腹のようですが、この件に関しては時間の無駄ですからまともに取り合わない方がよいと思います。

 私はまだこの教科書の内容を見ていないので判断できませんが、おそらく他の教科書と同じ程度につまらない読み物なのだと予想しています。授業がつまらないとき、教科書の授業とは異なる部分を読んで暇つぶしをしていましたが、歴史の教科書ではいっさいせずに寝て過ごしました。

 中学高校時代の歴史の授業を思い出してみてください。教科書以前に教師の質がより問題なのではと思います。まともに現代史に到達しない(というより教師が意図的に避けていた?)授業では、明治以降の記述はなんの意味を持たないですし、だいたい歴史教科書自体がつまらなく読む気が起こらないものなので、それほど害にならないでしょう。

 ですから、変な教科書を採用していても紫乃さんを学校にいかせてあげてください。それにしても、なんで養護学校の一部で採用なのかが理解できません。新聞にも書いてないし。

 

8月12日  友人のメール

 

 私は、例の教科書を使って行われる授業の内容以前に(だいたいその教科書自体も新聞等で報道された一部の記述くらいで、実物を手に取って見たわけではない)、そうした批判のある教科書を、養護学校や特殊学級といった「弱者」の側へ手始めに忍び込ませるというやり方に反吐が出るのだ。なぜ「養護学校の一部で採用」なのか。友人の言うように私もその点を突っ込んだ報道を今のところ目にしていないが、ぜひ教えてもらいたいものだ。

 ところで8月15日の敗戦記念日を2日ずらして、小泉首相の靖国参拝が行われた。どうせなら14日夜の11時50分くらいに行って59分にさっと帰ってくるとか、良かったんじゃないの。そんなのが「熟慮」とか「政治的決断」とか、物々しく言われるんだからちゃんちゃら可笑しい。参拝はするけどお祓いは受けないとか、二拝一礼を一礼だけにするとか、玉串料を払うとか払わないとか、公的だとか私的だとか、いい歳をした大人がいったい何をやってるんだよ。当日は「外圧に屈するな。15日に参拝しろ」とか「参拝絶対反対」とか「純ちゃーん」とか、まあいろんな叫び声が入り交じっていて、私が思うのはただそういう騒ぎにはなるべく関わりたくないなという気持ちだけである。要するにさ、おなじレベルになりたくないんだよ。

 でもいつの日か、そんな高みの見物もできなくなって、Which Side Are You On ? (お前はどっち側か) なんて胸を突かれる日がくるかも知れない。そしたら屋久島の縄文杉に登って、ビートルズの Nowhere man でも口ずさみながら暮らそうか。

2001.8.21

 

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 台風渦中の昨日で抜糸は終わり、今日の夕方、赤ん坊はようやっと一ヶ月近くに及んだ窮屈なうつ伏せ状態から解放された。傷口を保護するテープを貼るために、いったんナース室の奥の処置室へ連れて行かれたのだが、出てきたとたんナース室に居合わせたほぼ全員の看護婦さんや研修生たちに代わる代わる抱っこの祝福を受け、最後にK先生の腕に抱かれて病室へと戻ってきた。そのときの赤ん坊の嬉しそうな顔といったらない。そうして親の手元に渡されたのだが、つれあいは、やっとこの子を抱いてあげることができた、と紫乃さんを抱きしめながら思わず涙を浮かべていた。

 明日からぼちぼちと、退院へ向けてのリハビリである。ひとつの幕が閉じて、またあたらしい別の幕がひらくのだろう。

 夕食の後、赤ん坊をプレイ・ルームに連れていった。入院前に比べるとやはり脚力がいくぶん劣った感じだが、それでも憂鬱な拘束衣から解かれた解放感からか、嬉々とした様子でプレイ・ルームの硬いカーペットの上を“ハイハイ”で懸命にかけずりまわっている。久しく見ることのなかったそんなわが子の姿を前に、私の胸も何か熱い気持ちが膨らんできてしまう。

 今日はとても嬉しいからと、つれあいも最後の夜の10時まで私といっしょに病院に居続けた。帰りの地下鉄のホームで、こどもを虐待する親は病気のこどもを持ったらどんなにこどもが大切かよく分かるだろう、病気ゆえに健康なこどもの何十倍もわが子がいとおしくてならない、と言ったおなじ病室のRくんのお母さんのことばを、つれあいは私に話す。紫乃さんが普通のこどもと同じく歩いても何とも思わなかったろうが、いまは何とか歩けるようになって欲しいというその気持ちでいっぱいだ、と。

2001.8.22 深夜

 

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 昼の11時頃、台所で自分の昼食と病院へ持っていく夕飯のこしらえをしていたらつれあいから電話があり、今日はリハビリテーション科での診察があるらしいからなるべく早く来て一緒に話を聞いて欲しい、また付添用の椅子が減らされて各ベッドにひとつになったので折り畳みの椅子を調達して欲しい旨の連絡があった。予定していた夕食の菜はもう少し時間がかかりそうだったので明日に回すことにして途中の食材をすべて冷蔵庫に押し込み、急ぎ身支度をして電車に飛び乗った。途中の天王寺でいつもの王将の弁当をふたつ買い、椅子は後で船場のセンター・ビルにでも行って安いやつを探してこようかと思っていたのだが、そういえば前に病院の裏手に粗大ゴミが捨ててあったのを見たなと思い出して地下鉄の出口を上がってからちょいと覗いてみたら、うまいことに事務用の椅子がふたつ並んでいた。そのうちの状態の良い方を片手に抱えて、病室へ上がっていったという次第。

 

 リハビリテーション科での診察は3時頃に行われた。

 赤ん坊は内反尖足といって左足首が内向きに反り、またバレリーナのようにつま先立ってしまう変形がこれまで見られていたのだが、今回の診察で、右足の方も左足ほどではないものの、やや内側へ反りがちであることが判明した。これは骨の変形ではなく、神経が麻痺をしてしているために使われずにいる筋肉が硬くなり、結果としてそのような形になってしまうものらしい。よって今回のリハビリは動きを回復させるものではなく (リハビリで麻痺した動きが回復される可能性は少ないという) 要するに装具等の着用によって歩く練習をするために、足が正常の形をとりやすいように硬くなった筋肉をほぐしてやる、ということが主な目的であるとのこと。

 医師の見立てでは、両足とも蹴る力はかなりあるようだし、右足は足首の動きもだいぶ良いので、現状で予想される状態としては、まあ装具等を着用して自力で歩けるようにはなるのではないか、と言う。運動会の競技のように走ることはできないが、「横断歩道を小走りに進む」程度なら可能だろう。坂の上り下りは若干しんどいだろうが、できないわけではない、と。

 また整形外科の方でも後日診てもらい (ちなみに担当のH先生は、日本でも三本の指に入る整形外科の名医だそうな)、リハビリの様子を見て、あるいは足首の筋肉を何らかの形で処置して形を矯正するための手術が数ヶ月後に持たれるかも知れない。リハビリは入院中に毎日、二週間の予定、退院後は週二回通院して行われるそうだ。

 ただし前に手術のくだりで書いたように、現在見られる症状が脂肪腫の脊髄に対する圧迫が理由によるものであったとしたら、脂肪腫の切除によって圧迫は取り除かれたわけで、現在麻痺している神経の回復の可能性は残されており、その場合は上記の限りではない。私たちとしては覚悟はしつつも、後はその可能性にかけるより他にない。

 リハビリテーション科で診察を待っている間、ちょうど我々のすぐはたで、中学生らしい女の子が医師の両手で腰を支えられて歩行訓練をしているところだったのだが、つれあいは目に涙を浮かべてそれをじっと食い入るように眺めていた。そしてあとで、自分たちは何気なくしていることだが、歩くというのは本当はとても複雑で難しいことなんだね、と繰り返し話していた。

 ともあれいまは奇跡が起こることを、その可能性を、つれあいも私も、ただひたすら祈ってやまない。

2001.8.23 深夜

 

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 午後から、今日は天満橋にある松坂屋内の本屋に立ち寄って、こどもの絵本をいくつか買って病院へ向かった。ひとつは戸田デザイン研究室から出ているシンプルな絵本で、もうひとつはクレー風の抽象楽譜的な絵にジャズ・ピアニストの山下洋輔が「もけら もけら もけら んば」といった面妖な擬音語・擬態語を散りばめたもの。それから詩人の谷川俊太郎の「かっぱ かっぱらった」のような言葉遊びの絵本を続編と合わせて、計4冊。またこどもの本に便乗して私も一冊、柄谷行人を中心に浅田彰・坂本龍一・村上龍らが集った『NAM生成』(太田出版) を購入した。ひさしく遠ざかっていた現代思想の知の現場をちょっと覗いてみたくなったのだ。

 赤ん坊の方は、午後から初回のリハビリがあった。担当してくれるのは (昨日の診察時の医師とは違い) 大阪市内のBという全国的に有名なリハビリ専門の病院から来ている医師で、あとで回診に来たK先生はつれあいに「良い先生に当たりましたねえ」と教えてくれた。何でも「魔法の手を持つドクター」と言われる優秀なリハビリ医なのだそうだ。そして医師はつれあいに、レントゲンを見ましたが、ぼくの経験ではこの子はふつうに歩けるようになるんじゃないかと思います、と言ってくれたらしい。走るのは無理だが、リハビリによって装具を使わなくてもスムーズな形で歩けるようになる可能性がある、という意味だ。つれあいが大喜びをしたのは言うまでもない。

 リハビリの時間は30分程度だが、こどもの扱いに馴れた先生のようで、赤ん坊はとくに嫌がりもせずに無事こなしたようだ。なるべく赤ん坊本人に、足を意識させるよう促すこと。上体を立たせるためには腹とお尻の筋肉の力が必要であること。足の皮膚の新陳代謝を活発にするために、常に皮膚をこすって清潔にしておくこと。またリハビリはくれぐれも赤ん坊が嫌がらないように、嫌がったら即座に中止すること、など。(刷毛で足をくすぐると、両足とも退けた。それから赤ん坊は医師の手から刷毛を取り、自分で足をなぞってみせた。「ほう、この子は頭がいいね。すぐ覚えるな」と医師)

 赤ん坊は身体が自由になった解放感からだろうか、昨日からひどく機嫌がよくて、何でもないことでもけらけらとよく笑う。今日も何とか10時前に寝かしつけて帰ってきた。ただ今日は見舞いに来たつれあいの両親を送って彼女が抱っこをして病院の裏門まで出たとき、ちょうど外の通りを喧しい馬鹿右翼の宣伝カーが大音量で通り、驚いて泣き出してしまったそうだ。つれあいが帰るときにこんどは私が抱っこをして送ったのだが、夜で交通も割合静かだったにも係わらず、門へ近づくと昼間の記憶が蘇るのかひどく怯えて愚図りだした。こんなところも案外、入院生活で精神的に敏感になっている部分もあるのかも知れない、とも思う。

 明日から二日間は土日のためにリハビリは休みである。来週の週末には外泊が許されそうなので、金曜の夜からひさしぶりに家族三人揃ってわが家で過ごせそうだ。つれあいはその日がくるのを、いまからとても楽しみにしている。

 夜、つれあいと、赤ん坊にはいろんなことをやらせてあげたい、生まれる前からいろんなことをやらせてあげたいと思っていたが、不自由な身体になってそれ以上に出来るだけいろんなことをやらせてあげたいと思う、リハビリの一環として赤ん坊のうちからスイミングにも通わせたい、そんな話を交わした。そうして彼女は布団に横たわったまま、「だって、わたしたちがつくったんだから」「紫乃さんが、生まれてきて良かった、と言ってくれるようにしてあげたい」 そう言って、また涙をぬぐう。

2001.8.24 深夜

 

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 今朝は永らく病室を共にしてきたRくんが退院をしていった。独身時代は雑貨屋や古着屋などをやっていたという、いかにもナニワのお母ちゃんといった風のまだ若いRくんの母親は、私は当初、就寝時間後でも大きな声で喋ったりする粗雑な感じが好きではなかったのだが、いつの間にやら家族ぐるみで仲良しになっていた。Rくんの看護に対するナース室との確執がもとで退院を数日前に控えてもめ事が起きたときには、つれあいは婦長さんとの仲介役に回り、私は私で激怒しているRくんのパパを深夜の喫煙室でなだめたりしたのだが、そんなこともあってか今日の退院に際して、手書きの真摯な手紙と共に紫乃さんに安くはない玩具を一箱置いていってくれたのだった。Rくんが退院して、病室はだいぶひっそりとさみしくなった。

 午後、同じ病室のSくんのお母さんから、Sくんの使っている足の矯正のための装具を見せてもらった。その他にリハビリや障害者手帳の申請についての話など。1歳8ヶ月のSくんは、水頭症ために重い知的障害がある。私はこのSくんに対して初めの頃、遠慮がちで他のベッドのこどものようになかなか面と向かって接することができなかったのだが、このごろはやっとふつうに声をかけたりできるようになった。

 土日は診察が休みなので、看護婦さんの人数も少なく、病室はのんびりとしている。今日は弁当にチャーハンと鶏肉の香草焼き、カイワレとセロリのサラダなどをつくって持っていった。紫乃さんは相変わらず、病室内でもナース室の看護婦さんたちの間でもひどく人気者だ。どこかのほほんとした愛嬌があるらしい。私がプレイ・ルームで遊ばせていても、通りかかった若い看護婦さんたちの誰もが笑みを浮かべて近寄ってくる。この人徳は確実に私ではなく、つれあいから受け継いだものだ。だから赤ん坊はきっと、つれあいと同じように、私と世間のあわいをつなぎとめるやわらかな皮膜でいてくれるだろう。磁石のように偏屈なこの私と世界の物象を結びつけてくれることだろう。

 帰りの電車のなかで『NAM生成』を読む。「NAM」とは New Associationist Movement の略である。

2001.8.25 深夜

 

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 手術以来、はじめての外出許可をもらい、午後から赤ん坊を連れて隣駅のアカチャンホンポへ行った。赤ん坊にとっては一月ぶりの外の世界だ。ベビー・カーの中でたのしそうに周囲を見回している。だが日曜の、おまけに何かのセールの日であったらしく、12階ある店内はどこも子連れで大混雑。私も確実にその一人なのだが、うんざりして不機嫌になる。つれあいがいつもの親切心を振る舞い同じ病室のお母さんたちからの注文も取ってきたため、よその家の買い物も探し回る。わが家は紫乃さんのおやつの野菜クッキーと、秋物の服を二着買った。最後の頃に赤ん坊を連れて私は店外へ避難する。自動販売機でカルピス・ウォーターを買い、シャッターの閉まった店の前で紫乃さんと二人で仲良く飲む。赤ん坊は空になった缶を両手で大事に抱えて通り行く人々を眺めながら、うにゃうにゃとご機嫌に喋り続けている。

 今日は昼に私が行くと、つれあいが「Sくんのお母さんがね」と声をひそめて言う。例の水頭症のこどもの母親が二分脊椎で入院している二ヶ月のHちゃんの母親に、いまは症状が出なくてもHちゃんもそのうち足の変形が出てくるかも知れない、なぞと言ってHちゃんの母親が怒ってしまったのだそうだ。Sくんの母親はときどきそんな無神経な物言いをして、他の母親から嫌がられている。今日も別のベッドの母親との会話で、自分の二人のこどもを選挙カーの連呼のように障害児、障害児と誇示するように呼ぶので、「何もそんな言い方をしなくたって...」と相手の母親も困惑していた。もう何が起こっても驚かない、と平静を装っているこの母親も、内心は叫びたくて堪らないのだろう、と見ていて私は思ってしまう。ただこのお母さんの場合、それがある種の自虐も交えて奇妙に歪んだプライドとなり、他の病気のこどもを抱えた母親たちの心情に対するこまやかな配慮を失ってしまっているのが悲しく、困ったところだ。このSくんの母親はそんなふうに暗い病気の話題ばかりしたがるし、もう一人の股関節脱臼で入院しているHちゃんの母親は口を開けば病院に対する苦情と身内の悪口ばかり言っている。そういう光景というのは、端から見ていてとても見苦しい。

 

 今夜も電車に揺られ、『NAM生成』を読みながら帰途につく。カント、トマス・モア、エコマネー、デフレ、アナボル論争、アナルコ・サンディカリスト、モリスのアーツ・アンド・クラフツなど、下段に詳細な注釈が付いているので、日頃の不勉強を思い知りつつ、大学の講義を聴いているような気分にもなる。理解力不足ながら刺激的で、思わずうなずいたり、そうだそうだと手を叩いたり、こんな講義ならもういちど大学に入り直してもいいな、とも思う。

 哲学史や社会史等の難しい部分はいかせんこのぼんくら頭脳には論評しかねるが、今日は村上龍を迎えた対談で柄谷行人がリストラで自殺するサラリーマンに触れ、そんな自分で何もかも背負い込む損な死に方をするならいっそ、社長を殺すか道連れにしたらどうだ、三人くらいそんな事件が続いたら経営者も怖ろしくて社員の首を切れなくなるんじゃないか、などと言っているのが痛快で面白かった。ほんとうにそうだと、私も真面目に思う。

 ところで「NAM」とはなんぞや、と仰る方。こちらのホームページをご覧下さい。うちの親ばかサイトより、得るものはあるんじゃないかと思うよ。

2001.8.26 深夜

 

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 今日は午後の2時40分より一時間ほどリハビリがあり、私も見学させてもらった。玩具を持たせて、飽きさせず、嫌がらせず、実に手慣れている。赤ん坊もすっかり先生を気に入っていて、次は何を始めるのかと興味津々である。話を再度伺ったところでは、3歳くらいには歩けるようになるのではないか、ということ。ただ装具をつけた形かどうかはまだ分からないようだ。階段の上り下りなんかはどうでしょうかと訊くと、いまはとにかく立つことが先決でしょう、あとはそれから、と言う。現時点では、とりあえず自力で歩くことはできるだろう、ということらしい。

 リハビリから戻ってから、約一月ぶりに看護婦さんにお風呂に入れてもらった。ところが水をひどく怖がって泣いてしまったらしい。病室に戻ってきても、何かとてつもなく怖ろしいものを見てきたようにすっかり怯えて、ときおり悲鳴をあげる。ひさしぶり、ということもあるのだろうが、こんな怖がり方は以前にはなかった。二度の手術を含めた入院生活で、心のどこかに「恐怖」という観念が植え付けられてしまったのではないか、という気さえする。それを思うと、心が痛む。つれあいと二人で何とか落ち着かせたあとは、昼寝もしなかったせいもあるのだろうが夕食も忘れて眠りこけてしまい、そのために時間がずれ込んで、夜は寝かしつけるのが一苦労だった。

 赤ん坊の担当の看護婦のKさんが、夏休みの北海道旅行のおみやげにと、紫乃さんにペンダントにもなる素焼きの小さなオカリナを買ってきてくれた。ほんとうは禁止されていることなので、内緒で、と。

2001.8.27 深夜

 

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 こどもの入院先がまだ決まらなかった頃、つれあいとこどもを連れて外出をした際、予想外に帰りが夜遅くなったときがあった。家に帰ると留守番電話につれあいの実家から度重なるメッセージが入っていて、あとで聞いたら実家のお母さんは、私が失業中であることと、今回のこどもの病気のことで悲観して一家心中でもしたのではないか、と心配したのだという。私は思わず、呵々と笑ってしまった。

 作家の辺見傭であったか、以前に新聞の記事かエッセイに、日本で自殺者が年に何万人という統計があるがこれは世界中で起こっている内戦や紛争地での死者の数より実は多い、つまり日本は精神的な戦争状態なのだ、といったことを書いていた。

 ふたたび『NAM生成』だが、こんなくだりがある。

 

柄谷 むしろ、何をバリューにするかということですよ。僕と同年輩のひとは、いま定年ぐらいにさしかかっているけど、いい会社や官庁にいたと思っていた連中が、いちばん情けない思いをしている。

村上 死んでますからね。いま、中高年の自殺が二万人とか言われているけれども、あれは自殺決行後24時間以内に死んだひとの数らしい。三日後に死んだひとは、統計上は自殺未遂になるという。それを入れると倍ぐらいになって、死ななかったひとまで含めると、10万人とか、20万人っていってた。少年の犯罪でも同じで、氷山の一角というけれども、大体そういう事件は10パーセントだと思って間違いないらしいんです。つまり中高年の自殺予備軍は200〜300万人いることになるそうです。

 

 お気楽なことに、わが家の行く末を案じているつれあいの実家からは叱責を受けるかも知れないが、私は職を失っているからといって、そんなに深刻になったりするメンタリティを持ち合わせていないのだ。大変ではあるけれど、それほど大したことでもない。こどもの病気にしたって衝撃はあるが、むしろこれからこどものためにどうしたら良いか、どのように受けとめていこうかと考えるのが先決で、一家心中などとはさらさら思い浮かびもしない。そういった外的な状況ではなくて、おそらく私が死を思うことがあるとしたら、抽象的な物言いだが、それは己の魂を喪失して二度と取り戻せないといったときではないか、と思う。そうならないために私は、貯金も持ち家も車もないが、己の魂の拠り所だけは他の何物より優先して確保しているつもりだ。だから私は、死んでしまいそうなときはあるにしても、決して自ら死を選ぶことはないだろうと思う。

 何にせよ、人が死を決意するということはのっぴきならないことだ。人は金のために死んだりはしない。おそらく自殺をした多くの中高年者も、リストラとか破産とか家のローンとかいうのは表層的な理由であって、ほんとうはそれによって己の魂を喪失したからだと思う。信じるものが何もなくなってしまったのだ。ただ私がつまらないと思うのは、会社とかマイホームとか何とかいう類にこれまで捧げていた己の価値観が崩壊したのだったら、ああ俺はこんなくだらないものに今まで自分を託していたんだな、と気がついてさっさと「転向」しちまえばいいじゃないか、こんどは本当に己の魂を託せるものを探す、不必要だったガラクタを粗大ゴミに出してそうできる生活にシフトしていく、そうすればいいじゃないかと思うことである。いまごろ戦艦大和じゃあるまいし、くだらなかったと気づいたものと共に律儀に海の藻屑にならなくたっていいのだよ。

 ところで『NAM生成』には、こんな笑い話も載っていて、私はつれあいにそれを読んで聞かせたのだが、彼女は笑いながらちょっとばかり複雑な表情をしていた。

 

柄谷 知り合いから聞いたんだけど、イギリス人が、日本で職を失ったひとが自殺しているという話を新聞で読んで、まったく理解できないといったそうです。その家では三代失業しているから(笑)

2001.8.28 深夜

 

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 週末の一時帰宅が一日早くなり、明日の午後のリハビリを終えてから帰宅できることになった。金曜のリハビリが担当医の休みでなくなったためである。次は月曜のおなじ時間のリハビリに間に合うよう戻ればよく、延べ4泊5日、約ひと月ぶりに紫乃さんはわが家に帰ってくる。プランターの朝顔もなんとか間に合った。

2001.8.29 深夜

 

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 リハビリはいつもリハビリ室の奥の、床が革張りになっている20畳ほどのスペースの上で行われるのだが、たいていわが家の赤ん坊と同じ時間・同じ場所でリハビリにくる女の子がいる。車椅子に乗ってきて、付き添いの父親か母親と医師に抱えられ、革張りの床へ降ろされる。全身はだらしなく折れ曲がり、表情も不自然に歪んでいる。私は当初、先天的なダウン症か何らかの知的障害かと思っていたのだが、あとでつれあいが母親から聞いた話では、ミドリちゃんというその少女は、中学生のときに交通事故で頭を打ち、以後3週間意識不明であったのだという。ある一瞬を境に、そんな姿に変わってしまったのだ。両親の嘆きは如何ばかりであったか、とても計り知れない。

 ミドリちゃんはいつも、上半身をあげている練習をしている。「今日は3分」と言うのだが、たいてい1分くらいでダウンしてしまう。そのたびに医師や両親が「ほら紫乃ちゃんは頑張ってリハビリやってるよ。ミドリちゃんも負けないように頑張らなくちゃ」と励ますのだ。

 一時帰宅を許された木曜の午後も、そんな光景だった。ミドリちゃんがダウンをしたところで、リハビリを終了した紫乃さんが、ちょうどミドリちゃんの頭の近くへはいはいをして近寄っていった。ミドリちゃんは口は利けないのだが、筆記で会話ができる。父親が差し出した画用紙に、仰向けのままふるえる手で何かを書き出した。父親がそれを声に出して読み上げる。「しのちゃんのかわいさにまけた」 父親も医師も私もつれあいも、みんな思わず大笑いをした。

 比べるということでなく、何かもっと別の意味で、こちらが慰められ励まされることもあるのだということを知った。

 「みどりちゃんのあかるさにまけた」

2001.9.1

 

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 出目金が化粧をして口の端だけで笑っているような顔だ。紫乃ちゃんというのはお母さんが付けたんですか、とても可愛らしい名前で。こんな見え見えの科白にもつき合わせられるから、セールスというのは嫌なのだ。つれあいがディズニーの幼児用英語教材とやらを雑誌の広告で見かけた。その一式を露天商の如くずらりと並べて、女はわが家の書棚の前に座って蕩々と喋っている。喋ってはいるのだが、のたりくたりと一向に要領を得ない。挙げ句は、ではここでヒヤリングのクイズをお母さんとお父さんにやってもらいましょう、当たるとプレゼントがあります、なぞと言い出してまったく苛々する。つれあいが欲しかったというカード・リーダー(英語のカードを差し込むと音声が出て、録音もできる)は、なるほどうまく出来ている。だが値段を問うと、単体で20万、すべてを合わせると50万、と聞かされて二人とも目を剥く。もちろん分割払いもあるし、自治体で支給される育児手当やお爺ちゃんから貰うお年玉を貯めたり、お母さんの日々のやりくりで何とかなる、と宣う。そんなことお前に言われる筋合いか。女はまた、これは投資だ、と繰りかえす。これからは英語力の時代です、お子さんへの投資と思えば安いもの、将来何倍にもなって返ってきます。こんな誘惑に乗せられる馬鹿親というのは、いったいどれほどいるものなのか。私はひたすら堪えて、ようやっと次のような言葉を穏やかに女に伝えた。自分はこどもに英語を教えること自体は別に構わないが、英才教育の類はあまり好きではない。あなたはしきりに将来の効用を言うが、そうした学歴社会の偏向が現在どれだけ弊害をもたらしているか。私はむしろそんなIQよりも、野山で自由に遊んで心の豊かな人間になってもらいたいと思っているし、お金をかけなくてもこどもにしてやれることは沢山ある。私自身はそのように思っているのだが、妻が英語好きで、こちらの商品に興味を覚えたので今日は来ていただいた。だが20万というのはわが家には余りに高額である。女はその私のことばのどこかが気にくわなかったらしい。しばらく似たような決まり文句を並べた後で、最後に「タダでは何もできない」といった科白を明らかに皮肉めかして放った。私は出目金のそのでかい尻を蹴飛ばして、ベランダからおんだしてやろうかと思ったくらいだ。座布団を充分に温めた後で女が帰ってからも、しばらく苛立ちが収まらずつれあいにブツクサと言っていたが、怪しげな空模様にひとりバイクでスーパーへ行き、夕食の菜にもやしと冷や奴を買ってようやく人心地を取り戻した。

2001.9.2

 

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 4泊の一時帰宅もあっという間に終わってしまい、昼からふたたび病院へ。建物に入った途端、ベビー・カーの上で上機嫌に喋り出したのは、病院を避暑地の別宅くらいに思っているのだろうか。今日から病室が変わった。ナース室からやや離れた、いわば退院予備軍に編入された具合だ。ところでこんどの病室には、物を食っているかテレビを見ている以外は腹の底から絞り出すような声でだだをこねる関取の如き3歳の男の子がいる。紫乃さんは当初、かの悪魔の咆吼を聞いて怯え出し、親も食べかけの弁当を捨てて病室を逃げ出すほどであった。この子がまた私とおなじ名前なのだ。つれあいは、我が儘なところは○○さんと似てるわ、と意地悪なことを言う。やれやれ、ともかくどうなることやら。

 二度目の手術を終えてから、そろそろ4週間になる。うつ伏せ2週間、その後リハビリ2週間の予定で、もう今週あたり退院だろうとつれあいとも話しているのだが、まだ正式な話は来ていない。整形外科の診察も残っている。午後のリハビリでは、だいぶ右足が安定してきた、身体を支えられるようになってきた、と言われた。こちらが見ていても、確かに進歩が分かる。

 夜、なかなか寝つかない紫乃さんを抱いて廊下を歩いていたら、車椅子に乗ったミドリちゃんが手を振ってきた。はじめて筆談を交わしたが、すでに書かれた文字の上に速いスピードで重ねて書くので、彼女の父親のようにうまく判読できない。もう少しゆっくり、とお願いしたら、新しい紙に改めて書いてくれた。リハビリでいつもおなじ時間だね、と書いてから紫乃さんに手を差し出すのだが、赤ん坊はミドリちゃんの不自然な動作につい身を引いてしまう。恥ずかしいのかな、と慌ててフォローをした。ミドリちゃんは明るくてほんとうに可愛い。もし事故に出会っていなかったら、きっともっと可愛かったろうと思うと、胸が痛む。だが逆説のようだが、私の知らないかつての健康な彼女より、いまのミドリちゃんの存在はもっと輝いている、となぜか思う。いや、比較の問題ではないのだ。どんな形であれ、いま、彼女が存在しているということの素晴らしさのようなもの、だ。

 帰りの電車の中でつれあいと、紫乃さんが病気にならなかったら、これまで出会ったたくさんのひとたちとも出会うことはなかったろう、といった類の話をした。たくさんの病気と闘うこどもたち、その親たち。つれあいはそして、わが子のように回復を願ったり、悔しい思いをするような気持ちも持てなかったろう、と続けた。それらはみんな、きっと赤ん坊が私たちに呉れたプレゼントなのだろう。

2001.9.3 深夜

 

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 退院が決まった。今週の金曜日の朝、明後日である。明日はリハビリの他に整形外科の診察があり、MRI等の術後の各種の検査は通いで追々やっていくそうだ。ちなみに翌土曜日は前述した患者の集いの一泊旅行で、昼に病院に集合である。退院後の通いのリハビリは、当初は週二日と聞いていたのだが、担当の先生が多忙で週一日、木曜日しか取れないとのこと。プールでの運動も良いというので、つれあいは近所のサティに併設されているスイミング(赤ちゃんコースがあるのだ)も行かせたいと言う。無論、異論はない。

 ところで心配していた病室の絶叫ボーイは、紫乃さんが入室してからすっかり良い子に変貌してしまった。「お兄ちゃん」の自覚が芽生えたようで、病室が変わった翌朝、つれあいが行くと紫乃さんは看護婦さんにお茶とビスケットを与えて貰っていて、絶叫ボーイがつれあいに「紫乃ちゃんが泣いてたからね、ぼく、ナース・コールで看護婦さんを呼んであげたの」と言ったという。それから毎朝、「きょうは泣いてなかったよ」とか、あるいは給食係のおばさんに「早く紫乃ちゃんのごはんを持ってきてあげて」とか言ってくれるらしい。住めば都で、うまいこと回るものだ。ちなみに絶叫ボーイを含む同室の二人の男の子は「ネフローゼ」という病気で、もう長いこと入院しているらしい。

 今週から三人目の研修生がついた。うちは何かの手違いで今回は男性、22歳の看護士見習いが担当になり、ナース室の副婦長さんより構わないだろうかとお伺いがきた。赤ん坊とはいえ、女の子でオムツの取り替えや入浴なども見られるので、中には嫌がる親もいるのだそうだ。私はそうした感覚はないのだが全く個人的な気持ちで、「できたら若い女の子の方がいいんだけどなあ」と呟いたところ、つれあいはそれをそのままナース室に伝えた。後で廊下ですれ違った副婦長さんに「お父さん、このたびはご協力有り難うございます」と丁寧に挨拶され、照れ笑いを浮かべたのである。

 駅のホームや電車の中でちいさな女の子を見かけるたびに、このごろは足下ばかりに目がいってしまう。そして三日にいっぺんくらい、病院へ出る地下鉄の階段を登りながら、ふと思い出したように「足首を使わずに階段を上れるだろうか」と考える。立ち止まり、試してみるが無意識に使っている。こうじゃない、とやり直して、ふだん使っている動作を意識的に止めるのは案外難しいものだ、と思う。膝の動きだけで登るようにして、こんな感じだろうか、だいぶスローになるな、これじゃ混雑した通勤時には不便かも知れない、なぞとあれこれ考えながら、病院の門の前へ出てくる。

 ともかく、一月半に及んだ入院生活もあとわずかで終わる。紫乃さんを家に迎えて、またあたらしい始まりだ。平凡な言い様かも知れないが、リハビリも、これからの生活も、家族三人でひとつのいのちのように支え合っていく。

 今日はつれあいが帰ってから、紫乃さんをベビー・カーに乗せてこっそり、病院に隣接する難波宮跡の広い公園の敷地に連れていった。ここは大昔には大きな都があったんだよ、大きくなったらもっとたくさん教えてあげるからね、などと言いながら、ときおり誰かがあげる打ち上げ花火を赤ん坊と二人で眺めていた。はや、秋の気配が。

2001.9.5 深夜

 

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 一週間のご無沙汰。さて、何から書き出そう。

 先週の木曜は整形外科の診察。夕方、私が病院へ行くと、つれあいが廊下でひとり泣いていた。赤ん坊は左足だけでなく右足も、それも股関節から下がすべて悪いらしい。筋肉の付き方が弱いのだが、右足は弱いなりにバランスがとれていて、左はバランスも偏っている。それから医師はこんな歩き方になると実際に真似をしてみせ、それがあんまり酷い形だったので、つれあいは思わず涙がこぼれて後の話をろくに聞けなかった。代わりにもういちど話を聞いてくれと言われ、ちょうど他の病室のこどもを診にきた先生をつかまえて話を伺った。現状ではそうだが、今後のリハビリによっては状況が変わる可能性もある。まあ、あまり最初から遠くを見ないで、目の前のひとつひとつを積み重ねていくことが大事だ、と。

 金曜は予定通り、退院。つれあいの両親も来て、天王寺の近鉄で昼食。台風の影響で土砂降りで、家の前までタクシーで帰った。

 休む間もなく土日は、Y先生を慕う患者たちによる「ポパイの会」の一泊旅行。小児科の看護婦さん4人も同行し、貸し切りのバスに乗って琵琶湖北岸のマキノ町へ。ある心理療法士の妹さんが経営するという、きれいな湖畔に隣接するペンションにて、バーベキュー、花火、プレゼント交換など。夜はこどもたちを寝かせてから明け方の4時近くまで母親たちの雑談会。自己紹介でこどもの病状を涙ながらに話す母親たちの姿は、私には恐山のイタコの前で死んだわが子に語りかける人々の場面が想起された。これもひとつのカタルシス=浄化の風景だろうか。会を発足した年輩の母親たちの差別や偏見との孤独な闘い、「障害が個性だなんて言葉は聞きたくない」「よく神さまはその人が耐えられるだけの不幸しか与えないというが、それならあんたが育ててみろと言いたい」といった言葉は、ひたすら重い。脳腫瘍と水頭症と両眼欠損症でほとんどの病院から見放されたこどもの母親が、見栄えにこだわり高価な義眼を何度もつくってそのたびにどこかへ落としてしまった、といった話もまた。だがY先生をはじめ、母親たちもこどもたちも一様に明るく、逞しい。一年にいちどだけ、溜まっていた悲しみや鬱積を流してしまう場所なのだ。私も母親たちから「椎名キッペイに似ている」などとおだてられ、ビールをしこたま飲まされた。赤ん坊もいつも以上にハイテンションだった。

 火曜は待望のディランの新譜を発売日前日に買った。その夜、偶然つけたテレビでニューヨークの高層ビルに旅客機が突っ込むリアルな映像を見た。深夜の1時頃までテレビに釘付けになり、それから後は音を消したブラウン管の風景を眺めながら、ヘッドホンでディランの歌声を聞き続けた。どうしようもない酷い無力感を感じていた。(「ぼくらはテレビの中の暴力にはとても勝てそうにない」Brian Wilson )

 水曜はこどもの障害者手帳の申請書類を役場へもらいに行った。またリハビリのために、近くのスイミングへつれあいと二人で話を聞きに行った。

 木曜の今日は退院後はじめての通院で、朝7時のラッシュの電車の中を赤ん坊を抱いて連れていった。脳神経外科のY先生の診察を経てからリハビリ。術後のMRIの予約や、足に付ける装具の制作の話など。リハビリのM先生は「親がリハビリの先生にならなくてはいけない」と言う。

 

 一週間の前半は退院したこどもに寄り添いたいという気持ちだった。後半はテレビの衝撃的な映像がずっと頭にこびりついて離れない。報道のとおり中東問題が根にあるとしたら、確かにテロは非人道的な手段だが、正義をふりかざすアメリカだってその同じ暴力をただ巧妙に用いているに過ぎない。ディランの昔の歌にあった、「すこし盗めば罪人で、多くを盗めば王様」だ。「暴力は、持たざるものの最後の武器じゃないか」という言葉さえ浮かぶ。つまり全世界に流された今回の映像は、正義や秩序でない暴力がまさに満ちあふれているこの世界の実像を露わにしたに過ぎない。

 そして私はそれらのリアルな暴力の前で、何もかもがむなしく思えて仕方ない。

2001.9.13 深夜

 

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 深夜に、眠っていたと思ったつれあいが泣いている。暗闇の中で赤ん坊の将来を考えていたら可哀相で涙が出てくる。そして言う。ずっと気が張ってきたから、泣こうにも泣けなかった。この子の前では頑張らなくちゃならないから、せめて○○さんの前では自由に泣かせて欲しい。私が泣けるのは○○さんの前しかないのだから、○○さんは私よりいつも強くあって、私が泣いたら何度でも頑張ろうって励まして欲しい。そう言って、しばらく泣き続けた。

2001.9.14 深夜

 

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 テレビのなか、瓦礫の上で大統領が一人の消防士の肩を抱き「きみの声をやがて犯人たちも聞くだろう」と言い、周囲の群衆たちからU.S.Aの熱い連呼が沸きあがる。アメリカという国は、ほんとうに劇場のような国だ、と思う。根のないこの国は、それ故にいつもスターや物語を必要とした。ケネディ、モンロー、ディズニー、ハリウッド。雑多な人種の集まりであるこの巨大な国を束ねるために、それらの虚飾に満ちた装置が必要だった。私はこの国の一部の文化 (ブルースやカントリー、ジャズなどの音楽、フォークナーやマーク・トゥエインなどの文学等) は大好きだが、反面、ハリウッドやマクドナルドといった文化は毛嫌いする。この国の言う、しばしば独りよがりの「正義」とやらにも反吐が出る。ハイジャックした飛行機を高層ビルに突入させて自爆する。多くの人はこれをイスラムという、西欧文明から見ると得体の知れない国の宗教のなせる狂気だという。なるほど、狂気であるに違いない。だが私に言わせたら、無人のミサイルを飛ばしてまるでテレビ・ゲームのような冷徹さで殺人を行う風景も狂気に思える。さらに言わせてもらうなら、高層ビルの一室でほんの少しキーを叩いて巨額の資金を動かしたり、リストラで家のローンを払えずに自殺する風景もまた、狂気に近いのではないかとすら思える。要するにみんな気違いなのだ。暴力というものは例えどんな理由づけをしたところで気違いの行為であって、それを「正義」にすり替えるのは政治のかけひきに過ぎない。そしていつの世も、複雑なパズルを知性や理性や冷静さによって根気よく読み解いていくよりも、集団による気違いの祝祭に身を委ねた方がひとはたやすいものだ。その昂揚のなかで、やわらかな感性というものは常に押し潰される。

 ところでテロ騒動の陰に隠れてあまり報道されていないことだが、例の「悪玉ラビン」のいる同じアフガニスタンで、タリバンの暗殺テロにより生死が取り沙汰されていたマスード将軍(元国防相)の死が今日、正式に確認された。長倉洋海氏の写真や著書などによって私もひそかに親愛の念を抱いてきたのだが、一抹のさみしさを覚える。「国が平和になったら大学に入り直して商いを勉強したい」と語っていた、その希望も遂に適わなかった。かれの愛した故郷もかつてのソ連に続き、いままたアメリカという強大な軍事国家による蹂躙を間近にしている。ささやかながら、ここに哀悼の意を表しておきたい。

 

 紫乃さんは今日は(リハビリを兼ねた)スイミングの体験入学で、つれあいに抱かれたその可憐な光景を昼から、私も二階にあたるガラス張りのブースから約一時間を眺めて愉しんだ。さいしょは少し怖がっていたようだが、両腕にはめる浮き輪を付けて、途中から鼻歌も披露する余裕ぶりだったらしい。終えてから正式に入学の手続きをした。週三回のスイミングと、週一回の体操がある。

2001.9.15

 

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 昼間、つれあいの妹さんとその娘のSちゃんが和歌山より来る。紫乃さんにお古のカード・リーダー(英語学習器)や電話機の玩具、プーさんの絵本などを貰う。倒産したサティへ行って誕生日の祝いに服を買ってもらい、うどん屋で昼食。売り場に牛乳がほとんど無かったのは、やはり倒産の影響か。外資系のバック・アップが決まったらしいが。ところでカード・リーダーといえば、ウン十万もするディズニーの英語キットのことは前にこの項で書いた。それを読んだ東京在住の私の従兄から「実はわが家で昔買いました。お古だが良かったら差し上げましょうか」というメールを頂いた。確か「こんなものを買う馬鹿親がどれだけいるのか」なぞと書いたはず、と恐縮しつつもちゃっかりご好意に甘えることにした。というわけで約10年前に30万したダンボール二箱分の荷がやがて着く。

 夜、テレビの「知ってるつもり」で、ベトナム戦争で両足を失い両腕のみの歩行でアメリカ大陸を歩き通した男の半生をつれあいと見る。この男のことは以前に新聞日曜版の特集記事でも読んだ。やはり脊髄の病気で両足を麻痺したままパラリンピックで日本新記録を達成した女性の水泳選手もゲスト参加していた。こうした話の細部が、いまは人ごとでない。

 つれあいは今日も、たいていの人は「もし車椅子になっても」とか「歩けなくても元気で生きている子もいる」とか(励ましの言葉を)言うが、今日来た自分の妹はそんな言葉は口にせず、「女の子だから不憫で仕方ない」と言うつれあいに「そうだねえ」としみじみ肯き、自分と同じ目線で話してくれたから嬉しかった、と少しだけ泣いた。

 「知ってるつもり」に続いて、NHK教育の「芸術劇場」でピーター・バラカンの解説によるルーマニアのロマ(かつての蔑称では“ジプシー”)人たちによるバンド(タラフ・ドゥ・ハイドゥークス)の演奏シーンなどを見る。最近行われたらしい来日公演でもたくさんの日本人が聴きに来ていたが、こうした音楽が脚光を浴びるというのは、ある意味で逆に、かれらのような生活や歴史に根ざしたリアルな音楽が消え失せてしまっている世界の実状を示しているのかも知れない、などとも思う。

 友人がメールで、こんな小景を書いてきた。

 

 真正面、線路越しの小学校で運動会がありました。踊りでも組み体操でも徒競走でも大音響のバックミュージックが流れ、歓声は私の部屋から聞き取れませんでした。生徒の実況がむなしく響いてました。徒競走を見ていると、順番待ちしているときの心臓が喉から飛び出さんばかりに緊張していた自分を思い出し、今更ながらばかばかしくてふと笑い出してしまいました。

 

 涙を拭っているつれあいに読み聞かせ、それからしばし運動会の思い出話になった。(赤ん坊はもう眠っていた) つれあいは短距離走や高飛びが得意だったらしい。私は唯一マラソンだけがずっと得意で、あとは大抵ぱっとしなかったものだ。

 それから二人で赤ん坊の寝顔をしばらく眺めて、もう一人、弟か妹がいたら将来紫乃さんの支えになってくれるのではないか、といった話が出る。つれあいは自分はもう高齢出産だし、これから紫乃さんのリハビリもあるし、とても体力に自信がないと言う。それでは身寄りのないこどもを貰って育てるのはどうか。だがそれもいろいろ難しい部分があるだろう。実のこどもと比べて差別をしてしまわないという自信もない。遅くまで、二人でそんな話を交わしていた。

2001.9.16 深夜

 

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 午後から赤ん坊のプールへ行った。前回、ガラス張りのブースから見ていて楽しそうだったので、今回は私が保護者として参加する、とつれあいに宣言したのである。水着姿の若いお母さんたちに囲まれて(平日のため父親参加は私ひとりだった)、しかしそんなものに見とれている余裕もない。いや忙しい、というか、水の中で赤ん坊と戯れているうちに私たちだけ輪をはずれて、気がつくとあさっての方ですっかり親子の世界に浸っていて、指導役の女性コーチに引き戻される有様であった。二回目で早くも赤ん坊はすっかり水に馴染んだようだ。両腕の浮き輪をつけてひとりでバランスを取って浮きながらうにゃうにゃと喋り続けているし、最後に素潜りをさせてももう泣かなかった。水の中では不自由な足の束縛をはなれて嬉しいのだろうか、と。いやこれは親の穿ちすぎやも知れないが。

 数日前からお風呂でもリハビリをさせるようにしている。筋肉のほぐれやすい湯の中で、両手を浴槽のへりにつかまらせて立たせる。やり始めた頃に比べると、足首を反らすことなく(最初はどうしてもこちらが矯正してやらなくてはならないが)長い時間を立っていられるようになった。そうしてなるべく麻痺の強い左足に重心を移せるように、左から話しかけたり玩具を渡すようにしている。

 病院でもスイミングでも、私はこれまでの個人名ではなく「紫乃ちゃんのお父さん」と呼ばれる。当たり前のことだが、私には何やら新しい呪文の言葉のように思える。スイミングの最中に「はい、では今度はお隣さんと挨拶をしてください」と女性コーチの声で、隣の赤ん坊を抱いた母親と「何ヶ月ですか?」なぞと会話をする。思えば私もずいぶん変わったものだ。

 何年かぶりのプールで心地よく全身がくたびれて、夕方まで赤ん坊といっしょに昼寝を貪った。「戦争」や「報復」などといった言葉から、何と遠い平和的風景であることよ。

2001.9.17

 

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 新聞もテレビのニュースも連日アメリカのテロ事件に関する報道で、いつどのように「報復」が始まるのかという一点に話題は集中している。なかでもアメリカ国民の異様とも思える好戦的な過熱ぶりが目に余る。昨日は新聞の小さなコラムで「勝利をするのは軍人(あるいは国家)で、犠牲になるのはいつも市民だ」という今福龍太氏のことばが載っていた。一方、街角のインタビューでは「絶対に報復だ。一回では足りない」と声を荒げるアメリカのおばちゃんの姿がテレビに写っていた。憎しみによって国中が結束して昂揚するなんて情けないじゃないか。私は、アメリカ人というのは歴史が浅い故か根がひどく単純で、それが彼らの時には長所でもあり欠点でもあり、例えばディランの音楽を聴くたびにふと「こういう繊細な人間は、あの国ではひどく孤独なのだろうな」と思ったりしたことが幾度かあった。しかしことはアメリカ人に限らず、ニンゲンというものは所詮、その程度の生き物なのかも知れない。テレビの陰鬱な風景を見るたびに、「他の生物のために人間は滅んでしまった方がいい」というある友人の口癖を思い出している。

 アメリカよ、ホイットマンの国よ、ハックルベリィフィンのこどもたちよ、私を失望させないで欲しい。多様性への寛容と差別への闘いの歴史こそが、あなたたちの国の真の力と美徳ではなかったか。

2001.9.18 深夜

 

 

 

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