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ヨ 

 

 

 手術に必要な検査の類をすべて終え、金曜から連休になるので日曜の夕方までの一時帰宅を許されて、木曜の夕方に赤ん坊を連れて自宅へ帰ってきた。

 病室は紫乃さんとほぼ同じくらいの月齢の赤ん坊ばかりで、4人部屋を5人のベットが占有している。一人はすぐに退院し、残る3人はすべて同じ病気=股関節脱臼で、みなベットの外に投げ出された重しに両足をくくった状態で仰向けに寝かされている。付き添いの方は結局認められず、私もつれあいもマンションからの通いとなった。赤ん坊は病院でのはじめての朝は涙と鼻水にまみれて眠っていて、二日目の朝は目を覚ましてぼうっとしていたらしい。病院の看護というものも実際、大変なものだ。朝は7時に病院へ入り、夜の10時か11時頃にやっと赤ん坊を寝かしつけて後ろ髪を引かれる思いでマンションへ寝に戻る。病院から環状線内のマンションへは20分くらい。水曜は麻酔科の医師と手術を執刀する脳神経外科のY先生らが来て、手術に関する説明をしてくれた。当日は朝8時過ぎに手術室に移り、9時より手術。一応目安は5時までだが、場合によっては伸びる場合もある。慎重な手術なので時間が長くなることは悪いことだと思わないで欲しい。家族のものは手術中は病室かロビー等で待機していて、手術が終了後、医師からの説明がある。赤ん坊は一時的に面会をした後、その夜は術後の回復室へ移される。木曜は朝から私だけ奈良へ戻り、医療費助成金制度の手続き等のために地元の保健所や役所を午前中に回ってきた。難病の手術のための国の制度で、本来保険適用外になる入院中の食費なども対象になるという。そして金曜の今日は、関東から私の母と妹が飛行機でこちらへ来て、昼からわが家で赤ん坊の姿を見た後、今夜は大阪のマンションに泊まってもらっている。

 参考まで、木曜に同意捺印後、提出をした手術承諾書の一部をここに写しておく。

 

手術承諾書 説明内容部分

 

 ○○紫乃ちゃんは、脊髄脂肪種があります。脂肪種は皮下腫瘤と連続して脊髄管の中におよびます。いわゆる移行型で脊髄円錐に癒着し腹側尾側は馬尾神経にからんでいます。現在それにより、左下肢の内反尖足、便秘を認めていると思われます。放置すれば脊髄係留によって下肢の麻痺・膀胱直腸障害の出現する可能性は高いです。

 手術の目的は、脊髄と脂肪種の癒着を剥離し、脊髄の末端を遊離することです。手術は顕微鏡下で脊髄神経をモニターしながら行いますので、7〜8時間かかる見込みです。また腹臥位にして行わなければなりません。この手術で生じうる合併症としては、脊髄神経の損傷による下肢の麻痺・膀胱直腸障害の出現・髄液漏です。また将来的に稀に脂肪種の再増大による再癒着の可能性もあります。全身麻酔の影響、感染・けいれんを起こすことなどです。以上のほかに、薬による副作用や、予想外の合併症が生じる危険性もありますので、あらかじめご了承ください。

 以上の内容にご同意いただけるのであれば7月23日に手術を施行させていただきます。

 

 ところで入院二日目、先に退院した子供と入れ替わるように別の赤ん坊が病室に入ってきた。まだ若いお母さんで、ふとした会話からやっぱり股関節脱臼ですか? と訊かれたつれあいが、いやうちの子は二分脊椎で... と言ったところ、え、うちも同じなんです、との答えが返ってきたという。赤ん坊はまだ生後一ヶ月で、すでに三度の手術を受けたらしい。同じ二分脊椎でもかなり重い症状らしく、一時は生命も危ぶまれ、いまはシャントという脊髄液の圧を調整する管を頭部に埋め込んでいて(私も見たが管の盛り上がりがはっきりと分かる)、両足は内側に不自然に反っている。また下痢状の便がほぼ30分おきに出るために、そのたびに紙おむつを換えなくてはならず(それを手伝ったつれあいによると、ために臀部が赤く皮がめくれていて痛いのだろう、赤ん坊は号泣していたという)、将来的には人工肛門を付けなくてはならないかも知れない。やっとここの病院へ来れたが、この先いったいどうなるのか分からない。そして彼女は里帰り出産で京都の実家へ戻ってきたのだが、出産後はいったいどうしてこんなことになったのか、どちらの血が悪かったのかという話になって、岡山にいる夫は出産から一度も姿を見せず、周囲の身内もやっと最近になって赤ん坊を可愛いと言ってくれるようになったくらいで、私もいまだ友達にも出産したことを伝えられずにいる。きっと同じ病気と聞いて気が弛んだのだろう、そう言ってつれあいの前で泣き出してしまったらしい。

 ほんの数日前、深夜に玄関先のアパートの通路でひとり夜風に吹かれ煙草を吸いながら私は、我が子より数ヶ月早く産まれた隣室のこどものことを思って、いままでテレビや新聞の記事を読んで自分たちが思っていたように、隣の紫乃ちゃんは可哀相に、うちは健康でよかったね、なぞと話しているのだろう、それが逆だということもあり得たのだ、などと思ってその己の考えを恥じた。だがいま私は、その逆の立場を感じている。他との比較によって慰められる心があるとしたら、それは卑しいことだと私は思い知ったのだった。紫乃さんがたとえどのような形になろうとも私たちの宝、かけがえのない命であることが変わらないように、京都の若いお母さんにとっても、それは同じことなのだと思う。

 

*

 

 ウィークリー・マンションのある大阪の下町の商店街で夕刻、不自然にびっこをひいて歩く女性の姿が目に止まり、この人も赤ん坊とおなじ病気だったろうかと思った。小学生くらいの男の子に何かを叱っているのを見て、思う。そうだ、紫乃さんだっていつか結婚をして、こんなふうにふつうの生活を送れるようになるんだ。

 結婚できなくても心配することはない、おれが紫乃さんと結婚するから、と私はつれあいに言う。つれあいは笑って、そうだね、紫乃さんを選んでくれる人がいたら、それはきっと優しい人だろうから、と応える。

 電話口で何気なく母が言った。紫乃ちゃんができたことを後悔していないだろうね、と。私はそれを笑い飛ばした。例えどんな形になろうとも、彼女が私たちにとってかけがえのない宝物のような存在であるということは揺るぎもしない。例え芋虫のような姿であったとしても、一瞬の微笑みがあれば、他のどんな健康なこどもと交換したいとも思わない。

 ふと覗いた店先で、吉田拓郎の2枚組の中古ベスト盤を900円で見つけて買った。「落陽」「人生を語らず」「暮らし」などの曲が好きだ。いつも、のっぴきならない場所が好きだった。のっぴきならない場所で軽やかに笑ってみせるのが好きだった。希望を抱きながら覚悟を秘めて、目の前にあるものをひとつづつ越えていくだけだ。いままでしてきたように、この旅を続けていくだけだ。

 迷いながら躓きながら、いまだ人生を語らず。

 

*

 

 午後から、大阪のウィークリー・マンションより来た私の妹と母にも荷物を持ってもらい、夕食前に再入院。クリップ式の簡易扇風機や激突防止のクッション(キャンプ用具の寝袋の下に敷くシートを縦に切ったもの)などをベット周りの柵にとりつける。離乳食を済ませ、浣腸。夜は結局10半頃まで眠ってくれず、妹と母も最後までつきあい、私たちもぎりぎり最終の電車で11時半に帰宅した。

 奥の部屋に自分たちだけの布団を敷きながら、この部屋に紫乃さんがいないっていうのもなんか変な感じだな、と私がつぶやくと、そうだよね、前はこれがふつうだったのにね、とつれあいが応え、タオルを手に、うん、もう完全に家族になってる、と言って浴室へ向かっていった。

 明日はいよいよ手術である。目が覚める前に行ってやりたいという彼女の希望で、5時起き、6時の電車で病院へ向かう。

 

*

 

 9時開始、20時20分終了。延べ11時間20分に及ぶ長い手術が終わった。だが脂肪種の周囲への癒着がかなり酷かったためにすべてを取り除くことができず、赤ん坊の体力の回復を待って二週間後に再手術をすることになった。

 面会は三人だけということで私とつれあい、それに私の妹が白衣を着て集中治療室へ入った。赤ん坊は手術後にいちど目を覚まして大きな声で泣いたというが、また眠ってしまっていた。気がつくと、つれあいと妹がそれぞれ落涙していた。計器を取りつけられはだけた胸と、呼吸器を口にあてがい、いくぶん浮腫(むく)んだ白い顔を傾げ呼吸している姿は、どこか生々しく、痛々しく、いたいけで、ひどく愛おしい。その感情はとても言葉では言い尽くせない。

 紫乃さん、頑張ったな。

 

*

 

 7時過ギ、病院着
 8時前ニ目ガ覚メル
 8時半、抱ッコヲシテ手術室ノ前マデ連レテイク
 夕方4時20分、執刀医ノY先生ヨリナース室ヘ電話ガ有リ、手術ハモウ少シカカルガ、順調ニ進ンデイル、トノ伝言。
 夜8時20分、手術終了ノ報セ入ル。

 

 今回の手術の目的は、脊髄に癒着した脂肪腫を切り離して、成長と共に上へ上がっていく神経管を下へ引っぱり今後神経に様々な障害をもたらすだろう現状を解消することと、脂肪腫を取り除くことによって脊髄への圧迫をなくすことの二点にあった。前者については執刀医のY先生によれば、思っていたより癒着の状態が酷く強固であったために手間取り、側面はほぼ切り離したが底部はまだ残っている。脂肪腫にからみついた神経もまだ見えない状態である。皮膚と脊髄の間の脂肪腫はすべて取り除いた。また後者については、特に脊髄の左側への圧迫がかなり強かった。そのため、脂肪腫を取り除くことによって現在現れている症状がいくらか良くなる可能性もある。今回の手術で症状が改善されることはないが、現状より悪化することもない。内部に数カ所、目安となる“メルクマール”をつけておいたので、ふたたびMRIを撮り、今回確認した情報と合わせて再検討し次の手術に臨みたい。再手術は8月の6日か8日頃を考えている。だいたい以上のような話であった。何より「失敗しない」ことを最優先させる、手堅い慎重な姿勢が感じられたのが好ましかった。ちなみに手術前につれあいが別の若い医師に、手術中は先生たちは食事も摂らないんですか、と訊ねたところ、手術が始まると集中しているので時間があっという間に過ぎてしまう、長時間の手術の場合は夕刻に集中力を回復させるために飲み物を飲んだりして短い休憩を取ることはある、との返答であったらしい。

 手術の日の夜は、自宅に帰ってからつれあいはひどく涙もろくなって、あんな大きな手術をしても紫乃さんの足は治らないんだね、と呟いたり、部屋の中を元気よく這い回って悪戯ばかりしていた姿を言って、ふだん何でもないと思っている小さなことが、ほんとうはとっても大切なものなんだというのがよく分かった、などと言う。

 手術の翌朝、回復室から戻ってくる赤ん坊を迎えに行った。赤ん坊はそれまで大人しかったのが、私たちの顔を見るなり大きな声で泣き出した。病室のベッドには婦長さんが考案した特製の「磔(はりつけ)着」がすでに準備されている。ベッドの両側に大きなバスタオル様の布を渡らせてくくり、布の真ん中に後ろ半分のベストと半ズボンが縫いつけられていて、そこへうつ伏せのまま体をくぐらせて紐を結わえて留めるのである。長時間の麻酔の影響だろう、赤ん坊は顔が全体に少し浮腫んでいて、とくに瞼がひどく腫れ上がって目を開けようとするのだが潰れていて開かない。栄養と感染を防ぐための抗生物質を入れた点滴を左足にしていて、おしっこも尿道に細い管を差して排出させられている。やはり衰弱しているのか、ときおり頭を持ち上げて悲鳴のような泣き声を出すが、すぐに力尽きて頭を垂れてしまう。熱も39度近くあり、氷嚢や座薬を用いるのだがなかなか下がってくれない。私かつれあいのどちらかが常に手を握ったり腕枕をしてやったりしていないと泣きじゃくるのである。ふだんはあれだけ活発でお転婆娘であったのが、手術後はすっかり笑いも失せてしまっているのが不憫で、見ていてとてもいたたまれない。

 今日はひさしぶりに職安も覗いておこうと、朝からつれあいと分かれて私だけひとり奈良へ帰ってきた。というか半分は病室の空気がどうも居心地悪くて、ちょっと気分転換に逃れてきたのである。長期の入院ともなればどうしても狭い病室内においてお互いが一種の運命共同体のようなものになりがちで、それが同じ年頃のこどもを持つ親同士ならなおさらで、私はどうも性格的に(あるいは東京人のクールさで?)その“濃さ”がどうにも苦手なのである。たとえばあるベッドのこどもの私と同い年らしい旦那などは、我が子を抱きながらよそのベッドをやたら巡回して「ほら、○○くんですよ〜」なぞと言って母親たちと話し込むのだが、私にはあんな真似はどう逆立ちをしても出来ない。おまけに風邪を引いているよそのこどもの汚したハンケチを率先して洗っているような場面を見ると、男のくせにおばさんみたいな真似をするなこの馬鹿が、などと思ってしまう。また就寝時間を過ぎてもこどもとじゃれて興奮させたり、親同士で騒いで写真を撮り合ったり、自分のこどもを寝かすためによそのベッドはお構いなく鳴り物の玩具を鳴らしたりするたびに、こちらが手術後で熱を出しているから余計に腹が立ち、もう少し節度が持てないものかといらだつ。昨夜は大阪は天神祭りで、ちょうど病室の窓のビルの谷間から少しだけ花火が覗けたのだが、うちのベッドと隣り合っている窓側のこどもの母親がうつ伏せに固定されている紫乃さんに「これなら紫乃ちゃんも見れて良かったねえ」なぞと優しく声をかけたりしていたのだが、その母親はいざ花火が本番になると我が子を抱きあげ「ほら、○○ちゃん、花火よ、見える?」と窓の前に見事に立ちふさがり、私は思わず苦笑したのだった。子供を持った親は強いのかも知れないが、同時に子供を持った親ほど馬鹿になるものもいない、と私は自戒の意も込めて思った。というわけで看護婦さんや医師を除き、私は病室内では至って没交流的で愛想がない。これは性格なのだから仕方ない。

 と、これを書いている最中に大阪のマンションに帰宅したつれあいから電話があり、今日は赤ん坊は昼から熱も37度5分に落ち着き、また看護婦さんの置いていってくれた聴診器で遊んでいるときに、手術後にはじめてニコッと笑った、と。

 

*

 

 隣のおなじ二分脊椎の赤ん坊のベッドへ今日は朝から旦那の母親がひとりで来ていたのだが、このおなじ奈良の吉野村から来ているバアさんが手持ちぶさたなのかやたらと今日はウチにからんできて、回診に来た医師の隣で昼のテイクアウトのパスタを立ち食いしている私にあっちの窓際で食べたらいいとか忠言したり、紫乃さんの背中のガーゼを取り替えながら医師が私たちに説明をしている最中に紫乃さんの「磔(はりつけ)着」を見てこんなのを老人ホームでも使ったらいいのにねなどと馬鹿な口を挟み込んできたり、抜糸が遅れてうつ伏せ状態が長引きそうだと言われ「可哀相だなあ」とつれあいと話していると「こどもの傷がそんなに早く治るわけがない」「赤ん坊はそんな姿勢は何とも思わない」なぞと矢継ぎ早に要らぬ口を入れてくるので私はとうとうキレてしまい、「悪いけど今日はもう俺、帰るわ」とつれあいに告げ、「あら、もうお帰りですか、お忙しいんですね」なぞとまだ喋っているババアを無視してさっさと病室を出てきたのであった。だがこんな話など、本当はどうでもいいようなくだらない話だ。私はただ赤ん坊を静かに見守っていたいだけなのに、いつも世間の間抜けな雑音が入りこんできて頭に来る。つれあいはきっと、そんな私を子供のようだと思っているのだろうけど。

 手術が終わってから三日目の木曜あたりから赤ん坊は熱も下がり、うつ伏せの窮屈な姿勢は相変わらずだが、それでも笑い声をあげたり、べらべらと饒舌になったり、枕元の玩具をなぎ倒したり、食事の最中にぐずったり、見かけはすっかり家にいた頃と同じ感じになってきた。今日も昼頃に担当の女の先生が来て傷口のガーゼを交換している間、ふてぶてしいのか鈍感なのかうつ伏せのまま両手を伸ばし平然としていて、先生が「まあ、そんなにリラックスして。ちょっとは泣いてよ、紫乃ちゃん」と思わず苦笑するほどであった。ただ夜は私たちが帰ってから、何度か目が覚めて泣いたりしているときがあるらしい。

 点滴は二日ほど前に取れた(というか、足を動かして外してしまい、以後は代わりに抗生剤の飲み薬を服用している)。傷口の経過は良好で、こんもりとその部分が腫れていて、あるいは中で髄液が若干漏れている可能性もあるが心配するほどのものではない。抜糸は急ぐ必要もないのでゆっくり数日をかけて抜いていきましょうということで、結局再手術の日までこの磔状態が続くようで、せめて手術前に二三日くらい自由な姿勢になって抱っこもしてやれたらと思っていたのだが、考えようによっては手術をしたらどうせまたこの状態に戻るのだから、馴れてきたこの姿勢のままでいさせる方があるいは良いのかも知れない、とも思う。明日はMRIを撮る予定である。

 また二週間レンタルしたウィークリー・マンションの部屋も今朝引き払ってきた。契約の延長も考えたのだが、終電の早い家の前の近鉄電車一駅分はタクシーを使えば病院に12時近くまでいても何とか帰ってこれるし、また自宅の方がちょっとした離乳食を拵えたり洗濯やその他雑事も何かと便が良く、気分的にもほっとするというので、二人で話し合った結果、明日からここ奈良の自宅から病院へ通うことにした。家からは一時間もあれば行けるので、つれあいはきっと朝の6時に出かけていくことになるだろう。病院の付き添いも毎日朝早くから夜遅くまで、結構体力勝負なので、なるべく連携してお互いにダウンしないようにと思っている。ま、私は実際、赤ん坊と遊んでいる以外はほとんど何もしていないのだけども。

 

 ところで前にこの項に書いたヒサアキさんに数日前、私はひさしぶりにメールを書いたのだが、留守にしている間にさっそく返事が届いていた。それがとても嬉しい、また真摯な内容だったので、私信ながらここに私の送ったメールとあわせて紹介しておきたい。

 

 

ごぶさたしてます。

HPの方、最近はプライベートな写真が多くて、愉しんで拝見しております。

実は私ごとですが、最近こどもに脊髄の先天異常があることが分かり、先日大阪の病院で一度目の手術を受けました。排便排尿と歩行の障害が残るだろうと言われています。
ドゥルーズの差異についての思想に耳を傾けたいと思いました。はからずも改めて、挫折していた例の新書をふたたび読み始めているこの夏です。

いかがお過ごしですか。「山は山の児を生む時節もある」 いまごろ、夏山を闊歩しておられるでしょうか。こちらも別の山を登るか下るかしています。

ふと思いつき、お便り差し上げたくなりました。
どうぞ微分的な夏を、なんて。

 

7月27日  まれびとのメール

 

 

 

 

異常に暑い日が続きます。
「便り」さきほど拝読。
驚きました。

本当に大変ですね。
「ゴム消し」をDLして詳しい事情を拝見しました。
女房と一緒に。
かつての僕らの経験と似たような気分のお二人じゃないかと思います。

それこそこれからのまれびとさんはまさに「リゾーム」を生きることになるんだと思う。
なあに、まれびとさん、生きてやるさ。
ね。
右往左往しながら、拡散と収縮を繰り返しながら、
しかしどこにも回収されることなく
まれびとさんは「生成」を遂げるだろうと、僕は妙に確信してます。

紫乃ちゃんと「つれあい」さんと、やれるとこまでがんばって生きてください。
なんにもできないけど(ホントなんにもできないんだもんね)
ウチにはソルジェっていう「大物」がいてますので
参考になることがないとも限らない、そんなときは遠慮なくどうぞ。

長女が今年から医大に勤務していて
たまたま今日会いに行く予定です。
「ゴム消し」を読ませてみます。

ちょっとぶしつけな記述かもしれない。
ご容赦のほどを。
だいじょうぶ、あなたの知性はあなたを見捨てたりなんかしない。

 

7月28日  ヒサアキ氏からの返信

 

 

*

 

 つれあいは朝5時に起きて6時の電車で病院へ向かう。私はすこし遅れて起きて、午前中は洗濯や風呂の掃除、買い物等の家事をこなし、職安を覗きに行く。昼食を済まし、しばらく新聞などを眺めてから、病室で二人で食べる夕食のお弁当をこしらえ、午後の3時頃に病院へ向かう。つれあいは赤ん坊の夕食を食べさせ、片づけなどをしてから先に家へ帰る。私は赤ん坊を寝かしつけてから、10時半頃の最終の電車に乗り込み帰ってくる。奇しくも前の会社で毎日残業をして帰っていた電車とおなじで、病院は会社より僅かひとつだけ手前の駅だ。かつての自分とおなじようなくたびれた顔のサラリーマンたちに混じって、いまは別の顔をして吊革にぶら下がっている。見える景色がすこしだけスライドしている。

 

*

 

 つれあいがとうとう風邪でダウン。二日ほど前から喉が痛いと言っていたのだが、今日は早めに帰らせて近所の病院で注射を打って貰った。和歌山のお義母さんはお盆が近いので手伝いに来れないと言うので、私の実家へ電話をして、もしもの場合は妹に来てくれるよう頼む。赤ん坊は元気である。だが相変わらずミルク以外の食事は小食で、お菓子やゼリーなどの類しか喜んで口を開けないし、洗い物や交換したオムツを捨てるためにちょっと側を離れてもぐずる。これも病人の我が儘かと思う。昨日のMRIの画像によると、皮膚の内側で漏れた脊髄液が少しばかり溜まっているらしい。病院では旧約のヨブ記をめくり、電車の中では幼い娘を連れてアフリカへ移住した写真家の妻の手記を読みながら家路へ就く。

 それと今日は午前中、こちらの大和高田にある保健所に行って、難病などの手術に対する育成医療の申請手続きをしてきた。医師の書いてくれた意見書では入院治療費等が延べ410万円(但し、当初予定の一回の手術での計算)の見積もりだが、このほとんどを国が負担してくれて、わが家が病院へ支払うのは一月あたりわずか2,200円で、これも後日に自治体より還付されるとのこと。はからずも「国」に大きな借りをつくってしまったわけで、私としては多少居心地が悪い気がしないでもないが、しかし大助かりだ。というわけで、明日に備えて今日は早めに寝ておく。

 

*

 

 二度目の手術の日にちが決まった。来週、8月8日の水曜日である。月曜の午後に医師からの説明がある予定。心配していたつれあいの風邪は一日で治ってしまった。ひき始めに注射をしてもらったのが良かった、と本人いわく。今朝もいつも通り6時に家を出て(但し乗り越して難波まで行ってしまったらしい)、赤ん坊の夕食が済んでから先に帰らせたのだが、少し咳があるもののわりと元気そうだ。夜になってから担当の若い(つれあいに言わせると「とても美人の」)K先生が傷口のガーゼの交換に来てくれた。この先生は自分がいつも子供に泣かれる嫌な役まわりなのに、紫乃さんがちっとも泣かずにいるのが嬉しいらしい。手術の前から見ているが「紫乃ちゃんは何か“ほんわか”としていて」「おおらかに育てられたんだなあって思う」と言ってくれる。「おおらか」かどうかは分からないが、そのふてぶてしさで彼女(赤ん坊)は看護婦さんたちの首に掛かっている聴診器を見事せしめて、よく玩具にして遊んでいる。

 ところで今日はつれあいの実家の両親が彼女の姪っ子であるSちゃんを連れて久しぶりに病院へ来た。和歌山のお義母さんは今回の赤ん坊の入院を近所には内緒にしていて、そのために本当は毎日でも来たいのを我慢して、今日も夏休みで泊まりに来たSちゃんを「プールに連れて行く」という名目で家を出てきたのである。お義母さんが内緒にしている理由は、ひとつは見舞いやお返しなどの煩わしさを避けるためだが、もうひとつは(多分それが一番なのだと思うが)隣町に住んでいるつれあいの前の夫の実家に話が伝わって、向こうの母親に「歳をとって産んだ子だから、それみろ」と思われるのが癪だという奇妙なプライドに拠るものなのである。私はつれあいの両親は結構大好きなのだが、お義母さんのそういう考えは実にくだらないし理解しがたい、と思う。すると私の妹が私に言う。「そういう世の中の仕組みはお兄ちゃんには分からないんだよ」と。結構。私はそんな「仕組み」など分からないし、未来永劫分かりたいとも思わない。だってそんなふうに「隠さなくちゃならない」なんて、紫乃さんがいちばん可哀相じゃないか。たとえダウン症だろうとハンセン病だろうと、恥ずかしいことなど何もない。誰にでも堂々としていればいいじゃないか。くだらないことを言いたい奴には勝手に言わせておけばいいじゃないか。そんな低レベルの奴と張り合うことこそ、そもそもくだらないことじゃないか。私はそんなふうに呟くのだが、世の中の仕組みの方は大抵びくともしない。

 

*

 

 大阪のウィークリー・マンションを借りる際、近所の親類から「桃谷、寺田町。あの辺は大阪でもガラの悪いところだから、夜遅くマンションを出入りするときは注意をした方がいい」とのご助言を頂いた。実際に二週間を過ごしたら別段にそんなことはなく、寧ろかつて私が暮らした東京の下町の雰囲気にも似て気に入ったくらいなのだけれど、長年のんびりした奈良に住んでいる人から見たら大阪はそんなイメージがあるのかも知れない。ところで私は桃谷のあたりは行ったことがなかったので、話を聞いてちょっと心配になった。マンションは関東から来る私の母と妹も滞在する。いや、母親は折って畳んで刻まれようと実家の家を処分して小金がつくれるだろうからそれはそれで構わないのだが、最近関西でも訳の分からない事件が多いから、ちょっとばかり妹とつれあいの身を案じたのである。とりあえず近所の店で「防犯ブザー」(一ヶ 850円)というのを購入してみたのだが、ただ警告音が鳴るだけというのもいざという時の対処にはいささか心許ない。それでインターネットで防犯グッズの類を検索して、値段がそれほど高くない催涙スプレーあたりがよかろうと思い、天王寺に近い(正確には東部市場前駅より歩く)あるマンションの一室の怪しげな店へでかけた。最初、漫画「ストップひばりくん」に出てくる大空組のセイジさんみたいな(知らない人はゴメン)ぬぼうっとした大男が出てきて、監視カメラやら盗聴器やらスタンガンやらふだんあまり見慣れぬ物が溢れかえった店内を見回し「催涙スプレーはどのへんですかね」と私が訊くと、この辺だとショーケースの一段を示すが、ただ商品が並んでいるだけで名前も値段も説明書きも何もない。「ええっと、これはどこからどこまでが...」「いろいろあります」「値段はどのくらいで...」「高いのから安いのまで、いろいろあります」「どんなふうに違うんですか」「まあ、それもいろいろあって...」 永遠に会話は成立しないだろうと私が確信し始めた頃に、奥からもっと愛想のある別の男がやってきて今度は丁寧に説明してくれ、私はその中から三千円の品をひとつ選んだ。アメリカからの輸入品で、かなり強烈だという。相手は目がくらみ、鼻水が出、激しい嘔吐を催し、噴霧したこちら側もすぐさまその場を離れなくてはならない。どんな目的で使うのかと問われて、関東の妹が大阪のウィークリー・マンションを借りてユニバーサル・スタジオ・ジャパンを見に来るので用心のためにと言ったところ、愛想のある男は催涙スプレーを一割ほど値引いてくれた上に、自転車などに付ける電池式の夜間用点滅器を「妹さんに」と言って呉れたのであった。結局、ウィークリー・マンション滞在の二週間の間に催涙スプレーを使うような出来事は起こらず、私は役目を終えた催涙スプレーを妹に売りつけようと「夫婦喧嘩のときに一本どうだ?」と言ったところ、電話の向こうで妹いわく「暴漢なら吹きつけてその場限りで逃げてくればいいけど、夫婦だと効果が薄れた後もずっと一緒にいなくちゃならないから具合が悪い」と断ってきた。

 

*

 

 こどもと同じ病気をもつ生後一ヶ月の赤ん坊が隣のベッドに入ってきた頃、私は要らぬ親切心からまだ若いその母親に、手元にあった二分脊椎の手引き書を手渡したことがあった。母親は礼を言い母乳を与えるときの仕切の向こうで、ベッドに眠っている赤ん坊の足下あたりに体を凭れてその冊子を捲っていたようだったが、しばらくして微かなすすり泣きの声が漏れてきた。私はまだ時期尚早だったか、渡さなければよかったか、と己に舌打ちした。この子はきっとよくなる、と自分に言い聞かせこらえていたものが、針の穴ほどの小さなほころびから糸をひいてつたいこぼれたのだ。

 昨日、午前中につれあいがひとりでいるときに担当のK先生が来て、9月に二分脊椎のこどもをもつ家族で滋賀の方へ泊まりに行く交流会があるのだがよかったら参加しないか、というY先生からの伝言を持ってきたという。Y先生たちは医師として長らく、そうした患者たちを含む活動にも参加してきたのである。あとで私にそれを伝えたつれあいはあまり乗り気でないようだ。言い方は悪いかも知れないが、そうした団体や活動に属するということはわが子の障害を認めてしまうことになる。この人は認めたくないのだ。いまもまだ、奇跡の類が起きてこどもの足はすっかり良くなるのではないかという思いを捨てきれないでいる。母親というのは、そういうものかも知れない。

 真昼。台所で病院へ持っていく夕食のおにぎりを握り終え、おかずに使う牛肉の下味をつけたところで、開けっ放しにしてある玄関からひょいと外へ出て煙草に火をつけた。ちょうど台所のラジカセの曲が変わり、モリスンの Raglan Road が流れ出す。アイルランドの懐かしい故郷の調べが、夏のもの悲しく屈強な光と戯れて雪のようにきらきらと輝いている。私はそれを見る。それを見つめる。

 

*

 

 今日は午後に、執刀医のY先生より水曜の再手術の説明があった。先日撮影したMRIの画像を見ると、かつて脂肪腫が広がっていた脊椎から背中側の皮膚の間に脊髄液が溜まって膨らみ、同時に脊髄への圧迫がだいぶ解消された様が見て取れた。背中側の脂肪腫で、全体の4割近くは切除されたという。あとは脊髄に癒着した脂肪腫を完全に切り離すことと、脊髄液が漏れないようにしっかりした縫合処置をすること。前者に関しては稀に10人に一人二人くらいのケースで脂肪腫が増大して再癒着を引き起こす場合があるので、手術後は毎月一回の検査と半年に一回程度のMRIによる定期的なフォローが必要となる。再癒着以外に残された脂肪腫が害となるようなことはない。脊髄への圧迫軽減による何らかの症状の改善は(あり得るとしたら)リハビリを含むある程度の長いスタンスにおいて現れるだろう。また今回の手術もまた、大体前回とおなじ程度の時間が見込まれる。おおよそ以上のような内容であった。

 ただつれあいの風邪がうつったのか、赤ん坊は昨日あたりから多少熱があり、今朝も38度近く(午後からは37度半ばに下がったが)、そしてくしゃみと鼻水が顕著で、続いて説明に来た麻酔科の医師によると手術延期の可能性もあり、若干微妙なところである。

 

*

 

 赤ん坊は風邪薬が効いたのか、鼻水はだいぶ少なくなってきた。熱は37度5分くらいで、手術にあたってはその辺がボーダーラインという。見かけはふだんと変わらず元気で、よく喋るし、ノリすぎて素っ頓狂な声も出す。夕飯には私のテイクアウトのパスタを欲しがって食べた。麻酔科の医師は微妙なところだと唸り、脳神経外科のK先生たちは現状なら予定通りいきましょうと言う。どらちにしろ翌朝までの様子次第で、判断は先生方に任してある。微熱があるせいか、あるいは薬のためか、今日は9時頃に眠った。

 つれあいは手術となるとナーバスになる。昨日は帰りの電車のなかで遠足帰りの元気な幼稚園児たちの姿を目にしたと言って、見開かれた両眼から涙が溢れそうになるのを、さりげなく話題を変えて落ち着かせた。

 私は私で赤ん坊を寝かしつけてから病院を出て、ひとり帰りの電車のなかで読むドゥルーズの微分哲学の中にかすかな光明(慰み)を見いだそうとしている。

 考えることは山のごとくあるが、いまは明日の手術が無事に終わること、とりあえず、ただそれだけを祈るしかあるまい。

2001.8.7

 

*

 

 手術、無事済ンダ。朝9時開始、夜7時20分了。執刀医ノY先生ハ「目的ハスベテ達セラレタ」ト。集中治療室ノベッドノ上デ情ケナサソウナ顔ヲ向ケ、点滴ヲツケタ手デコチラノ顔ヲ触リニキタ。ヒトツ終ワリ、マタ新シイ始マリ。家ニ帰ッタ途端、二人共ドット疲レガ出タ。

2001.8.8

 

*

 

 当日の朝は7時過ぎ頃に麻酔科の医師が検診に来て、しばらく腕組みをしていたが、結局「積極的に中止とする理由が見当たらない」ということで、予定通り8時半に別のベッドに移して手術室へ運ばれた。夕方5時半頃にナース室の婦長さんが手術室に電話を入れてくれるが、中には入れず「まだ手術はやっている模様」との報告のみ。ナース室に手術終了の電話連絡が入ったのは7時25分。前回より1時間短い、延べ10時間25分の手術だった。

 手術後、手術室に近い別室にて執刀医のY先生より受けた説明は主に次のとおり。

●脂肪腫の脊髄への癒着は、当初の目的通りすべて解消された(つまり脊髄から完全に切り離された)。脂肪腫はほぼ半分ほどの大きさになり、かなりスリムになった。

●残された脂肪腫は「深追い」をして神経を損傷する危険を避けたためで、それ自体は害はない。ただ稀に(これまでの経験では10人に1人か2人くらいの割合で)脂肪腫が増殖して再癒着を起こす可能性もあり、その場合はふたたび手術によって剥離しなくてはならない。そのためにある程度の成長期までは定期的な検査を必要とする。

●脊髄から各所へ伸びた神経は、背中側が感覚、お腹側が運動機能を担っている。今回の手術で、背中側の神経は脂肪腫が絡んでいたわけだが、お腹側の神経は問題がないように見受けられた。よってあくまで推論だが、現在出ている左足麻痺等の症状は、あるいは酷かった脂肪腫による脊髄への圧迫が原因であったかも知れず、そうであるなら(圧迫が取り除かれた今回の手術による)回復の可能性は残されている。ここ3,4ヶ月がひとつの見極めとなるだろう。

●手術部は内側にゴアテックス素材の膜を貼りつけ(これは脂肪腫の再癒着を防ぐため)、その外側に赤ん坊自身の臀部の筋膜を移植して縫合した。髄液が漏れないようにしっかり縫合したつもりだが、万が一漏れても自然吸収されるか、あるいは漏れがひどい場合は(注射器のようなもので)抜き取るかして、次第に膜も癒着してくるはず。漏れが皮膚の外側までしみだすような場合は、傷口をふたたび縫合し直すケースも稀にある。

●今回の手術では医師の判断により20ccの輸血がされた。(前回は輸血はされなかった)

●手術後、肺の検査も行われたが、風邪による悪影響等はいまのところ見受けられない。

 

 手術の翌日は、朝10時頃に集中治療室より病室へ移された。情けない顔は相変わらずだが、浮腫(むくみ)は前回ほど酷くはなく、顔をあげてべらべらと喋ったり、つれあいの両親が買ってきたキティちゃんのキーボードで遊んだりと意外に元気なので驚き、ひと安心した。だが午後から急に熱が40度近くまで上がり、座薬や氷嚢を使って夜には何とか38度くらいまで下がった。食事は病院食はまったく受け付けず、その代わりに初めて与えてみたポカリスエットをよく飲んだ。他に隣のベッドのお母さんから頂いた三色団子等を少し食べた。前回と同様、採尿の管と点滴を付けられているが、点滴が今回は足ではなく利き腕の右手につけられているために左手で引っ張ったり噛んだりして、夜には靴下のような手袋を巻き付けられてしまった。やはり疲れているのか、夕食後もべらべらと喋っていたが9時頃に部屋の電気が消されるとすぐに眠ってしまい、10時まで様子を見て帰ってきた。

 つれあいの風邪がうつったらしい。昨夜は帰宅後、シャワーを浴びてこちらもすぐに寝てしまい、今日は午前中に近所の病院で薬を貰ってきた。病院からのつれあいの電話では、赤ん坊は今日は熱は37度5分で、見舞いに来たつれあいの両親と遊んでいてびっくりするくらい元気だという。昼に薬を飲み、少し寝てマシになったので、つれあいと交替するするためにこれから病院へ向かう。

 昨日は病室に、まだ若い夫婦らしい、おなじ二分脊椎の生後一ヶ月の赤ん坊が入ってきた。

 Y先生から初めて「回復の可能性もある」と言ってもらい、つれあいは見違えるほど表情も明るくなり、そして張り切っている。覚悟も必要だが、希望も必要だろう。

2001.8.10

 

*

 

 座薬と氷嚢のおかげで熱も微熱程度で落ち着いてきた。ただし、赤ん坊はこれまでいつも右手の親指を吸って寝入るのが癖だったので、その右手を点滴に奪われ自由にならず、少しいらついているらしい。これまでで一番ぐずり方がひどい。そりゃあ、そうだろう。入院をして3週間目、不自由なうつ伏せ状態は2週間前からずっとで、その間に大きな手術を二度もこなし、鼻先でしか遊べないオモチャもそろそろ飽きて、その上精神統一に欠かせない右手親指まで奪われたら、いい加減自棄も起ころうというものだ。唯一動かせるのは首と左手のみ。そのせいか、いや心身ともに疲れているのだろうが、ときおりぴくりとも動かなくなって抜け殻のようにぼうっと目だけ開けていることがあるのだが、それが何だかはやくも人生を諦念した枯山水のようで、私もつれあいも見ていて可哀相になる。とりあえず点滴だけでも早く取れてくれたら、と思うのだが。

 今日は私も風邪気味で少し短気になっていたらしく、ささいなことでつれあいと言い合いになり、ぴりぴりしながら紫乃さんに夕食を食べさせたり寝かしつけようとするのだが、酷くぐずってうまくいかない。しばらくして交替したつれあいが赤ん坊に手枕をしながらそっと、親がぴりぴりして言い合っていると赤ん坊にもそれが分かって伝わるんだよ、と言う。彼女の手枕に頭をもたげて赤ん坊はうつらうつらと安らぎ始めている。誰よりもこの子がいちばん辛いのだ、と私は思い頭(こうべ)を垂れる。

 落ち着かない赤ん坊が気になるのか、今日はつれあいも最後の10時までいて、いっしょに11時に帰宅した。

2001.8.10 深夜

 

*

 

 赤ん坊が入院以来はじめて吐いた。朝と昼過ぎに一度づつ。洗濯や買い物を終えた昼頃につれあいから電話があり、今日は早めに来て欲しいと言うので、昼食もおいて病院へ急いだ。熱は37度少しで治まっている。吐き気止めの座薬を二度入れた。食欲は低下する一方で、ミルクを少しばかり飲むが、それ以外はほとんど口に入れようともしない。窓の外の最後の一葉を待つ者のように、無表情な視線をあらぬ方へじっと向けたまま、である。外の世界にまるっきり無頓着、というふうにも見れる。回診に来たK先生は、手術の疲れが出ているようですね、と言う。が、私たちにはそればかりでなく、何か精神的に途切れてしまったような感じさえ受ける。せめて右手の点滴を足に移してもらえないかと頼んでみたのだが、赤ん坊の血管を探るのは難しいらしい、やんわりと却下された。医者の判断であるなら、仕方ないのだろう。

 

 

 大抵のこどもはみな、健康に生まれてくるのに、どうして自分たちの子だけ、こんなふうになってしまったのでしょうね。

 深夜、おなじ病室の母親にそう言われて、私は思わず沈黙した。差異の発生についてのドゥルーズの論述が頭をよぎったが、それを平明な、生きた智慧に置き換えることばを、私はまだ持たなかったのだ。同時にそれは私自身が問い続け、いまだ答えを得ないものであったが故に。

 母親は荷物をまとめ、お先に、と挨拶をして静かに病室を出ていった。赤ん坊は私の目の前でときおり首の向きを違(たが)えては眠り続けている。窓ガラスの向こうに、大阪城の天守閣が浮き出た血管のようにぼうっと光っている。私は人気のない教会のベンチに腰かけ、ひとりじっと耳を澄ましているかのようだ。音のないことばを探して。

2001.8.11 深夜

 

*

 

 戦没者のうち、名前が判明し、合祀に値するかどうか調査が終わった魂を秋の例大祭で、本殿内の「ご神体」に移す。これが今も続く合祀の手続きだ。

 境内の明かりを消した、やみの中。名前を記した「霊璽簿」を前に宮司が祝詞を上げ、本殿正面の扉の奥に運び入れる。これで魂が引っ越したことになる。

 そして靖国は「いったん合祀をすれば魂は一体となる。分祀などという魂を切り離す概念はありえない」と言う。

(8月11日付朝日新聞記事より)

 

 およそ魂とか霊なんてものは、見えないものなのだからどうにでもなる。いわば生者の勝手放題だ。何なら私が「新靖国」を名のってテレビの横に祭壇を拵え、エノケンのCDでも流しながら累々たる死者達の魂を祀ろうか。何のお墨付きも権威も格式もないニセ宮司ではダメか。魂を祀るのにそんな国家の権威付けが必要なのか。人が死ぬなどということは、たとえそれが不遇の死であったとしても、所詮は台所のホイホイで憤死するゴキブリや赤ん坊の指先で圧死する蟻とおなじことではないのか。命というものはなべてすべて等しく、そうしたものではないか。そして大切なものは個々の生者の心の奥底に宿るのではないか。あるいは草葉の陰や陽の透けた向こう側に無限に散らばっていくものではないか。手続きや認可や拠り所(安置場所)などというものがほんとうに必要であるのだろうか。

 私はユングの記す魂や聖書に出てくるリビドーといったものにはときとして強烈な感動を覚えるけれども、前掲した靖国の魂には何の感動も感じ得ない。当の神社のそもそもの成り立ちや歴史的経緯をちょっとでも囓ったら、「靖国」なぞというものが如何にひとのリアルな魂とは無縁の、国家の馬鹿げたお祭り騒ぎの残滓・空虚でちっともイカシテない巧妙な演劇装置であるかということぐらい、チンパンジーのアイちゃんにだって分かる。だが得てしてニンゲン様の脳味噌はアイちゃん以下に落下し、「微妙な差異」は骨抜きとなり、この世では「単純で粗雑なもの」だけが大手を振ってまかりとおる。そうした「単純さ」というものは最近の間抜けな「小泉人気」などといったものと、結局は根が同じなのだと私は思っている。それは野山に粗大ゴミを捨てて平気で立ち去っていくような日常の風景ともつながっている。つまり知性も感受性も鈍化しているか、すっかり落剥してしまっているのだ。この問題で政治家たちが盛んに強調する「気持ち」の、何と薄ら寒いことばであることよ。

 加えて言うなら、例の悪名高きノータリン教科書を養護学級などといった「弱者」の場にこっそり採用するなど、その余りの下劣で姑息な手段に思わず反吐が出る思いがする。それらを管理する名前ばかりの教育者たちの間に何の反発も抵抗もなかったことに驚き呆れ果てる。私はわが子が将来「障害児」となって、そんな学校でしか教育を受けられないのだとしたら、ちゃちなこの国の義務教育など断固拒否する。自分の子の勉強なら、自分の手でもっと素敵な勉強をさせてみせる。ついでに言えば、当の教科書の出版サイドに相も変わらぬオモチャのごとき爆弾を仕掛けて歓声をあげる「淋しき左の人たち」にもおなじくらい閉口する。いつまでそんなオモチャの兵隊ごっこをして悦に入っているのだ。体制に対する威嚇なら、オウム真理教の方がまだ凄みがあった。いっそ、その優秀な頭脳で核兵器くらい作ってみせたらどうだ。一物さえいじけた、チンケな野郎ばかりで心底うんざりする。

2001.8.12

 

*

 

 赤ん坊はいつもの調子が戻ってきた。つれあいの両親が買ってくれたキティちゃんのキーボードを鳴らしては、どうだ、と得意そうな顔でいちいちこちらを見る。前日までの生気のなさは、やはり手術の疲れだったのだろうか。熱は37度くらいを保っている。病院食等の固形物は相変わらず食べないが、ミルクの量が平常に戻ってきた。とにかくひと安心。

 

 深夜、眠っていたと思っていたつれあいが目を開けている。そして、家にいても紫乃さんの声が聞こえる、と言って泣き出す。昼間、袖をひっぱってくるから頭を抱くように私の身体をおおいかぶせたらとても喜んで、脇の下に手をいれてけらけらと笑っていた。抱っこをして欲しいのよ。はやく良くなって、あの子を抱っこしてあげられたらいいのに。

2001.8.13

 

*

 

 赤ん坊がとうとう実力行使に出た。明け方に袋状の手覆いを脱ぎ、テーピングを剥がし、点滴の管を自ら引き抜いたのだ。残すところ二日半の予定だったのだが、体調が安定してきたこともあるのだろう、担当のK先生の判断であとは抗生剤の飲み薬でいくこととなった。赤ん坊の勝利、である。というわけで、今日は昨日にさらに輪をかけていたってご機嫌がよろしい。様子を見に来たじいちゃんの手からアイスクリームを「もっと!」と要求し、看護婦さんから聴診器や血圧計を奪いとって舐め回し、キティちゃんキーボードをグールドよろしく華麗に弾いては悦に入り、おやつのウエハースをはむはむと頬張り、夜は夜で阿呆陀羅経を独経してやまず、まさに王者復活といった感である。9時過ぎに何とか寝かしつけて、10時に病院を後にした。

 ところで今日は数日前に入ってきた生後一ヶ月のおなじ二分脊椎らしい女の子が朝から手術だった。まだ若い夫婦で、父親は朝からずっとベッドの端で雑誌のクロスワード・パズルを睨んでいるのだが、予定していた時間を過ぎても手術は終わらず、母親は気が気でないといった様子である。思わず近寄って、自分たちも一日がかりの手術を二回受けたこと、そしてY先生は無理をしないタイプだから、時間がかかるのはそれだけ慎重にやっていることだろうから心配することはないのでは、と声をかけた。どうやら私もここへ来て、すこしだけ変わってきたようだ。やはり二分脊椎で紫乃さんより症状の重い隣のベッドの二ヶ月のKくんは、こんどの金曜に「試験的」な退院を予定しているのだが、脊髄液を通すために頭に入れたシャントという人工的な管が詰まりかけている。詰まってしまったら24時間以内に手術をしなければ助からない。股関節脱臼で紫乃さんと同じ日に手術をした最古参の7ヶ月のRくんは、入院以来ずっと体調が思わしくなく、今日も血液検査で傷口の感染が疑われ、今週に予定していた退院がまた延期になってしまった。ナニワのカアチャンといった感じのRくんのママは思わずRくんに添い寝して、なあ、こんだけ頑張ってるんだから、もうあとはいいことばかり待ってるよ、と言っているのが聞こえてくる。

2001.8.13 深夜

 

*

 

 赤ん坊はひきつづき絶好調。病院食もすこしづつだが口にするようになってきた。先週から看護婦の実習生がひとりついてくれているのだが、今日は昼間、その実習生仲間がみんな紫乃さんを見に来て遊んでくれ、「バイバイ」を教えてくれたらしい。また今日ははじめて手にしたクッキーを自分で口に運んで食べることを覚えた。いままでは握らせても手のなかで弄んでいるだけだったのである。そうそうそれから数日前だが、これまでの下の二本に加えて、上の歯も生え出してきた。歯茎からほんちのちょっぴり顔を覗かせている。こうして病院のベットでうつぶせに固定されていても、確実に成長しているんだなあと改めて思う。手術の傷口の具合もきれいについているそうで、この分ならもう抜糸をしても良いくらいだとK先生が言ったという。心配される脊髄液の漏れも、いまのところ見当たらない。

 今日は夕飯に、湯がいたホウレンソウとかいわれを敷いた上に豚肉を載せてごまだれをかけた菜とバジル入りのガーリック・ライスをつくって持っていった。いつものように赤ん坊を寝かしつけ、10時の電車でドゥルーズを読みながら帰ってきた。

2001.8.14 深夜

 

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 朝から頭痛があり(風邪のぶりかえしか)、それでも夕方には病院へ行こうと洗濯や夕飯の弁当をこしらえたのだが、どうにも体調が戻らず、仕方なく今日はつれあいに頼むことにした。一日顔を見れないとなるとさみしくて、寝っ転がって赤ん坊のビデオを見ながら時折うつらうつらとしていた。

2001.8.15

 

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 隣のベッドの生後二ヶ月になるKくんのお母さんとつれあい、ふたりの母親が出産のときの体験を話し合っている。陣痛は男の人にはとても耐えられないと言われ、SEXのときに女性がイク時の快感を男が感じたら死んでしまうっていいますものね、と私が合いの手をいれ、つれあいに背中を叩かれる。つれあいとおなじく破水から始まったが、陣痛促進剤を使わなかったために出産が丸一日かかった、というあたりから話はKくんのことへ移っていった。

 Kくんは産まれたときに、頭は脊髄液が漏れる水頭症を併発していて異様に膨れあがり、背中には脊髄の神経を巻き込んだ形で骨髄瘤といわれるおおきな瘤があったそうだ。そして両足首はいまもそうだが、内側へ不自然に曲がっていた。Kくんのお母さんは顔だけを見せられて、そのまま疲れで眠ってしまったらしい。あとで夜中に保育器を見に行ってわが子の姿を知ったのだが、ショックでお乳が出なくなるのを心配した家族が病気に関する事実を伏せ、当初は治るものだと聞かされていたらしい。それから日を追って、少しづつ少しづつ本当のことを知らされていった。手術は出産の翌日に行われた。頭部と背中と腹部の三カ所を同時に開いて、骨髄瘤を切除し、頭からお腹にかけて脊髄液を安定して通すためのシャントといわれる人口の管をいれるのである。これが二度、行われた。だがこのシャントは幼児のうちは詰まりやすく、いまもKくんの側頭部は詰まりかけた管のためにぽっこりと一部が盛り上がっている。完全に詰まってしまったら、24時間以内に手術をしないと生命が危ぶまれる。Kくんはそのような状態で、明日、試験的に退院の予定である。

 Kくんの不自然に反った両足は後日、整形外科の手術で形だけは治るそうだが、麻痺した神経までは治せないらしい。誰も口に出しては言わないが、おそらく車椅子での生活は避けられないものと推測される。わが家の紫乃さんは、まだ分からないが、装具をつけて何とか歩けるようになる感じだろうか。私は、たとえどんな形でもひとりで歩けるなら結構と思わなくてはいけない、と言うのだが、ふたりの母親は、でもできるならビッコもひかずにスムーズにあるけるようになって欲しいと思いますよね、と言って肯き合う。それからなぜか三人とも、行き止まりの道に出くわしたようにふいと黙り込んでしまう。

 9月の頭に予定されている「二分脊椎の親子の交流会」へは、わが家もKくんのところも参加する意向である。今日、その話の詳細を持ってきてくれた(若くて美人の)K先生によると、バスは昼に病院から出て、2時間ほどで滋賀県内の現地へ着く。バリアフリーが完備された、やはり二分脊椎の子どもをもつ家族の経営するペンションに宿泊するのだが、今回は人数が多いために女性とこどもだけ相部屋でペンションに泊まり、男どもは近くの教会に寝袋を持参して雑魚寝だそうである。ぼくはK先生といっしょでもいいですわ、と私は言うのだが、私は寝相がひどいからきっとびっくりされますよ、とやんわり断られてしまう。しばらくそんな交流会の話で盛り上がり、Hちゃんのところもまた落ち着かれたら一緒に行けるかも知れませんね、とつれあいが数日前に入院してきた生後一ヶ月のこどものベッドに向かって言うが、母親はベッドに顔を伏せたまま何も返事は帰ってこない。日が浅い故に、まだそんな話をする余裕がないのだろう。つれあいとそっと目で肯き合う。

 紫乃さんは相変わらず絶好調である。いまや病室の中でいちばん元気で、ジャングルに棲む野生動物のごときおたけびをあげて悦に入っている。K先生は回診にくるたびに、紫乃ちゃんはお母さんの雰囲気そっくりですねえ、とてもほんわか・のんびりしている、と言ってくれるらしい。生まれてしばらくは何処へ行っても口を揃えて父親似だと言われていたのだが、入院をしてからは誰もがつれあいにそっくりだと言う。私が見ていても、このごろは特に目の辺りの表情がつれあいによく似てきたように思う。何にしろ女の子だから、やっぱりその方が良いというものだ。

2001.8.16 深夜

 

 

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