■日々是ゴム消し Log8 もどる

  

 

 

 

年末年始の簡略な忘備録。

 

12.28

 夜8時頃、紀伊の○○駅へ着く。タクシーもあったのだが、どのくらいの距離だろうかと、試みにOまで歩いてみた。約一時間。海沿いの岬越えは暗く淋しい道のりだが、ひたひたと、ひとり歩いていくのが気持ちよかった。用心のため財布の万札を靴下の中に移し替えて歩いた。

 

12.29

 昼間はビデオ・カメラを持ってOの集落や岡の上の小学校、墓地、港などを撮ってまわった。

 雑貨屋のおばさんの話によると、このOから駅へ行く山越えの道が昔にあった、と。かつてその道を、出征する兵隊さんを見送りに日に何度か往復した。いまはもうその道も定かでないだろう。

 夜、実家のお父さんたちとテレビで美空ひばりの半生を辿る長時間の番組を見る(地元の和歌山テレビ)。ダウンタウン時代に彼女のレコードを聴いて涙が出たという宇崎竜童がいかしたアレンジで「悲しい酒」などを歌い、新宿・ゴールデン街でひばり親子らとどんちゃん騒ぎをしたという岡林信康がかつての店でギターを抱え「越後獅子」を口ずさむ。よい企画だった。

 

12.30

 集落の広報誌に載っていた近くの寺(観音さん)の供養塔を見に行く。師走とあって、近在の家の親子が石段などを掃いていた。写真とビデオに収める。

 新聞で村上龍のエッセイを読む。破壊から脱出へと、小説のモチーフがシフトしていったこと。破壊せずとも、かつてのシステムは早晩自壊する。

 夜、テレビ(NHK)でタルコフスキーの作品と晩年の映像に材をとったフランスの企画番組を見る。水と樹の黙示録的な象徴。謎は永遠の希求を---

 

12.31

 居間でお母さんたちと紅白を見てから赤ん坊を寝かしつけ、つれあいと二人で近くの寺へ除夜の鐘をつきに行く。二人でひとつ、鐘をついてから、お屠蘇を頂く。

 

1.1

 新年をかねた赤ん坊の「お食い初め」 大きな鯛に、赤飯などを盛った紅色の膳。

 赤ん坊にお年玉を貰う。変な言い方だが、自分以外でお年玉を貰うのははじめてだ。失業中の私にかこつけて、つれあいいわく「紫乃さんはいまのわが家で唯一の稼ぎ手だ」と。

 夜、テレビでお母さんと玉三郎の「鷺娘」(長唄)、つれあいと恒例のウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサート。

 

1.2

 寝坊した寝床に入ったまま昼前、テレビで「不思議の国のアリス」の子供向けドラマを見る。

 午後、つれあいと港を散歩。夕刻、今度はひとりで港を見下ろす山の中腹の農道などをカメラを持って歩きまわる。風の強い一日。

 大晦日から泊まりに来ているつれあいの妹さんちのSちゃんらと、京都の苔寺を写した千ピースのパズルを始める。夜は二階で赤ん坊を囲んで子供たちと大騒ぎ。

 

1.3

 午後、つれあいと赤ん坊を連れて、岡の上の小学校に隣接する村の神社へ新年のお参り。

 つれあいの親類が、外交官の親の関係で昨年までロンドンで暮らしていたという小学生の兄妹を連れて新年の挨拶。こういうとき、私は大人たちと話をするより、子供たちと遊ぶほうが愉しい。三人で二階の私たちの部屋へ行って大はしゃぎ。

 夜、みなでテレビで「はじめてのおつかい」を見て寝る。つれあいは感動して泣く。

 

1.4

 朝8時のバスで帰途につく。大阪で阿倍野の職安を覗いていく。昼は王将の日替わりランチ。近鉄前はバーゲンの人手で賑わっていた。

 

*

 

 土曜日曜とふたたび和歌山のつれあいの実家へ泊し、成人の日の今日の夕方、ひとり帰ってきた。向こうでは何をしていたんだっけ。時代小説の好きなお父さんに、こちらの古本屋で買った池波正太郎の文庫を手土産に持っていった。お母さんと二人で海の見える畑へ行って葱を取ってきた。近所の床屋のおばさんが「元旦や掌に福にぎる赤子の微笑み」とかいった自作の俳句を持ってきてくれた。赤ん坊を連れて岡の上の墓地へ散歩に行った。“紫乃さん、きみはまだ生まれたばっかりだけど、死んだらたいていの人はこういうお墓の下で眠るんだよ” 焼き場の前のお地蔵さんを一体づつ見せ、実家の墓の前で「はじめまして」と挨拶をした。帰りは祝日で村のバスが休みだったので、また小一時間の道のりを海の青を眺めながら歩いてきた。翌日の朝でなく今日の夕方帰ると言うと、彼女はちょっとだけ泣いた。夕食はいつもの天王寺の王将で。カウンターに座って、中国系の女の子がレジの打ち方を教わったなどと言うのを聞きながら。家に帰ってトイレで小用を足そうとしたら、行きがけに排出した大便の大きなかけらが流れ切らぬままぽっかりと便器の中に浮いていた。不在の間、ずっとここでこうして浮いていたのか。そう思うと、なにやら哀しいような愛おしいような不思議な気持ちになった。

 

 年末に履歴書を送っていた、大阪にある建築関係の業界向けの雑誌等を発行しているある小さな出版社から、面接の前に「私の人生観」と題する作文を送るようにという封書が届いていた。試みに履歴書に添付しておいた、HPで書いた林業関係の書評が幸いしたのだろうか。あまりにも抽象的なタイトルで少々閉口したが、なんとかこんな拙文を書いて送った。

 

「私の人生観」

 人が社会的な存在である限り、人生の処し方というものは、それぞれの時代によって規定される部分が多分にあるだろうと思います。「人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない」 これは歴史学者・網野善彦氏の『「日本」とは何か』と題された近著の書き出しですが、私たちは現在、様々な意味で大きな価値観の転換期を迎えているように思います。文明の進歩という名の下にただ闇雲に前進していたその速度を少しだけ弛め、成熟した智慧をもって行動しなければいけない。網野氏の文章を私はそのように理解しています。頻出する少年の凶悪犯罪や、先進国の底深い闇を照らすカルト集団の信じがたい事件などは、ある意味で“進歩と効率”を掲げてひたすら走り続けてきた、この物質文明の産み落とした〈鬼子〉たちではないでしょうか。

 そのような時代に生きる一人の個人として私が感じているのは、たとえば Web 上に現出する仮想空間、情報の加速化、遺伝子操作に代表される生命科学の目覚ましい進歩、などといった旧来の価値観を覆すような現状を冷静に見据えつつ、同時にこれまでの資本主義という経済システムからこぼれ落ちて来たものたちを拾い上げ、一個の生活人として、自然を含めた大きな生命のつながりの中でそれらをもう一度見直してみたいという切なる欲求です。

 思えば車酔いをしていた幼少の頃から私は、〈歩く〉という単純な行為が好きでした。いまでも車を使うべき道のりを、時間をかけてゆっくり歩いてみることが時折あります。歩く速度が、車のスピードがふり落としていた様々なものを拾い上げてくれるのです。「もう数年もすれば新しい事態がやってくるだろうという予感はしている。おそらくそれに対応できるのは情報や通信に関わっている人々ではないだろう」 先日、ある本の中で偶然目に留まった、そんな言葉をそっと呟きながら歩くのです。

 歩くことのシンプルな居心地良さ。人々が寝食を共にする住宅というものの存在も、それに共通するものがあるように思います。案外、未来の住宅のヒントは、落ち葉の下に蠢く菌類たちの生活に埋もれているかも知れないし、あるいは逆に、海岸に雑然と並べられた前衛芸術家たちのオブジェに隠されているかも知れない。そのために余計な垣根を設けず、常にあらゆる感覚の扉を開放したままでいておきたい。私のささやかな人生の中で、「人生観」と呼べるべきものがあるとしたら、きっとそのようなものだと思います。

「幸福(happiness) とは、あらゆる事柄の中に単純さ(simplicity) を見つけだすことなのだと気がつくに違いない」

なぜ歩くのか?(コリン・フレッチャー・遊歩大全)

 

*

 

 人類と科学の未来について。記録して永久に保存できる言葉というものに拠っている情報とは「固定する」ものだが、細胞も脳も二度とおなじ状態ではいない、生きているシステムとはそのようなものだ。夕刻、炬燵にくるまって夕刊に載っていた解剖学者である養老孟司氏のそんな文章を読んでいたら突然、死によっていつか己が消滅するという、しばらく忘れかけていたあの悪寒のような戦慄に襲われ、しばしその恐怖におののき、凍りついた。はじめてこの感覚を自覚した日は覚えている。小学生の頃に布団の中で「自分はいつか消えてなくなるのだ、そして無限の時がただ流れるのだ」という事実に忽然として気づき、隣の部屋で父の仕事を手伝っていた母の胸にすがりつき、ぼくはいつか死んじゃうんだよね、そうだよね、と言って泣いた。言葉というものは一種のトリックのようなものだ。人がその事物について恰も心得ているようなつもりにさせる。だが本来、どのような感覚もそもそも「言葉にならない」、言葉という「記号」からはみ出してしまうほどの鮮烈でとらえがたい、生々しい何物かであるはずだ。ぼくらはそれに「名前」をつけ、とりあえず安堵する。あるいは命名することによって、それに馴化し、あの生々しく曰わく言い難いリアルな感覚を日常の些事の裏側に封印してしまう。「俺たちはみないつか死ぬんだ」という言葉さえ色褪せる。言葉が事物から、知らず落剥している。〈灰柱まで / 私の死の歩行が続いている〉 つまり言葉も脳細胞とおなじだ。おぞましい堕胎を繰り返したり、だらだらと清らかな唾液をたれ流しながら、薄暗い路地裏をふいと憑かれた魔物のように曲がるのだ。そうあるべきなのだ。〈神の光を臨終している.... 〉 赤ん坊の顔を見つめていると、ときおり不思議だが、自分の死というものが意識される。ある大脳生理学者の言うことには、生物に書き込まれた遺伝子のプログラムは子孫を残せなくなる年齢、いわゆる「更年期」までしか用意されていない。たいていの生物は過酷な生存競争に晒されて、そのプログラムの間に死を迎える。人間だけが特別なわけだが、生物学的には自らの遺伝子を写し終えた私はあとは死ぬだけの存在でしかない、ということになる。灯りを消して暗くなった部屋で、ときどき赤ん坊が眠ることを怖れているような、いつもと違う激しい泣き方をすることがある。そんなとき私は、ひょっとしたらこいつは自分が死ぬ存在であることを知っているんじゃないか、と思う。明確な死の認識でなくても、何かこの世に生まれ落ちたことによって負ってしまった影のようなもの。そんな巨きなものに怯えているような、そんな気がするのである。そんなとき決まって、私はブレイクのあの「迷えるこども」たちの詩句を思い浮かべる。

 

目覚めよ、目覚めよ、坊や
おまえは母の唯一の喜びであった。
なぜ、おまえは穏やかに眠りながら泣くのか。
目覚めよ、おまえの父がおまえを守っている。

「おお、夢の国はどんな国、
その山、その川は何なの。
おお、父さん、ぼくはそこに母さんを見た、
美しい水際の百合の間に。

仔羊に囲まれ、純白の着物を着て
母さんはトマスを連れて、とても楽しく歩いていた。
ぼくはうれしくて泣き、鳩のように呻く。
おお、いつぼくはそこに戻れるの」

坊や、私もまた快い流れのほとり
夜もすがら夢の国をさまよった。
だが、広い川は穏やかで暖かかったが、
向こう岸へ渡ることはできなかった。

「父さん、おお、父さん、ぼくたちは何をするの
この不信と恐怖の国で。
夢の国のほうがずっと良い
宵の明星の光にまさって」

 

 暗闇の中で私はこどもを抱きかかえ、耳元で囁く。「だいじょうぶ。何も心配しなくていい。お父さんもお母さんもずっとおまえのそばにいるよ。」 なぜなら、かつて私もそこからきて、いつかふたたびそこへ戻っていく身であるから。

 

*

 

 HPの表紙に貼っている盗聴法反対のステッカー経由で、名古屋に住むある女性から先日メールを頂いた。何でも10年程前に発生した妊婦が惨殺された未解決の事件の関係で、自分がおとり捜査に使われ日々命の危険に晒されている、コトの顛末の詳細と警察を告発するためのHPを立ち上げたので見て欲しい、そんな内容である。メールを貰った手前、なかば面倒くせえなあと思いながらもとりあえず覗いてみたのだが、特にどうも同じように誘われて見に来た人たちとの掲示板でのやり取りや本人の応対などを読むと、多分に被害妄想的な部分もあるのではないかという気もする。もちろん本当のところは当事者にしか分からないのだけれど、こういう内容というものは常に危うさを伴うわけで、私にはどこまでが事実であるのか判断がつきかねるし、費やす時間もない。まあ、ヒマな人がいたら覗いてみてください。

 そういえば年末頃に、このHPの書評欄でとりあげた「お骨のゆくえ」という本の著者から、「ご丁寧な感想を有り難うございます」といった短いメールを頂いてびっくりしたことがあった。マサカ書いた本人が読むとは思わずに色々偉そうなことを書いたものだと何やら恥ずかしい気持ちになったが、ホントに Web というのはどこで誰が見ているか分からんものだね。

 

 ところで前述した出版社の求人は、本日履歴書とともに断りの通知が届いた。履歴でなく、作文で落とされたのだからまあ仕方がない。あるいは別紙で提出した「自分の長所」を書く項に加えて「世の中の役には立たないことですが、こどもと犬にはよくなつかれます」と書いたのがまずかったかな、なんて。

 

*

 

 つれあいの耳の治療が「とりあえず」終了となり、日曜に車でひさしぶりにわが家へ、赤ん坊と共に和歌山の実家から連れ帰ってきた。向こうのお母さんもいっしょで、水曜に赤ん坊の定期検診があるのでそれまでいて貰う予定である。彼女の耳の方は、医者はやるべきことはやって、薬もこれ以上は副作用が怖いので、後は様子見というところだろうか。数値的にはだいたい戻ってきているのだが。おとといは待望のディラン来日公演のチケット発売日だったのだが、やはりこんな状況でもあるし、涙を呑んで今回は見送ることにした。仕事がまだ決まらないので、こちらも少し焦ってきている。今日も実家のお母さんがお風呂に行っているときに、彼女が私名義でつくっていてくれた定期をひとつ解約しようかという相談。情けない話である。彼女の耳の快復が遅いのも、私のせいではないだろうかと思ってしまう。私と出会わなかったら、彼女は安定企業に勤める堅実な夫といまごろ何の心配もせず暮らしていられた。なのに私はその犠牲に報いてやることもできない。要するに愛する妻やこどものために、私は自分を殺すことができないのだ。自分を殺して生活のためと割り切るのなら、いくらかでも仕事はあるはずなのだが、理由をつけて選んでしまう。罪深い己のエゴ故である。「わたしはこの子のためなら何でもできるのに、○○さんは煙草のひとつも止められないのね」と今日も彼女にやんわりと言われた。深夜、ぐずる赤ん坊をやっと寝かしつけて、彼女と赤ん坊が寄り添うように静かな寝息を立てて眠りについている。ブレイクのいう「エーテル界」の無垢の眠りだ。私はひとり焼酎のお湯割りを苦々しくあおる。私はデクノボウなのである。田圃の隅でカラスに笑われてつっ立っているだけの間抜けな案山子のようなものだ。

 

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 今日は大阪の職安。最近は奈良も大阪もパソコンを導入しての検索となって旧来の紙のファイルが消えつつある。が、台数に制限があるので、ひとり30分とか40分までとかの時間制限付きの検索である。しかも条件検索というものは、たとえば営業なら営業一筋という人にはその一発検索の機能が便利なのだろうが、職種以外の細かなニュアンスは削ぎ落とされるために、私のような「何でもあり」の求職者にはかえって煩わしさも覚える。昨日も奈良の職安で職種を特定せずに画面上のファイルをひとつずつ見ていたら、後ろから係りのおばさんが近寄ってきて「これ、ぜんぶで3600件もありますよね。ひとり30分ですから、職種を絞って検索してください」と要らぬ節介を言ってきた。情報のデジタル化とは、かようなものか。加えて高齢者には操作がおぼつかずまごついてしまう人もいるだろうから、果たしてパソコンの導入が良いことなのか私には何とも言えない。少なくとも全ての人がゆっくりと閲覧をできるように、もっと台数を増やすなりして、時間制限なぞというものは撤廃すべきではないのか。私は何やら、時に「大嘘」などと落書きもされていた、かつての紙のファイルが懐かしい。

 徒手空拳で家に帰ると、つれあいと実家のお母さんがすでに夕食を作りかけていて「外は寒かったろうね」と優しく迎えてくれる。今日は天ぷらで、昨日は「赤っぽ」という魚の水炊きであった。お母さんも本当は大層気になるはずなのだが、そんな素振りは見せずに、仕事以外の当たり障りのない話題をいろいろと話してくれる。そんなあれこれが、かえって私には辛く感じることもある。ほんとうの優しさというもは、そんなふうに傷口に擦り込まれるようなものであるのかも知れない。送る方も受け取る方も共に傷ついていて、共にせつない。あるいはそんなものかも知れない。

 今日は夕食の後で、私が読んでいる小沢昭一の日本の放浪芸の話から、和歌山の実家のお寺に毎年春と秋に請われて来る「説教坊さん」の話を聞いた。お母さんは少女の時分から、親に言われて聞きに行っていたという。お母さんに言わせると、難しい話をするのは「下手くそ」な坊さん、「易しくて分かりやすく面白い」のが上手な坊さん、であると。節談(ふしだん)説教といわれるこうした話芸は、これもひとつの歴史を湛えた芸であって、現代の漫才などにも大きな影響を与えているという。

 

*

 

 昨日は赤ん坊の皮膚科の検診で、午後から私もいっしょに病院へ同行した。病院までは電車を駅ひとつ、それから15分ほど歩く。赤ん坊にとってははじめての電車である。例の背中の「毛巣洞 / ろう孔」は例のごとく、素人目には孔が塞がってきているようだとの彼女のお母さんの期待も虚しく、一年ほどしてからの画像スキャンにての判断、と。ほかに首周りの赤い湿疹と、頭部のかさぶた様のもの(脂漏性湿疹)もついでに診て貰う。乳幼児はいろいろ出来物も頻繁なようだが、この子はとくに肌が弱いようだ。しかし弱いのは赤子の肌だけでない。行きは私がおんぶ紐で向き合わせに抱いていったのだが、帰りは馴れるためとつれあいに背負わせたところ、生理痛もあったのだが帰ってから気分が悪いとしばらく横になる始末。ほんとうは今日帰る予定だった実家のお母さんは、それを見て一日、和歌山へ帰るのを遅らせることにした。

 ところで昨日はあの阪神・淡路の大地震から丸6年目であった。夜にみんなで関連企画のテレビ番組を見た。あの悲惨な災害を伝える当時のニュースで、私はふたつの異なる、とくに印象的に残ったささやかな場面を覚えている。ひとつはおそらく私と同い年くらいの男性が焼け跡で、どこにもぶつけようのない怒りと悲しみを、手にした残骸を足元の地面に叩きつけて表現していた。そしてもうひとつは幾人かの老婆が、焼け跡にロウソクを立ててなんまいだぶなんまいだぶとただ一心に念仏を唱えていた。私はそこにふたつの世代の乖離を見たのである。私と同世代の男性にはもはや焼け残った残骸を地面に叩きつけるしか他に術がないが、あの老婆たちは絶望と悲嘆の中でそれでも何か大きなものにつながっている、あるいは悲しみを癒すためにつながりたいとすがろうとしている、そんなふうに感じたのだった。それはつまり、ふだん信じてやまない日常の諸々が足元からすくわれたとき、どちらが強いのかというようなことだ。それこそが「宗教」の果たす役割であって、豊かな物質文明の中で私たちの世代が忘れ去ってしまった「謙虚さ」ではなかったろうか。

 赤ん坊はさまざまな意味で、日々変わりつつある。その変化を見るのは、ある種の敬虔な驚きのようなものだ。感情表現が豊かになってきたし、人を識別する力、人によってだっこの度合いを変えて要求する知恵もついてきたし、興味のあるものには自分から手を伸ばすようにもなったし、長々とお喋りがとまらないときもある。この間は湯舟にいっしょに浸かっているとき、向かい合わせに両脇を抱いていたら、ちょうど私の腹部に当たっていた足をぐいと突っ張ってきたので大袈裟に後ろにのけぞって呻いて見せたらそれが気に入ったらしく、何度もやってくる。以後、それがお風呂での二人だけの楽しいゲームになった。足を突っ張る。私が大仰にのけぞってみせる。それを上目遣いに確認して、にんまりと満足してふたたび足を突っ張る。次第に興奮してきて声も出てくる。私も突っ張りの強度によって頭を震わせたり回したりする。二人で汗だくになって、そんな遊びに興じている。

 そういえば先日、わが家より一月早く長女を出産した東京の友人からこんな酔っぱらいのメールが来ていたので、これもついでに引用しておこう。

 

 年末年始はお互いの実家や挨拶回りなんかで、ようやく今週が正月休みみたいな気分だ。

 最近はちょっと美味い日本酒に凝ってて、今もちびちび銘酒”久保田”なぞを舐めながら、隣の部屋では”ふー”と”ひな”が二人で寝息を立ててます。今度行くときは土産に美味い日本酒を持っていくので、ちびちびとやりながらやれ娘が寝返り打っただの”このわざ”をすると一番笑うだのファーストキスはすでにお父さんがもらっただのと。アホな会話をしているところを想像して実際にほくそえんでいるところからするとちょっと酔っ払ったらしい。”とーさんよっぱらっちゃったぞ、と。”って鶴太郎のギャグを思い出したのだ。

 先日警察当局から会社の上司に連絡があって、”お宅のユーザが不正なWEBを立ち上げ、犯罪まがいのことをしているので、サーバのLOGを捜査の為に情報協力という形で提出にて欲しい”との話があったらしい。(うちの社員でもほとんど知らないが、蓋を空けたらアダルト関係だったらしい。)他にもやれスパムメールの苦情やいたずらの類の話はホント絶えなくて、おまけに知らないで○○教の信者が加入したりで、家に帰るとほとんどPCは触らずに、日菜里と遊んで、飯食って酒飲んで、ほろ酔いでギター弾いては”うるさいから”といわれ、日菜里にチュ―しては”くさいから”っておこられてつつも”これでいいのだ”ってバカボンになって寝る。それが最近のライフスタイルよ。

 

 どうだろう、この見事な親バカさ加減は。って、実はこっちのトーサンも娘のファースト・キスはすでにしっかり頂戴して、ひとりほくそ笑んでいたのだった。どうにも始末に負えんわな。

 

*

 

 夜、つれあいが風呂に行っている間、はたで寝ている赤ん坊の子守を任された。しばらくパソコンの画面に向かい放っておいたのだが、やがてひとり遊びに厭きて少しぐずってきたので、ふとギターを持ち出してBGMにかけていたトム・ウェイツの初期のナンバーに合わせいい加減なリードを弾きはじめたところ、赤ん坊ははじめて見る楽器に興味津々で、目をまるくしたまま黙ってフラットを抑える指と私の顔を交互にいつまでも見つめている。それからCDを止めて、ディランの Forever Young とレッドベリーの Goodnight Irene を弾き語りで歌ってあげた。赤ん坊はじっと大人しく聴いていた。この曲の歌詞がちゃんと伝わってくれていたらいいのだけどな。

 今日は昼過ぎに彼女の実家のお父さんが電車で来て、お母さんといっしょに帰っていった。またしばらく家族三人だけの生活である。夕刻に職安から戻ってから、たっぷり赤ん坊と遊んだ。つれあいがびっくりするくらいの上機嫌で、ときどき「へへ、へへ」と声も出して笑う。こちらが離れたところにいても、目で探し出して遠くからニコリと笑う。今日は最後のミルクを飲んでから、実にあっけなく眠ってしまった。眠りながら微笑んでいた。きっと大満足の一日だったのだろう。

 赤ん坊の心というのはほんとうに無邪気なもので、邪心がない。邪心がないということが、こちらの心が洗われるようで、救われるようで、ときとして涙が出てくるほどのものだと思う。

 もうだいぶ以前、私が彼女と知り合うよりもっと昔に、深夜に酔っ払って書いた八木重吉もどきの落書きのようなこんな詩を思い出したのだった。

 

わたしにこどもができたら
それがおんなのこだったら 桃子 と名づけよう
○○ 桃子
なかなか 似合っていると思わないか

仕事もなにもかも みなほうりだして
一日中桃子とあそんでいたい
そうすると
桃子の無邪気な心が わたしに映えるだろう

 

 こんなことは果たして書いてしまっていいのか分からないが、今日はつれあいの元の職場の同僚の去年結婚したばかりの若きNさんより、彼女が子宮筋腫になってしまって子供をつくるなら早いうちがいいと医者に言われた、という便りが届いた。子供に関することだと最近トミに涙もろいつれあいは、Nさんは子供好きでたくさん産みたいって言ってたのに、ほんとうに誰でも普通にできると思ってたら間違いなんだよね、と手紙を読んでしばらく泣き続けていた。

 

*

 

 くたびれたお母さんの横で静かに眠っている紫乃さんの顔は、まるで何処からかふらりと立ち寄った清貧の旅の僧が一夜の宿の礼にとかたわらの木ぎれに刻んだ無垢な仏像のそれのようです。その寝顔をじっと見つめていると極楽も地獄も心持ち次第だと、そんな気持ちになってくるのが不思議です。

 

*

 

 抱っこ紐で赤ん坊を背負うおんぶのことを、和歌山のつれあいの実家では「おっぱする」と言うのだが、今日は夕方、裁縫の仕事があるつれあいに代わって、この「おっぱ」をしながら夕食の支度をした。ところでこの抱っこ紐、こちらで買ったメーカーものの新製品より、実家のお母さんがとっておいた昔ながらの年代物の品のほうがシンプルで装着しやすい。メーカーものは前向きの抱っこも出来るので構造がやや複雑になっているのである。抱っこ紐で赤ん坊を背中にくくり、その赤ん坊ごと包み込む長いベストのような半纏のようなもの(ピンク色)を羽織る。こうして台所に立つ姿はさながら女房に逃げられた哀れな亭主のようで、映像をお見せできないのがつくづく残念だ。今夜のメニューは十八番の鶏肉のステーキと野菜スープ。赤ん坊は背負われるとすぐに寝てしまうのだが、ときおりもぞもぞと手足を動かしたりして、何やら背中に大きな虫でもいるような心地。強火で鶏肉を焼いているときにはパチパチと油の弾ける音が聞こえたのか、やおら背中から「ホ−−−−ッ」と奇妙な声が聞こえてくるのも楽しい。母の背中は郷愁的だが、父の背中はいかがなものなのだろうか。こんなことを知ったら彼女の実家のお母さんは嘆くだろうが、いやなに、男も体験してみるのもオツなもの。ちなみには私は赤ん坊を「おっぱ」したまま食事をし、つれあいといっしょに片づけを済ませ、そのままトイレに入って大便までしました。臭かったかな、ごめんね紫乃さん。

 

*

 

 私は仏教もキリスト教もアイヌの神話もおよそ宗教的なものならばどんなものであれ、いくばくかの興味と共感をもって接してきたが、おそらく心の底ではそのどれも信じていない、いまだ信じきれない。死というものは無に帰することだとしか実感できないのである。永遠回帰のような生命の豊かな円環のような素朴な信仰を希求しているが、肉体が震えるような実感にまでは至らない。今日、無邪気に微笑んでいるこどもの顔を見つめていたら、彼女をこの世にあらしめたことは果たして良いことだったのだろうか、生まれてこなければ無の静謐のなかに安住していられたのに、生まれてきたことによって死という重荷を死ぬときまで背負わなくてはならない。そんなあられもない妄想が一瞬、頭の中をよぎり、呆然とした。私自身に関していうなら、たとえ死の恐怖に凍りつくことがあっても、それでもなお生まれてきて良かった、せめてこの地上に意識のあるうちに感覚の全てでこの世界を感じ尽くし、自分がここに存る意味を見出したい、そう思っているのだが、生まれてくるこどもは自ら生を選択することが出来ないのである。願わくば私はこの子に私とおなじように感じ、「すべての雀が墜ちるように すべての砂のひと粒のように 人間という名の不確かな現実にぶらさが」(Dylan・every grain of sand)りながら、生きていって欲しい。生という有限性のなかで、ささやかな無限のかけらを砂浜の貝殻のようにそっと拾いあげて欲しい。そして五月の新緑の風に光の素足を吹かれながら、生まれてきてよかった、そう思えるようになって欲しい。そんなふうに、願ってやまない。ひとが永遠に生きられるとしたら、神話も草のようなやさしき心根も生まれてこなかったろうと信じるがゆえに。

 

 赤ん坊と無邪気に遊んでいるとき、私は自分がいちばん素直でありのままでいられる。この世でしなくてはならないことが何ひとつなかったとしたら、私はきっと時間を忘れていつまでも赤ん坊と遊び続けていられるだろう。何も気にならないし、気にする必要がない。それはきっと赤ん坊が、この地上の煩雑な価値観をまだ何も身につけていないからだ。まっさらな白いキャンバスにあたらしいクレヨンで、二人でピカソのような絵を描いて無心であそぶ。

 

*

 

 “あらあら、抱っこをしてミルクをあげている最中に、この子はよそ見してお父さんの姿ばかり探している。お父さんを見るといつも嬉しそうににっこり笑って、私にはこんな笑い方なんか滅多にしてくれないのに、紫乃さんはほんとうにお父さんが大好きなのね”  そう、“彼女”は私のちいさなちいさなソウル・メイトだから。

 

 .... 紫乃さん、雨が降ってきたよ。今夜は雪になるかも知れない。酔いどれトムが素敵な歌を歌ってくれてる。お父さんも焼酎のお湯割りでちょっとだけ酔っ払っている。こんな夜は、すこしだけ暖かい気持ちになって、懐かしい古ぼけた昔のアルバムをめくるような気持ちで、あの勇ましいドンキホーテのような Nowhere Man のこしらえた計画に耳を傾けよう。ちょっぴりの涙と、ちょっぴりのあたらしい思いつきが見つかるかも知れない。

 

*

 

 昨日は午前中、つれあいと赤ん坊を連れて近くの図書館へ行った。赤ん坊の貸し出しカードを作るというので、つれあいのカードを使えばいいじゃないかと言うと、そうしたらあたしが借りられなくなっちゃうじゃないの、と。絵本を二冊に紙芝居をひとつ、借りてきた。

 

 今日はまた数日前から耳の具合が少し思わしくないつれあいが和歌山の病院へ行くので、ほとんど半日を赤ん坊と二人だけで過ごした。ミルクやほうじ茶をやったり、哺乳瓶を洗って消毒したり、オムツを替えたり、ウンチを拭き取ったり、あやしたり遊んだり寝かしつけたり、抱っこ紐で背中にくくって自分の昼食の用意をしたり散歩に連れて行ったりと、なかなかどうして忙しい。昨夜ははじめてつれあいに赤ん坊の入浴を頼んだのだが、たまにこんなふうに時折互いの立場を入れ替えてみるのも相手の苦労が分かって良いことだと思う。育児というのも結構体力が要って大変なものですぞ、男性諸君。ある意味では会社行ってる方がラクかも知れない、ホントに。

 

 きはらさんのおすすめの『妖精現実 faireal』のサイトをあちこち覗いてみる。話題も多伎に富んでいて面白く読めるし、一見ばらばら無節操なようで一本筋がとおっていて、また制作者のWebに対する姿勢が小気味よい。占星術のフリー・ソフト、ウィンドウズのみの対応が残念です。

 

 偶然時を同じくして、Musicの項に書いたトム・ウェイツのファースト・アルバム評の感想が二通、メールにて届いた。ひとつは東京の悪友Aからで、もう一通はハンドル・ネームkaznsaさんから。うろ覚えだが昔読んだチェホフの短編の「ひとつの端がゆらいだら、もう一方の端に火が点った」ようなささやかな感慨がうれしい。こういう感想はメールでも掲示板へでも送ってください。私も張り合いがあるというものだ。無断で一部を引用する。

 

 どうでもいいことで恐縮だが、最近、君のH.P.の音楽欄を見てなかったのだが、僕もほんとに偶然なのだが、トム・ウエイツの「クロージング・タイム」を買った。
 無性にピアノの弾き語り、それもなんか上品なやつじゃなくて、煙草の煙がゆれてるような安酒場で疲れた感じで聴こえてくるやつ、が聴きたくなって、衝動的に買ったのだ。
 そのような気分であったので。
 しかし、今まで聴いたことがなかったんだが、初期のトム・ウエイツというのは、いい声してたんだねえ。初めて知った。 最近のしわがれ声もいいけど、僕はこの頃の声の感じがぴったりくる。とても自然で純粋なような気がする。要するにわざとらしくない。
 ビリー・ジョエルっぽいんだけど、そこまで品がよくない分、味がある、というか、自分にはしっくりいく。
 これは、まさしく傑作だし、名盤だよ。
 それだけだ。

(Aのメール)

 

 当時、レコードのカタログ(schwann?)を見ながら、名前は知らなくてもasylumというレーベルだけで新しいアルバムを注文していたような気がする。節操のない買い方だと友達は笑っていたが、トムウェイツの発見だけは僕の自慢だった。
 彼の私生活など知る由もないが、酒とたばこでつぶしたのどを週末の場末のバーで、その場限りの客を相手に披露する。そんなシンガーを頭の中で作り出して、レコードを回しながら、初めてウヰスキーのストレートを飲みだした(お酒はほとんど飲まなかったのに、あほかいな)。
 いまごろ、どうしてトムウェイツなんだろう。
 確かにそんな季節なんかいな、とも思うけど。まれびとさんには辛い一人暮らしなんかな、とどうでもよい想像をしてしまう。
 自分と同じレコードを聴く人には、意味もなく親近感を抱いてしまうんです。

(kaznsaさんのメール)

 

 赤ん坊が私の指を引っ張っていって自分の口にあてがい、ぺろぺろと舐める。その珍妙な感触が可笑しくて思わず私は笑い出してしまう。赤ん坊は一瞬口を離し、笑っている私の表情に気づいてから、またぺろぺろと舐め出す。その仕草が可笑しくて私は笑い続ける。赤ん坊が口を離して笑い続けている私の表情を確認して、こんどは自分もけらけらと笑いながら、また私の指を舐める。私は笑い続ける。赤ん坊も笑いながら私の指を舐める。それが何度も何度も繰り返される。二人の笑い声に世界がかき消えてしまうようだと思い、笑っている私の目尻に涙が滲んでくる。

 

 図書館で借りてきた村上龍の「希望の国のエクソダス」を読み始める。

 

*

 

 数日前に子宮筋腫のことで触れたつれあいの元同僚のNさんからメールを頂き、「ついでにホームページを見ている若い女性に、検査を受けるように薦めて下さい」との由。こんなダサいサイトを見ている「若い女性」が果たして存在するのかどうか分からんけど、とりあえずメールの一部を紹介しておく。そういえば私はもう何年も健康診断なんてもの、受けてないぞ。

 

 ついでにホームページを見ている若い女性に、検査を受けるように薦めて下さい。最近は、若い女性に増えているようですし、自覚症状がない場合が多いそうです。私の様に、痛みがあっても、”いつものこと”と放っておいたら、手遅れになる場合も無くは無いですから。妊婦さんが溢れている待ち合い室で、検査結果を待つあの辛さを経験した者にとっては、自分だけで十分です。

 

 また、きはらさんからもこんなメール。

 

 宮内さんの『善悪の彼岸へ』を読みました。
 面白かったこと...

 オウムには「美」が欠けている、という指摘。
 「だいたい思うのだが、レノンやディラン、ニール・ヤングらの音楽を本気で聴いていたら、怪しげな新興宗教の類などに簡単に取り込められるはずがない。そういう感じ、分かります?」というのは、まったく同感です。

 仏教に内在するニヒリズムというのは薄々感じていたのですが、やはりそうですよね、という感じです。

 子供を見ていると、ふと、自分が死ぬときのことを思ったりします。この子もやがて老いて死ぬのだな、とも思います。そういう時こそ、強烈に命を意識している瞬間かもしれません。

 

 今日はつれあいが、ミルクをやりながらだったか、オムツを取り換えながらだったか失念したが、赤ん坊の顔を眺めて「この子もいつかこどもを産んで、こんなふうに私とおなじことをするのねぇ」としみじみと呟いた。そんな、きっとどこの家庭でも繰り返されているだろう「普通の会話」が、そしてそんな会話を交わしている自分が、何だか最近、いいなあと思えるのである。どんな哲学書の難解な言葉より、そんなふつうの言葉がいい。何というか、長年旅暮らしばかりしていたテキ屋が所帯を持ってひとつところに落ち着いたような、国民年金を生まれてはじめて払うような、そんな感じで、それは私にとって「あたらしいこと」なのだ。だから雑多なベビー用品やこどものオモチャの類で狭い部屋中が次第に占拠されていく様も、ほうそうか、これがあの.... ってな感じで、何やら奇妙に面白いのである。

 

*

 

 大音量で鳴っているディランの Like A Rolling Stone や I'ts Alright, Ma (I'm Only Bleeding) などを子守歌に眠る赤ん坊というものは、はてさてどんなものだろうか.....

 

 今年の夏に潰されて駐車場になるという畑から、苺を引き抜いてきてアパートの通路に置いているプランターに植え替えた。

 

*

 

 深夜にトム・ウェイツのファースト・アルバムをヘッドホンで聴いている。最近は夜になるとこればかりだ。何か波長が合うんだろうな、こころの周波数のようなものが。いつも夜の10時頃になると、つれあいが隣の部屋に赤ん坊を連れて行っていっしょに寝る。それからぼくはひとりパソコンに向かってこうした駄文を綴るわけだが、昨夜と今夜の二日続けて、寝かしつけようとすると赤ん坊は火のついたように泣いて頑強にこれを拒否した。たいていある程度泣けば、泣き疲れてじきに寝てしまうのだが、今回はそうではなかった。何かまだ遊び足りなくて、あるいは急にさびしくなって、眠りに抵抗するという感じなのだ。今日もいたたまれなくなって隣室へ行って抱き上げると、泣きながらすがりついてきた。そのとき赤ん坊から伝わってくる感覚。ひどくひとりぼっちで、そして自分を頼り切っているという強烈な感情。それがストレートに伝わってきて、腕の中で号泣する赤ん坊に思わず頬ずりをしていっしょに泣いてしまいそうになる。こんな小さな命にこんなにも求められているという気持ちがそうさせるのだ。それから気の済むまで何時間でもいっしょに遊んでやり、気持ちが落ち着いてからつれあいの隣の布団にそっと帰してやる。彼女はすこしばかりぼくが子供を甘やかし過ぎで、多少泣き喚こうと時間通りに寝かす癖をつけなくてはけないと思っているようだが、ぼくにはそれができない。だってバタイユも書いている「個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある存在と他の存在とのあいだには深淵があり、非連続性がある。私たちは、あなたも私も、非連続の存在なのである」 ならばきっと赤ん坊もそのことの意味を感じていて、ぼくがその絶望的な深淵を埋めようと無力な抱擁を赤ん坊に対して示したとしても、それほど酷い罪ではあるまい。こんなことを書くのは、きっとぼくはひどく疲れている。酔いどれトムの適度な湿り気をもった声がそんな気分にさせる。というのも彼女がぼくに何か話をしながら、とても嬉しそうに笑っているようなそのとき、ぼくはときどき自分も彼女もいつかきっと死んでしまって、こんなことは何もかも消えてしまうのだと思ってとても悲しい気持ちになる。この間はこんな他愛のない夢を見た。ぼくらは和歌山の実家にいて、向こうのお父さんから奈良の十津川でおいしいラーメンを食べたというのを聴き、それじゃこれから行こうよと彼女に言って、自転車に彼女と二人乗りして十津川へ向かうのだ。そこで目が覚めて、隣でうつらうつらしていた彼女にぼくは「いっしょに自転車で十津川へラーメンを食べに行ったんだよ」と言った。彼女は確かに聴いていたのに、翌朝にはすっかり忘れていた。今日はテレビで、東京の山手線のホームから酔っ払って落ちた人間を助けようと飛び込んでいっしょに死んでしまった留学中の韓国人青年を含む二人の人の葬式を見た。ぼくならきっと、その場で立ちすくんで何もしなかったろうと思う。だがそんなふうに潰えてしまう命も、ある。祭壇の菊のラインが少し寄っていたな、とテレビを見ながらぼくは思ったのだった。それはほんとうにバタイユの言うような「非連続性」なのだろうか。いつかこんな話を聞いた。伝染病の確実に死ぬという子供に口うつしで食事を与えている若い看護婦がいた。あなたは自分の死の可能性を考えないのか、子供は確実に死ぬと分かっていて、それであなたも死んだらそれは無駄死にではないのか、と問われて、彼女はこう答えたのだった。それでも子供の死の恐怖を和らげてやることはできる、そしてそのことによって私の死もその子供によって救われる、と。くりかえすが、これはバタイユの言う「非連続性」だろうか。連続と非連続という冷徹なことばのあわいを突き抜ける何かがニンゲンにはある。連続ではないが、非連続でもない。とはいえ、何が何だかほんとうのところはおそらく誰にも分からない。看護婦がその後死んだのかどうか、死んだとしたら彼女は果たして救われたのかどうか、きっと神様にしか分からない。ぼくに分かっていることといったら、いまこの身があるうちに、精一杯の愛おしさで彼女を抱きしめ、ちいさな赤ん坊の手を握りしめるということだけだ。まさに「時は海だが、岸辺まで」だ。明日は、会えないかもしれない。ああ今夜はトム・ウェイツなんだよ。かれの音楽がすべてだ。ぼくらは非連続の悲しい存在かも知れないが、それだけでは終わらない。それで今夜のぼくはといえば、いつものようにパソコンのスイッチを切り襖をそっと開け、彼女と赤ん坊が安らかな寝顔で眠っているのをしばらく眺めてから、布団にすべり込み、すべてを忘れて眠る。

 

*

 

 朝10時頃、親類でもあるアパートの大家さんの若主人が梯子を持ってきて、私がアパートの屋根に登って雨樋に詰まっていたゴミなどを掃除する。昨夜雨が降ったときに、雨樋の外を伝って流れる雨がウチの雨戸の袋の部分に当たってひどい音がしていたので、相談して点検することにしていたのである。若主人は高いところが少々苦手のようで、いつも私が登ることになっている。

 お昼前、三人で買い物。いつものように私が抱っこ紐で赤ん坊を前向きに抱いて、歩いて15分くらいのスーパーまで。入り口のところで山積みされたタマゴの特売。割引券をお持ちの方100円、お持ちでない方は138円の札に、「この間貰ったチラシに付いてたやつだ、持ってくるの忘れたな」「じゃ今日はいいじゃない、まだ冷蔵庫にあるし」「でも138円でも安いから買っていこうよ」なぞとつれあいと話していたら、たまたま通りかかったおばさんが「割引券、使ってないからあげますよ」と財布から畳んだチラシを出して渡してくれた。

 それからスーパーの近くのガレージを利用した八百屋さんへ立ち寄る。最近二人で発見したお店で、低農薬のまだ泥のついたとれたての野菜を、毎週火曜と土曜だけここで店を開いて売っている。しばらくガレージの中で店のおばちゃんと話していたつれあいが、やけに小さな玉葱の入った袋を持って出てきた。玉葱をくださいと言ったら、少し芽の出かけた小粒のものしかなくて、「この間買った大きいのがひとつだけ残ってるから、じゃまた土曜日に買いに来ます」とつれあいが言うと、「それまで足りないと何だから、じゃこれ持ってって」と只で呉れたのだという。「それで他に何にも買わなくて悪くないのかなあ」と私が言うとつれあいは「だって呉れたんだもの。またこの次買えばいいじゃない」と平気な顔をしている。

 午後から私はバイクに乗って職安を見に行き、帰ってきてから夕刻、前述の親類宅へ家賃を持って三人ででかける。私の母親の従姉妹にあたるおばさんが宮参りの時の写真を見たいと言っていたので、それも持っていった。十津川村の出身で長年小学校の先生をしていたおばさんは、数年前に脳溢血で倒れてから下半身が不自由になってしまい、いまもリハビリを続けている。親類宅に着いて若主人が顔を見せた途端、赤ん坊が激しく泣き始めてなかなか泣きやまなかった。外でこんなに泣くなんて珍しい、そろそろ人見知りをするようになったのかな、などと話す。

 いっしょに暮らしている、おばさんの亡くなった旦那さんのお姉さんが、家の前の路で近所の飼い犬に噛みつかれて転んで腰を打ち、病院へ連れて行くのに車まで運ぶのを手伝った。帰りは小学生のヨシくんが家の前の畑まで出てきてくれ、大根を引き抜いて一本渡してくれた。

 

 *

 

 今日は町の保健センターでの赤ん坊の定期検診だった。私も愛用の抱っこ紐を装着して、午後からのこのことついていった。保健センターは電車で二つ目の役場の近くにある。定刻よりやや早めに着いたのだが、じきに赤ん坊を連れたお母さんたちがぞくぞくと集結。いや、いることいること。待合室のソファーの上に赤ん坊を横にして外出着を解きながら、つれあいといっしょに隣のお母さんたちと、あら、この子も可愛い顔して、いやそちらこそ、なぞと話していると、いったい俺はこんなところで何をやっているのか、とふと我に返ったりして。体重や身長のなどの測定と、簡単な医師の診断、それに離乳食を前にした栄養指導などもしてくれる。というわけで身長は64センチ、体重6980グラム。平均的にも順調な増え具合だそうで、出産時より約4ヶ月で身長は16センチ、体重は4キロ増えたことになる。

 

*

 

 盗みをしたことは幾度か、ある。

 いちばん最初の経験はたしか小学生の高学年の頃で、近所のイトーヨーカドーのおもちゃ売り場から「超合金」のロボットを箱ごとくすねたが、すぐに怖くなって、結局一度も使わないまま公園の隅に穴を掘って埋めてしまった。たぶん万引きのスリルを味わいたかったのだろう。

 二度目の盗みは中学生になったばかりの頃。小学生のときに好きだった女の子が引っ越していった埼玉の蒲生という町を、電車に乗ってこっそり訪ねていった。いまならストーカー行為と言われそうだが、その見知らぬ町を徘徊している途中に入った古びた雑貨屋で、店の人がだれもいなかったのを幸いとばかり、アポロの形をしたチョコレート菓子を持ち出した。結局、彼女の通っているらしい日曜の人気のない中学校を見て、あとはぶらぶらと帰ってきた。

 最後は20代の頃。当時ひとりで住んでいた東京・品川のアパートの近くのコンビニで、菓子パンを買ったついでに、焼き鳥の缶詰をひとつポケットに忍ばせた。これは本当に金がなくて夕飯の足しにしたのと、「ラスト・ワルツ」の映画の中でザ・バンドの連中が売れない頃の思い出話として、ひとりが安いパンを持ってレジに行っている間に他のメンバーがコートの内ポケットにソーセージなどを突っ込んだ、という話をちょっぴり気取ったのである。

 

 そういえば小学生の頃、家の金を盗んだこともある。

 子供の頃、わが家は玄関から入ったすぐが広い土間を改築した父の仕事場で、そこで父と母と二人でたいてい夜遅くまで仕事をしていた。そして次の部屋が畳の六畳間で、妹を入れて家族四人で川の字で寝ていた。その部屋のタンスの上段の小さな引き出しの中に、母がいつも家計費らしいお金を封筒に入れて仕舞っていたのを私は知っていて、私は何度か立て続けにそこから千円札を数枚づつ盗んだ。盗んだ金は、家の近所のお宮さん(神社)の裏手にある雑貨屋で、下級生を含めた遊び仲間に振る舞って大層いい気分であった。

 ある夜、いつものように隣の部屋で両親が仕事をしているとき、布団からそっと起き出して暗闇の中でタンスの引き出しを探った。と、寝ていたと思っていた妹が目を覚まして、お兄ちゃん、何をしてるの? となかば寝ぼけ眼で声をかけた。私は慌てて妹の枕元に寄って(ああ、何と瞬時に知恵が回ることであったか)、今度のクリスマスのときにね、宝物探しをするんだ、それをいま隠しているところだから誰にも言っちゃ駄目だよ、お母さんたちにも内緒だよ、と耳元で囁くと妹は、うん分かった、愉しみだね、と言ってまたすぐに大人しく眠ってしまった。

 そしてクリスマスの夜。ささやかなケーキとジュースと紙の三角帽子と手製の貧相なツリーを愉しんだあとでそっと妹が、お兄ちゃん、宝物探しやらなかったね、と残念そうに私に呟いた。うん、あれはやめにしたんだ、と私はぶっきらぼうに答えた。何やらとても嫌な気分だった。それ以来、タンスのお金を盗むのはやめてしまった。

 

*

 

 つれあいがエルメスとやらのブランド品の赤い靴を、あんまり派手でもう履くこともないだろうから、と近くのリサイクル・ショップに預けていたのが売れた。売値は3500円だが、店のマージンと、それから最初に払っていた預け料300円をさしひくと、こちらの取り分は1200円くらいであったという。彼女はそのささやかな金額を、紫乃さんのお小遣いにしてあげるの、と言って、最近つくったこども名義の通帳に大事に預金した。

 俺は相変わらず徒手空拳だ。やぶれ疲れたこころのはたで、呑気に草を食んでいるやくざな騾馬のようなものだ。今日は昼間、ほんの一瞬だけ、冷たい牛乳瓶の底のような空に小雪がちらついた。地表にも残らぬ、まぼろしのような乱舞が清々とただ悲しい。道路っぱたの痩せた畑に葱がひょろひょろと突き出ていた。そのそばで、色褪せた豌豆の竹柵がうらぶれてつっ立っていた。夢の世に葱を作りて寂しさよ、と確かそんな句もあった。

 

*

 

 夜更けに焼酎のお湯割りを飲みながら、ひとりヘッドホンでオーティス・レディングの A Change Is Gonna Come を聴いている。あ・い・う・え・お、でさえ満足に書けない朝もあった。テレビのニュースではこの冬一番の寒波だといっているが、氷の中に奇妙な軟体動物の肢体がのそりと蠢いている。暗い大きな影のような彫像に向かって、私は誰も知らない証文を読み上げる。

 

*

 

 かつて苦しい季節に、こんな拙い詩を書いた。

 

狂気へ到る道
それを示唆するのは
こころ優しきひとたちだった

私は黙って
肯くより他になかった

 

 深夜に隣室の襖をそっと開け、こどもの寝顔をじっと見つめていると、揺り起こして昼間の遊びの続きをしたいと思う。なぜなら“彼女”はミルクと真新しいおしめと純粋な喜び以外には私に何も要求しない、この世の価値で私を裁いたりしない。ただふたりで、あーあーと言葉以前の囁きを交わし、見返りのない無心の笑いを共有するだけだ。それは精神の弛みだと言う人がいるかも知れないが、私はそうは思わない。そうは思わない。

 

 

 魂 soul という語は新約聖書に102回出てくるギリシャ語のプシュケ− psyche の訳語である。

 

 新約聖書のもっとも目立つパラドクスのひとつが、プシュケ−(魂)は自分自身を救うことはできないということである。実際、プシュケ−が自分自身をわがものとしようと思えば思うほど、いっそう失いやすい(マルコ 8・35)と記されている。

 

 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。(マルコ 8・35)

 

 愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちに取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意したものは、だれのものになるのか。(ルカ 12・20)

 

 新約聖書のなかのどの語よりもプシュケ−という語は、ユングが“自己”という語で意味するものの核心に近い。つまりそれは高慢な、防衛的な、計画をたて、自分の安全をはかろうとする自我的自己ではなく、むしろ自分が死ぬものであることを知り、全体性への欲求をもつことを認め、自分の現在の体、時間、場所をこえた意味に参与しているということを鏡に映ったものを見るようにおぼろに認識している、もっと深く広い自我である。

 

 真に危険なのは死や苦痛ではなく、プシュケ−を誤解すること-----最悪なのは、失うこと-----である。

 

 

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