■日々是ゴム消し log6 もどる

 

 

 

 

 酔いに任せたい深夜。彼女は隣の部屋で淋しく独り寝をしている。私の心は憧(あくが)れ出(いず)る。いずこへでもなく、どこかこの世の果ての砂漠のような無明の土地へ戯れにふらふらと。「非在であって非在でない、そのような」、とビデオの中で死んだ中上健次が喋っていた。癌に冒されげっそりと無残に痩せた風貌が痛々しかった。優しき鬼面のようであった。黒潮の沸々とした海を思い出す。山の神の孕んだ雄々しき風の音を思い起こす。生まれくる胎(はら)の子は、異貌の愚者であって欲しい。優しき鬼であって欲しい。鬼の子は鬼。淋しき草の音をともに食(は)んでみたい。 

 

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 童顔なのでいつも実際の歳よりひとまわり以上若く見られる。そればかりか性格も穏やかな、物わかりの良い人間に見られる。とくにつれあいの友人たちなどにはよく、「激することなど決してない、とても優しそうな人だ」などと評される。だが、ぼくだって夫婦喧嘩もする。食事の最中につまらないことで言い合いになって、思わずカッとなって菜の盛った皿を壁に叩きつけたこともある。部屋は惨憺たる光景となり、彼女は泣き崩れる。そのたびに、自分には強い破壊衝動があるのだと我が身を恐怖する。いままできっと、自分はそうやって生きてきたのだ。毀れるものなら、毀れちまえばいい。いっそ毀しちまった方がすっきりする。建築より廃墟を愛したのかも知れない。だがこの愛情だけは毀したくない。そんな夜、ディランの Make You Feel My Love と Born In Time のライブ・テイクを繰り返し聞く。そのたびに胸突かれる。こいつは幻を追い求めているのだ。幻は幻のままであった方がひょっとしたらいいのかも知れない。だがこのせつない情熱の、なんと裸で無防備で、知らず涙の滲むほど真摯なことか。

 今日の仕事は奈良市郊外にある団地の集会所での葬式の準備だった。生花を入れにいくと、白髪の婦人がひとり、おそらく夫であったのだろう、祭壇の遺影を前に並べられた椅子のひとつにぽつねんと座っていた。床が汚れていると言うので、手持ちのタオルでしばらくごしごしと拭いてあげると、ひどく喜んでくれた。それからまた椅子に座って、遺影を黙っていつまでも見上げていた。

 

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 夜、広島の爆心地に近い小学校の壁から発見された当時の伝言を取材したNHKの特番「オ願ヒ オ知ラセ下サイ」を見る。救護所に充てられた学校のコンクリートの壁のあちこちにチョークで書かれた、家族の安否を尋ねるさまざまな文字の記憶たち。消息不明の幼い娘の安否を乞う母親の必死の文字。伝言の中に姉の名前を見つけ壁を指でなぞる妹。被爆した母親が寝かされていた柱の上に書かれた「患者 村上」の文字を見つめ、涙する娘。文字たちは時間を越え、空間を歪め、残された者たちのこころを爆ぜる。あるいは死者の側から、生者をすくいあげる。それは不思議にリアルで荘厳で、まるで銀河鉄道の車掌がひらりと舞い落とした郵便物のような、荒々しく砂漠の岩に刻まれた古代の聖句のような、そんな奇妙で鋭い感覚なのだ。「核兵器は抑止力となりうる」なぞという、この世のシステムから発せられた粗暴なことばは、それらのひとつひとつのいのちの理由、その微妙でつましい無限の彩りを冷酷に削ぎ落とす。人間とはかくも愚かで、またかくも美しい。知れず涙が出た。

 

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 私のなかにひとつの石ころのような「論理」があって、身近な者からはそのためにしばしば「理屈っぽい」なぞと言われる。それでも私はその石ころを手放すまいとしてきたから、自然と世間の間で角が立つ。石ころにそぐわないものは拒否し、ひとなら切り捨ててきた。私は、たいてい孤独であった。

 その石ころの神通力も、彼女にだけは通用しなくなった。いつものように私は己の筋を通そうとし、正確なことばの連射を紡ぎ出す。そんな私を前にして、彼女が見せるのはいつも、深い沈黙と涙である。そして彼女はこんなふうに私に言う。「難しい理屈はいらない。ことばじゃなくて、気持ちなの。みんな、あなたのことを愛しているのよ」と。私は、哀れな石ころを落としかける。

 いつかテレビで見た藤原新也とダライ・ラマの対談で、藤原新也がダライ・ラマの滔々とした語りをしばし無言で聞いてから、わたしはいまあなたのその〈声〉にずっと聞き惚れていました、と応えた。そしてかれが語ったのは、いま世界中にあらゆる「論理」は溢れているが、「肉としての声」が欠けている。「論理」はあるが、「ボイス = 肉の霊の愛」がない、そんな内容だった。

 そういえば、と思い出す。それとよく似たような響きのことばを、どこか別の場所でも聞いた。生まれつき車椅子の生活をしている友人のEちゃんと、何かの心理療法について話をしていたとき、すべてのことに理由を求める必要はない、何ひとつ根拠のない救いというものもある、と彼女が言ったのだった。

 

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 町田康の「壊色(えじき)」をぱらぱらと捲る。

 みんなはふぬけについて考えないか。
 僕はつい考えてしまう。
 ふぬけというものはどういうわけか公園に一人でいることが多い。そして公園には小学生くらいの子供が遊んでいる。ふぬけは思う。「私は子供らと遊びたい。しかし最近は誘拐などの犯罪が多発しているので子供は警戒するだろう。困ったな。そうだ、菓子を買ってきてやろう。そうすれば仲間に入れて貰える」そしてふぬけはパン屋に走ってつまらぬ駄菓子を大量に買い、子供に与える。しかし子供はそんなものに喜びはしない。そこいらに投げ捨ててどこかへ行ってしまう。ふぬけは駄菓子の散乱する人気の無い公園に一人、しょんぼりと立っている。ふぬけは小声で言う「どうもうまくいかんね」ロマンチックな音楽が流れている。
 このようにあらゆる局面において現実はふぬけを打ちのめす。

 

 古い忘備録の片隅に昔記した錬金術のことばを見つける。

 ここに、みすぼらしい不恰好な石が立っている。
 それは、金(かね)にしても安いものだ。
 その石は愚者に軽蔑されればされるほど、
 ますます賢者に愛される。

 

 ひさしぶりに新約聖書を書棚から取り出し、ひろげてみる。

 わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、言ったであろう。あなたたちのためにわたしは場所を用意しに行く。行って用意ができたら、戻ってきて、あなたたちをわたしのもとに迎えよう。そうしてわたしのいるところに、あなたたちもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたたちが知っている

 

 天国というのはきっと、公園でさびしく立ち尽くしているふぬけたちの行く場所に違いない、と思う。

 

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 30代になるまで、定職というものを持ったことがなかった。だから例えば、これまでボーナスというものをマトモに貰ったこともない。いつも勇気がなくて、自分の居場所を決めあぐねて、ふらふらと気儘にだらしなく生きてきた。嫌なものは切り捨ててきたから、責任というものもなかった。無職のときは税金も払わなかったし、長いこと年金や保険の類にも加入していなかったから、社会にも寄与していなかった。いまで言うなら「引きこもり」をいつもどこかで引きずっているようなもので、幾度もその危ういラインを跨ぎかけては戻り跨ぎかけては戻りしていた。生きているだけで上等さとうそぶき、親に食わせて貰っている時期もあった。実の妹に、出て行きなさいよ、と言われたこともあった。深夜にはふらふらとデクノボウのように徘徊し、路上のシケモクを拾い歩き、部屋に帰ってスタンドの灯りの下でユングの書物をまるで聖書のように黙々と書き写していた。いわば、存在しないも同然のごくつぶしだった。

 C.W.ニコルさんの、ある小説のこんなくだりが棺桶に刺さった杭のように胸に沁みた。

 ...ライフルを持ったまま、長いことじっと座っていた。臆病者め、やれよ、やっちまえ。そいつを口にくわえて、慈悲深い弾丸にありがたく脳味噌を貫通してもらえばいいじゃないか。ほら、やれよ、臆病者....

 ...ジョアンはお茶を入れてくれ、隣に腰をおろした。そんな些細な親切が何かを解き放ったのだろう、わたしは肩を震わせてすすり泣きを始めた。ジョアンはわたしが持っていたカップと受け皿を取り上げると、肩を抱いてくれた。“マイク、そのうちみんなうまくいくようになるわ、きっとよ。自分が何者で、どこに行って何をすればいいのか、きっとわかるわよ”

 

 彼女に出会ったのは、ちょうどそんな頃だ。当時彼女には短くはない歳月を共に暮らしてきた配偶者がすでにあったから、その狂おしくも混乱した二人の季節の最後の時期に、ぼくはたとえばこんな言葉を記しもした。

 きみには●年間続けて来た幸せな結婚生活があるし、それを見守って来た互いの家族や親類や多くの人たち、友だちや博物館の仲間たちもいる。きみに好意を持っていろいろな所へ連れて行ってくれる●●や●●の人のような人たちもいる。みんなきみに優しく、まるで自分のことのようにきみのことを心配してくれる。立派なマンションの暮らしもあり、車もあり、将来の保証も、年金も保険も、貯金もクレジット・カ−ドもある。そして何よりもきみを愛し、きみを大切にしてくれ、支え続けて来た一流企業に勤める堅実な夫がいる。

 教えてあげよう。

 それらすべてを捨てるほどの価値など、このぼくには、ないさ。

 

 そして彼女は、ぼくのもとへやって来た。積み上げてきたもの、この世の価値のすべてをことごとく捨てて。新沼健次ではないがまさに裸ひとつで、ごくつぶしのような、逆にこの世で何の価値もない、このぼくのもとへやって来た。そんな人に、これまで会ったことはなかった。それだけで彼女は充分、ぼくと同じくらいクレイジーだ。酔狂でなければ、余程イカれている。

 だから、誰が何と言おうと、彼女はぼくにとって、いつも天国の宝物のような存在に等しい。あなたの命には、世界と引き替えにしていいくらいの価値がある、と彼女は言ってくれたのだった。そう、ただ一人、彼女だけが。

 

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 昨日の休日は午前中、ひさしぶりに三輪山へ登ってきた。大神神社の鳥居前にバイクを置き、隣接する大物主の荒御魂を祀った狭井神社の社務所で登拝の手続きを済ませ、登拝許可の襷(たすき)を肩からかけて一気に駆け上った。ホンの数百メートルの低山とはいえ、汗が湯水のように滴り落ちる。なにも祈るものなどない。ただ清冽な樹木の青がこの身に映れと思いながらあえぎ登った。奇怪な縄文の巨石群が跋扈する山頂は静寂に満ちていた。古代の戦慄が真昼のように凍りついていた。汗でしとどに濡れたシャツを傍らの枝にひっかけ樹木の根元にもたれるように座ると、鼻先のバッタの面相をうつらうつらと眺めながら、そのまましばらく浅い惰眠を貪った。

 

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 定時で一日の仕事が終わり、そういえば冷蔵庫にビールが無かったなと思い、近くのダイエーに寄った。ビール売り場には直行せず、主婦ならぬ主夫でもある私はまたしても、そういえばそろそろ台所の屑切りネットが切れる頃だなと思い、エスカレーターで二階へ。大型の百円均一の店で30ネット入りで100円というブツを二つ手にレジに並ぶ。と、下りエスカレーターのそばで子供服の叩き売りをしているのが目についた。主夫ならずもうじき新米パパの予定もある私の足は即座に反応した。どれどれ、と五百円や千円の処分値の付いた夏服をあれこれ物色しているうちに、藍染め模様の可愛らしい半袖のワンピースを見つけたこの男は、しばらくそいつをひっくり返したりめくってみたりしていたがやおら、ひょいと掲げて「小さいなあ」と呟き、なぜかひとりニヤニヤしていてどこから見ても相当危ない。しかしこの藍染め模様の服地、つれあいは実はあまり好きではない。彼女はもっとさっぱりとした感じが好きなのだ。私はしばらく思案した後、結局諦めて階下へ下る。つれあいは最近ゼリーやヨーグルトの類が好きになってきたので、「マンゴームース」なるプリン状のものと、苺とナタデココの入ったヨーグルトを買っていこう。ビールは苦しいわが家の家計を考えて、ここダイエーでは自社ブランドの一本90円という超低価格のビールを半ダース買う。ダイエーが韓国かそこらで作って逆輸入している発泡酒で、国産よりはやはり味も劣るが贅沢は言えない。レジで金を払っていたら、後ろに並んでいたオヤジがあんまり安い値段でびっくりしたらしい、「おお、ネエちゃん、それビールか? 安いのか?」とレジの女の子に言い出した。「ネエちゃん」では埒が明かないと思ったらしい、こんどは私に向かって同じようなことを聞いてくるので説明してやると、「そうかあ、そうかあ」と興奮醒めやらぬといった風で、「ビールも最近はいろんなものがあるからなあ」とニコニコした顔を親しげにこちらに向けてくる。こういうオヤジは、結構好きである。

 

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 ひさしぶりに和歌山のK町で仕事。田舎の方は樒(シキビ)が多い。たしか関東ではあまり見かけなかったと思うが、関西では縦棒にモクレン科の常緑樹である樒を挿して細長い白布を覆ったシキビというものを葬式に立てるのである。場所によっては材木を番線でくくってダテをつくり、そこにシキビを立てかけていく。

 朝から祭壇や生花(パイプ花)の準備の他に、そのシキビをTさんと二人で50本挿して、昼前に出発。先に天理の花の市場へ寄って冷蔵庫に足りなかったシンビジウムを1ケース受け取り、そこからまた南へ下って和歌山方面へ。遠距離なのでほとんど一日がかりの仕事である。炎天下の中で汗をだらだら流しながらシキビをくくっていく。結局、家から持っていった弁当を食う間もなく、喪主宅で用意してくれた缶ジュースばかりを数本飲んでは慰みに腹を膨らませた。

 故人は70歳ほどの男性で、奥さんが仕上がった祭壇を見に来て、「こんなに花で綺麗に飾って貰って....」と目を細めていた。大きな手術をしたらしく「もう最後の頃には見舞いの花も見たくないから捨ててくれと言ってて」と言うので、「きっともう、この世に執着がなくなったんでしょうね」とあいづち打つと、ほんとうにそうかも知れないとしみじみ頷く。最後は「さあ、もう去(い)のか」と呟いて亡くなったという。

 

 ひさしぶりに日が暮れてから帰宅すると、つれあいより報告が二件。申し込んでいた県営団地の抽選にはずれたこと。こうなれば家を買うしか無いと宝くじを二千円分買ったこと。

 

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 寝床で八木重吉の詩集を訥々(とつとつ)とめくった。

「統(す)ぶる力」というのはどこか遠く懐かしい、見果てぬ永久運動機関の夢か、古代の失われたパピルスか、あるいは草いきれの奥でキラキラと光る日溜まりのような言葉だ。

 

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 つれあい恒例の「大草原の小さな家」を食後に二人で見たあと、そのままNHKの教育テレビでたまたまだが、ふたつのよい番組を見た。

 ひとつは「未来への教室」と題した、ノーベル賞作家ウォーレ・ショインカが故郷ナイジェリアの自らの母校で子供たちに授業をするというもの。かつての植民地政策などで国民の多くがキリスト教やイスラム教に改宗させられ、古来からのアフリカの神話や世界観から切り離されて育った子供たちに、ショインカは身近な者や町の人たちに聞いて失われたそれらの信仰について調べてくるようにと言う。この番組は明日も続き、明日は子供たちがアフリカの伝統的な神話劇を自分たちで上演することで、そこに秘められた西欧の価値観とは異なる価値観や意味を体験していくというものらしい。「われわれはどこへいくのかという問いと同じくらいに、そこへ向かっていくのは誰なのかという問いも重要だ。そして誰なのかという問いはそのまま、どこから来たのかという問いに結びついていく」と言ったユングの言葉が思い出される。同じようにショインカは言うのだ。祖先から受け継がれてきたアフリカの根っこを再認識することは、子供たちにとってこの世界を生きていくための有効な武器となり得る。根っこを何も持たなければ、溢れているさまざまな価値観をただ受け取るだけだ、と。

 もうひとつは「教育トゥデイ」という30分の短い番組で、精神科医でありカウンセラーである医師の土屋守氏が、自らの娘が学校でいじめに会ったときの体験を語ったもの。「娘」「いじめ」とあって父は如実に反応し、ついつい見てしまった。しかしこの父親は強い。娘さんに対してどんな言葉をかけられましたか? というインタビュアーの間抜けな質問に対して「何もないですよ。ただ受け止めるだけ」と言いながら、埒の明かない学校側の対応に対しては断固として闘いを挑み、たとえば質問状をFAXで学校に送ったところ教頭からFAXは他の教師たちにも見られるので控えて欲しいと言われ、逆にFAXをますます送りつけたりする。その一方で娘には精神療法の一環として「いじめ日記」を書くことを勧め、それにより彼女は己の状況を客観視し、自らの感情と向き合うことを学び、「私は絶対に負けない」と記すまでに至る。「いじめは絶対になくならないですよ。あれは快楽だからね、やる方にとっては。考えたら怖ろしいことだけど」という氏の言葉が、つかえた鉛玉のように喉に残った。

 

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 たとえば胎児が子宮のなかで生育するとき、はじめはひとつの丸いかたまりである「手」が、間の細胞が死ぬことによって「指」の形が形成される。(これらはあらかじめプログラムされている) つまり細胞のレベルでは、「生」のなかにすでに「死」が含まれている。

 どこからが「生」で、どこまでが「死」だろうか。
 そのような区別はそもそも存在しないのではないか。

 遺伝子のレベルでは「個体」や「種」といったものは「組み合わせ」の一種にすぎない。
 生命の大きな流れがあって、そのなかでの「組み合わせ」や「関係」が、「生」と「死」を含んだ多様な世界をつくりあげている。

 これらはひとつの例にすぎない。もろもろの「区別」が、「境界」あるいは「線引き」が、「私」を世界から分断し、「私というエゴ」を二重にも三重にも強固なロープで縛り上げていく。おそらく私たちが真に欲しているのは、もっと軽やかで微妙で自在なユーモアに満ちた、新しい「私感覚」かも知れない。

 

 たとえばユングが晩年に、庭の石にみずから刻んだ次のような聖句。

私は孤児でひとりぼっちである
それでも私はどこにでも存在している
私はひとりである
しかし自分自身に相反している
私は同時に青年であり老人である
私は父も母も知らない
というのは、私は魚のように深みから
釣り上げられねばならなかったからである
あるいは天から白い石のように落ちてきたからである
森や山のなかに私はさまよう
しかし私は人間のもっとも内奥の魂のなかに隠されている
私は皆のために死ぬべき運命にあり
それでも永劫の輪廻にわずらわされることはない

 

 このような、ある種の深みから浮かび上がった両義性というものは収斂しない。いつもどこかに「逃げ道」を残している。いわば川の流れにそって下ってゆきながら、同時に常に始源の場所へと遡行していくようなものだ。

 それがおそらく、世界の真実の在りようなのだ、とも思う。

 

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 今日の仕事は私の自宅からもほど近いおなじ町内の集会所で、故人は38歳の中学の英語教師。脳溢血であったという。集会所の前の道路に溢れんばかりの教え子たちが集まり、女の子などはみな揃って号泣していた。これだけの人数だと辺りは張りつめたような悲愴な雰囲気で、なんともやりきれない。が、もともと少人数であろうと死別の場面というのは悲愴でやりきれないものなのだから、知らず知らずのうちに、こちらが無感覚になってしまっているわけだ。私は最近、こんな仕事が何やら嫌になってきている。

 夜は「大草原の小さな家」を見てから、前にここで書いた「未来の教室」と題したノーベル賞作家ウォーレ・ショインカの番組の続編を見た(「翌日」と書いたのは誤りで一週間後であった)。今回は子供たちが祖先の神々たちが活躍する神話劇を上演したのだが、その多様性に満ちた神話の構造は、ひさしぶりにユングかはたまた山口昌男の本でも読んでいるようで、なかなか興味深いものがあった。両義性に満ちたある種トリックスター的な神々のエネルギッシュな物語を辿っていると、やはり西欧中心のキリスト教文化の功罪というものを考えざるを得ない。それにしてもアフリカのあの造形とリズムは、いつ触れても根元的だ。突き抜けている。

 ここ二三日は夜になれば、以前に戯れに500円で買ったパソコン用の将棋ゲームばかりをしていた。あまり文章を書く気にならなかった。なにぶん安物故に、そのうち最高のレベルでこちらが角落ちしても容易に買ってしまうくらいだから、じきに飽きてきた。将棋は小さい頃から祖父や死んだ親父とよく指したものだ。定石の本などをよく読んでいた親戚の兄貴が結構強くて、親父は親類宅に行く度にその兄貴と対局して「負けたあ」なんて言っていたものだが、家の前の道路に縁台を出して長考なんてのはやはり江戸っ子情緒なんだろうか、そんな風景がいやに懐かしい。囲碁もなんとか指せる程度に教えてもらったが、親父が死んでからは指す相手もいなくなってしまった。こんど子供が産まれたら、そのうち将棋を教えて相手してもらおうか。女の子相手にキャッチボールは無理かも知れないが、将棋くらいならいけるだろう。NHKの朝ドラでやっていた「ふたりっ子」みたいに、女流棋士なんて道もあるしな、などと。いや、でもどっかの女流棋士みたいに年上の男と不倫してヌードになってしまうのもちょっと困るが。

 

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 先日の日曜、臨月のつれあいを連れて二人でひさしぶりに外出をした。といっても電車で県内の近場である。はじめはレンタカーを借りて一泊でつれあいの和歌山の実家へ行こうかとドライブをしたい私が提案したのだが、彼女が病院へ電話をして聞いたところ担当の医師より「あ、○○さんは遠出はダメです」と軽く却下されてしまったので。そりゃ、あと二週間だもんね。私もチト軽率でした。

 赤ん坊が産まれたらしばらく百貨店も行けないだろうから、との彼女の強い要望ではじめは橿原にある近鉄へ。べつに何を買うでもなく、また買う金もないのだが、とにかく上の家具売り場や服飾から地下の食料品のすみずみまで二人でこまめに見て歩いた。つれあいは婦人服の売り場へ行っても、わが家の家計には余裕がないことを熟知しているから買うつもりでは見ない。気に入ったデザインがあったら自分でつくろうと、服をひっくり返してあれこれ研究するのである。本屋で、最近の朝日の書評欄に載っていた「お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術」なる新書を、私が一冊買う。

 一時頃、桜井駅近くのイタリア料理の店で昼食。これはつれあいが地元の奈良テレビで紹介していたのをチェックしておいたもので、駅からの道を聞こうと入った観光案内所のおばさんとしばし出産談義。おばさんの二人の息子は5000グラムもあったそうな。私がサイコロステーキの和風日替わりランチに、つれあいはパスタのこちらも日替わりランチ、それと食後にマンゴープリンを二人でひとつ。なかなか合格点の味。

 駅前から安部文殊院までは、南へぶらぶらと歩いて20分ばかり。拝観料の要る本堂の参拝はせず、境内に植えられた秋桜を楽しんでいると、つげの漫画にでも出てきそうなランニング姿の貧相なおっちゃんが寄ってきて、あそこの高台からの見晴らしが良いから行ってみろ、と言う。ではと裏手の石段を登っていくと、おっちゃんもそのままついてきてあれこれと説明をしてくれる。ほら、大和三山がぜんぶ見える。ここからあの二上山の窪みにちょうど夕日が沈むのでカメラマンが仰山集まってくる。ここの境内は春には桜で埋めつくされて、花見客が宵から場所取りで賑わう、等々。話を聞くと近所に住んでいる人で、どうも細君や孫たちのいる家にいるのが嫌で、ほぼ毎日のようにこの寺に来ては暇を潰しているらしい。ちなみにこの高台は、平安時代の陰陽師であった安部晴明が、ここで天体観測や占いなどをした場所であるという。その晴明、このごろは漫画の主人公などにもなって若い人たちの間でもちょっとしたブームになっていると聞く。

 少し疲れたから池のほとりのベンチで休んでいるというつれあいを置いて、境内に点在する石仏などをカメラに収めていると、さきほどのおっちゃんがまたやってきてつれあいの隣に座り何やら話しかけている。おやおやまた捕まったようだぞと内心笑いながらそちらへ戻っていくと、いまカアチャンにも話をつけたからさあ行こうと、私を境内の奥の方へ引っ張っていく。歩きながら、アンタ写真を一生懸命撮っていたから、ははん、きっとこんなのが大好きなんだなと俺は睨んだんだ。すごい洞窟があっから見せてやろうと。カアチャンはあんな体だからちょっと待ってて貰うよう言っといたから。この男の言う「洞窟」というのは、つまり古墳(の石室)のことだ。

 地元の人間しか容易に知り得ないような寺の背後の丘陵の狭い山道を抜けて、さいしょにたどり着いたのは谷首古墳である。巨大な石室の内部の天井は男の説明によると明日香の石舞台古墳より高いそうで、どれどれこの辺にあったはずだが、と男は壁面の窪みから自前のロウソクを探り当て、火をつけてかざし、写真を撮れ、と言う。住宅地をぐるりと抜け、ほら、あれが横浜にいる駒田の出身校だよ、と教えてくれる。あの向こうにもコロコロ山とメスリ山のふたつの洞窟があるんだが。住宅の狭い隙間をするりと入っていくと、二つ目の艸墓(くさばか)古墳である。玄室にはかなり大きい家形石棺がそのまま安置されていて、盗掘のためにその一方の角が崩され穴が空いている。男はここでもどこか石の隙間からロウソクを持ち出して石棺の内部をかざし、覗いてみろ、とうながす。内部は砂と石ころと、主のいない湿ってぬるりとした空間ばかり。

 文殊院の入口まで戻ってから男は、あんまり遅いとババアに首絞められるからな、と言っていずこともなく帰っていった。ベンチのつれあいの元へ戻り、ぶらぶらとまた駅までの道のりを歩き、駅前のスーパーで買ったコロッケを電車のなかで食べながら帰ってきた。

 

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 本日は東京の悪友よりひさしぶりに届いたメールを無断で転載する。

 

 どうですか。

 今日、清志郎のCDつきエッセイ集「瀕死の双六問屋」を買ってきました。なかなか、おもしろい。「夏の十字架」という最新作もインディーズで発禁になっていたとは知らなかった。その中の「ライブハウス」という曲が気に入らなかったらしい。しかし、最近はほんとみんなケツの穴が小さくなってきたなあ、と思うよ。ほんとの男とほんとの女が減ってきたな。僕はほんとの男になりたい。

 あと、ザ・バンドの「カフーツ」の「月が1時を打った」をとりあげて、名作だとほめておった。これを名作だと思える人は清志郎とチャボとあと1人か2人だそうだ。君もその1人に違いない。

 その君のホームページでハイロウズのCDが紹介されてたから、早速購入。久々に聴いたけど、これはよかった。これも隠れた名盤か。しかし、なんで「隠れた」なんだ。もっとこういうのが売れなきゃいかん。清志郎じゃないけど、いくら日本の音楽状況が昔よりよくなっているといっても、相変わらずゴミみたいな音楽もあるわけで、ほんと、なんとかしてほしいよ。

 ハイロウズのCDでは、シングルになった「青春」もいいけど(特に袋叩きにあって血だらけになっている自分とバスケットボールのリバウンドを取りにジャンプしているあの子の対比が素晴らしい。その情景やせつなさがはっきり頭に浮かんでくる)、一番好きなのは「ジャングルジム」かな。ほんと、マーシーの書く歌はせつなくていいね。(もちろん、ヒロトのもいい)

 夏はそちらに行けなかったが、気が向いたら、突然訪れるかもしれない。あまり、計画的にというのはどうも苦手のようなので、その時はよろしく。(でも、それどころじゃないよなあ)

 

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 臨月のつれあいを家に残して、単車で明日香村・藍染織館館長のW氏へ会いに行く。途中、橿原神宮駅前の和菓子屋に立ち寄って心ばかりの手土産を買う。橘寺の前の田の畝にはすでに彼岸花が咲き揃っていた。染織館では折しも島根県知事御一行様の来館。ちょうど昼飯時もあって、顔馴染みのスタッフの女性に勧められて私もおなじ蕎麦御膳を頂く。一番粉の手打ち蕎麦に蕎麦湯、飛騨高山の田楽味噌を乗せた地元・明日香の冷や奴、赤蒟蒻、梅を甘く漬けたもの、削り鰹の甘露煮のようなもの、それと冷たい蕎麦茶。只食いでは申し訳ないので、御一行様の膳を下げる手伝いをする。染織館に新顔がひとり。私より二つ年下の「たろう」さん。本名は「マレスケ」なのだが、呼びやすい名に変えてくれとの勝手なW氏の命で「たろう」にしたという。千葉の松戸からふらりと来て、館の裏手の離れに一人寝起きし、現在蕎麦打ちを修行中。わずかひと月で、いまではW氏を凌ぐ腕前という。コーヒーを前に、ひさしぶりにW氏に近況報告。ふと、以前に私が貸したままであった「縄文の地霊」なる図書が気に入ったから買い取ると言い出すので、代わりに館内で販売していた保田與重郎の伝記本を貰うことにした。いつまでも人に使われる仕事じゃ駄目だ、自分で何かしなくちゃ、というのがW氏の口癖だ。三時頃、俄に小雨が降り始めたので慌てて館を辞する。「たろう」さんが表まで見送ってくれた。僕も奈良では知り合いもないですから、と請われて電話番号を交換した。11月頃までは奈良にいると言う。

 その夜、つれあいに仕事の話で、○○さんは何がしたいの? と訊かれ、しばらく詰まった後に私が答えたのは、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」で主人公のホールデンが自分の小さな妹におなじ質問をされて答えた空想のおとぎ話だった。(たくさんの子供たちが広い野原で駆けずり回って遊んでいる。ぼくの役目は子供たちが崖から落ちたりしないように見張っていて、危ないときはつかまえてあげる。そうだよ、ぼくがしたいのはそんな仕事だよ ! )

 しばらくして、彼女はしずかに微笑みながらこう言った。それなら、そういう生活をすればいいじゃない。どこかに畑を借りて、お金儲けじゃなくて自分たちが食べるだけの野菜やお米をつくって、○○さんは走り回っている紫乃さんが崖から落ちないようにいっしょに遊びながら見張っていてつかまえてくれる。そんな生活をしようよ。

 

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 東京というのは根無し草のあやふやな故郷である。もちろん神田や浅草・両国といったところには、もう幾世代も昔から住み続けている純粋の江戸っ子もいるだろうが、ほとんどの東京っ子はそれほど歴史が深くはない。たいてい自分や親・そのまた親の世代が地方から流入してきたもので、東京に住み続けている限りそこは一種のホームタウンであるだろうが、それは地方の持つ「逃れられなさ」のような呪縛に比べたらはるかに軽い感覚で、東京を離れた途端に、故郷を喪失する。自分はどこにも還る土地を持たない根無し草なのだ、と痛感するのである。

 一説では、三世代住み続けると本当の江戸っ子といえるのだという。その三世代目で高校の途中にして東京を離れてしまったために江戸っ子になりそこねた私は、いつの頃からか自分のルーツに興味を抱くようになった。

 私の父方の祖母は東京の両国あたりの出身で、実家は左官屋をたくさん抱えた商売をしていたという生粋の江戸っ子である。祖父は牡丹で有名な福島の須賀川の出身で、私の姓である●●の本家はいまもそこに在る。私自身はいまだ訪ねたことはないが、以前に本家の人が調べたという手書きの系図のコピーを父が貰ってきて、それによると代々百姓であったようなのだがその中でひとりだけ、出家をして坊さんになると言って出奔した者の名前が記されていて、ああ、おれはきっとこんな血を継いでいるのかも知れない、なぞと思ったものだ。

 一方、私の母方の祖父母は二人とも紀伊半島のほぼ中央、北山村という和歌山県の飛び地として知られる村の出身で、私が調べた村史の記述によれば、曾祖父は新宮へ材木を運ぶ筏師の頭領をしていたらしい。またこの村は古くから大台ヶ原を経巡った修験者たちとも深い繋がりがあったという。私が熊野を中心とする紀伊半島に惹かれたのは、そもそも新宮出身の作家・中上健次の影響であったのだが、私の血の半分が母よりかの地に由来することを知らされたのはその後のことであった。以来、熊野を中心とする紀伊半島の地霊に私は惹きつけられ、いまこうして奈良に移住していることの遠因ともなっている。

 つまり根無し草の私の身体を流れている血は、その1/4が生粋の下町の江戸っ子であり、1/4が東北、そして1/2が紀伊半島のヘソである熊野、ということになる。ちなみに私のつれあいの父方の出身は古くは島根の小藩に仕えていた家老級の武士であったらしく、それが流れ流れて彼女の祖父の時代には伊勢の地で真珠の養殖を営み、彼女が幼い頃に現在の実家のある和歌山の海辺の集落に移り住んだ。もうじき産まれてくる私のこどもは、それらの血脈のすべてを受け継ぐことになる。

 熊野というのは、正史以前のはるかな神話の基層を湛えた古代の神々たちが跳梁跋扈する土地であり、また同時に闇の地であり、私はその険しい山岳や植物やひろびろとした白い河原の光景に幾度か自分の血が同調し騒ぐのを覚えた。東北は縄文の地である。また破れさりし蝦夷の地である。宮沢賢治、棟方志功なぞといった無意識の表現者たちや、マタギなどの山の文化にも私は自らの深い根を感じてしまう。そして粋で洒脱な江戸・下町の文化。こうしたものも確かに私の中に息づいているのだと思う。つまり私は、こうした血脈というものをどこかで信じている。

 自分ばかりでない。私の小学校以来の悪友である友人の母方の出自が、あの六郷満山の豊かな仏教文化が花開いた九州の国東半島であることを知ったときに(それは友人と共に、私の提案で国東半島を旅したときであったが)、何故か、ああ、なるほど、と感嘆したものだったし、また別の友人と彼の両親のルーツである四国の八幡浜を共にバイクで訪ねたときも、蜜柑畑に囲まれた海を望む墓所に詣でながら、友人のはるかな根っこを感じたものだった。

 血脈というのは、たぶん私にとって空想のゲームであり、その空想の自らの神話つづくりでもあるのだ。テレビ・ゲームの中で様々な試練を経ながら冒険をする、少年たちとも似ているかも知れない。というのも人間は、特に現代のさまざまな象徴の力が奪われた社会で生きる者にとっては、おそらく神話というのは最初で最後の想像力の砦であるだろうから。

 

 「おまえはどういう神話を生きているのか」と自分に本気で問わずにはいられなくなっていた。人間が完全に神話から解放されたことなどこれまでにあっただろうか? …つまりこどもに昔の神話を教えずにおくことならできようが、神話への欲求を、まして神話を生みだす能力を、こどもから奪いとることはできないのである。

 われわれの精神は、古代的な衝動の向う方向からはもはや離れたようにみえるが、通りすぎてきた発達途上の目印をいろいろとなおまだ身に帯び、少なくとも夢と空想のなかでは太古のままのことをくり返している。

 夢や空想はじつは本能にもとづく未発達なあるいは古代的な思考形式である。

C.G.ユング 『変容の象徴 精神分裂病の前駆症状』

 

 こんな話を長々と記したのは、実はつれあいが図書館で借り続けてきた「ルーツ」というアメリカのテレビ・ドラマ、全6巻・延べ10時間近くのビデオを今日、すべて見終えたからであった。1977年に一大ブームを巻き起こしたこの作品は、アフリカ大陸から奴隷として連れてこられた黒人たちの遥かな苦難の歴史を辿ったものだが、12年の歳月を費やして自らの出自を調べた原作者のアレックス・ヘイリーが描きたかったのは、ユングの言うそのような風景ではなかったかとも思うのである。

 

*

 

 まず、今回のささやかなわが家の出産について、当HPの掲示板やメールを通してたくさんの心優しい方々からお祝いのことばを頂いたことを、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。どうもふだんは我のかたまりのような人間なのだが、いざこうして私事の一件で多くの祝辞を寄せられると、何やらこそばゆいような心地なのである。そして、ひょっとしてディランがあの30周年のコンサートを多くのミュージシャンたちによって開いてもらったときも、ちょっとこんな感じだったのかな、なぞと勝手な空想をしている。極言すれば、当事者以外の他者にとっては糞味噌か道端の有象無象の石ころのようなものでしか過ぎないわけだが、その糞味噌や石くれを眺めて、何か個々の心の内に感ずるものがあればよいのだがと思いながら駄文を重ねている。気恥ずかしさついでに理屈をこねた。ともかく、そそくさと感謝。

 

 ところで出産の日の朝、彼女を診察室へやってから手持ち無沙汰の私は、ロビーの椅子に腰かけ持参した「ユリイカ」という詩の雑誌をめくっていた。先頃偶然に発見された詩人・中原中也の「療養日誌」なるものを読んでいたのである。中原は昭和11年、満二歳であった長男を亡くし、そのショックで神経衰弱に陥り翌年、千葉の精神科の隔離病棟に入院する。「療養日誌」はその際、院長の中村古峡が治療の一環として全患者に書かせたものであった。わずか一週間分の短い量だが、たとえばこんな一節。

 

 たゞそれだけのことで、どうして幻聴があつたりする迄に錯乱致しましたかと考へてみますに、子供が息切れました瞬間、今迄十幾年勉強して来ました文学がすつかりイヤになり、  何故ならば、自我をふりかざす近代文学は、絶えず山登りでもしてゐるやうに熱っぽいものでございますので、それがイヤになり、『万事他力だ他力だ』と、感じ入つたやうなわけでございまして、扨、生れてはじめて「他力」といふことが分かつてみれば、これはまた結構な道もあることだと、驚きましたまではよかつたものの、その珍しさに圧倒されて、何でもかでも「他力々々」と思つたために、却て徒らに女性的にさへなるといふ愚に堕しました。  丸々と太つて丈夫であつた子供が、わづかの日数床に就いただけで死んで逝きましたことは、何と申しましても未熟な私には大きいショックだつたのでございます。結局、此度の私の病気を自身省みてみますに、「慾呆け」といふ言葉がございますけれど、私のは「悲しみ呆け」だと思ふのでございます。

 

 「悲しみ呆け」とは、何とも痛ましく、自らの精神を冷静に見据え立ち直ろうとする詩人の魂に胸が疼いた。やがてすぐに彼女の入院が決まり、私は慌ただしく読みかけの頁を閉じて、生まれくる命を迎える準備に奔走したのだった。

 

*

 

 小学生の頃は無邪気だった。孤独を覚えるような頃になると、他人には内緒の秘密の場所を持つようになった。中学の頃は自転車でしばらく走った埼玉との県境の郊外。木陰の下の静閑な水門をくぐり抜けて(陽がきらきらと反射していた)、ひろくて涼しげな田圃の風景。いつか、好きなあの子を連れて来たいと思っていた。茨城へ移ってからは、家の近くの“緑のトンネル”と呼んでいた山間の砂利道(雨の後は芳しい植物の匂いであふれた)や人気のない渓流の淵、あるいは海を臨む墓地の真下の砂丘の林。そこで草を食む綱を解かれたやくざな驢馬のように、おのれを悲しみ、おのれをほどいて、ひとり自分の空想にただ遊んでいた。ささやかでちっぽけな、地上ではおよそ何の益にもならぬ他愛のない空想を。

 誰にも知られぬ、自分だけの秘密の場所を心に持つことは大事なことだ。

 

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 休日。つれあいと二人で久しぶりに大阪へ出て出産祝いのお返しを買いに行く予定だったのだが、昨夜赤ん坊がミルクを吐いたりなどして彼女が心配だと言うので取りやめに。代わりに朝から散髪へいく。近所のカット2,000円の安い美容院である。帰りにほど近い古本屋へ。久しぶりに行ったら結構いい本がいくつか入っていた。岩波文庫の「良寛詩集」と、山伏について書かれた新書、最近開高健賞をもらった「山谷崖っぷち日記」、花の図鑑などを買う。家へ帰ると、つれあいの実家からクール宅急便で獲れたての魚が届いていた。親戚宅へお裾分けをしにまたバイクで走り、代わりに畑の茄子とピーマンを貰い、そこからまた近くのスーパーへ買い物に。牛乳、卵、麦、カステラ、煎餅など。スーパーの道を挟んだ前で簡素なテーブルを出している朝鮮系の女性からキムチを二種買う。いままで何度か見かけたのだが、今回はじめて買ってみた。とても喜んでくれて、これから野菜が安くなったら同じ値段で量ももっと多くなりますから、と言う。今日の食事は早速届いた魚で、昼はアジの刺身とアラを使った味噌汁など、夕食はハゲの甘辛く炊いたもの。深夜、つれあいが疲れて寝ていたのでミルクを飲ませ、まだぐずっているのでオムツを見ると、今日はじめてのウンコをしていた。これを書きながら慌てて取り替えた。色の濃い、良いウンコである。

 

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 今更ながら、という気もしなくはないが、気がつくと今年の夏もいつの間にやら終わっている。例年の如く、今年の夏はさていったい何があったろうかと自問をすれば、確かに出産という特別なイベントはあったものの、それを抜かせば取り立てて言うべきものもない。振り返れば、いつもの、気の抜けたサイダーのような日々の繰り返しであったかも知れない。かつて夏といえば、気儘な独り身の生活故に、いつも何かを求めて駆け回っていた。熊野灘をバイクで疾走しながら歓声をあげたり、南アルプスや大峰山の頂を闊歩したり、あるいは夕暮れの鴨川のほとりを悄然と徘徊したりした。いったいあれらの感動と狂おしいばかりの奔放な感覚は失われてしまったのだろうか。家庭というささやかな仕合わせに埋没し、封印されて?     否。いつかテレビで見た番組で、かの藤原新也が自らの母校の小学生たちに写真機を持たせ、町へ行ってそれぞれ自分の嫌いなものを撮って来るようにと宿題を出した。こどもたちがレンズに捉えたものは、鏡に映った自分や神社の闇やゴミ捨て場や墓地や萎れた花などであった。いまの私なら、きっと道端に無惨に聳える、夏の終わりのヒマワリの残像を撮ろう。

 

向日葵の大声で立つ枯れて尚(なほ)   秋元不死男

 

 沈潜したものは、地表を下ってさらに激しく熔解する。

 

*

 

 どこまでも黒いビートだな。欲しいのは、夕暮れの鶯谷の路地のドブに転がされた万年センズリ野郎の洩らす混じりっ気なし純度100%の醒めた悪意のブルーズだ。

 と、昔イーハトーブに住んでいたびっこの爺さんは言うのである。

 

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 うちの会社の経理事務を担当している初老のTさんは、いつも会社で、自分が購読してる英語雑誌をしばらく眺めているが、どうもそれほどスラスラと読めるわけでもないらしい。財布入れの中に将棋の段位認定状の小さなカードを持っていて、それが自慢のひとつだ。確かに強いことは強いのだが、対局の後に必ず蘊蓄が付いてくるのでそれがやや煙たがれている。だがある種滑稽と言えなくもない剽軽なところもあって、私は結構好きだ。自宅が私の家からさほど遠くないダイエ−の近くにあるので、休みの日には怖い奥さんと伴って荷物を持たされているのをよく見かけるという。

 昨日、パソコンの年賀状作成ソフトの取り扱いについてトラブルがあると言うので、請われて仕事帰りにTさんの自宅へいっしょに立ち寄った。奥の台所へ引っ込んで自らコーヒーを淹れてくれた。トラブルは難なく解決し、書斎に飾っていた県知事賞のラベルのある沖縄の泡盛を持ってけ持ってけと言うので、一本有り難く拝領して帰ってきた。

 

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 つれあいの耳の調子(*突発性難聴)が思わしくなく、彼女の実家のお母さんが以前に同じ症状で診て貰い突発性難聴を専門にしている和歌山市内の病院で明日診て貰うことになった。しばらく通院ということになると、赤ん坊共々実家の方へ預かって貰うことになるやも知れず、今日は夕刻からお母さんがふたたびわが家へ泊まりに来てくれた。

 夜はお母さんのリクエストで、テレビの「知ってるつもり」の浅間山山荘事件の企画を三人でいっしょに見る。中学の頃に図書館の薄暗い書架の間で事件に関する本を立ち読みして陰鬱な気分になったことや、その後京大前の本屋で黒表紙の森恒夫の遺稿集を買い求めたことなぞをひさしぶりに思い出した。

 今日も風呂場で赤ん坊に「ウンコ」をやられた。

 

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 和歌山の病院での診断の結果、つれあいは約10日間ほど通院して治療(主に点滴)を受けることになった。耳は早期治療が肝心で、完全に回復させることは難しいかも知れないが、その数値を少しでも引き上げることは可能であるから、という。昨日は仕事を少し早引けさせてもらってレンタカー(軽のミラ)を借り、夜のうちに高速(名阪=阪和道)を飛ばして、実家のお母さんとつれあい、そして赤ん坊を和歌山の実家へ送り届け、私も翌日に休みをとったのでそのまま一泊してきた。

 今日は朝からつれあいを和歌山市内の病院まで送り、その後近鉄百貨店などでいっしょに買い物をいくつか済ませ( 無印良品のアルバムや温湿度計、お祝いのお返しなど)、私も本屋でひさしぶりに書籍を買い(「藤原悪魔」藤原新也・文春文庫、「聖地の想像力」植島啓司・集英社新書)、海鮮料理のなかなかおいしい昼食を食べ、それからたまたまつれあいの親類関係で出た葬式の家へお悔やみを言いに立ち寄り、ミルクをいくつか買い足し、3時半頃につれあいを実家まで送り、一服する間もなく紀ノ川沿いの下の道をビートルズと古いブルースのオムニバス集のテープを聴きながら一人帰ってきた。

 さて、今宵よりしばらくは淋しい独り身である。独身女性の方、ご連絡を。

 

*

 

 今日の仕事は三輪山の麓に近い集落の寺で、花祭壇と竹庭、それに特大のシキビが一対。現場へ向かう車の中で、これから行くところは柄の悪いところだから気をつけな、とMさんが言う。「柄の悪い」というのは、被差別部落のことを言っているのである。確かに寺の門前の道端にテント屋の並べた折りたたみ椅子に座って四方山話をしている老人たちの会話を聞くと言葉が少々荒っぽいのだが、威圧感や嫌悪感というものは私はほとんど感じない。昼の時刻になって、近所のおばさんたちが用意してくれた昼食を公民館のようなところで馳走になった。ご飯と味噌汁とおでん、酒粕を使った青物の白和え(これがおいしかった)、それからお新香二種。遠慮なくご飯もお代わりを頂いた。

 夜は会社の経理のTさんがまたパソコンの具合を見てくれと言うので仕事が終わってから自宅に立ち寄り、一時間半ほどあれこれといじくり、終わってから夕食をご馳走してくれると言うのでこれも遠慮なく頂くことにする。Tさんの家の近くの和食のファミレス・チェーン店のようなところで、お刺身とかつとじ和膳なるものと、手造り豆腐、ビールと冷酒を少々。今日はじめて知ったのだが、Tさんはもともと青森・八戸の出身なのだ。司馬遼太郎を敬愛しているらしい。私たちくらいの年齢になるとね、知識と経験は豊富にあるけどひとつだけ、若い人には敵わないものがあるんだよ、何だと思う? と聞くので、ちょっと考えて「感性、かな」と答えると、そうなんだよ、それだけは絶対に敵わない、と膝を叩いて言う。あるいはまた、よく人柄が良いとか悪いとか言うけど人柄ってなんだろうね? 人柄っていうのは私は気品と性格両方の意味での「品性」だと思うんだな、などと言う。

 帰ってから和歌山にいるつれあいに電話。電話口で赤ん坊の鼻息を聞かせて貰う。風呂に入り、湯舟でいま読んでいる「山谷崖っぷち日記」を読み継ぐ。

 長く中東で活動していた日本赤軍の重信房子が大阪で逮捕のニュース。新聞に映画監督の崔洋一氏が、当時日本という国から飛び出して自らのアイディンティティを遠く離れた中東で求めた彼女たちはある意味で先駆的な生き方だったと思う、というコメントを寄せていた。かれらの「活動」の是非はともかく、世界を外へ求めるという時代のささやかな終焉=ピリオドを感じる。そしてふと、ニューヨークのアパートで子育てをしながら「大変だ、オーブンの料理が焦げている!!」と叫んでいたというジョン・レノンの姿を思い浮かべたりする。

 

 

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