■日々是ゴム消し log5 もどる

  

 

 

 

 極言するならばおよそ自分の日常とは何のゆかりもないと言い切ってしまうことさえできる悪いニュースのもろもろが、なぜか澱のように溜まりことばが窒息しかけている。夕食に突き刺さった鰺の小骨に思わず歪めた口から漏れ出るのは、たとえば殺殺殺殺殺殺....といった呪詛のような悲鳴のようないたたまれないことばの羅列だ。おそらくそれはことばとしては意味のない、ただただ狂おしいだけの脅迫的なリズムのようなものに違いない。あるひとがこんな便りを呉れた。「神が人に心の自由を許しておられることは、時に、ものすごく恐ろしいことであるように思います」 地上の価値観によって神は悦楽になり果てたとも言える、か。またべつのあるひとはこうも呟いていた。「それでも、とりあえず生活を営むしかすべはない。森の奥に引きこもることができないいじょう。だが、本当に引きこもることは不可能なのか?「森の生活」はありえぬのか? それは単に寓意か? 単に比喩か?」 「森へ」とタイトルされたムンクの一葉の絵を思い起こす。平地の草花が枯れたこの上は、死んだ魚のようになって森のひそみの奥へと歩んで行かねばなるまい。内と外の境界が消失しかける酩酊と嘔吐感をかかえて。ことばの湧き出る泉を求めて。

 

*

 

 山へ行こう。俺は死にかけていて、見苦しい。

 

 山へ入っていくのは、沈んでいくことだと思う。

 下降しながら、形のない異形のものに堕ちていくことだと思う。

 顔や手足や鼻や耳がぼろぼろと剥がれ落ち、奇怪な姿に変わり果てたその肉身が、樹々や石や水や日の光と共鳴し、虚ろに響き合うことだと思う。

 それを、花霊(はなだま)の妖(あや)かし、とでも言おうか。

 

 山に嬲(なぶ)られたい。

 ずるずると生皮を剥いで、さびしく河原に突っ伏した一片の白骨になりたい。

 

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 頭の中のガラクタを削ぎ落とすこと。

 ヒフ感覚を取り戻すこと。

 リアルな殺し = 正反対の秩序。砂漠の中の。

 指で女をいかせること。

 言葉しかないということ。言葉にしなければ、経験にさえならないと思っている。

 へたばってなにもできない自分のリアルさ。

 労働が神聖だとは思っちゃいない。

 

 哀れな肉袋を裏返せ。

 世界はもっとタフでリアルなもので溢れている。

 

 己が裏切られるのが良い旅である。

 

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 実は二ヶ月ほど前に転職をしたのである。新しい職場は生花装飾、と言っても一般の人には何のことやら分からない。簡単に言えば葬式の花部門の下請けで、祭壇づくりをメインに、庭づくりや、提灯、パイプ花、戸外に「何々家告別式々場」と墨書された名木を設置したり、ダテを組んでシキビを並べたり、当日は出棺前に棺桶に入れる花を切ったり、ときには棺桶をかついだりもする。毎日が見知らぬ死者との出会いと、別れの場面との遭遇である。仕事のないときには花の名前を覚えたり、挿し方を練習したり、庭で使う水車や明かりものを日曜大工よろしく手直ししたりしている。現場は奈良県内各所から、三重や和歌山まで至る。軽トラックに荷物を積んで、走り回っている。たとえば先日は練習で、ひとりでこんな庭をこしらえてみた。(*写真省略)

 ここに色花を加えるとさらに映えるのだが、残念ながらまだ新米の腕ではそこまではおぼつかない。ほかにも現場で見聞きするいろいろなことも、これから折々書きついでいきたいと思っている。山間の村などでは、民俗学的にも興味深い光景に出会ったりもする。ほどよく体を動かし、ほどよく頭も使い、死を身近に感じ、あるいは柿の木の下で昼の弁当をつついたり、まあ我ながら楽しく働いている。

 今日は午前中に、祭壇横の菊の花のスロープや提灯庭、メイキ、シキビの据えつけ。午後にもうひとつ、家の近所の老人ホームの祭壇をこしらえてきた。夕方は遺影を収める額づくり。落とした菊の花を爪楊枝で挿して並べ花の額をつくるのである。何でもそうだが、ラインをきれいにとるのが難しい。定時で帰宅しつれあいと二人、クリーニングに出す冬の毛布などを出しに行き、夕食に巻きずしを三本買ってきた。夕食を食べてから、横になってつれあいと話をしているうちに9時頃までうたた寝をしてしまう。昨夜は会社の飲み会で少々寝不足だったので。まだ新聞もろくに見ていない。

 掲示板で少々物憂いトラブル。いつだったか、耳の遠くなった叔父にFaxの設置を勧めたら、そんなものにいちいちつきあってられねえ、と宣われた。まったく御意。くだらないことにつきあっているヒマも余裕もないんだよ。法律の話などげんなりだ。すみません。ハード&ルーズが信条で、常識はずれ、礼儀知らずに、馴れ合いは嫌いなタチなので。それが気にくわなかったら来ないでくれ。と、ひとりごちながら焼酎のお湯割りで心地よく酩酊している夜。最近は腹も出てきて、以前のズボンが軒並み入らなくなってきた。おれたちの一生なんて、まばたき一瞬だ。手に入れたささやかな仕合わせの風景は、たとえ金塊だろうと交換はしない。

 

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 彼女が眠っている。月の光が、窓のレースの模様をなぞって、そのやわらかな頬に影を落としている。ここで彼女が眠っていることが不思議に思う。

 そっと彼女の指先に触れてみる。ぽとりと落下した遺失物のように、布団の上に投げ出されたなま暖かな指先に触れてみる。触れている自分の指先を不思議に思う。

 カタクリ、レンギョウ、サクラソウ。ヤマユリ、ムクゲ、ヒガンバナ。スイレン、サザンカ、フクジュソウ。ふとつぶやいた花の名がすべて、彼女の秘密をひらく、ささやかな呪文のように聴こえる。

 

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 土曜の一日、関東から最近、三重の四日市に転勤となった友人のO氏が車で来て、やはり前夜より泊まりに来ていたつれあいの友人S嬢と4人で遊ぶ。朝の7時に到着した友人と、ご飯に味噌汁・焼き魚などの朝食をしっかり食べ、当初は大阪でやっているフェルメール展を見に行こうかなぞと話していたのだが人混みを怖れ、結局近場をぶらぶらと過ごすことにした。

 午前中はS嬢の車を私が運転し、郡山の矢田にある民俗資料館が併設された自然公園へ菖蒲を見に行く。植物に詳しい友人はときおり立ち止まっては木の実を拾い何やらつぶやき、私は私で四つ葉のクローバーを見つけるのに夢中で、なぜ四つ葉の隔世遺伝が起こるのかなどと友人と話している間、あちらの方でつれあいとS嬢の二人は、咲きそろった菖蒲の合間をどこか映画の一場面のように並んでそぞろ歩きしていく。敷地内に移築された昔の民家をいくつか眺めながら帰ってきた。

 ともだちの個展に、最近趣味でつくっているトンボ玉(ガラス玉) を並置するために堺へ行かなくてはならないS嬢と別れ、あらためて友人の運転する車に乗り換えて奈良市方面へ。奈良そごうの裏手にあるロイヤル・ホテル内の中華料理店にて昼食。昇給をしたからと友人が奢ってくれた。豪奢な調度品のならぶ応接室のような席に通され、茶が運ばれ、メニューを見せられ、こんなところで食べるのかと話していたら、やがて別室に案内された。馴れない食事の場に、あとで大笑い。ひとり2,800円のミニ・コースで、なかなかおいしかった。

 甘党の友人のために奈良公園の近くにある老舗の和菓子屋に立ち寄り、わらび餅や水饅頭を購入。そのまま白豪寺を過ぎ、東へほんの10分ほど山間へ入った正暦寺は広大な、緑濃く、水の豊かな、埋もれた古寺であった。修験の名残をとどめた奇異なる孔雀明王に、背後の山を借景にした素朴な庭、狩野派の襖絵なぞを眺めながらしばし浮き世の喧噪を忘れて、差し出された茶を啜って呆けた。古伝にいわく、この国ではじめて清酒を醸造したとかで、かつては大伽藍が立ち並んでいたのだろう、苔むしたあちらこちらに佇む石垣の風情が、奈良市の中心部からほんの少し立ち入っただけでこんなに静かな場所があるのかと驚くぐらい、静寂と清澄を湛えている。

 帰りがけに地元の鄙びた八百屋に立ち寄り、つれあい一人だけ車から降りて来たと思うと、じきに大袋を抱えて戻ってきた。甘栗を一袋買ったら、ミニ・パックの苺牛乳を三つおまけに付けてくれ、悪いからと豆菓子を二袋追加したところ、バナナ・チップを一袋おまけに持っていけと言われたという。他に人参5本が50円。

 夕食はイカの刺身とナダレなる魚の唐揚げをつれあいが、また得意の納豆汁を私がつくり、三人でわが家で。食後に買ってきた水饅頭を頬張りながら戯れ話をして、10時頃に友人は四日市へと戻って行った。つつましくも愉しい一日だった。

  

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 単車を置いて、会社の車に乗って帰ってきたから、今日は夕食を済ませた後で二人で夜のドライブ。近くのゴミ置き場に不燃ゴミを出しに寄り、サティでクリーニングを受け取ってから、雨のなか、ちょっと遠くのレコード屋までニール・ヤングの新しいアルバムを買いに行った。幌付きの軽四トラックでも、ちっとも気にならない。雨粒のはりついたウィンドウの向こうを過ぎていく町並みは、とてもきれいだった。これから三人でずっと、力を合わせて生きていこうね、と帰り道で彼女がそっと呟いた。そして家に帰って、ニール・ヤングの「Silver & Gold」を二人でいっしょに聴いた。彼女は歌詞カードを見つめながら、嬉しそうにうなずいていた。それからちょっぴり、涙をみっつ分だけ泣いた。しまい込んでいた古い蓄音機のようなニール・ヤングの歌声は、こんな夜にふさわしい。

 

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 きみと知り合う前のぼくは、しなびてとても喰えない野菜をたっぷり詰め込んで坂道を転げ落ちていく麻袋のようなものだった。きみと出会って熟れたちいさな果実を収めた袋のなかには、いまでは固い林檎の実がひとつ。はじめのころは夜眠るとき、隣に自分以外の存在のいることが不思議だった。いまではきみが隣にいなければ、ぽっかりと空間が剥落したかのよう。いまでは不思議が当たり前で、きみの背骨を指でなぞるように、夜ふけににそっとその不思議を確かめる。枕元で今夜は賢治の「雪渡り」を読んであげよう。森の狐と子供たちの無垢で愛らしい交歓の物語だ。世間のやつらの戯言などここまでは届かない。きみがそっと腕を伸ばしてくる。その手を握っていると、きみはいつも安心して、じきにすやすやと眠りに落ちる。その寝顔を飽きずにひとりいつまでも眺めている、そんな時間が好きだ。

 

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休日。ふたりで近くの法輪寺へ花展を見に行った。

 電車とバスを乗り継ぎ、法隆寺門前下車。裏手の小径をつらつらと歩いていき、人気のない斑鳩神社の境内で少し早めの昼食-----朝、つくってきたおにぎりと少しのおかず、冷たい麦茶の弁当を広げた。

 法輪寺は通常の拝観料400円のみ。三日間限りの今回の企画は、老朽化した妙見堂の改築発願にあわせ、さまざまな流派の女流いけばな作家が一堂に会して催されたもので、境内にある三重塔のぐるりと奥の庫裡を会場にしていた。前者は屋外展示ともあって、どこか前衛アートといった趣。巨大な蛇身のように連ねられた花の筒や、筍の足下に石をくくって並べたような作品など。一転して古色蒼然たる屏風絵や床の間に配置された屋内の展示の方はクラッシックな風情で、生け花の覚えが少々あり師範の手前までいったというつれあいは花と花器がよくマッチしていてとても素敵だと喜んでいたが、花展などはじめて見るしろうとの私にはちと難しく、それでもこれも生花の勉強と、花材の名を追いながら目をこらしていた。もちろん私たちの現場の仕事とは異なるが、花を挿すという意では共通点もあり、またそれなりに刺激もあって、いろいろと楽しめた。

 続いて渡り廊下を抜けて、期間中のみ一般公開されているという妙見堂へ。いままで覆いをかけられた外側からしか眺めたことがなかったのだが、内部から見るとあちこち傾きかけていて傷みもひどい。まだ若そうな青年僧侶が片隅に座り丁寧に説明をしてくれる。本尊の妙見菩薩とは北辰-----つまり宇宙の根源を意味する北極星のことであり、天井には星曼陀羅と形容される星座を現した絵が散りばめられている。北辰は古くは古墳の壁画などにも描かれていて、宗教的なルーツとしてはもちろん中国の影響が大だろうが、あるいはそれ以前の土着のメンタルな部分を仏教がすくい上げたと言っても差し支えないだろう。宝物殿に展示されている法輪寺の古い絵図を見ると、かつてこの妙見堂は裏手の山の中腹にあったものが移築されたようで、山中で宇宙の中心の星座を頌える一種異教的な何らかの修法が執り行われていたと想像することは、古層への空想力をかき立てられて愉しい。

 帰りがけにつれあいの希望で隣町の少し大きな図書館へ寄り、いまは亡き白洲正子女史の生け花の本など、生花関連の本をいくつか借りてきた。

 本日夕刻、昭和天皇の細君が老衰にて死去。って、まだそんな人、生きていたのね。

 自宅に置きっぱなしにしていた携帯電話に会社から伝言メモあり。明日は和歌山で仕事らしい。

 

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 夜、新緑が雨にうたれている。たっぷりと濃い草いきれが雨にけぶり、いっそう匂い立つようなその感じが心地よい。どこかぬめっとして、やわらかで、吸い込まれそうな、そのあやうい感覚が心地よい。切り裂くような痛みさえ、心地よい。

 ふらふらと、あてどなく、霧の深い橋の上を夢遊病者のようにいくども往還する。抜けいでた魂は、あちらであったか、こちらであったか。寄り添おうと思うのだが、道は煙っておぼつかない。《それはおれたちの空間の方向ではかられない 感ぜられない方向を感じようとするときは たれだつてみんなぐるぐるする》《なぜ通信が許されないのか》

 ああ、いい気持ちだ。空にも雲にもいい気持ちだ。世界は何も変わらない。きのうの空も今日の空も変わらない。それがあんまり悲しすぎて、おそろしいほどにしずかすぎて、ときどきぎくっとして立ちつくす。白いガードレールに貼り付いた日射しがあまりにも明瞭なので、その裏側をかっと凝視する。

 わたしたちはいったい、どこからきて、どこへゆくのか。わたしたちはきっとみんな、夢のなかから出てきて、また夢のなかへと還っていく。こちらから見れば、あちらが夢。あちらから見れば、こちらが夢。風に革衣、山々にみほとけ。

 なすすべもなく、庭にすわっていた。逆転した世界のなかにいた。ひとつの端が消えたために、もう一方の端が揺らいだ世界のなかにいた。受け入れるためには疑いが必要だった。この世のありとあらゆるすべてのものを疑った。夜が朝に変わるながい時間。おしつぶされそうな息苦しさに硬直して。疑問が溶けたとき、光のなかで、見なれた世界は瓦解していた。しらじらとした朝が訪れていた。

 こんな夢を見た。山中の深い側溝のような杣道のへりに、死んだ父親が仰向けにどっかと仰臥していた。その父親の上に、風もないのにはらはらと無数の葉が舞い降りて、かれの身体を埋めていった。夢のなかで自分はその光景を目の当たりにし、まるで奇蹟のような驚きと、沁み入るような静謐と、深い感動を覚えていた。《釈迦がきのこを食べて死んだという話があります。これは自然死のことを意味していると私は思います。きのこによって木が枯死するように、釈迦も死んだのです》

 夜、新緑が雨にうたれている。たっぷりと濃い草いきれが雨にけぶり、いっそう匂い立つようなその感じが心地よい。どこかぬめっとして、やわらかで、吸い込まれそうな、そのあやうい感覚が心地よい。切り裂くような痛みさえ、心地よい。

 

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 朝から一トンのトラックに乗って、今年60歳になるIさんと和歌山のK町へ。Iさんは奈良の山中の村の出身で、25歳のときに大阪へ出て、最初は家具屋、それからウドンの玉をつくる仕事、土方、トラックの運転手、工場勤務などを経て、いまの仕事に就いた。60年いろんな苦労してきたのう、もう冒険も終わりだ、と言う。柿の木の下でIさんと座って弁当を食べる。ドラのような鐘と小槌をもった老人が親しげな笑みを浮かべて隣に座る。葬式の始まりと終わりに鐘を叩くらしい。花祭壇というものはふつう幾らぐらいするものだろうか、儂らも葬式の金を用意しとかなきゃならないからなあ、などと言う。今日の故人は、もう老人だが、養護学校の校長をしていた人らしい。出棺の際に孫の娘さんたちがいく人も大泣きをしていた。きっとやさしいお爺ちゃんだったのだろう。祭壇から切った菊やかすみ草や百合の花を彼女たちにそっと手渡す。仕舞い。狭い田舎道を一トン車を動かしていて脱輪した。幸い四駆だったので何とか持ち上がったが、葬儀屋の社長をはじめ、みんなにさんざからかわれた。昨日は一日中大雨の中の支度だったが、今日は曇り空で雨こそないものの湿度が高くTシャツは汗でびっしょりだ。紀ノ川沿いの通い慣れた道を運転しながら自宅へ携帯電話を入れる。いま帰りです。5時くらいに着いて、それから片づけだから30分か一時間くらい遅くなりそうです。会社へ着くと、奈良の山間のH村へ祭壇づくりに行っていたMさんが、古いお寺がいっぱいあって○○くんの好きそうなところだよ、とH村の観光パンフレットを持ってきてくれた。明日はH村へ仕舞いのようだ。

  

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 心理学者である岸田秀の「唯幻論」は、たしか高校生の頃に読んだ。ニンゲンは本能の壊れた動物である。壊れた本能の代わりに自我というものをつくりだし、時間というもののなかにそれを配置し、それらをつなぎとめておくために記憶というものを派生させた。つまり、もろもろの文化というものは、すべて本能の壊れたニンゲンが編み出した幻なのだ.....

 学校をさぼって、引っ越したばかりの北関東の太平洋の砂浜をひとりぶらつきながら、そんなSF小説めいた壮大な逆説に身を委ねた。永遠とも思える、蒼い抜けるような空と、繰り返す浪の音のなかで、自分を含めてちっぽけなあれこれの現象が、砂のようにさらさらと軽やかに崩れ落ちていくその感覚が心地よい。あの夏の日.......

 

 最近、わが家で購読している某新聞紙上のコラムで、かれの自説にひさしぶりに再会し、そんなことを思い出した。いったい、どちらが夢か。泡沫か、戯言か。「ドグラ・マグラ」の誇大妄想患者が描く壮大なホラ話にも似て、やはりというべきか、あれらの明快な論理はなお刺激的だ。

 

 世皆不牢固 如水沫泡焔
 汝等悉応当 疾生厭離心

 (すべての存在は 水の泡か陽炎のごとし
 速かに一切の存在に対し、嫌悪を抱け)

 法華経のなかのこんな字句が、青年期において、長いこと心のよりどころであり、聖句であった。けっしてペシミスティックな否定ではなく、否定の先のしぶとい肯定を夢見た。

 

 仕事を変わり、はじめて会社から携帯電話というものを持たされた。現在のパソコンより、こうした情報端末の形が将来は主流になるという。だが根本的に私は、正直言うと、こうしたものはあまり好きではない。ときとして、ありとあらゆる奇怪な自我の泡沫が、電波に乗って空気中を虚しく漂っているようにも思える。

 休みの日には携帯電話は家へ置いていく。乗り物や待ち合わせの時刻などで必要でなければ、腕時計も外していく。山に登り、あえぎながら、汗とともに地上の醜い膿を出す。くたばりかけたあわれな肉体に耳をすます。滴り落ちる汗や、脆弱な足の痛みや、よろめくつま先の感覚が、どんな情報よりも親しい。疲弊した肉に流れ込んでくる草いきれや、土の匂いや、日の光が、どんな現実よりも愛おしい。過剰な「文化」なんぞより、そんなささやかな感覚を、いつも信じていたい。野の臥し処にやすみたい。

 

森はひとつのしずけさをもつ
いちどそのしずけさにうたれたものは
よく森のちかくをさまようている

八木重吉

 

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 よふけに闇のなかで聴く やわらかな息遣いがすべてである
 それ以上でも それ以外でもない

 ひとつぶの砂に寄り添うて
 浪にさらさられている

 

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 よふけにこころ騒ぐこと些少ありて、道元の「正法眼蔵随聞記」を寝床でぱらぱらとめくる。

只、なにとなく世間の人の様にて、内心を調へもてゆく、是、実の道心者也。
(ただ当たり前に、世のつねの人と同じようであって、しかも自分の内面の心を調えていくのが、まことの道心者なのだ)

 

 またいつかテレビで見た、来日したダライ・ラマのこんなことばを思い出す。わたしだってふつうのニンゲンだ。感情を表に出すときもある。だがそれは海面のさざ波のようなもので、もっと奥深い海底にいる〈ほんとうのわたし〉はいつも静かで在る。

 

 そんな二三の思念を丸薬のように口に放り込み、ようやく手元の灯りを消し、眠りに就く。

 

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 休日。曇り。

 いつもより遅めの朝食を済ませて、午前中は二人で歩いて近所のサティへ行く。洋裁の店でマタニティ服の襟の部分の生地と、それから二階でベビー用品をいくつか買う。畑に寄り、シソの葉を取ってきて、昼はざるそば。海苔とシソの葉を散らして食べる。

 昼から一人でバイクに乗り、車で20分ほどのT市へ。はじめて行ってみたレコード屋は奈良にしてはまあまあ在庫も揃っている。ディランの新曲を含むミニ・アルバムと、B.B.キングと共演したクラプトンの新譜を買う。商店街の八百屋でトマトひと盛り200円(8個ほど)を見つけて買う。

 帰り道、会社の近くでTさんの乗った軽トラとすれ違う。家の近くのスーパーでつれあいから頼まれていた買い物を済ませていると、会社から携帯電話がかかり、給料を取りに来ないか、と。198円の箱入り棒アイスを差し入れに持ち、会社へ。

 夕食は二人でいっしょにつくる。貝と野菜の炒め物と、鰺の煮付け、冷や奴、など。

 夜、つれあいがまだ見たことがないと言うので「となりのトトロ」をテレビで見る。植物の生命力。こどものリアリティ。豊かさと引き替えにこの国が失ったもの。

 夜更けになって雨が降り始める。

 

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 政治の話などしたくもないし、する柄でもないし、常々まともに論じるほどの価値など無いと信じているのだが、それにしても何ですかね、今回の選挙の結果は。いつものことだけど、何だか中学校のときの生徒会の選挙を見ているような気もする。物好きな立候補者とその取り巻きや何らかの関係者各位だけがやたら熱心で、結局のところ、それらが教科書に記されるような「歴史の表舞台」として語られる。歴代の天皇などというが、江戸時代のほとんどの庶民は「天子さま」の存在すら実は知らなかったなどという話を思い出す。たぶん、政治なんてものはとっくに終わってるんだよ、この国では。政治家全部クビにして、何かまったく別のシステムが必要なんじゃないのかね。とはいえ現実の話、もっと何とかならんものなのか。ほんとうにこのまま無関心でいていいのか。周辺事態法(ガイドライン法)、国家・国旗法、通信傍受法、すべて「後の祭り」というやつだ。無色無臭の時限爆弾を見分けるには想像力が要る。いわく「われわれが呼吸したり食事したりしている今日ただいま、つまり現在という「実時間」に、歴史の危機を感じ取るのは至難の業だ」(辺見庸) 黙っていたらあんたら若い者がアメ公さんと手を携えて戦争に行くんだぜ。その頃には俺はもうじじいだから、畑の裏に墓穴でも掘って待っててやるよ。自分の意見を政治家とか会社とかその他団体とか他人に委ねるのはもうやめようじゃないか。王様は疲れるけど、みんなひとりひとりが王様になればいい。

 

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 よるになって雨が降りはじめた。雨に打たれて、ぼくの幻想はきれいになった。雨を見ながら、おもてで煙草をくゆらせている。寝床に残してきたおまえの肌は夜具にさらりと心地よい。胎児のようにまるくなって眠っているおまえのしずけさがいとおしい。こうして目を覚まし煙草をくゆらせているぼくと、夜具のうえでひっそりと息づいているおまえが、それぞれの夢のなかの雨を共有している。片方の雨が、もう一方のよるに、そっと沁み出す。雨に打たれて、ぼくの幻想はまたきれいになった。

 

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 地元新聞社の会長だという葬儀の片づけを終わり帰る道すがら、髪の長いまだ若い女の子が行き交う車には目もくれず道ばたに立ち尽くしていた。足下には、真新しい花束。そんなときもあった。父親が死んだ事故現場に置かれた花束を、向かいのラーメン屋が縁起が悪いからと取っ払ったと聞き、思わず怒鳴り込んでやろうとして周囲の者に止められた。墓標などこの地上にはいらないさ、とうそぶいた。ひとは生死の境にただ呆然と立ち尽くす。親しかった風景のすべてがまるで鈍く光った飴玉のように見えてくる。四辻にはホイトもくれば、異人も惨殺される。届かない彼岸を見つめ立ち尽くす姿はもの悲しい。一瞬のうちに通り過ぎてしまった。

 

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 休日。暑い一日だった。一週間の疲れが溜まっていたのだろう。午前中に図書館の返却に行き、畑の草取りをした後は、ほとんどうたた寝をして過ごした。安息日、だ。

 夜、実家に頼んでBSで録画してもらっていた韓国映画の「八月のクリスマス」を二人で見る。剥がれ落ちた花弁がひとひらづつ川面にのって流れていくような、いい作品だった。後半に、不治の病で死を間近にした写真屋を営む主人公が、みずからの遺影を撮るシーンがある。タイマーをセットし、張りつめたような表情がシャッターの開く寸前に微かな笑みに変じたのは、伝えきれない複雑な思いはあるものの、最後にこの世に残していくのは微笑みにしておきたいというささやかな肯定の意志だろうか。

 

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 ゆうべは実家に頼んで録っておいてもらった清志郎の30周年記念ライブのビデオを二人で見た。チャボがしぶいブルース・ギターを弾いて「いいことばかりはありゃしない」を歌った。奥さんのおおくぼさんをいつも大事にしているチャボのことが、きみはちょっと好きだ。はじめて顔を見る、とちょっと興味深げに覗きこんでいた。ぼくらがはじめて会った頃、ぼくの住んでいたボロっちいアパートの部屋で、ブルーハーツの「君のため」をぼくがギターを弾きながら歌って、きみは泣いてしまった。そして今夜、きみが無垢な小動物のように寝静まったあとで、ディランの Make You Feel My Love のライブをひとりヘッドホンで聴きながら、ぼくはそんなことを思い出している。

 

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 大正から昭和にかけて活躍した木工家具の職人・林二郎の足跡を、日曜に録画しておいたNHKの「新日曜美術館」の特集で見る。売るためでも人に誉められるためでもない、一介の農民が実用とおのれの手すさびのために丹念に彫刻して作り上げていくという、ペサントアートなるヨーロッパ工芸の潮流による触発。そして、ソローの「森の生活」への親しみ。できあがった椅子やテーブルや食器棚はまるで、自然と人の聖なる仲介者、日常のなかに迷い込んだ親しげな樹木の瘤のような存在だ。

 青年時代に愛読した藤原新也の「メメント・モリ」のなかの、こんな一節が思い起こされる。

 ひとがつくったものには、ひとがこもる。
 だから、ものはひとの心を伝えます。

 ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。

 

 見渡せば、この国は寒いものだらけだ。

 

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 仕事。朝から奈良の山間のH村へ。毛皮で有名な被差別部落の町を通り抜け、天誅組と日本オオカミの終焉の町を過ぎ、さらに人界の果て、峰々の頂へ。軽トラックを四駆に切り替えてあえぎ登った先は、ネパールの高地かと思われるほどの悠久の地。仰ぎ見る四方の山並みがみな蒼い息を吐いている。隣家で地元のおばちゃんたちが用意した昼食を馳走になる。魚の切り身を入れた五目ご飯と、それにいつものことだが、茄子や瓜のシンプルな漬け物が異様に旨い。提灯下の花をひとつ、任された。地元のおっさんがひとり、後ろでじっと見ている。内心冷や冷やとしながら、ラインを取ってオアシス・ベースへ挿していく。と、やっぱり餅は餅屋だなあ、との声。背中を見せたまま、つい苦笑した。自然が人を圧倒している土地は、どこかのどかだ。

 

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 朝、コーヒー、トースト、炒り卵。昼、ご飯、梅干し、唐揚げ、ほうれん草、トマト。夜、素麺、天ぷら。という文字を、今夜は写経のようにただ書き記す。

   

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 U町のKという集落へ、シキビを一対だけ、片づけに行く。同じ町内から来ている職場のMさんの話では、Kは被差別部落なのだいう。手書きの地図を書いてくれながら、言葉遣いや行動に気をつけること、また余所の車に当てないように注意すること、等々の助言をしてくれる。

 三人の子供の母親でもあるMさんは、三重からこのU町へ嫁いできた。被差別部落の多い町なので、自治会や学校のPTA関係の役員などは部落の出身者が圧倒的多数であるという。そのため、いまでは子供の友達などで部落の人たちとのつき合いも多いが、これまで部落出身でないための、いわゆる「逆差別」もずいぶん受けてきた。だからこの町は好きではないし、自分の子供がもし部落の者と結婚をすると言ったら、絶対に反対すると言う。

 片道一時間あまり。峠をひとつふたつ越えて、かつて人麻呂が万葉集で詠んだかぎろひの里から、しばらく細い山間の道をうねうねと曲がっていく。小さな橋を渡って集落が見えたとき、なるほどと頷いた。河が二股に分岐する、ちょうどその中州に集落は位置していた。橋がなければ孤立する、村の内であって内でない、境界の外。かつては大雨でも降ればきっと、たびたび水浸しになったようなひどい土地であったろう。その象徴的な地形に、思わず頷いた。

 告別式の10分ほど前に、集落の中央にある集会所に着いた。裏手の舗道へ車を止め、すでに顔見知りの葬儀屋の人たちに挨拶をしてから、エンジンを切った車のなかで待機した。同和対策の一環なのだろう、同じ形の、まだそれほど古くはない一戸建ての住宅が周囲に整然と建ち並んでいる。二階のベランダに吊された玉葱が目に止まる。

 いつもと別段、変わったことも変わった雰囲気もなかった。近所のおばちゃんが、ご苦労さんですね、と言うふうにぺこりと挨拶をしていった。いつものように花を切り、出棺を手伝った。多少町中と異なるのは、村の若者の幾人かが白装束に身をまとい、野辺送りの行列をともなって棺を送ることである。集会所の入口の際でひとり立っているお婆さんを見かけ、履き物が見つからないんですかと尋ねたところ、いえいえよう歩けんから(ここで見送る)、と笑いながら答えが返ってきた。

 棺を見送ってから、祭壇の片づけを少々手伝い、シキビを荷台にくくりつけて集落を後にした。Mさんの村での苦い経験は、きっと本当なのだろう。だが結局のところ、人が人を分かつ風景というものは何の根拠もないし、まぼろしに過ぎない。きっとお互いに、そのまぼろしの錆び付いた鎖に絡め取られているだけなのだ、と思う。

 帰り道、集落にほど近い道ばたの畑のなかに、史跡の立て札を見つけて立ち止まった。弥生から古墳時代の頃に、このあたりに集落があったのだという。その頃には、人の心はどんな風景を織りなしていたのだろうか。あの狭い中州にも、区切られたある種の人々が、肩を寄せ合って暮らしていたのだろうか。

 

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 ときどき、単純であることは、見透かされることであると思う。ときどき、この競争社会では、弱さを見せることは死に近い。だから唾を吐く。弱さとは、悪なのか。いつも現実という市場に流通するのは、粗雑な論理だ。人の内面を語るに必要な微妙なニュアンスは常に削ぎ落とされる。だから男たちと政治の話をするより、女たちと料理の話をしている方がよっぽどいい。粗雑で稚拙な論理は暴力に似て、人の原始の脳をとらえやすい。沖縄問題を語るより、ハイル・ヒットラーと叫ぶ方が気持ちがいいのだ。〈汝は積み蓄えるが、それを誰が収めるかを知らない〉 宗教が教えるのは、この世のものではない、別の価値観が存在するということである。無価値として強制された「弱さ」が、挫けない「強さ」へと転ずるパラドクスである。素朴な聖フランチェスコの生涯を描いたあの美しい映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」のなかで、苦悩するフランチェスコが最初に叫んだのは「ノー」というシンプルな絶叫であった。かれは身にまとった衣服を捨て、狂人となって野に移った。そして小鳥たちと語った。宗教家とはつまり、ゲリラ兵士なのだ。

 

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 かつてわれらの清志郎が発禁になった原発反対ソングで「放射能浴びるより、牛乳飲みてえ」と歌った、その牛乳がいま大変だ。ずさんさ極まる雪印に続いて、こんどは森永の牛乳まで苦情が出たというから、これはきっと精神的な連鎖反応ちゃうん? とタカをくくっていたら、どうもそうではなかった。

 今回森永の牛乳から検出された次亜塩素酸ナトリウムというのは、実は私の以前の職場でも頻繁に使用していた。蓚酸などと共に染め物の色抜きに使うのだが、ちょっとでもくっつくとTシャツなどにも簡単に穴が空いてしまうほどの危険なものである。日常ではたとえばプールの殺菌剤や、家庭の水回りの強力洗剤などに混入されていると記憶している。牛乳瓶の殺菌のためとはいえ、そんな危険なものを食品の製造過程で使わなければ生産ラインが成り立たないという、大量消費のシステム自体がそもそも不自然ではないのか。

 農家の人が、自分の家で食べる分の畑や田圃だけ農薬を減らして別に作っているというのはよく聴く話だ。添加物漬けにされた某大手のハム・メーカーの社員たちは、自社の製品はけっして口にはしないと言う。また、レストランではサラダに使う野菜の見かけの鮮度を保つためにレタスなどを洗剤に漬けているとか、ある有名な牛丼チェーン店では古くなった紅生姜に新しいものを混ぜてふたたび店頭に出すとか、そんな信じられない噂も聞く。

 ことはおそらく食品だけではない、原子力関連施設で放射能が不様に漏れたり、新幹線のトンネルのコンクリートがぼろぼろと剥げ落ちたり、警察の不祥事が相次いだり、有力企業が泡沫にも似た乱脈経営でドミノ倒しになったり、病院で信じがたい医療ミスが続発したり、あるいは地中から高濃度の汚染物質が掘り起こされたり、日々週刊誌のネタに困らない、大人も子どもも含めた奇々怪々で殺伐とした事件の頻発など、単純に世界的現象として言うならミレニアム世紀末の風景、この国に限って言うなら特に戦後の経済復興・高度成長のなれの果ての真の実像のように思えて仕方ない。

 「豊かさ」という一見立派な庭付き一戸建ての家を手にしたら、実は中身は正常な人間ならとても住めない廃屋同然だったのである。嘘で塗り固めた安価な漆喰が、人々の心も含めて、いま怒濤のごとく(そして当然のごとく)ばらばらとラッシュの勢いで崩れ落ちていく。そんな時代に思えてならない。そして言ってみれば私たちひとりひとりの全員が、多かれ少なかれ、その愚行に間違いなくずっと手を貸してきたのだ。そごうの債務などまだまだ可愛いくらいの膨大な長年のツケを、いま私たちは払っている。人間だけではない、何の責任もない他の生物たちもまた。メダカやミミズにとっては、いい迷惑なことこの上ない。

 おそらく、価値観の決定的な転換が必要と思われる。単純で退屈な日常レベルでの、まぼろしの「豊かさ」をそれこそ根こそぎ否定して、実のある「不便さ」に耐えうるだけの覚悟と根気と変容が。またおそらく同時に、貨幣を絶対的な基準としない、人の精神性に深く宿ったまったく別の価値観に支えられたまだ見ぬシステムが。ここで上手にカーブを曲がりきらなければ、人間はきっと内側から崩壊してしまうことだろう。

 そもそも脱脂粉乳なんか、あんなもの、牛乳じゃないんだよ。本物の牛の乳がブルマンなら、脱脂粉乳なぞインスタント・コーヒー以下の代物だ。人をおちょくったニセモノばかりがはびこっている世の中で、ノーと言う勇気を持ちたい。今回の一連の牛乳騒ぎだって、作る方も作る方なら、それを買っていた方も買っていた方だ。根っこを掘り下げていけば、みんな揃って仲良く共犯だ。誰も責められないぜ。

 

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 関東より三重の四日市へ一時転勤になった友人が車で遊びに来る。つれあいの見舞いと称して高価なメロンと巨峰を両手に抱えて。

 遅い朝食をいっしょに食べ、甘党のかれのために昨夜仕事帰りに買っておいた和菓子(わらび餅)をお茶と頂き、それがお気に召したようで、友人も買って帰ろうということで車で少々の店まで三人で出ることになった。新興住宅地のなかの「土井勝の家庭料理」なるレストランで和食のバイキングを食べ、和菓子屋で友人はわらび餅の他、葛きりなどを買う。

 午後はもっぱら家で談笑。友人は理系の大学院を出ていて、現在も職場で新製品の開発に携わっているので、いつもいろいろなことを教えてもらう。中学の同窓会の話題からはじまって、植物のこと、フロンガスや電磁波のこと、株価のこと、衣服を喰う鰹節虫のこと、パソコンやデジタルカメラのこと、塩素やゲル化剤のこと、ブドウ栽培に適した土壌のこと、等々。

 夜は私が得意のパスタをつくり、10時頃、友人は帰っていった。わが家の冷蔵庫にわらび餅と葛きりを残して。

 

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 金属バッドで部活の後輩を殴打し、母親を撲殺した岡山の少年が遠く秋田で発見・逮捕された。こころ破れた者があて処ない北への逃避行とは、あたかも古典的である。

 少年が束縛されたその最期のみちすじを、私もかつて東北行きのバイクで辿ったことがある。やはり、ある意味でこころ破れたあて処ない道行きであったが、その逃避行はひそかに縄文への憧憬も隠し持っていた。

 太平洋側から塩竃、平泉、賢治の故郷・花巻を訪ね、遠野を経て、恐山の宿坊で老婆たちと混浴をし、青森で棟方志功の花矢に胸射られ、金木の斜陽館で太宰を思い、また亀ヶ岡で遮光器土偶に再会した。

 日本海側で二人のバイクの旅人と出会い、つかの間の野宿を分かちもした。共に東京からで、一人は美容師の仕事を辞めて日本一周の旅に出た青年であり、もう一人はリストラで会社を辞めて東北を目指した30代のひとであった。たしか、少年が捕まったあたりに近いのではないだろうか、烏賊釣り漁船の灯りを波間に望みながら、蟹をあてに酒を飲み、草地に倒れ込んだ。

 あのとき、自分が抱えていた感情は何であったか。それはいまも変わらないような気がする。不安定な自分。どこにも居場所の見つけられない自分。殺してしまいたい自分。叫びたい自分。賢治や太宰の文学、志功の版画、中尊寺金色堂の台座に眠る敗者のミイラ、恐山の死者を巡る風景、縄文の造形。それらはみな、自分の生きられる世界のカケラであった。それらをひとつづつ、拾い集めながら東北の地を駆った。自分がまだ生きられることのささやかな証のように。

 少年の事件の続報を伝える今日の新聞記事の隣に、九州のさる小学校で50代の担任教師が子どもたちに、「クラスでいなくてもいい者」を選ぶよう求めたという記事が載っていた。こうした狂った世界は、少年の事件と確実にリンクしていると私は思う。少年が逃避行の背中のリュックに大事に抱えていたポケモン・カードのコレクションは、消え入りそうな「透明なボク」をかろうじて支えていた、かれの法華経の巻物でもあった。

 かつて旅した北の風景を思い出しながら、少年の深い胸の亀裂に思いを馳せている。

 

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 休日。

 午前中は日曜大工。以前からベランダの庇を伝って漏れてくる雨がエアコンの室外機に当たって部屋側へ跳ね返ってくるために、雨が降るとガラス戸を閉めなくてはならず暑い日には不便していたため、朝から親類宅で余っている板を貰ってきて室外機の上に載せる「はねかえし」の板を作った。これは以前にBooksでも紹介した、独力で自宅を建築したノンフィクション・ライター青木慧氏の著書から頂いたアイディアで、板に傾斜のつくよう斜めの台を付け、雨を外側へ跳ね返すというものである。ただの板では味気ないので、やはり親類宅の裏の竹林から切ってきた青竹で枠をつくって、和風に仕上げてみた。さて、効果のほどは如何に。

 その制作途中で、以前に働いていた造り酒屋のMくんから久しぶりに電話が入る。自家米での酒造りも試みているN酒造の、田圃の作業の途中だという。私が酒造りの手伝いをしていた頃に大卒で入ってきたMくんだが、今年は杜氏さんを呼ばず、自分たちだけで造った酒が県のコンクールで4位に入賞したという。入賞作をとっておくから、ぜひ飲みに来てくださいよ、との言に、またそのうち買いに行くから、と応える。

 冷や麦とツナ・チャーハンの残りの昼食を食べてから少々昼寝。

 夕刻、二人で近くのサティへ買い物に行く。帰り道の公園で立ち止まる。高校生くらいの少年が網と虫かごを持って池の藻を何やらあちこちかき回している。あちらの芝生の上では父と息子らしい二人がインスタント・カメラでお互いを撮り合っている。池のフェンスに寄りかかり、かれらの「事情」をしばしあれこれ推測する。つれあいは数日前、この公園で鉢巻きをして何やら書き物をしている男に「いつ頃産まれるんですか?」と訊かれた。9月予定と答えると男は、「いま小説を書いているんで、通る人にいろいろ訊いているんです、すみませんね」と宣うた由。

 夜は私の茄子とピーマンのパスタに野菜スープ。NHKで録っておいたフィンランドだかの、互いに職を失った中年夫婦の風景を描いた映画をひとつ。そのあとテレビでやっていた三浦友和主演の刑事物ドラマを、ついつい最後まで見てしまった。

 つれあいの実家より電話。野菜をいくつか送ってくれるとのこと。

 

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 夜、実家で頼んで録画しておいたもらったBS放送の映画をひとつ、二人で見る。「田舎司祭の日記」 ロベール・ブレッソン監督。もう50年も昔のフランス映画で白黒だが、こうした陰影の深い作品を見るたび、「色のない」ということが逆に「豊かな色に満ちあふれている」ということなのだと分かる。カラーというのは、実は親切なようでいて、かえって固定の色を見る者に押しつけているだけなのかも知れない。

 偏屈な田舎の村の教区に、死の病をかかえた青年司祭が赴任してくる。が、その一途でひたむきな信仰のために、村人はおろか、地主の伯爵や先輩である主任司祭からも疎まれる。そして最後に、訪ねていった神学校のときの友人の部屋で吐血し、息をひきとる。「みんな、きみのその単純さを怖れているのだ。火事を怖れるように」と孤独な主人公に放たれるセリフが、胸に沁みた。

 

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 頻発するやりきれない少年犯罪に関して、ノンフィクション・ライターの吉岡忍氏が今日の朝日新聞朝刊に寄せていたコラムを読んだ。

 要約すれば、こうした事件が起こるたびにいつも精神科医が登場して、行為障害、被害妄想、性格の極端なかたよりなどと説明してみせ、結果、原因は一個人の歪んだ人格に帰結され、隔離されて一件落着となる、と。氏は事件を起こした少年たちの中から外の世界に対する「おびえ」をすくい出し、かれらが感じている恐怖感はまわりからの適応強制から来ていると思う、と書く。

 以下、少し長くなるがそのまま引用したい。

 野球部員らしく丸刈りにしろ、いっしょに階段から飛び降りろ、規則や規範を守れ、この進学コースに乗れ、安定した仕事につけと、いつまでたってもこの社会も学校も集団と集団がつくりだす現実に従うこと、一体化することしか教えない。この国では、個人は、集団からのはぐれ者か、現実からの落ちこぼれとしてしか存在しないかのようだ。

 適応するばかりが能ではない、と私たちは言わなければならない。人間がつくったものは人間が壊し、人間が作りかえてもよいのだという楽観を語り、実際に校則や決まりを、前例や制度を、政治や経済を変えてみせること。

 少年少女に集団や現実への適応を迫り、その結果として妄想世界へと追いやり、孤立させる家庭、学校、社会がつづくかぎり、事件はまた明日にもきっと起きる。もうそのことに、私は驚かない。

 

 「あのときもしビートルズの音楽に出会わなかったら、私はきっといまごろ“立派な大人”になっていたことだろう」と、いつか私の腐れ縁の友人がどこかに書いていたが、思えばこの私の生き様だって、ジョン・レノンやディランの音楽、あるいは太宰の文学等に思春期に出会って以来この方、ずっと脱輪してばかりだ。

 10代は恥さらし、20代は迷ってばかりで、30代半ばになったいまもなお、足元容易におぼつかないまま、自分の居場所を求めて不様にしつこくさまよい、もがいている。職を変え、新しい仕事・新しい環境に苦労して一から馴れようとするたびに、いっそ役所勤めでもして敷かれたレールをそのまま走っていれば今頃もっと楽だったかも知れないなぞという思いが一瞬浮かびもするが、だがきっともう一度人生を生き直したとしても同じ事をやるのだろうとごちて、ひとりひそかに苦笑する。

 ジョン・レノンが中学生の自分に教えてくれたのは、「ノー」という切実な叫びだった。いまいる場所が、どうしても耐えられないような場所だったら、そこからひょいと落ちればいい。「ここから落ちたら、きみはもう生きていけないよ」などというのは、「大人たち」の言うまやかしに過ぎない。

 生きる場所は、ほんとうはもっと無限にある。ときには、段ボールの家に住んだっていいじゃねえか。苦労するかも知れないし、取り戻せないほどのハンデを背負った気になるかも知れないし、嘲り笑われるかも知れないけど、でもいいのだ。ひとを殺したり、自分を殺したりするよりはよっぽどいい。あてがわれたニセモノより、自分の手で苦労してホンモノをつかまえてやろう。そしてきみを嘲り笑った連中を逆に笑ってやろう。堅固に見える世界も、中身はほんとうはスケスケなのさ。

 きみに、ぼくの好きなブルーハーツのこんな歌を捧げる。

通りを歩いたら陰口たたかれて
本屋に立ち寄ったらジロジロ眺められ
バイトの面接じゃ冷たくあしらわれ
不動産屋に行けばオヤジがこう言った

ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ

ぼくの着ている服が気に入らないんだろ?
ぼくのやりたいことが気に入らないんだろ?
ぼくのしゃべり方が気に入らないんだろ?
本当はぼくのことが羨ましいんだろ?

ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ

(ロクデナシ)

 

*

 

 結構夏ばて気味のようである。一週間ぶりの休日の今日も、いつもより若干遅い朝食を済ませてから、横になって新聞に目を通しているうちにうたた寝をしてしまい、昼前に近くの畑へ行って伸び放題のハーブの刈り込みをして簡単な昼食を食べてから、また夕方まで寝てしまった。寝て曜日である。

 

 知り合いの老牧師さんから暑中見舞いの葉書が届いた。

 

 私はいまのところどうやら頑張っていますが、体力の衰えを感じさせられている次第です。

 おハガキの如く、経済的な豊かさと引き替えに、日本人は心を失ってしまいました。このことに目覚め、この国が立ち直るのに50年くらいはかかると私は思っています。

 今、この国を支配しているのは享楽主義と虚無主義、そしてトップの無責任とその体制です。

 そんな中で私の蟷螂の斧同然の仕事も、そろそろ終わりを迎えることになりそうです。

 

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 ソ連の国家権力の弾圧により国籍を剥奪され、衝撃を受けたチェリストのロストロポーヴィッチに、かれを招いたローマ法王が言ったということば。「これからさまざまな困難があなたを待ち受けているだろうが、そのときあなたが考えなくてはいけないことは、たったひとつだけです。その道が、神に近づく階段を上ることか下ることか、それだけを考えればよい」と。それは何もキリスト教の神にこだわらずともよい。たとえば一個の陶芸家であれば、理想とする安土桃山時代のひとつの花器の美でもいいだろうし、たとえばまた、若きニール・ヤングの歌う Heart Of Gold への果てしなき憧憬でもいいだろう。それに近づく階段を、上ることか、下ることか。そう、ひとりつぶやいて微笑んだ。それだけでよい。

 

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 ひとりぼっちのエルマーは動物好きの少年で、いつも家の納屋に傷ついた小動物たちを手当てして置いている。物静かで、少々動作が鈍く、おとなしい性格のかれは、いつも級友たちのからかいの的にされている。人に問われると、かれはさびしく笑ってこう答える。「本気じゃないんだよ。友達だからふざけてただけなんだ」

 エルマーの父親は、そんな息子の姿にずっと心を痛めている。以前暮らしていたスプリングフィールドの町では、もっとひどくいじめられていたから、息子のために学校を変えようとこの田舎町に移ってきた。かれは納屋でひとり羽を痛めた鳥の体をさすっている息子を窺いながら、妻にそっと言う。「あの子は少々鈍いところはあるけれど、でも馬鹿じゃないんだ。あの子にひとりでも、人間の友達がいてくれたらなあ」

 ある日、学校で級長を選ぶ選挙が催される。どじでのろまなエルマーは級友たちの悪いいたずらで級長候補に担ぎ出される。級友たちの悪巧みを知った父親は息子に、お前がいじめられるのをこれ以上見たくないから、そんないたずらの級長候補など辞退するようにと命じる。

 投票の当日。登校の途中で級友に会ったエルマーは、級長候補から降りることをかれらに告げる。それを聞いた級友たちは、かれを騙して豚小屋の柵の中に突き落として逃げ去ってしまう。泥だらけの姿で学校に現れたエルマーは、ぼくは級長候補を辞退します、と告げてからぽつぽつとこう続ける。

 「ぼくはみんなのように頭はよくないけど、でも良いことと悪いことの区別は分かる。弱いものいじめをしたり、人のこころを傷つけたりするのはいけないことだよ。この泥だらけのシャツは、今日の日のために母さんが新しく縫ってくれたシャツなんだ。母さんはぼくを愛してくれてる。そんなふうに人を思う気持ちって大事だと思うな。だから今度級長になる人に、ぼくはお願いしたいです。弱いものを助けて、お互いにもっと思いやりをもって、ああ、学校って楽しいなあって誰もが思うような、そんな学校にしてください」

 間をおいて、別の候補者の少女が手をあげて言う。「私は級長候補を辞退します。そしてエルマーをあらためて級長候補に推薦します。だってかれほど、級長にふさわしい考えを持っている人はいないもの」

 開票。わずか一票の差でエルマーが級長に決まる。学校近くの仕事場で材木の加工をしていた父親は偶然ひとりの生徒から事情を聞き、級友たちとさよならを言っているエルマーを待ちかまえる。エルマーの足が止まる。次の瞬間、腕組みをしていた父親の顔がほころぶ。「エルマー、おめでとう」 息子は父親の胸に飛び込む。「さあ、早く帰って、母さんに話してやろう」

 って、これは今日つれあいと二人で見た「大草原の小さな家」のストーリー。つれあいは私の隣で大泣き。かく言う私もつい、もらい泣きをしてしまいそうになったのであった。歳を取るとかくも涙腺がゆるむ。

 

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 休日。昼からの半日を利用してひとり、昨年リニューアルした御所の水平社博物館を訪ねた。わが家から単車で30分強ほど。葛城・金剛山系の山並みを望むJR御所駅から東へ数キロ、ちょうど奈良盆地が南へ狭まり果てるそのどんつきの、小高い丘陵にはさまれた鄙びた土地で1922年、被差別部落への差別撤廃を求めた運動がはじまった。やがて全国に広がっていく水平社運動の幕開けである。

 展示内容は水平社とその周辺の部落差別の歴史関係の、どちらかというと地味な資料が主であるため、一般の向きにはチト退屈かも知れない。そのためか、日曜であっても(あるいは日曜であるためか)館内はほとんど静寂で、見学者はぱらぱらと他に数人だけ。大方平日に、教職員や企業の研修団体などが埋めるのだろう。こうした展示は確かに当時のこまやかな記録や資料の保存及び再現も必要だが、もう少し一般の人が見ても興味をかきたてられる工夫が必要ではないだろうか。人間の深奥に潜む差別観というものを、現代の諸問題にリンクさせるようなやわらかな視野の広がりが。

 それでもいくつか面白い部分も、もちろんあった。たとえばビデオで、水平社創立の中心的人物である西光万吉が青年時代に東京に下宿をしたおり、「奈良には三つの名物がある。ひとつは奈良の鹿、ひとつは奈良のお粥、そしてもうひとつが奈良の穢多だ」という話を耳にしたと語るくだり。

 それからこの地の歴史的な解説。かつてこの地域には古く江戸時代より、「草場」と呼ばれるかなり広大なエリアが設定されていて、そのエリア内で死んだ牛馬はすべてこの被差別部落である旧岩崎村に運ばれた。村の人たちはその皮を剥ぎ煮漉して膠(にかわ)を造り、貴重な現金収入としたのである。膠は村の重要な産業となり、奈良で有名な墨づくりに使われたり、写真のフィルムに使われたりし、四方から四本の川が合流するこの地はまた、そうした作業に適した地形であったそうである。

 あるいはまた、かつてこの地には陰陽師が多く在り、後述する神武天皇社の鬼門の方角にこの村が位置するため、そうした特殊部落民の村を配して鬼門の守りにしたとか。そんなくだりである。

 もうひとつ、今回はさらに特別展示が催されていて、ほんとうをいうと個人的にはこちらがメインであったのだが、題して「中上健次の世界 路地から世界へ」 水平社博物館で中上健次の特集ということで、内心一風変わったスリリングな内容を期待していたのだが、作家と被差別部落との関わりに触れたくだりはごく僅かで、実際は穏当に作家の生涯をたどる小規模の回顧展示といった内容で、少々肩すかしなところであった。

 だがそれでも、方眼紙のような異常に細かいマス目に機関銃のように連射された独得の生原稿や、小説の構想を練ったノートの記述などは充分に刺激的で、特に、おそらく新宮の火祭りの参加者セミナーに病室から宛てたビデオ・レターという形であるのだろう、死の数ヶ月前のはじめて見るビデオ映像の中の作家の姿は、リアルな黄泉の国からの遺言を聞いているようで胸震えた。

 作家は死の直前まで「熊野」にこだわり、「熊野」に背を押され、「熊野」を追い求めていた。それが何やら感動した。30分も喋り続けただろうか、ふいとかれは口をつぐみ、しばらく沈黙をした後、まだとても話したりないがこれでさよならだとでもいうように、ぶっきらぼうに「これで終わりです」と言って、映像は途切れた。かれの故郷・新宮のかれを育てた被差別部落の「路地」は後の宅地開発によって無惨に消失したが、「路地=熊野」は世界中の至る所にある、そしてそこから混沌とした血飛沫が間欠泉のように噴出していくはずだ、そんなふうに残った者たちに託したかれの最後の言葉だと理解した。

 じきに閉館に近い博物館を出て、戸外で一服してから、近在にある西光万吉の墓のある西光寺、その背後の丘陵の頂きに位置する神武天皇がその昔に国見をし、後に水平社創立の時代には同士たちの集まりの場ともなった燕神社、また博物館の横手にある素朴な神武天皇社などを見て、帰途についた。

 

 

 

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