■日々是ゴム消し log4 もどる

  

 

 

 

 いつの頃からか、昔からよく寝言を言う。いや、つれあいではなく、私のことである。それも怒って言う寝言が圧倒的に多い。吐き出すように口にしてから、あ、また言っちまった、と寝ぼけ眼で気づいている。どんな夢なのか。たいてい、過去に起因している情けない夢だ。

 中学一年のとき、背の高い好きな女の子がいた。あるとき放課後に、担任の教師と彼女が教室の中で話している会話を偶然、廊下で聴くともなく聴いてしまった。クラスでどの男が好きなのか? という担任の問いに、彼女は私のことが気に入っていると答えていた。(ま、ま。たまにはこういうこともある) すると担任は、あんな奴より○○の方がいいんじゃないか、などと宣ったのだ。その担任は陸上部の顧問で、当時クラスの学級委員長だった私(ま、ま。ときにはこういうこともある)にも、結構目をかけてくれていた、表向きでは..... 。以来私は、大人というものを信頼しなくなった。

 たとえば夢に、この担任教師が出てくる。夢の中で私は、担任の卑怯な指図でクラスメイトたちに羽交い締めにされている。目の前で担任が私の姿を見てせせら笑っている。そんなときだ。「離せ、この糞野郎っ」と叫んだとたん、はっと目を覚ます。ときには「てめえの白痴の脳味噌で何が分かるっていうんだ。言ってみろ、おいっ」などと、ちょっと小難しいセリフも言ってのける。驚いて目を覚ましたつれあいが、心配そうに私の胸のあたりをさすっている。

 親父も結構短気な方だったが、私もしっかりその血を受け継いでいるらしい。30を過ぎて、いまだ angry young man なのである。それも我ながらつまらないことでよく怒る。たとえば売り出しの混雑したスーパーへ二人で買い物に行く。まず入り口を塞ぐように置かれた自転車を、無神経な野郎だな、と蹴飛ばす。それから店内に入ると、いつもあの買い物かごを載せた邪魔くさいカートの存在にいらいらする。自分はラクだろうけど、こんな混雑した中で他人の迷惑になっているのが分からないのかね、荷物くらいテメエで持てよ、と大きな声で言う。

 つれあいはときおり、そんな私に言うのである。○○さん(私のこと)、男の人はそんな小さなことにはこだわらないで、もっと大きなことで怒らなくちゃ.... と。うん、ホントにそうなんだけどね、でも言わせて貰うならさ、小さなことが大きなことに繋がっていることもあるんだよ、などと私は応えつつ小さくなる。

 それでも肩で風を切って歩いていた20代の頃に比べると、つれあいと二人で暮らすようになって私の怒った寝言も、少しづつではあるが徐々に変化してきているらしい。先日は寝言で、玄米がどうたらこうたら... と喋ったそうだし、今日は今日で明け方に突然、では、この料理を一口食べてみて下さい、と言ったそうなのだ。本人はとんと覚えがないのだが。                                          

 

*

 

 つげ義春の漫画に、多摩川の河原であったか、主人公のうだつのあがらぬ中年男が石屋を開くという作品があった。いわゆる一般の石材屋ではない、床の間などに飾る観賞用のさまざまな形の石ころを掘っ建て小屋に並べただけの店。しかも周辺の河原で拾ってきたものばかりなのだから、売れるはずもない。資本主義経済のシステムから見事なまでに落ちこぼれた、何の機能も役割も果たしていないその逆照射の風景に、なぜか心惹かれた。

 夕方になると洟垂れ小僧の幼い息子が迎えに来て、二人で夕焼けの土手の道を家路へつく。と、思い出したように息子が、父ちゃん、虫けらってどんな虫? 父は笑って、虫けらっていうのはな、世の中で何の役にも立たない… ん、そんなこと誰が言ったんだ。息子はすこし困ったような顔で、母ちゃんがね、父ちゃんのことを虫けらだって… 男はしばしの沈黙の後、暮れゆく風景を遠く見すえながら、そうだ、父ちゃんは虫けらのような存在だ… と呟き、立ちつくす。

 東京の生活に見切りをつけて茨城の実家にこもっていた頃、毎日のようにバイクで山へ行き、人の気配のない自然のなかをひねもす歩き回っていた。河原で岩場を飛び回ったり、蛙の卵を見つけたり、菌類の胞子を撫でたり、水の流れる音を聞きながらうとうとしたり、支流の小さな流れを遡行して源流を訪ねたり、あるいは山の斜面に囓りついて尾根筋へあがったり、熊笹の覆う獣道で猪の足跡を見つけたり、苔むした岩の上で揺れる葉陰を眺めていたり、滝の落下口へ這い登ったり、崩れかけた古い祠の前で長いことぼんやりと佇んでいたりした。

 日が暮れる頃には、冬には河原でひとり焚き火をした。河原の石ころで竈をつくり、腰かけるのにちょうどよい具合の石をひとつ置き、それから背後の林へ入っていって枝木集め。杉の木は燃えやすいが、すぐに燃え尽きてしまう。樫のような固い木はなかなか火がつきにくいが、長持ちする。山が夜の静寂に閉ざされる頃には、冷たい石の上に腰かけ、ぱちぱちと弾ける木々の燃える音を聞き、炎を飽くことなく見つめていた。紅葉の枯れ葉をくべると、紅茶のようないい香りが辺りに漂った。人間には会いたくなかった。そうして山のなかで、誰と話すこともなく、ただひとりでいることが心地よかった。

 狭い林道に沿った河原では、よく道から川の斜面に向けて、ときにさまざまな類のゴミが不法に投げ捨てられていた。不要になった電気製品や古い昔のシングル・レコードや雑誌に至るまでの家庭のゴミや、古タイヤや廃材、塗料の空き缶といった業者が持ち運んできたゴミなどが。善意のボランティアを気取ったわけではない。いちどだけ、大きな岩盤の上を流れが蛇行している自分のお気に入りの場所に、ある日そうした大量のゴミが投げ捨てられているのを見て、我慢がならず自力で片づけた。

 下まで流れ落ちたゴミは苦労して上の道路まで上げ、途中で斜面に引っかかっているゴミは崖を這い伝い泥んこになって取り除き、バイクで幾度かに分けて家まで往復し運んだ。真夏のいちばん暑いさなかだった。そうして汗で濡れたシャツで顔を拭いながら、こんな仕事は経済に何の利潤ももたらさないだろうが、だがこんなふうに、山の中にこっそり捨てられたゴミをひとりできれいにしながらそれで暮らしていけたらどんなにいいだろう、とも思った。観光地でも名勝でもない、人の訪れない何の変哲もない山の中を毎日掃除して回るのだ。そして給料は金ではなく、自分ひとりが生き延びられるだけの僅かな木の実や小動物や魚を、山から分けて貰うのだ。

 青臭い哀れなピーターパンの世迷い言と笑われるだろうが、いまでもそんな感情のかけらが、この胸の奥底にひっそりとたゆたっている。そしていつかどこかで読んだ、都会からIターンをして林業に関わる青年のこんな言葉を思い出したりする。「生活は苦しいけど、でもなんか、とてもまっとうな仕事をしているという感じがする。まっとうな仕事って、この国にはなかなかないでしょう」

 誰も満足しているわけではない。おそらく、これでいいとも思ってはいない。ただ生活を守るために日々働くことが、回り回って、この国の何かもっと大きな仕組みを根本から頑強に支えているのだ。幼い子供が自殺したり、母親がよその子供を絞め殺したり、切り取った障害児の首を神殿に捧げ祀ったり、毒ガスで無差別に人々を殺めたりするような事件を日々生み出している、目に見えない大きな仕組みを。と、これはたんなる“虫けら”のひとりごとに過ぎないが。 

 

*

 

 今年で80歳になる評論家の加藤周一氏は、実はうちで購読している某新聞でも毎週、秀逸なコラムを担当しているのだが、個人的に、いわゆるいい意味での知識人の理想型のようなものというイメージがあって、毎回欠かさずに愛読している。ちょっと古いかも知れないが、もともと古いタイプの人間が好きなので仕方あるまい。

 その加藤翁の文章、いつもは眉間に皺を寄せたいくぶん神妙な面もちで読むのだが、先日NHKで放送された四夜連続の特集番組ではじめて実際に喋る姿を拝見して、ときどき怪気炎をあげる岩波文化人のわが叔父の姿とも妙にだぶって、また別の感触で親しみを抱いた。私もいつかあんな粋で反骨の爺さんになりたいものだ。

 特に印象に残ったのは初回の、日本の軍国主義に関する言及で、戦前に翼賛体制をただ一人批判した議員が除名された事例を引いて、この国では常に「全会一致」の決定というのが好ましいとされ、数人の反対意見があるとそれは「アクシデント」ということになる、と言う。そうして反対意見を抹殺して「全会一致」で行くものだから、たとえばいざ戦争を始めて敗色が明らかになってきても、進路を転換する者がもはや誰もいないから、ほとんど主要な都市のすべてを焼け尽くされるまで無惨に突っ走ってしまう。

 それだから、と氏は続ける。つまり「民主主義」とは「多数決」なのではなく、少数の立場の者がいかに守られているかということなのだ、と。

 日頃から「民主主義なんて、しょせん思考停止の馬鹿どもの悪しき多数決だ」と吼えまくっている青尻の私も、こんな説明をされると、なるほどと目から鱗が落ちる思いがする。そしてまた、ものの言いようによって、かび臭い自明のことばが何やら新しい意味を帯びてくるから不思議だ。

 しかしこの国で、果たして「少数」は守られているのだろうか。生まれついて車椅子の生活をしている友人のEちゃんなら、即座にノン ! と応えるだろう。果たしてこの国で、暗黙の「多数決」に対する違和感を口に出せる空気は存在するのか。「公園デビュー」から転落して我が子とおなじ幼稚園児を絞殺してしまった例の事件の主婦ならおずおずと、....いいえ、と応えるだろう。

 「個人主義」だ「個性化」だなどと言われ出して久しいが、根っこのところでは何のことはない、数合わせの政治家連中よろしく、「寄らば大樹」「長いものには巻かれろ」で、相変わらずみんな揃って右へならい、だ。大人ばかりでない、若者たちだってせいぜい携帯のストラップや鼻に通したピアスの数くらいだろ。頃合いになったらビジネス・スーツに着替えて、大企業の会社訪問へいそいそと出かけていくのだろ。

 この国では「少数」の者は、登校拒否の閉じこもりになるか、逆に暴発して路上の通り魔に変ずるか、あるいはいっそ見知らぬヒゲおやじに大事な己を引き渡して毒ガスを散布するくらいしか他に途がない。

 「多数」にはなりたくないねえ。「閉じこもり」にもならず、「通り魔」にもならず、己を安易に「引き渡し」もせず、「少数」のままで、牛乳飲んで長生きして、相変わらずぼやき続けている頑固一徹の粋なじじいになりたい。「全会一致」なんてさ、ホント、気持ち悪いことだよ。たとえ全国「閉じこもり」連盟の決起集会だろうとも、そういう場所には行きたくない。 

 

*

 

 静岡あたりの海岸に、大きなマッコウクジラが打ち上げられている映像をテレビのニュースで見た。大勢の人たちが見守るなかで、ショベルカーなども動員して、海へ戻す救助作業が懸命に続けられているとのこと。いっしょに見ていたつれあいが、どうして? あんなに人手を費やすくらいなら、食べてしまえばいいのに、と言う。はじめはちょっと驚いたが、魚の獲れる海辺の町に育った彼女には、ごく自然な感覚なのかも知れない。

 たとえば動物園や水族館で、コアラやゴマアザラシに「可愛い、可愛い」と奇声をあげる若い女性たちの視線は、ある意味で動物という生命を、アニメのキャラクターのようにモノ化した自己中心的な視線であるだろう。その証拠に、彼女たちはおなじ生命であるイボイノシシに熱狂したり、ホラ貝を見てうっとりとしたりはしない。

 それとおなじように-----捕鯨禁止論についてはまた一家言あるのだがここでは置くとして-----とくにそうした欧米の動物愛護の精神には、何やら胡散臭いものを感じることがときおりある。思うのだが、ああした心情は、歴史的に大量の哺乳類の肉ばかりを喰い続けてきた、かれらの“罪滅ぼし”的な部分から発しているのではないか。動物愛護を唱える一方で、オートメーション化された食肉加工は巨大な資本となっている。

 あの打ち上げられたクジラの延命を願い、ひたすら海岸で見守っていた人たちの多くはおそらく、家へ戻ればいつものように近所のスーパーへ行き、生命としての〈個〉を剥奪されまるで監禁された相撲取りのように不自然に肥らされ、影形もなく切り刻まれた末にきれいにラップで包装された肉のかけらを買ってきて、しかもそうした巨大な日常のからくりと海岸で目撃した「かわいそうなクジラ」とを結びつけて考えようとはしない。つまり、場当たり的な同情に過ぎないのだ。

 私が、テレビなどでときおり見かける動物愛護的な類の映像に素直に肯けないのは、そうした理由による。あるいは、このところ盛んにあちこちで唱えられている「地球にやさしい」などの言い草にも、どこかこうした話題と共通なきな臭さを感じてしまう。

 C. W ニコルさんの書く極北の世界が好きだから、その類の映像もテレビでよく見る。イヌイットと呼ばれるかの地の先住民族たちが、みずからの手で撃ち殺したアザラシの体を、よく研いだナイフできれいに解体し、内臓から皮まで何も残さず利用し、アザラシに感謝を捧げる。かれらは猟で獲物を捕るとき、「あなたのイノチを、どうかわたしにください」と祈りを捧げて捕るという。かれらの口にする肉は、食糧である前に、イノチであるのだ。

 この世の生命は、それが動物であれ植物であれ、あるいはまた微細なプランクトンや菌類のようなものであれ、己が生き延びるためには、自分とおなじように生きている他の生命を奪わなくてはならない。きれいごとなどは通用しない。だからこそ、祈りにも似た思いで「あなたのイノチを、どうかわたしに」とそっと唱え、その肉を切り裂くのだ。

 結局、打ち上げられたクジラは助からなかったらしい。県の問い合わせに対して水産庁が、死んだクジラの肉が市場に流れないよう「焼却するか、埋めるように」と指導したという記事が今朝の新聞に載っていた。政治的な諸々の問題もあるのだろうが、そこまで聞くに至って私は、やっぱりつれあいの言ったとおり、最初から食べてしまった方が良かったんじゃないかな、何か勿体ないなあ、と思ってしまった。

 果たして、人間様のように火葬か土葬の処理をされる今回のクジラと、イヌイットによって五臓六腑に至るまで食べ尽くされるアザラシと、いったいどちらが仕合わせなのか、いや、どちらの生命に向き合う姿勢が“イノチの重み”とつながっているのか。私は、つい考えてしまう。

 

*

 

 お手紙拝見しました。

 先日、日本海の若狭へ行って来ました。ここには地元出身の作家・水上勉氏の記念館があります。以前バイクで山陰を回った際に一度訪れたことがあるのですが、彼女が現在勤めている博物館の理事さんが(この人は長年「差別戒名」のことを調べていらっしゃる人ですが)水上氏と古くから付き合いがあり、最近氏の話が時折出て、また彼女も若狭はまだ行ったことがないと言うので、じゃあ一泊の旅行を兼ねて行って来ようかということになったのです。宿は小浜の国民宿舎をとりました。

 その『一滴文庫』で、素敵な人と出会いました。渡辺淳(すなお)さんと言って、水上氏と同じ郷土出身の画家で、水上氏の著書の装丁や挿絵を数多く手掛けて来た方で、現在は『一滴文庫』の館長も兼ねてらっしゃいます。たまたまお話をする機会があり、閉館過ぎまでいろいろ親切に、文庫内にある陶芸の窯や竹紙(ちくし)の紙漉き小屋、また氏が地元の子供たちに絵を教えているアトリエなどを案内してくれ、水上勉氏の長女という方も紹介してくれました。

 閉館後も裏口でいろいろなお話を伺いました。郵便配達の臨時雇いを30年勤めたという氏は、局から500円で払い下げてもらったという年代もののバイクを白く塗り直して乗っています。飾り気のない朴訥とした人柄で、自分は画家なんて大層なものでない、ただの百姓、絵は日記のように画いて来た、という言葉が印象的でした。お金に縁なし、名声に関心なし、それでちょっとだけ風変わりで、ただ自然にあるがままといった風情で、どこかウマが合ったのかも知れませんね、お互いに。

 

 もし世界中に誰一人として気がつかないとしても、わたしは満足してすわっている。また、もし一人残らずすべてのものが気づいているにしても、わたしは満足してすわっている。

 

 -----ホイットマンのこのような一節を思い出しました。ほんとうに、音楽にしろ文学にしろ絵にしろ誰のためでもない、ただ自分に必要だからするのだと改めて思いました。それがほんとうの理由だと。

 帰り際に名刺をくれて、秋には竹人形の芝居があるから是非いらして下さい、と言ってオンボロバイクにまたがり、のどかな田圃道を帰って行かれました。一滴文庫は青い竹林と、その竹林をぬう風が涼やかでした。

 

 先月でしたか、台風一過のよく晴れた午前中、近くの斑鳩の法輪寺の人気のない本堂で、平安期につくられた一体の弥勒菩薩像と対座して時を過ごしました。帰ってからノ−トに次のような文章を記しました。

 〈仏の眼はどこかあらぬところを見据えている。その視線の先は人には見えない。どこかあらぬところ、だ。この世であり、この世ではない。恐らく時間と空間が異なるのだ。そのような眼差しを仏は人々に投げかけている。静かな、虚空のような眼だ。見詰めると呑み込まれそうになる、やや離れて、半ば白昼夢のようにその眼差しに晒されていると。

 だが歩み寄りもっとよく、もっと確かに見届けようとすると、その眼はふいと痴呆のようになって定まらぬ視線を漂わせる。それでは仏・神は痴呆であるのか。56億7千万年という途方もない時間の後にこの世に下って人々を救うといわれているお前が見ている視線の先は、時として人には痴呆のように見れるのかも知れない。お前のそのあまりにも遠すぎる眼差しは。

 堂内に差し込む微かな日の光やひんやりと寂漠な空気と共に、俺は確かにこうしてお前と向き合っているが、無数のいまでは存在しない人々がかつてお前の前でやはりこうしていたように、俺がこの世からいなくなって後も、お前は微塵も動かず、未来永劫にそうしてそこに立ち続けているだろう。

 では仏・神とは遺伝子の遥かな戦略か。いや、すべての遺伝子が死に絶えてもなお、お前はそこにそうして立ち続けているだろう。余りにも果てしない時間の中では、人はただ恐怖するか、夢を見るだけだ。

 だがお前の眼は夢を見るには冷たすぎる。冷徹で、醒めている〉

 

 夏には不思議な粒子があります。ぼくが生まれたのも夏ですし、父親が死んだのもこの季節でした。ぼくは夏が好きです。強い日差しの下で山川草木が確かな輪郭を縁取り、それが時として、夢の中の風景のように思われるからかも知れません。

 不思議なことに、父が生きていた頃、ぼくはよく彼が死んだ夢を見ました。とても悲しい夢でした。ところが死んでからは、父は生きた姿で夢の中に出て来て、ぼくに話しかけます。だから彼はこちら側から、夢の世界へ移ったのだと勝手に思っています。その境界は時にはぼくには、あるかなきかの如くあえかなものに思われます。銀河鉄道に乗って宮沢賢治が死んだ妹のトシと交信をしたように、ぼくは夏の舞台で死者と生者、すべてのいのちあるものたちが日に晒され、溶け合い、風にそよぐ風景を夢に見ます。

 

 今回はちょっとお喋りが過ぎましたね。ちなみにぼくはここ、奈良に来てから体重が4キロも増えました。それでもまだ胸の上で洗濯が出来ると言われますが。

 最後に良寛の好きな短詩を添えておきます。

 どうぞ、お身体に気をつけて。

 

花ひらくとき蝶きたり

蝶きたるとき花ひらく

 

*

 

 先日、親類の結婚式に招かれて参列した。だいたいが世間知らずの私は、あまり結婚式の類にはこれまで参加したことがない。妹の結婚式と、もう二回くらいだろうか。親戚づきあいが薄いとか、私の周りの友人たちが独身を守り通しているとか、いろいろ理由はあるのだが、私自身がそもそも、そういう形式張った儀式が好きではないのだ。

 今回はつれあいの進言もあって、実家からわざわざ親父のお古の黒いダブルのスーツを取り寄せて準備万端、のはずだったのだが、私の細いウェストに直していたズボンが、当日の朝になってきつくて入らないことが判明し、結局いつものように東武百貨店で買った一張羅の紺のスーツを着ていくこととなった。

 靴はその昔、母親がイトーヨーカドーの靴売り場で働いていたときに、左右のサイズが0.5異なるビッコタンだからと(陳列過程で時折そういうことが起こるらしい)、ほとんどただ同然の値段で買ってきた安物である。

 唯一、つれあいが貸してくれた真珠のタイピンだけが高価な品だろうか。まあそもそも中身の人間が安物なのだから、高価なものを身にまとっても仕様がない。

 さて、結婚式はそれはそれは見事なものでありました。新婦は宝塚出身と見まがうほどの美人で、新郎はどこか羽賀研二似のハンサム・ガイ。しかも式の冒頭で進行役の女性が朗々と述べた新郎のプロフィールをここで少し引けば「数年間の修行の後、独立して○○モータースを設立。若干30歳にして社長に就任。今回の入籍に際して、店の真向かいに150坪の豪邸をキャッシュで購入しました」というものであったから、私などは思わず、式の後で爪の垢でも貰って帰ろうと思ったほどであった。

 ところで私自身の結婚式は、前にもどこかで触れたが、明日香村で手打ちソバを食べるだけというごく質素で無秩序な集まりであったので、そのような華々しいスピーチを聞きながら私は、もし自分がこのような定型に沿った結婚式をしていたらどんな紹介のされ方をしたのだろうか、と思わず考えてしまった。

 このような場所で公開されるべき略歴というのは、要するに世間一般の分かりやすい物差しで計った内容であるのだろう。そこで順序よく連想されたのが「興信所の調査書」である。実は私とつれあいの結婚は当初、つれあいの実家で猛烈に反対されていて、私は何度か単身彼女の実家に乗り込んで説得を試みたのだが、その間「どこの馬の骨」とも分からぬ私の素性を調べるために、密かに興信所の人間が画策したことがあったのである。

 後日に漏れ伝わったその調査結果の内容とは、いわく「これまで一度も定職に就いたことがなく、親しい友達は皆無。変わり者で、学校では本ばかり読んでいた。集団の中での協調性に欠ける。父親が死んだのに母親がひとりで暮らす家に帰ってこない」等々....。

 いくつか正しくない箇所もあるのだが、ここでは面倒なので指摘しない。当時のクラス・メイトや近所の人からの聞き書きも混じっているようだ。要するにここで言いたいのは、私と全く面識のない第三者が、私という人間に関する世間の声を無作為に拾っていったらこういう内容になる、ということである。

 正直に言って、私はその話をつれあいから聞いたときには心底怒り狂ったのだが、それはもう済んだことだし、長くもなるのでここでは触れないでおく。いまにして思えば、「大事な娘を思う親心」も少しは理解できる気持ちがないわけでもない、とだけ書いておこう。

 さて、20代の頃に私が愛読していた狩撫麻礼の漫画「ボーダー」の中にも、同じような場面があった。「無為こそ過激」を信条にボロ・アパートの便所部屋で暮らす主人公に縁談の話が持ち上がる。相手の実家では興信所を雇ってかれの身辺調査をするのだが、それを知った主人公は激怒する。そんなものを頼りにするというのは人間が信じられないからだ。おれの人生をそんな紙切れ一枚でくくられてたまるか。

 かれは尾行する探偵を逆にとっつかまえ、おれは逃げも隠れもしない、聞きたいことがあるなら、こそこそ嗅ぎ回ってないで、直接おれに聞け、と宣言する。そして探偵を連れてかれが幼い頃に育った町へ赴き、その奇妙なメンバーで“過去を遡る旅”へ出るのである。

 話が少しばかり外れたようだ。結論は、結局どう頭を捻ってみても私には、人前で披瀝するような華々しいプロフィールどころか、およそ語るに相応しくない、ろくでもないガラクタのような切れ端しか浮かんでこない。居並んだ関係者各位を感心させるような経歴も肩書きも実績も何一つない。

 だが、それでいいのだ。That's My Life 。私は自分の好きなように生きてきたのだし、他のどんな人生とも交換したくはない。誇れるような過去は何もないが、私は自分の人生がいちばん好きだ。それに私は「写真には写らない美しさがある」(ブルーハーツ)ことも知っている。

 って結局のところ、「150坪の豪邸」が単純に妬ましかっただけなのかもね。うう、ホントはとても羨ましいぜ。

 

*

 

 他人、とくに男性の人となりを見る場合、私にとって、そのひとの女性観というものがひとつの重要なキー・ポイントになっているように思う。

 個人的にはディランの歌うラブ・ソングは言わずもがな、たとえば泉鏡花の母恋しの手毬歌から、折口信夫の同性愛的恋慕、あるいは身近な友人の恋愛観に至るまで、さまざまな絵筆で描かれた女性の形象から、その人間の生きる姿勢のようなものが滲み出てくるように思われるのだ。そして私の経験によれば、それはたいてい的はずれにならない。

 ここでは宮沢賢治について触れたい。

 37歳で夭折した賢治は生涯独身を通し、おそらく童貞であったろうといわれている。あまり知られていない話で、それは賢治ファンにとっても耳に心地よくない話ゆえと思われるのだが、没後にかれの遺した行李の奥から多数の浮世絵が見つかった。枕絵、いわゆる男女のSEXを描いた春画である。

 それに言及していたある研究者は、「おそらく生涯独身であった賢治が、女性との交わりをイメージする手段として用いたのではないか」と思い切った発言をしていた。私も、おそらく、そうだろうと思う。賢治という生身の人間を徒(いたずら)に聖化するのはよくない。賢治だって男だ。やむにやまれぬ性欲を春画を前に解き放ったこともあったに違いない。

 ただかれの性欲は、そのストイックなまでの女性を求める気持ちは、生身の女の肌を迂回して、イーハトーブの広大な野原の上にちらばり、そのイメージにおいて昇華された。ある意味で、屈折した光景であり、修行僧のようでもあり、またせつなくもあるのだが、結局のところ賢治が自分で選んだ「手段」であったのだろう。

 ある友人は次のように語っている。

 

 彼は絶えず女性を求めていた。だが決して単独に女性に会うことは欲しなかった。第三者の同座を願った。いらない誤解を受けたりして、周囲の人々に迷惑をかけることを嫌っていたのである。

 だが彼は善財童子の五十三善知識訪問の修行の旅にでてくる自信女とか不動信女、あるいは獅子奮迅尼のような聖女、久遠の女性、叡智の女性を求めていたのである。童話作品で、あるいは心像スケッチの詩の中で、彼はこうした理想の聖女、母性を描きだし、創立している。

 

 賢治自身、生前に友人たちに次のようなことばを語ったという。

 

 性欲の乱費は、君、自殺だよ。いい仕事はできないよ。瞳だけでいいじゃないか。触れてみなくたっていいよ。性愛の墓場までいかなくてもいいのだよ。

 おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだよ。

 花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類に入らないよ。君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ。さあ行こう。

 

 実は私自身、もうひとりの賢治であった。正直な話、30を過ぎるまで女に触れたことがなかった。もちろん、その筋の類の店にも行ったことはない。たとえチャンスがあっても、お前はほんとうにこの女を愛しているのか、と自問するとすんでの処でしりごみした。アナクロニズムなのである。妙なところで生真面目だった。

 だから賢治のことばは、私の胸に沁みた。長いこと、私自身のことばでもあった。大袈裟なようだが賢治と私にとって、女性とは「対他の象徴」であった。自分と世界をつなぎとめる一本のほそい糸、ひとつの小さな窓だった。つまりきっと、うまく言えないが、はじまりであり同時に完結であった。要するに、すべてだったのだ。すべてであったからこそ、容易には得難いものだった。

 晩年の死の床で、賢治は奇妙に暗く激しい、彼自身の「結婚」の詩を書いている。かれにとっての「結婚」とは、つまり地上からすれば「涅槃」であるのだが、暗い死のイメージへまっすぐに突き進んでいくような、透徹した決意と悲しみを感じる。ああ、最後までレールに沿って行ったんだなあ、とも思ってしまう。

 

風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々
(こもごも)叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぱうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛び出して来て
あすこの稜
(かど)ある巌(いわ)の上
葉のない黒い林のなかで
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる

 

 私はこの詩を読むたびに、何ともいえない感慨に浸される。黒い結婚、どこまでも黒く、せつなく、激しい結婚だ。

 私は、賢治は充分に女性を愛したのだと思う。生身の女にこそ触れたこともなかったが、かつて

 

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができます。

 

 と記した詩人に相応しいやり方で、肉ではなく、霊において愛した。そしてかれは熱にうなされた死の床で、「うつくしいソプラノをもった」永遠の女性と結ばれたのだ、と。そう、思いたい。

 

 私は一人一人についての特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さふいう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。

(昭和4年頃・高瀬露宛書簡下書)

 

 熱烈な法華宗の信徒であった賢治は、つまるところ〈私〉を否定し、タマネギの皮を剥くようにそれを一枚一枚はがしていくことによって、透明な存在となることを希求した。《みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない》 かれの激しさと美しさは結局、その「無限大への参入」に集約される。

 だが賢治が選んだ道とは違った、別の道もあるように思う。否定ではなく、ささやかな肯定の道。生身の一本のほそい糸、小さな世界の小窓からはじめるやり方が。たとえば清志郎のごく初期の、こんなシンプルな歌の感情が私は好きだ。

 

きみはいつもぼくを愛してる
きみは言ってくれた
ぼくは悪くない
ぼくはそれほど悪くない
ぼくはちっとも悪くない
きみだけさ
忘れない
!

(ぼくの自転車のうしろに乗りなよ)

 

 ふたつの糸はきっと、まわりまわって同じひとつの場所へたどり着くのだと思う。どちらも夜空に美しく、どちらの響きも、どこか似ている。

 

あるときは遠き夜の火に
たゞともに行かんとねがひ

あるときはたゞきみにのみ
さちあれとうち祈りけり

(宮沢賢治・草稿)

 

*

 

 早朝につれあい、「そっちへ行ったぞ ! 」というただならぬ私の寝言に眠りを破られる。

 夢の中で私は、どこかの山中をつれあいと一緒に歩いていて、草で被われたトンネルのような獣道を見つけたのである。中を覗き込むと、可愛いサイの子どもが数頭、その奥にまだ産まれたての子どもに寄り添っていた母親のサイを見つけたとたん、そいつが突進してきた。

 「何が来るの?」と尋ねたつれあいに私は、サイ、と答えてから、子どもがいっしょで気が立っているから危ないんだ、と呟いたらしい。

 

*

 

 台所で彼女は絵本のなかの妖精のように振る舞う。お砂糖を入れて、お醤油を入れて、さあ、おいしくなってくださいねえ、とエンドウを入れた鍋の蓋を両手でそっと押さえ、こんどは換気扇をまわして、おいしい匂いがよそのおうちにも飛んでいけえ、と愉しげにひとり話している。

 こんなふうに、どこかでかみさまとも話しているのだろう。そんな他愛のない空想さえ、思わず浮かんできてしまう。

 わたしが死んだら、他にはなんにもいらないから、百合の花をいっぱい飾ってね、と彼女は言う。

 買ったことはないけど、百合の花って、きっと高いんだろうな…

 

*

 

 平々凡々の日曜日。

 数日前からつれあいが風邪気味で、生来気管支が弱いためすぐに喉に来るのだが、昨夜もコンコンと一晩中咳き込んでいたため、二人ともなかなか熟睡できず。明け方頃に私は、前夜に試みにいじくっていた画像処理ソフトでつれあいの咳を「開き」、そこへペイントツールで書き込みをしているという面妖な夢を見る。

 朝食。ベーコンと卵焼き。トースト。ホットミルク(つれあい)。コーヒー(私)

 洗濯をしてから、二人で歩いて買い物へ。本日快晴、風強し。スーパーで鮭の切り身と漬け物、黒蜜のトコロテン、麦を買う。帰りに立ち寄った園芸店で、トマト・茄子・ピーマン・にがうり・カボチャの苗を数本づつ。

 家へ戻ってから私だけ畑に行き、草取りや土起こしなどをした後、さっそく苗を植える。二年前に植えたイチゴが、今年も白い花を咲かせている。片隅に椅子代わりに置いていたビール・ケースの裏にカマキリが卵を産みつけていて、折しも孵化したばかりの無数のカマキリの子どもがかたまり、うごめいていた。しばし好奇の思いで子細に眺めながら、小エビのようだな、炒めてチャーハンにでも入れられないだろうか、などと考える。雑草に埋もれていたチシャ菜を一把とって帰る。

 昼食。つれあいが作ってくれていたトマトのリゾット。

 午後からは、現在つれあいが最重要課題として取り組んでいる押入リストラ計画の一環として、古い手紙類の整理。整理中に、引っ越しの際に誤って捨ててしまったと思われていたつれあいの古いアルバムが出てきて、つれあいの思い出話を聞きながら二人でしばらく面白おかしく眺める。

 トコロテンのおやつを食べ、先に整理を終わらせた私だけ炬燵に寝っ転がって、テレビで甲子園の「阪神vsヤクルト」戦を眺める。が、現在うだつのあがらぬヤクルトが今日も負けているので、そのままうとうとと眠ってしまう。

 夕方、ポリ容器に入れた水をバイクにくくりつけ、畑へ水をやりに行く。もう二三日は雨が降りそうもないので、苗を枯らさないために。水を遣り、苗が倒れないよう支え木をしていると、隣の畑のおばあさんがやって来てしばらく、東京で歯の技工士として働いている息子や武田製薬を勤め上げた死んだ亭主の自慢話などをエンエンと聞かされた。トマトは実がつき始めた頃に油粕をやるといい、とのこと。ようやく解放されて家へ帰ると、つれあいが窓から見ていたらしく、「きれいな女の人とデートしてたでしょ」とニヤニヤしながら言う。

 夕食。鮭のムニエル(手製のタルタルソースとじゃばらの果汁をかける)。チシャと蛸のバター焼き。電子レンジで蒸かしたポテト。ジャガイモのミルク・スープ。ライス。生卵をかけたご飯(私だけ追加)。

 夕食後、昨夜の「大草原の小さな家」で足を怪我したふりをしてローラを騙したネリーを真似てつれあいが「足が動かないの」と甘えるので、仕方なく私がひとりで食器洗いをする(いつもは二人でする)。その間につれあいは実家の母親へ電話。姪のSちゃんからHPに載せている胎児の写真のことを聞いたようで、そんなもの、ミットモナイからやめなさい、と言われる。

 そういえば友人のO氏から、前にこの項で書いた「独身を守り通している友人たち」という私の記述に触れて、「独身というものは、果たして守るものなのでしょうか」というメールを頂いた。

 

 果たして独身は守るものなのか、ということです。私は、独身ですが、かなり無防備であると思っています。言い寄られたら、あっという間にころっといってしまうでは無いかと不安でしょうがありません。しかし、誰も攻めてこないので、平穏無事に過ごしている次第です。

 

 まあ、それは一種の「慣用句」あるいは「枕詞」とお聞き逃しあれ。積極的に守っている人もいるだろうし、嫌々「守っている」人もいるわけで。

 それともうひとつO氏から、同じ記事の興信所の件で私が激怒したことに触れて、

 

 それにしても怒るのはよくありません。怒って得することはないけど損することはたくさんあります。それに、活性酸素がたくさん出ますし。もし、怒って得した話を知っていたら聞かせてください。

 

 有り難いご助言です。仰るとおりで、私の経験からも怒って得することはほとんどないと思います。常に冷静に対処するのが何より得策です。しかし私はそれがなかなか出来ないし、おそらく私は「怒って損をする」のが、実は好きなんじゃないかという気が自分でしています。つまり私の価値観はたぶん、損得の勘定ではないのです。いや、「損をする」ことが、私にとっての「生きる証」なのかも知れない。ねじくれた考えかも知れませんが。しかし「活性酸素」のことは、他にも私はげっぷもおならもよくするので、少し注意したいと思います。

 8時からNHKの大河ドラマ「葵・徳川三代」、9時から教育テレビで「N響アワー」。そのまま10時からヒッチコックの「北北西に進路を取れ」を見る予定でいたのだが、つれあいの調子が悪そうなので早めに休ませて、映画はビデオに録っておくことにし、つれあいの就寝後、いつもの焼酎のお湯割りを啜りながらだらだらとこうしてこれを書き了えた。

 

*

 

 小学校のときからの腐れ縁の友人がいる。小学一年のときに、かれの父親が亡くなったとき、クラスの代表として葬式へ出た。その友人がいつであったか、二人で酒を飲み交わしていたときに、父親の話をしだした。

 自分は長いこと、父親がいないということにある種のコンプレックスを抱いていた。ともだちの家へ遊びに行ったときには、父親というものはこういうものなのかと、ひとり勝手にイメージした。思春期に乗り超えるべき“父性”と対峙できなかった自分には、やはりどこか欠落した部分があるに違いない…

 深夜の酔いもあったのだろうか、ふだんはそんな素振りなど見せない人間だったから、はじめて聞く話に、すこし、驚いた。長いつきあいなのに、自分はかれのことを何も知らなかったのかも知れないと思った。

 「だってさ、人の好みというものは、どこから出てくるんだい? 本が好きだとか、音楽に興味を持つとか、さいしょは、何もないところから出てくるわけじゃないだろう。それはやっぱり、親から与えられるものがあるんだよ」

 かれにとっての残された貴重な思い出は、幼い頃に父親とキャッチボールをしたことだったという。それがいまでも大切な記憶で、中学校で私とおなじ野球部に入ったかれは、高校でもそれを続け、いまもかなりなベースボールおたくだ。簑島高校出身の私のつれあいの前で、ひと昔前の甲子園での名場面をすらすらと再現して、彼女を驚かせたこともあった。

 そうしてベースボールを愛し続けることが、かれにとって、父親との遠いかすかな記憶を反復し、その後の奪われた“欠落”を埋め戻したいと願う、ひそかな自己修復の作業であるのかも知れない、とも思う。

 友人に比べれば私は、父親との記憶をより多く所有している。20代のはじめに父親が事故で死ぬ直前まで、思春期特有の反撥を繰り返していたが、いまから思うとそれは多分に、近親憎悪的な愛情の裏返しであった。風呂屋で見知らぬオッさんに背後から、父の息子であることを指摘されたほどに体つきも似ているが、それ以上に、私は父から多くのものを受け継いだ、と思う。

 かれは一介の貧しい鞄職人だった。世渡りは不得手で、組織の中で働くのが不向きだったから家で仕事をしているのが性に合っていた。理の通らぬことには反発し損もした。利益にならぬ仕事を親切心から引き受けることもよくあった。強者の傲慢や狡賢さによく不満を漏らしていたが、隣人には誠実で、身近な世間には好かれていたと思う。家の中では短気なところを見せることもあったが、それは弱さの裏返しでもあった。本を読むのは好きで、とくに仏教書に親しみ、晩年は短歌もどきの下手な歌も拵えていた。裕福でなかった代わりに、家のガレージでも物置でも、自分で工夫して何でも低予算で器用につくった。そう、それから、若い頃から山登りが好きだった。山の清冽を、愛した。

 どれも私が、いくぶん形を変えてにせよ、かれから受け継いだもので、いまこうして書き連ねていくと、まるで父親が私の中にいるかのようだ。

 死の存在を前にして、人はおのれの一回性におののく。私はずっと孤独と一回性を愛してきたが、同時に連続性を夢見てもいた。遺伝子の完全な複写というものでなく、このみすぼらしいバトンのかけらを引き渡す者を欲していたのだ。

 もとい私のこの孤独と一回性は、私が自分の墓場まで持っていく私ひとりのものではあるのだが、とにかく、消え去る前にちいさな種を一粒、この地上へ置いていくのだ。産卵を済ませていのちを終える傷だらけの鮭や、砂漠の真ん中に樹木の苗を植える老人のように。

 砂漠というのは、私のみすぼらしい一回性だろう。そこに残すものは、人間のいのちでもいい、スミレの種でもいい、魚の卵でもいい。一行の乾いた詩でもいい。ようするに〈全きもの〉であるなら、何でもいい。いのちとは、連綿と続くやわらかな無限大の円環であり、そこへ参与することによって私の哀れな一回性は、たとえ私のすべての計画が潰えたとしても、死の存在を前にして、ささやかな〈意味〉を見出せる。

 私はどんな父親になるのだろう。おそらく私の父とおなじように不器用に、臆しながら、私が知らぬ間に父から受け取りあたためていたバトンを、こんどは彼あるいは彼女にやはり気づかぬように手渡し、この地上をそっと離れていくのだろう。

 

*

 

 いつかバイクの旅の途中で、漱石の街・松山へ立ち寄った。城のぐるりを路面電車が走っていた。それだけで、時間のテンポがどこかのんびりと回っているような気がしたものだが、それとおなじように、海でも川でも水のある街は、雰囲気がしっぽりとしていて、どこかいい。

 つれあいの見ていたテレビで、作家の瀬戸内寂聴がインドのベナレスを歩いていた。聖なるガンガーの流れるバラナーシィー。燃え落ちる火葬場の死体を、日がな呆けたように見つめていた、あのガート(沐浴場)だ。あの街は、不思議な心地よさのようなものがあった。一度、突進してきた牛に追いかけられ、あわてふためいたこともあったけれど。

 二度目にインドを尋ねたとき、ガンジス川の中流まで小舟を出し、死んだ父親の骨片を流した。かれは日頃から仏教書の類に親しんでいたから、その一部をブッダの生まれた国の、混沌たる聖なる川へ解き放ってやった。

 ハンケチに包んだ骨片を、濁った川面へ散じた途端、何やら感慨めいた感情が胸に去来して、思わず舟の漕ぎ手の若いインド人に、「私の父だ」と伝えた。するとかれは「この川は俺たちの川だから、では使用料を私に払ってくれ」 そんなようなことを言って、片手を差し出してきた。

 やられた。これがインド流というやつだ。生っちょろい感傷など、ここでは通用しない。だがそれがかえって小気味よい。「では、この金を」と、かかげたひとつまみの硬貨を、川面に落として言った。「きみたちのガンガーへ」

 水の流れている場所は、どこかいい。水の流れそのものが、遡行する過去であり、なつかしい未来のような気がするからだろうか。

 

*

 

 孤独なセヴンティーンが暴走する。狂ったセヴンティーンが夜の間隙を切り裂く。それはある者にとっては聖なる儀式。ある者にとっては復讐。すべてが苛立たしい。ぼくをはじき出したこの世界を皆殺しにしてやりたい。ぼくが生きのびるためにも。くだらないガラクタを、ぼくの頭に詰め込もうとした奴らに仕返しをしてやるのだ。ぼくを虫けらのように扱い、兎のように閉じこめようとした奴らに。人を殺すことなんて何でもないことだ。知ってるぜ。気取っちゃいるが、あんたたちの中にだって同じ欲望はあるだろう。柔らかな肉に刃を突き立て、ぐさりとやってみたい気持ちが。すべてのルールに「ノー」と叫び、破壊し尽くしてしまいたいような衝動が。だが、あんたたちは言わないから、ぼくが代わりに言ってやるんだ。腕は震えているが、頭は奇妙に醒めている。生暖かい血しぶきがぼくの顔面に洗礼の聖水のようにかかる。そう、こいつはぼくの洗礼なのさ。痛みの解毒剤だ。そいつがぼくの呪われた血管の中を心地よく逆流していく。これがぼくの「言葉」だ。人でなしの言葉かも知れないが、みじめなコマネズミのように空回りするあんたたちの最低の言葉よりはマシのはず。昨日の夜遅く、ぼくは自室で聖書を読もうとしたけど、3ページまでも辿り着けなかった。自分が何者だか分からなくなっているのに、本など読めるわけがない。それで聖書を投げ捨て、ナイフを手にした。そのときはじめてともだちを持ったような、安心した心持ちになれた。だからぼくはともだちの手を借りて、ぼくの言葉をこの世界に刻んだ。なのにぼくはいまだ、自分が何者で、どこへ行って何をしたいのかさえ分からない。ぼくが死んだら犬に喰わせてドブ川にでも流して欲しい。きっとぼくは地獄に落ちるだろうが、いまいる世界よりはずっといいはずだし、それにもうひとりぼっちでもないだろうから。

 

*

 

 やりきれない少年の事件ばかりが続く。これまで何度か引用してきたが、やはり今度もエンデさんのこの言葉を引きたい。

 

 狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆる正しい反応をする人より多くなりますよ。

 

 誤解をおそれず、あえて言おう。私は少年たちの反応は「正しい」と思う。かれらは正しい反応をしたのだ、と。異常な世界では異常な反応をすることが「正しい」、と。異常な世界で正常な反応をしている人たちよりも。だから、かれらはぼくらの鏡のようなものだ。明日は自分かも知れない。

 自分の居場所が見つけられない。共通している根っこは、たぶんそういうことだろう。それは当然だと思う。すべての価値観が貨幣によって換算され、経済のシステムにのって流通しないものはなんの価値も見なされないこの世界では、ありとあらゆるモノは溢れていても、魂のやすらぐ場所がない。社会のシステムからこぼれ落ちてしまったこころをすくい取る受け皿がない。

 ふたたびエンデさんの言葉を借りるなら、たとえばそれはこんなような世界だ。

 

 本来量としてとらえられないものが、量として考えられて、そのために、そのものの価値がまるごとうばわれる。

 人間の生のすべては、経済システムに結びついています。私たちの思考、私たちの世界像、人間像のすべてが、経済システムと分かちがたい関連をもっています。つまり自然界での淘汰の理論を、経済生活での弱肉強食のあり方に通用させて、それを正当化している。

 しばしば現代では、力は自己破壊としてしかあらわれない。ほかの形の表現を知らないし、見つけられないからだ。

 人間から時間が疎外されていくのは、いちのが疎外されていくことであり、そう仕向けていくおそろしい力が世界にある。

 そう、弱まっています。そしてますます弱められる方向に向かっています。ありとあらゆる現代の諸要素が、そうさせる。人間が人間になろうとするほんとうの成長の力、それが現代社会によって罰を受けているようにみえます。

 

 それはユングのいう意識と無意識の関係に似ている。意識が拒み、闇の中へ押し込めようとすればするほど、無意識は危険な様相を帯びてくる。意識は脅かされる。人々が驚き、不安に怯えるように。それはけっして外の異界から到来するものでもなければ、特殊な空間から来るのでもない。下から来るのだ。共通の下から。閉じこめられたものは、自らの意志でなく噴出する。〈無理解〉という悲しみの悲鳴をあげて。

 私自身、かつて「閉じこもりかけたある苦しい時期」に次のような短い詩をひっそりノートに記した。それは私の拙い遺書か、犯行前に残され後に押収されたメモになってもおかしくはなかった。それは誰も耳を傾ける者のいない、きっと最後の吐息のようなものだった。

 

狂気へ到る道
それを示唆するのは
心優しき人たちだった

ぼくは微笑んで
うなずくしかなかった。

 

 いまある世界に生きられないとしたら、残された道は二つしかない。自らを生存に値しない者として抹殺するか、自らの力で秩序を取り戻すために、いまある世界を破壊するか。どちらも根はおなじで、混沌(カオス)への希求が内へ向かうか外へ向かうかの違いでしかなく、どちらもおなじように悲しい。

 エンデさんは自身の作品について、こんな解説をしている。

 

 私が「はてしない物語」で試みたのはこういうことです。

 主人公のバスチアン少年の居場所はまずはファクトの世界。日常世界です。ファクト、ファクトとあるのだけれど、個々のファクトに意味が与えられていない。すべてがばらばらで、意味を失っているのです。そういう世界にバスチアンは生きることができない。

 そこでさしあたりバスチアンは逃げだします。一方の、何もかもが意味を持っている世界へ。そのファンタージェンの国ではすべてが意味を持ち、偶然性は何もありません。

 で、この別世界を巡り巡って、彼のオデュッセイを探検します。それを通じて彼にも力が生じる。それは日常世界のファクトにも意味を獲得させうる力なのです。

 彼はだから、ファンタージェンからもとへ戻ったときに、ある意味で一種の詩人になったわけです。なぜなら、詩人が古今東西において果たしてきた役割は、すべての事柄に意味を与えることでしたから。言葉をもういちど、見つけなおす、つくりなおすことです。

 

 くりかえし言いたい。狂った世界を狂った世界だと認識することは正しい。こんな世界ではとても生きられないと感ずるきみのその感覚は正しい。だがそれを狂った反応で返してはいけない。それはきみ自身を殺すことだから。

 いまいる場所がそんなにひどいところなのだったら、そこから逃げだせばいい。学校が嫌なら、行かなければいい。閉じこもりたかったら、何年でも気の済むまで閉じこもればいい。嫌なことは嫌だと拒否すればいい。

 ただひとつだけ大事なのは、そこで自分だけのファンタージェンを育んでいくことだ。それがどんなものでも、他人から笑われようと、構いやしない。そうしてジグソー・パズルのように、世界を組み直していくのだ。自分にとって意味のあるものを、ひとつづつ、ゆっくりとつなげていく。そうしてつなげていった先に、いつか誰かが立っているいるだろう。きみとおなじような気持ちをもった誰かが。

  

*

 

 「IT・情報技術革命の衝撃」と題したNHKの特番を見る。時代の波に乗った日本のベンチャー企業の若き旗手たち。私とほぼ同世代のかれらの顔は自信に満ち満ちている。確信に満ち、覇気に富み、いつも迷ってばかりいる私の姿とは大違いだ。かれらはこぞって言う。時代はスピードだ。インターネットがさらにわれわれをより豊かで便利な世界へ導いてくれる、と。かれらの輝いた顔を見ていると、たしかにその通りなのかも知れないとも思う。自分が時代遅れのガンマンか、負け役の巡業ボクサーのように思えてしまう。だがたとえ背後から撃ち殺されようとも、惨めなKO負けを食らおうとも、かれらの顔にはどうしても馴染めない。そのことばの響きに真実を感じられない。そう、少年の頃にジョン・レノンの歌声から聞き取ったようなあの真実のぬくもりを。拭い去りがたい違和感。そこには大きな欠落がある。あのバス・ジャックをした少年がネットに書き込んだという言葉は、何か実を結んだのだろうか。自分のような人間がいることを知って欲しかったと罪もない小学生を刺殺した青年と、日々ネット上で交わされる膨大なことばのやり取りの間には、何か埋めようもない落差があるのではないか。おそらくその溝はどんどん拡がっていくばかりだろう。器用に利用できる者と、そこからはぐれて見えなくなってしまう者と。日本の大手の商事会社が新規採用をネットでのみ受け付けたように、新たなる差異化が生まれるだろう。かれらは言うのだ。スピードこそが経済の武器で、それがわれわれの生活をもっと豊かで便利なものにしてくれると。だがひとの魂は、果たしてその加速についていけるのだろうか。ふり落とされた魂は、いったいどこへ沈んでいくのだろうか。この特番を見る前、つれあいの好みでアフリカの大地に材をとったおなじNHKのドラマを二人で見た。写真家の若い家族がアフリカへ移住する。頼んでいた借家は水道も電気も壊れている。現地の友人はかれらに言うのだ。アフリカでは「ポレポレ」で行かなくては駄目だ、と。「ポレポレ」とはスワヒリ語で「ゆっくりゆっくり」の意だという。私はこの方が好きだ。世間のスピードに乗り遅れ、おいてけぼりを食らおうとも、性に合っている。「ポレポレ」と口ずさみながら、生の獣の肌に触れ、本物の風に髪を靡かせていたい。

 

*

 

 今朝はつれあい、二人でウィーン・フィルの演奏会に行って来た夢を見る。それは毎年の恒例行事で、つれあいの実家のお母さんから、そんなに近くでやっているなら和歌山にも来て欲しいものだと言われ、つれあいはウィーン・フィルの事務所へ頼みに行って来たのだという。相変わらず、ゴージャスな夢である。

 森総理大臣の「日本の国は天皇を中心とした神の国であり、国民にもそれを了解していただく」云々発言の、そのはなはだしい時代錯誤と、貧困な論理に呆れる。これが文部大臣出身の首相というのだから、この国の馬鹿さ加減が透けて見える。法の華のイカれた「天声」とおなじじゃないかい。何やらきな臭い匂いが漂ってきたよ。経済が落ち込むと面妖な国粋主義が首をもたげてくるのはいつの時代もおなじことだが、こうしたことが堂々と「言えてしまう」時代の空気の方がより空恐ろしい。おしつけがましい求心は冷酷な排他へと連動していく。「情操教育」などとほざいているが、中身は閉鎖的ないじめ社会の構造と瓜二つだ。

 手紙が二通。一通は最近関東から三重の四日市市へ転勤になった友人からの葉書で、引っ越しの雑感。「コンビナートの町にしては田が多く、近くに山も見えて環境は良好」との由。もう一通は大阪の元人権博物館理事のK氏からの封書で、奈良・大峰山の女人禁制問題に関する冊子編集の件で、私が書き送った意見原稿の最終確認について。

 今日は夕食後、新聞を見ながら10時までうたた寝をしてしまった。

 

*

 

 かつて目にしたソローのこんな言葉がただわけもなく蘇ってくるような夜。

 

原始林の中に住むあなたの子供となり
生徒となるほうが
他の場所で人間たちの王者となり
身分こそ高かれ心労の奴隷となるよりも好ましいのです。
あなたと暁の時間をたのしむほうが
都会でよるべなく一生を過ごすよりよいのです。
ぼくに静かな仕事を与えてください
ただそれがあなたの身近のものでありますように

(自然・ソロー)

 

 たとえどんなときであっても、こうした気持ちと、いつもつながっていたい。

 そう、先日の新聞連載で、作家の大江健三郎が沖縄のある「キリスト者」にこんな質問をしていた。    魂とはどういうものでしょうか?

 

 人格の奥にあるもの、人格が肉体的、精神的に傷つけられても、壊れないもの。それが魂だと思います。

 

 私がくずれかけそうなとき、逆に私の魂は高く飛翔する。そうしたことは、これまで幾度もあった.......

 

*

 

 週末につれあいの実家へ行ってきた。親戚宅で借りた車に、実家へしばらく預かって貰うベビー・ベッドやつれあいと私の双方が持ち寄ってだぶっていたストーブや炊飯器などの不要品を積み込み、最近買ったばかりのルー・リードの新譜をセットして、木曜の夜に出発。高速でなく紀ノ川沿いの下の道をのろのろと行ったので、向こうへ着いたのは夜の10時半頃だった。

 翌日は朝から二人で近所の駄菓子屋へ行った。「大根と生姜ののど飴」というのをいつも買うのだが、つれあいを幼いときから知っているここのおばさんはいつもお金を受け取ってくれない。お菓子や洗剤や子供の雑誌やもろもろを置いている、田舎によくある小さな雑貨屋である。つれあいはしばらく店内で立ち話をして、子供の頃におばさんが作ってくれた柏餅のことを話している。ふるびて懐かしい、こんな雰囲気が好きだ。

 昼前からつれあいの両親を乗せ、和歌山市を抜けて紀ノ川沿いにある那賀町の華岡青洲の記念館を見に行く。以前にバイクで来たときは墓所しかなかったが、最近診療所などの建物が復元され、レストランや物産店が併設された資料館が出来たのである。世界ではじめて全身麻酔による手術を行った江戸期のこの医聖については、有吉佐和子の小説などで知っている人も多いだろう。昼は併設のレストランで。和歌山出身の料理研究家・奥村某氏のレシピとかで、片田舎のレストランにしてはなかなか良い味を出していた。ちなみに水をあしらったこの建物は黒川紀章の設計である。

 帰りがけにつれあいの妹さん宅へ寄り、赤ん坊用の布団などを積み込む。買い物を済ませてから、夜の7時頃に実家へ帰宅。夕飯は獲れたてのヒラメと鰺の刺身に、カレイの唐揚げ、海老の塩焼きをたっぷりと。海のない奈良では味わえないような新鮮な素材ばかり。鰺は実家の親戚が釣ってきたのを届けてくれ、ヒラメは海老を買った漁師が釣り上げたときに頭を傷つけ売り物にならないからと只で呉れたという。

 最終日は朝、二人で食事をしている間にお母さんたちは畑へ行ってジャガイモや玉葱などを掘ってきてくれる。午前中に車でわりと新しくできた町内の図書館へ。夏休みに来たときに子供を連れて行きたいからというつれあいの言で見に行ったのだが、そこでつれあいは偶然小学校のときの同級生と再会ししばし立ち話。役場に勤めているそうで、町内の民俗資料館に友達が勤めているから今度来たときには話をしておくからと言ってくれる。

 鰯の南蛮漬けなどの昼食を食べてから、魚や野菜・野菜の苗などを後部座席に満載して昼過ぎに出発。帰りも高速代をけちって下の道をのんびりと走り、県内の病院でリハビリをしている親類のおばさんを二人で久しぶりに見舞ったりして、家に着いたのはもう9時近かった。

 

 

 

■日々是ゴム消し log4 もどる