■ 9.11に端を発したBBSでの対話

 

 

 

 

428. こんばんわ、よろしくお願いします。 アキン [URL]  2002/10/11 (金) 01:30

 端正で簡潔で時に荒々しく文章を愛読させていただいています。kagamiさんの文章に触発されて初めて書き込ませていただきます。

僕は暴力やテロには反対です。アメリカの様々な他国への干渉や侵略についても許すべきでないと思っていますが、いくら傲慢なアメリカであってもテロ犠牲者には同情を禁じ得ません。人間への同情がなければ、どんな立派な意見を述べても意味はないと考えます。やられたらやりかえせというのなら、永遠に争いはなくならないでしょう。kagamiさんが書かれた方法しか、テロと侵略をなくし、世界平和が得られる方法はないのではと思います。

まれびとさんは「中心に対する辺境のように、テロルというものはなべて偏見なのだと思います。そのような場所において、私はあえて正論を拒否したいのです。」と書かれていますが、紛争や争いを理解する上でとても重要な視点のように思います。まれびとさんのお考えをもう少し説明していただければ理解できるかもしれません。よろしくお願いします。

 

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431. アキンさん まれびと  2002/10/11 (金) 23:22

田中宇氏のコラムにあったイスラエル人の父親や、あるいはかつてナチスの収容所で同朋のユダヤ人の身代わりにガス室へ消えていった神父のような、人の理性が、美しく強靭な輝きを放つということは確かにあるだろうと思います。それは私たちに感銘を与えます。

しかしその一方で私は、理性や倫理といったものではとらえきれない、私たち自身の底深い闇についても考えるのです。

私が9.11のあのテロリストたちの「暴力」を(私のなかで)否定しきれないというのは、かれらの行為を支持するということではありません。NYのセンタービルで亡くなった人々の命に対して痛みを感じないということでもないのです。

原発や核兵器に反対する運動というものは、すでにそれ自体が原発や核兵器を成り立たせている「自明なる」巨大なシステムに組み込まれてしまっている、とかつて音楽家の高橋悠治が語るのを聞きました。

「ゆきゆきて神軍」という特異なドキュメンタリー映画があります。あの映画の中の奥崎謙三の突出した行為に、ときとして人は眉をひそめます。しかしそれはお行儀の良い手続き論なのだ、と言った人がいました。ならばいま誰がいったい身を挺して「自明なるもの」である天皇制の不合理を撃つのか。日常性から突出した奥崎の「暴力」に眉をひそめながらも、私たちはまたどこかで、かれのストレートなまでの身体性に奇妙に懐かしく、心ふるえるものを感じてしまいます。それは何だろうか、と私は考えます。

「みんないろいろあったんだよ。だけどそれを言うとカドが立つから、このまま黙っていようよ」と呟くかつての兵隊仲間に「何を、コノヤロウ」と殴りかかっていく奥崎の「暴力」に、私は9.11のテロリストたちの「暴力」を思い重ねます。

理性や倫理や言説といったものを跳びこえてしまう境があるのだと思います。ときにそれは暴力的で猥雑で非合理な衣を纏いもするが、あるいはそうしたものこそが窒息状態にある「自明なる」巨大システムを覆す力を持ち得るのかも知れない。

かつてのオウム事件も酒鬼薔薇君の事件も、エンデさんのいう「狂った世界では狂った反応をするのが真っ当だ」という叫びでした。こののっぺらとした奇妙に明るく整然とした世界において、出口を失くした無意識が噴き出した熱いどろどろした間欠泉のようなものだと私は受けとめています。そして9.11もまた、私はおなじように感じています。

9.11によって世界は平和でもなく理知的でもなく公平でもなく秩序だってもいないということが誰の目にも露わになった。どろどろとした情念があちこちでぷすぷすとくすぶっていることに、みんなが目を向けざるをえなくなった。誤解を恐れずに言うなら、私にとってそれは「以前よりいくらかはマシ」なのです。

人を救う宗教の内包している毒について、私は考えます。かつて信長が一向宗の信徒を皆殺しにしたように、宗教というものはそもそも現世の秩序を覆してしまう毒を持っています。そのような意味においては、あるいはすっかり骨抜きにされてしまった現在の宗教に比べたら、かのオウム真理教はより宗教らしかったのかも知れない。そして今日目にしたばかりの町田宗鳳氏の次のような言葉が重なります。「私は、やはり神に対して人間が恐怖感を抱くのは、ほかならぬその信仰の対象である神自身が、底なき「狂い」を秘めていたからだと考える。神聖なる神が狂っているなどといえば、まじめな信仰家の中には目くじらを立てて怒る人もいるかも知れないが、とうてい常識では理解できない不条理な「狂い」の要素を持たない神が、われわれの眼に崇高なものとして映るか、はなはだ疑問である。さらにもう一歩踏み込んだことをいえば、「狂い」を持たない神が、存在の核心に「狂い」を秘める人間を「救い」へと導くことができるのかどうかも疑わしい」 私はそのような毒についても考えます。

あるいはまた、こんな別の言い方も言えるかも知れない。まつろわぬものが鬼と呼ばれるなら、私はその鬼に寄り添いたいのかも知れない、と。

ご質問の主旨には合っていないかも知れませんが。

 

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435. 辺見庸/再録 まれびと  2002/10/12 (土) 00:14

「ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。 」

「反定義 新たな想像力へ」(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 

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438. まれびとさんへ アキン [URL]  2002/10/12 (土) 15:01

まれびとさん、こんにちわ。

僕の曖昧な質問に丁寧なレスをいただきまして、ありがとうございます。

日記も含めて、まれびとさんのお考えについて愚見を少し書かせていただきます。

 まれびとさんは、辺見さん、町田さん、湯浅さんの書かれた文章をよく引用されていますが、僕にはかなり偏った見方のように感じられました。専門家ではないので間違っているかもしれませんが、かなり主観的で単純化された解釈に思えました。まれびとさんはご自分の否定しきれない暴力性をもしかすると正当化してくれそうな物語だけを読み、収集しているのではないでしょうか。なぜなら、暴力には2種類あると考えるからです。

 一つは、歴史的・政治経済的抑圧によって生まれる暴力、もう一つは人間の無意識の本性としての暴力です。これらは別々に論じられなくてはならないと思います。9.11のテロは前者のひとつであり、より公正な世界を作っていくという地道な努力によってかなりの部分は解決されると思われます。

 後者の聖としての<狂い>や<暴力>に対しては、一人ひとりが自分の課題として取り組む以外に道はありません。ただ僕は、<狂い>や<暴力>が聖の本質であるとは考えていません。時として聖が<狂い>や<暴力>の形を取るだけだと思っています。神自身がそもそも<狂い>を秘めていたのでもありませんし、宗教が毒を持っているのでもありません。救われたかっている人たちが宗教に毒を積み上げていったのです。

 自我は自分の後ろめたい欲求を正当化したがりますから、それらに捕らわれないようにすることが重要だと思います。無意識を自分の中に受け入れる方向を身につけるべきでしょう。身体は無意識への入口のひとつですから、呼吸法なり身体を使った方法が役に立つと思われます。

 まれびとさんがとても心配だったもんですから、偉そうなことを並べ立ててしまいました。悪く思わないでくださいね。これからも深くて鋭い日記を楽しみにしています。では、また…

 

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442. アキンさん まれびと  2002/10/12 (土) 23:58

いつか藤原新也氏が写真の仕事で山口百恵さんの自宅を訪ねたとき、自室にファンからのごっちゃな贈り物が(つまり選別されずに)所狭しと飾ってあったのを見て、ああこの人は包容力のある人だな、と思ったそうです。そういう意味では私は全く正反対の性格だろうと思います。人でも書物でも音楽でも、昔からじぶんに都合の良いものしか選んできませんでした。(ということは、それ以外のものは退けてきた) ただ私の好きなディランでもモリスンでも、相当のじぶん勝手な我が儘野郎で、だからこそあれだけの音楽をやり続けてこられたと私は思っています。そうして生まれたものを気に入る人がかれらの音楽を聴くことでしょう。

アキンさんの言われる2種類の暴力についてはよく分かります。前回の私の記述も、確かにそれらが多分に錯綜してよく整理されていませんでした。ただそれは私のなかで、個人と世界というものが合わせ鏡のようにつらなり連動していて、その境界が定かでないためと思われます。エンデさんの言うように「鏡のこちら側で起こったことは、あちら側でも起こる」のです。両者は密接にリンクしているように私には思われます。ですから私のなかでは、アキンさんの言われる「歴史的・政治経済的抑圧によって生まれる暴力」と「人間の無意識の本性としての暴力」というふうに、きれいに区分けすることが出来ないのだと思います。

アキンさんは「かなり偏った見方」と書かれていましたが、私は昔から「少しも偏っていない見方」や「純粋な客観的意見」というものが果たして存在するだろうか、と思ってきました。私は「正当化」したいのではなく、じぶんが感じていることの「意味を知りたい」だけです。そして己の心が共感するものに触れたいだけです。そういうものはわずかしかありませんから。

また私が引用した諸氏の文章が、どのような理由で「かなり主観的で単純化された解釈」だと思われるのかということもよく分かりませんでした。

たぶん世の中には、正しいとか間違っているとかではなく、共感できるかできないかということしかないのではないか、と考えるのは傲慢でしょうか。

ディランの歌にある「おれの思想夢を見られたら、おれの首は確実にギロチン行きだ」という一節は、私のひとつのスタンスで在り続けています。私はただ「はざま」にいたいのです。そこが多分、じぶんにとって居心地が良いのでしょう。

ご心配、ありがとうござまいす。「身体は無意識への入口のひとつですから、呼吸法なり身体を使った方法が役に立つと思われます」というご意見は、有り難く拝読しました。

実際、まだまだ青二才です。どうぞこれからも温かくお見守りください(^^)

 

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445. 今日の日差しのようなやさしいレスをどうもです アキン [URL]  2002/10/13 (日) 11:42

 僕も「かなり偏った見方」をしているので人のことはあまり言えませんが、ただひとつ言えるのは、僕の「偏った見方」は最初にそれを選んだからではなくて、「できるだけ多様で公平な見方」をしようとした結果の「偏った見方」だと思っています。(^^ゞ

 だから、ちょっとだけ違う。まあ、個性や趣味の問題かもしれませんね。読者のみなさん、長くなっちゃってごめんなさい!)。

 

・自分の中の暴力性に意識を向けすぎるとそれに囚われてしまいます。エロスを帯びた悪意はものすごい速さで伝染しますから、気をつけなくてはいけません。辺見庸氏の「私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。」という9.11テロに対する思いは、やはり口に出してはいけない、あるいは少なくとも間接的な表現に控えるべきだったと、僕は大いに違和感を持ちました。

・2つの暴力については、僕も以前から関連があると考えてきました。ただし直接この二つがつながっているのではなく、「内なる暴力性」が歯止めの利かない強迫観念になってしまう要因の一が「世界の中の暴力」であると思っています(それらの要因とは私見では次の3点です。1.感情や欲求が長期間にわたって解放・充足されなかった場合、2.自己を超越しようとする欲求(エロス)および人類の誕生時に生まれた根源的な不安が大きくなりすぎた場合、3.社会経済政治的抑圧が過酷な場合=「世界の中の暴力」)。ですから、湯浅泰雄氏の「日常的意識の次元との交流の道をふさがれた無意識領域の力は……宗教的儀礼形式が価値を否定され、あるいは空洞化されているために……宥和への道を閉ざされ……禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散されるか、戦争や革命のような暴力的形態をとって解放される外はない。」という論旨(注:僕が短くしました)は、主観的で単純化された解釈だと思いました。無意識の力を宥和するには内面への道という方法もあって、必ずしも「労働や戦争や革命のような暴力的形態をとって解放」する以外にないというわけではありません。町田宗鳳氏の文章についても二つの暴力を区別しようとしていないように見受けられました。

まれびとさんは青二才だそうですが、こちらこそ偉そうなことを言う古狸で申し訳有りません。おまけに上の人たちの著作も読まずに批判してます(近いうちに読みます!)。また寄らせていただきますので、よろしくお願いいたします。

 

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446. アキンさん まれびと  2002/10/14 (月) 02:06

>「できるだけ多様で公平な見方」をしようとした結果

生きて在るだけですでにたくさんの情報というか見解が外部から流れ込んでくるわけで、私はたぶんその段階でもううんざりしちゃうのだと思います。きっとじぶんに余裕がないのでしょう。

辺見庸の「快哉発言」には、私はストレートに共感しました。私も同じであったからです。

「自分の中の暴力性に意識を向けすぎるとそれに囚われてしまいます」というアキンさんのご指摘はまさにその通りだと思いますが、しかし意識を背けてしまっても、逆に「内なる暴力性」に呑み込まれてしまうのではないでしょうか。

私は現代(の人間)は、そのような自らの闇の部分を切り捨ててしまっているが故に危うく、ユング風にいうなら「無意識の逆襲」に逢ってしまうのだと感じています。

繰り返しになりますが、私は決してテロルや暴力を支持したいのではなく、じぶんの中にもおなじような芽があって、それが「ある」ということをまずはっきりと認識することが必要ではないかと思うのです。

そして向き合うということは、決してきれい事ではなく、ときにそのような「狂った暴力性」と同衾することが必要だと。

湯浅泰雄氏の言は、「無意識領域の力」が「日常的意識の次元との交流の道をふさがれ」ている状況下では「……宥和への道を閉ざされ……禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散されるか、戦争や革命のような暴力的形態をとって解放される外はない」と言っているわけで、「どろどろとした無意識との交流、無意識の要請を意識が上手にすくい上げることが必要だ」というのがその真意であると思います。それはアキンさんのいう「無意識の力を宥和するには内面への道という方法もある」というご意見とも、そして私が感じていることとも、同じであると思います。

アキンさんの率直なご意見は「愛ゆえに」ということは重々承知しております(^^)

こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

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450. 今日もすてきな好天です! 関東は。 アキン [URL]  2002/10/14 (月) 15:09

 僕は、暴力とテロの連鎖を断ち切るためには、辺見庸氏の発言は有効ではなく、有害だと思うのです。

 心の中にある「狂った暴力性」に背を向けるのではなく、はっきりと認識し、きれいごとでなくそれと同衾することが必要である。まれびとさんのこの意見には、僕も全面的に同意します。

 しかし、その「狂った暴力性」を「現実の暴力」に転換させないためにはいったい何が必要でしょうか。

 僕は「狂った暴力性」の元になる衝動を「エロス」だと考えています。そしてエロスを「自己防衛に汲々とする自我を出し抜いて、今すぐ個を超越し、世界そのものにならんとする欲求」と定義しておきます。そこでは、次のような図式が成り立ちます。エロスが何らかの理由によって活性化し、「狂った暴力性」を心の中に根付かせる、そしてそれを現実世界に実現する。だから、エロスそのものが「現実の暴力」につながっているわけではない。エロスを活性化させる理由とは、僕が先の書き込み(445の3段落目)に書いた3つの要因です。また一方では、無意識(エロスもその一部です)を意識化して、自分の中に受け入れてやることによって、無意識の暴力性は弱まっていくことでしょう。

 まれびとさんが引用された諸氏は、その部分を見逃して、「エロス→現実の暴力」と単純化しているのではないか、というのが私の違和感でした

もし暴力の連鎖を止め得るものがあるとすれば、それは3つの要因を取り除く努力を、私たち一人ひとりが誠実に行うことしかない、と思うのです。

 まれびとさん、僕の小難しい書き込みが他の読者のご迷惑になってなければ良いのですが…。もしそうなら、どうぞ遠慮なくメールででもお知らせ下さい。またの機会もありますから。(^_-)

 

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452. アキンさん まれびと  2002/10/15 (火) 11:22

アキンさんとの距離が少しづつ埋まってきたような気がします(^^)

BBSにおいての迷惑云々のご配慮はまったく無用です。

「無意識(エロスもその一部です)を意識化して、自分の中に受け入れてやることによって、無意識の暴力性は弱まっていくことでしょう」というご意見は、全く賛成です。ユングが一生を通じて提示しようとした問題も、そういうことだと思います。旧約の神から新約への移行は、無意識の意識化・文明化を表しているとユングは言っています。

ただエロスの定義についてはどうでしょう。私は定義といった整理をあまりしないで、いつも直感や思いつきで考えるもので、そのようにうまく説明はできないですが、エロスには魂を救済に結びつけるような良い面もあるような気がします。要するに言語以前の未分化なものというのは、すべてそのような両義性・背反性を持っているのではないでしょうか。

アキンさんは「宗教にはもともと毒などなく、それは人間があとから積み上げるモノだ」と仰いますが、しかし宗教の持つ価値観というのはもともと現世の価値観を否定するものであり、だからこそ宗教であり得るのだと私は考えています。真の宗教とはそのような危うさを持ったモノだと。

ですからたとえば町田氏が「理屈や道徳ばかりを説いて〈狂い〉の要素をいくらかでも持たない宗教は、磁力を失った磁石のようなモノだ」と言う言葉に私は共感します。

喩えが個人的な趣味に走って恐縮ですが、ロバート・ジョンスンやジャニス・ジョップリンなどの音楽に、そのような〈狂い〉や毒の要素がなかったら、漂泊されたCMの洗濯物のようなものだったら、かれらの音楽には何の魅力もないと思うのです。しかしそのような毒を含んだかれらの音楽を聴いて私たちが得るのは勇気や愛や誠実さといった正の要素です。そこに人間の不思議があるような気がします。その不思議を、まだ私はうまく言葉で説明することができません。ただかれらの音楽を聴いて感じるだけです。

アキンさんは辺見庸の快哉発言を「有効ではなく、有害だと思う」と仰いますが、しかし世界にはもっと広汎で巧妙で冷酷で強大な有害物質が、当たり前のような(ディランの歌で言えば「イトスギの前で石のように立っている牧師」のような)顔をして蔓延しているのではないでしょうか。辺見庸の発言は深い部分でその根っこに確実にヒットしているように私には思われます。かれの言葉を借りるなら「思考がもっと戦闘化してもいい」ということです。そうした意味において、私はかれの発言に共感を覚えるのです。

「「狂った暴力性」を「現実の暴力」に転換させないためにはいったい何が必要でしょうか」というアキンさんの言葉は、とても大事なものだと思います。

しかしその一方で私は、「暴力というのは持たざるものの最後の武器じゃないのか」という五木寛之の小説中にあるセリフや、「表現者が完全に暴力や死を否定したら、表現なんて干からびた海牛みたいなものにしかならない」という辺見庸の言葉にも、やはり共感するのです。

そこには前述した音楽家たちと通じる不可思議で冥い「秘密」があるような気がします。

たぶん私はアキンさんの意見に沿ってうまく説明できていないですね(^^;;

 

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454. まれびとさん、こんにちわ。 アキン [URL]  2002/10/15 (火) 13:44

丁寧なレスを今回も有り難うございます。忙しいときは遠慮なく無視してください! 僕にとっては気づくことが多々あり、思い切ってこの門を叩いて(?)良かったなあと、喜んでいますが…。なかなかこういったシリアスな話題を話す場も人もいないものですから。

きっとこれまで話してきたことがらの根っこにもつながる話だと思いますので、自分の宗教観を話しておきます。

個人的には宗教とは「人の無意識の願望の集合体を外に向かって投影したもの」だと思っています。人の無意識の中にはエロスもあれば影も賢者もいます。ですから、まれびとさんのおっしゃるように、現世の価値観を否定するものです。僕が言いたかったのは、そのような宗教なり神なりの中身と呼べるものは、つまりは人間の無意識なのだ、ということでした。宗教や神が先にあるのではなく、生きた人の歴史や苦悩や無意識の中から、必要に迫られて宗教が立ち上がってきた。最初は自然や死者を畏怖し、自らを守護してくれる存在として、後には絶対者・超越者である神として。単純ですがそう思っています。まれびとさんの宗教観とは一部は重なり、一部は外れ、といった関係でしょうか。まれびとさんが宗教をどう捉えてらっしゃるのか、聞きたいような気がします。無理にとは言いません。(ヘ。ヘ)

色々と話したいことはたくさんあるのですが、長くなりますので今回は辺見庸さんの「快哉発言」についてだけ再び触れておきます。

これは例によって僕の独断ですので、まれびとさんのお考えをどうしようとするものでもありません。

自分の鬼が時として顔を出すのは、情けなくともしかたがありません。でも、他人の鬼をほめてはいけないと思います。同情したり哀れんだりすることはできるとしても…。テロの被害者や遺族がそれを聞いたら、どう思うでしょうか。きっとさらに憎しみを募らせ、復讐を誓うことでしょう。「やられたらやりかえせ!」という復讐の論理を突き崩すには、辛くてもここで踏ん張るしかない。もちろん、大国の不正と戦い糾弾し続けながら、という話ですが。

 

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456. アキンさん まれびと  2002/10/16 (水) 10:19

 アキンさん、こんにちわ。気長におつき合いいただいて、こちらも嬉しく思います。

昨夜はこちらは一時かなり激しい雨・雷に見舞われましたが、今朝は一転してよい天気です。

 

まず辺見庸の発言ですが、「テロの被害者や遺族がそれを聞いたらどう思うか」というのは、また別のレベルの問題だと思います。そうでなければかのオウムの信徒たちも酒鬼薔薇君も、ただ断罪し法律によって裁けばそれでよいという話になってしまいます。しかし私はかれらの内にも「鬼にならざるをえなかった哀れな理由」があり、私もときに自らの内におなじような胚芽を見つけ、それを見出すことによって戦慄します。あるいはかれらの闇に寄り添い、その意味を汲み取りたいと思う気持ちがあります。世界に絶望して自死を選ぶ少年も、オウム信徒や酒鬼薔薇君たちも、噴き出した暴力が内に向かうか外に向かうかという違いだけで、本質は同じだと思うのですね。それなら、なぜかれらがそうならざるを得なかったのか、という部分に私は興味を抱くわけです。あるいはかれらの突出した行為は、私たちが見逃している何か大事なことを警告しているのではないか、と。要するにかれらはこの世界の日常や道徳や秩序といったものから一歩を踏み出してしまったモノ・「もし汝、鬼(もの)に託(くる)へるや」と「日本霊異記」に出てくるような悲しい鬼たちです。私は「健康な」日常を送っている人々よりも、かれらのような鬼になり果てたモノたちに寄り添いたいのです。そして、そのようにかれらについて考え、発言することは、決して彼らの「悪行」によって被害者や遺族になった人たちを(あるいはその霊を)、冒涜することにはならないと思います。ましてや単純に「やられたらやりかえせ!」というものとも違います。

 

次に私の「宗教観」ですが、大筋としては結構アキンさんのそれに近い部分があるのではないかと思います。しかし一方で私は、アキンさんのように、そのように「セツメイしきってしまう」ことに一抹のためらいも抱いています。あれだけニンゲンの底深い無意識の世界を彷徨したユングでさえ、遂に終生神についての明確な定義はしませんでした。たとえば死の直前にユングは次のように書いています。「今日にいたるまで神とは、私がわがままに進む道を暴力的に仮借なく横切るすべてのもの、私の主観的な見解、計画、意図をくつがえし、よかれ悪しかれ私の人生の進路を変えるすべてのものを、私がよぶ名である」 あるいは「ともかくも魂には神とかかわりをもつ能力、つまりある類似があるにちがいない。そうでなければ交渉が生まれるはずがない。したがって神が「絶対的他者」にすぎないなどということは、心理学的に考えられない。なぜなら「絶対的他者」が魂のもっとも深く近しい友のひとり----神とはまさにそのようなものだ-----だということはあり得ないからである」 私はユングのこのような誠実さ・慎重さ・繊細さを好ましく思います。

もうひとつ、私が神を定義することにためらいを感じている理由は、宗教というものは結局、認識するものではなく体験するものだ(体験しなければ分からない)と思っていることにあります。そしてそのことに関しては、私はいまだ沈黙するしかありません。

以上の理由によって、わたしはいまだアキンさんのように「そのような宗教なり神なりの中身と呼べるものは、つまりは人間の無意識なのだ。宗教や神が先にあるのではなく、生きた人の歴史や苦悩や無意識の中から、必要に迫られて宗教が立ち上がってきた」と言い切ることができません。言語というものは結局、意識の側の使い手、合理性や論理の担い手であり、文明の力を過信しずきた人類社会はそちらに傾きすぎた故に、いわば言語によって認識し得ないものをあまりにも容易に削ぎ落としてきてしまったのではないか、と私は考えています。すべてが認識・セツメイできると考えるのはニンゲンの傲慢だと思うのです。私はむしろそのような世界よりも、たとえばユングやエンデさんが提示してくれたイメージ・象徴の力・ファンタージェン・物語などの感覚を取り戻したいと願っています。すべてを認識・セツメイしなくてもよいのではないでしょうか。

 

ふたたび町田氏の著書ですが、先日あらためて冒頭の部分を読み直していたら、次のようなこの稿に適切な文章がありましたので、多少長くなりますがここに引いておきます。

「さて、私のいう〈狂い〉の意味であるが、それは理性では覆いきれない人間性の最も奥深い闇のなかで、不気味にトグロを巻いている何ものかである。それは精神病理学的な意味での狂気と重なるところがあるかも知れないが、〈狂い〉はつねに病的症状を伴うわけではないから、狂気とまったく同じではない。狂気は、〈狂い〉のごく一部が癌細胞化したものといっていいかもしれない。むしろ〈狂い〉は深層心理学でいう無意識にも似ているが、無意識よりも深く、それでいて意識層にも露出している部分があるから、無意識そのものでもないような気がする。

むしろ、本書の中で私がたびたび使おうとしている〈狂い〉という言葉は、無意識の領域から突き上げてくる統御しがたい情動という意味で、精神医学でいう〈生命感情〉に一番近いように思われる。地球の内部にもマグマという恐ろしい火の塊が煮え立っているそうだが、それとおなじものが人間の内部にあってもおかしくはない。

いやほんとうは、〈狂い〉をあまりはっきりと定義づけてしまわないほうがよいのかもしれない。なぜなら「荘子」に、混沌という名の太古の神様に目や鼻などの穴をひとつづつあけていくと、七日目に混沌が死んでしまったという話があるが、それと同様に人間性の奥深くに、得体も知れずにうずくまっている〈狂い〉に、せっせと理屈の目鼻をつけていくうちに、その息の根を止めてしまうかもしれないからだ」

 

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468. ひんやりと静かな夜です… アキン [URL]  2002/10/17 (木) 00:20

 

東京も今日は穏やかで光があふれている晴天の一日でした。

こんな日が最近続いています。昨夜はこちらも激しい雷雨が通り過ぎましたが…。さて、前回のお返事へのレスしますね。

>鬼になり果てたモノたちに寄り添いたいのです。そして、そのようにかれらについて考え、発言することは、決して彼らの「悪行」によって被害者や遺族になった人たちを(あるいはその霊を)、冒涜することにはならないと思います。<

・まれびとさんのおっしゃる通りだと思います。僕も鬼にならざるを得なかった人について考えたり、発言することは是非ともすべきことであると思っています。辺見さんの「快哉発言」に対して僕が言っているのは、「良くやった」と誉めるべきでない、という一点だけです。これは鬼を煽り立てることにも、被害者を冒涜することにもつながると思います。

・神や宗教を言葉で説明しきることについてのご疑念ですが、これもおっしゃるとおりだと思います。世の中の大切なものはたいてい言葉では説明しきれないですね。まれびとさんに大賛成です! ですが、とりあえず、特定の概念について全然違う意味合いで議論してもすれ違うばかりですから、色々な概念を独断的にキッパリと定義させていただきました。ついでに言っておきますと、僕は宗教意識のようなものは持っていますが、個別宗教の教徒になることは死ぬまでないでしょう。だから、体験することはなくとも、できるところまで言葉と論理で迫っていこうという姿勢です。

・町田氏は、<狂い>の定義について、「あいまいな定義」または「定義しないこと」がいいのだろうと考えられていることはよく分かりました。宗教に近しい存在であると考えれば、その考えも成り立つでしょうが、やや情緒的で文学的な印象を受けました。深層心理学の発展もあるわけですし、もう少し明るい方に引き出してくる姿勢があっても良いのじゃないかと僕は思いました。ちなみに町田氏の<狂い>は僕のエロスの定義とかなり重なると考えてますが、どうでしょう。

 

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アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:10月28日(月)13時22分13秒

 

だいぶ間が空いてしまいましたが、10/17のコメントに対するレスを、改めまして。

まず辺見庸の発言についてですが、かれは「抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂(せき)として声なし、というありさまなのである」といった光景に「内心、快哉を叫んだ」のであり、あのテロリストたちの行為を「良くやった」と褒めたのではありません。そして私自身も心の深いところでおなじような感覚を覚えました。

とりあえずの議論のために定義は必要だというご意見は分かります。そうですね。「曖昧な私」も(^^)なるべくそのように努力したいと思います。ただ一方で、分からないものに無理な定義づけをしてその息を止めてしまうこともしないよう注意したい、「定義」からすり抜けてしまうものに対して常に意識を持ち続けていたい、慎重で繊細でありたい、ということを言いたかったのでした。

言葉もまたひとつの暴力でありますから。

>ちなみに町田氏の<狂い>は僕のエロスの定義とかなり重なると考えてますが、どうでしょう。

そうですね。重なる部分もあるかも知れません。

町田氏は「単純な道徳主義を振りかざして、人間の本性にある<狂い>の息の根を止めようとすると、それが重くどす黒い情念の伏流となって、人間社会を思いもかけない破滅的方向に引きずり込んでしまう」と書いています。

私は現代社会はこの<狂い>と上手に戯れる回路を閉じてしまったか失ってしまったように思います。「あの汚いテロリストどもを根絶せよ」というブッシュに代表される声は、その最たるものだと思うのです。

町田氏の著書については、それほど長いものでもないので、ぜひアキンさんにも全体を読んでいただきたく思います。

私もすべてをそのまま鵜呑みにしているわけではありませんが、全体としてはとても刺激的な視点に貫かれていると受けとめています。

決して<狂い>を煽っているわけじゃなくて、結構ヒューマンな内容ですよ(^^)

たぶん既成の宗教家たちからは異論の声もあるだろうと思うのですが、私は支持します。こういった宗教者からの新しい声は必要であると思います。

 

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まれびとさんへ、よろしく! 投稿者:アキン  投稿日:10月29日(火)02時14分33秒

 

町田氏の「<狂い>と信仰」を僕も興味深く読みました。本人は宗教無用論者だとあとがきで述べていますし、<狂い>教信者というわけではないのはよく分かりました。しかし、聖なる<狂い>(悟りの一歩手前の)と一般の<狂い>を区別しないと、<狂い>を無限定に肯定してしまうと思います。人間の持つ<狂い>という属性と、現実の社会で実行される<狂い>という行為・結果とは別の視点で論じないといけないと思いますが、いかがでしょう。

僕の一番の問題意識は、<狂い>の暴走をとめるにはどうしたらよいかという点です。

テロリストの<狂い>と宗教者の<狂い>は行為において大きく異なりますから、それに同情を示すことはできません。<狂い>に同情し、寄り添うのであれば、ブッシュの<狂い>にも寄り添わなければならなくなります。あるいは、ブッシュの政策に喝采する多くのアメリカ市民の<狂い>にも。行動として示された<狂い>はガス抜きにしかならず、八つ当たりにしかならないと思います。テロ実行犯は本当にアメリカに被害を受けたその当事者なのでしょうか。<狂い>は内面に有るときには純粋な衝動ですが、外に出た<狂い>はネガティブなエネルギーをまとった醜悪な存在となるだけです。

辺見氏の発言からは、僕にはやはり彼があのテロに痛快なスペクタクル、世界の秩序がガラガラ崩れていく快感を感じとっていたように思えます。あれは世界を一変させるほど歴史的な事件だったのでしょうか。ブッシュとは逆の方向から、辺見氏がある種の憎しみに駆られて高揚しているようにさえ思えます。

憎しみに駆られるのではなく、アメリカの国家暴力とテロの両方をいさめるような方策はないものでしょうか。

 

*

 

アキンさんへ 7 投稿者:まれびと  投稿日:10月29日(火)16時37分40秒

 

私とアキンさんの考えていることは、総体として、それほど隔たりはないように思います。

〈狂い〉というのは、私たちの無意識の底からふつふつと沸きあがってくる、ある未分化なものの名前です。そもそもそこに区別はありません。いってみれば、かの宮沢賢治を狂おしいほどの創作に駆り立てていた〈狂い〉と、昼下がりの路上で無差別に人を殺していく〈狂い〉は、もともとおなじ水脈からのぼってくるものだと私は考えます。私たちの深奥でとぐろを巻いている〈狂い〉も、ストイックな修行僧が持仏の前で己の耳を削ぎ落とす〈狂い〉も、あのテロリストたちの無慈悲な〈狂い〉も、そしてまた十字架で死を迎えたイエスの〈狂い〉でさえ、もとはおなじものだと思うのです。つまりそれは、日常の秩序を打ち破ることも辞さない、あるエロス的な精神の深みからの要請です。

かつてそのような〈狂い〉は、たとえば共同体における祝祭などによって上手く発露されていました。回路が開かれていたのです。しかし現代の社会は、マクドナルドのような均質的な、一切の夾雑物を排除した奇妙な明るさと優しげな抑圧が静かに蔓延し、そのために〈狂い〉(ここでは、私たちの魂と言い換えてもいいですが)は行き場をなくし、窒息しかけ、ある日突然、凶暴な獣となって私たち自身に襲いかかります。

根源的な場所において、〈狂い〉というのは両刃の剣だと思うのです。正しい場所を与えてやれば、それはときに信じがたいほどの高みへ人の精神を誘ってくれます。しかし正当な場所を与えられなかった〈狂い〉は、信じがたいほどの恐怖と悲惨に私たちを引きずり込みます。

もちろん、その未分化な何物かは、“未だ名づけられていないモノ”であるが故に、私たちの意識にとっては常に危うさがつきまといます。悟りを得たような修行者が魔道に淫することもあるでしょうし、高潔な思想家が狂気の殺人者になってしまうこともあるし、重度の分裂病者のように二度と地上に帰還できなくなる人たちもあるでしょう。しかし疲弊した精神を蘇らせ、閉塞的な状況を打ち破り、人の精神を未知なる地平へ導いていくのもまた、その未分化な“未だ名づけられていないモノ”なのです。「人はそのような内面的な冒険をしてみて、はじめてじぶんの内の未知なる力を知ることが出来る」とエンデさんも言っています。

ですから私が感じているのは、まず内なる〈狂い〉に私たちひとりひとりが気づかなくてはならない、ということです。それは隠されたもうひとつの貌を覗き込むようなものですから、耐え難く、ときにおぞましい、身もすくむような体験であるに違いません。しかしそこから始めなくてはいけない。では、そこから先はどうするのか。その先はまだ私には分かりません。とにかく気づくこと、認識すること、注意深く回路を開くこと。かの神戸の酒鬼薔薇君は「深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめている」というニーチェの言葉をかれの手記に引用していましたが、かれはそのとき、そのような深淵を確かに覗き込んでいたに違いないと私は思っています。

私のなかにはあのテロリストたちの〈狂い〉も、ブッシュの〈狂い〉も、ガス室のスイッチを入れた後でモーツァルトに聴き惚れた者の〈狂い〉も、戦場で妊娠した女性の腹を裂いて胎児を引きずり出したような者の〈狂い〉も、それこそたくさん詰まっています。私はその〈狂い〉たちを、もっとべつの場所へ、正しき場所へ、置き換えてやりたいのです。そしてその後で哀れな私自身の魂を、敵うなら、あの雨の中で幸福そうに花々に水をやっている少女の横にそっと立たせたいのです。

私が思っているのは、そのようなことです。

 

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まれびとさん、まいど、です! 投稿者:アキン  投稿日:10月30日(水)03時10分27秒

 

まれびとさん、たしかに大筋では似た者同士ですね。しかもかなりお人好しの… (^_-)

僕は<狂い>を<エロス>と捉えていますが、中身はまれびとさんが説明してくださった<狂い>とほぼ同じだと思います。さらに、その<狂い>を無視するのではなく、直視し受け入れるべきだ、という点でも僕らは一致していると思います。

たぶん僕とまれびとさんと異なるのは、<狂い>に対する姿勢のようなものでしょうか。まれびとさんは<狂い>をできれば手放したくないと思っている。それに対して僕は<狂い>とできれば手を切りたいと思っている。そのスタンスの違いじゃないでしょうか。だからまれびとさんは神聖な、あるいは芸術的な<狂い>と殺人のような<狂い>を同じカテゴリーとみなして、弁護したいと思い、僕はその二つを違うものとして分け、有害な<狂い>は切り捨てようとする。そういうことかな、と思います。

僕がなぜ<狂い>を二つに分けるかを以下に説明しますね。前にも書きましたが、僕は狂いの発展段階(?)を次のように解釈しています。

  <狂い>という衝動 → 狂った暴力性 → 現実世界での暴力

まず最初に<狂い>の衝動というものが存在します。これは人なら誰もが持つ自然な衝動です。善でも悪でも、神聖でも非道でもありません。僕の定義では、「自己防衛に汲々とする自我を出し抜いて、今すぐ個を超越し、世界そのものにならんとする欲求」ということになります。ここまではまれびとさんと同じです。<狂い>に区別はない。

ところが、その後に、有害な<狂った暴力性>というものが生まれます。<狂い>という衝動がある条件によって活性化され(条件についてはVOICEの過去ログを見てください)、<狂った暴力性>へと変化するのです。そして、それが現実社会で実現されて、実際の暴力や自傷行為や殺人が起こるのです。つまり、<狂い>という衝動は、芸術への昇華や宗教心など様々な形で実現することができるが、<狂った暴力性>という形で発展してしまうと、有害な<狂い>になってしまうということです。

ですから、テロや暴力を問題にする場合には、<狂い>ではなく、<狂った暴力性>について論じるべきだと思うのです。僕たちは誰もが、殺人を犯すわけでも、テロをするわけでもありません。<狂い>の衝動を<狂った暴力性>へとつなげないような方策を考えるべきであり、それは可能だと僕は思っています。9.11のテロに対しては、世界の経済的枠組みを(容易ではありませんが)変えていく努力をすることが必要でしょうし、パレスチナ問題に対しては、(これまた容易ではありませんが)イスラエルのパレスチナへの植民地支配をやめさせ、民族が共存できる仕組みを作ることが必要です。要するに、<狂い>を過剰に駆り立てるものを見定め、それを排除していくという地道な努力が唯一の解決策なのです。問題にすべきは<狂い>そのものではなく、弱者が置かれたそのような境遇を改善するための方法だと思います。

まれびとさんのおっしゃるように、内なる<狂い>に一人ひとりが気づき、内面の旅をして自分の内の未知なる力を知ることは、確かに重要ですが、それと<狂った暴力性>に同情を寄せることとは同じではないと思います。例えば、酒鬼薔薇君の殺人はそのようなイニシエーションとは違いますし、もしそれを他の殺人や暴力に敷衍するなら、あらゆる殺人や暴力をすべて<狂い>の発露として我が身に引き受けざるをえなくなりますよ。それは不可能だし、する必要もないと思いますが。

 

*

 

コギャル認定ありがとうございます 投稿者:apoコ  投稿日:10月30日(水)03時50分54秒

 

うれしいので、ロマンチックなコギャルの意見を書いてみま〜す。

 

気をつけなくてはいけないことが1つあると思います。

 

〈狂い〉とは理性に基づくものではありません。

 

ブッシュもテロの首謀者も辺見庸も理性に基づいて決断し、行動しているということです。

チョムスキーほか多くの人が指摘しているように、ブッシュは頭が悪いのはホントでしょう、けれど悪いなりの理性は健在です。

だから己の力の誇示というちっぽけなプライドや誰のためのだかわからない(=情けは他人のためならず)国益のために理性に基づいて、報復戦争に出ました。

これはプーチンも同じです。

テロリストも無為無策で行ったのではありません。

戦略的な思考は理性に基づくものです。

辺見庸は言うまでもなく、意識的にメディアに発言しています。

 

〈狂い〉、あるいは〈創造〉とはリンゴの花が咲き、実を結び、その実がやがて熟して自然に落果するような発露とわたしは考えます。

だから“実がなりたい”という意識外のものであるし、逆に“実るのを止めたい”と思ってもそれは不可能です。

 

この三者の違いは執着の動機と大きさ、そしてその手法だと思います。

そのいずれか、あるいは執着しようとする意識それ自体に〈歪み〉が生じていて、彼らに追従する(=狂う)人々の行動を大きく左右してしまった結果、惨憺たる結末を招いているように思うのです。

 

狂いの種類は分けることはできません。

でも大衆を狂わせている意識と狂っている大衆の意識に分けることはできると思います。

また大衆にも狂うに至る(=狂いが表層に吹き出してしまう)条件なり環境なりがあると思います。

 

>私はその〈狂い〉たちを、もっとべつの場所へ、正しき場所へ、置き換えてやりたいのです。

〈狂い〉なら、新しい〈狂える対象〉を提供することで、それは可能でしょう。

しかし、意識の〈歪み〉は、理性に、思考(理論)だけでなく感情を推し量る想像力を持って2度と離さない握力をつけさせるトレーニングが必要かと……

 ……そんなふうに思いました。

 

*

 

apoコさん アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:10月30日(水)10時50分04秒

 

おはようございます。

私がいつものようにあなぐらへ閉じこもろうとすると、アキンさんが程良く整理してくれ、さらに3P乱交に加わってくれたAPOコさんが客観的な視点を提供してくれる。このような構図かと思います。

まず確認しておきたいのですが、私はアキンさんの言う「芸術的な<狂い>と殺人のような<狂い>」は同じ根を共有していると言っているわけで、後者を弁護したいわけではありません。

そうですね。うまく言えないのですが、私は世界政治を語るよりも、みすぼらしいじぶんのあなぐらに転がり落ちてきた虫の死骸やミミズや枯葉などを咀嚼するだけで、決してそれ以上のものではありません。というか、そういうことしか出来ないのです。アキンさんの言われる「世界の経済的枠組みを(容易ではありませんが)変えていく努力」というのは、それはそれでとても大事なことだと思いますが、頭では分かるものの、身体的な感覚としてはいまいちぴったりこない。それより私は、レノンが主夫になってパンを焼くことに懸命になるような、そういう感覚がいい。つまり政治活動のようなもの・市民運動のようなもの・それに類する議論等々よりも、ゴッホが孤独にひまわりの絵を描いていたような、そのようなスタンスでありたいと思っています。私はかれのひまわりの絵は、たとえばゲバラの銃口から飛び出した弾のひとつひとつと同じであったと考えています。

私は結構ひとつひとつのものにのめり込んでしまうタイプなので、先日まで読み継いでいた町田氏の著書の内容にすこしばかり寄りすぎてしまった感もあるかな、と反省もしています。

アキンさんの仰ることはよく分かるし、私の考えていることとよく似ています。

ただこれは以前にも書かれていましたが、なるべく幅広い見識からというアキンさんの姿勢と、せまいあなぐらへこもりがちな私との、最終的な受け取り方の違いもあるのだろうと思います。

私が感じているのは「弱者が置かれたそのような境遇を改善するための方法」を考える前に、私たちひとりひとりが内面的な気づきをする必要があるということです。

ただいまの私は、ときにロバート・ジョンスンのように「やあ、悪魔。来たね」と悪魔と連れだって埃だらけの道をとぼとぼと歩いていく、それだけなのです。それはまったく私個人の問題です。

ちなみに前回の酒鬼薔薇君のくだりは、文章の配置上分かりにくかったかもしれませんが、かれがエンデさんのいうイニシエーションをしたという意味ではなくて、あるいはそうなれたかも知れないそのとば口に立っていた、けれど別の方向へ行ってしまった、ということです。

 

apoコさんの主旨もよく分かります。

そうですね。辺見庸は「意識的にメディアに発言」したわけですね。この不均衡な世界のもう一方の極として。

ただ<狂い>というのは理性も巻き込み、<狂い>は<狂い>なりの思考や理屈がある。いや、そんなことを言うと、また話がややこしくなるか。

「理性に、思考(理論)だけでなく、感情を推し量る想像力を持って2度と離さない握力をつけさせる

トレーニングが必要」というのは、私も賛成です。意識化というのは、そういうことを言うのでしょう。そこで想像力が大切な働きを持つというのも賛成です。握力は私はあまりないんですが(^^)

 

矛盾していることですが、先の<狂い>に関するくだりで述べたこととはまた別の場所で、私は辺見庸が「快哉を叫んだ」というものと同じ感覚を共有しています。それはどうしようもなく、はっきりとある。あるいはそれはAPOコさんの言われるように<狂い>とは関係ないのかも知れない。どうでしょう、アキンさん。

これはおそらく「文学的な」あいまいな言葉だと言われると思いますが、区別や分類という思考法自身が、実は深いところで差別や暴力の連鎖を生み出しているのではないか、と私は空想します。それに対置するものとして、私は前回の新約のイエスの言葉を置きました。あるいはそのような呪文のような未知の言葉に触れたら、「狂った暴力性」は雪解け水のように流れて消えてしまうかも知れない。もちろん、これは私の夢物語に過ぎません。

今回はちょっと、まとまっていません(^^;;

 

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勘違い 投稿者:まれびと  投稿日:10月30日(水)10時54分51秒

 

後半部分。「前回の新約のイエスの言葉」

先日ゴム消しに書いたことでした。(10.28の記述)

 

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apoコさんへ 投稿者:アキン  投稿日:10月31日(木)03時58分32秒

 

僕とまれびとさんの今までの議論はいわば<狂い>という非理性に関する議論でした。そこにapoコさんが「理性」という視点を取り込んでくれました。

>apoコさんへ

人間は理性と非理性(あるいは意識と無意識)の両方の力によって操られる存在です。まあ、僕とまれびとさんは、きっと趣味の問題かもしれませんが、とりあえず非理性の<狂い>の方を先に探求したいと思い、理性の方の探求は後回しになっていました。理性も歪みとか執着とかが絡んでくると複雑になりますね。apoコさんの視点は、これまでの議論にはなかったもので、是非これからもおつきあいいただきたいと思います。

僕は「理性」(あるいは意識や自我)について次のようなイメージを描いています。簡単に言うと、人類が動物から進化した時に、あるがままの混沌とした世界から自分の肉体と精神を守り、維持するために、必要に迫られて「理性」(意識)が生まれた。そしてそれ以来、世界そのものと切り離された不安に立ち向かうために、より安定した私を作り上げようとする強迫観念的な衝動が、「歪み」や執着という形をとって常に「理性」(自我)にまとわりついている。そして、そのような「歪み」や「執着」を支えるものの一つが、<狂い>なのだろう、と。

例えば、ブッシュをイラク攻撃へと駆り立てるものは、「理性」的判断であると同時に<狂い>の発露でもあるわけです。イラク攻撃をする表と裏の理由としては、「9.11テロへの反撃」「石油利権」「父親のやり残したことを果たす」「大統領再選」だと言われていますが、それらがすべて理性的な判断であるかというと疑問が残ります。一般的に人間の理性的だと思われる行動の裏には、無意識の恨みや支配欲、憎しみ、被害妄想、嫉妬、虚栄心などが貼り付いていることが多いのです。ブッシュ大統領もテロリストもそれは変わらないでしょう。従って、人間の行動は、理性と<狂い>の両面から見ていく必要があると思います。

 

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まれびとさんへ。 投稿者:アキン  投稿日:10月31日(木)04時00分04秒

 

まれびとさんは、「私はアキンさんの言う「芸術的な<狂い>と殺人のような<狂い>」は同じ根を共有していると言っているわけで、後者を弁護したいわけではありません。」と書かれています。二つの<狂い>に区別はない、だから後者を弁護したいわけではないという意味ですね。了解しました。僕の<狂い>の発展論には納得してもらえなかったようで残念ですが、それはまた次の機会にしましょう。

まれびとさんはたぶん<狂い>については効果的な解決策はないと思ってらっしゃるのだろうと思いますが、僕は人間の成長の可能性を信じているのです。つまり、いつか<狂い>の凶暴化を抑えることができる時が来ると思っている。その点も二人の個性の違いかなあと思います。

あともう一つの相違点は、近代社会に対する評価です。「コンビニの息の詰まる均質空間」とか「マクドナルドのような均質的な、一切の夾雑物を排除した奇妙な明るさと優しげな抑圧」とかが<狂い>を抑圧し、疎外している。だから、いじめ、家庭内暴力、登校拒否、テロなどが凶暴な獣となってある日突然日常社会に吹き上がる。そういった表現の悲壮な美しさを読むと僕もうっとりしてしまうのですが、同時に、かつての人間には、現代の人間が享受している言論、移動、労働選択などの自由はなく、<狂い>をうまく発散してくれる装置は宗教と祭くらいしかなかったのだと思います。かえって、近代以降人間の方が、個別的に<狂い>を発散できるような機会を多様に与えられたのではないでしょうか。だから、時代が進むにつれ、宗教も祭も地位が低下していったのだと思います。逆に言うと、祭や宗教なしには生きていけないほど封建制の束縛は厳しかったのではないでしょうか。「疎外された狂気」という言葉はとても美しいんですが、現代においては<狂い>を受け入れる余地がなく、「戦争や革命のような暴力的形態をとって解放される外はない」という認識は誤っているように思います。現代人の多くは、仕事や金儲けや趣味やセックスやスポーツやテレビや旅行や音楽やゲームで、<狂い>を積極的に発散させているとも思うのですが。そのような点で町田氏の考えにはやや疑問を持っています。

辺見庸さんの「快哉を叫んだ」という部分に関するご質問で、「また別の場所で」というのが何を指すのかよく分からなかったのですが、あてずっぽで答えると、普遍的な形で<狂い>に寄り添うというのではなく、とりわけ弱い境遇のものたちの最後の武器としての<狂い>に心が震えてしまうというというのなら、それは自分の<狂い>をそこに重ね合わせているからじゃないでしょうか。自分の<狂い>を受け入れ、他人の<狂い>を包み込むことは是非ともすべきですが、他人の<狂い>に自分を同一化させるのは危険だと思います。理性とかの話だったら、ごめんなさい。

>あるいは(イエスの)そのような呪文のような未知の言葉に触れたら、「狂った暴力性」は雪解け水のように流れて消えてしまうかも知れない。もちろん、これは私の夢物語に過ぎません。<

僕も似たようなことを思っています。「狂った暴力性」が雪解け水のように流れて消えてしまうかもしれないのは、僕の夢物語の中では、世界のすべてと安らぎの中で溶け合うことができた時です。それはつまり、<狂い>を去り<気づき>に向かうということなんですが…。

 

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狂いの発散とか 投稿者:人七猫三  投稿日:11月 2日(土)17時31分15秒

 

匿名で大抵の発言が許されている掲示板が有りますが、たまに「祭り」とか言ってますね。

ちょっと間違って狂っているのかな。

現代のお祭りっていうとやはりライブとかって思い浮かべるなぁ。

きっと放送出来ないような事叫ぶヤツに喝采を送って、その後ルールを守って清く正しく電車に乗って帰るんだろう。

そういうのって「可愛い」かな。

 

家作りが手応えのあるもので良いそうですが、確かに何か仕事をするっていっても、現代の仕事っていうのは大きなシステムの一部でずっとそればかりやっていて、いまやっている事がどういう成果に繋がってるか実感しづらいわけですね。

ステージに立つっていうのはその点ものすごく気分がいい仕事だろうな。だから見てるほうも気分が良い。

 

さて、動物病院に電話するか。悪くなりやすい歯がそれ程有用でないから体全体の為に抜く。

正しいんだろうけど何だか切ない。かといって毎日猫の口に歯ブラシ突っ込むなんて…出来ない。

でもまれびとさんが紫乃さんの為にするぐらいの覚悟があったら出来るのだろうか…

もう抜いて待ってる頃ですけどね。

 

なんだかまとまり無いですが、ここって色々な事が浮かんできてすごく好きです。

 

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人七猫三さん 投稿者:まれびと  投稿日:11月 3日(日)00時01分23秒

 

 ライブ=現代の祭り、というのは鋭いご指摘だと思います。

このごろはちょと育児や金欠でご無沙汰ですが、私もライブに行くのは好きですね。

レコードと違って、好きなアーティストの生身を感じられる。

コンサートが終わって、夜のしじまの中をぶらぶらと歩きながら帰ってくる。何かが変わったような気がする。周りの空気とか、自分の中の何かとか。

ああいう感じは、いつもいいですね。あれは、やっぱりひとつの祝祭かも知れない。

ただ私は性格上、あまりノリまくって踊ったりとか叫んだりとか、いつもどうしても出来ないのです。もうちょっと照れを忘れて興奮できたらと思うのですが、どうしてもどこか醒めて聴いている。

ともあれ、そういう「良い祭り」もあると思います。

 

システムの一部でなく、全体をじぶんの手でつくりあげるという家作りの魅力は、ほんとうにそうですね。賛同します(^^)

そう、きっとそういうことです。

哲学や思想や、あるいは経済活動でも、全体を見わたす、あるいは全体を感じる力が、いまの時代は弱くなってきているのかも知れない。

裁断化された部分を、如何につないでいく(リンクする・編集する)かということがこれから大事になっていくのかも知れない。

子どもたちも学校で、そんな家作りのような何か巨大な全体をひとつ、最初から最後まで作り上げるような授業があったらいいと思います。NHKの「課外授業」という番組で、ときおりそんな風景をみかけます。そんなとき、子どもたちの顔はみなとても輝いているなあ。

 

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アキンさん 9 投稿者:まれびと  投稿日:11月 6日(水)11時15分25秒

 

10/30付のアキンさんの「〈狂い〉の発展論」は、ほとんど私が考えていることと似ていると思います。根はいっしょだけれど、「殺人のような〈狂い〉」を弁護するわけではない。ただ私が考えているのは、ある未分化なエロス的なカオスからたちあがる〈狂い〉をふたつに区分けして、片方だけを消し去る、ということに対する違和感のようなもの、でしょうか。ほんとうにアキンさんの論のようにすっきりと説明してしまっていいものか、説明しきれるのか。〈狂い〉がどの時点になったら、そのような「消去」の対象になるのか。実際に殺人を犯してからか。頭の中で悪魔を育てている時点で摘みとるべきものなのか。「芸術的な〈狂い〉」と「殺人のような〈狂い〉」の間に、ほんとうに明確な一線を引くことが出来るのか。殺人は確かにいけないことだけれど、「殺人のような〈狂い〉」に身を焦がすことは、あるいはときに人間にとって必要であることもあるのかも知れない。ライオンは肉を喰らうべきだ。ベジタリアンになったライオンなんて見たくない。平和な羊ばかりでは退屈だ。私たちはみなそれぞれ一頭のライオンを自身の内に飼っている。ときどき近所の人に噛みつくけれど、こいつがいなくなってしまってもサミシイような気がする。ライオンにいて欲しいときもある。牙を抜かれたライオンは果たしてライオンと言えるのか。うむ。うまく言えない。たぶん言葉のすれ違いでしょうけれども。私も解決策はないと思っているわけではありません。ただ、あるかどうかは、いまの私には分からないだけなのです。そう、人間の意識の可能性。それを私も信じたいです。ただ、それがどういう形であるかというのは、まだ浮かんでこない。あるいは私たちが予想もしていなかったような形なのかも知れない。

「かつての人間には、現代の人間が享受している言論、移動、労働選択などの自由はなく、<狂い>をうまく発散してくれる装置は宗教と祭くらいしかなかったのだと思います。」というアキンさんのご指摘は確かにその通りだと思います。ただ「差別、あるいは差異化についての覚え書き」でも引用したような、

「それまでならたとえ一時的な狂気であっても憑依状態は多少とも畏敬の念で見られた。たとえば狐憑きになった女性は即席の神となって、赤飯や油揚げなど、農民の思慮の及ぶ限りのご馳走にありつくこともあったのに、脳病や神経症というレッテルを貼られることになった者は、癲狂院の鉄格子のなかに、そのディスクール(論述)を閉じこめられるか、または、私宅監置の闇に沈むほかはなかったのであった。 (小田晋・日本の狂気誌)」

という視点もあります。日常性を逸脱した〈狂い〉というものを疎外し、フーコーのいうように 監禁してきたのが近代というものではなかったでしょうか。たとえばアフリカの餓えた子どもの姿に涙して義援金を送る一方で、知恵遅れの子どもがじぶんの子どものクラスにはいってくると「皆の勉強が遅れるから、養護学校に入れたらいい」と猛反対する母親。

それからまたエンデさんのこんな言葉もあります。

「私の考えでは、文化とはおよそ、地球上のどこの文化であれ、どの時代であれ、外の世界を内的世界の尺度にしたがってつくりかえたものにほかなりません。エジプト文化を見てください。ゴシックの時代を見てください。いや日本文化でも同じこと。それらはみな、ある一定の内界諸条件を基礎として形成されたものでしょう。だから逆にいえば、人間の内面世界が周囲の人間環境のなかに再認識できるものだったのです。

 ところが現代では様子がちがってきた。いま私たちをとりまいている外部環境は、なるほど私たち自身がつくりだしたものではあるけれど、そこには私たちの内部世界が見いだせないのです。人間がいきなりふたつの異なる世界に引き裂かれて住むことになったためなのです。つまりひとつは内部世界で、それはもはや外界と似ても似つかないものになってしまった。そして外界は、内界とはまったく別個の観点によってつくりだされてしまった。ちがいますか? 外の環境を見まわしてください。私たちをとりまくのは、ありとあらゆるテクノロジーです。このテクノロジーに対応するものを、私たちの魂のなかに何か見つけだすことができますか? たとえば電話機を詩的な比喩に使うことはどうしてもできません。

 どうにかして外部世界と内的世界を、もういちど相互に浸透しあえるもの、循環可能なものにしていくこと、たがいを鏡として、そこに映しだし、映し返されている姿が見つかるようにならないと、極言すれば、私たちは文化をすっかり失うことになります。 」

私が近代に対して抱いている危機感・違和感、「コンビニの息の詰まる均質空間」と表現するものは、そのようなものたちです。確かにアキンさんの仰るように「逆に言うと、祭や宗教なしには生きていけないほど封建制の束縛は厳しかった」のは事実でしょう。人権という点からしても現代の私たちからは考えられないような悲惨な状況だったに違いない。それは否定しない。ただ一方で、〈狂い〉を受け入れるルーズさ・寛容さもまだ残っていたような気がするのです。ですから単純に「昔の方がよかった」と言っているわけではないのです。ただ昔より、というか、近代化の過程で捨ててきてしまった大事なものも多くある。特に人の魂にとっての。そのことに私は危機感・違和感を感じています。

アキンさんは「現代人の多くは、仕事や金儲けや趣味やセックスやスポーツやテレビや旅行や音楽やゲームで、<狂い>を積極的に発散させているとも思う」と書いておられますが、私はそうしたものは薄っぺらな、いわば<狂い>を小出しにした(そして至って自閉的な)、言ってみたらエロ本を見てマスターベーションをするようなものだと思うのです。それはレノンが「テレビとセックスと宗教の麻薬にどっぷり漬けられて/あんたらは自分たちが利口で差別もなく自由なんだと思っている/だが おれに言わせてもらえれば/あんたらはただのまぬけなどん百姓だ」(Working Class Hero)と歌った類のものです。つまりほんとうに、生身の女とヤる(失礼)セックスじゃない。セックス本来の持つ生命の根源的な震えの部分にはてんで届いちゃいない。 上澄みのところで薄い精液をこぼして満足している。これはべつに他人の趣味をどうこう言おうとかいうのではなく、<狂い>の発露、という点から見た意見に過ぎません。ま、私の<悪意>も、少々入っているかも知れませんけど(^^;;

辺見庸の「快哉発言」については、またあとでできたら書きます。

とりあえず、今日はここまでにしておきます。

 

*

 

まれびとさんへ。 投稿者:アキン  投稿日:11月 7日(木)23時45分32秒

 

まれびとさん、あんこうツアー行けないんですよね? じゃあ、また次の機会に会いましょうね。

また理性と言葉に頼り切ってしまいましたが、あきれずにまた反論お願いします!

 

わかりやすさのため、<狂い>と<近代>の二つに分けて書いてみました。

 

・<狂い>について

僕は、現象として外に現れてくる<狂い>の実現について、次のように考えます。

<狂い>という内面的な衝動が、暴力性を身につけ現実の社会に暴力として実現されるプロセスと、芸術や宗教として昇華されていくプロセスの二つは、どちらも、<狂い>の衝動の本来の目的からはずれていると思います。なぜなら、<狂い>の衝動の本来の目的は、世界とひとつになることだからです。ほんの一瞬その感覚を手がすることがあったとしても、完全に世界と合体することは、たぶん死ぬまで(?)ないでしょう。従って、<狂い>の衝動は常に歪められた形で暴発していくしかないのです。しかし、人間のエネルギーのガス抜きのための手段としては、とても有効な方法と思います。

 

ですから、<狂い>の衝動としては一つですが、その先の部分でネガティブな感情と結びつけば「殺人のような〈狂い〉」になり、ポジティブな感情と結びつけば「芸術的な〈狂い〉」となるのではないかと考えます。ネガティブな感情とは、怒り、悲しみ、怖れなどです。ポジティブな感情とは、喜び、愛、安らぎなどです。人間は普通ネガティブな感情の方が動員しやすいですし、パワーも強いですから、今の現状を一気に打開しようとするときには、ネガティブな感情にとらわれやすいものです。しかしネガティブな感情といっても、そのエネルギーを放出することによって、生きているという実感を得ることができます。

 

実はネガティブな感情を駆り立てるもう一つの衝動が存在します。僕は<狂い>と同じくらいに基本的な衝動だと思っていますが、それは<エゴ>です。<エゴ>は、<狂い>とは正反対で、自我を超越するのではなく自我を徹底的に守る衝動です。天まで突き抜けて世界に溶け込むのではなくて、厚い壁を何重にも作って自我を虚無と不安に満ちた漆黒の世界から守る役目を果たしています。世界との融合ではなく、世界からの孤立を目指す衝動です。実はこの<エゴ>こそ、近代になってますます肥大してきた衝動だと僕はにらんでいます。

 

・近代について

前回の書き込みでは、ちょっと近代を弁護しすぎたようです。まれびとさんのおっしゃることもよく分かります。中世以前が封建的な身体的支配だとすれば、近代以降は精神的支配と言えるような状況とかもしれません。中世の人々に降りかかった様々な不自由さが反面では安定をもたらし、共同体意識や相互扶助の集団主義をもたらしました。そのため個人主義は未発達で、<エゴ>という衝動もまだ御しやすい段階だったのです。それに対して、近代は個人が封建的束縛から自由になり個人主義的な活動にのめり込んでいくと、共同体意識や宗教意識が薄れ、内面的な孤立感や不安により強く襲わるようになります。そこで<エゴ>の衝動は、自我を厚い壁で守るためにこれまでの時代以上に精力的に活動するようになります。従って、中世以前の社会で「〈狂い〉を受け入れるルーズさ・寛容さもまだ残っていた」のは、<エゴ>の衝動が比較的力を持っていなかったせいではないでしょうか。それを現代に求めるのは、非常に困難を伴うと思われます。過去へは戻れませんから、肥大しな<エゴ>とそれが引き寄せるネガティブな感情をどう宥和させるかが現代的な課題となります。

<狂い>と<エゴ>という二つの逆向きの力が互いに刺激し合いながら、心の安らぎを奪っているのが現代という状況ではないでしょうか。

 

ライオンを飼うというのは、ある種のメタファーだと思います。自己評価が低くなったり、無力感に襲われたりする時に、暴れだしませんか。なるべくベジタリアンになってもらって下さい。

僕は恐がりなもんで。(^_^;)

 

>「皆の勉強が遅れるから、養護学校に入れたらいい」と猛反対する母親。

これはまさに近代的な<エゴ>の姿だと思います。内面では大きな不安を抱えているから、このようなことを言い出すのでしょう。こういう人にはセラピーを受けさせたい気がします。

 

セックスについては、最近してないので(オイオイ!)、おっしゃるような薄味のセックスライフになってますが、これも<狂い>という意味では、的が違うかなあと思います。でも性本能という意味では、できる方にはどんどん過激なのをしていただきたいと…。(^ヘ^)v

 

*

 

アキンさんへ 9続 投稿者:まれびと  投稿日:11月 7日(木)23時58分16秒

 

長年多くの分裂病者を診てきたユングは、かれらが一様に「円の図形」によって癒されることに気づきました。いわば曼陀羅の象徴でもあるそれらは、深い意識の統合を意味するわけですが、古代から様々なシンボルとして描かれてきました。そして20世紀において、そのような私たち病める現代人の集合的無意識の要請を(20世紀的な様式で)天空に投影したのが、UFOの正体だと言うのです。私は結構、このユングのユニークな論を気に入っています。

 

オウムの事件でも、酒鬼薔薇君の事件でも、9.11のテロでも、社会的な大事件というのはときに、そのような現代人の病理を如実に物語っている側面もまたあるように思います。事件の犯人たちの意識や理性や意図を越えて、単にかれら一個人が成したのではなく、私たち全体の秘められた病理・あるいはそれに抗う無意識の深みからの要請が、まるで物の怪のようにかれらに取り憑いたのではないかと思えてしまうような側面です。

 

9.11のリアル・タイムな映像を見たとき、辺見庸の言うような意味において、私のなかには確かにかれと同じように「快哉を叫んだ」その同じ感覚がありました。神戸の地震であの巨大な高速道路がまるでゴジラに破壊されたかのように横倒しになっている映像を見たときも胸が高鳴りましたし、西成愛隣地区の暴動を見たときもそうでした。その背後には「こんな秩序など、いっそのこと壊れちまったらいい」という私の暗い想念があったように思います。それは果たして〈狂い〉でしょうか。いや、〈狂い〉なら〈狂い〉でも良い。しかし、ならば「正義の暴力より、ニセモノの平和の方が良い」という人たちも同じように狂っているのではないか。

 

お国のため、天皇陛下のため、といって多くの戦友たちが虫けらのように無惨に殺されていった。そしていまだに、その戦友たちの墓前で飯盒を炊き黙祷を捧げ、なぜかれらはあのように死なねばならなかったのか、と激しく問い続ける映画「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三の、ときに突出した行為(暴力)を、ぬるま湯の如き秩序に浸り、あるいは見ぬふりをして、子どもの成績や己の給料のようなことばかり考えているような人たちに、責める資格はないと思うのです。少なくともこの私には、ない。いまのご時世に派手な宣伝カーで皇居に乗りつけ「天皇よ、おれの前へ出てきて土下座しろ!!」と怒鳴り続けるかれの姿は、あまりに滑稽で浮いて見える。だがそのように見せてしまうのは、私たちの無表情・無関心な〈狂い〉なのではないか。そして〈狂い〉は、だからこそ凶暴な衣を纏って、その間延びした裂け目から噴き上がるのではないか。

 

つまり、ある一面において、オウムや酒鬼薔薇君の事件、そして9.11のテロなどは、ある名づけがたい未分化な深みより立ち上がった無意識の要請だと私は受け止めています。だからこそ「政治的テロル」という枠組みを越えて、私たちの心の深い部分に量りがたい衝撃を与え広がっていった。そしてその無意識に、私の無意識が共鳴したのだと思います。そのとき、その名づけ得ぬ深みより到来する無意識の要請を、私たちの道徳や秩序といったもので「裁く」ことは空しいことです。いやむしろ、道徳や秩序といった地上の価値観を逸脱したものだからこそ、「そのものである」と言ってもいい。

 

天に曼陀羅を浮かべ、地には巨大なジャンボ機をハイテクの高層ビルに飛び込ませる。それはユング風に言うならば、私たちの集合的無意識があるよんどころなき理由によって私たちに突きつける「魂の危機的実像」であり、それはそのまま私たちの世界の暗い病理なのです。

 

*

 

最初に誤っておきます、なぜなら…(次のタイトルへ) 投稿者:apo  投稿日:11月 9日(土)11時40分21秒

 

歓迎いただいたことに感謝いたします>まれびとさん、アキンさん なのに、お返事がたいへん遅くなってしまってすみません。なにしろコギャルですから、時間の概念がアレなのです。(意味不明)

 

お二人からのお返事とそのあとのお返事を読ませていただいて、お二人ともとても(辺見庸の「快哉」ですら)至極近いところにいらっしゃるのだなあ、と思いました。

 

また、理性が「人類が動物から進化した時に、あるがままの混沌とした世界から自分の肉体と精神を守り、維持するために、必要に迫られて」できたというアキンさんのイメージは、apoのそれといっしょですし、“「芸術的な<狂い>と殺人のような<狂い>」は同じ根を共有していると言っているわけで、後者を弁護したいわけではありません”というまれびとさんの主張とも同じです。

 

ただ違うのは、理性的な判断に狂いが生じる、という点です。

 

前述したとおり、理性は狂わないもの、だとapoは考えます。仮にそこに狂信的な理性が発生してしまったのなら、それはすでに理性ではなく、欲望であると思います。狂いには目的がありません。しいて挙げるのなら、魂のレベルアップであり、この世につかわされた個が“神の子”であることを証明すべく主張だと思います。

 

(念のために)apoは宗教的な考えからこう書いているワケではありません。たとえば植物があれほど正確に咲く時期を知り、他の生物を魅了するほど美しく花開くという、奇跡を起こす才能は植物の“神性”にほかならないと思います。これこそが、<狂い>の姿にして、人が「狂おしい」と表現する根本だと思います。<狂い>には選択の余地がありません。地上に送られた個の生物1つ1つがその創造性を発揮する=奇跡を起こすという以外、生物が真の喜びを感じられる道はないからだと思います。これはほかの個にとっては“しかたない”と認めるしかない、あきらめるしかない事象です。

 

方や、ブッシュ大統領のアフガン攻撃や次に予定されているというイラク攻撃は何でしょうか? “何のため”かがヒジョウにハッキリした歪んだ<思考>にすぎません。そこに“アメリカ”あるいは“西側”、または“文明国”という意識の集合が乗せられているだけです。これは<狂い>とは違います。まれびとさんはこれを「集合的無意識」とおっしゃいましたが、心理的には「集団ヒステリー状態」とも言えると思います。

 

*

 

きっとまた長い中座をしてしまうんです、わたし 投稿者:apo  投稿日:11月 9日(土)11時39分37秒

 

「ミロシェビッチは、オサマは、サダムは、悪人である。だからこれを生かしておけない」というなら、それは<狂い>です。けれど、ユーゴなりアフガンなりイラクにいる無辜の人々を巻きぞいにして「しかたない」と開き直るのことは<狂い>にできません。また、そんなことを<狂い>だからやむなしと許すことも認めることも、apoには到底できません。かりに、辺見庸がそのような意味で湧き上がった感情を「快哉」と表現したのであれば、たいへん納得がいきます。

 

「戦争をしたい」という集団ヒステリーによる歪んだ思考を正すことは、それとは別のオルタナティブな集団ヒステリー、つまり集合意識しかできないと思います。振り返れば、人類はそうした複数の集合意識の間でやじろべーのようにゆれながらバランスをとってきたようにも思います。そんなオルタナティブな集合意識を作る国が団体が個人が、世界中のあちこちで連帯しようとしています。

 

でも、その前に、確認しなければなりません。

私たちはほんとうに「戦争をしたくない」のでしょうか?

アフガンやユーゴを「空爆したくなかった」のでしょうか?

もし、全員がそう思っていたのならこれらが実現してしまうハズがありません。でも私たち個人一人一人の生活と、アフガンやユーゴ、イラクやパレスティナをつなげることはなかったと思います。個人的にいえばapoはそうです。それらは見聞きするだけでも憂鬱な現実です。そこから目をそらそうとするためなら何でもしました。ましてそれが自分の生活とつながっているだなんて、想像すらしたくなかった。けれど、アラブ社会がサダムやオサマという鬼畜を、ユーゴがミロシェビッチという独裁者を生んでしまったのには理由があります。それが我々とどう関連づけられているのか、そしてこの日本で我々の豊かな生活がどんなモノの上に成り立っているか、私たちは想像することを怠ったか、あるいは足りなかったのではないでしょうか?

 

apoが“歪んだ思考”をシツコイまで<狂い>としない理由はここにあります。思考であるからこそ、観察も分析もそして是正もできるハズです。私たち一人一人が考えなかった責任を認めて、とにかく考える、力尽くで考えること、それが、それだけが「集団ヒステリー」を止めることができるのではないか、

と、考える余地がほしい、のだと思います。

 

……より正直にいえば、それ以外にこの間違いをなぜ引き起こしてしまったのか、それを停止させる道がみつからない、といったほうがいいかもしれません。もっとよいアイデアがあるなら知りたいです。

 

*

 

まれびとさんへ、9続へのレスです。 投稿者:アキン  投稿日:11月10日(日)12時21分48秒

 

僕が残虐さや暴力に心震わすのは、戦意を無くした人間が人形のように何度も殴られている映像や、ヒモに繋がれもがいている山羊が悠然と歩いてくるコモドドラゴンに食われるシーンです。

 

その時これまで自分の中に降り積もった<悲しみ>や<無力感>が同じように恐怖に震え、血を流しているんです。僕はその血の味が忘れられないんです。瘡蓋を剥ぎ取って、もう一度生々しい痛みを体験し直すんです。自分の一部になったマゾヒスティックな悦楽をそれを求めているんです。その時、人生のすべての鬱屈から一瞬解放されます。それが僕にとっての<狂いの暴力性>が現れる瞬間です。

 

僕も、自分や他人の<狂い>の衝動を受け入れます。しかし、<狂いの暴力性>をことさら強調し、そこに「現代人の病理」や「無意識の深みからの要請」を見て、それが何か重大なメッセージでも発しているかのように持ち上げることは違っていると思います。まれびとさんのメタファーを使わせてもらえば、僕の中にはライオンもいますが、シマウマもキリンもゾウもその他たくさんの動植物や鉱物や他人も存在しているのです。なぜライオンにだけ目を向けるのでしょう。ライオンの凶暴性を憧れるのでしょう。他の自然と同じようにただ受け入れてやるだけで十分なのではありませんか。<狂い>は受け入れられないと凶暴さを増しますが、受け入れてやるとあまり人に悪さをしなくなると思いますよ。

 

<狂い>を文学的に過大評価することよりも、自分の中に降り積もった<悲しみ>や<無力感>に目を向け、それらを癒してやることが、<狂い>を必要以上に大きくしないことにつながると思います。聖なるものは何も<狂い>だけではありません。そこに執着する必要はありません。ブルースだけが音楽ではありませんよ。

 

UFOは幻でも、巨大なジャンボ機は幻ではありませんでした。僕はそれを見て、ただただ重苦しい鬱屈感に沈み込みましたよ。そこに世界の秩序を切り裂いた光景を重ね合わせることはしなかった。あれはテレビを見た世界中の人間にボディーブローのように効いている虚無感、無力感を与えるものでした。

もし新宿の高層ビルにアジアのゲリラが積年の恨みを抱いて突っ込み、3千人の日本人が死んだ時、あなたはその非日常に快哉を叫ぶのでしょうか?

あるいは、オウムがサリン事件で多くの人を死傷した時、あなたは現代人の秘められた病理が現れたとして、快哉を叫んだのでしょうか?

 

*

 

(無題) 投稿者:まれびと  投稿日:11月10日(日)22時16分48秒

 

「もし新宿の高層ビルにアジアのゲリラが積年の恨みを抱いて突っ込み、3千人の日本人が死んだ時、あなたはその非日常に快哉を叫ぶのでしょうか?

あるいは、オウムがサリン事件で多くの人を死傷した時、あなたは現代人の秘められた病理が現れたとして、快哉を叫んだのでしょうか?」

そのとおりです。

悲しいことですが、私のなかに、そのような「部分」が確かに存在しています。

私はそれを正しいとか正当であるとか言いたいのではありません。

ただそれが在る、と申し上げているだけです。

 

ユングの言うUFOは幻じゃないんです。それは心理的現実です。

私とアキンさんの大きな違いはそこにあると思います。

 

UFOが幻であるように、私の言説も「文学的」な幻なのでしょう。

そうであるとしたら、この私にこれ以上、何が言えるでしょうか。

 

*

 

怒らせちゃったかな… 投稿者:アキン  投稿日:11月11日(月)01時07分35秒

 

言い方がきつかったかもしれません。

気に障ったら申し訳ない。

 

僕が言いたかったのは、解釈を入れないで欲しいということです。

解釈は自己正当化になりやすい。

快哉を叫びたい気持はあっていいです。

でも、それを正当化はして欲しくない。

 

NYのあるビルにいただけで殺された人間はまず悼むべきです。

その後で殺した側の思いも聞き届けたい。

そういう順を踏まないと、血で血を洗う復讐の連鎖は収まらないんです。

 

僕にはユングがどう言ったかはどうでも良いんです。

まれびとさんと僕の大きな違いがどこにあるか、よく分からないんで説明してくれますか。

 

言説は解釈ですから、UFOが幻だという同じ意味で幻でしょう。

これは誰の言説もそうだという意味です。

「文学的」と言った部分はもうすこし論理的に指摘すればよかったですね。すみません。

僕が言いたかったのは、手垢のついた観念に頼らないで欲しいということでした。

マルクス主義であれ、近代批判であれ、教条主義的な言葉は耳にたこができているもんで…。

 

*

 

長くて申し訳ない 投稿者:kagami  投稿日:11月11日(月)03時51分18秒

 

しばらくROMらせて頂いておりました。先だっては丁寧なレス、どうもです。

う〜ん…どうも論調にちょっと危ういものを感じますが(^^;

 

>そうしたものは薄っぺらな、いわば<狂い>を小出しにした(そして至って自閉的な)、言ってみたらエロ本を見てマスターベーションをするようなもの

 

>テレビとセックスと宗教の麻薬にどっぷり漬けられて/あんたらは自分たちが利口で差別もなく自由なんだと思っている/だが おれに言わせてもらえれば/あんたらはただのまぬけなどん百姓だ

 

>我々とどう関連づけられているのか、そしてこの日本で我々の豊かな生活がどんなモノの上に成り立っているか、私たちは想像することを怠ったか、あるいは足りなかったのではないでしょうか?

 

これって個々の「自分の」生活よりも、いわゆる「大義」的なものの方が価値があるってお考えのように見えてしまうのですが。1960年代の学生運動、1980年代の環境運動みたいな感じがしちゃいます。広瀬隆っていうか(^^;反体制ムーブ第三弾、2000年代は反グローバニズム運動になるのかなあ…(^^;

 

まず私の考えを述べると、例えばイラク戦争には反対です。実質的には避けられない予感がしますが、今、戦争しちゃうと、2年後の大統領選でやる戦争が無くなるので、攻撃しない可能性もありますね。

私がイラク戦争に反対なひとつの理由は経済的に日本が打撃を受ける可能性があるからです。

そしたら回り回って、自身の生活に影響がくるかも知れない。石油価格が高騰して日常品の値段があがったら困りますし。

平凡な庶民は日々の生活をどれだけささやかに幸せに暮らせるかが一番の問題で、そこに「狂いの意識」なんてものは無いと思いますよ。

もう一つの理由として人が傷つくのはヤダなあ…という素朴な意識もあります。

 

行動とは決して優越感に浸る自己陶酔の為にあるのではありません。行動それ自体が目的になってしまうと、他のものが見えなくなってしまうと思うのですね。例えばアフガン問題も、北朝鮮問題も、イラク問題も、テロルと自己犠牲の大義に酔ってる連中や狂信者は別として、西欧諸外国も、アジア各国も、アフガンも、北朝鮮も、イラクもみんな含めて、自国の国益の為に行動している訳です。国際政治に「狂いの意識」なんてものは入りこむ隙はないかと。忌むべきテロリストどもですら、テロを政治的駆け引きとして使ってるのが真実ですよ。

 

民主主義国家は国民の利益に奉仕する為に存在します。世界平和の為に自国の国益を損なうようなことをするような国家は民主国家として失格です。小泉さんはとても良くやってる方だと思います。アメリカに逆らうような真似は国家としてやるべきではないのが、国際政治の現状です。そういった「現状の認識」を抜かして、感情と道義性だけで語られる言論に実効性はないという事は、戦後五〇年で、完璧に明かにされたと思います。

 

勿論、個々の意見に意味がないといってる訳ではないですよ。鶴見俊輔さんのいう「愚俗の信」、すなわち、「豊かに、幸せになりたい」「人を傷つけるのはよくない」といった、個々の庶民の素朴な倫理と欲望が民主主義国家では国家の行動に規制をかける分、暴走が少なくなる。その点でやはり個々の意見は大切かと。

 

ただですね、あくまでも「個人としての幸せ」が前提としてあってのことで、国益を損ねてまで「世界平和」とか考えている人は特殊だと思いますよ。まず「自分と自分にとって大切な人々の幸せ」があって、それが達成されて始めて「赤の他人の幸せ」を考える。そういった意識なしに「反米万歳!反グローバニズム万歳!!」と叫んでしまったら、反米&反グローバニズムで利益を得られる人はともかく、日本人の大多数は不利益を被る訳で、誰も賛成しないかと。私も会社勤めの身、日本が反米化したら経済大打撃で社会が滅茶苦茶、たいへん困ります…。

アメリカが風邪を引いたら日本は肺炎は真実ですし。まあ、あまりアメリカの機嫌を損ねない(経済的にマイナスにならない)程度にアメリカの暴走に歯止めをかけるのが、いいところかなと。フランスとか、その辺、最高に外交が上手いですね。

 

あと大義ですが、私は個々の幸せより大義が先にくる社会は不健康ではないかなと思います。

宮台真治が言う通り、まったりまったり、のんびりのんびり、日々の生活と個々の娯楽に身を浸して生きる処世は、自分を超える大義に自身を掛けてしまう生よりも、ずっとまっとうで今を本当に生きるということかと。

下品な例えで恐縮ですが、エロ本でマスターベーションしているからこそ、恋人や奥さんとのセックスで、余裕を持って行為を楽しめる訳です。逆に「神様万歳」みたいに超越的なものを信奉して奉仕する人、自分の身体を、自分の心を大義の下において気に掛けない人が始めてセックスして、女に溺れておかしくなってしまう、後者の方が危険ではないでしょうか?

 

「世界平和の為に命を掛ける」や「俺は狂った生き方をする」みたいな選択も個人としては勿論ありだと思いますよ。

ただ、人間はみんな一人、一人、個々の幸せを求める生き物であるということは認識してから議論すると良いんじゃないでしょうか?

社会に認められる分岐線は「他人に物理的・実際的被害を与えるか否か」にあるかと。後者ならば、そのような行動は社会の為に排除して然るべきものかと思います。ですから、殺人なんてものはそれこそ論外で。

例えば世界平和の為に全財産を投げ出せとか普通の人に言ったら、「お前、どうしちまったんだ!?」と返されるのが落ちですし。

 

そして、普通の人と、平和運動などに命掛けてる人を比べて、後者を尊いというように考える思想は良くないかと。

 

「わたしは(略)休日や祝日に安そうだけどカッコイイ、ラフなファッションを着こなして闊歩している(若者の)姿を、盛場の雑踏に見るのが好きだ。統制と管理と、それに対する絶対の服従が必要な権力にとっては、制服は服従の心地よい象徴にみえるし、ファッションはいわば秩序を乱す象徴としていちばん忌み嫌われるものだった。だから、愉しいファッションは肯定されるべきだ」(吉本隆明 anan84年9月号より引用)

 

私は、ハリウッド映画も、アメリカのポップスも、ジャズも、ロックもみんな好きですし、日本のコミック文化や、ゲーム文化も大好きです。ファッションは自信ないですけど(^^;

そして、アフガンの女性達が、自由な格好ができるようになったことが素朴に嬉しいです。

 

大衆文化というものを軽蔑した態度は、それ自体、既にある種の抑圧者であるということは、重要だと思います。

そして少なくとも、アメリカはタリバーンと違って大衆文化を軽蔑していないことは留意すべき点かなと。

 

>アキンさん

辺見さんのあの発言はアジテーター的ですね。米国の軍人が戦争終結の為に原爆投下は必要だったといっているのと同じ、

立場に依ったアジテーションと見るのが妥当と私は読み取りました。米軍人が親米の為に倫理を無視して発言したように、

反米の立場に位置付けばあの発言になる。それはでもパラレルにして、本質は同じものに過ぎないのが、最大の問題かと…。

 

>apoさん

あの…各国、それぞれ、国益の為に動いている訳で、正義や思想の為にドンパチやってるんじゃありませんよ(^^;

無意識とかいいだすとオカルトに突入です(^^;フィクションとしてはXファイルも好きなんですけど。

建前と本音があるのは、人も国家も同じです。イラク戦争は中間選挙の為という目的が一番じゃないですか(^^;

まあ、アメリカがイラクを落せるとは軍事学上の見地から思いません。

米側にも物凄い甚大な被害を出すなら可能かも知れませんが、アメリカはベトナム以降人的損害を出せなくなったので、実質イラクを落すのは難しいですよ。タリバーンの千倍は戦力充実してますから。BC兵器がごっそりありますし。

せいぜい空爆でちょこちょこっと攻撃して(アフガンと違って街があるので大規模空爆できません)、で、またイラクと交渉して、で、2年後(大統領選)にまたドカーンと攻撃すると口先で言うかなと予想。素人予想ですけど。

イスラエルがどう動くかが不安要因で怖いです。湾岸の時と違ってタカ派が力を持ってますからね。

 

最後に、長くてごめんなさい(^^;

 

*

 

アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:11月11日(月)11時31分25秒

 

解釈「物事やことばの意味を考え、理解すること。また、それをわかりやすく説明すること」

 

アキンさんの「エロス論」も、いわばアキンさんの言葉で整理された解釈であり、私のお粗末な雑感も私の感覚でつなげられた解釈であり、おなじことではないのですか。私はべつに電話帳を読み上げたいわけではありません。

 

たとえば八木重吉のこんな詩があったとします。

「わたしのまちがいだった こうして草の上に座っていると分かる」

これは分かる人には分かるんであって、「なぜ草の上に座ると分かるのかセツメイしろ」と言われても困ってしまう。そういう部分というのはあるのだと思います。

 

MorrisonのTell Me Why Must I Always Explain? という曲を思い出しています。

多少突っ込みすぎで筆が滑ったり、たまたま私が読んでいた本から〈狂い〉という言葉に執着しすぎたきらいもあるかと思うのです。〈狂い〉なんてものは単なるコトバで、べつにアンコウでもミミズでもミシン台でも何でも良かった。ライオンでなく、多摩川のタマちゃんの話でも良かった。

ただ私がはじめから申し上げているのは、人命を軽視しているわけでもないし、テロを賞賛しているわけでもない、ただそれを「否定できない」、ということです。そして私のなかに共鳴する部分が存在している、これはあくまで私個人の偏見であって他人に押しつけるものではない、ただ私は私のなかでそのことの意味を考えたい、そうしたものです。

 

アキンさんはご自身いわく「広く万人の意見に耳を傾けようとする公平な姿勢」で「理性と言葉」をもってして語る、と仰います。実際、そのようなすっきりとした論理・定義によって説明されるエロスやエゴについての論は、私にとっても刺激的だし、勉強になることも多いです。一方、私はあいまいな言葉で、ときに思いつきで話します。あるいは引用やたとえ話を乱用して、それらは必ずしもすっきり筋が通っているものでもない。私は自らの中に多くの矛盾したものを抱えていますし、私はある意味でそれを許しています。統一することに抵抗を覚えるからです。

 

内なるライオンというのは、現実に存在するのです。たてがみに触れることもできるし、匂いもするし、そこら中に糞も転がっている。牙の間から滴り落ちる涎も間近に見える。それは言葉では説明しにくいものだし、論理からすり抜けてしまうようなものです。悪魔のように見えれば、ときにまったくべつのものにも見える。それをつかまえようとしたらある種の「象徴の言葉」を用いるしかない。ユングやエンデさんがときに「オカルトがかっている」という批判を受けるのはそのためです。けれどもそれは現実に存在して、私たちはそれを体験することができる。しかしアキンさんは「これはメタファーでしょう」、と「ひょい」と「現実」の棚から片づけてしまう。そしてその明快な論理の棚の上に腰かけて、ときに私の文章の「その悲壮な美しさにうっとりしてしまいそうになる」と言い、「それが何か重大なメッセージでも発しているかのように持ち上げる」と言い、それは「文学的」であって「現実的」でないと言い、また「手垢のついた観念」でありそのような「教条主義的な言葉」である、と仰います。そして、「そんなあいまいなお伽噺のようなガラクタじゃなくて、この棚に見合うもっとマトモなものはないのか」と尋ねられます。残念ながら、私にはないのです。求められたものではなく、私はじぶんが感じたことしか書くことができません。私が実際に体験したことが、私にとっての現実です。そして私は私の現実の話をしてきました。

 

*

 

まれびとさんへ。 投稿者:アキン  投稿日:11月11日(月)14時46分54秒

 

>オウムの事件でも、酒鬼薔薇君の事件でも、9.11のテロでも、社会的な大事件というのはときに、そのような現代人の病理を如実に物語っている側面もまたあるように思います。事件の犯人たちの意識や理性や意図を越えて、単にかれら一個人が成したのではなく、私たち全体の秘められた病理・あるいはそれに抗う無意識の深みからの要請が、まるで物の怪のようにかけらに取り憑いたのではないかと思えてしまうような側面です。<(まれびとさん)

 

・もし悪魔が私から立ち去ったら、天使も飛び立つのではないかと私は怖れる(リルケ)

・知る者は言わず、言う者は知らず

 

人生や世界の本質は言葉や理性では捉え切れません。それは分かっているつもりです。それは言葉に頼らずに、体験しなければならない分野です。しかし、言葉と理性による探求も必要なのです。それを怠るのは逆に人間にとっての怠慢だと僕は思います。どれほど探求しても宇宙の神秘は取り逃がすでしょう。だから安心して徹底的に探求して良いのです(と僕は思います)。

 

僕にとっての探求の結果も(10年以上も考え続けていますが)、僕の解釈にすぎません。僕はそれをできるだけ論理的に説明しようと努力しています。だから、まれびとさんにも、(もしそう主張されるのなら)少なくとも、なぜオウムの事件や酒鬼薔薇事件や9.11のテロが「私たち全体の秘められた病理・あるいはそれに抗う無意識の深みからの要請」であるかくらいは説明してもらいたいのです。すべての凶悪事件がそうである、というのならそれはそれで理屈が通ります(僕も理解ができます)。しかし、その3つが特にそうであるとするなら、それぞれがどういう観点からそうであるのかを、説明してもらわないと読んでいる僕は納得ができない。評論家が思いついたような文句でおしまいというのではなく、まれびとさん個人の言葉で説明して欲しいと思ったのです。もう一度言います。僕たちがいくら必死で説明したところで、世界の神秘は全然なくなりません。どうか思考をストップさせないでください。

 

メタファーと言ったのは、「ライオンが<狂い>のメタファーだ」という意味で、「ライオンが存在しない」という意味ではありません。メタファーを言い出すと、心だってメタファーです。世界中で誰の心を見た人はいません。その実体があるかさえも分からないのです。でもそれについて僕は現実という棚から放り出そうとはしません。ライオンも同じです。

 

「手垢の付いた観念」「教条主義的な言葉」と言ったのは、まれびとさんの文章について言ったのではなく、<狂い>を防衛しようとする借り物の言葉について述べたものです。まれびとさんの文章は、イマジネーションも色気も品もある美しい文章だと思います。自分の感覚に誠実で、しかも論理性もおろそかにしていない。だから、話しかける気になったんです。(^_-)

 

>apoさんとkagamiさん

興味深く読ませていただきました。レスは今度します。

 

*

 

アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:11月12日(火)01時37分00秒

 

解釈を入れるなと言い、思考をストップさせるなと言う、その違いが私にはイマイチよく分からないのですが。

 

*

 

昨日の休憩時間に 投稿者:まれびと  投稿日:11月12日(火)11時19分28秒

 

ひとつ、私の言葉足らずで補項しておきたいのですが、9.11のテロで私が「快哉」だけを叫び、その日から意気揚々と、便秘から解放された者のような晴れがましい気分になったというわけでは、無論ありません。アキンさんとおなじように、一瞬のうちに理不尽に生命を奪われた人たちの運命に暗澹とした思いを感じ、またおなじようにその後のアフガニスタンで命を落とした幼い生命に心を痛めました。それは私にとっても同じように沈鬱なる季節の始まりであったのです。

ただその一方で、(結果として・あるいは象徴的な意味合いとして?)あのテロによって世界の矛盾が露わになり、その亀裂と共に高度資本主義のシンボルとも言える建物が一瞬のうちに倒壊した光景を目の当たりにして「快哉を叫んだ」部分もまた、私の内に存在していたことも事実なのです。

人間はそのように矛盾を抱えた、複雑な心理を有しているもので、その一部分のみをとりあげて「快哉を叫んだ? ではお前はあそこで死んだ人々の命に対して何も感じないのか? 死んで良かったと言うのか?」と言うことは、少々粗暴な論理であるように思います。

それは何度も申し上げたように「心ならずも、共鳴してしまう部分」「否定しきれない部分」で、これはまったく私の個人的な問題であり、誰でもそうであり、またそうでなければならないというものではありません。

私はそこにユングの言う天空の曼陀羅のもうひとつの極としての世界の秘められた無意識の噴出を「象徴的に」感じとったわけですが、それもまた私の「偏見に満ちた」一個人のカンソーで、「そんな訳の分からないものなど、どこにあるんだ?」という人々にとってはそもそも存在すらしないでしょうし、それ以上は水掛け論になります。(他の場所でも触れていますが、私は「目に見えるものだけが世界のすべてではない。私たちは橋の向こう側の世界からの影響によっても生かされている」という考えを持っています)

apoさんの「人が狂おしいを表現する根本」のくだりは、いわば虚心に拝読しました。ほんとうにそうかも知れない、と思いました。仰るように「意識されたもの」と「無意識的なるもの」は区別されなくてはならない。(ただ、それらは複雑に絡み合っているような気が私にはします) そして「意識された思考であるからこそ、観察も分析も是正もできるハズ」という意見にも賛成です。どうも私の文章はそれらがごたまぜになっていた部分もあったかも知れません。

また同じようにアキンさんの言われる理性の成り立ちや「気づき」の必要性についても、再三申し上げているように私の感じていることとよく似ています。ただアキンさんの言われるように、すべてをすっきりと説明・定義されてしまうことに、私のなかで一抹の躊躇があるわけなのです。ちょっと待ってほしい、と。それは私自身、まだ何とも言えない部分・整理されていない部分・うまく説明できない部分等があって、素直に同意することに足踏みをしてしまうわけなのです。

勿論お二人が言われるように「意識」がいちばん重要なのです。意識・理性の光によって無意識の暗闇をうまくすくい上げること。私も最終的にはそのような希望を抱いています。ですから建設的な対話は可能であると考えます。

 

*

 

追記 投稿者:まれびと  投稿日:11月12日(火)11時37分01秒

 

オウムの事件と酒鬼薔薇君の事件、そして9.11のテロは、ここ数年の間に私にとって特に強烈であった(私の根茎に深く突き刺さった)事件を思いつきで上げただけのことです。

 

アキンさんとkagamiさんにお尋ねしたいのですが、お二人は、たとえばオウムの事件などを単なるイカれた連中のかれらだけに帰結する特殊な事件で、私たちとは何の関わりもないと思っていらっしゃるのでしょうか。できたらその辺を先にお聞きしたいように思います。

 

*

 

短いレスと「提案」です! 投稿者:アキン  投稿日:11月12日(火)13時02分23秒

 

>解釈を入れるなと言い、思考をストップさせるなと言う、その違いが私にはイマイチよく分からないのですが。<(まれびとさん)

 

言葉足らずでした。「出来合いの解釈」を入れないで欲しいという意味でした。できるだけ自分の言葉で、オウム事件や酒鬼薔薇事件、9.11のテロを説明して欲しい、ということを言おうとしたのですが…。だんだん断定調になって悪いなあとは思ってるんですが、つい興奮してしまうようで。(^^ゞ

 

ところで、提案なのですが、場所を移動しませんか。この掲示板は友人知人のみなさんの情報交換の場だと思いますので、みなさんが書き込みにくくなって困っている、のではないでしょうか。あるいはいい加減に終わりにしろと怒っていらっしゃるかもしれません。僕のホームページにもう一つ掲示板を作りますから、どうでしょう、そちらに移動しては? 過去ログのページも作れば、議論の流れも分かりますし。

 

*

 

場所移動しては?ってことですが 投稿者:さわ(sawa)  投稿日:11月12日(火)15時00分01秒

 

できればあんまり移動してほしくないです。というかー、アキンさんとまれびとさんの意見交換は、やや堂々巡りに陥っているように見えるので、すこし休まれたらどうかしら。

アキンさん、「出来合いの解釈」と他人に指摘するときは、どこがどう出来合いなのかを先に説明しなければならないでしょう。このままでは、まれびとさんのほうに負担がかかりすぎているように思います。

端的に言って、まれびとさんはなんでこれ以上説明しなきゃならんのか私にはわからないですよ。

 

もしか場所移動されると、たぶん私は書く気が起こらなくなるような気がするので、ここのところの雑感を以下に書いておきます。

 

 私は辺見庸さんのすべての作品を読んでいるわけでもなく、また論評する気もないのだけれど、たとえば彼のアフガン報告を読んだときに感じるのは、いわばそのあまりの熱心な率直さともいうべきものだ。この言い方は批判に聞こえるかもしれないが、必ずしもそうでなくて、たぶん書き方の癖にひっかかるのだと思う。そのあたり、いいわるいという話ではないので、私は、彼は作家であってルポライターじゃないんだ、と思うことにしている。言ってみれば言葉が豊か過ぎるのである。豊かなために、私がルポとして必要と思う検証作業を、わざとなのか仕方なくなのか自然になのかは不明なれど、すっ飛ばしてくれるんだと思うことにしている。

 

 いずれにしても膨大な文章のうちの一節のしかも「快哉を叫んだ」という部分だけにこだわるのは、その面からも意味がない。というより、たとえそうでなくても誰がそれを批判できるんだ。たとえば辺見庸氏が目前にいたとして、私はその一節が呑みこめなくとも、その一節を改稿せよとは言えない。なぜなら相手はいわば命懸けでその文字列を書いているのがわかるからである。

 改稿せよとまでは言っていない、説明して欲しいだけだと申し開いてみても、じゃどうなら気に入るんだ、おまえの心臓を見せてもらおうと言い返されるだけであろう。

 

 厚顔を承知で書くのだが、私が高層ビルのいともあっけない崩落の映像を見たとき、まず思ったのは、なんでこんなに簡単に壊れるんだ、つまりビルの骨組構造はどうなってるんだ、ということであった。壊すときに簡単に崩れるようにもともと仕掛けがしてあるのかしらとさえ思った。どういうふうに造ったらあのように簡単に崩落するのか知りたかった。ちなみにあのビルの鉄骨を製造したのは日本のメーカーらしい。

 その後、私は非戦闘員もちろん子どもも乗った旅客機を乗っ取って皆殺しにした卑劣な犯罪と結果としての大量虐殺とをなんとなく分けて考えるようになり、犯罪が誘発した大事故と思うようになった。

 

 事件のあと、現地では大規模な慰霊祭がおこなわれてほとんど全世界に同時中継されたが、私はそれをTVで見ながら「全世界のTVで長崎と広島の原爆慰霊祭を中継してくれなきゃ、私はニューヨークで死んだ人々のために黙祷したくない」と言ってしまった。撃沈された対馬丸のために泣いてくれなきゃ嫌だよ。それにたったいま爆弾で殺された子どもたちも全世界で慰霊してくれ。無視すんな。

 私の大学生の息子は憐れむような眼で馬鹿な母親を見て、「それとこれとは別の話だよ」と言った。そうだね、どうしたら慰霊しなくてよくなるのかを考えないといけない。いろいろな考えがあることを認めて尊重しないといけない。

 

 昨日の朝日新聞の夕刊に保坂さんというノンフィクションライターのかたが囲み記事を書いていた。

 15年ほど前、彼が書斎で仕事をしていると高校生の息子さんがやってきて「お父さんは特攻隊をどう評価しているの」と唐突に訊かれたそうだ。親子の対話が乏しくなってきていると感じていた折だったから、彼は熱弁をふるって息子さんに学徒動員のことや特攻兵士の残した遺書などのことを話して聞かせ、特攻という戦法の理不尽さと痛ましさ、当時の日本の状況を語った。

 それを聞いていた息子さんは、最後に「特攻で突っ込んだ彼らによって恐怖と痛みを感じながら死んだアメリカ兵もたくさんいたわけだね。それは考えたことないの?」と言ったそうだ。それを聞いて保坂さんは、太平洋戦争を新しい目で見る日本人が生まれてきたことを感じたというのだった。(#記憶で書いているので細かい部分が不正確かもしれない)

 その息子さんは大学生になってから病気になり亡くなられたそうだ。

 残念なことである。おいたわしいことである。戦争がなくてもそのように召されてしまう命があって、他人事といえど涙がこぼれるのだ。まして戦争なんかで息子や娘を殺されてたまるか。それはどんな世界の親もおなじ思いだろう。

 

*

 

無意識の中の倫理 投稿者:kagami  投稿日:11月12日(火)19時54分20秒

 

>オウムの事件などを単なるイカれた連中のかれらだけに帰結する特殊な事件で、

>私たちとは何の関わりもないと思っていらっしゃるのでしょうか。

 

そうですね。私の基本スタンスとしては、オウムにしても、サカキバラにしても、非常に特殊な犯罪の表れだと思っています。理性ある市民が関わる類の犯罪ではないと思います。

大江健三郎さんのいう「「人殺しはいけない」という人間の根っこにある感覚こそが大切なのだ」という考えには大いに共感します。そういった、論理を超えた前提としてある倫理というものを社会の多数の人は持っていると思いますよ。

ただ、人殺しが当たり前みたいな特殊な環境ではそういった倫理が育たない。

前近代を近代の手で啓蒙する必要性というのは、やはりあるのではないかと思います。

 

http://le080.let.kumamoto-u.ac.jp/htmlfold/yamb2002.html

 

上記URLであげたこういったFGMの如き前近代的な狂気に対して立ち向かうことができるのは、近代理念、人権、自由、平等、民主主義といった近代の成果ですからね。

アフガニスタンでだって、タリバーンから女性が解放されたのは喜ばしいことかと。

理性を尊ぶ近代理念は人間が歴史の中で作り出した最もベターな理念であり、それを別に否定する必要はないと思いますよ。勿論、現代は矛盾と混沌に満ちた時代ですが、おかしな部分は近代理念に即して批判すればいいのですし。

 

そうはいっても、オウム事件の方は日本の社会というものに根ざしている部分があるので、社会状況から読み解くべきこともあると思いますが、サカキバラ事件は、それこそ、個の特殊性に依った猟奇犯罪ですからね…。

ああいった猟奇犯罪をあまり一般的な文脈で読み取ろうとするのはどうかなと。

 

ですけど、小林よしのり氏ほどには個々に責任を負わせるべきだとは考えていませんよ。

個々の犯罪においては生育環境が重要ですし、そこで、環境因子を改善することが、犯罪発生率を押え、より良い社会を作り出すことに繋がると思います。

福祉は社会を安定させるという大きなメリットを持ちますからね。福祉重視という点においては、

まれびとさんも同じ考えではないのかと推察していたのですが…(^^;

 

ただ、テロリズムは、個々の犯罪とはまた様相が別物であるかと。狂信的なテロリズム、シニシズム的態度の、対話を拒否するタイプのテロリズムに対しては、やはり警察力というものが国民を守る必要があると考えていますね。ここらへんのことについては、別のBBS(下記URL)でお話していましたので、そちらを見ていただければ…。

http://bbs8.otd.co.jp/802963/bbs_plain

 

*

 

まれびとさんとkagamiさんへ 投稿者:アキン  投稿日:11月13日(水)00時21分22秒

 

>オウムの事件などを単なるイカれた連中のかれらだけに帰結する特殊な事件で、

>私たちとは何の関わりもないと思っていらっしゃるのでしょうか。

 

僕は彼らと近い所にいる気がしますね。どうして宗教を信じて救われたいと思った者たちが、世界を救おうとした者たちが、あのような殺人を起こしてしまったのか、ということは自分にも深く突きつけられている疑問ですね。それぞれの信者はある種純粋な人たちに見えたしね。

自分だけが真理を知っているとする傲慢さ、性急に悟りを得ようとするあせり、といったものが彼らを動かしていたんだと思います。若者達が新宗教に引き寄せられるのは、「何でもありだけど頼りになるものは何にもない」という、共同体や規範の崩れた近代が提示する大きな不安のせいではないでしょうか。だから、今までの話の続きで言うと、<狂い>の衝動そのものではなく、そこに吸い寄せられたネガティブな思いを伴って巨大化した<狂いの暴力性>こそが、彼らをグルに服従させ多くの人を死傷させることになった原因だと僕は思います。

 

そういう意味では、apoさんやkagamiさんの理性を重視する見方とはかなり違いますね。

「人は理性だけで動いているのではない。その裏に無意識の衝動が働いている」というのが僕の基本的な考えです。殺人者がみんな理性的判断で殺人を犯すわけではないですからね。社会の制度としては理性は整備されていますし、有効ですが、こと人の心に関しては、暗闇の力が大きく働いていると思います。

 

>まれびとさん

sawaさんはこのままこの掲示板で続けて欲しいとおっしゃってますが、やはり常連の人たちのことを考えると、迷惑ではないかと心配します(kagamiさんの話ももっと聞きたいし、ここで中断することもできないような気がしますし…(^_^;))。

まあ、あとの判断はまれびとさんにお任せします。

 

*

 

移動の件 ほか 投稿者:まれびと  投稿日:11月13日(水)11時05分49秒

 

>sawaさん

ご配慮・ご助言、痛み入ります。

確かに堂々巡りの観は否めない。ですね。

 

そうだなあ。マンツーマンでなく、もう少し複数の人に乱入してもらって、私もそのうちの一人として参加できたら、もう少し楽かなという気もしますね。正直言うと。(で、白熱してきたら「まれびと赤煉瓦」に改名しようかしら)

自己満足はゴム消しで済まして、せっかくのBBSなのだから広くみなさんの意見もお聞きして、いやらしく交わりたい気がします。

徐々にそうなりつつあるのかも知れませんが。

 

 

>アキンさん

というわけで、以前にも申し上げましたがご心配は無用です。

どうせもともとそれほど流行っている店でもなかったし(^^) 10年20年も続くものでもないでしょうし(^^) たまにはこんなのもいいんじゃないでしょうか。

 

それと他人の文章の引用についてですが、私のセクシーな文章を読みたいというアキンさんのお気持ちは重々承知しているのですが(^^) やはり私もメンドくさいときとか、時間的・精神的な余裕がないとき、あるいは私の駄文よりもっと的確に表現しているものがあるとき、等々のときなどは引用を用いることがあります。

誰の文章とか、あんまりそういう意識がないもので。

それは往々にして「私が感じていたぴったりのことをもっと上手に言っている・つまり私が言っているのと変わらない」という気持ちで用いるものですが、アキンさんの言われるような「出来合いの解釈」の安易な使用・寄りかかりなどがもしありましたら、ご指摘いただけたらと思います。

 

それから過去ログのvoiceの方ですが、とりあえず話の進展上、今回のお話に乱交された方の分もまとめて随時放り込んでおくことにします。誤字脱字等の訂正、もしくはログを残して欲しくないという方がいましたら、ご面倒ですがその旨ご連絡を頂けたら削除・訂正致します。

 

というわけで The show must go on ってとこかな。

ぼちぼち参りましょう。

 

本題はまたのちほど。kagamiさんやsawaさんのレスについても。

 

*

 

常連です!? 投稿者:出歯亀kazujii  投稿日:11月14日(木)17時57分37秒

 

さわさんの合いの手が素晴らしい!

最初からああいう人を司会にしとけば、何度も上へ行ったり下へ行ったりして読まなくてもよかったのにと思いました。

 

まあ、私はもともと長い文章を読むのは苦手で、今回ほとんど読んでないので、意見みたいなことは言いませんが、なるべく読みやすい文章で、エッチで馬鹿なのが好きです。

そいて、感情を露わにして、何度も自分の意見を訂正する人が好きです。

 

そういうふうに持っていけば、まれさんからのレスもかなりおもしろいものになったのに・・・・

そう思うのはオレだけ?

 

*

 

ぼちぼち 投稿者:まれびと  投稿日:11月14日(木)23時53分56秒

 

非戦・非暴力を口にすることはある意味で容易く、非戦・非暴力を最後の最後まで手放さないことは命がけのことだと思うのです。前者において私はあえて挑発をしたくなり、後者において私はまだ未熟なのでしょう。

そして辺見庸があえて暴力を否定しないと言うのもまた、ひとつの崖っぷちの覚悟によっているのだと思います。

 

kagamiさんにお聞きしたいのですが、住宅地などで犯罪が起こると近所の人が「信じられない」「そんな人にはとても見えなかった」と答えるのはよく見る光景です。

「特殊な犯罪者・異常者」と「理性ある市民」というのは、どの時点で線分けがされるのでしょうか。それははじめから存在するものなのでしょうか。

 

>出歯亀kazujiiさん

合いの手をありがとうございます(^^)

もう奈良からは戻られたのでしょうか。

こんどエリコさんと高円山にでも登りませんか。(朱の板を参照)

 

*

 

辺見庸について 投稿者:まれびと  投稿日:11月15日(金)00時18分51秒

 

sawaさんの書かれていた「そのあまりの熱心な率直さ」という形容に、ああそうだそうだ、と頷きました。

あるいはあそこでsawaさんが書かれていた意味とは少しずれているかも知れないが、私はかれの文章の中に「不器用な単純さ」を見て、共感するのだなあ、と思った。

つまり、器用で無難な変化球ばかり揃える多数の手合いと違って、バリー・ボンズ相手に直球勝負でいってホームランを打たれ、味方のヤジを浴びながらマウンドを降りるみたいな。そんな感じ、だろうか。

 

*

 

辺見さんも僕はどうでもいいんだ… 投稿者:アキン  投稿日:11月15日(金)01時36分18秒

 

出歯亀kazujiiさん、こんばんは。

どうも一言いただきましてありがとうございます。

常連の方がどう思っているのか、気になっていました。

もうすこしエッチな方が良いのですね。なるべくその方向で努力します。(^^ゞ

なにせ真面目な性格のものですから。

 

他の常連の方のご意見も聞きたいなあ。たぶん面白くは無かったと思うけど…。

 

まれびとさん、僕もどんな批判も受けようと崖っぷちの覚悟をして臨んでいるんですよ、実は。

 

*

 

排除の問題 投稿者:kagami  投稿日:11月15日(金)22時16分36秒

 

>住宅地などで犯罪が起こると近所の人が「信じられない」

>「そんな人にはとても見えなかった」と答えるのはよく見る光景です。

>「特殊な犯罪者・異常者」と「理性ある市民」というのは、

>どの時点で線分けがされるのでしょうか。それははじめから存在するものなのでしょうか。

 

 

線分けは刑法に基付いた実際の犯罪成立に手を染めたか否かです。

これは法律の初歩の初歩ですが…法を勉強されるとよろしいかと。

構成要件・違法・有責を満たす犯罪行為を行ったものが「犯罪者」です。

 

あと、例え犯罪者といえど、背景を分析し、事情を酌量して冷静に判断する事は大切です。

確かドイツでだったと思うのですが、娘を殺人鬼に殺されたお母さんが、捕まった犯人を裁判所で射殺して、事情が酌量されて、執行猶予がついた事件が海外であったかと。

犯罪についてはその背景を知らなければ、まれびとさんが言われるような、特殊な犯罪者・異常者と事情がある犯罪者を区分けはできないと思います。

ただ、サカキバラについては、個の特殊性が強い猟奇犯罪だと思いますよ。

あと9・11のテロはもう問題外かと。あれはホロコーストと本質は同じです。大量虐殺です。

こういった犯罪を正当化するような言論を私個人は忌むべきものだと思っておりますね。

 

あと、どうも私には物事を聞かれるばかりですね(^^;対話になってない…。

 

う〜ん。お邪魔なようでしたら「邪魔だよ〜ん」とでも返信ください。そしたらすぐ去りますので。

掲示板において、管理者はある意味絶対だと思っておりますし、迷惑がかかるようでしたらちゃんと去ります。

 

PS

あっ、これはもしかしてソクラテスごっこをやりたいということですか(^^;

めんどくさいので、それはちょっと…。これから質問される時は、自分が出す質問に対して、自分自身はどう判断しているかということも明記して頂けるとありがたく。

 

*

 

やぁ!まれさん 投稿者:エリコ  投稿日:11月16日(土)01時08分39秒

 

出歯亀って、かずじー 知らぬ間に帰っちゃったん?

 

こころのなかで、人を何人殺しても、殺人者にはならない?

そうねぇ…「行為」…手を染めなきゃいいんだ?

「裁く」ということは、たいへんなことだなぁと、なんだか最近思いますです。

 

*

 

刑法 投稿者:まれびと  投稿日:11月16日(土)12時05分36秒

 

ケーホー(刑法)というのを逆さに読むとホーケー(包茎)になるのかと。

(いや、これは出歯亀kazujiiさんに対するリップ・サービスで、特に意味なし)

 

>kagami さん

の仰る刑法上の線引きは不肖私も承知しております(たぶん)。

私が言っているのは、そういう意味ではなくて、つまり理性というのは内面的なものですよね。一方刑法というのは外的なルール・決まりです。「信じられない」「そんな人にはとても見えなかった」というのは、事件が起きるまでは犯人は「理性あるふつうの隣人」として認識されていたのが、突然覆されてしまったという驚きの声なわけです。それは刑法で拘束・処罰される以前の問題(あるいは別の問題/結果論)で、それでは「理性ある市民」から「異常な犯罪者」への境界はいったいどこにあるのか、それははじめからきれいに線引きできるものなのか、というのが私の質問の主旨でした。

「質問の際には己の見解も添えるように」とのことなので私の意見を述べさせてもらうと、私はそのようなきれいな線引きはできないし、ある意味で誰もが犯罪者になり得る・そのような可能性の胚芽を持ち合わせている、と考えています。「信じられない」「そんな人にはとても見えなかった」という声は、それを如実に物語っています。くりかえしになりますが、「理性ある市民」が、あるとき(何かをきっかけに)「異常な犯罪者」に転じるのであって、はじめから(DNAのように)明確な両者の区分けが存在するわけではありません。それは刑法が適用された後でもそうだと言えます(死刑執行を控えた独房でブッダのような境地にいたる受刑者も、あるいはいるかも知れない)。私にしてみれば「理性ある市民」は常に「異常な犯罪者」を内包しているのです。「異常な犯罪者」とまったく無縁な「理性ある市民」という存在は私には考えられません。

刑法というのはあくまで外的な「示し」のようなもので、それは勿論必要なものですが、必ずしも人間の複雑な内面を常に正確にとらえられるものではないと私は考えています。あくまで「必要最低限」の枠であり、言ってみたら、己の罪を悔いて独房で自死する受刑者よりもっと理性のひん曲がった人間は「理性ある市民」の住むシャバにそれこそ無数にいるでしょうし、たとえば数年前に起きた幼稚園の母親間の陰湿なゲームから取り残されてよその園児を殺してしまった母親などは、勿論その犯した罪については償わなくてはならないのは当然ですが、私の目から見ればそのような「陰湿なゲーム」をそつなくこなしている(「理性ある市民」であるところの)他の母親たちもある意味で「異常」であるように思えるのです。法が規定した判断に価値観のすべてを委ねてしまうのは、それこそ思考の停止ではないでしょうか。

私自身を振り返れば、これまで何度か書いてきたことですが、ホンの小さな偶然の巡り合わせで、じぶんはオウム信徒にもなり得たろうし、酒鬼薔薇君にもなり得たかも知れないと感じています。「異常」なのはけっしてかれらだけではない。私たちのひとりひとりが日々、かれらの「異常な」行為を生み出す土壌となったものを「日常の秩序」にすりかえてやり過ごしている。そのような側面もあるのではないか、というのが私の意見です。

 

*

 

通りすがり、 vol. 2 投稿者:天野 @てんのうじ  投稿日:11月16日(土)13時21分57秒

 

Simple Twist of Fate ということですね、確かに...

 

*

 

アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:11月16日(土)21時21分56秒

 

まず少し長いですが以下、引用をお許し願いたく。

 

 

**ここより引用

 文明はチグリス・ユーフラテス川のほとりから地球をぐるりと回り、カリフォルニアの波打ち際で行き止まりにぶつかったと先に述べた。そこで流れはよどみ、先進国のニヒリズムや無数のカルトが発生した。その病理は海を渡り、いま日本を洗っている。ここはもともと世界を仮象とみなすニヒリズムの風土だった。そこに海を渡ってきた別系統のニヒリズムが重なってきた。南アジア、東アジアをつらぬく太い流れと、アメリカ経由のニヒリズムが、ここで合流してしまった。

 ここが、現在のデッドエンドなのだ。そして「日本型のニヒリズム」とでも言うべきものが醸しだされてきた。

 それがどんなものか、改まって述べるまでもないだろう。私たちが日々、目にしている身の回りの光景である。ふるさとや鏡守の森はとうに滅びた。家族は危機に瀕している。少年たちはキレかかっている。少女たちは売春をする。会社は容赦なく中高年を使い捨てる。運命をゆだねるに足る共同体はどこにもない。高度資本主義の波頭に打ち上げられた意識は、どこにも帰属できないまま、波しぶきのように浮遊している。

 むろん自然そのものは、そこに在りつづけている。空は今日も晴れたり曇ったりするし、雨も落ちてくる。かなり汚れてきたとはいえ、海はそこに在りつづけている。まぎれもなく実在の海だ。私たちは「脳化社会」で暮らしながら、日々、海からひきだされてきた魚を食べているのに、その海や森を世界の構成要素とはみなしていない。

 山川草木に、もう神は宿っていない。丸い鏡に映るのは、まったくの空白である。世界を仮象とみなす底知れぬニヒリズムと対になっていたぎりぎりの倫理、自然への畏怖感も消えてしまった。あとに残ったのは、オウムの信者が言ったように、金と、セックスと、食い物だけの、この日本社会である。私はさらに、シニシズムをつけ加えよう。これまで五十数か国を歩いてきたが、これほど空白感を抱かせる国を、ほかに見たことがない。私たちはニヒリズムの真っただ中で吹きさらしになっている。

 ここは先進国の明るい闇だ。

(善悪の彼岸へ・宮内勝典・集英社)

**引用終わり

 

アキンさんのご質問の「なぜオウムの事件や酒鬼薔薇事件や9.11のテロが「私たち全体の秘められた病理・あるいはそれに抗う無意識の深みからの要請」であるか」のうち、オウムの事件に関して言えば、私が感じていることもだいたいこのようなものです。たぶん酒鬼薔薇君の事件もおなじような土壌から生まれたものでしょう。9.11のテロは多少ニュアンスが違うかも知れませんが、重なる部分もあると思いますし、あの事件について私はこれまで多くの紙数を費やしてきましたので、ここでは触れません。

要するに、「炭坑のカナリア」(でしたっけ)というのは有名な表現ですが、それと正反対の極として、ある意味で、かれらは私たちの負の意識が先鋭化したものだと私はとらえています。また個人的には、かれらは「私」の代わりに罪を犯したのだ、という思いさえしています。

11.13のアキンさんのレスについては私は何ら反対する部分もなく、逆にどうして意見が噛み合わないのかなと奇異な思いを感じたほどです(^^) 上記の引用文も、アキンさんがあそこで書いていたことと同じことだと思うのですが。で、私はこれ以上、いったい何を説明したらいいのだろうかと戸惑ってしまうわけなのです。

 

*

 

実効性というものを観点に付け加えるとよろしいのではないかと思うのです 1 投稿者:kagami  投稿日:11月17日(日)01時29分03秒

 

個人の内面というものは、社会と合い入れない考えを持つのは確かです。

どんな人間の心にも必ず悪の部分があり、それを否定するような輩を私は信用しておりません。

ですが、内面の心とそれを実行に移す事の間には大きな断絶があるかと。

虚構で悪徳を楽しむ人には共感を覚えますが、現実と虚構の区別が付けられない、現実の悪を楽しむような人間を私は恐れます。

まれびとさんの言う通り、共同体の力が弱まっているということが、ある意味犯罪を引き起こしている部分はあるかもしれませんね。

「自分はどうなってもあいつを殺したい!!」みたいな思いも

「でも、俺が人殺しなんてしたら、俺の愛するあいつは悲しむだろう…やはり出来ない」のように、愛が反社会的行為を押し止める点があることは留意すべきではないかと。

人は一人では生きられないですし、個々との関係があってこそ、初めて社会的に生きられる訳です。

私は、オウムの犯罪は「子どもの『悪い』部分がでてしまった犯罪」の側面が強いと思います。

自分は大勢と協調する社会に生きているという観点がそこからは抜け落ちている。

まれびとさんにお聞きしたいのですが、本気で反社会的行動をしたいとお考えになっている部分があるのですか?そのことで奥さまやお子様が悲しむことは気になさらないのでしょうか…

 

*

 

実効性というものを観点に付け加えるとよろしいのではないかと思うのです 2 投稿者:kagami  投稿日:11月17日(日)01時31分41秒

 

それと、近代を否定するのならば、それより高度で洗練された「個の確立や民主主義を超える超近代」が代替として提示できるのかという点は大きいかと。提示できないなら、近代の洗練と改良を目指すべきです。

そして私の知る限り、結論から先に言ってしまえば近代を超える超近代の如きユートピアは存在しないですね。

ですけど、それをいかにも「存在するように見せかける」モノが宗教であり、特にこのたびの非戦運動など、そういったものに似たいかがわしさを感じるのです。

それは先鋭的な環境運動や学生運動にも感じるいかがわしさ、現実性を無視して超越的なイデオロギー(「全世界の完全な平和や平等とか完璧な環境とか)を信奉し、現実性を無視してるくせに、現在の現実社会に対しては闘争を仕掛けてくる点です。

そこには先に上げた「個の愛・社会性」というものが抜け落ちている。自分や自分の愛する人、そして社会より「大義」のようなものが上にあるんですね。大義が平和なものであれば良いのですが、反社会的なものだとたいへんなことになる。例えば非戦を本当に掲げるなら、軍需産業を民生にシフトさせたり、現実的な軍縮への努力が必要ですが、そういった観点を無視して、「全世界の人に愛を」とかいっても現実性が0な意味の無い言葉にしかならない。口でならばなんとでも言えますし、現実性を無視した超越的な論法は、それこそキリスト教の宣教師達が、原住民を原罪と神の救済というアメとムチで脅しつけ、改宗させていったやり口と何も変わりません。あらゆるイデオロギーは支配的なものですが、自らの支配性を隠して、他の支配性を批判することで力を得ているような存在は信用できません。

自由経済市場は正直な部分が良い所です。別に支配性を隠そうとはせず、支配性が明示されることが逆に自由に繋がっている。

実効性については例えば平和の為に実際に私財から寄附を出している人には尊敬を覚えますが、寄附しろと口では言うくせに、自分では何も実際的な寄附をしない人間を信用しません。

それは後者が現実性、実効性が何も持たない人間だからです。

「自分は全世界の民人を愛している」と口先だけでのたまう人間と、能力を使って実際的な人の役に立つ(一例をあげるならば経済的に成功し、そしてその財産の一部を慈善の為に使っているような人々・アメリカの富豪に多い)人間ならば、後者の方が素晴らしいのは明白かと。開墾事業を起こした宮沢賢治は後者でしたね。私は彼を尊敬しています(^^

 

*

 

実効性というものを観点に付け加えるとよろしいのではないかと思うのです 3 投稿者:kagami  投稿日:11月17日(日)01時33分00秒

 

最後に、アルベール・カミュの言葉を送ります。小説「ペスト」の一節です。

「彼らは今では知っているのだ、人がつねに欲し、そしてときどき手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。

これに反して、人間を超えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに眼を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに来なかった。」

 

*

 

kagami さん 投稿者:まれびと  投稿日:11月17日(日)10時45分21秒

 

>内面の心とそれを実行に移す事の間には大きな断絶があるかと。

断絶というより、薄皮一枚でしょうね。感じ方は人それぞれだと思いますが。

 

くり返しになりますが、私は犯罪者となった人たちの行為を肯定すると言っているのではありません。

もちろんオウムの連中も抜け落ちてしまったものがたくさんあった。批判されるべき点も無論、たくさんあります。

え--っとですね、よく分からないのですが、私が「本気で反社会的行動をしたい」と考えている部分がある、というのはどこをどう読んだらそういうことになるんでしょうか。

まあ、万引きや信号無視くらいならしたことありますけど。

 

近代の否定云々については、それに代わるモデルを提示できないなら不平不満を言うな、というのはおかしいと思いますね。誰も見えないですよ、未来なんて。だけど不平不満を言うところから始まっていくもんじゃないですか。少なくとも私は居心地が悪いし、息がつまりそうだし、現状肯定をするつもりはないです。

 

超越的なものが人間をひっぱっていくというのはあると思うし、大事だと思います。

宮沢賢治も、仰るように「実践の人」でしたが、「挫折の人」でもありました。現実に成功したものはほとんどない(かれの作品を除いては)。「この大きなものをおれには動かせない」とひとり神社の境内でため息をつくとき、かれが視線の先には「届かない超越的なもの」があったはずです。それがかれの原動力だった。

 

個人より大義が上であると言ったことも私はありません。

密接につながっていると言ったことはあります。

「ゆきゆきて神軍」の主人公だって、つきつめれば「じぶんのため」でしょう。

私だってどんな大義や国やイデオロギーや思想より、じぶんの子どもの方が可愛い。当然です。

 

現在の自由経済市場が良いかどうかというのは、結局好みというか感覚の問題なんじゃないですかね。

大好きだと言う人もたくさんいるだろうし。

私は嫌いですけど、そういうことでギ論をするつもりはないんです。

ギ論をしてお互いに考え方が変わったり得るものがあるとはあまり思えないので。

で、私はこれもくり返し言っていることですが、べつにじぶんの感じていることを普遍的な真理だと言うつもりも、他人におしつけるつもりも毛頭ないのです。

 

>カミュのことば

カミュの意図したとおり読むなら、良いことばですね 。

「答えは風に舞っている」のかな(^^)

 

「実効性」ということを言うなら宮沢賢治は全然ダメでしょう。かれは「永遠の未完成」の人でした。私はかれのそんなところが好きです。

 

*

 

暴力を肯定する輩が嫌いなだけなのです。軍も嫌いですよ。 投稿者:kagami  投稿日:11月18日(月)19時24分32秒

 

>断絶というより、薄皮一枚でしょうね。感じ方は人それぞれだと思いますが。

個人的にはオウムや快楽殺人関係の書物に出てくるシリアルキラーに対しては嫌悪感しか感じないのですが、感じ方は人それぞれという意見には大いに同意です。

 

>私が「本気で反社会的行動をしたい」と考えている部分がある、というのはどこをどう読んだらそういうことになるんでしょうか

 

失礼に感じたら申し訳ありません。謝罪致します。以前、

>いま、一人の少年(話題の17歳がいい)が自爆テロで小泉首相か閣僚の誰かを殺傷したら、それはひどく時代錯誤で原始的な行為故に、逆にひどく新鮮な事件であるだろうと思う。

 

とまれびとさんが書かれていたことが念頭にあって…。

私は小泉首相の支持者なので、文を読んでひどく驚いたことが頭に残っておりました。

小泉首相は日本の首相の中でも名宰相に値する優れた方と尊敬していますので、私なら新鮮に感じるどころか、きっとテロリストを極刑にする為の署名に全力で賛同するって感じですね…。

 

不平不満を言っていくのも必要なことかと。私も現状を全肯定している訳では無いので同感です。

超越的なものも人間にとって大切だと思います。私利私欲を超える倫理性として存在する人間の高貴は超越的なものであると私も感じます。

神や精霊はあいにく無神論者なもので信じていないですが、人間の内面には超越的な善性というものが含まれていると思います。もちろん、それとは対極に悪もあるんですが…。

宮沢賢治さんは影響力という点で、後世的にも実効的にも評価できるのではないでしょうか。

「永遠に未完成の偉大な人」でしたね…。

カミュは私の最も尊敬する人物の一人です(^^)戦中は対独レジスタンスに参加し、戦後は世界中のインテリをコミュニズムの魔の手が誘惑の毒牙で襲っていた時代、コミュニズムのファシズム性を鋭く看破し、極左の圧力にも屈せず、市民を奴隷化する共産思想と戦った彼は、真の市民と称えるに相応しい一人だと思います。

彼はサルトルやボードワールがスターリンの大量虐殺を肯定していた事を否定し、理想や歴史は決して暴力(テロリズム)から作られることがあってはならないと説いた。

私も同じように感じます。テロリズムを肯定する輩は、彼等が武器とする「暴力の持つ狂気」によって必ずや滅びるでしょう。滅びて欲しいと心より願います。

だからこそ、例え米に悪いところは沢山あるとしても、テロ殲滅の理念には賛同しています。

現実的に考えれば正義の戦争より不正の平和の方がまだマシであると思うのです。

カミュの作品では「正義の人びと」とかお勧めしますよ。9・11のテロがいかに腐りきったものか分かると思います。

私は市民への集団暴力(テロリズム)を絶対に肯定しない。それは「子供達を殺す思想」だから。

 

*

 

ちょっとブレークして 投稿者:きはら  投稿日:11月19日(火)23時56分54秒

 

 ずっと掲示板を読んでいます。

 言いたいこと、言うべきことがあるような気もするのですが、いざ書こうとなると、何をどう書いてよいやら、わかりません。

 最近、別の機縁から、一連の講演と討論の記録をウェブ上に発見しました。私にとっては、非常に首肯するところの多い、価値の高い文章でした。

 この掲示板における一連の議論の対象となっている事柄に対しても、少し別の、非常に有効な視点を提供してくれているように思います。

 みなさんにも是非とも読んで頂きたいと思い、紹介する次第です。

 

(1) 人類共栄会創設50周年記念シンポジウム 基調講演

  『今、NGOに何が求められているのか』

  AMDA理事長 菅波茂

  http://www.relnet.co.jp/jinrui/bridf/jnew5-1.htm

(2) 同上 応答講演

  天理大学おやさと研究所所長 井上昭夫

  http://www.relnet.co.jp/jinrui/bridf/jnew5-3.htm

(3) 同上 パネル・ディスカッション

  AMDA理事長 菅波茂

  天理大学おやさと研究所所長 井上昭夫

  金光教春日丘教会長 三宅善信

  http://www.relnet.co.jp/jinrui/bridf/jnew5-4.htm

 

 「天理大学」だの「金光教」だの、「へんてこ」な宗教は信用ならん、という方は、(1)だけでもどうぞ。

 

*

 

ハブ・ア・ブレーク 投稿者:まれびと  投稿日:11月20日(水)10時04分31秒

 

>kagamiさん

 

小泉首相云々は失礼いたしました(^^) きっとマクドナルドに勤めている人なんかにも謝んなきゃいけないんだろうな。まあ、そのへんはアバウトで見てやってください。

 

私もkagamiさんとおなじく基本的に暴力は肯定しないし、実際に腕力もない(^^) やられそうになったら「話し合い外交」に頼るしかありません。軍隊も修学旅行も嫌いだし、もちろん何の罪もない市民に対する無差別なテロも憎むべきものだと思います。

 

いつものことながら上手く言えないんですが、私が書いたいくつかのことは、たぶんそういう事柄についてではないんですね。人間は誰でも覗き込んだら震えてしまうようなダークな部分というのを抱えていると思うのです。本来はあまり人前には出さないもの・出てこないもの、です。私はそのじぶんのダークな部分をあえて晒してみたわけで、それはやっぱり出さないで、こっそり隠し持っているままでいた方がいいのかな、という気もしています。ですから一般の常識でもって批判されるのは仕方がない。私のなかに棲む鬼のつぶやきのようなもので、私もいつもそれを前面に出して日常生活を送っているわけではありません。ただかれらと添い寝をしたいような夜もときにあるわけなのです。それがなぜかは、うまく言えない。ただ、それはべつに実際的に無差別テロを志向するとかいうようなことではないのです。まあ、ホントのところ、私は他人を殺すんだったら、その前にじぶんを殺すだろうと思います。

ですから暴力を憎むkagamiさんの気持ちはよく分かるし、私もまったくおなじ気持ちです。

 

カミュは若かりし頃、代表的な小説や評論(ノート)などはそれなりに面白く読んだと記憶していますが、「正義の人びと」はたぶん知らないと思います。不勉強なもので、こんど機会があったら拝読してみたく思います。

 

宮沢賢治はもちろん才能ある稀有な人物ですが、やはりかれの生きていた時代の枠というか、「近代」を越えられなかった部分もあるように思います。実効性ということで言えば、たとえばかれが地元の農家にせっせと指導したのはいまでいう化学肥料の奨励であったりとか。そういう限界というのはたぶんかれの作品というか思想のなかにもある。ですから手放しで持ち上げるのではなく、受け継ぐものは受け継いで、私たちひとりひとりが足場にしていくような、そんなことを思ったりします。

 

 

>きはらさん

ハブ・ア・ブレークといったら、やはりキットカットでしょうか。チョコレートのおいしい季節になりました(^^)

わざわざありがとうございます。

謹んで拝読させて頂きます。

 

*

 

久々のレスです! 投稿者:アキン  投稿日:11月21日(木)21時16分19秒

 

 

kagamiさんとまれびとさんの会話を脇で聞いていて、僕がまれびとさんの考えに対して違和感を持った部分がだんだん分かってきたような気がします。

 

問題は、自分と彼ら(オウム事件を起こした信者、酒鬼薔薇君、9.11テロの犯人)との距離感についてかな。お二人が使った言葉で言えば、それは「内面の心(狂気)とそれを実行に移す事(暴力)との間」の距離の問題です。まれびとさんはすごく近いと思っている。kagamiさんは遠いと思っている。そして僕はその中間くらいかなと思っている。

 

僕も自分の中に反社会的になりうる<狂い>を持っているという点はまれびとさんと同じですが(kagamiさんもある程度認めている)、僕の場合には<狂い>が「暴力」にはなかなかつながらないという感覚がある。オウム信者と9.11のテロリストは、kagamiさんの言うところの大義に洗脳されたせいであのような犯罪を起こせたという気がする。彼ら個人の<狂い>の自然な発露というよりもね。だからそれをある種神聖なものとして認めるのは違うだろと思う。そのような判断ができない状態で起こした犯罪に対して、世界の矛盾が露わになったとか、私たち全体の秘められた病理といった評価はできない。そう言うことには大きな抵抗がある。酒鬼薔薇君の場合にはよくは知らないけど、たぶん家族関係というのも大きな要因になっていたと思う。だからこれも自分とどれだけ近いかを簡単に言うことはできない。かろうじてオウムだけは、内面を探っていくという方向性については共感できるけどね。

 

<狂い>と<狂った暴力性>と<現実の暴力>との間には、つながりもあるけれど、断絶も有るわけです。だから、<狂い>の衝動が自分にあるからといって、<現実の暴力>を見て自分にもそれがあるとは言えない。たとえ<狂い>が神聖だとしても、<暴力>はそれとは似ても似つかないほどに大義や服従や集団心理や個人的欲望などの別の要素によって世俗的に汚されている。だから、<狂い>には寄り添ってもいいけれど、<暴力>には寄り添うようなポーズはまずい。と僕は思うんだ。まれびとさんはその二つを明瞭に区別しないから、いくら暴力を否定すると言っても誤解されやすいんじゃないかな。

 

kagamiさんがそういう<狂い>を中和するのは<愛>だと言っているのが面白かった。僕もある意味でそう思います。ただ、愛を全面的には信用していないところがある。愛はかえって<狂い>を駆り立てる危険性も持っているという意識がある。でも実は<狂い>よりもはるかに神聖なものになりうる可能性がありますね。だから、神聖なものを<狂い>だけに求めて、去りたがっているライオンを無理に引き留めているのは、まれびとさんの方かなって思ったりもするのです。すいません。(^_-)

 

*

 

アキンさん 投稿者:まれびと  投稿日:11月28日(木)23時34分07秒

 

 

結局だから、それはアキンさんも仰っているように、論理ではなく、あとは個々人の感覚だと思うのです。ある種のヒフ感覚というか。私はじぶんの内にある暗い部分というか、狂気めいたものが外へ噴出するのはほんとうに薄皮一枚だと感じているし、逆にそんなふうに感じないという人も当然いていいわけで、それらを数式のようにひとつの答えにまとめようというのはナンセンスなことだと思います。

オウムの事件に関していえば、もちろん彼らの内にさまざまな倒錯や誤謬といったものもあったのだけれど、あれだけ高学歴の、あるいは一途な思いを抱えていた若者たちに、あのような道筋をつけた・というか追いやってしまった社会的な側面というのも、また一方であると思うのです。私はあると思う。9.11のテロリストの場合は、テロ行為そのものというより、結果として、多くの矛盾を孕んだ世界的なシステムに打ち込まれたくさびのようなものとして共感してしまう部分がある。酒鬼薔薇君の場合はもっと個的なものですが、内面の殺伐とした穴ぼこというか、そこにどろどろと溜まったものを私もまた同じように抱えていると感じる。そういうことです。

で、こういうことはとても内面的なものだから、ないと言う人にはないんだと思います。私はそれでいいと思う。

結局それは、それぞれが感じているところからアプローチしていくことしかないんじゃないでしょうか。

私は〈狂い〉や〈狂い〉と直結している現実の〈暴力〉が、神聖なものだと言ったことはありませんし、「神聖なものを〈狂い〉にだけ求めて」いるわけでもありません。どうもその辺の誤解にアキンさんが固着されているように思えて仕方ないのですが。

私が言ったのは、私たちの無意識の深みに横たわっているあるカオス的な存在は善/悪・聖/穢等の両義的な顔を持っていて、暴力も狂いも芸術ももともとはそのおなじ根を共有している、ということでした。極論をいえば、冷酷な殺人行為の内にぞっとするような美がその身を横たえていることだってありうる。道徳的に良い悪いとかケシカランとかいうことではなくて、ですね。ある種の音楽には悪魔と天使が互いを見すえながら空中でダンスを舞っている。ライオンは私が引き留めているんじゃなくて、ホントは相思相愛なんです(^^) イエスには悪魔が必要だったということです。

「〈狂い〉」については、いったんこのことばから離れた方がいいんじゃないでしょうか。私もずいぶんこれについては喋ったし、どうもこのことばに付着した錆のために、議論がよく回らなくなってしまっているような気がします。

ここらでちょいと体位を変えませんか。御所車でもつばめ返しでも。

 

*

 

まれびとさん〜へ! 投稿者:アキン  投稿日:11月29日(金)14時15分58秒

 

 

はい、<狂い>は今回で終わりにします。

 

余計なおせっかいばかり(迷惑かけたり、絡んだり)してきましたけど、今後はまれびとさんのどろどろがどんな形で表現されるのか脇でそっと楽しませてもらいます(なるべく昇華された形でお願いします!)。

 

 >現実の〈暴力〉が、神聖なものだと言ったことはありませんし、「神聖なものを〈狂い〉にだ

  け求めて」いるわけでもありません。<

 

 わかりました。誤解して申し訳有りませんでした。頭では分かっているんですが、まれびとさん

 の文章を読んでいると、ついそう感じてしまうんです。スンマセンでした!

 

僕がここに書いてきた極私的な理由は、まれびとさんが自分で自分に枠をはめてせっかくの能力を発揮していないように感じたもんですから、(ほんとに余計なお世話なんですが)ご自身の暗い思いからもう少し広い世界へも目を向けて欲しいなあと思ったのが一つ。もう一つは、地上に蔓延している"やられたらやりかえす"という復讐の論理を乗り超えるには、<狂い>を<暴力>に転化させない方策を考え出す必要があると感じたからでした。

 

まあ、どちらも目的は達せられなかったかもしんないけど、まれびとさんともお友達(かな?)になれたし、自分が気づくことも多かったので、議論できてとても感謝しています。有り難うございました。kagamiさん、apoさんも、ありがとね。

 

PS:ヴァン・モリスン聞いてますよ。僕はディランよりこっちの方が好きだなあ。発声が変わってるけど、のびやかで、艶やかで、高らかに歌い上げていて、クセになる歌声です。おまけにアレンジとバックミュージシャンも最高ッスね。歌と音の絶妙のコンビネーションです。いいの教えてもらいました。じゃあ、また書くね!

 

 

 

 

 

■ 9.11に端を発したBBSでの対話

 

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